記号論の再構築のために(3)

namdoog2012-04-10

4 ソシュールの記号概念 

 彼による記号の分析は――この点はうっかりすると見過ごしがちだが――実に重大な含意を伴っている。
 第一に、彼の記号概念とともに、記号への指示論的アプローチからカテゴリー論的アプローチヘの転換が決定的に成就されたのである。第二に、この転換には、形而上学ないし世界観の更新が伴っていた。常識的実在論から内部存在論への更新である。どういうことか、しばらく説明を試みたい。
 ソシュールは、ジュネーブ大学における有名な講義で、現に流布している言語理解を「名称目録(nomenclature)観」と呼んで厳しく批判した。この批判は例えば次の遺稿にも読むことができる。「言語哲学者たちの考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせる。つまりアダムはさまざまな動物を傍らに呼んで、それぞれに名前をつけたという。それは事物の名称目録という考え方である。これによれば、まず事物があって、それから記号(signe)だということになる」[frag. 3299]。
 ソシュールの論点をすこし敷衍してみよう。――『旧約聖書』の創世記の記載に従えば、万物を創造したのは神である。もちろん人間の祖であるアダムも、神が創り給うたのであった。アダムは神から言葉の能力を授けられているので、それを用いて、世界に見いだされるあらゆる存在者に、「これは「象」、あれは「馬」・‥」という具合に、ひとつひとつラベルとしての名称を貼っていく。このようにして、万物に名称が与えられることになったのだ。この神話の通りだとすると、言語は多数の名前のリスト、つまり「名称目録」だということになる。――こうソシュールは言うのである。
 厳密にいえば、言語にはモノの名称以外の要素が含まれることがある。例えば、日本語の格助詞「が」や英語の前置詞「on」が貼りつけられるはずのモノとは何だろうか。そんなモノがあるとは考えにくい。古代ギリシャの文法家はすでにこの種の要素を知っていた。言語学や論理学では、これらの要素を「共義的な」(syncategorematic)語と呼んでいる。つまり、それ自体では独立した意味をもたず、他の語と合わさって初めて意味を獲得するような語のことである。(他方、「名称目録」に含まれる名称=ラベルのような語はカテゴレマティック(categorematic)つまり「独義的な」[これは仮訳である]という。)
 しかしこの観察は必ずしも言語の名称目録説を排除しない。というのは、あらゆる言語が、それが誕生したばかりのとき、独義的要素のみで成り立っていたかもしれないからだ。幼児が最初に覚えることばがどうやら共義的ではないという観察がこうした仮定をもっともらしくしている。
 ソシュールは、もちろん神による万物の創造という論点は棚上げして、ただこの種の言語観における有意な存在論的含意だけに注目している。なによりも、言語の発動以前に世界にはあらゆる事物がすでに存在していた、という含意が重要だろう。換言するなら、名称目録観によれば、言語の主体からは独立に(「客観的に」)あらゆる存在者が実在することになる。これは、私たちが「常識的実在論」と呼んだ形而上学と同じものであって、ソシュールは記号観の革新をつうじてこの種の形而上学を覆したのである。
 とはいえ、ソシュールはこの場面でメタ記号的振る舞い(つまり記号学的言説の遂行)を適切におこなっていないきらいがある。遺稿断片にはこうあった、「……まず事物があって、それから記号(signe)だということになる」。これだけ読むと摑みそこねてしまいがちな、記号に関する論点がじつはある。それは、記号の形而上学的身分の問題である。事物と記号の創造の順序の如何は問題にはならない。むしろ事物と記号の両方がいったん創造された後にそれらが並列される、という事態が重大なのである。言い換えれば、問題は事物と記号の存在論的並列であり、記号のモノ化にある。あるいは、これを言語に即して言うなら、言語要素(言語記号)がほかの存在者と並ぶある種の存在者にすぎないこと、これが問題なのだ。記号ないし言語(神話における「名称」)が事物の一種だとすると、アダムないし話す主体の役割は、ただ単にモノとしての名前とモノとを何らかの根拠によって対応させることにすぎなくなる。
 ソシュールが提起した記号概念は、伝統的・通俗的言語観を覆してしまった。言語記号はほかの事物と並ぶ別の事物ではあり得ない。言語はモノではない。それはむしろ、万物を差異化しつつそれとして生起せしめる能力(ランガージュ)のアスペクトにほかならない。換言すれば、言語記号は人間のカテゴリー化(categorization)の能力が現勢化するために欠かせない手段である。あるいは、言語はカテゴリー化の媒介要因なのだ。こうして、〈記号〉は何かを指示するモノであるのをさしおいて、原理的に(in principle)何かを意味するものとなったのである。
 ソシュールによれば、記号は一元的なモノではなく、記号表現(significant)と記号内容(signifié)の二元的構造体である。記号はいつでもいち早く二元性(dualité)の現象である。これにはただちに存在論の更新がしたがっていた。常識的実在論から内部存在論への転換である。記号がそれとは別の(記号外部の)対象を指示するものではない限りにおいて、いまや存在論的な意味であらゆるものは〈記号〉である。換言すれば、記号にとって「外部」なるものはない。――ここにソシュールの洞察の大きな意義がある(もちろんこれをどのように解釈すべきかという問いが残っている)。
 ところで、記号の二元性をソシュールはどのように展開しただろうか。そこに私たちは、彼の思索の危険きわまる足取りを認めざるを得ない。
 記号表現が記号の裏面をなすとすると、それは聴取された限りでの言語音、すなわち「聴覚像」(image acoustique)であり、「心理学的なもの」としてつまりは心的なものだと知られる。また記号の表面である記号内容は「概念」(concept)としてやはり何らか心的な存在者であると思える。こうして、ソシュール記号学が観念論に依拠するらしい気配は隠しようもない。
 しかし私たちが生きられた言語にどこまでも密着するとき、この種の観念論的言語学に違和感を覚えないだろうか。そもそもソシュール言語学のメンタリズム的側面はデカルト的二元論から派生したのではないだろうか。そのような進路を踏み惑うのではなく、ソシュールは自分で新たに拓いた内部存在論にどこまでも忠実であるべきではなかったか。
 もちろん「内部」や「外部」という言い方はさしあたり隠喩に過ぎない。しかしそれらは避けがたい「必然的隠喩」[スネル74]であろう。このことが事柄を困難にしている。そのうえ言語記号いや一般に記号は、いつでも何か質料的な担い手に乗ることによってしか存在者として実現されない。例えばそれは音響的出来事(空気=質料の振動)であったり、インクで描かれた図形(少量の顔料=質料)だったりする。
 ソシュールが遂行した記号への「カテゴリー論的アプローチ」は、〈記号〉のこの存在論的制約を無力化する方向でなされた。明らかにソシュール記号学は、全体として「観念論」あるいはメンタリズムの色彩をおびている。質料のもつ存在論的意義について、彼以降現在に至るまで、多くの言語学者記号論者は頓着することがない。この先入主はソシュールに由来している。だが私たちは、内部存在論は質料の存在論的制約と両立するはずだと見なしている。 
 この制約は、ただ単に記号の物質的基盤を意味するものではない。なるほど、音声はある意味で空気の振動であり、文字はインクで記された図形である。しかし、〈言語〉ないし〈記号〉にとって質料性が条件だというのは、それらが必ず一定の物質的所産をもたらす身体の動きや働きであることを意味する。存在論の別のレベルからこれを言い換えれば、言語の本態は〈出来事〉ないし〈過程〉であり、記号とは〈記号過程〉(パース)なのである。このようにして、人間的事象としてしか言語や記号がありえないとすれば、言語の本態は〈身体の働き〉にほかならないことになる。メルロ=ポンティが解明したこの眼目を、ソシュール記号学は見失ったのではなかろうか。

[スネル 74] B. スネル著、新井靖一訳:精神の発見:ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研究、創文社(1974).

