樂阪日記

樂阪の日常

舊假名にまつはる方針等の話

ブログと云ふ媒體とは頗る相性が惡いが、樂阪における舊假名遣󠄁ひにまつはる方針やよくある疑問點の解答等をこゝにひと通󠄁りまとめておくことにする。

假名遣󠄁ひとは何か

假名遣󠄁ひは言葉を「かな文󠄁字」を用ゐて記述󠄁する際の規則であり、ある單語を記述󠄁する際にどの「かな文󠄁字」を當てるかを決める時の據所󠄁である。從つて各々がある單語に就いて思ふ發音󠄁に基づいてかな文󠄁字を當てればよい、と云ふことであれば假名遣󠄁ひは必要󠄁ない。例へば現代人の發音󠄁に準據するとイメージされる現代仮名遣いでも「道󠄁路」が「どーろ」や「どおろ」ではなく「どうろ」と書く(例へ自分󠄁の發音󠄁を的確に表すならば他の2例になると思つたとしても)のは、オ列の長音󠄁には「う」を添へると云ふ規則があるからである。逆󠄁に言へばこれ以外の論點は總て假名遣󠄁ひの問題とは關係ないことになる。例へば「舊假名であれば縱書きにすべき、乃至橫から書く場合は右から書くものだ」と云ふ類󠄀は假名遣󠄁ひの領分󠄁への指摘ではない。かな文󠄁字列を配置する向きや配置し始める方向は、かな文󠄁字の當て方とは一切關係がない。また、「口語體でなく文󠄁語體で書くべきではないか」と云ふ論もあるが、これは言文一致運󠄁動に對する評󠄁價の話になる爲矢張り假名遣󠄁ひの話とは關聯性がない。更󠄁にいつそのこと變體假名を使󠄁ふべきではないか、との話もあるがこれはどちらかと云へばどのフォントを使󠄁ふかの問題に近󠄁い。例へば變體假名で「かなづかひ」と書いてあれば舊假名遣󠄁ひの規則で書かれたものであるし、「かなづかい」と書いてあれば現代仮名遣いなのである。

「現代仮名遣い」を採󠄁用しない理由

見出しが「舊假名遣󠄁ひを採󠄁用する理由」ではない理由は、これを用ゐる理由が現代仮名遣いを採󠄁用することができないからであることに據る。古いものを新しいものに差替へる場合、通󠄁常新しいものに變へることで得られる利點を示す必要󠄁がある。その利點が差替へるに足る程󠄁のものではないと判󠄁斷してゐる爲、差替へ前󠄁の規則を採󠄁用してゐるに過󠄁ぎない。普段から文󠄁を記述󠄁する際に參照する記法の規則が納󠄁得のいかないものだと、精󠄀神󠄀に異常をきたしかねない。

「現代仮名遣い」に就いての所󠄁感

差替へは妥󠄁當ではないと考へてゐるからには幾󠄁つか不滿點かあるのでそれらを擧げて行く。

あわ行五段活用

五段活用自體はそこまで受入れ難󠄀いものではない。例へば「書く」であれば四段活用の方が未然形が「か」に統一されてをり綺麗に見えなくもないが、活用は一周󠄀して「か、き、く、く、け、け、こ」と「か行」總て使󠄁ふと云ふ形でもそれはそれで規則としては惡くない。問題はハ行轉呼に起󠄁因するあわ行で、こゝが「わ、い、う、う、え、え、お」になつてしまふのがどうにも綺麗ではない。假に「を」が廢止されてゐれば「わ行五段活用」と言張れてまだマシだつたかもしれない。

現代人のフィーリングで綴が確定する

現代仮名遣いは「ぢ」と「づ」を一部で殘した。1つは續濁であり「つづ(續)く」等がこれに當る。もう1つが二語の連󠄀語により生ずる濁りであり「はなぢ(鼻󠄁血)」である。前󠄁者󠄁の方は特に異論はないが、後者󠄁には不滿點が多い。後者󠄁では現代人が連󠄀語により生じた濁りであると認󠄁識できない語に關しては「じ」「ず」を基本的に用ゐることと定めてゐる。從つて「いかづち」の「つ」は助詞の「つ」が濁つたものであると認󠄁識してゐたとしても、これを認󠄁識できる人が少ないとされれば「いかずち」と書くのが本則とされてしまふのである。
猶󠄂、「ぢめん(地面)」等については字音󠄁假名遣󠄁ひの領分󠄁なので、この手のものは表音󠄁通󠄁り「じめん」と書くと云ふことに關しては分󠄁らなくもない(「ち」が濁つて「ぢ」になつて「ぢめん」になつたわけでは確かにないだらうし)。唯「ぬのぢ(布地)」が「布+地」で濁つたのか元から漢󠄁字の音󠄁讀みで濁つてゐるかの判󠄁斷は一見では難󠄀しいやうにも思ふ。例へば「入知恵」は「入+知恵」で「いれぢえ」と書くわけであり、これとの區󠄁別がややこしい。音󠄁訓表を見ればわかるかもしれないが、この部分󠄁の規則に關しては「漢󠄁字の知識がなくても假名遣󠄁ひがすぐ分󠄁る」と云ふウリ文󠄁句を聞いてきたので知識は要󠄁るのではないかと思はなくもない。
いつそのこと現代人の意識等には據らず總て「じ」「ず」で良い、とした方が反撥は少なかつたやうにも思ふ。なまじ「ぢ」「づ」を殘したからこそ疑問點が生じてしまつた(10代前󠄁半󠄁の頃に假名遣󠄁ひと云ふものに對して最初に不滿を持つたところがこの邊りの話でもある)。

