霜柱標本室

佐倉誰と仲井澪の公開交換日記です。日記と短歌です。最低ひと月に一往復を目安に更新します。

2024.3.15〜2024.4.22

佐倉誰

2024.3.15

春はたましいが太る。春は、というか、季節の変わり目はたいてい気持ちが昂って仕方ない。雲より飛行機よりはやく空を駆け回りたくなる。冬から春に移り変わるときのなまぬるい風の匂いは、とりわけ獰猛さを孕んでいて好きだ。容赦なく雪が解けて泥水だらけになった道が、歩きにくくてかなわないけど好きだ。雪の解ける絶え間ない水音と、砂利が混じってどんどん真っ黒になりながら縮んでいく路肩の雪が好きだ。高校生のとき、桜の花が好きで筆名の苗字を「佐倉」に設定したから、季節に対する同属意識があるのかもしれない。けものの季節。砂埃の季節。乱暴者の詩人の季節。陽気の今日はいつもの格好で外を歩いていたらどんどん汗ばんできて、マフラーをふりほどいた。

春 将来の夢はえんがわ炙り寿司 うれしくてマフラーふりほどく
/佐倉誰「窓を割る」

これは一年前の自作。この一首が思い浮かんだとき、交差点をななめに渡りながら私は本当にマフラーをふりほどいていたし、本当に回転寿司の炙りえんがわになりたかったのを覚えている。一年続けた仕事を辞める直前か辞めたばかりで、未来は暗かった。将来の展望がなく、しかし、信号に急かされて駆ける足取りはかえって軽かった。私は昔からあまり変わらない。変われていない、と言ったほうが正しい。計画性に乏しく、破滅的で、季節しか愛していないところが。後日この歌をごく少人数のzoom歌会で出したとき、好きな歌人の方が炙りえんがわは自分の好きな寿司ネタだとおっしゃっていて、こころがふわふわと弾んだ。すこし焦げて香ばしくなった甘い味噌だれと、あぶらっこいふるふるした白身の、全体的にあまいお寿司。季節や炙られたお寿司のように、私も歓迎されたい。歓迎される存在になりたい。そのための努力が、これほど難しくなるとは。

CM
明日が発売日の「現代短歌」2024年5月号のアンソロジー企画 "Anthology of 40 Tanka Poets selected & mixed by Haruka INUI" に、霜柱標本室の両名が参加させていただいています。既発表作からの自選短歌10首と小文が読めます。

https://gendaitanka.thebase.in/items/84181163
CM終了

CM後日談
乾遥香と瀬戸夏子の対談や他の方の寄稿作品をまだ読めていないので、あくまで現時点での所感にはなるのだけど。短歌と向き合う上での気持ちの逃げ場がなくなって、ある程度腹が据わってからこういった企画にお招きいただけたのは、臆病で怠慢な私にとっては率直に言って幸運だったと思う。もう少し昔だったら怖がって依頼を断っていたかもしれない。腹が据わってきたのがわかるから乾さんも声をかけてくださったのだろうか。いただいたものをなるべく無駄にしないように、今後も精進していきたいです。
私には短歌より大切なものなんて数えきれないほどある。まず自分の命、それから他人の命、雨風をしのぐ屋根とお金、友達、 身内。でも、短歌より好きなものはなかった。好きなものと死ぬまで関わり続けられたら幸福だと思う。好きな人に似たい、憧れた人たちの面影を引き連れて死ぬまで歩きたい。私は敬愛する方々の魂の切れ端をぎっしり積んで運びまわる幽霊船だ。これを機に、紙の上や土の上でお会いできる日が増えたらうれしいです。もちろん雪の上でも。

すべての桜吹雪は不完全だからひとりのひととして立ち合った

 

仲井澪

2024.4.22

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山形市某所にいたリスです。逆側から撮らなかったのが悔やまれる……)

春、というか季節ごとの心身の変化みたいなものをあまり経験してこなかったのですが、今春は少し不穏な気がしています。今は19時前で自宅にいて、近所の学校のグラウンドから聞こえる金属バットの打球音が、トライアングルの音色みたいに感傷的に、フリスクを食べたみたいにスーッと体内を刺すように聞こえます。こういう感覚ってどちらかというと秋口だった気がするんですけどね。春の訪れも東京に住んでいた頃に比べて遅くなっているはずですが、時差と同じように、そこで暮らしていたら分からなくなるものですね。
一週間前くらいに、久しぶりに少し心配な友達に連絡をした挙げ句、「私は自分がしんどいときほど人のことを心配したくなるから、送ってしばらくして自分が調子悪いんだなって気づいたよ……」ってその相手に言ってしまって(必ずしもいつもそうではないのですが)、本当にどうしようもないなあと思いました。仕事もそれ以外のことも気分的に停滞していて、結局ほんとは全部向いてないんだよな〜となるけど、でも向いてなくても私が私の人生でやらないと意味がないことってたくさんあるしな……と、でもなんかもう23歳で割と十分やりきったかも……と、色んな気分が渦巻いています。


『現代短歌』のアンソロジー号、発売から1ヶ月以上が経ちましたね。まだ1ヶ月しか経ってないのか。他の人が短歌のことを話すのを見聞きする場所がTwitterに偏る時期が続くと特に、話題が移り変わるサイクルがものすごくはやいように感じます。自分の告知ツイートでは「逃げ回るように変わったり面白くなったりするつもりです」と書いていて、その気持ちは嘘ではないんですが、3年くらいかけてやっと、この本の存在をじっくり現実として受け入れられるような気がする自分もいるんですよね。今、人々が「人それぞれ」と認識して、自分に合う程度を探っていくべきことの上位に、「物事を受け入れるスピード」があるんじゃないかと私は思っています……。
というのは一旦置いて、ひととおり読んだ今の雑感を書きます。
・まず、「乾さんがこの人を選んだんだ」ということ、「本人的には(あの歌を外して、この歌を入れて)この10首なんだ」ということ、コメント・略歴……と一通り読んで、(誌面の構成上目立たないけれど)「この人にとって自分の短歌はこのタイトルにグレーズされて都合が良いんだ」ということ、 etc...... 自分が参加者の一人だったことも踏まえて、結構色んな楽しみ方の段階があって面白かったです
・はだしさんが一番最後なのが、ほんとにこの特集の良さをグッと引き上げている気がする……短歌を読んでいて、”余裕感”みたいなものでこちらの力も抜けて泣きそうになる、みたいなのは初めての経験でした
・対談は、この雑誌を読む層の大半にとって「乾さんのスタンスと自分のスタンスの共通点、相違点を考えながら読む」みたいな感触になってるのかなと思っていて、私としては、乾さんが年齢とか”世代”にかなり拘っているのは結構共感寄りの部分で。この世代でこのコミュニティにいてこういう位置取りをしたんだ、みたいなことを考えるのが楽しいのもあるし、自分と近い世代なら尚更、今のうちに高い解像度でその辺りを見てたらあとで知識としての価値は上がるだろうし。あとは短歌歴に限らず、これくらいの期間人生をやってきた人がこういう短歌を書くんだ、みたいな読み方も自分は結構するな、という(乾さんがおっしゃるような「年取ること好きだし、」(p72)とかは別にないにしても)。それでいうと、自分より下の世代に、この雑誌でまだ拾われてない(でも「私が入ってるなら入っててもいいんじゃない?」とも思う)、アツいシーンがある雰囲気を今年に入ってからは特に感じていて、「下の世代……」と思って眺めている分にはなんとなく歴史的な掴みどころがありそうな気がする(別に早くそこを誰かが整理しないと、とかは思わないけど)、みたいなことをうっすら思っています
・一方で個々の歌の読みとか、作者のスタンスの受け取り方みたいなところは、自分と結構違うなと思います。特に、p20-21に見開きで載っている

