キノコヤ5周年記念映画『青い鳥』感想

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すでに予約で全回満席ということですが、キノコヤ5周年記念映画「青い鳥」の感想を書きます。

 

Aプログラム

トップバッターの青石太郎作品(タイトル記載なし)は前作『手の中の声』に続き、屋外の樹々(バードウォッチング)と、屋内での小鳥(ちゅん太)のアップが印象深く、特に飼い主の声に逆らうように自ら巣へ帰っていく繋ぎがうまい。

『青い鳥』(中山洋孝)は自作につき省略。霧が濃い、動物の撮り方はいい、と感想いただきました(酔わずに上映会に向き合えばよかったかもと反省)。ご覧いただいた皆様、ありがとうございます。

『瞼を閉じて見えるもの』(石川亮)は(僕個人が自作を見る恥ずかしさから解放されたからか)、その洗練具合を見て、だいぶホッとした。とはいえ内容は心穏やかなものではない。

『幸福について』(平林禄)は冒頭の舞台が千歳烏山であることを告げるナレーションから気の抜けた感じに。主演男女もいいが、猫の演出が見事だった。特に男の帰りを待っている佇まいがよかった。随分しっかり物語るなと思いながら見ていたら上映時間12分とのこと。

『大地のマフラーを編みつなぐ』(黒川由美子)は、やはりほぼ全編にわたる中尾幸世の朗読する声がいい。穏やかさと怖さの混ざったような響き。投げられたマフラーの先に待つ鳥の登場にも驚いた。

『ある映画のためのエスキース』(深田隆之)は作家の今後の作品(ドキュメンタリー?)に繋がりそうな一編。同時にこれだけではまだうまく言い難いところもあるが、これまた終盤にかけて鳥の存在が大きい。

『ある渡り鳥を探して』(七里圭)は「ワンゲル」(『サロメの娘』でも聞いた覚えがある)は「ワンダーフォーゲルの略?」という台詞に対して男たちが首を横に振るくだりが妙に面白かった。常にマイクを持ち続ける女性(特に銭湯の鏡に映される姿)の、エロティックな身体のねじれが忘れがたい。

『Not for me but for you』(鈴木史)は主演二人(うち一人は作家自身)のマニキュアから始まる冒頭のやり取り(どこか訛りのある声)、そのアップの強さからハッとさせられる。静止画で挟まれる鳥、終盤の屋外にいる一人一人のややフルサイズより引いた後ろ姿の佇まいもいい。

『ゆみこさん』(杉田協士)はタイトル通り店主の黒川由美子さん主演作で、これまた多くははっきり語らない映画だが、この10分ほどが体感時間としてもちょうどいい。

 

Bプログラム

『CUE』(當間大輔)は冒頭の風景ショットが最も印象深く、鳥の旋回する動きが特によかった。

『かつて、眠れる鳥』(住本尚子)はアニメーション作品。足元にて横たわる青い鳥のみにアングルを絞ったのがよかったと思う。鳥が朽ちていくかのような時の、どこかゾワゾワさせつつ決してグロテスクではない視点が音楽と共に憐れみをもって貫かれる。

『water bath film 01(仮)』(池添俊)はいきなり15分近い作品で驚いたが、液体の動き、鏡に反射する揺らめきを眺めているうちに時間感覚も麻痺していき、これはこれで悪くない。

『JOBTOPIA』(core of bells)はアトリエらしき空間を舞台に、腸の飛び散ったかのような、またはジャクソン・ポロック調の画を見て、職員たちが癒されると言っているなど異様で滑稽な状況を淡々と語る様が凄まじい。

『武蔵野美術大学卒業制作展2019』(作・にいやなおゆき)はデジカメで撮った写真をアニメーションのごとく繋ぎ合わせた一編。被写体となった生徒たちのポーズや作品の撮り方など演出と言っていい細かな個所もよかった。

『無題』(島村健三)はいきなりの竹内力に驚き、三池崇史トリビュートが貫かれる。何じゃこりゃ、と呆れつつ、妙に清々しい。

『Improvisation長女』(草野なつか)は勝手にタイトルから家族のドキュメントかと思いきや(いきなり窓へパンして画面が真っ白になるところなど河瀨直美のパロディっぽく、しかし河瀨直美なら見たことない動きで笑う)、全然違った。工藤冬里と鈴木仁篤のコンビが相当にシュールな掛け合いをするという、今回のオムニバス中で最もコミカルな一本。文字通りインプロのようで画面外からの声の使い方もうまい。