舊假名に引きずられてゐる部分󠄁

「こほり(氷)」や「とおる(通󠄁る)」等は、オ列の長音󠄁にも拘らず「う」ではなく「お」を添へる。理由は舊假名でオ列の次󠄁に「ほ」乃至「を」が續くからであり、そのものズバリ舊假名の規則のせゐである。この手のものを「とうる」と書いて來る人を見る度に舊假名の意識が拔けきれなかつた爲に殘つた例外規則のせゐで貴方は誤󠄁りとされてゐるのかと氣の毒に思ふことが多々ある。始から舊假名のまゝにしておけばまだ納󠄁得がしやすかつた點その2である。
因みに助詞の「は」「へ」「を」に關しては、表音󠄁的ではないではないか、舊假名との妥󠄁協點だ、と批判󠄁は多いが、個人的には助詞は特別なのだと云ふことで比較󠄁的納󠄁得できたのでそこまで不滿點ではない。

發音󠄁そのままであると云ふイメージの先行

告示を見ればそんなことは特に書いてないのでこれは氣の毒と云へば氣の毒ではあるのだが、現代仮名遣いは發音󠄁通󠄁りなのだから、これで表はされた假名文󠄁字通󠄁りに單語を讀むのが正しいと云ふ意識の影響󠄃を受け、發音󠄁が訂正されることがたまにある。例へば「先生」を「せんせー」と讀むと「せんせい」なんだから最後は嚴密には「い」でせう、と指摘されることが發生して困つたことがある。

歷史󠄁的假名遣󠄁ひで留まれる理由

古いものが好きなのであれば變體假名や萬葉假名を採󠄁用しないのはなぜか、語彙が古語ではなく現代語なのは何故かと云ふことに關しては假名遣󠄁ひの問題ではないとだけで濟ませることも出來るが、單に古いものをよしとして舊假名遣󠄁ひを採󠄁用してゐるわけではないと云ふこととも絡んでくるのでこゝでも觸れておく。
舊假名遣󠄁ひは現代仮名遣いを新假名遣󠄁ひとするならばそれに對する舊であり、現代仮名遣い以前󠄁の假名遣󠄁ひが總て含まれる。例へば定家假名遣󠄁ひと云ふもの等がそれである。それに對して本文󠄁が採󠄁用してゐる假名遣󠄁ひは特に歷史󠄁的假名遣󠄁ひと呼ばれることも多く、實のところそれほど歷史󠄁は長くはない。より古い定家假名遣󠄁ひではなく新しい歷史󠄁的假名遣󠄁ひを採󠄁用してゐるのは、勿論こちらの規則の方が良いと考へてゐるからである。元々假名遣󠄁ひとは、平󠄁安時代から時を進󠄁むにつれて發音󠄁が變化󠄁してきたことにより、ある單語にどの假名文󠄁字を當てればいいかが混亂してきたのを解決する爲の規範を造󠄁らうとして出てきたものとされてゐる。その際に取られてきた方法と云ふのがその時の發音󠄁に合はせると云ふのではなく、語の意味に應じて書きわけを行なふと云ふものである。定家假名遣󠄁ひも歷史󠄁的假名遣󠄁ひも基本的にはこの理念の流れにあるものであり、その中でも後者󠄁を採󠄁用してゐるのはこちらの方が正確だからと云ふことに據る。古いからと云ふ理由で書きわけが正確ではないものに迄態々遡る必要󠄁はない。
こゝで現代仮名遣いと舊假名遣󠄁ひの間には理念の對立があることが分󠄁るわけだが、假に舊假名遣󠄁ひと折衷しつゝも現代の發音󠄁に合はせると云ふ方針で造󠄁られた新しき規則がとてもよいと納󠄁得できるものであれば受入れてゐただらう。しかしながら舊假名遣󠄁ひの平󠄁安時代の發音󠄁に基づいた語を基準に造󠄁られた規則の方がまだ綺麗に見え納󠄁得がしやすいものである爲、こゝに留まらざるを得ないのである。