タクシーを使いこなしている母と祖母を誇りにぬけるトンネル
/水沼朔太郎「2n+1」

リンス・イン・シャンプー 院進か就職か 全身点滅してる信号
銀杏は道に落ちなければいいのにな 法学部出身の好きな人
/由良伊織「友好」

に対して、

乾 (由良の)〈銀杏は道に落ちなければいいのにな〉とかも手ぶらすぎる。世代感としてはこの書き方に、自分とつながるところも感じるかな。
瀬戸 〈院進か就職か〉と〈母と祖母を〉もつながって見える?
乾 つながって見える。つながって見えて、ここではふたりを並べてあるということです。

っていう言及がされているんですが、個人的には由良さんの書き方は、「パーソナルな部分の開け渡し方を短歌のために調整している」というよりも、「パーソナルっぽい言い振りも含めたフレーズのカードの中から面白い色の短歌を作ってる」みたいに読みたい気がして(「手ぶら」の意味をあんまり受け取れてないだけで微差なのかもしれないですが)。それこそ序盤で言われてるようなテクスト読み……みたいな話にも重なると思いますが。(また別の話として、由良さんへの言及もっとたくさん読みたかったなというのもあります。)


こんなに長く書くつもりはあまりなかったんですが、かっこも多用して読みづらくなり、ごめんなさい。
後半は夜21時、コインランドリーで乾燥を待ちながら書きました。眼前のでかいランドリーたちの緑のライトが同じリズムでチカチカしているのを眺めて、「ドット絵GIFみたいだな……」と思いました。思いながら、私が短歌で好いている部分のひとつってそういう、現実感とキッチュさの間の揺らぎみたいなところかも、という気がふとしました。

にがい光、からい光が降ってきて目も口も閉じながら笑った

2024.1.23〜2024.3.10

佐倉誰

2024.1.23

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。元旦は能登地震と全く関係なく沈鬱な空気でしたがおせちを食べて、腕と箸を伸ばせるだけ伸ばして黒豆をつまみながら「遠くの豆やなますを」(a.k.a服部真里子)と内心つぶやいていました。あんまり面白くないのでここで供養しますね。

すこし前に髪の毛を男の子みたいなベリーショートにしました。耳が寒くてかないません。今日一緒に歩いていた人がエレベーターを待つ時間に私の横顔をしげしげ眺めて「外国人みたい」と褒める意味合いで言ってくださったのが印象深く、複雑でおもはゆかったです。

 

CM

里十井円さんからのお誘いでロリィタファッションと屈折した自意識に関するエッセイを寄稿しています、最近刊行されたばかりです。

「羽衣手帖」 | 000sat0i000

CM終了

CM後日談

手放した宝物と自分のセクシャリティとそれに伴う後ろめたさを少し開示したので、書く前も最中も提出した後もそれぞれ苦しかったのですけど、かわいい服とかわいい服を着ている女の子を目の前にすると跪きたくなる性分の私だからこそ、書けてよかった文章だと思っています。機会を与えてくださった里十井さんには頭が上がりません。どうもありがとうございました。

 

献血したいと長いこと思ってるのですけど一生できる気がしません。私は痛苦の感受性が高い痛がりの怖がりで、普通の採血でもかなり苦手なので太めの針を体に刺したまましばらくじっとしているのは難易度が高いです。貧血にもなりやすいし。ただ、去年の夏に池袋駅地下の小さい献血会場で会場外の丸椅子に座って、職員の方からいただいたクッキーを食べて、友達から貸してもらった買いたてほやほやの雑誌(歌壇)を読んで友達の採血を待っていた時間は、ものすごくよかった。人のよさそうな職員さんに「暑いところですみません、あいにく中の待合室がいっぱいでして」と謝られながら紙パックの甘すぎるミルクコーヒーとかももらって飲んでました。あなただって暑そうなのに。微妙に薄暗くて蒸し暑くて空気がこもっていてあまり快適な空間とは言えなかったけれど、だからこそというか、小学生に戻ったような心地よい無力感といただいたものへの愛でいっぱいになって、なんだかすごく温泉みたいな良い時間でした。献血会場の案内の人を街中で見かけるたびに思い出します。それからは特に「献血したいなあ」の気持ちをやんわり抱えて過ごしているので、向いてないとしても死ぬまでに一度は。


前々回の弊日記(弊日記?)に載せた仲井澪の短歌がajiroでの起き短イベントで我妻俊樹に紹介されていて嬉しかったです、嬉しかったですね。飛び上がっちゃった。

サンタさんスケートリンクにある広告を全部蛾の写真にしたいの

/仲井澪

いい歌。好きな歌の読みを好きな評の人たちから聞けるって本当に贅沢だなあとつくづく思いました。歌会が恋しくなってしまう。

 

甘いものが大好きなんですけど、父方も母方も糖尿病の血筋なのでちょっと目の前が暗いです。あとコーヒーも大好きで、コーヒーが飲めなくなると創作に甚大な支障が出るに違いないので逆流性食道炎も恐れています。健康に気をつけたいです。必死です。

「よいお年を」って年始こそ言うべきじゃないでしょうか。よいお年を。

探偵は移植され名探偵に この世をものともしないのでした

 

仲井澪

2024.3.10
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。とっても遅くなってしまってごめんなさい。
年明けから仕事の都合で2ヶ月間東京近郊にいて、山形の家に戻ってきて1週間です。暖冬の影響もあり、年内はあまり雪が降っていなかったのですが、戻ってきたら3月なのに結構しっかり雪が降っていて驚きました。雪の降るところに住むのは初めてなので、色々と発見があります。住む人たちが早朝に粛々と雪かきをする姿の中には怒りが見える。地面や植物の起伏にそってぼこぼこ、ところどころ地肌を見せて積もっている雪はフォカッチャに似ている。神社の隅には松の葉混じりの雪塊がある。大通りでは煙草の火消しに使われている。今朝は快晴なのにどこからか、ちらちら舞ってきていて、天気雪もあるんだということを知りました。霜柱を見るという目標は叶わずに冬が終わってしまいそうです。

佐倉さんが献血について書いていたことを全く意識しないまま、私は2月に初めて献血をしました。友達が献血関連の仕事(変な書き方になってしまった)をしていて、その友達とご飯に行った次の日に、たまたま献血ルームが目に入ったのでなんとなく吸い込まれてしまいました。血は水分だから、脱水を防ぐために抜く前と抜いた後にたくさん水分を摂るように言われて、紙パックのお茶とアセロラジュースを飲んで、500mlペットボトルの水を貰って帰りました。色々ともてなされるというイメージだけはあったんですが、それは主に水分で、必要なものだったんですね……。どうやら日本一狭い献血ルームだったらしく、私の縦幅と横幅でギリギリくらいの、ベッドとも言えない台で手足をグーパーしながら、献血をモチーフとしたゲームのことを妄想したりしていました(街を歩く人々が、人型の血の容れ物として動いていて、頭上に血液型が書かれていて、必要な血を持っている人の頭を掴んで献血ルームにドロップする、など)。献血が趣味みたいなこと言う人って変だなあ……やってみたけど分からなかった、素晴らしく褒められるべきであることは確かなんだろうけど、すごく不思議だなと思いましたよ……。

『羽衣手帖』、拝読しました。全編とても熱がこもっていて、私も自分の服に対する気持ちを語りたくなったし、宇都宮のオリオン通りにあるAngelic Pretty やラフォーレの地下を肩をすくめてぐるぐるしているときのことを思い出しました。佐倉さんの「鏡像に紅」は、服のディテールの描写がすごく巧くて脳が整いました。わがままだけど、もっと読みたい!