『WHERE IS BLUE BIRD?』(鈴木仁篤)は飲んで、歌っているだけだが、想像はできていたことだが、結局このサラッと撮られた手持ちのワンカットだけの一本にほとんどの作品が敵うわけもないというショックを受ける。早々と女性三人組にパンするのだが、ここからもう延々と見ていられるのだった。「とにかく重心がしっかりしている」という会場での感想の通りだと思う(こういうのが「ショット」というんだろう、たぶん)。その重心が三脚ではなく手持ちによって発揮されるというのが特徴になる。

『青春の日々(仮題)』(黒川幸則)は山田風太郎の朗読にあわせるようで、だんだんと動きが停滞していく日傘をさしたヒロインの歩くロングを経た後、本を読んでいた新谷和輝が自転車をこいでいくカットへ転じる躍動感がよかった。

『チルチルとミチル』(鈴木卓爾)は勝手に「ワンピース」シリーズ的なものを予想していたが、気持ちよく裏切られた。ほぼ校舎のみを舞台に、手持ち撮影と、扉の行き来と、階段の入り組んだ構図を用いて、迷宮のように変えていく。マスクをしたヒロイン二人が声もあわせて魅力的だが、終盤のマスクを外すという選択にて、背景のホワイトボードが一気に画面奥を真っ白にしていく様と、その声の震えに感動する。

『ラブレス』(キャスリン・ビグロー、モンティ・モンゴメリー)『青春がいっぱい』(アイダ・ルピノ)

一か月以上更新できていなかった。

下高井戸シネマにて『ラブレス』(キャスリン・ビグロー、モンティ・モンゴメリー)。吉祥寺バウスの爆音オールナイトで『Helpless』『断絶』『悪魔のいけにえ』と一緒に見て残念ながら爆睡した一本だが、改めて見ても眠気に襲われつつ、しかし良かった。いつの時代だかよくわからない、フラッシュバックしてるのかもわからない、いかに命を粗末にするか、生き急いでいるようで何もしない。もう古びた題材のようで、懐古趣味でもなく、様式美に耽るほうに近いが、ただ目の前を通り過ぎていくだけでもある。バウス併映の三作以外なら(『ワイルド・アット・ハート』ではなく)『ソナチネ』か『ブラウンバニー』か『デス・プルーフ』前半に近いか。この主役のようで今ならありえないくらい薄いデフォーのナルシスティックなようで透明な在り方。地獄の時間になるかと思いきや急転直下の呆気ないラストのようでペキンパーならまだまだ続くみたいな半端なラストの後、あっさりと去っていくバイクと共に、あの自動車も走り出すのではと思ったが、それがまさに『Helpless』か。

そしてアイダ・ルピノ『青春がいっぱい』。ロシアの某サイトで見てるから驚かないけどね……とマウントにもならないマウントを心の中で取っていた一本だが、日本語字幕付きで見て時間経過の異様さに全く気づいていなかったと知る。バスに乗って日帰りしただけかと思いきや夏季休暇とか行ってる。学校以外の舞台は列車と駅しかない。やや忙しない気もするがシーン内で飛ばしている印象もないのに、夜9時から11時までロザリンド・ラッセルが廊下を歩いてくるうちに過ぎていく。
気づけば寝る前に「卒業まで四週間」と言い出し、翌朝は「大変!」とか言ってるので「まさか卒業!?」と思うと、6時のチャイムがなく8時になっていて「沈黙の日曜日」?いや火曜日?といううちにシスターの一人が心臓病で亡くなったと知らされる。あのシャボン玉事件とボヤ騒ぎ以外寝ている人だと思いきや「競走馬」の話のシスターらしいのだが、顔を思い出せない。遺影も出ない。その代わり、棺の俯瞰から、卒業の花々にカットは変わる。亡くなったシスターに対して軽視しているわけでもなく、ここにはただ「死」がある。
ある種のB級映画の画面に通じる、二人ないし複数人の人物をミディアムサイズで並べて収めた画のバランスの良さに対して、左右の丈がズレたサイズに縫われたドレスのような歪さ。この知らぬ間に出来た不均衡は黄色いバスの行き帰りだけでなく、ヒロイン二人の卒業にて最高潮になる。こんなに喋る二人なのに、最後は「話してほしかった!」から始まる。
ボイラー修理代のためにもコンクール優勝したいヒロインたちに、校風に相応しからぬ衣装での参加をロザリンド・ラッセルが認めているんだか何だかわからないくだりでの、彼女の表と裏の使い分けというか、もはや内面など想像させる以外ないという映画自体の割り切りの過剰さこそアイダ・ルピノらしさかもしれない。
だからこそ終盤の別れの感動も高まる。車両を前にした三者の位置関係も時間も飛ばすことなく繋げる。丁寧すぎるわけでも慎重すぎるわけでもなく、むしろさりげなく爽やかさを失わず時間をかけて別れの場面を繋げる。そして見送る二人に対して車窓から半身出した彼女を乗せて列車が遠のいていくワンカットのロングに至るという、シンプルな力強さが貫かれている。

