彼女の気持ち

「もう消えてしまいたいと思うことすらあるんです」
     彼女の声は、悲しみとかやるせなさとか苛立ちと無力感とか、そういったものに押しつぶされそうな声をしていた。彼女は職場の後輩で、数回遊びに行ったり、話を聞いたりする仲だ。この日、異動した彼女から話がしたいと連絡があり、終業後に電話することになった。
    話を聞くと、彼女は新しい職場で無力感ややるせなさに押しつぶされそうになっているようだった。彼女はほとんど泣きながら私に伝えてくれた。もっとこうしたらいいのに、とは思ってもそれを上に言えない、言って否定されるのも怖いし、もう決まって動いてることを私の発言でひっくり返せるとも思えない。そんな変える力のない自分の無力感、今の仕事に意味があるのか?という疑問、これらが元となって、自分の仕事が誰かの役に立っている気もしないこと。
    うんうん、と話を聞きながら、それは辛い気持ちだろうと思った。自分の中のそんな傷が思い起こされた。私も自分が役に立っているのか不安になることはしょっちゅうあるし、私の代わりなんていくらでもいると心から思う。でも、彼女のこの気持ちは私とは少し違うんだろうな、とも思う。私は「この仕事をもっとこうしたらいいのに」と思う余裕も視野の広さも、仕事へ向き合う気持ちもなく過ごして来た。彼女はいっぱいいっぱいの状況でも、そうやって仕事へ向き合って過ごしているということだろう。なんて高潔なのか。
    とはいえ、どんなに傍から見て高潔な考えや気持ちだろうと、それが本人を潰してしまってはいけない。感情は本人のものであり、本人が感情のものになってはいけない。感情は本人が行動するための湧き上がるエネルギーであるべきだと思うから、本人は感情をそのように飼い慣らす訓練が必要だと思う。彼女で言えば、「無力だ」という気持ちは「もっと有能でありたい」という非常にポジティブな渇望の裏返しであり、それはもっと突き詰めれば「もっと○○のように生きたい」という渇望なんだろう。私は彼女にこの説を伝えてみることにした。
「気持ちを教えてくれてありがとう。異動先で、仕事に向き合ってしっかり頑張っているんだなって感じたよ。
話を聞いていて思ったんだけど、無力感があるっていうのは、もっとこうしたいっていう気持ちがあるから、その理想とのギャップで無力感を感じてると思うのよ。
それはさ、もう消えてしまいたいって思ってるんじゃなくて、本当は、もっとこう生きたいって思ってるんじゃないかなって思ったよ。
でも、現状すぐさまそのように生きられないから、そのギャップが苦しくて辛くて、消えてしまいたくなると思う。けどね、もっとこう生きたいって思えるのって本当に素晴らしいことだよ。自分が嫌になるくらい強く思うその気持ちを、貴方の一部として抱えてあげていいんじゃないかな。その気持ちは無くさなくていいんじゃないかな。
いつか、あなたがもっと力のある立場になった時、もっと能力が着いた時に、今出来なかったことを実現できるように力を付けておくことにしない?必ずそのチャンスは来るからさ。数年後か10年後かもっと先か、それは分からないけど、絶対必ず来るからさ。」

2023.8.2

水曜日、晴れ。

 

昨日の昼間は激しい雷雨だった。

激しい雨と強い風、鳴り止まない雷が怖かった。

一時は20m先の街並みも見えなくなるほどの雨で、下水が溢れないか心配になった。

今日の空は一日中安定した青空で、昨日あんなに荒れていたのは私ではないとでも言いそうな雰囲気だった。間違いなくこの空が荒れていたのだが。

 

なんとも顔の変わる空である。

そのくらい大胆に、あるがままの顔でいられたら苦労もないだろう。

羨ましい空である。

2023.07.29

土曜日、晴れ。時折風のある猛暑。

 

帰省先の姉宅へ向かうべく、電車の乗り継ぎを待っていた。

猛暑の中、私の他に何人かの人が駅のホームで電車が来る方向をちらちら見ている。時折吹く風で最大限涼もうと、シャツの裾を引っ張ってみる。

あぁ、夏だな。デスクワークばかりで太陽に当たっていなかった私は、ようやく夏を自分事として受け入れた。

自分ってこんなに汗をかけるんだなーと感心した。

 

乗り継ぎを繰り返し、ようやく着いた駅から徒歩10分と少し。ようやく姉宅にたどり着いた。

ただいまーとドアを開けて驚いた。

部屋がぬるい。

悲しいことに、築年数の経っている姉のアパートではエアコンも歳を召しており、彼の全力では玄関すぐのダイニングまで冷えない。彼が何とか冷やしている奥の部屋に寝転がり、ようやく私は深呼吸が出来た。涼しい。