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2月はお互い、誕生日おめでとうございました。友達に頂いたレゴの花を昨日組み立てました。生花は生花の、レゴの花にはレゴの花の良さと怖さがあるなと思いました。

花の水まいにち変えなきゃいけないのってよく分からない暖冬の汗

2023.12.23〜2023.12.30

佐倉誰

2023.12.23
ミスタードーナツの看板の英字が点灯する瞬間を見れたのでこころが少し上を向きました。日記を書きます。
 
暴力のことを絶えず考える日々が続いている。自分が消費側に立っているとき、生産者の罪は「消費者がこれまで享受してきたものと矛盾している」ときだけ致命的になると思う。だからたとえば一人のアーティストが違法薬物所持で逮捕されたとして、誰も加害していないその人の楽曲に規制がかかるのはちゃんちゃらおかしいと感じる。これが仮に、同じアーティストであっても罪の種類が未成年への性犯罪で、制作している楽曲が主に未成年の少女設定のアイドルたちが歌唱する自由や夢や希望についての音楽だったとしたら、規制されて然るべきだと思う。作り手の実情と制作物とが完璧に矛盾するからだ。作品に罪はある。
私の感覚の話でしかないけれど、仮に上部の人間が殺人を犯して逮捕された飲食チェーンがあったとして、すでにその人物が裁かれてるなら私は変わらず利用するだろうと思う。でも、企業が現在進行形で殺人に加担し続けているのを知りながら利用するのは共犯関係になるから嫌。この場合企業が大きければ大きいほど自分の口に直接入るものとの関係性は遠く感じるから、個人でどう線引きするかは自由だと思うけど……。そういった裁判を生活しながらいちいち個人の内で繰り広げないといけないのは、当然ではあるけど普通に大変だし厄介だなと感じる。それを他人に説明する場面なんかあったらなおさら。
暴力の話の本題に移る。私が映画鑑賞に苦手意識を持っていた頃に映画好きの友人が一緒に観てくれて苦手意識が払拭されたから、タランティーノ監督のいくつかの映画作品に特別な思い入れがあって、短歌連作のタイトルにしたこともある。以前日記でそのことに言及したから、ハマスと交戦中のイスラエル兵士を軍事基地で直接鼓舞した当該監督について説明する責任があるかなと思ってこれを書いている。ある物語を愛好している人がその作者のプロフィールや背景や思想を必ず把握していなければいけないとは全く思わないから、知らずに好きでいた時間を恥じることはないのだけど、この先改めて視聴することは絶対に無いだろうなと思う。知ったあとの私は制作者と共犯関係を結びたくないからだ。物語で展開される鮮やかな犯罪行為や復讐劇は痛快で、私たちの胸を晴らし、ときには勇気づけて生きる気力を与えてくれる。それは「現実の暴力を肯定しているわけではない」という当たり前の前提を作り手と観客の間で共有しているからできることのはずで、本気で人間を殺してもいいと考えている人の描く暴力描写には一銭の価値もない。暴力は暴力を否定する人にだけ描く資格がある。
私はどちらかといえば暴力と縁遠くない人生と性格で生きてきたので、今後の人生で何度比喩表現でなく他人に殴りかかるかわからないし、この文章も読む人が読んだら心底馬鹿馬鹿しくて鼻で笑われると思う。だからこそ書く必要があった。自分の加害意識に気づくことと開き直ることは違う。私は自分の味方含めて、なんなら味方であるほど強く、人々を例外なくすべて憎んでいて、なるべく直接暴力を振るいたくて、壊れる余地があるものは全部壊したくなるのだけど、そういった直球の加害欲として立ち上がってくるものの根底にある目的や願いは破壊と真逆である場合がほとんどなので、感情の解像度を早急に上げなくてはいけなかった。殴ってはいけないし殺してはいけない。暴力を振るえば絶対的に私が悪い。衝動に身を任せた暴力は非常に爽快で気持ちがよく、その気持ちよさはこの世で最も軽蔑されるべき憎むべき快楽にほかならない。限られた環境の赤児以外が愛だけで生きることはきっと不可能で、直視すれば気の狂うことで世の中が溢れかえっていても、深い恐怖や怒りにはきっと正しい矛先と落としどころがある。
尊敬している人たちの真似をして、できる限り正しく生きたい。私が傷害罪でしょっ引かれることがあったら絶対に皆さんで後ろ指さしてください。約束ですよ。
 
私が“公開交換日記”と謳いながら日記上で会話のキャッチボールが少なかったのは、他人とのコミュニケーションが苦手だからという身も蓋もない理由だけでなく、感情がいちいち重い自覚があるので第三者に見られるのが普通に照れくさかったからでもある。でも今回は一年経った記念ということでしっかりお礼を書き記して表明したいと思います。
 
澪ちゃん一年間どうもありがとう。あなたの人生の充実を心から応援し、生活の喜びを心から言祝ぎ、精神の安寧を心の底から祈ります。今年は私に余裕がなくてできなかったことばかりで申し訳ないのだけど、来年は喫茶店でも居酒屋でも植物園でも美術館でも春夏秋冬の公園でもどこでもよいので、落ち合って楽しいことをしましょう。佐倉誰は仲井澪を信じ、敬愛し、託し、支持します。もったいぶって大袈裟なことを書いたけれど、これまでずっとやってきたことです。この先もよろしくお願いします。

マフラーの下には首ったけの首 聞くより見たほうが早いかもね
 

 

仲井澪

2023.12.30
2週間くらい前、大好きだったマムアンというキャラクターの作者が、女性に性的暴行をしていたというニュース(本人も事実と認めて謝罪しているが、日本のメディアでは記事になっておらず、日本に向けた本人のSNSでもなにもコメントが出ていない)を知って、私はすごくショックを受けていました(います)。マムアンがのびのび動いて人生をエンパワーしてくれる「女の子」のキャラクターで、佐倉さんが書いているような矛盾が、作者の在り方と作品の間に生じているということも、ショックが大きい要因だったのだと思います。それに加えて、今回の件で「私はここまで思うタイプだったんだな」と気づいたことなのですが、非倫理的なことを(思考に留めるのではなく)行動に移してしまうくらいの人物の作品であれば、知らずに享受していた私も、無意識にそのエッセンスを取り入れてしまっているのではないか、みたいな恐怖や、なんで感知できなかったんだろう、みたいな自分への呆れがありました。それは実際に切り取って論証できるような要素でなくても、です(同時に、私は別に潔癖ではないから「よくないことをいっぱい考えるけどよくないことと分かって踏みとどまる」ことができる作者の作品がきっと1番好きだし、じゃあ思考と行動の距離ってそんなに遠いの?とか、倫理/非倫理の境界ってそんなに強固なの?とか、ぐるぐる考えもするのですが)。これくらいのことを思う消費者がいることを作者は分かっておいてほしいし、自分も分かっていなければ、と思います。

イスラエルによるパレスチナ民族浄化に抗議します。読み進めている『イラン・パペ、パレスチナを語る─「民族浄化」から「橋渡しのナラティヴ」へ』を帰省先にも研修の宿泊先にも持っていくことにしています。歴史はかなり苦手ですが理解しやすくて読みやすいです。スタバやマック等は意識して買わないようにしているのですが、先日プレゼントとして受け取る機会があり笑顔で受け取ることしかできませんでした。山形だと代替できるお店が少ないこともあると思うし、他の面でも社会運動の資源の地域格差みたいなことをよく考えていました。
仕事に関わる勉強でセルフケアについての本を読んだりするのですが、本当に心と体を気づかうための心持ちとか行動として書かれているものなかに、世界でこういうことが起こって、とか、自分はこういうスタンスでいないといけなくて、みたいなことがないことになってるんですよね。でも、心身に負荷がかかって苦しんでいるたくさんの人と接している臨床のカウンセラーが書いているからこそ、そういう内容になるのはそりゃそうだし。なんだか私はどこかで、個人が矛盾に苦しむことなく健康に生きられるための指針を、生きていればワンセットでインストールできるんじゃないかみたいな呑気な意識があって(それが恵まれて育ったからだということは当然今はわかるのですが)、実際には、それを信じているひとりひとりが用意した膨大なものから、選んで身体に詰めていくしかなくて、結局どうバランスを取るかなんて教えてもらえなくて、それに加えて選べるものの何倍もコントロールできないことがあることに、いまだに全然ついていけてなくて。だって難しいですよね、みんな難しいって思ってないとおかしい……結論はないんですができることをしながらしばらく生きる想定でいます。

佐倉さん、一年間ありがとうございました。佐倉さんと交換日記を始めることができて、一年間続けることができて本当に幸せです。佐倉さんの文章はヒリヒリドキドキもするけど私にはとても安心して読めます。これからもできるだけ続けられたら嬉しいので私も頑張ります!よろしくお願いします。そして、2024年は絶対に北海道に遊びに行きます!今決めました。旅行記をここにも書くので待っていてください!生きて会いましょう♡