『季節のはざまで』(ダニエル・シュミット)

ダニエル・シュミット『季節のはざまで』。オーディトリウム渋谷以来。
どんだけ人を入れようが、がらんどうだろうが、カメラを動かそうが、エロい話になろうが(鍵穴のところなんか凄い)、精神病院に行こうが、全てにおいてちょうどいい距離を維持し続ける。ものすごく古典的ってことかわからないが、今ならエリセ『瞳をとじて』くらいしかない。もう大半の誰が目指しても、ほぼ100%つまらないことになりそうな絶望感がある。もちろん言うまでもなくシュミットだけでなくレナート・ベルタも凄いんだろうが、当然撮影だけの話ではない。言葉と声と映像の距離感というか、たとえばサラ・ベルナールの昔話なんか、このままサイレント映画にしても全然いけそうだけど、もちろんペーア・ラーベンの劇伴からイングリット・カーフェンにアリエル・ドンバール、ウリ・ロンメルなどなど声の彩りに建物の音も響く。ほぼ失明しかかっているらしいモーリス・ガレルはどんな声か覚えていないが、フィリップ・ガレルでは見たことない滑稽な佇まいをしている。

別に安心できる作品ではない。冒頭のトンネルを二度ほど通り抜けるバス内の暗さ。鏡を切り返して出会う「友人」と、そのバスルームでのやり取りを聞いてしまったサミー・フレー(誰も覗いていない)。このやり取りを人に安心できるものとして受け取らせるフレーミングは一切なく、ただ向こう側とこちら側があるのみ。幾度も繰り返される旅行鞄など手にした家族の階段の上り下りに漂う、説明しがたい暗さ。父の死と、天使の集うパーティー。「天使」というのは勿論『ラ・パロマ』もあるけれど、やや飛躍して『エクソシスト3』(もしくは『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』?)を思い出す、すでに全員が死んでしまってからの日に少年時代から一気に飛躍してしまった感覚。記念撮影が死を呼ぶ予感は「監督小津安二郎」を読んでたりするんだろうか。そして、これまで一つの空間にいながらすれ違い続けてきた少年時代と現在が、ついに一つの画面におさまる時の「終わり」の予感。ミッキーマウスの画からパンして、窓をあけると待っているラストは『ラ・パロマ』の歌唱と同じくらい忘れられないインパクトがあるけれど、結局どうなってしまっているんだろうか。こんな世界だからこそ、ある距離を維持し続けなければいけなかったかのような。精神病院からも教会からも途中で親の手で引き返すまでの長さの「ちょうどよさ」。サラ・ベルナールと祖父の間に何があったのか、「そのあとどうなったの?」「さあ、それで終わりよ」、またはウリ・ロンメルによる「サハラの夜」は子供は見れなかったから人から伝え聞いての想像という話、そしてイングリッド・カーフェンの「子供で居続けるのも大変ね(私には子供時代はなかった)」、そうした死だけでなく性的なものとの境界もある。ファスビンダーの『ローラ』で繰り返し聞いた曲をイングリット・カーフェンが歌って、あらゆる境の中で流れる曲に聞こえてくる。

『ペナルティループ』(脚本・監督:荒木伸二)