一般言語学講義

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ソシュール小事典

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精神の発見―ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研

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記号論の再構築のために(2)

namdoog2012-03-31

3 古典的記号論から現代的記号論への展開――ソシュール記号学の構想

 
 20世紀から現時点までの記号思想の展開を通観するとき、この間になされた探究の跡を大きく整理して、これを「古典的記号論から現代的記号論への展開」と捉えることができる。いまでは常識となっているように、20世紀において記号論を構築するのに力を尽くしたのは、ソシュール(F. de Saussure)とパース(C. S. Peirce)の二人であった。彼らの業績はまことに偉大でありその意義はいまだに汲みつくされてはいない。いま私たちが目にしている記号論はほぼ彼らの衣鉢を継いだ仕事だといっても過言ではないだろう。彼らの業績が「古典的記号論」に礎石を据えたのである。
 一般に、歴史的系譜に正統と異端があるように、記号論についても、異端の系譜がないわけではない。とはいえ、闇の暗さが光のかがやきによっていっそう暗くなるように、異端者がマジョリティをなす正統な者たちなしには生息しえないのは自明である。後に触れるはずのグッドマン記号論は、分析哲学の潮流に掉さすという意味ではパースの系譜に属しているが、分析哲学者の大半がきわめてテクニカルな概念操作にあけくれしている(いわゆる重箱の隅をつついている)のとは打って変わって、全体知を志向したその思索の構えにおいて異端者の面影がいろこい。
 だがグッドマンの哲学的営みを、パース哲学における本来の企図を復興するものと受け取るなら、彼こそがある意味で正統派の人物だと評することもできる。実際、古典時代の記号論を現代へと推し出しその現代化に大きく貢献した者の一人がグッドマンである点に疑いはない。
 記号論を現代に押し出した多くの異端者――そのかぎりで、逆説的だが、記号論の本来的正統派――のうち、認知言語学者たちの名も逸することができない。彼らの仕事には後ほど触れることになるだろう。しかも彼らは分析哲学の枠組みを踏み越えた大陸の哲学的伝統から意識的に学んでいる。具体的には、とりわけメルロ=ポンティの身体性の現象学が彼らの発想のひとつの源泉となっている。 これに加えて、彼らが明言しているように、身体性の現象学を彼らが受容した根本の動機に「伝統的な西洋哲学思想」の乗り越えがあったことを看過できない。――認知言語学者は自らが「異端者」だと自覚しているのである。
 以下において記号論の現代化を具体的に調べるその前に、私たちはまずソシュールの業績を考察しなくてはならない。なぜなら、ソシュールこそ、二つの伝統的記号観という問題を一身に引きうけ、そのうえで、言説の形態としての記号論記号論でありうる機軸――記号における二元性の構造――を明確に打ち出すという、独自な業績をあげたからである。
 ソシュール記号学探究における最大の功績は、実在論的記号観から内部存在論的記号観への転換を、周到な議論の裏打ちによって成し遂げたことだろう。ソシュール記号学の基本的概念をここで説明するのは時間の浪費と言われるかもしれない。記号論といえばつねにソシュールが引き合いにだされるのであってみれば、この疑念にはもっともなところがある。
 とはいえ、ソシュールの記号概念を明確に把握したうえでないと、「記号論」なるものを理論的言語の空間から除去できないゆえんは明らかにならない。記号論の「現代性」のひとつの意味は、それが現代においても「除去し得ない」(ineliminable)記号論だ、という点にある。それゆえ「古典的記号論から現代的記号論への展開」の真意を理解するためにも、ソシュールにおける記号観をしっかりと摑む必要がある[Saussure 71]。
 ソシュール記号学はホモ・ロクエンス(homo loquens 言葉を語る人間)の人間観を背景に誕生した。これは、人間は言葉を用いることにおいて、ほかの生物とは断然異なる独自な生き物だ、とする人間観にほかならない。この人間観は、〈理性〉に人間の証を認めるホモ・サピエンス(homo sapiens)の人間観の具体的形象だと評すこともできる。なぜなら、言葉を語る人は、必ずや「理性」の持ち主だからである。〈理性〉そのものは見えないが、その働きは、耳朶にふれ目に見える言語として実現されるのである。
 ギリシャ語のロゴスは言葉であり理性でもあった。こうして、ホモ・ロクエンスはそのままホモ・サピエンス(知性ある人間)である。――この種の人間観が収斂してゆくひとつの突出したかたち、それが20世紀におけるソシュール記号学だと解することもできる。そこには、現代的記号論への転換を仕掛ける重要な発見があると同時に、とうてい是認できない理論的逸脱――私たちが「言語中心主義」と呼ぶもの――もある。
 まずソシュール人間について、彼らがランガージュ(langage)、つまり潜在的かつ普遍的な言語使用の能力――つまりは理性とりわけ概念化の能力を生得的に所有しているとみなした。次いで彼は、ランガージュが人間集団の場に顕在化した形態としてのラング(langue)を設定する。具体的に言えば、ラングとはおのおのの言語共同体で用いられている多様な「国語」のことである。(ただし、ラング=国語、なのではない。〈ラング〉という概念は、諸国語として現実化されるがそれ自体はいかなる国語でもありえない言語の様態をいう。)
 ラングヘのパースペクティヴは一様ではないので、ラングをさまざまな様態で捉えることができる。例えば〈行動〉という視点からは、ラングは〈話す主体〉(sujet parlant)がおこなう言語行動のパターンあるいは慣習行動とみなし得るだろう。またマクロな視点からは、ラングを話す主体のこころに組み込まれた(超個人的な)心的機序と捉えることもできる。また別の視点、例えば社会学的視点からは、ラングを社会制度と把握することもできる。いずれにせよ、ラングは一人称的なあり方を超えた「間主観的」存在者であり、そのようなものとして、ある種の「体系」(système)をなすのである。
 この体系が一人称的な場面で顕在化するとき――ラングはこの場合、アリストテレス形而上学の「潜在態」(デュナミス)としてある――パロル(parole)つまり個々の発話行為が生起する。ラングが超個人性、規則拘束性(この意味での「必然性」)などの性格を示すのに対して、パロルはつねに話す主体にかかわる偶然的属性を帯びているのだが、いまこの論点には深入りしない。――要約すると、ソシュール記号学においては、「言語」(「ことば」)という理論以前的存在者を、ランガージュ/ラング/パロルからなる系列として理論化する。この系列におけるある項はその左側の項が実現したものであり、この限りにおいて、左の項はその右の項の可能態にほかならない。
 ついでながら、三者が系列をなすことに間違えはないが、この系列を左から右への直線のように表象するよりも、むしろこの直線を垂直に立てたイメージをつくる方がソシュールの真意にふさわしい。全体としての「言語」とは、ランガージュを底辺に置き、その他の項をその上に積み上げてできた層状の構造なのである。
 ソシュールは、ラングの構成要素としての〈言語記号〉(signe linguistique)を設定した。これは全体としての発話をばらしていき、意味をなす最小単位にまで切り詰めたものである。この概念は、現代の一部の言語学者がいう語彙素(lexème)にほぼ相当するとしていいだろう。ただし厳密に言うなら、語彙素は理念的に設定された抽象物であって、例えば、walk、walks、walkingなどに通有する単位(このかぎりで、語彙素は「語根」(radical)にひとしい)であるが、ソシュールの「言語記号」には(この例でいえば)walk以下のそれぞれのアイテムが数え入れられる。こうして私たちは言語記号について最も重要な問いを問うことになる。――ソシュールは言語記号をどのような存在者と見なしたのか、言語記号の存在構造とはどのようなものか。
 周知のように、ソシュールは言語記号ひいては記号一般を二元性(dualité)の構造として捉えた。ソシュールは説明のために一枚の紙を例にもちだす。紙には表と裏がある。紙の表がひとつの次元をなすとするなら、その裏は明らかにそれとは別の次元をなす。しかもこの表と裏を切り離すことは不可能である。表裏はつねに一体として一枚の紙をつくりあげている。――この紙のように、言語記号もつねに二つの次元をそなえている。言語記号には、一面では記号表現(signifiant)、多面では記号内容(signifié)の両面がそなわり、しかも両者が一体をなしている。
 ソシュール言語学記号学の傘下にはいるそのひとつの学科として位置づけた。そのほかの記号学的学科として、彼は、聾唖者の使用するサイン、(例えば〈挨拶〉といった)儀礼行動、手旗信号などの研究に言及しているが、それらについて実際に考察を行っているわけではない。彼は基本的には言語探究者であった。しかしながら、ソシュールがこれまでの言語学者と決定的に違う点は、後者が(概して言えば)言語を他の種々の記号系とのかかわり抜きに研究してきたのに対して、ソシュールが、このかかわりの明確な自覚に立ちつつ、〈記号学的システムとしての言語〉を探究したことである。ジュネーブ講義で知られるソシュール言語学はそのまま記号学だったと言っても過言ではない。
 言語記号の二元性という主張は、したがって、記号一般の二元性のテーゼに拡張しうるものとして提起されている点に留意が必要だろう。
 いま読者が読むことができる講義録によれば、言語記号についてソシュールは、その記号表現が〈聴覚像〉(image acoustique)、すなわち発話された記号の刺激(言語的音声)が聞き手にもたらした心理学的イメージに相当し、また記号内容が〈概念〉(concept)だと述べている。
 言語記号以外の記号の場合にも当然記号の二元性が記号の構造をつくっている。ソシュール自身はこの種の構造についてほとんど語ることがなかった。しかし読者にとって、彼が言語記号について述べていることからそれを記号一般へ類推をおよぼすのは容易ではなかろうか。例えば、紙面に記された漢字は〈記号〉にほかならない。目に視覚的刺激が与えられ最終的に頭のなかに(?)〈視覚像〉(image visuelle)という〈記号表現〉が成立し、これに漢字の意味(語義)が〈概念〉として裏打ちされている、といった具合である。