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音が大きい音楽のひとはみんなすぐ子宮とか言う 白くないのに

2023.10.21〜2023.11.9

佐倉誰

2023.10.21
本当にご無沙汰しています。前回の仲井澪への応答として、毎月更新は義務ではないのでのんびりやりましょう、の表明のために少し日をあけて書くつもりが、今度は私が書けなくなりました。
夏の間、東京ですこし働いて、10月に札幌に戻って来ました。振り返って、月日の経つ速度に驚いています。「幽霊には足がない」とは目撃者の証言ではなく、幽霊本人の体感による証言だったのではないかと思います。今、接地する足の感覚がありません。私は永遠に生きられる幽霊のような気で、めまぐるしい時代の風をごおごお浴び続けている贅沢者かもしれません。贅沢者?そんな上等なものでなく、きっとこの風は潮風と成分が似ているから、浴び続けていたら髪も肌もぼろぼろになるのではないかしら。ニベア塗っておかないと。みんなはどうしているのだろう。
東京ではエネルギーに満ち溢れている人、自分のやるべきことを見つけてこつこつ頑張っている人、努力が認められている人、無気力な人、焦ってる人、いろんな人に会いました(嘘かもしれません。ひとりかふたりの人間を多面的に眺めているだけかもしれません、自分自身も含めて)。人に会ったり、友達が忙しなく仕事する後ろ姿を眺めていると、これが時代か……と、ぼんやりながら掴んだ気がします。昨今のブームの文脈だけでなく、歴史には常に内側に動かしている人たちがいるということです。私が世界から必死に目を背けてうつむいている間にも、ずいぶん楽しいことが起きていたみたい。嫌なものを目に入れないようにして、取りこぼしてきたたくさんのもの。常に誰かが短歌の話をしていて、誰かが歌集を新しく出していて、今発表する人たちには今発表するだけのそれぞれの理由があって、私の手が伸びるのはその中のごくひと握りでしかありません。地球上には同じ時間が流れているのに、どこもかしこも入ってゆけない大縄とび状態になるのは変で、こんな話も陳腐でいやですね。あまりにめまぐるしく感じたから休むために札幌に戻ってきたのかもしれません(これは明確に嘘です)。耳があつい。わたしはお尻を叩かれた馬。陰鬱な馬。
最近の札幌は雨続きで寒いです。空気が冷たいほうが清潔な印象を受けるのは冷蔵庫のイメージ由来でしょうか。冷蔵庫の中だっていくらでも不衛生にできるのですけどね。

あかるくて冷たい月の裏側よ冷蔵庫でも苺は腐る
/平岡直子「みじかい髪も長い髪も炎」

この歌を思い出しました。ついでに3年前に私が苺を腐らせたときの画像を添付しておきます。腐らせたというか、カビが生えています。苺は悪くなってもビジュアルが毒々しくてかわいいです。
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仲井澪の書いた人生初の小説、楽しみにしてます。文芸同人誌「nakanzukus」vol.01で読めるらしいので、皆さんもよろしければぜひ。
頭がどうかしそうなほど嬉しい近刊情報が続いていて頭がどうかしそうです。クリスマスですか?私もぴかぴかのオーナメントになれるように頑張りたいです。

生き延びて野菜やヤクルトすくすく摂ってまた会えたら新宿紀伊國屋

 

仲井澪

2023.11.5
お久しぶりです。この日記は、LINEに「日記」という自分だけのトークルームを作って、そのノートに書き溜めているのですが、しばらく動いていないトーク画面を開くために、トーク一覧をスクロールするのってすごく ウ〜 ってなる作業じゃないですか? ウ〜 と思いながら余計にたくさん遡っていたら、去年の9月に作られた「涙」というトークルームが見つかりました。泣いたときに泣いているスタンプを送って、自分の泣きの頻度を記録するという趣旨のものだったんですが、去年の12月が最後の更新になっていました。せっかく飲まれても記録しようと思うくらい冷静になってしまうのは辛くつまらないことだから、よかったですね。ね。

東京での生活、お疲れ様でした。東京って、たとえば自分がすごく苦しいときに身を置くと、苦しんでいる人しか目につかないくらいに人がたくさんいるから、色んな人の姿が見えたということを聞いて勝手に安心しました。

触れてくださったように、私は最近、依頼をいただいて小説を書いていました。内容を考えるのも文を飾るのも直すのも、なんかずっと嘘をついているようで結構辛い作業でした。繰り返し読めば読むほど自分の作品の良し悪しが分からなくなるのは短歌も同じで、でもそれは勉強することによって克服されていくと思うのですが、小説でそれを克服するまでにはどれくらい労力がいるんだろう、と思うと気が遠くなりました。向いてないんだと思います。でも小説を読むときの楽しみベクトルが増えたし、経験としてはとても良かったです。これからまた書きたくなる人生になったら面白いなと思います。なんかネガキャンしてしまってる気がしてきましたが、全力は尽くして書いているのでぜひ読んでください。短編なのですぐ読めるはずだし、なんだかすごいメンバーです(11/11 文学フリマ東京T-43『nakanzukus vol.01』)。
文フリでは創刊号から参加している『コミュニカシオン』の2号で短歌の方の新作も出ます。私も当日参加します。怖楽しみ。

今、モスバーガーでてりやきバーガーを初めて食べたところです。山形駅前にはマクドナルドがなく、ロッテリアモスバーガー×2があります。良い街です。

サンタさんスケートリンクにある広告を全部蛾の写真にしたいの

 

佐倉誰

2023.11.9

張りぼての二十歳のわたしが振り返る 孤独はもっとずっと低カロリー
/北山あさひ「ヒューマン・ライツ」
※二十歳に「はたち」のルビ

北山あさひ第二歌集発刊の告知ツイートで見かけてから、ずっとこの歌の下の句が頭から離れなかった。

私は20代前半で、生まれてからずっと北海道に住んでいて、片親育ちで、今年の初夏から秋にかけては「自分はこの先一生、肉親を含む他人と寄り添って生きることなんて到底不可能ではないか」と思い詰め、恐怖と不安と後悔で破裂しそうだった。実際破裂していた。だから、同郷の女性歌人で、両親の離婚を詠んでいて、現在40歳頃である筆者が発表した当該歌を、未来に絶望している真っ只中である自分の状況に照らし合わせて読んでしまったのも無理はないと思う。お金を一銭も払っていないのにわたし宛にオーダーメイド短歌が届いたのかとすら思った。

それから、私はネットカフェのぺらぺらのブランケットにくるまりながら呟いた。孤独はもっとずっと低カロリー。少しの期間母が一人で暮らしていた家の、こざっぱりした台所や浴室を見て呟いた。孤独はもっとずっと低カロリー。いちいち覚えていられないくらい至るところで呟いた。ほっそりと立つ一首が、短い日本語を組み合わせた一文にすぎない短歌が、無力なまま、私だけの杖になった。
 
