世界を斜め下からながめてみるのも悪くないのです。

人とは違う感じ方。違うからこそおもそろい。

インクルーシブな教育とインクルーシブな社会のための教育と

インクルーシブな教育とインクルーシブな社会のための教育と。


自分のツイッターから引用。


いいたいことが散らかったのでまとめた次第である。


1.僕は自分が障害者として、地元の中学で障害のない友達と一緒に生活した三年間はとても幸せだった。環境にも友人にも感謝しかない。いけないと思っていた修学旅行もいけたし、いろいろなことを一緒に考えてくれることはとてもうれしいことだった。


2.それと同時に"一緒にやるのは難しい"があるのは事実だった。13歳の僕はどうやって一緒にやれるかを考えるより先に、"いかに自分に気をつかわずみんなが楽しめるか"を考えるようになっていった。


3.例えば体育の授業。みんながグラウンドに行くのを見送って、僕は保健室へ。そこでは漢字の宿題をやっていた。"僕も参加したい"は言えなかった。それは言いにくいとか環境云々の問題ではなく、"邪魔になるくらいなら見えないとこにいたい"っていう13歳の本音だったし、それが許されていたのはありがたかった。


4."自分が主張しなければ丸く収まる"

これは3年間で僕の答えになりつつあったし、そこに違和感も負担感もなかった。

自分の気持ちにまるで興味がなかった。

そんな余裕はなかった。"どうしたいか"より"どう見えるか"の方が重要だった。


5.友達の存在にすくわれた。ただ、僕と一緒にいる友達が影で"いい子ぶってる"とかいわれてるのに僕は気づいていたし、それに対して守りたいものを守るすべを当時のぼくは知らなかった。


6.そんなこんなで、三年間。"嫌われないこと"がテーマだった、三年間。それでも、幸せだった。当時の僕は自分のきもちを飲み込んでいることにすら気づいていなかった。

でも、楽しかったっていうのは間違いない。


7.進路選択。地元の普通高校に行きたかった。でもそれは言えなかった。周りの顔色を見て特別支援学校にきめた。

けっかおーらいだったけどね。

8.特別支援学校での3年間も幸せだった。

ぼくはこうしたい!を伝えることを学んだ。

自分の気持ちを飲み込んで社会とバランスを取ることよりも自分の気持ちをちゃんと伝えるほうがよっぽど難しいことだ。でもそれが共に生きるということだと思った。


9.つまり何がいいたいのかというと"インクルーシブな教育"と、"インクルーシブな社会にしていくための教育"ここにはちょっと違いがあると思う。障害は社会にあるのかもしれないけれど、幸せかどうかを決めるのは社会ではない。


10.だから周りから関わる人たちも含めて、本人といっぱいいっぱい考えて、最終的には"自分がきめた"って胸を張っていえるようであってほしいと思う。


11."思ったのと違ったから他の選択肢も試してみたい"っていうのを、肯定的に応援できる、そんな社会がいいなぁと。

今のぼくはそんな風に思う。


おわり。

"こなす"が"できない"問題について

f:id:nambucchi:20180323002439j:plain

今いる会社のビジョンが好きだ。


今の会社にいる人たちが好きだ。


何かしらの形で役に立ちたいと思うし、

自分に与えられた目の前の仕事をこなすことが今の僕にできる役に立ち方だと思っている。

自分のスキルとか強みとかそんなんは後でよくて、

"求められていることをこなすこと"なくして次のステップがないのは理解しているし、

だからこそやりたいか否か、にかかわらず"こなすこと"に専念しようとする。



が、しかし、いま、まさにぶつかっているのは、

"こなすこと""できない"問題である。



僕は車椅子に乗っているので歩けないことが障害なのかな、と思われることがあるが、それは間違いである。

"個人的には"(これ大事)歩けないことは別に障害でも何でもない。

目立つの好きだし。

僕にとってパーキンソン病という状況が僕にもたらす最大の障害は、体調の予測ができないことである。

今カラオケで飛び跳ねている2時間後自分で起き上がれず、息するのがやっとになってたりするリスクが常について回るのである。

この体調の日内変動が激しく予測が難しい、という状況は"ある感情"が存在するかどうかで生きづらさのレベルが桁違いである。

その感情というのは


"動けないところを見られたくない"


これだ。


常に動けなくなる可能性同伴のマイライフにおいてこの感情は非常にじゃまくさい。


人は得てして自分のいいところを見てもらいたいものだったりするものだから、しょうがないといえばしょうがないけれど、


本質を言ってしまえば僕はかっこよく生きていたいわけです。


だからこそ動ける時の生き生きしている姿でいたいって思っていたわけなのだけれど、


よくよく考えてみると、

動けるから生き生きしてるのと、

動けなくても関係なく生き生きしてるのだったら僕の思う"カッコいい"は圧倒的後者だったわけです。


単純なのよ。ぼく。


話は最初にもどるけれど

"体調が予測ができない"は働くのにさいして

けっこうハードモードなわけです。  


昨日できていた"こなすこと"が明日もできるかはわからないわけで。まーここまではしょうがないとして、"動けないからできなかった"は抗えないけれど、わかりやすいからよしとしてだよ。