[Saussure 71]F. de Saussure著、小林英夫訳:一般言語学講義、岩波書店(1971).ソシュール研究としては、筆者には異論があるものの、丸山圭三郎ソシュールの思想、岩波書店(1981)が我が国における基本的文献である。近年、ソシュール研究の高まりの結果として、講義録の新訳が試みられている。F. de Saussure著、ソシュール一般言語学講義―コンスタンタンのノート、影浦 峡・田中 久美子訳、東京大学出版会 (2007) はそのすぐれた一例である。

一般言語学講義

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ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

ソシュールの思想

ソシュールの思想

記号論の再構築のために (1)

namdoog2012-03-20

記号論の再構築のために――問題と構図

 記号論(semiotics)とは何だろうか。歴史的な事実として見れば、記号論は、20世紀の初めに期せずして(だが真実は思想史的必然性によって)記号についての学(sémiologieないしsemiotic)を異口同音に提唱した二人の人物ソシュールとパースの業績が呼び起こした大きくて広範な反響――そのうねりのすべてのなかに具現されている。しかし理論的・概念的な視点から見るなら、〈記号論〉はいま再吟味(re-examination)と更新(renewal)の主題として人びとの目のまえにある。
 記号論の理論構成については、さまざまな意見がありうるだろう。とはいえ、それが文字どおり、記号に関する基礎的理論(the general philosophical study of signs and symbols)であることに、大方の異論はないだろう。もちろん細かく見るならば、記号論の全体としての構成は、ほかの学問と同じように、多次元にわたっている。例えば、記号論の体系を編成するために、基礎理論と応用理論、各種の領域的理論(例えば、音楽記号論、絵画の記号論、衣服の記号論など)、研究史等々に区分するやり方があり得るだろう。しかしここでは、もっぱら記号論の原理的問題だけに考察を絞り込みたい。とはいえ紙幅の制約のために、以下の議論が、せいぜいのところ、記号論再建のための方向性を概説するのに終始するのをお断りしておきたい。

1 教室での観察から 
 記号論にとって無視しようにもそうはできない原理的問題がある。なぜなら、この問いにたいする明らかな見解をもたないなら、そもそも記号論自体が成立し得ないからだ。これは記号論にとっての構成的問いにほかならない。
 記号論の構成的問いとは、言うまでもなく、「記号とは何か」という問い(これを短く「記号の問い」と呼ぼう)以外ではない。換言すれば、記号論は――記号の存在構造の解明であるかぎりでの――「記号の存在論」から開始されるべきものである。
 (どの学問でも事情は同じであるが)記号の存在論への手掛かりはすでに与えられている。「記号」について何がしかの理解をあらかじめ抱いていない人はいない。この理解が記号論への確実な礎石となる保証はどこにもないが、少なくとも考察の糸口として――そしてあくまでもただ糸口としてだけなら――大きな利益をもたらすだろう。解釈学派の指摘するように、「常識」――これは学問知から見れば「偏見」(Vorurteil;「先んじた判断」)とさえ言いうる――なしに学問知はあり得ない。ところで筆者は記号論の講義をいくどかおこなっているが、そうした場合、講義の初回には受講生に〈記号〉の例を挙げてもらうことにしている。
 彼らが好んで最初に挙げるのが、化学記号や代数の記号だ。そのほかに、以下のような例がずらりと並ぶことになる。文字、看板、ネオンサイン、交通標識、地図の記号、各種のロゴマーク、等々。
 意外にも彼らが忘れがちな例の一つに言語がある(この見落としの理由は何か。これは興味ある問題だが、いまは立ち入らない。一方、手話は見落とされることが比較的に少ない。これにはやはり意味があるだろう)。そして絵画が記号であることの理解を切っ掛けとして、矢継ぎ早に、ダンス、身振り、表情、写真、音楽、建築、彫刻などが、やはり記号の形態であることが理解される。さらには、さまざまな計器(例えば温度計)が記号としての機能をもつ点もただちに了解される。この作業はまだ続くのだが、ここでひとまず切り上げてもいいだろう。
 記号の問いへの常識的理解の核心は、これらの例から推定するに、記号が何らかの実物(real things)(世界に帰属する存在者)を代理するものである、という点にある。化学の教科書の記載の中で、元素記号のCuは、明らかに、銅なる金属の代わりに遣われている。同じことだが、この事態を、メタ言語を使用して「Cuは銅を代表する(意味する、指す、など)」と言い表すことができるだろう。この理解は、記号がどのような働きをするのかという問い(つまり〈記号機能〉の問い)にかかわるが、これは、冒頭に述べた記号の存在構造の一面を明らかに物語っている。つまり、記号とは何かという問いはおのずと記号の働きと結びつく。
 常識的理解には、これとは別の記号の存在構造にかかわる含意も伴っている。すなわち、何か存在者を代表するものとしての記号は、それ自身が世界に帰属する存在昔だという理解である。記号も実物なのである。こうして、テキストに印刷された元素記号は、あるパターンをそなえた少量のインクにほかならないし、ネオンサインは、ガラスや金属などから製造された物体である。
 以上に確かめた記号の二つの構造特徴から、世界についての一種の形而上学がおのずと従うだろう。それはやはり常識が抱いているある種の世界像にほかならない。すなわち、世界はもろもろの存在者――感覚できるものとできないものとを含めて――を容れた器のようなものなのだ。あるいは、世界は存在者の総体――その意昧でのユニヴァース――として、それを知覚する個々の人間からは独立に存立する「客観的な」リアリティである。こうした形而上学を、しばらく「常識的実在論」(commonsense realism)と呼ぶことにしたい。
 それは哲学史で「素朴実在論」(naive realism)と称されることのある形而上学とはいくつかの点で異なっている。第一に、素朴実在論者が、世界は感覚するとおりに存在すると「素朴に」確信しているとすれば、常識的実在論者はそんなうぶな見地を取らない。錯覚や幻覚が私たちをしばしば欺くことを知っているからだ。だから第二に、常識的実在論は、均一で同質的な構成物ではなく――パッチワークといえばやや大袈裟になるが――いくつかの異質な成分の継ぎはぎとしての理論である。一般に、これら成分の一部は認識主体の経験から、また他の一部は主体に授けられた教育に由来している。