 

体が程よく冷めたら、今日の宴会の準備だ。

父と姉弟だけの餃子祭り。どの餃子フェスよりも好みの餃子を100個作るのだ。

野菜を切り、餡を練り、皮に包む。

出来上がったのは78個。餡が足りなくなったのは、パンパンに詰められた餃子のせいだ。でもそれが好きなのだ。仕方ない。

姉弟が包んだそれらを父が焼き、みんなで食べる。良い親孝行をしたな、と思った。

あと何回できるだろうか。

このさり気ない日常を、あと何回見られるだろうか。

この光景をあと何回作れるだろうか。

まだ親は元気に働いているようだけど、老い始めているのも事実で。餃子を10個も20個も食べれない日も近いのかもしれない。

いつか来る日を想像してしまう。

その日は怖いし寂しいけれど、まぁあんだけ好きに過ごせばね、と言える生き方であって欲しい。

 

父も姉弟もこの手作り餃子が大好きだから、また皆で作ってあげよう。

【解釈備忘録】君たちはどう生きるか

【   君たちはどう生きるか (2023.7)宮崎駿監督作品⠀】

7月19日、仕事帰りに鑑賞。

※この文章の一部はFilmarksに載せています。

 

★もしも観る前にこのクチコミを読もうとしてるなら、先に映画を見た方が良いです。誰かの意見で見方に先入観が作られる前のまっさらな状態で受け取ったもの、その中から自分なりに考えてみることが醍醐味の映画だと思うからです★

 

さすが宮崎駿さん、と思った作品。

特に今回は視聴者にあまり配慮してない(笑)

ポニョくらい分かりづらい気がする。

主人公の心情変化、やり取りされる言葉の持つ意味、何気なく見えるそれぞれの振る舞いから読み取って行くのを頑張りましょう。

 

群衆描写が多く、アニメーターさんの苦労が忍ばれます笑

大変だっただろうなぁ…お疲れ様でした。

 

ジブリらしいというよりは、駿さんらしい出来上がりだったように思います。

中身の解釈について、各々受け取るものがあると思いますが、駿さんが「母」や「海」や「鳥」「空を飛ぶもの」をどう描いてきたかを思い出すとヒントになるかもしれません。

以下は具体的なネタバレと私なりの解釈です。

 

 

■前提の世界観
今回重要なのが、塔の向こう側にある「不思議な世界」の世界観。
あの世だとか地獄だとか作中で言われつつ、基本は死後の世界・産まれる前の世界であり、死んだ何かとか産まれる前の何かの魂だけ存在しているような世界。
生きているものは、うっかり迷ったキリコさんとか呼ばれちゃったヒミ、死にかけてるけど死んでない何かだけ。
基本的には、命がないもの達の方が多い世界。

いわゆる冥界、あの世、魂の世界。

で、死後の世界と現世の色んな時間軸が石の塔の中の時の回廊で繋がっている。

キーウィぽいインコ(作中ではお父さんにセキセイインコと断言されていた)とペリカンが現世に出てこれたのは、絶滅しかけたけどまだ絶滅してない(種として死にかけたけど死んでない)からで
海にいたシーラカンスぽいデカイ魚が「生きてる」枠で出てきたのはシーラカンスがまだ絶滅してないから?と考えられる。
たぶん若キリコが住んでたあのでかい船も有名な沈没船だったりするのかも。
わらわらが食べてたのはシーラカンスの内蔵(内蔵食べると飛ぶエネルギーになる)なのは、内蔵が命そのものだから?(ヒレや肉は欠けても生きられるけど内臓欠けたら死ぬから)
赤ちゃん=新しい命=不可侵、殺してはならぬ
だから、わらわらが人間の新しい命として生まれるために、内臓≒赤ちゃん を食べた、という解釈は私はしっくり来ないな

 

ここまでの世界観から、本作の大きなテーマが生死に関するものなのは間違いない。 (タイトルでも生き方について問いかけられてるけど)

 

そして特徴的なのは、この世界は宇宙からきた石と大叔父様の契約によって、大叔父様が望む形に作ろうとした世界だと言うこと。

世界の形を選んだのは大叔父様のようだが、世界は生きているため時間が流れコケも生える。

石の意志により特定の場所は石により拒絶されたり取り込まれかけたりする。石は特に聖域とされる場所で力を表し、そのうちの一つ、産屋に入るのは禁忌と言われるシーンもあった。