ここからが、最近発見した、衝撃のびっくりサプライズなのです。


"うごけるときにできない"


ん?何なにそれ。ただのできないやつじゃん。


ざっくり説明すると、パーキンソン病は頭の中のドーパミンっていう体を動かす命令を出す成分が足りていない状態で、代わりになる成分を服薬にて補っているかんじなのです。

そんでもってこのドーパミンってやつが生意気なほど繊細ちゃんでございまして、ちょっとバランスが崩れると"集中"とかいう概念をどっかに忘れてきやがるわけなのです。


仕事において"集中できない"っていう状況に理解をえるのはこれまた修羅の道でござる。

"動けないからできない"✖️"動けるときは集中できない"


うん。君はなにができるんだい。


難易度鬼だわさ。わさわさ。


でも一緒に考えてくれる人がいて

自分とむきあうチャンスをくれることに

感謝しかない。


だから僕は"できない"を言葉にしなきゃいけないし、できるフリをしてる場合じゃない。


わかってるよ。だってそんなのカッコ悪いもん。


単純なのよ。ぼく。。





ちなみにぼくが感じてる動ける時のできなさがまんまこれ

https://h-navi.jp/column/article/279


仮説でしかないけどドーパミンが増えすぎて制御できない状態なんじゃないかなと思ってる。ちなみにちなみに僕の場合はこの、"読めない状態"の時に"読もうとすること"は死ぬほどしんどい。

伝わらないかもしれないことを伝えてみる話

伝えたいことはいっぱいある。

伝えない方がいいこともあるんだろうし、

伝わらないことが苦しいのを知っている



たとえばあなたが他人の悪口を言う。

ぼくはそれがすごく嫌だったとして、


それをあなたに伝えるのは

すごく苦しいことだったりする。


あなたは正しさを求めているんじゃなくて、

ただぼくに聞いていてほしいだけ。


"悪口を言うのは良くない"とか

そんなの聞きたいわけじゃない。


わかってる。

わかってるけども。


嫌なんだよ。

ぼくにとって大事なあなただったとして、

そのあなたが大嫌いな誰かだとしても、


ぼくがそいつを嫌いな理由を、

あなたのせいにしちゃダメなんだよ。


だからぼくは自分の感じたものを自分の言葉でちゃんと伝えなきゃいけなくて、


あなたが求めているものとは違うかもしれないけど、

ぼくがその誰かのことを嫌いじゃないなら、


"ぼくは嫌いじゃないよ"って

ちゃんとつたえなきゃいけない。




悪口ばっかのあなたのことは

あんまり好きじゃないこと。


これは言わなくてもいいことかもしれないし、


いったらあなたは嫌な気持ちになるかもしれない。


それでもそれを伝えるのは、


伝わらない苦しさより

なにも伝えないまま

少しずつあなたを嫌いになっていく方が


もっとずっと苦しいことを

ぼくは知っているからだったりする。

f:id:nambucchi:20180130222900j:plain

気を遣われたくないくせに、気を遣える奴でいたい。っていう話。

 

この世界を快適にやり過ごすためには

気を遣ったり、空気をよんだりといった

実に複雑で漠然とした概念の習得が

必須事項であるようだ。

 

そうであるにもかかわらず、その習得のプロセスやノウハウ

誰も教えてくれない。

 

目を閉じて感覚を研ぎ澄ましたところで

一向にフォースは覚醒しない。

だって、ジェダイの騎士じゃないもん。

 

せめて模範解答をくれよ。

TRYあんどERRORからの反省・改善

これを繰り返せばいつかは申し訳程度の空気なら読めるようになるかしら。。

淡い期待を胸に再度TRYするも誰もERRORがERRORであることに気付けない。

答え合わせができないまま、また同じところを行ったり来たり。

 

いつも残るのは漠然とした疎外感。孤独感。

ここまできてようやく気付く。

別に空気を読めるようになりたいわけじゃなくて

それができないことで訪れる孤独が怖いのだと。

積極的にジェダイ志望なのではなくて

保身のために最低限のフォースを使いこなす必要があるのだ。

 

ただ事実としてわたしには空気なんて読めないし

つかえる気なんて持ち合わせていないので

せめて気を遣わせないようにしようとか思ったりするのだけれど、

見渡せば優秀なジェダイたちばかりで。。

彼らに対して気を遣おうとか気を遣わせないでおこうなんて、

それ自体空気が読めてないような気がするので

 

素直につかってもらった気にたいする感謝を。

それを見落とさないようにすることに専念しようと。。

 

来るべき時が来たら、どっかの森で小柄な緑の老人が

必要なことを教えてくれる。そんな気がしてる。

 

 

 