2 せめぎあう二つの記号観 
 思想史を顧みるとき、記号の定義ないし本質規定として、真っ向からせめぎあう二つの見方があったのがわかる。初めに、いましがた確認した常識的実在論を土壌として育まれた記号観がある。これを「実在論的記号観」(RS)と呼ぼう。この記号観に従えば、
   (RS) 記号とは、ほかの何かを代表する何か(something that stands for something else)である。
 こうした記号観の表明を、例えばアウグスティヌス(Augustinus)や西洋中世の文獣にたどることができるだろう[Nöth 90]。こうした記号観がいかに常識に適っているかを、筆者は教室で確かめることができた。記号はそれ自身が何らかの存在者ないしモノないし実物であり、それがほかのモノを代表する(意味する、指す、など)とされる。すなわち、代表という機能(repre-senting) は(少なくとも)二項関係なのだ。そして歴史上、この関係を支えるのは、人びとの言語的慣習や因果関係だとされてきた。交通シグナルで赤ランプが「停止せよ」という命令を意味するのはなぜか。それは赤ランプの点灯がそうした命令だという規約(道路交通法)が定められているからである。またある種の発疹が麻疹(はしか)という病気を意味するのは、病気の本態と症状に因果関係があるからである。ともあれ、ここで確認しておくべき点は、<記号機能は関係である〉という理解にほかならない。

 ところで、思想史を顧みると、これと全く異質な記号理解がいまに伝承されてきた形跡も歴然としている。この理解の含意するものは、実在論的記号観よりむしろ貧しい。なぜなら、この見地は常識的実在論なる形而上学を引きずっていないからだ。すなわち、
   (ES) 記号とは、意味するところのもの(something that means)である。
 この見地をどんな名で呼んだらよいだろうか。形而上学の対比をいやがうえにも鮮明にするために、これを「内部存在論的記号観」(ES; endo-ontological view of signs and symbols)と称することにしよう。この種の見解の詳しい説明は後におこなうが、要するに、この種の記号観では――常識的実在論に反して――記号の外部の世界がリアルかどうかという問題に無頓着なのである。実在論的記号観でも、記号が意味をもつという事情に変わりはない。交通シグナルの赤信号が「停まれ」という命令を意味しているかぎり、どちらの記号観に従うにせよ、それは確かに記号である。
 残された問題は、後者の記号観の比較的に少ない概念的内包がどのような形而上学や記号観への基本的パースベクティヴを要求するか、それを闡明することだろう。
 記号を枚挙する際、従来ややもすれば見過ごされてきた記号のタイプがある。これはいくら強調しても強調し過ぎることがない事実である。一つには〈見本〉であり、さらには〈表情〉である。どちらのタイプも、実在論的記号観という独断のまどろみから私たちを覚醒させるインパクトを内に秘めている。見本や表情に二項関係が認められるだろうか。ここに、ある湖の水質を調査するためのサンプルがあるとせよ。湖の水質は湖水に含まれた種々の物質によって決まる。このサンプルはサンプル以外のモノを代表するわけではない。しかじかの水質、それはこのサンプルが具現している。あるいは怒りの表情。ある人物が眉をあげ、眺を決し、顔を紅潮させて怒りを顕にしているとする。怒りは現になされている身体的表出とは別のモノではない。そうではなく、しかじかの身体的表出がそのままある怒りを意味するのだ。
 ここで強調したいのは、実在論的記号観がこうした記号のタイプをうまく扱えないように思えるのに対して、内部存在論的記号観はわけなくこれらのタイプを受容するという点である。換言すれば、実在論的記号概念の外延は、内部存在論的記号概念のそれより狭い(この観察は、伝統的論理学における、概念の内包はその外延に反比例するという想念と折り合いがいい)。
 私見によれば、記号への根本的に異なるアプローチが二つの相克する記号観をもたらした。記号への指示論的アプローチ(referential approach)が実在論的記号観を生んだ[Benveniste 83]。 そして記号へのカテゴリー論的アプローチ(categorizing approach)が内部存在論的記号観を生んだのである。記号が何かと関係する、という観念が指示論的アプローチの奥底に横たわっている。また、存在者にラベルを貼り事物を分類するという想念が、カテゴリー論的アプローチの基底にある。おのおののアプローチは異なる形而上学、異なる意味論、異なる記号の存在論を要求するだろう。それぞれの差異を明確にすることも小論の目的の一つとなる。


*この文章は、『人工知能学会誌』、Vol.17, No.6 (2002年11月)に掲載された「現代記号論の構想」に、今回あらたに加筆してなったものである。書き加えた部分は表現の不適切さや言葉たらずを改善するためのものであり、原論文の主張や論旨にはまったく変更がない。原論文に筆者はいまでも格別の感懐をいだいている。それというのは、依頼され執筆した論文であるにもかかわらず、編集長がその論文で展開した筆者の議論に愚かで不当な横やりを入れてきたからである。過去の話となった今その経緯について詳しく述べることはしない。この機会に明言しておきたい点はただひとつ、原論文が打ち出したもろもろの論点が「人工知能」論者には理解の外にあったこと、それらはあたかも喉に刺さった棘のようなものだったという事実にほかならない。

[注]
[Nöth 90]しばしば、記号とは だという定式が用いられた。W. Nöth、Handbook of Semiotics、lndiana University Press、 Bloomington and lndianapolis、 p.17(1990)
[Benveniste 83」この記号観の二別に注意を促したのは、バンヴェニスト(E. Benveniste)であった。E.Benveniste著、岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』、みすず書房(1983)を参照。彼は、これら両様のアプローチに対応させて、記号一般を「意味論的記号」と「記号論的記号」に二分する。    (つづく)


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〈遊び〉についての断章 (5) 