石が何なのかはよく分からない。ただ大きな力を持ち、意思を持って大叔父様と交渉をしている。

塔のあちら側の世界が壊れる時、誰かが「星が割れる」と叫んでいた。


この世界の成り立ちから、塔の向こう側の世界が何を暗喩しているのかで、映画全体の解釈が変わると思うので注視して欲しい。


■主要登場人物
・眞人
小学生くらいの男児。戦中を生き、5-6年前に母を火事で亡くしている。
母が死んだ後のシーンでは、無口・無表情で意思を出さない様子が続いた。
現実で見てはいないのに、母が火に飲まれて死ぬ場面を繰り返し悪夢に見る。
学校の帰り道、学級生と取っ組み合いの喧嘩になり、帰りに自分で自分の頭を石で殴った。
自分の頭を意思で殴ったのは「悪意のある行動 」であり、それが父の気を引きたいのか、勝てなかった学級生を父親を動かして悪い目に合わせたかったのかは分からない。しかし、アオサギにやり返すために弓をつくったりと負けず嫌いで好戦的な性格を感じられるので、恐らく後者だと思う。

自分にはなんでも出来る、なんとかなると思っている所があり、よく言えば豪胆。

・青鷺男
恐らく、エジプト神話ベンヌがモチーフ?
主人公や夏子さんを「あの世」に誘う役であり、覗き魔・嘘つきであり、後に主人公の友達になる男。
池の鯉やカエル、水を操る力がある模様。
アオサギの姿を美しいと自画自賛するが、嘴の中からオッサンの顔が出てくる(アオサギになる時は、アオサギらしくオッサンの顔を丸呑みするような仕草をする)
うっかり風切り7番の羽を落とし、主人公に拾われてしまう。その羽を使った矢羽根で打たれて嘴に穴が開き、力が落ちる。
恐らく死の象徴であり、「友達だけど忘れておいた方がよいもの」

・ヒミ
変な塔の向こう側の世界で会った少女。
夏子の姉であり眞人の産みの母となる人。
多分館のばぁば様が語っていた、「1年くらい居なくなった」時のことだと思われる。
最期は火事で亡くなるが、あの世の世界でも火の魔法が使える人。
恐らく生の象徴だが、作中で一番敵とわらわらを殺している人。

宮崎駿監督作品らしく、強くて凛としたヒロインキャラ

 

・夏子さん

眞人の産みの母の実の妹であり、眞人の父の再婚相手。眞人は「父さんの好きな人」と表現していた。

眞人の父との子を妊娠中。眞人の事を気にかけているが、眞人からの反応は素っ気なく、会話も出来ていなかった。つわりで伏せった際に眞人に会いたいと言ったが眞人は中々来ず、顔を見せたと思ったらすぐ居なくなる。夏子には眞人は、姉への罪悪感を煽り、自分を拒絶する存在として見えていたと思う。

夏子はアオサギに誘われたのか、自らあの塔に進み、塔の向こう側の世界へ進んでしまう。向こう側の世界では、石の産屋に囲われていた。この場面は物語の主舞台が塔の向こう側の世界になる、転換場面になる。

向こう側の世界では、ヒミには元の世界に戻りたくないとこぼしていた様子。自分を拒絶する義息子と帰りの遅い夫とつわりでストレスだったのかも。

眞人が迎えに行った時には「お前なんて大嫌いだ」と叫んでいたが、眞人がなにかハッとした顔をして「母さん、夏子母さん」と叫ぶと泣きそうな顔をして眞人に近寄ろうとしていた。そのシーンでは石の意思により阻まれ、産屋からは出られない。

最終、星が割れるシーンでは自力で産屋から脱出し、若キリコと合流して時の回廊へ向かう。

宮崎駿監督の中では珍しい、強くないように見える女性。

私にとっては、現実の儘ならさの象徴であり、受け止めなければ進めないものに見えた。

 

・眞人の父

軍事関連の工場長(オーナー?)をしている。

作っているのは恐らく戦闘用の飛行機。その為、戦中にしてはかなり羽振りが良い。

妻亡き後、妻の実妹と再婚を決めた。顔が似ているからか、お家柄的な理由があるのかは分からない。

眞人の事も気にかけており、眞人が怪我をした時に学校に文句を言いに行くなど子煩悩な所がある。が、何かあると「夏子がー夏子がー」と話すせいで眞人が拗ねていることに気づいていない様子。

恐らく現実の象徴であり、誤解しやすいもの。

 