感情的になりすぎているので、少し離れたところから眺めて冷静になろう。


人間が子どもから大人になって年老いていく過程を想像するとき、私の脳裏に浮かぶのはサルがヒトに進化していく過程の絵だ。脳味噌の容量が増えて大きくなっていく頭蓋骨の断面と、四足歩行のサルが前へ進みながら徐々に背筋を伸ばし、体毛が薄くなり、最終的にヒトになる姿を、横から見た図。その構図に現代人の一生を当てはめると、四足歩行の赤ん坊から二足歩行の子ども→青年までが背の順で、最後は腰の曲がった老人に向けて徐々に背が縮む、ゆるやかな山の形を描くガリバートンネルのような側面図になると思う。
この歌は違う。筆者の現在の年齢が前情報として無くとも、下の句の呼びかけや二十歳を「張りぼて」と潔く言い切る含蓄から、年長者が年少者に向けて言葉をかけていると推察できる。つまり、年少の自分が未来の自分の背中を追っているのではなく、未来の自分が年少の自分を背後から見つめている。確かに、現在の自分の地点から見渡せるのはいつだって過去の姿であり、未来の自分の姿なんて後ろ姿すら覗き見できないほうが理にかなっている。この上の句によって、未来、あるいは死へ向かって脇目も振らず前進していくことしか許されないような「人間の一生」のイメージ図の固定観念にメスが入った。一列に並んで目の前の背中とにらめっこしているより、よっぽど視界がひらけている。同時に、若く・弱々しく・薄っぺらい自分の過去の姿を、成人式の豪奢な振袖などを想起させる「ハタチ」の輝かしい響きごと、「張りぼて」だと力強く斬り捨てる。そこには確かな愛憎が込められている。“結婚や子育てなどのライフイベントが発生する人生こそが理想的である”と讃えられ市民権を持つ現代社会への怒りと、その社会を内面化して孤独をひどく恐れている若年の「わたし」への苛立ちと、そんな「わたし」へエールを送りたくなる今の親しみと愛情が、「張りぼて」の一語に詰まっている。

しかし、遠くから声を投げかける自分は、「孤独は恐るるに足らない」と無責任に励ますのではない。孤独は、あくまで「思っていたより低カロリー」だったに過ぎない。ダイエット中に食べるコンビニの新製品のように、ちょっとふざけた口調で若輩者の自分のみならず現在位置の自分の不安も軽くして、軽くしただけで、それでも絶対に、ゼロカロリーにはならないのだ。北山あさひという歌人が語られるとき、ほとんど必ずと言っていいほど頻出する「力強い」という修飾に私が慎重になる理由は、こうした場面にある。もちろん大らかさも力強さも確かな魅力として存在し、必ずしも事後的なものではないけれど、それらは強大な無力感や諦念を踏みつけて立ち上がるために選び取られた、(たとえば私のなかで当該歌が紛れもない杖になったような、)ささやかな魔法なのではないか。
掲出歌の技術面に少し踏み込むと、「『は』りぼて」「『は』たち」「『わ』たし」のア行の頭韻で開かれた音が、「振り返る」のウ行に収束していくことによって、こちらに背を向けて前を向いていた自分が振り返って視線が合い、焦点が絞られる構図を韻律の機能からも支えているのがわかる。息を多く含むH音の繰り返しも、「(過去の自分が)振り返る動作」と「過去→未来の時系列の矢印」・「未来の自分が過去の自分へ向けるまなざしの矢印」が重なって動きに満ちている当該歌の風通しの良さとも一致している。下の句の「もっと」「ずっと」で重ねて強調することによって末尾の「低カロリー」に集中線が引かれ、若い自分の肩に置かれたもう一人の自分の手は一層あたたかく力がこもる。
一首を構成するこれらの技法の地道な積み重ねのように、力強さやユーモアとして手渡されているものは、選び取られた戦略のひとつだと思う。だからその覚悟が胸に迫る。生まれ持ったものだけでなく、傷つきながら必死で獲得していくものも、それこそ本当の強さだと思うから。
この歌集を今読めてよかったです。どうもありがとうございます。


ほとんどただの一首鑑賞になってしまったので完全に蛇足っぽいのですが、作ってからちょっと日が経っているけれど日の目を見なかった自作の短歌をここで出します。あと、最近は将来についてそこまで思い詰めてないので楽です。変な天気なので皆さん体調にお気をつけて。

こころにも増粘剤を織り込んでツアーガイドの旗があざやか
 

2023.5.8〜2023.6.13 (八往復め)

佐倉誰

2023.5.8
今月入ってからこっち、日記を書こうと思ってスマホのメモ帳に書き留めていたことは色々あるのですが、形にできないまま何日か経過して機を逸してしまう……ことの連続でした。簡単に振り返りつつ書きます。

・5/2
カリフォルニア檸檬さん主催の定期刊行短歌誌「エリア解放区」の私が寄稿している冊子が届き、誌面に載るのが楽しみな連作だった&他の方の作品もものすごく楽しみだった ので、うきうきしながら包みを開いて目を通した。嬉しくてウイスキーの水割りを飲みながら読んだら、油断してしこたま酔った。酔った勢いでずっと嫌われたかと思っていた友達に連絡を取って、一年ぶりに電話できた。嬉しくて東京まで冷凍のジンギスカンを送った。私の行動原理のほとんどは「嬉しくて」か「さみしくて」の二択だと思う。
・5/3
夜に深酒したせいで覚醒してあまり眠れず、二日酔いの手前くらいの気持ち悪さと動悸のなか寝返りを繰り返し、早朝6時前に素うどんが食べたくなる。近所の24時間営業のなか卯に行き、かけうどんを頼んだ。やさしい出汁が沁みた。刻みネギの水くささ(コンビニのキャベツとか特有のあの冷え冷えした臭み、なんなんでしょうね?)とか、もちもちの、ちょっと粉っぽいうどんを掬い上げて箸にかかる重みとかがやけに嬉しくて、うわーーこれ絶対日記に書こう、と思った。徹夜してふわふわの身体で入店する早朝のファストフード店はどうしてこんなに死後の世界みたいなんだろう。宿泊地を当日まで決めずに旅行していた友達から昔聞いた、深夜のなか卯に入店して気がついたら席についたまま朝まで寝落ちしていた、というエピソードをなか卯に行くたびに思い出している。わかるなあ。照明とか、流れている店内放送の音楽とか、妙に安心感があるんですよね。極楽と呼ぶには程遠いけれど、死んで無になる前に一度通過する安息の地、みたいな空気感があると思う。旅先で一日中歩き回ってくったくたで、最後に立ち寄ったなか卯で事切れるように眠ってしまうその気持ちも、どことなくわかります。でも店員さんに迷惑かけちゃ駄目ですよ。
私が住んでいるのは札幌のひなびた歓楽街で、駅前にはファストフード店やコンビニや居酒屋が並び、その裏道をちょっと歩けば今にも崩れ落ちそうなボロボロのラブホテルがひっそり構えている、埃っぽい街だ。人通りの少ない早朝がよく似合う。晴れているとも曇っているともつかない、中途半端な天気の日だとなおさら良く、今日がそれだった。まだ花の閉じているたんぽぽを見つけて、私のほうが早起きだ!と思って嬉しくて写真を撮った。
近所の木蓮を見上げて、胸のあたりがあたたかいな、と気づいた。心臓の後面が食道管と接しているから、心臓もうどんであたためられたのかもしれない、それにしたって、心臓に温覚はないと思うけど……。家族を起こさないようにこっそり帰って(私はオタクだからブリーフ&トランクスの「コンビニ」の歌詞の、「親が起きる前におうちに帰らなきゃやばい」のところを思い出して笑ってしまう)、眠った。
・5/4
丸一日費やしたのに就職活動失敗!忘れよう。
・5/5
霜柱標本室を最初から通して読み返した。自分の記憶よりもかなり頑張って書こうとしていたのが窺えて、だからこそ月によるムラっけが目立ち(今日がなにもかもの最終回で明日以降の自分は存在しない、くらいに、自殺企図ではないけれど、ギリギリの確信の下でものを書いたりしていた)、読んでいて暗澹としてしまった。仲井澪に半分場を任されている……という責任をここに来て再認識したので、もっと頑張ります。奇跡が奇跡でなくなるの、簡単ですから。