前作『人数の町』は蓮實重彦がコメント寄せていたから気になって見た(安易な動機で申し訳ないです)。『人数の町』はなかなか面白かったけれどラストがどうなったか思い出せない。ただスッキリしない終わりだったように思う。
『ペナルティループ』もかなり面白く見ていたのに、これまたどうにもスッキリしない終わらせ方をしていた。別に嫌な気持ちになる終わりでもなく、どうにもできないが日々生きていくのだろうということなんだろうと思うことにしたが、自分の解釈はともかく、そうした謎めいているわけでもないが曖昧な結末を用意するあたり「日本的」とか評されたりするんだろうか。
アメリカ映画のループなら最近だと『ドミノ』(ロバート・ロドリゲス)があるが、これはネタバレ第一段階みたいなもので、その後も二転三転捻りがあった(未見の方には申し訳ないです)。『コンテニュー』(ジョー・カーナハン)なんかゲーム世界の話みたいに繰り返しつつ足搔きながら最終的に人生を一歩進めるみたいな展開で、なかなか感動した。もう10年以上前になる『ミッション:8ミニッツ』にしろ詳細は忘れたが、やはり一発逆転あり見事だったように思う。
そのあたりの映画を『ペナルティループ』は勿論おさえている上で、ああなったのだろうが。だいたいループものの映画を見る前にどれだけそういう展開だと知ってるか。『ドミノ』は知らせていない例外だが、わりと観客として知った前提で見ている気がする。『ペナルティループ』はこのあたりが上手くて、その展開を知らされたところで驚きがあるわけではない要素を見せていくうちに大した説明をしないまま想定外へ転ばせる。繰り返される現在の合間にフラッシュバックを挟んでいくあたりは順当な語り方なんだろうが、そもそもの発端が要するに主人公には対処不能な外部に突き当たり(「外側で何が起きているのか関知していませんので」という台詞もある)、劇中に頻出する黒味の挟み方や、終盤の後ろ歩き、背中、振り向く行為(『オルフェ』の引用か)などループというより逆行しようとしつつ、それもできない。単に捻りが足りないだけかもしれないが……。偶然にも『フォロウィング』の予告が上映前に流れていたけれど、クリストファー・ノーランの名前を出すのは誤解を呼びそうだが、それでも物語が夢や過去との行き来をすることで、いまいち前進できてるかわからない結末になるあたり同じ轍を踏んでるんじゃないか。ただそのほうが才気ある作品として見えるのかもしれないが……(前作に続き宇野維正が書いてて何だか納得した)。そこであえて「実は抜け出せてないかも」みたいな終わりにはしない分、マシということか。
あのボートの登場は『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のことは意識してるだろうし、最近のセザール賞スピーチにてジュディット・ゴドレーシュも引用した言葉がいっそ終盤にはっきり出てきたら意外とグッと来たかもしれないが、そういうことはしない低体温の映画だった。

レニー・ハーリン『ブリックレイヤー』

レニー・ハーリン『ブリックレイヤー』を見る。
仕事が忙しくなると「映画なんか見てる場合じゃない」と大半は後回しになるのに見てしまった。最終的には「見てる場合じゃない」映画かもしれないが悪くない。いや、本当はもっと良くも悪くも今つくられている映画を見なくてはいけない。そうしなければ、この映画が本当のところどのような位置づけにあるのかわからないままか。
元CIAがレンガ職人として活躍する序盤の『クリフハンガー』的な殺し合いに興奮。高い所と痛い所には目が行ってしまう(できればこの設定をさらに活かしてほしいが、忘れたように終盤の掛け合いで拾うのに心ほだされる)。というか相変わらず一々残忍である。特にクラブで敵を次々殴る場面のカメラの動きはブレブレなのに不思議と軸のある感じ(相手の方から次々向かってくる)がよくて、どこか間が抜けた応酬もあって面白い。俯瞰や複数人のショットを入れるテンポのよさ。犬アレルギーも気が効いてるような(なぜ犬がいないのにくしゃみが出たのだろうか)。どれほど真剣に見るべきかわからない物語で裏切りの繰り返しだが、最終的にはかつての友人、恋人とのやり取りが流れるように油断して見ていると不意にグッとくる。マイルス・デイヴィスも単にそれっぽいだけといえばそれまでだが良い。胡散臭い金の流れで、仕事だからと本当に撮りたい題材かわからない、彼の映画は全肯定できるわけもないが見続けるだろう。

フィリップ・ガレル『ある人形使い一家の肖像』

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ルイ・ガレルウディ・アレンの映画に出演したからと結びつけるのは短絡的だが、近作でのモノローグを用いながら男女関係の顛末を語るスタイルがアレンとガレルを意外と近づけているかもしれない(それ以上に異なる面を意識するべきだろうか)。それはともかく、やはり本作は良い映画に違いない。母の棺の十字架を外すような細部に宿る良さもあるが、振り返ればいかにもガレルでしかない要素が詰め込まれているのに、しかしガレルでなくても構わないことを見ているような印象が近寄りやすい近作の中でも、特に感動的な映画だった。凡庸な監督なら手持ちを使うだろう演出でもカメラ位置は定まり、客席の子供たちにはガレルの映画だからだろうかけがえのなさがある。終盤の、それでも前進あるのみといった各々が映されるアップにも素直に感動した。嵐の異様さのような逸脱もある。もしかするとキャリア終盤に操り人形の話が出るのは五所平之助アンソニー・マンに通じるかもしれないが、あくまで本作は舞台の下から腕を上げて動かす手人形であって、その方向は上下逆になり、肉体に与える負担も異なるのだろう。この人形使いという点が映画や演劇を舞台にした時以上に、肉体的疲労と死が結びついて見える。