namdoog2012-03-16

〈遊び〉を再考する――規則の梯子 3


方法としての遊び 
 俗なる現実とわたりあい、そこに遊びの時間と空間をしつらえるためには、素手ではどうすることもできない。この事態を私たちは、遊びには〈方法〉がいる、いや遊びとは方法そのものだという命題に要約したいと思う。
 精神医学者グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904〜1980)は〈遊び〉の構造にメタコミュニケーション的機能を見出した。たとえば、二匹のオオカミの仔がじゃれて噛みあっているのは、もちろん遊びである。これが遊びなのは、身体技法としての〈噛み〉のやり方が――たとえば獲物を噛むときのように――字義的な噛みの行動でないことに表現されている。ペットの犬や猫が御主人の指をじゃれて噛むのも同じことで、この噛みの方法は〈あま噛み〉と呼ばれている。[注:〈あま噛み〉が遊びの標識であるのは事実だが、ペットのあま噛みはペットと飼い主(=人間)との間の相互行為である点に注意が必要。問題は、同種の動物のあいだの遊びと異種動物間の遊びとの区別にある。この点についてはペイトソンの観察を越えたいっそう入念な考察が肝要となる。]
 ベイトソンによれば、一般に遊びの行動には、まさにこの行動が遊びであることを表示する信号がそなわっている。換言すれば、〈遊びの行動〉はある内容を表現しながら(たとえば、この行動は〈噛み〉(biting)である)、同時に、これが擬態であることを示すのである。遊びであるひとつの行動は字義的でまじめな行動から画然と分離されているとは限らない。ときには遊びが本気の行動になりかわり、逆に本気の行動が行動の擬態に堕してしまうことがある。ある行動をまじめな様態のまま保ち続けるためには、身体動作に一連の規則の適用がなされなくてはならない。これとまさに裏腹に、この行動からまじめさをはぎ取り、行動を全体として遊びへと変換するためには、それらの構成的規則と拮抗する一連の規則を身体動作にあてはめる必要がある。
 このようにして、遊びとは、一方の端を現実に、他方の端を「楽園」にかけ渡した梯子をよじのぼるいとなみにほかならない。遊びの方法とは、現実のただなかに据えられた梯子なのである。誰にせよ、新しい遊び(たとえばゴルフあるいはチェス)を習うときには、この梯子に足をふまえこれを登ることを試みる。この種の反復された試行のことを〈遊びの練習〉と呼ぶことができる。
 遊びにとって〈練習〉の意味がどんなに重いかについてはすでに述べたので繰り返さない。ここでの問題は、第一に、遊びにたいする〈規則〉の意義である。そして第二に、この種の規則のありよう――規則の存在構造――について明らかにすることである。
 規則はいわば遊びの魂である。規則という概念をたえず参照することによって、遊びの偽りの像を摑ませられるような失敗はまず回避できるだろう。規則の概念は遊びにとってそれほど本質的なのである。
 とはいえ、人間的実践の形態としての遊び、あるいは現象学者のくちぶりを借りていえば、人間がこの世界に住む独自な様式(実存の様式)としての遊びの規則がどのようなものであるか、行動の規則一般のなかで遊びの規則がどのような特徴をもっているのか、たとえば人間的実践の別の形態である宗教の規則とどこがどう違うのか…。これらの問いの解明を通じて遊びの規則のなかみを具体的に明らかにするまでは、遊びの認識は不十分なものにとどまるだろう。
 その検討は別の機会にゆだねるほかはないが、当面はここに示された観察に対して提出されるに違いない疑問に答えておきたい。それは次のような疑問である。遊びの規則の強調は、本来自由で余裕に充ちたものである遊びを、ひどく窮屈でゆとりも面白味もないものにしてしまわないか。たとえ規則が遊びに必要だとしても、規則づくめでは、遊びは窒息するのではないか。(この疑問は実際、卒論の書き手が抱いたものであった。)
 こうした疑問には、それは誤解だ、と端的に答えるほかはない。第一に、遊びが自由でありうるのは、むしろそれが規則に従う造形だからである。もちろん規則が古びたり病んだりするにつれ、遊びも朽ちる危険がつねにある。生物の種にその誕生と進化と絶滅(それに化石化)があるように、遊びにも成長と衰退があるのはやむえないことだ。
 第二に、右のような疑問がきざすのは、規則に関する偏見のせいではないのか。これまでの遊びの理論に認められるのも、規則の哲学の貧困である。遊びの規則は演算の規則や自然法則などとは類を異にしている。遊びを律するのは、表現型の規則、合理性と意味を新たに作りだしてゆく規則である。それには規則に背くための規則すら含まれている(遊びがテクストであるかぎりで、記号の規則、とりわけ言語の規則との比喩がここでも役立つだろう)。(この論点がまじめな行動あるいは字義的な行動にもそのまま当てはまるのは言うまでもない。)次回に私たちは、規則の哲学について述べることになるだろう。
 ともあれ、遊ぶために規則の囚人になるには及ばない。私にできることから始めて楽々と遊ぶ練習、これこそが遊びというものだろう。 (未完)

精神の生態学

精神の生態学

〈遊び〉についての断章 (4) 

namdoog2012-02-29

〈遊び〉を再考する――規則の梯子 2


遊びの練習 
 遊びと快とのかかわりを考えるためには、両者を区別したうえで、快の〈質〉を考慮する必要があるだろう。たとえば、スポーツをたんなる楽しみでやっているのは、むしろ多数のスポーツを愛好する人びとである。プロの選手や競技者はもちろん、アマチュアであっても、スポーツに専念しているすべての人びとが「真剣に」スポーツに取り組んでいるのに対して、彼らはいわば「遊び半分で」でそれをやる。本人たちに遊びの造形をいいかげんにしているつもりがないのは事実かもしれない。とはいえ、造形の突き詰め方にどこか甘さが混じりがちなのも否定できない。だからこそ、彼らはどちらかと言うと安直に快を手に入れ気晴らしをするのだ。
 しかし、彼らが浸っているその快なるものが、遊びの造形をゆるがせにしない玄人に恵まれる快にくらべ、味わいにおいてどこやら浅薄であることを見逃すことはできない。遊びに快や楽しみを求めるのが間違いだというのではない。自由な境地に人を誘うはずの遊びが、かえって不自由の重荷で人を圧しつぶすことがあるのを知らないわけでもない。だから問題は、どこまでも楽しみの質なのである。
 遊びとは一面では区別されながら他面ではかかわりをもつ〈快〉の質を深めるためには、何が必要なのか。いうまでもなく、遊びの〈練習〉あるいは<習練>である。遊びにおけるこの練習こそが、遊びの上達、洗練、巧拙などといった、遊びの諸可能性の基礎をなす。ここでもわかりやすいのは、我が国の伝統的な遊びの世界だろう。たとえば、茶の湯、踊り、三味線、和歌などの〈遊藝〉や〈藝道〉が成立するのも、やはりこの練習(けいこ、習練、訓練、おさらい、修業など)という基盤のうえなのである。
 このようにして、遊びに関する<規則>の本質的有意性が確認される。なぜなら、規則のない場所で練習に励むわけにはゆかないからである。練習には――明示的か黙示的かを問わず――ルール、技法、教則、マニュアルなど、なんらかの規則が不可欠である。練習とは、規則をなぞったり、修正したり、確実なものにしたり、創造したりする――こうしたもろもろの意味で、〈規則の練習〉にほかならない。このようにして、遊びの質は、規則なしには考えられもしないことになる。