ここまで振り返ると、もうだいぶ手近な記憶になってきました。ゴールデンウィークでしたが、あまりレジャーっぽいことはしていません。あと二日分振り返ります。
・5/6
髪を染めて切りました。ピンクっぽい髪色とベリーショートにずっと憧れがあって、せっかくだから一緒くたに叶えることにしました。夕方に思い立って近所の店を調べて、空きがあったので即予約して向かいました。あまりに気持ちが沈んでいて暗かったので、外見から無理矢理清々しさを逆輸入する魂胆でもありましたが、初めて足を踏み入れる美容室の知らない鏡と向きなおって、ほんの少しだけ、 ああこれが“取り返しのつかなさ”なの? と、途方もないような心地になりました。染料を髪に丹念に塗りつけられている間、ツイッターで知り合った年下の男の子がおすすめしてくださった私小説を読んでいました。知らない詩人が肌で感じ取った海外の空気が、文字を介して薄まって、紙に刷られて薄まって、目の前が崩れかけの“取り返し”で泡々になっている私の薄い空気に、染髪剤の刺激臭と混ざりながら届いて、ちょっと気持ちよかった。私の頭のまわりをキャスター付きの椅子に座ったまま動き回る(こうして書くと衛星みたいだ)美容師さんに、読んでいる本が鏡文字ならちらっと目に入っても中身がわからないだろうか、とぼんやり考えた。
私は知らない人との雑談を嫌悪しているので美容室ではもっぱら黙りこくっているけれど、コミュニケーションを取ること自体を嫌っているわけではなくて、本当は“誰かと言葉が通じ合うこと”がそれだけでたまらなく嬉しいから、いわゆる「話題がない時にとりあえずで喋るつまらない話の代表」である天気の話が大好きだったりします。大抵の他人と気が合わないこと、どれだけ近しい人間でも絶対的に相容れない存在であること、真摯に伝えようとすればするほど遠ざかっていく大切な伝えたいもの、それらの難解さを傍に置いて、ただお互いが人間の日本語話者であることだけ確認し合うように交わされるシンプルなコミュニケーションが、ありがたくてたまりません。(晴れているね、とか、あたたかいね、なんて会話、植物だってしてるんじゃないかと思います。) 誰であっても人のことが嫌い、という気持ちと、自分の目に映る人間がことごとく好き、という相反する気持ちがどちらも強い熱量で同居しており、私の対人交流姿勢はややこしくなる一方です。初めて会ったばかりの美容師の手に、心の中では自分の髪の毛のみならず全身を信頼してあずけてしまっているように、こころの開き方が極端なのだと思います。懐いてしまう。できることなら私の人生に触れた全員に一人残らず懐きたいのに、そんなことは不可能だから、逆恨みして、願いも、願っている幼稚な自分自身も、虚しくてかなわない。
赤紫のニュアンスの栗色、みたいなよくわからない色に染まったショートカットはマニッシュな仕上がりで、私の顔にも存外しっくりきました。そのままなんとなく散財の気分になって、スシローでおいしいお寿司を食べて(玉ねぎがたくさん載ったアボカド炙りサーモンとカンパチが好き)、ずっと入ってみたかったバーに入って、何杯か甘いお酒を飲みました。いい気分になって、愛用のワイヤレスイヤホンを失くした。家でじっとしていたほうがいいのかしらね。
・5/7
水道水は飲んでも飲んでも喉が渇く。

私、日記書くの好きみたいです。自分がここにいてもいいのだと思える通貨が欲しいから、いい予感も悪い予感も抱きしめて眠ります。みなさんエリア解放区ぜひ買ってくださいね。

生年の近さは氷 頬を当てどちらが溶けてるのかわからない

 

仲井澪

2023.6.13
すごく日が空いてしまったんですけど、6月13日の日記です。
文章を書いたり短歌を作ったりしたいなっていう気持ちはありつつずっとできない日が続いて、でも書きたくないわけじゃなくて、書きたいし、日記の更新もしたいからどうしようかなと思ってたんですけど、文字で文章を書こうとするよりも、口でなにか話す方がハードルが低いなと思ったので、オートメモという文字起こしのアプリに話しかけて、それを整えようと思って話し……書き始めています。
前の前の土日に、東京に住んで東京で働いているお友達と、青森旅行に行きました。私が文フリで昔販売した『青森旅行記』というエッセイ本を読んでくれた方ならわかると思うんですけど、青森は私にとってすごく思い入れのある場所で……その、1人で1回行った回が良すぎて。でもその時は本当に色々、すごく長く一緒にいた人と離れた後だったりとか、就活のことも一旦ほっぽって……だから大学3年の秋だったんだよな。一人旅で。本当に全てが良すぎて。北国だからひりひりできるかなと思ったのに、全然ずっと楽しくて、なんか結構、「生きていこう」になった旅行だったというか。
その旅行から今までの間、またいろんな人と仲良くなったり、仲良くなくなったりしつつ、就職活動を終えて、また青森に行けて。美味しかったリンゴジュースをもう一回飲んだり、良かった美術館にもう一回行ったのが、それを全部大好きな友達としたのが、なんか本当に激アツすぎて、ずっとジーンとしてましたね……。
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あとは、山形に引っ越して働き始めてからも初めての更新になると思うんですけど、全然まだ山形に住んでるという実感がないんですよね……。とりあえず一番嬉しいのは部屋の日当たりがすごくいいことです。あと、仕事で毎朝6時半から7時くらいに起きてて。今までは中学生くらいから夜にずっと眠れなくて、なんか3時4時まで起きてその後寝て学校行ってたりとか。だから、朝早く起きてるのに夜寝れないみたいなことが多かったんですけど、なんか急に眠れるようになって。睡眠時間が3時間以下の日が週1くらいのペースであったのに、今は毎日6時間くらい寝られてるので、それはすごく嬉しいです。
仕事のことも、私は本当にラッキーで、仕事を頑張ることが自分の人生を頑張ることに直結している気がする……?なんて言うんだろうな、仕事を頑張ることによってなりたい自分が、人生レベルで「こうありたい自分」像にかなり重なっているから、勿論大変なこともありますが、そんなに今のところは負担感はなくて。働き始めたら毎朝うつうつと一日を始めるんだろうなとずっと思ってたんですけど、本当に、淡々と元気ですね。今のところは。
佐倉さんの日記で、今までの回を読んで気合を入れ直してくださってるのが伝わっているところ、こんな変な形式で申し訳ないです。はやくグッと集中して文章を書けるリズムを取り戻せるよう私も頑張ります。
↓まだ関東で研修を受けていた頃に作った3首です。

あなたの指が私の耳をなぞる音が私にだけ響くのはこわいよ

あのことがあって私はこうなったって全部が分かりやすくあってね

冬の時代 癖字はくしゅくしゅ絡まって誰にも見せられないのに手紙 

2023.4.10〜2023.4.29(七往復め)

佐倉誰

2023.4.10
お互い新生活が始まって一週間が経ちましたが、いかがお過ごしでしょうか。今日は特に思い出になりそうな一日でしたが、今はまだ開示しきれないので一旦箇条書きに留めておきますね。忘れないように。時間が経ったらもう少し書くかもしれません。


・体調が悪すぎて職場の方に迷惑をかけてしまった。
・「どなたでも、いつでもご自由にお入りください」と書かれていたので、生まれて初めて無人の教会に侵入した。戸を開くと鮮やかでファンシーな外観から一転して木造で古く、一階の玄関は学校のようだった。階段を上った二階に礼拝堂があり、撮影可能だったので何枚か写真を撮ったものの、広く静謐な講堂に間抜けなシャッター音が鳴り響き、興を削がれる心地がした。異物であることを自ら強烈にアピールしてしまったようで居た堪れない。建物のどこにも誰もいないのに、人の気配が残っているみたいで不気味だった。祭壇に大きな花束が3つも飾られていて、ひとつひとつ控えめに嗅いでから祈らずに帰った(勝手がわからないので、お邪魔します、失礼します、だけは何回も口に出さず言った)。どきどきして何度も振り返った。

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・天気は最低気温が2度で最高気温が17度。暖かくなるのは構わないけどもう少しゆるやかにお願いできませんか、と思った。晴れていて風に緑の味がして、なんの捻りもなく緑茶を買って飲んだら空気の味によく似合っていた。
 