・館のばあや、じいや

長く屋敷に使える使用人。

戦中だと言うことを思い出させてくれる反応(食べ物への反応など)をしていて、空気作りしてくれている。

屋敷で起こる不思議な事や、石の塔の昔話も教えてくれるヒント係。

このばあばのうちの一人がキリコさん

 

・キリコ婆(私が勝手に呼んでいる呼称)

館のばあや達の一人。背筋がピンとしていてタバコ好き。

夏子さん捜索の際、うっかり眞人の近くにいたために一緒に塔の中に入る羽目になり、一緒に塔の向こう側の世界に落ちた。

塔の向こう側に落ちた際、眞人とは違う場所・時間軸に落ちたようで、その後の登場では若い姿で登場する。

 

・若キリコ (私が勝手に呼んでいる呼称)

塔の向こう側の世界にいる、キリコさん

眞人を助け、旅立つ準備をさせてくれた。

恐らく、館のばぁばになるキリコさんの産まれる前の存在。もしくは、世界に落ちてきた時に若返ったか。後者かもしれないけどどっちでもいい。ジブリの世界観では同じ魂は同じ名前になることがあるので、今回もおそらくそんな感じ。

塔の向こう側の世界の世界観を教えてくれるヒント係。

時の回廊のシーンではヒミと同じ扉をくぐるので、やっぱり若返った姿なのかもしれない。

眞人を見送る際にあげたキリコ婆人形により、キリコ婆は無事現実世界へ戻る。



■物語構成
ジブリっていつも2重3重の構成になってるらしいんだけど
一層目はシンプルに
継母を受け入れきれない主人公が、変なアオサギにいざなわれて変な塔に入って継母と和解(?)して戻ってくる冒険話
二層目は、
主人公が繰り返し問われる「夏子はお前の何だ」の問いと、大叔父様との話の中で見える世界再構築の話が出て
※主人公の心情変化を考察したら多分見えてくる
多分二層目の所で一般視聴者に向けて、お前ら自分たちが住んでる世界をどうしたいんだ!自分で友達とか大事な存在作って考えてみろよ!
みたいな感じかなーと
で、それがタイトル回収に繋がる…みたいな

三層目は半ば邪推だけど、

宮崎駿監督駿から今回の制作チームや駿さんに影響を受けているアニメ業界の方々に向けて、お前らどうすんだ!?何を描くんだ?この世界をどう見てるんだ?

って問いかけているような気もする。

この時、現実世界=商業主義であるならば、文学作品(理想の世界)であろうとした宮崎駿を継がず、興行収入を求める商業主義になるのか、という創作者としての訴えのようにも思える。

眞人の回答を見るに、宮崎駿監督も理想だけじゃ限界があることはわかっていそう。現実の中で理想を追っていくような事を期待しているのかも。

※塔の向こう側の世界を、宮崎駿監督が作り上げた「宮崎駿の世界」と解釈した私の場合

 

 

最後のシーンで、大叔父様が白い積み石を眞人に継がせようとして眞人が断る時の問答がとても印象的。多分あのやり取りに今回の映画の言いたいことが全部入ってる。

裏切りもあるし汚い悪意のある世界だけど、その中で友人や大切な人を作って自分が決めて生きていくこと、一人一人の決定が世界を創り回していること。それがわかった上で、「君たち」はどう生きるか。

私はどう生きるか。
この文を読むあなたはどう生きるか。
考えずにはいられない。

それでも生きていく

「何しに来たの?」
「そんな雑用でお金もらえるなんてラッキーだね」
「無能なんだから言われたことをちゃんとしろよ」
「どうせ、何もできないもんね」
「こんな暗い部屋に女がいたら、襲ってくれってことだろ?」
今日も聞こえるあいつの声を音楽で押し流して、今日もきちんとした格好で職場に向かう。

「何がしたいの?何もないの?」
「つまんない人間になったね」
今日も囁くあの人の声を音楽で押し流して、今日も笑って人と会う。

「お姫さま扱いしてあげれば満足?」
「俺がこんなに合わせあげているのに」
「自分のことを好きになれないやつに、誰かを愛することなんてできないだろ」
まだ甦るあの声を音楽が押し流して、私は今も誰かを求める。

役に立たない私は不要でしょうか。
生きる目的や夢がない私はつまらないでしょうか。
あなたを愛せなかった私は欠陥品でしょうか。
私を愛せない私は誰とも愛し合えないのでしょうか。

それでも生きていたい私は、わがままでしょうか。

起きたくない朝を迎えたら、
一日を乗り越えたら、
泣きながらでも生きていたら、
少しずつでも前に進めていたら、
いつか貴方に繋がると、信じていてもいいですか。
いつか「逢えてよかった」と言える貴方に。