遊びの非日常性 
 しばしば遊びの非日常性が指摘され、遊びは仮構だといわれたりする。遊びは「たかが遊び」なのであって、現実の、真面目な、字義的な行動ではないという。これは正確にはどういう意味だろうか。
 遊びの一種にカイヨワのいう〈模擬〉があることが事情をややこしくしている。たとえば子供が人形遊びで母親に扮して遊ぶとき、繰り広げる行動のテクストが字義的な意味をもつわけではない。子供は仮構の世界に身をおいているのだ。
 しかし、遊びの非日常性はこの意味での仮構と同じではない。たとえば、ゴルフに興じている人は文字どおり〈ゴルフをしている〉のであって、〈ゴルフのふりをしている〉のでも、まして別の何かのふりをしているのでもない。模擬の遊びが仮構であるのは、それが文字どおりの行動ではない(たとえば、舞台の役者は字義的な殺人を犯すわけではない)からではなく、遊びの造形作用のなかに〈俗〉の圧力に対抗するじつに真剣な働きが含まれているせいなのだ。そのせいで、遊びはしばしば日常性を批判するしぐさのように映るのである。
 遊びはけっして夢ではないし、狂気でもない。それが繰り広げられる舞台は、世俗の行動がなされるのと同じこの厳しい現実界なのである。遊びのこの成立条件とのかかわりで、遊びを藝術になぞらえることができる。
 藝術家がもしすぐれた作品を制作しようと思うなら、あるいはみごとなパフォーマンスを演じようと意図するなら、作品の素材を注意深く吟味し、道具を選び、手法に工夫をこらし、また実演にふさわしい環境を整えなくてはならない。これらを実現するには、現実とわたりあう強固な意志と、現実を誤りなく認識する明敏な知性が必要である。たんなる夢想家は藝術にはむかない。現実逃避が優れた作品を生みだしたためしはないのだ。同じように、現実をどこまでも明らかに見つめる眼をもたない者、現実と真正面から取り組む力のない者には遊びは向かない。
 ここには――アンリオが著書『遊び』で指摘するように――実にあやうい遊びのバランスがある。どんな遊びでも、みずからを遊びとして諦視する眼をそなえている。遊びのなかに設けられたこの距離を失えば、それにはもはや遊びの存在資格がない。この意味でも、カイヨワのいう〈めまい〉の遊びは成り立たないのではないだろうか。知覚の惑乱に翻弄され、呆然自失した「遊び」は自壊作用を起こしてしまうからだ。
 とはいえ他方で、遊びはどこまでも情熱を要求する。「本気で」ない遊びはたちまち質を劣化させてしまう。ちなみに、カイヨワは遊びを二つの極の間に配置できると考えた。一方の極では、気晴らし、騒ぎ、無邪気な発散などが支配し(〈パイディア〉の極)、他方の極では、この奔放さは弱められ、意図的に障害をもうけてそうした移り気を縛ろうとする(〈ルドウス〉の極)。こうした見地も、遊びの微妙なバランスを語ろうとしたものにちがいない。
 私たちは、遊びが現実の抵抗にさからって形成される行動の様式であることを航空機事故のたびに思い知る。観光旅行を考えてみればいい。それは未知の大陸を捜しに船出したコロンブスの旅でもないし、教典を求めて砂漠を進んだ三蔵法師の旅でもない。旅先で何泊かした後、再び世俗の生活に帰ることが約束された安全な遊びにすぎない。しかし、思いがけない出来事が遊びのこの約束を無残に踏みにじるようなことがしばしば起こる。
 ちなみに現実とはたんに物理的なものにかぎられないことを申し添えておこう。社会的現実、人間の心理的現実などを考えあわせるなら、じつに様々な現実の裏切りが遊びを待ち伏せているのは想像にかたくない。(続く)

遊び―遊ぶ主体の現象学へ

遊び―遊ぶ主体の現象学へ

遊びと人間 (講談社学術文庫)

〈遊び〉についての断章 (3)

namdoog2012-02-23

         〈遊び〉を再考する――規則の梯子 1


規則にしばられない遊び?
 いつぞや学生が遊びをテーマにまとめた卒業論文を読んだことがある。論文の結論あるいは主張には賛成できないものの、しかし重要な論点が提起されている文章なのは間違えないと思われた。
 卒論執筆者にいわせると、すでに世評が確立した従来の遊びの理論は、有名なホンジンガの『ホモ・ルーデンス』にせよ(これについては、本ブログ「遊びについての断章(1)」で論じた)、カイヨワの『遊びと人間』にせよ、遊びの一面しか見ていない。とくに問題なのは、彼らが遊びの要件として異口同音に〈規則〉ということを重視している点である。
 例外はあるにせよ、まずたいていの遊びには固有な規則がある、と彼らは考えた。遊ぶということは、この規則によって自分の行動を律するということにほかならず、そうすることで遊びの喜びや快い緊張ももたらされるのだし、遊びを世俗の時間・空間から離れた特別の世界のなかでいとなむことができるのも、遊びの規則が日常生活の規則にとって替わるおかげなのだ、と。
 ところが執筆者によれば、規則を遊びの不可欠な要素とする見方はいわば西欧人の偏見である。彼は日本語の「遊び」が呼び起こすイメージなり印象なりに注意をうながす。日本語の「遊び」は、規則に従って自分の力で行動を構築してゆくといった積極的なイメージより、むしろわずらわしい規則などはかえりみずに、ただただ安楽に時間をすごすという、消極的イメージのほうが勝っている言葉ではないだろうか。
 例をあげれば、のんびりと日がな一日温泉につかったり、休日に何をするでもなくごろ寝して過ごしたりすることは、立派な遊びの一種ではないだろうか。
 この種の遊びには、その他にも、ひなたぼっこ、散策など多くのものを数えることができる。よく知られているが、カイヨワは遊びを、〈競争〉(たとえば、ゴルフや将棋)、〈偶然〉(賭けごと)、〈模擬〉(人形や玩具遊び、演劇など)、〈めまい〉(ブランコやスキーなど、回転や落下による感覚の混乱を楽しむ遊び)の四つの類型に分けた。しかしながら、ひなたぼっこタイプの遊びは、これらのどこにも入らない。
 この事実は、カイヨワの遊びの見方が一面的なことを示している。のみならず、このタイプの遊びを見逃したことは、遊びのとらえ方が、基本的に、われわれ日本人と異なる事実を物語っているのだ。遊びとはただただ安楽なもの、緊張や努力や汗などは遊びの初めのうちこそ必要かもしれないが、最後にはそれらも全部打ち捨てて、こころが真にやすらぐものであろう。いや、そうしたものでなければならない。こうした遊びの境地は〈規則〉とは折り合わない。むしろ規則の支配を否定した場所でしか獲得できないものなのである……
 このような議論が〈遊び〉のある要素を言い当てているかぎり、議論のすべてを捨てることはできないだろう。とはいうものの、学生の議論には、私たちがややもすれば陥りやすい弱点が含まれてはいないだろうか。ひとつには、結果や具体相に現われる行動よりその意図や真情に重きをおくある種の純粋主義。ふたつには、世俗を越えた楽園に遊ぶという目的を手続きもなしに一挙に実現できるとする超越主義(と仮に呼んでおこう)などである。
 またこんな感想が浮かぶのも筆者は禁じえなかった。ごろ寝やひなたぼっこへの着眼は、外国から働きすぎを批判されているわが国の勤労者の多くが、余暇の過ごし方といえば、せいぜい家でごろ寝をしてテレビの野球中継を見るくらいだという実情を、みごとに反映するものの見方ではないか。[注:この感想に関するかぎり、当該論文を読んだ以降、日本社会の実情はかなり変わったように思える。]ともあれ、遊びと規則のかかわりは一度きちんと整理しておかなくてはいけない問題であるのは確かだ。厳密に言って、規則によらない遊びというものがあるのだろうか。まずこの問いを調べることにしよう。

規則への遊び 
 早々と結論を言うなら、たしかにそうした遊びはある。まともな大人や物心のついた子供の遊びではない。一人前の遊びを習得しつつある幼児の遊びである。ようやく手を自在に動かせるようになった幼児におしゃぶりなどを持たせると、いつまでも飽きずにいじくりまわしたり、ほうり投げたり、嬉々として遊んでいる。実際、それは「遊んでいる」と形容せざるをえない行動の様式なのだ。
 心理学者のピアジエはこうした遊びを「練習の遊び」と呼んだが、たしかにそこには一般に遊びの特徴とされているものが確認できる。第一に、子供はそれを自発的におこなう。遊びは遊戯者が自由におこなう活動であるという特徴をもつ。強制された遊びはもはや遊びではない。(古代ローマにおける剣闘士の戦いが、彼らにとって遊びであるはずもない。)
 第二に、子供がまだ生活能力を発揮していない以上、それはものを生産したり利益をあげたりする活動でもない。没利益という点が遊びのいちじるしい特色である。ただし別の意味で、子供は遊ぶことによって「利益」――たとえば道具の使用を習得する。
 ピアジエがこの種の幼児の活動を「練習の遊び」と名づけたのは、この利益(つまり道具の使用と身体技法の習得)がそれにともなうからである。しかし、遊びの本来性からすれば、それはあくまで副産物にすぎない。もし大人が子供に道具操作の練習を強いたらどうだろう。彼はたちまち笑みを消し、泣き出すかもしれない。その様子は、まるで大好きな玩具を取り上げられた者のようだ。
 ちなみに、子供はこの種の遊びの能力をもつからこそ、「真面目な」行動も遂行できるのである。といっても、大人のように〈生活〉をまだいとなめず、〈生存〉を維持しているにすぎない彼らにとって、真面目な行動はすべて生理的なものの水準をほとんど超えていない(たとえば、ミルクを飲むこと、排泄など)。
 ところで、この種の子供の遊びは、はたして規則に支配されているだろうか。そうは思えない。というのも、それは生活の練習にすぎないからだ。生活という建築物を組み立てているブロックとしての行動は、それぞれがある形式をそなえている。〈形〉はおのずから規則を要求する。逆にいえば、もし行動の可能的空間に規則を投げ入れれば、その場にひとつの形が結ばれるだろう。ところが、練習の遊びは形を得るための試行にすぎない。つまりこれは〈規則による遊び〉ではなく、〈規則への遊び〉なのである。