2023年3月27日がタランティーノ監督の60歳の生誕祭ということで、全国各地の映画館でパルプ・フィクションが期間限定再上映されていたのですが、あなたも含めてたくさんの方がこの機会に私の大好きな映画を鑑賞されていて、本当にお祭りでした……!私は映画鑑賞に長らく苦手意識があり、有名どころも全然把握できていないのですが、パルプ・フィクションは映画好きな友人が見せてくれて私の苦手意識を払拭してくれた作品の一つでもあり、とりわけ思い出深いです。良い画が多くて心臓が浮く、わかります!!個人的に、暴力描写がコミカルすぎないのにさっぱりしていて明るいところも大好きです。でも人がたくさん死ぬ映画に慣れていなかったら、確かにちょっとしんどいですね。
この機会に、連作のタイトルについて自註させてください。引いてくださった過去作「パルプ・フィクションを見なさい」は5首ごとに章題がついている25首連作なのですが、5つの章のそれぞれに繋がりはありません。好きなものを詰め込んだらおもちゃ箱みたいな連作になったな、という印象と紐付けて、時系列をシャッフルして進行するオムニバス形式である、私の大好きな映画のタイトルをお借りしました。詠んでいるモチーフは一切映画と関係ないのですが、その関係なさも連作の奔放さに合っているように思います。パルプ・フィクションはもともとアメリカの安価な大衆雑誌のことなので、雑多な内容や彩りとも合致するかもしれません。気に入っています。
あなたは連作のタイトルをつけるときに心がけていることや、なにかこだわりはありますか?もし特筆したいことがあれば教えてください(収録歌のなかから良さげなワードを持ってくる、のパターンが一番多いだろうとは思うので……)。

嗅ぐ前に一言花に断ればいっそうよい香りがするはずよ

 

仲井澪

2023.4.29
生活が大幅に変わって、もうすぐ1ヶ月が経ちます。毎日決まった時間に、決まったことをしなきゃいけない生活というのは、自分という起き上がり小法師を(自分という起き上がり小法師?)、うっかり起き上がれない方向や起き上がれない勢いで倒してしまわないように、いかに細かい揺れで抑え続けるかという戦いで、倒して、倒れてしまってからの戦いをすることと、どちらが辛いことなのかは測りかねますが、変な筋肉を使う日々です。
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佐倉さんが日記で引用されていた歌

過去にだれともであわないでよ
若いきすしないでよ
今 産まれてきてよ
/今橋愛

が心に留まっていて、先日、今橋愛さんの歌集『O脚の膝』(現代短歌クラシックス版)を購入しました。抽象的な表現ですが、私は1首のなかに”裂け目”が見える歌が好きで、特に、その裂け目の奥に主体の感情の渦を感じる歌が好きで、今橋さんの多行書きには、口調も相まってそういう効果があるよなあ、ということを思います。

27をかちりとすぎたら

僕はもう不平の数を少なくしないと。

手や足はしばられてない
今ここにいる。のにここに

どこにもいない

橋爪志保さんのこの歌とかも、同じような裂け目があって大好きです。

ヨドバシの前のみじかいエスカレーターかわいいな 忘れてしまう

また別の話ですが、現代詩の朗読をするときに、詩の途中の不自然なスペースや改行のところでちゃんと短い間を入れて朗読すると、テキストの意味内容も含めた裂け目を引き受けられる気がして、楽しくてすごく好きなんですよね。短歌は31文字1行書きだとひとつの字空けへの負荷がすごく高くなってしまうように思うけど、多行書きで細かい雪崩を作るのも面白い気がします。今橋愛さんの歌も朗読してみたいし、細かい雪崩のある短歌も作ってみたい。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
連作のタイトルについて、応答します。私は1首のなかの単語とかフレーズを引っ張ってくることはあんまりなくて(明確にメインの歌をつくることになるから難しい気がするので)、裏テーマみたいなものを含めて、全体の雰囲気を規定できるラッキーな場所、と思ってタイトルをつけていることが多い気がします。あとは、フェチい二字熟語を当てたい時期が長くて……「指針」(『Q短歌会』第4号)は、生々しさと鋭さがあるのが良いな、とか、「着信」(『Q短歌会』第5号)は着がなんとなくエロティックなのと、信じる、なのが良いな、とか、意味の上での良し悪し以前に使いたい単語のプールみたいなものから決めることが多かったです。色んな付け方してみたいですね……(^。^)

私たちのえたーなる・らぶは腐乱して冬に閉館した遊園地

2023.3.7〜2023.3.30(六往復め)

佐倉誰

2023.3.7
そのまま書いては芸がない。のだけれど、過剰に演出してもしらけてしまうし、正直すぎても引いてしまうし、当たり障りがなさすぎてもわざわざ読んでくださっている方になにもご提供できていない気がして申し訳ないし……などと、日記に関してぐるぐる考え込んでしまっていたのですが、あなたと交換日記を始めたての頃に「あまり気負いすぎても書けなくなるからほどほどに肩の力を抜いてやりましょう」という旨の話をしたことを思い出して、すこしガス抜きできました。日記の先輩の言葉はありがたいです。現実でよくないことばかり起きているのでなかなか生活の情報を差し出せないのですが……寝て起きたら右下の歯が痛くなっていて虫歯かもしれない、とか、それくらいしか。全然その人に興味がなかったとしても、見知らぬ他人が一日どんなことを考えながらどんなふうに過ごしていたのかを少し覗かせていただくだけで安らぐこころの部分があるので、自分も誰かにとってそんなふうになりたい……と思ったりします。
短歌の話です。昔はちっとも響かなかった作品の良さに時間が経って気付くこと、が今になってもたくさんあって、むしろ今私が良いなあと思う短歌のほとんどは短歌を始めたての頃には(信じられないことに)完全スルーしていたようなものばかりなので、これからももっとずっとこんな出会いが増えていくのだろうと100パーセント信じられるから、本当に嬉しくて楽しみでわくわくします。あなたの前回の日記の、

でも少なくとも、読まれることを覚悟した矜持があれば「どれくらい自身を賭けたり削ったりして短歌を書くか」ということに善し悪しはないと、今の私は(自分のためにも)思っています。
もし長い間離れたとしても、また作り始めれば眺めて、投げ返してくれる人が1人はいるだろうから、と思えるとき、短歌のコミュニティの、嘘でもはっきりと見える輪郭をありがたく思うのです。

の部分、とりわけありがたいです……短歌に限らず、特に文芸の創作活動全般は基本ひとりでするものですが、信頼できる別の価値観の他人の言葉や頑張りがものすごく支えになることは少なくないです。第三滑走路のYouTubeでも「一人でやり続けるのはしんどいから……」という話を#2あたりでしていて、あれだけしっかり連帯したグループでその話題が出ると説得力が違うなあ……などと思っていました。支え合って影響を与え合っているけれど、一人一人が自分の個性で戦っていて仲間に依存していないかんじが、見ていてめちゃくちゃかっこいいです。いいなあ。
それと、最近のことで言えばなにより、我妻俊樹第一歌集「カメラは光ることをやめて触った」の刊行情報が解禁されて大歓喜しました(ちょっと駄洒落っぽくなりました)。鍵のついてるツイッターアカウントでも大喜びを連投したのですが、本当に楽しみなのでここでもはしゃがせてください。
や っ た ーーーーーーー!!!!!!!!!✌️✌️✌️✌️✌️✌️✌️
今年の札幌は例年より雪解けが早くて嬉しいです。季節が大好き。季節のなかの私が大好き。一刻も早く卑屈な攻撃性を脱ぎ去って全部大丈夫になりたいです。