「歷史󠄁的假名遣󠄁ひ」に就いての所󠄁感

歷史󠄁的假名遣󠄁ひの方がまだ納󠄁得できる點や實際に使󠄁つてみてどうなのか等に就いて幾󠄁つか擧げておく。

活用が綺麗

四段活用は五段活用よりも矢張り綺麗に見える。あわ行五段活用の罪󠄁は重い。

惱んだ時に考へることが語源

現代仮名遣いではこの單語はどう書くか惱んだ際に、現代人の感覺やら舊假名を引きずる部分󠄁やら發音󠄁を基準とした本則と例外やらで惱まなくてはならない。一方で舊假名遣󠄁ひであれば、その規則の性質上語がどのやうな成󠄁立ちであるかを調󠄁べれば確定する。從つて語への知識に繫がることができて得した感覺が得られる。また、「なんでかう書くのだ」となつた時にも「それが語源だからだ」と言はれれば「それならば仕方ないか」ともなれるものだが、「つい最近󠄁新しく人爲的に決めました」と言はれれば反撥度が高まる。基本的にこの邊りの差が現代の表音󠄁に準據することに對して語に準據することの利點であると考へてゐる。

現代仮名遣いから改定ではなく舊假名に一旦戾す方がよい理由

言葉の變化󠄁を一切受入れないと云ふ立場でもなければ、歷史󠄁的假名遣󠄁ひのルールが完全󠄁にしつくり來てをりこれが唯一無二の規則であると思つてゐるわけでもない。從つて假名遣󠄁ひの改定自體には必ず抵抗すると云ふわけではないが、それでも現代仮名遣いではなく舊假名遣󠄁ひを土臺に改變した方がいいだらうと思ふ理由はある。
現代仮名遣いは先に述󠄁べたやうに機󠄁械的に定められた本則と例外の上に現代人の發音󠄁の感覺、舊假名殘滓と云つたやうな樣々なものが入組んでをり、これを土臺に新しく改定する場合はその複雜性を內包󠄁することになる。例へば將來發音󠄁が變はつてきて、とても"現代"仮名遣いとは呼べないやうな情󠄁況になつた際に、元の語の語源はこれだが、昭和20年頃の人間の意識の影響󠄃を受けかう云ふ例外ができて、そこからかう變化󠄁したみたいな說明をすることになれば、語彙から離れて餘計な段階が入り込󠄁むやうに見えることが氣掛りである。一方で語に從ふと云ふ單純な規範に準據する舊假名遣󠄁ひを基準にした方がすつきりとした改定になりやすいのではないかと思へる。

實際便󠄁利か

便󠄁利ではない。コンピュータに於ける公󠄁的なサポート情󠄁況が潰滅的である爲、有志が造󠄁つたツールに賴つて漸く現代仮名遣いの環󠄁境に追󠄁附けなくもないと云ふ工合である。唯、この文󠄁レベルのものを書く丈󠄁であれば勞力だけで濟むので特に追󠄁加費用をなんらかのソフトウヱア等にかける必要󠄁は通󠄁常ない。また、よく言はれるやうに舊假名遣󠄁ひをほぼ間違󠄂はずにツィートできるやうになつたところで古典が讀めるやうには特にならない。舊假名遣󠄁ひの規則を覺えたところで古語の知識や崩し字の知識が自動的に得られるわけではない。
便󠄁利ではないのに何故使󠄁ふのかと云ふ話になつてくるが、この分󠄁野のものは利便󠄁性が一番上にくるものではないと考へてゐる。コストが安く勞力がかからなくても現代仮名遣いを使󠄁へないのは、納󠄁得の行かない記法で文󠄁章を書くことに耐へられないからであり、逆󠄁にこれらの利點が得られないにも拘らず舊假名遣󠄁ひを遣󠄁ひ續けるのは、規則に納󠄁得ができ、語に從ふと云ふ古くからの假名遣󠄁ひの理念を繼いでゐると體感できるからである。

