東京都中野区教育長に田代雅規氏;1980年代の陸軍中野学校出身教育長以来、初の現役校長(2024年3月)

東京都中野区議会が2024年3月、田代雅規・中野区立中野中学校校長を区の教育長に任命する人事に同意した。現役校長がダイレクトに中野区教育長になるのは、新井鎮夫教育長(1979~1989年在任。陸軍中野学校卒業生)以来初。2024/3/25記(敬称略)

中野区教育長に現役校長

2024年3月21日、区議会は、3月31日付で退任する入野貴美子教育長の後任に田代雅規・中野区立中野中学校校長を任命する人事に同意した。

中野区議会 同意第1号 中野区教育委員会教育長任命の同意について

(中野区議会HPよりキャプチャ)

(中野区議会HPよりキャプチャ)

田代雅規プロフィール

中野中のウェブサイトに田代雅規の自己紹介が掲載されている。

中野中学校だより「あいさつ」 (このページのインターネットアーカイブ)

それによると中野区弥生町生まれ、中野区立小中学校卒業。2022年の時点で60年近く中野区に住んでいる。中学校や中高一貫校の教師を経て、区内中学校の校長を歴任した。

担当教科は数学(参考)。東京都中学校数学教育研究会の会長を務めたこともある(参考)。

中野区立中野東中学校校長時代の田代のコロナ下におけるリモート授業への対応が、下の記事で紹介されている。

2024/4/1就任。

(中野区HPよりキャプチャ)

現役校長任命は1979年以来

現役校長が中野区教育長になるのは、1979年、都立井草高校校長だった新井鎮夫が任命されて以来のことだ。

新井が1989年まで務めたあと歴代の中野区教育長は全て事務方出身だった。今回退任する入野教育長の就任時に中野区ホームページに書かれた経歴は「元」中野区教育委員会指導室長、「元」江東区立小学校校長となっていたが、いずれも就任よりかなり前のことだ。酒井直人・現区長は、2018年に初当選したさい教育長に「民間人登用」を選挙公約としていたものの果たせず、入野を2019年に任命、2021年に再任した。

新井鎮夫について

新井鎮夫については、昔のことではあるが、興味深い人物なので記しておきたい。

陸軍中野学校卒業生

新井は、旧陸軍のスパイ養成機関だった陸軍中野学校の卒業生という、異色の経歴の持ち主だった。陸軍中野学校の卒業生であることについて、新井鎮夫「私の新任時代 」(『児童心理』1987年7月, pp.120-123)では、本人が明記している。

中野校友会編(1978)『陸軍中野学校』の校友会名簿にも、陸軍中野学校の「8丙」(1945年1~7月)に新井鎮夫の名がある(p.846)。南方での「離島残置謀者班」の展開を任務とする「大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊」の第3次派遣要員にも「8丙の新井鎮夫」が含まれている(p.667)。8丙の教育理念は、戦局が不利になり敵に占領行政機関を作られてしまっても、潜入して指導的ポストを獲得し、地位を利用して地下抵抗組織を作り敵が全本土から撤退するまで戦う、というものだった(p.52)。

第3次派遣要員は実際には南方派遣されることなく敗戦を迎えている。配属されたばかりだった新井は、玉音放送よりも前に敗戦を知り、現在の埼玉県飯能市の山の上にある「の権現」という天台宗の寺に逃げ、坊主になりすまして潜伏した。そのときに、ふもとの村の子どもたちや国民学校で教員をしていたうら若い娘に、あなたが学校の先生になってくれと請われたという。

そこへ海軍航空隊から命ながらえて帰ってきたばかりの旧制高校時代の友人が訪れ、新井に大学の講義が始まったと知らせた。新井は、1942年に入学したものの戦争で卒業できていなかった東京帝国大学農学部農学科に復学、1947年9月に卒業。そして、山のふもとの吾野村立南小学校(1947/4/1吾野第五国民学校から名称変更)で無資格のまま先生をするため、教授が紹介してくれた就職先をけって、子の権現に戻った。子どもたちが帰ったあとの小学校の会議室で、いろりの赤い火を囲んで餅などを焼きながら4人しかいない教員で話し合いをする様子は、まるで荘子の「胡蝶の夢」のようだったと上掲の『児童心理』で述懐している。なお同9月末に東京帝国大学東京大学名称変更しているので、最後の帝大卒業生のひとりということになるのかもしれない。