・国アカにて沖山秀子脚本・監督『グレープフルーツのような女』。序盤の雪山でのパンから何を見せられているんだと困惑するが、だんだんとヘンテコなエロ映画というより、役者の監督作として興味深くなってくる。彼が海外へ立つことが決まって、一人で我慢ならなくなってからがいい。手紙を読み終わっての独り言とかわざとらしいのだがたまらない。望まない暴力的なセックスをさせられるヒロインの眼つきなどリアクションが生々しい。ライブ終わりの飲み会でしつこく彼を口説こうとするバンギャル(?)とか騒々しい。結末が意外と爽やか。
続けて見た珠瑠美『熟女スワップ若妻レズ』は題名通りのパートナー交換モノで熟女と若妻の二刀流みたいな紛れもない怪作で、沖山秀子の記憶がだいぶ薄れた。かなり頻繁にシェーンベルクらしき音楽が流れ(教養ないから音楽の確信もてず)まさしく不協和音というか、特に序盤の唐突に自分語りを珠瑠美が始めてトラックインしだすタイミングで流れるとストローブ=ユイレか?とツッコミたくなるくらいバカバカしい(撮影は『愛のコリーダ』など伊東英男)。部屋住みさせてる元バニーガールから逢引している恋人を奪う場面での、画面奥のベッドで行為に励む二人に対して後ろ姿のままの珠瑠美が衣類を脱いでいくのに合わせて盛大に不協和音が奏でられ、さらに珠瑠美をフルサイズで横から捉えたカットから彼女が背後のソファへ後退する歩みに合わせての横移動が妙に印象深くて、それから彼へ向かって「いらっしゃい」と股を開いて誘惑のポーズをとるアップも相当力強い。そこから不意にコマが飛んで、なぜだか様々な展開に???マークが脳裏を飛びまくるうちに、4P中のヒロイン二人の接吻直後にエンドマーク。エラいもの見た。

 

・国アカにて『よみがえれカレーズ』(熊谷博子、土本典昭、アブドゥル・ラティーフ)と『映画をつくる女性たち』(熊谷博子)。
『よみがえれカレーズ』は『パルチザン前史』より踏み込んだ戦闘訓練のシーンがあって、少年に「銃が弓で、弾が矢と思え」と伝えながら狙撃訓練をするところなど「ここまで撮るか」と驚く。また難民たちが遠景から歩いてくるカットも「こんな画が撮れたのか」という興奮がある。意外と見ていて楽しい農耕、牧畜、工作の場面も多く、藁をまとめて驢馬に乗せる画なんか、こんなに藁というのは身体全体をまるめて大きな量を束ねて、それを驢馬の3倍くらいありそうな大きさで乗せるのかと面白い。また祈りの仕草が身体を何度も揺らすリズムは画に無意味なようでたくさんの動きを入れる。同時に性差の問題は避けられないが、問われはしても答えは一面的には描かれない。そんなフワフワ見ていると不意にショッキングな爆殺された死体と、そのちぎれた手をシートの下にしまうカットに(いまだやまないパレスチナでの虐殺を伝える動画が流れる今でも)動揺し、周りの警官らのカメラを向けられても目をこちらに向けたくないといった顔が印象に残る。
熊谷博子の『映画をつくる女たち』に自作の話として『よみがえれカレーズ』は出てきても(協力に土本の名はあっても)土本に対する言及はない。『映画をつくる女たち』は羽田澄子の「感じた人が動かなければいけない」といった言葉が忘れがたい。宮城まり子の映画はかなり濃さそうで見るのが怖い。『挑戦』(「東洋の魔女」のドキュメンタリー)の渋谷昶子が現場で受けたスタッフからの苛めに近い扱いは酷い話だが、一方で「そうしたスタッフたちも撮っている彼女たちを見るうちに変わる」「嫌なことだらけだが洗濯などして気を晴らすしかない」といった話をする姿には作家としての毅然とした強さが伝わる。『黒い雨』の製作、飯野久の「約束手形」を切る話もかなり面白かった。