ほんとはお互い言いたいこと言って、空気なんて読む必要が無くなればいいとか思っているけど、これはこれでまた長くなるので、ここは空気を読んでいったん飲み込んでおくことにする。

 

 

 

障害って。

極端な話。

もし、空飛べる人間がいたらそれは「能力者」だけど

もし、人間はもともと空を飛べる生物だとしたらそいつが普通で飛べない人たちはいわゆる「障害者」でしょ。

仮に「能力者」がいるならば、
それは

・自らの進化によるもの

・周囲の退化によるもの

が考えられる。

「能力者」であるの条件は、マイノリティであることだ。

なにができるか

ではなく

ほかのひととなにがちがうか。

でも、進化は必ずしも足し算とは限らない。

人間がもともと猿だったのならば、進化の過程で尻尾がなくなったのは必要なかったからである。

あってもなくてもいいものはない方がよいのだ。

引き算も進化である可能性があるならば、

あるはずのものがないことが

障害なのかそれとも進化後のすがたなのかは現状では判断できない。

尻尾なく生まれてきた猿は群れのなかで障害猿だったかもしれない。

そこでその障害猿が進化猿第一号なるまでにひとつのプロセスが必要である。

それは周りの猿が、障害猿をみて、尻尾の必要性を疑うことである。

なくてもいいんじゃないか…?

この瞬間、障害猿は進化猿に成り上がる。

能力者は進化の先駆けとなり、それはいずれ一般化する。

人間が飛べないのは
飛べるわけがないからであり

その根拠はいままでとべたやつがいないからである。

それはひとりの人間が飛んで見せることでくつがえる。
「能力者の出現」は
「可能性の証明」というプロセスのひとつであり、
可能性が証明されたとたんそのできるはずなかったことは、自分にもできるかもに変化し、それにたいしてマジョリティが価値をみいだせば、それは一般化する。

ただ、
あってもなくてもいいものはない方がよいのだ。

飛ぶ必要がなければ、
飛べることは障害になる。

さて。

あなたにとって手は必要ですか?
足は?
目が見えなければいきていけないですか?
耳が聞こえないのはどうですか?

マジョリティに求められるのは普遍性への疑問視。

マイノリティに求められるのは可能性の証明。



[これを書くにいたったなんやかんやの参考文献]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151120-00000066-mai-soci


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151202-00050016-yom-soci


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/HEROES_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

解釈はおまかせする。

渋谷のデモにいって、あわよくばいってやろうと思っていたけど、 とてもそんな雰囲気ではなくてメモ帳にむなしく残ったカンペ。

まず、わたしはこの日本という国が大好きです。

今日まで平和に生きてこれたことに感謝しています。

そして、私たちは知らないことが多すぎることを実感しています。

むつかしいことはわからないけれど、だからこそ、わからないなりに考えたんです。

戦争ってどうやってはじまるのでしょうか?

きっと、それぞれに守りたいものがあって、言葉ではわかりあえなくて、もどかしくて、感情的になって、気がついたら言葉がとげだらけで、それから身を守るために武器をもってる。きっとそんな感じ。


じゃあ、逆に平和ってなに??て考えたとき、いろんな意見があると思うけど、個人的には好きなものを好きっていえて、みんな疲れてる帰りの電車で、となりの人にお疲れさまって言えたり、
みんなで平和について本気で考えて、
わかんないことを教えてっていえて、

まちがったらごめんなさいで、それにたいしてどんまいどんまーいで。そんなことだとおもうんです。

的外れかもしれないけれど、

大好きな日本を少しでもよくしようっていう話なのだからお互いを傷つける言葉はもうやめませんか?


いまの時点で正解なんてわからない。もっとお互いの話を聞こうよ。

わかんないなりにかんがえておもったこと。

平和も自由も勝ち取るものじゃないってこと。

一回深呼吸しましょうよ。



つたわるかな。すこしでも伝わるといいなと思って、ここまできました。

幸せについて

好きなものを好きって言えて

嫌いなものは嫌いって言える。

それはとても幸せなこと。

 

正しいか間違ってるかどうかは

全部が終わってみないとわからないけれど

終わりがどこかもわからないから

わたしが正しいとは思わないし

あなたが正しいとも思わない。

あなたは間違っていないし

わたしも間違ってはいない。

 

間違っていても好きなものがあって

正しくても嫌いなものもある。

 

好きなものを好きって言えて

嫌いなものは嫌いって言える

 

それはとても幸せなことで

それだけで十分幸せなのです。

 

みんなが好きなものを好きでいる必要はないし

みんなが嫌いなものが大好きだってかまわない

 

 

『わたしは人が好きで、わたしは人が嫌いだ。』

 

ここに矛盾はない。

 

好きなものを好きって言えて

嫌いなものは嫌いって言える。

 

言っちゃいけないことなんてなくていい。

 

好きなものを好きって言えて

嫌いなものは嫌いって言える

これだけで十分幸せ.

 

ホントは幸せってもっと身近で

幸せってなかなかむつかしい。

 

それだけ。