新井鎮夫「私の新任時代 」『児童心理』1987年7月

井草高校長を年度途中で退任

その後、教師や中央区教育委員会指導主事などを務めたあと、東京都教育庁から1977年4月に井草高校校長に就任、1979年6月22日退任(井草高校沿革)して、翌日、中野区教育長に就任した。

都立高校長が年度途中の6月に職を辞して区教育長になったのは、奇異な感じがしないでもない。

実際、新井が6月22日に井草高校長を退任したあと6月末まで教頭が校長代理を務めたが、7月1日に着任した新校長が7月13日に死去したため、8月1日に後任校長がくるまでまた教頭が校長代理をした。ひと月ちょっとの間に校長が4回変わったわけで、新井の辞任が結果的に学校現場に大混乱をもたらしている。

新井と教育委員準公選制

1979年5月25日、前月に就任した青山良道区長が中野区教育委員準公選条例を公布した(1979/6/5中野区報)。

その時点で教育長だった小林利雄(前・中野区収入役)は、翌年10月31日までの1年4カ月超の任期を残したまま6月22日に辞任、同日、新井を教育委員に任命する人事に区議会が同意、新井は翌23日付で教育委員に任命され教育長に就任した(1979/7/5中野区報)。

1981年、青山は最初の準公選制区民投票を実施する。教育委員準公選制をめぐり、当初から文部省(当時)や自民党により激しいバッシングを受けており、1986年に青山が急死したあとその職を継いだ元助役の神山好市によって、準公選制は1995年に廃止された。

当時をよく知る人にきくと、新井は青山が連れてきたとみられていた。

小林辞任2日前の1979/6/20朝日新聞「教育長、新井氏起用へ」がそのニュアンスで報じている。小林が「最近病気がちであることなどから」青山が小林退任の意向を固め、新井が起用される見通しとしている。新井が「桃園三小を卒業した生っ粋の中野っ子」で、教育現場だけでなく教育行政の経験が長いことから白羽の矢を立てたという。

投票実施前に出た自民党機関誌『自由民主』も、

青山区長が『行政職である教育長までを住民投票によって選任することには疑問が残る』として、退任する小林利雄教育長の後任に都立井草高校長の新井鎮夫氏の起用を決め、実質的に準公選制条例を改正する方針を打ち出した。
(泉剛(1980)「住民運動地方自治:中野区の教育委員準公選制スタートにあたって」『月刊自由民主』1980年9月号, 296, pp.170-175)

とし、小林が退任するから(青山によって)新井が起用されたとする。ただし『自由民主』は、行政出身の小林が任期を長く残して退任する事情や新井が高校長を学期中に辞してまで起用される理由について、まったく触れていない。

歴史が示すところによれば準公選制の枠内から教育長を外させたのは自民党だから、『自由民主』のこの一文には、青山が小林退任を契機に新井起用を自由意志で決めたとするためのレトリックが用いられている。つまり、新井は中野区教育委員会の準公選制を潰すため自民党によって送り込まれたとすることが可能だろう。

この推測を裏付けるかのように、新井は、退任の挨拶(1989/4/14中野区教育委員会協議会会議録)のなかで「貞観政要」を引き、創業より守成の方が難しいから準公選制で選ばれた教育委員の皆さんあとは守成がんばってねと煽る発言をしている。なお、この挨拶では、新井が辞表を提出しおえたあと家に帰ったら妻に「ご苦労さんでした。退職できてよかったですね」と言われ、炊いてくれた赤飯を前に思わず不覚の涙を流した、というあたかも夢と現実が逆転したかのようなエピソードも披露されている。

注† 新井鎮夫は1921年7月27日生。童謡作家・生品いくしな新太郎(本名: 新井本治)の長男。桃園三小、成城中学、第二高等学校を経て東京帝国大学。なお、新井家は、戦国時代に現在の埼玉県ふじみ野市大井付近で開拓に尽くした新井織部(=伝"織部塚"被葬者)の直系であるらしい(参考:『図説大井の歴史』大井町教育委員会, 1982, pp.214-215)。新井本治は、陸軍士官学校の予備門であった成城中学で1946年5月からは校長をつとめていたが、GHQによる教職追放に伴い1947年10月退任

新井の業績

就任直後(1980/11/1~1981/3/2)は、準公選制が始まるまでの端境期で、教育委員が他に1名しかいないという異常事態だった。それにもかかわらず、この時期に中野区文化財保護条例と同施行規則を制定するための審査がなされており、その結果、文化財保護審議会を公開とも非公開とも定めない欠陥条文が生まれている(1981/4/1施行)。