信じる。信じる。信じる。だけって芸がない、焦げた表紙がマシュマロみたい

 2023.3.10
今日は煙草の話をしますね。
私は元々喫煙者と言うほどでもなく、一緒にいる友人が吸っている時や喫煙席のある喫茶店でときどき吸うくらいで頻度としては半年に数回あるかないかだったのですが、ここ三日間は珍しく連日吸っています。長く期間が空く前の最後に吸ったのは去年の晩秋、平岡直子さんが「ジタン(フランスの煙草の銘柄)はとりわけいいにおいで煙もうすあおくてきれい」とツイートしておられて、煙がうすあおいなんてことがあるの?!!!♡と大興奮して久しぶりに煙草の箱を自分で買って吸ってみたのですが、思っていたより味が濃くて苦いし煙もありきたりに白いし(コンビニの白い明かりを頼りに見ているからかしら、と思って別の場所でも吸ってみたのですが、明るいところで見ても薄暗いところで見てもどこも青くなかった…)で本当にがっかりして、当時は一秒でも長く生きたい気分でしたし、「こんなもの吸ってもいいことがない」と一気に煙草全体の株まで下がりました。そこから喫煙者の友人に一人も会わなかったこともあり、もうこのまま一生吸わないんじゃないかしらとぼんやり思っていたのですが、3日前退勤直前に上司の方に厳しめに仕事の注意と人生への忠告をいただいて、はやく私の人生を取り戻さないと地に足つけないと他人に迷惑かけ続けてこのままではもろとも(もろともですよ)死ぬ………………とぐるぐる帰りながら3月8日の花屋でミモザを購入してその足で百貨店の喫煙スペースの順番待ちの列に並んで順番が来て入室して泣きながらコートのポケットに入れっぱなしだったジタンより軽めの煙草を2本立て続けに吸ったらこれがなんとまあおいしかったので、昨日も今日も吸っています。こんなだから地に足がつかないのよ。自分の信頼のなさについて毎日休みなく考えて、開示の先にある軽蔑への恐怖と新たな信頼の獲得のための地道な積み重ねとを天秤にかけて、服を着替えて髪を乾かして視線を下方に固定しながらも歩いて、この文章もぐしゃぐしゃと書かれている。平気になんてならないけど必ずなってみせますよ。
f:id:nakimusi_sak:20230402204251j:image
写真は今日飲んだ喫茶店アイリッシュコーヒーです。思っていたよりもウイスキーの味が強くてからかったのだけど、底の方に粒の大きい砂糖がじゃりじゃり溜まっていて、飲みすすめるほど甘かったです。
それと、チョコレートとウイスキーが合うように、煙草の苦味はきのこの山と抜群に合います。ふと思いついて試してみたら大成功で、年単位で久しぶりに食べたきのこの山が大好きになりました。コンビニで食べきりサイズのきのこの山たけのこの里の袋をそれぞれ買って食べ比べてみたのですが(大人になってよかったと本気で思いました)、きのこの方がチョコレートの主張が強いので合います。あとプレッツェルの歯ごたえが個人的に好みでした。(この日記を読んでくださっているなかに愛煙家の方がいらっしゃいましたらぜひお試しください。)(完全に蛇足ですが、どちらの方がおいしいか、の対立に“戦争”という言葉を使って面白いことかのように煽りたてるのはつまらなくて全然好きじゃないです。)
私は死への恐怖心が依然強いのでなるだけ長く生きたいのですが、昔ほど「誰よりも長く生きたい」とまでは思い詰めなくなってきたので、身体に悪くてもほどほどに楽しめるならいいんじゃないかしらと思い至りました。また絶対吸わなくなる予感がありますし。

春霖に湿りっぱなしのパーフェクト・ゲームでピンは愛で吹き飛ぶ

 

仲井澪

2023.3.28
どどどどっと暖かくなってきましたね。昨日東京で住んでいた家を出たので、今週いっぱいは実家で過ごします。2月から3月の間は、今後数年間暮らすであろう場所が決まったり、運転免許を取ったり、大学を卒業したり、東京を出たり、色んなことが起こっています。が、なぜか今はあまり浮遊感がなく落ち着いていられている気がします。昔から、周りの人やことが焦っていると落ち着く性質があるので、ここまで周りを巻き込んではっきり目まぐるしいと、調子が良くなるのかもしれないです。
今日は赴任先への引越し準備で、持っていく本と置いていく本を分ける作業をしました。歌集は特に悩ましく、途中でめくったりしてかなり時間がかかったのですが、結局ほとんど持っていくことにしました。短歌をはじめてすぐの頃、歌集の好きな歌に細長い付箋を貼りまくっていたのですが、佐倉さんも書かれていた通り、結構ガラッと好みが変わるものなんだな〜と、付箋を見てはっきり分かりました。
それなりに引越しをする人生になりそうなので、できるだけ本は電子で買ってゆきたいと思って少しずつ実践しているのですが、歌集は電子で出るとしても遅れる場合が多いから見計らうのも難しいですね……。もちろん、装丁や紙の質感を感じられないというデメリットは大きいのですが、どこでも参照しやすいし、テキスト検索できることもあるし、寝る前ギリギリまで読めるし、結構いいなと思っています。もし読者の方の中に歌集を出されていたり、出す予定のある方がいらっしゃったら、電子版の販売もご検討いただきたく思います。
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本当に大学生活・東京での生活が終わったんだよな……としみじみしたり、結局ふわふわしたりします。心を染め直してくれる人とたくさん出会ったり、出会いなおしたりできたし、自暴自棄の行き先にも恵まれていました。それでも別れたり、微妙な感じになってしまったりした人のことを忘れることは全然なく、最近よく思い出すのは、ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』に出てきたセリフです。

過去とか、未来とか、現在とか、どっかの誰かが勝手に決めたことで時間って過ぎていくものじゃなくて。場所っていうか、別のところにあるものだと思うんです。人間は、現在だけを生きてるんじゃない。そのときそのときを、人は懸命に生きていて。それは別に、過ぎ去ってしまったものなんかじゃなくて。あなたが笑っている彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑っているし、5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて。今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる。
(小鳥遊大史/『大豆田とわ子と三人の元夫(脚本 : 坂元裕二)』)

説教臭さを感じないでもない(実際若干胡散臭い登場人物のセリフではあった)のですが、妙にありがたみを感じてよく覚えています。私がよく言う(のです)、生きてたら会える!の意味がひろがる。
というか、私の日記も結構説教くさい終わり方をしがちな気がしてひやひやしてます。前向きな生やそう見える言葉ばかり称揚される世界をかなり憎んでいるのに、自分は奥底にかなり前向きなエネルギーがあると自覚していて、うっとうしかったりありがたかったりします:;(∩´﹏`∩);: いま私が快く接せているすべてのひとは、私がつらい時もそうでない時も変わらず優しくて、私がたのしい時嬉しそうにしてくれるんだということ……:;(∩´﹏`∩);:

背負います。深夜料金のカラオケ館であなたがくれた天使の羽根を

2023.3.30

こども110番の家の裏庭に密輸の首長竜がいる
/佐倉誰「パルプ・フィクションを見なさい」『北大短歌 第九号』

好きな歌です。パルプ・フィクションを観ました。今日はじめて、地元の映画館で観ました。普段ゆったりじっとりした映画しか観ないので(集中力がなくて映画自体あまり観ないのですが)、いろんな人が出てきていっぱい殺す(>_<)もうやめて〜(>_<)と思いつつ、良い画が多くて心臓が浮いて、今までなかった興奮の回路を開かれた気がして面白かったです。
煙草もたくさん出てくる映画ですね。私も少しだけ煙草の話を書こうと思います。身近には吸っている人がほとんどいなかったので触れる機会がなかったのですが、先月のはじめ、22歳の誕生日の前日にはじめて葉巻を吸いました。21歳お疲れ様会!と思って行った、ラム酒専門のバーのカウンターで、隣のお客さんがお裾分けしてくれました。「理科の実験で火傷して以来マッチ無理なんです……」と甘ったれたことを言って火もつけてもらって、他のお客さんがその画にゲラゲラ笑ってて、なんか漫画みたいで恥ずかしかったけど良い体験でした。普通の煙草はどうなのか分からないですが、とにかく定期的に吸って「火を育てる」んだよ、と教えてもらって、なるほどこういう時間の流れ方を楽しむもの……と、かなり納得しました。味も嫌ではなかったし、これはハマるやつだ……と思いつつ、佐倉さんと違って私はやめられる気が全くしないので自分で買い始めるのは絶対やめよう、と、初体験と同時に決意しました。

火を見ればどれだけ待っても待たなくてよくなる日は来ないことが分かる

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4月になりますね。私は就職をして住む場所も変わるのでしばらく落ち着かない日々になりそうです。でもこんな室(室?)があったら、心を殺せるはずはないから、心強いです。この日記を、短歌を、書けなくなるくらい蝕んでくるものからは逃げます✌️