行動というテクスト 
 〈規則への遊び〉は別として、その他の遊びにすべて規則がともなうことは明らかではないだろうか。そう断定するについては、至極単純な根拠がある。遊びが広い意味における〈行動〉の様式だという点を見逃す人はいないだろう。ものや人間を相手に何かをすること、あるいはひとりで何かをして過ごすことにさえ――それが〈行動〉のカテゴリーに属するかぎり――なんらかの規則がいる。簡単にいうと、規則が行動を生成するのである。
 行動を生成する規則は、単純なこともあれば複雑なこともあり、明示的なこともあれば黙示的なこともあり、完備していることもあれば間に合わせにすぎないこともあるといったように、実にさまざまであるだろう。けれども、規則を失った行動は、文法によらない文が意味のない音声になってしまうように、そもそも〈行動〉としての意味をなさない。もちろんそこにはまだ身体や感覚の働きが残ってはいる。しかし、それはあたかも寒いので思わず出たくしゃみのようなもので、感覚と結合した筋肉の痙攣に異ならない。
 行動と文との比較はたんに気のきいた比喩などではなくて、行動の記号論的性格を理解するために不可欠な方法である。行動は一種の比喩的な〈テクスト〉だといってよい。語をつらね行に並べたテクストが一編の詩として意味をなすように――なにかを指示し、例示し、表出するなど、様々な記号機能をいとなむように――しぐさの展開としての行動も様々な記号機能をいとなむ。行動はすべて「読まれる」ものなのである。
 それゆえ、人の行動を理解するためには、詩や談話のテクストを読むのに必要な知性に類したものがあれば十分である。(この種の〈知性〉とはどのようなものか――この問いを究明する課題がここで露わになる。)
 ところで、論文の執筆者は幼児の遊びをとりあげたわけではなかった。したがって、規則をともなわない遊びがあるという彼の指摘は、遊びの本態を誤解するものだといわざるをえない。それにしても、その論文で例に引かれたひなたぼっこやごろ寝をどのように見たらよいのか。
 二三の事例を考察するなら、それらを〈遊び〉のカテゴリーに含めることが適切ではないとわかるだろう。ひなたぼっこやごろ寝は〈行動〉だろうか。それらがある種の身体運動であることは疑えない。繰り返すことになるが、あらゆる身体運動がそのまま行動に相当するわけではなく、まして遊びであるわけでもない。
 ひなたぼっこは行動ではなく、行動を停止しそれから降りた状態ではないだろうか。だとすれば、その正しい呼び名は「休息」にほかならない。もちろんどんな行動の底にもなにかしら身体運動と生理機能が横たわっているから、それらが身体のいとなみである以上、たとえばごろ寝を行動へ(さらに遊びへ)と展開してゆく可能性は残っている。(しかし次の論点を忘れないようにしよう。〈休息〉が〈行動〉でない限りで、行動にそなわる規則被制約性(rule-governness)をそれはもたない。だが休息と行動とを包括する上位の働き(function; working)はやはりある種の規則被制約性をもつ。とはいえ後者は前者とは別のレベルに存立する。要するに、〈休息〉も人間のいとなみの一種なのである。)
 出発点では、植物性の成分を含むある種の液体を飲むというたんなる身体運動にすぎなかったものが、文化的に洗練されて茶道という実に手のこんだ遊びになったように、もしかするとごろ寝の作法が案出され、人びとが遊びとしていそしむような時代がこないともかぎらない。[注:近年、大都会において、休憩のための個室の利用というサービスが提供されている。今のところこれには実用的価値しかないようだが、このサービスが〈遊び〉へと展開する可能性がないとは言えない。]だが現在私たちの社会においてなされているその都度のごろ寝に規則による造形が与えられた形跡はない。いまのところ人びとはだらしなく、いや正確にいうと没規則的に、寝ころんでいるにすぎないのだ。
 ここまでの議論に違う方面から反論がなされるかもしれない。有力な遊びの理論を提起したカイヨワは、〈めまい〉の遊びには規則がないとみなしている。四つの遊びの類型はたがいに混合されて新たな遊びの様式を生むが、〈めまい〉と〈競争〉が結びつくことは決してない。なぜなら、規則とめまいとは決定的に両立しないからだという。私たちはこの断定に違和感を覚えざるをえない。そもそもめまい――つまり知覚の惑乱や感覚の陶酔――を遊びの類型の基準として採用することに無理がある。それは行動を〈遊び〉として造形する要因ではなくて遊びの効果の一つにすぎない。
 カイヨワが想定しているような特定の部類の遊び(ブランコ遊び、ジェットコースターなど)だけではなく、各種の遊びにともなうことがあり得る効果以上でも以下でもない。たとえば、彼の遊びの分類カテゴリーとしての〈競争〉の一種であるマラソン競技はどうだろう。報告によると、マラソンで単調な走りを一定時間続けていると、突如めくるめく恍惚感を覚えることがあるという。いわゆる「ランニング・ハイ」である。推測に過ぎないが、〈競争〉には〈めまい〉がともないがちではないだろうか。彼のいう〈偶然〉や  〈模擬〉の遊びにも〈めまい〉がともなわないとどうして断言できるのだろうか。
 遊びにおける変性意識の問題を指摘するかぎりでカイヨワの見解は貴重な観察を含んでいる。しかし、遊びの本質と分類を論じる際に、彼の観察眼がいくらかめまいに襲われていたのではないか、という懸念を打ち消せるだろうか。
   