中野区教育委員会への陳情では、中野区議会への請願・陳情と同様、委員会の会議をいったん休憩にして陳情者が委員らに口頭で直接、補足説明ができる。この扱いが中野区教育委員会の今日までつづく慣例として定まったのは、新井がたまたま欠席した委員会(1981/7/17)における俵萌子教育委員(ジャーナリスト。準公選制第1回区民投票で当選)の発言がきっかけだった。ただし、今日では、この扱いをしていたことが区民にほとんど忘れ去られており、これを奇貨とする事務方に対しかなり強硬に申し出ない限り直接の補足説明の機会は剥奪される。

新井をトップとする事務局のメンバーが「私たちは、教育委員からとうとう現場を守り切りました」と得意然と言うのを、教育委員を辞めたあとの俵萌子が聞いている(『俵萠子の教育委員日記 続』p.205)。委員たちが、お題目ではない具体的な教育内容(たとえば「中学の制服をやめてください」)を現場の教師たちに直接届ける方法は、当時も今も存在しない。とくに当時は、会議で何か合意事項ができたとしても、新井が "私が代わって、校長会でお伝えいたします" と言うだけだった。新井がどこまで忠実に委員たちの声を教育委員不在の校長会の席で伝えるというのか。準公選制第1回区民投票で選ばれた3人の教育委員たち(矢島忠孝、俵萌子、森久保仙太郎)の憤懣は任期満了直前の会議(1985/2/15,22)で火を噴き、「(お題目の承認で責任が終わるとか委員は誰も考えていない。そのことを)教育長。あんたわかっているのか。題目だけ出して、その責任をとろうとしない教育委員なんて、教育委員じゃないッ」という、新井教育長を名指しで非難する矢島の発言が飛び出している。

在任中の1986年2月に中野富士見中いじめ自殺事件があり、教育委員会は、保護者向けと裁判所向けの二枚舌の対応が批判された。

注¶ 『月刊 教育の森』1983年1月号(『俵萌子の教育委員日記』pp.213-218所収)。中野区(1982)『教育委員準公選の記録 : 中野の教育自治と参加のあゆみ』総合労働研究所,pp.178-179 にも陳情で口頭補足説明ができることについての記述がある

突然の辞任と須藤出穂

1989年2月、教育委員準公選制の第3回区民投票が実施された。陸軍中野学校出身の脚本家・須藤出穂が教育委員に選ばれ、3月28日付で就任。

このタイミングで、新井は突然、神山区長に対し辞意を表明した。神山はぎりぎりまで慰留したようだが、4月6日、制度の問題について協議する教育委員会秘密会が開かれ、新井の辞職が諮られた。この時点で、同年12月9日までの任期がまだ8カ月以上残っていた。

1989年4月7日、臨時会(公開)に先立ち急遽開かれた秘密会で、新井の辞表が受理され、後任に事務方トップの依光恒治が内定。この日、新井はもう出席していない。入れ替わるように須藤出穂が初めて出席し、臨時会で就任の挨拶を述べた。

須藤は、陸軍中野学校の在籍中に敗戦を迎えたと複数のメディアで公言していた。また、脚本家としての出世作は、日本各地のへき地の小学校の子どもと先生に取材したラジオ東京(KR)の録音ルポルタージュ『伸びゆく子ども』(毎週木曜日放送。1956年第1回週刊朝日ダイヤル賞受賞)だった。

新井と須藤の去就には、なにか因縁めいたものを感じる。

2000年3月6日、新井鎮夫死去、78歳だった。死去時の肩書は学校法人成城学校理事長(2003/3/9付毎日新聞東京版訃報)。

須藤はその2年前の1998年7月、75歳で死去している。葬儀・告別式は行われず中野サンプラザで偲ぶ会が開かれた(同年7月11日付朝日新聞)。

教育委員準公選制は、3期目の神山区長が廃止した。神山の3選目を報じた1994/5/30付朝日新聞「中野区長 初の無投票 神山氏3選」は、中野区政がオール与党となり「23区唯一の革新区政」が「名実ともに終わ」ったと告げるとともに、神山の確認団体「あすの中野をつくる会」の代表委員が新井鎮夫だったと伝えている。