貴方は私かもしれない。
貴方はまだ見ぬ貴方かもしれない。
貴方はこれから生まれるのかもしれない。
貴方は人ではない何かなのかもしれない。

貴方にとっての唯一になれるなら、世界に嫌われても生きていける。
その日を夢見て、生きている。

怒られた話

深夜に友人から凸電された。だらだらとスマホを触っていたらいきなり電話がかかってきた。
怒られた。私の夫が他所の誰かとホテルに行っていたことを彼女に言っていなかったこと(私はすっかり言った気でいた、そのくらいなんでも話していたから)、そんなことをされているのにまだ別れていないこと、要は、私が私を大事にしていないことを怒ってくれた。ちなみに彼女は、私が相談したもう1人の友人からその事を聞いたらしい。私は彼女とその友人にかねてから夫のことを相談していた。
夫には私が受け入れられない行動がいくつかある。ストレス発散と称して継続的にガールズバーに行ったり、ガールズバーの女の子のバースデーは祝いに駆けつけ(それも深夜勤を抜け出して)数万使ってくるくせに私には1度も誕生日を祝ってくれた事がないとか、女性と2人で遊びに行くとか。それを悪いと思っていないこと。私を悲しませたり心配させたりするのには悪いと思っているが、友達と二人で遊ぶだけで何が悪いのかと。セックスがそんなに大事なのかと。これらをのたまう彼の姿に、私は最早異文化を感じた。早く離れるべきだったし、私はもっと自分を大事にするべきだった。ここで自省を書くのは本題では無いので割愛するが、とにかく夫はそんな人だったから私は徐々にその異文化との限界に気づいていた。二人でいる時はくっついてきたり甘えてきたり可愛らしいところもあるのだが、思えば甘えられてばかりだった様な気がしてくる。私も彼に支えられた事があるのは自覚しているが、それにしても、である。
友人は、そんな夫から離れられていない私を怒りに電話してきたわけである。そして言ってきたのだ、動かなきゃいけないんだよ、と。全くその通りなのに、彼女が、夫の遊び相手がどんなつもりでいるか(私に優越感を感じているんだろうとかそんなこと)、慰謝料を取った方がいいとか、ガールズバーに乗り込もうとか、血気盛んなことを言う度に私はなぜかムカムカとしたものを感じて泣きたくなった。友人の情の厚さに感動だけしておけばいいものを、遊び相手の気持ちなんか知りたくもないし関わりたくないのにとか、慰謝料を払えるような稼ぎじゃないし金の縁も切りたいのにとか、乗り込んで何をするのとか、モヤモヤとしてしまった。こんなにも人のことに熱くなってくれる友人なのに。私はこの時、私たちの問題に勝手に入ってこないでくれと思ったのかもしれない。ならば人に話さなければ良かったのに、同情が欲しかったのだろうか、後押しされたかったのだろうか。元々は後者である。自分では手に負えなくなって、感情も持て余し、今後のことを判断する力も失い、そもそも自分自身の考えや感覚に自信を失ったから彼女達二人に話したのだ。話して、自分の考えや感覚に自信を取り戻して、今後の判断に意見をもらって、持て余した感情を昇華させたかったのだ。彼女達は見事に応えてくれているのに、変化を恐れる私がモヤモヤムカムカとこの助言を受け止めきれずにいた。受け止めきれずにいる自分に、自分より私のことを大事して叱ってくれている友人の温かさに泣きそうだった。こんな身勝手な私に、よく出来た友人がいるものだ。
電話の終わり、次夫と会う時には離婚の話を再度するようまとめられた。ここまで後押しされたのだから、私も勇気を出さねばならない。今後の生活を思うと今から胃が痛い。だが、動かなきゃいけないのだ。自分で自分を大事にすることを選ぶのだ。

私の奥の枯れた花

半ば懺悔のような話です。小学校の頃転校してきた女の子と仲良くなりました。中学も一緒でした。四六時中一緒にいた訳ではなかったけど、時々2人で遊びました。決まって2人きりでした。その子といる時私は、時々意地悪な気持ちになってしまって、たまらなく甘やかさなきゃいけない気がして、よく拗ねさせたり照れさせたりしていました。そんな様子が好きでした。何年か経ち、ある日その子は別の女の人と付き合い初め、最後にはフラれて、しばらく連絡が取れなくなるほど悲しんでいました。あの時初めて、焦りと悔しさで私は泣きました。