表現行爲としての問題

今回の一番の本題は寧󠄀ろこゝかもしれない。舊假名遣󠄁ひは表現手法なのかと云ふ點である。勿論現狀を鑑みれば、日本執政下に住󠄁む日本人が、敢て舊假名遣󠄁ひで書かれた文󠄁章を見た際に感じ取る異質さと云ふのは當然想定される。そこでその異質さを越えて受入れて貰ふ作戰として「これは表現手法なのである」と主張することは當然考へられる。ギャル文󠄁字やら碎けたスラングの多用等と竝列されることが多々あるのは、ギャル文字の使󠄁用やネットスラングの利用がその表現を高次󠄁なものにする效果があると判󠄁斷すればそれらは使󠄁はれるのが妥󠄁當である、と云ふ話に舊假名遣󠄁ひも含めて行けば活路があるだらう、と云ふことに繫げられるからであらう。
良質な舊假名遣󠄁ひの文󠄁を書く人である、として定着することができれば「あの表現は舊假名である必然性がある」や、「あの人は表現者󠄁として舊假名を使󠄁ふのは別に良い」と云ふ好イメージの獲得に繫がり、一時の生存戰略としては確かに惡くはないのである。しかしこれは「無害󠄂である」と認󠄁められて生殘ると云ふことに等しい。この戰略には延󠄂命以上の可能性を見出しづらく、それならばこれは特に意圖した表現行爲では決してなく、唯日常の駄文󠄁を舊假名で紡いでゐる丈󠄁であると居直つた方がまだマシなやうに思へるのである。目指す情󠄁況としては、舊假名遣󠄁ひが本則としてあり、表現の幅として表音󠄁的に書くと云ふ選󠄁擇もある、と云ふところにある。綺麗な文󠄁だらうが駄文󠄁だらうが、文󠄁章にこだはりがあらうがなからうが取敢ず基本の規則は舊假名遣󠄁ひであると云ふ情󠄁況を理想としてゐる。文󠄁の質を問はずとかく舊假名で書くことを重要󠄁視󠄁してゐる邊りがこだはりの抛棄と取られてることに繫がつてゐるのかもしれないが、優先順位的にはかうなるのである。

FGOのミルフィーユ構󠄁造󠄁

FGOに對する不滿としてよく見掛けるものに「ミルフィーユ構󠄁造󠄁なので戰鬪が重い」と云ふものがある。一體これはどのやうなもなのかと調󠄁べたところ、どうも以下のやうなものであるらしい。
まづ前󠄁提としてFGOには靈基再臨と呼ばれるものがあり、これを實行する每にサーヴァントの外見が變ると云ふシステムがある。我らがデオンくんちやんを例に取れば、戰鬪に於て以下のやうな3種類󠄀の見た目を持つことになる。
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實際に戰鬪にサーヴァントが出る際に必要󠄁となる外見は選󠄁擇されたもの丈󠄁で良い。從つて戰鬪畫面に於て讀込󠄁まれるサーヴァントのモデルは、各從者󠄁每事前󠄁に設定で選󠄁ばれた1種類󠄀のみとなるのが自然である。處がミルフィーユ構󠄁造󠄁說によると、先に擧げた3種類󠄀總てのモデルが"重なつて讀込󠄁まれてゐる"ため戰鬪が重いのだ、とされてゐる。
通󠄁常戰鬪で同時に出るサーヴァントの數は3基である。ミルフィーユ構󠄁造󠄁によれば1基につき3種の再臨モデルが重ねて表示されてゐることになるので裏ではもう6基が表示はされないものの動いてをり、以下の畫面內には計9體のモデルが犇いてゐることになるのだらう。
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猶󠄂、嚴密には上のパターンではモデルの數が7體で濟むらしい。と云ふのもサンタオルタはイベント配布鯖である爲、再臨によつて見た目が變ることが一切ないのである。
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その爲この手の配布鯖はミルフィーユ構󠄁造󠄁になつてをらず、通󠄁常の鯖と比べて動作が輕いとされてゐる。
さて、この說がどこから出てきたのかと云ふと、數年程󠄁前󠄁にDWが行つたプレゼンが根據となつてゐるらしい。そのプレゼンによれば
・テクスチャを全󠄁再臨分󠄁詰込󠄁む
・プログラムで表示を切替へる
・ボーンは極力共有
と說明されてゐる。これは元々3種類󠄀の見た目を總て別モデルにしてしまふと容量で困つたことになる、と云ふことから出てきた策のやうで、これだけ見ればそこまで無謀な解決策のやうには見えない。デオンくんちやんを見れば分󠄁るやうに、各再臨段階每の見た目の差分󠄁は然程󠄁ない。また、モーションが共通󠄁のサーヴァントもそれなりに多い。これらがデータ容量節󠄁約を考へて造󠄁られたものだとすれば、サーヴァント每にモデルの共有部分󠄁が多くなるのは當然である。もし假に3種の再臨モデルの差分󠄁を含めて總て讀込󠄁み不要󠄁な部分󠄁は透󠄁明にしてゐる等の處理だつたとしても、ミルフィーユのやうにサーヴァント3基分󠄁が裏で動いてゐることには決してならないだらう。もしこれを實現しようとするならば、モデルを再臨段階每に總て展開してそれを態々讀込󠄁んで動かしてゐることになる。そこまで手間をかけて態々重くしてゐるとは流石に考へづらいので、FGOが重いのはミルフィーユ構󠄁造󠄁のせゐであると云ふ說にはいささか懷疑的である。