注※ 1989/4/8付読売新聞都民面によると、新井は3月末に神山に辞職願提出、それを神山が4月5日に受理とある。しかし、1989/4/14中野区教育委員会協議会で高田ユリ教育委員長が、「4月7日に第6回の臨時会を開きました。主として新井前教育長が、7日付で辞職をいたしたいという願が6日に出されましたことについて、いろいろ協議をいたし、その結果同意をするという結論になりました」と発言しており、神山へは新井が内々に相談したにすぎないとわかる
注‡ 依光恒治は、学校教育部長から教育長就任(1989/4/11付)。なお、依光は、4月14日の委員会で教育長になっての抱負を問われ「審議会とか協議会とか、いろいろ役所は、…(略)…委員会をつくった場合に、だいたい役所の方で、料理に例えれば、ちゃんと切って、そして味つけをして、そして用意されたものを審議会へいかに体裁良く並べるかというのが多いんですよ」と事務方の役人たちがいかに委員会を軽視しているかについて自白してしまい、とってつけたようにあわてて「(だから)協議の充実というのをかなり最優先に考えることが必要」と結んでいる
注♭ 神山の1選目と2選目は、自民党が支持しておらず、新井も「あすの中野をつくる会」の代表委員ではない

2024/4/11追記: 新井鎮夫と宮沢賢治高村光太郎

国立国会図書館デジタルコレクションを全文検索すると、新井鎮夫という人が宮沢賢治について書いた文章があり、中野区教育長を務めた人物と同じか知りたかったのでコピーを入手した。結論からいうと同一人物だった。

新井鎮夫(1951)「賢治と花をめぐる随想」, 『四次元:宮沢賢治研究』3(3), pp. 10-13, 宮沢賢治友の会発行

1951年3月発行のこの記事は、新井が「数年前」の秋「東京の大学の学生だった」とき、友人と宮沢賢治ゆかりの場所を岩手に訪ねたさいのことを書いたものだ。花巻の詩碑に向かう途中、当時花巻郊外に住んでいた彫刻家・詩人の高村光太郎に会い、しばし同道する。

記事の中で、新井は高村との会話から、賢治の作品に描かれた花々について随想したのち、次のように回顧している。

上掲書pp. 12-13より

そして私は賢治の道を歩くため、学業を中絶して田や畑をたがやした。けれど、だめだつた。卒業すると、秩父の山中で全校七〇人という小さな小学校の教師になつた。楽しかつた。けれどやつぱり駄目だつた。今こうして都会のコーヒー寮の片隅で、コーヒーをすすりすすり書いていると、賢治が出て来て悲しそうな顔をするかもしれない。

この経歴と『児童心理』に載った文章とを照らし合わせると、この文の作者はのちに中野区教育長になった新井鎮夫本人と知れる。ここで「都会のコーヒー寮」というのは、山之口貘をはじめとする詩人たちが集った喫茶店"小山コーヒー寮"(東京都豊島区南池袋1-22-2)のことだ。

「学業を中絶して田や畑をたがやした」のは「賢治の道を歩くため」と書いてある。賢治が法華経行者だったことと、自分が、法華経を教義の中核とする山寺で、陸軍中野学校諜報機関にいた前歴を隠し敗戦後に坊主として潜伏したこととが対置されている。また、教師になって間もない新井のいう「楽しかつた。けれどやつぱり駄目だった」は、賢治が高瀬露という小学校教員をしている女性の好意を拒み生涯独身を貫いたのに対し、自分は小学校教員をしている山村の娘の好意を拒まず "喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた"(荘子胡蝶の夢」の原文: 栩栩然胡蝶也。自喩適志與)という意味かもしれない。

偶然ながら高村は、新井のこの文章が掲載された翌年の1952年、花巻から中野のアトリエに引越している。そのアトリエは現存しており、有志らが保存を模索しているという。

『四次元』の同じ号には、1951年1月31日現在の宮沢賢治友の会会員として新井の名がある。1951年5月発行の『四次元』3(5)には新井の詩「水のある風景」が掲載された§。また新井は1950年と1951年に創立期の賢治研究会の例会に参加している。

注§ 「水のある風景」は、新井の詩集『草色の映像』仙台:二人詩社,1951(神奈川近代文学館所蔵) にも収録されている。この詩集の献辞に「庄司直人へ」とあり、上掲の『児童心理』で語られた、山寺に潜伏中の新井をたずねて来た旧制高校時代の友人は庄司だと考えられる。庄司は1978年に『庄司直人詩集』で第19回晩翠賞を受賞している

(中野非公式通信) & (く)