アルミンの言葉を借りるのであれば、行き過ぎた資産形成は自由の奴隷なのかもしれない。
FIREしたい、経済的自立と早期リタイアをしたい。
そのために行き過ぎた節約をして行き過ぎた無理な資産形成に勤しむのは正に自由の奴隷ではないか?
FIREするまえにそんなことを言ってあきらめてしまうのもおかしな話なのだけれど、そろそろ限界に思えてきたという話。
FIREしたいけど道のりが遠すぎて、そのために節約していると自分が欲しいものややりたいことがどんどん無くなっていくのを感じているのだ。
ほしかったカメラもどうせ買っても使わないと思うし、服なんてユニクロ以上のものは望まないし、ユニクロでさえ高いと感じている。
欲しいもの、やりたいこと、そんなことよりやりたくないことをしないことに重きをおいてやりたくない労働から解放されるためにせっせと頑張っている。
働かないために働いている。意味が分からんが実際にそうだ。
働かないことをしたいがために働いて、やりたかった海外旅行を理由をつけて諦めて、欲しかったカメラもどうせ使わないと買う前から決めつけてしまう。
そんなだから働いていても楽しくないし、いや、働くことは楽しくないのでそれは間違いないのだが、嫌な労働を行っても報われるまでの道のりが遠すぎるという話をしている。小さな報いをちりばめると大きな目標が遠のいてしまうけれど、ニンジンが目の前にない状態ではもう走れないかもしれない。
ということで今日は久しぶりに進撃のことを考えていたら自由の奴隷という言葉に感化されましたよというお話でした。