遊びは楽しいか 
 論文執筆者の観察がくもらざるをえなかったのはなぜだろうか。すでに述べた点だが、一般に「遊び」という日本語には「遊びは楽しいもの、安楽なものだ」という観念がほとんどつねにともなうように思われる。この先入主が観察の目をくもらせた疑いが濃厚だと思える。しかしながら、具体例に即すなら、遊びが必ずしも安楽でないことくらいすぐにわかるはずだ。
 たとえば、現代社会で興隆をみている各種のスポーツである。〈スポーツ〉なる実際活動(プラクティス)が〈遊び〉を規定する一定の基準を満たすことは明らかだから、この点には深入りしない。
 肉体の酷使、負傷や病気、(練習や遠征などにともなう)経済的負担、試合を前にしての不安や心労、練習の苛酷など、どこをとってみても、スポーツが単純に「楽しい」などとはとてもいえない。多くの選手や競技者がスポーツの苦しさを異口同音に口にしているのを聞いたことがないだろうか。もちろん彼らも、勝利の感激や技がきまったときの快感について語っている。スポーツになんらかの〈快〉がともなうことも無視はできない。
 しかしながら、この快なる感覚的要素は、遊びとしてのスポーツを構成する因子ではなく、往々にして思いがけなく得られた副産物やおまけの類として評価すべきだろう。私たちはまず、〈遊〉と〈快〉が論理的に独立なカテゴリーである点を押さえておかなくてはならない。実際のところ、一度も勝利の喜びを味わうことなく失意のまま引退してゆく競技者は少なくはないし、たとえば「オリンピック大会における喜び」を目指してつねに未来に〈快〉をもちこしている選手がまず大半なのである。
 これらのカテゴリー(〈遊び〉と〈快〉)が論理的に独立であることを、別の例で考えてみよう。陶酔を味わうために大麻を吸ったりアルコールを摂取したりすることは、それだけでは遊びとはいえない。そこには遊びの造形作用がともなっていないし、規則に従った行動の展開も見られない。手続きをとばして一挙に快を獲得しようとする意志と身体の生理現象があるだけだ。いや、意識の変容をひたすら他律的に得ようとするかぎりで、それは意志の挫折ともいえる。とはいっても、飲酒や大麻の吸引を軸とした遊びが編成される可能性を一方的に否定するつもりはないし、そうはできないだろう。ここでも問題は、あくまでも遊びと快と遊びを明確に区別することなのである。
 『人工楽園』の著者ボードレールは、詩の名のもとに麻薬を断罪する。詩はアシーシュの酔いよりはるかに高級な陶酔をもたらすのであって、「われわれは意志のたえざる訓練と不変の高貴な意図によって、自分の用にたてるための真の美の庭園を作りあげ」なくてはならないのである。[注:ボードレール自身が実際にアシーシュや阿片を常習的に用いたかどうかはよくわからない。]読者にもおわかりのように、ボードレールのいう〈詩〉は私たちの〈遊び〉にかぎりなく近い。それもそのはず、詩のいとなみとは、言葉が言葉そのものによって遊ぶことだからである。(続く)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

人工楽園 (角川文庫クラシックス)

人工楽園 (角川文庫クラシックス)

遊びの心理学 (幼児心理学)

遊びの心理学 (幼児心理学)

 

についての断章 (2)

namdoog2012-02-08

 <遊び>は人間のプラクティス(実際活動)の主要なカテゴリーの一つである。この種の活動の著しい特徴の一つが自己目的性にあることを指摘した。今回は、この観察から導かれる一つの論点を明らかにしておきたい。

シーシュポスの神話
 ギリシア神話のシーシュポスの物語は、フランスの作家カミュが『シーシュポスの神話』でこれを詳細に考察していることも手伝って、知る人は多いだろう。(最近の読者にカミュはどれほど読まれているのだろうか。)

 シーシュポスは地獄で神々に罰をこうむり、急坂の斜面を岩を転がしながら頂上まで上げるという仕事を課せられたのだが、いま一息で頂点に達するところで無残にも岩は転げ落ち、ふたたび坂の底から岩を転がし上げることに従事しなくてはならない。ところが、いま一歩で頂点に到達するところで、またしても岩は斜面を転げ落ちていってしまう……。こうしてシーシュポスは、この終わりのない苦役に、未来永劫、従っていると伝えられる。

 この物語は何をいわんとしているのだろう。もちろんその解釈はさまざまでありうるだろう。しかしはっきりしている点がある。誤解する人もいないだろうが、この物語のポイントは、シーシュポスに課せられた活動が肉体にとってひどく辛いものであるという点にはない。そうではなく、この活動が何の結果も生まない空しい徒労だ、という点が重要なのである。

 こうして、シーシュポスの物語が「人生の無意味さ」を寓意しているという解釈が十分に成り立つだろう。もし人間の生が、永久に繰り返されるとめどない活動であって、しかもそれが何一つ結果をもたらさない徒労であったなら! これが真実なら、人生ほど不条理にみちまた意味のないものもない。

 そうは言っても、人生を幸せのうちにまっとうする人も多いのではないだろうか。だとすると、この神話が「人生の無意味さ」を寓意することとは別にして、シーシュポスの物語が実際に人間の真実を言い当てているかどうか、それはわからない。

 とはいえ、少なくとも、多くの人にとって、まったく不足のない完璧に充足した人生、あらゆる意味で〈完全な人生〉を実現するのはいちじるしく難しい事業であることは否定すべくもない。

 これは海外からの情報であるが、英国の「ガーディアン」紙の記事Top five regrets of the dying | Life and style | The Guardianは興味深い。緩和ケア病棟で死にゆく人たちから聞き取りをした看護師が、死に臨む人が抱く、自らの人生への「後悔」(regrets)について報告している。人びとがいだく後悔の上位五つは次のようだったという。

 第一位:他人が自分に期待する人生ではなく、自分が真に望んだ人生を送りたかった。第二位:もっと仕事に励めばよかった。第三位:自分の感情をもっと表現してもよかった。第四位:友達とのふれあいを続ければよかった。第五位:古い習慣や型にはまった人生ではなく、自分でもっと幸せな人生を選べばよかった… 看護師が語っている内容はけっして他人ごととは思われない。明日いのちを絶たれると決まったら、いったい誰が似たような後悔のほぞを噛まないと言いきれるだろうか。

 念のため一言しておくと、伝統的に神の〈完全性〉から神の存在を演繹しようと企てた証明が示すように、〈完全性〉という概念は〈無限〉などと同様形而上学的な性格のものである。それゆえ、〈完全な人生〉などという観念を気軽に考えてはならない。(この点について、メルロ=ポンティ『知覚の哲学』(ちくま学芸文庫)、第七章、がいくらか参考になるかもしれない。)とはいえ、臨床心理学的な観点から、死にゆく人たちの「後悔」(regrets)に意を払うのは、私たちが「善く生きる」ために有益なことである。

何のための労働か 
 現代社会は高度な産業社会であり、社会を構成するほとんどの個人が職業人として何かしらの社会労働に従っている。ではなぜ、何のために、人は労働に従事しているのだろうか。もちろんなかには、自分は理屈抜きにいまの仕事が好きだからとか、この仕事が自分の天職だから、と胸をはって答える人もいるかもしれない。だが筆者は、こうした労働観の持ち主が現代社会においては少数派にすぎないのではないかと疑っている。

 そればかりではない。<天職>の自覚を得るについては、いくつかの条件が必要なことが容易に想像できる。 一つには、この自覚は仕事に従事した経験からおのずと醸成されるのであって、その経験以前に与えられるとは考えにくい。たとえば歌舞伎の家に生まれた子弟でも、インタビュー記事などによると、歌舞伎俳優になる決意を幼少の頃から自覚していた者は少ないようだ。

 第二に、もし労働に対価がなければ(言い換えれば、純粋なボランティアだったとしたら)、この種の幸福な労働観をその人はもちうるだろうか。自分の仕事に対する自己評価が人によりさまざまであるにせよ、現代社会においては、先の問いに対する答えは、基本的に「生活の糧を得るために」ということにならぎるを得ないと筆者は考えている。そしてこれが、多数の人が抱いている率直な労働観であろう。つまり、なぜ働くかといえば、生きるため、下世話にいえば「食う」ためなのである。

 それなら、ものの順序としてその人にこう問わなくてはならない、「なぜ生きるのか、生きることに何の意味があるのか」と。現代社会においては、労働が生の手段となった。もし労働が生の手段であるとすると、この問いは不可避である。そして始末の悪いことには、筆者の見るところこの問い対する説得力のある答えは何もない。

遊びの構造

 テイラー(J.Taylor)という哲学者が、シーシュポスの神話について興味深い議論を展開している。彼によれば、シーシュポスの活動はそのままにして、しかも彼から生の不条理の苦しみを取り除く妙手があるという。それは神々が彼の体内に、岩を坂の頂上に運び上げぎるをえなくする内心の衝動を埋め込んでやること、である。

 シーシュポスはいまや嬉々としてこの衝動に従っている。以前には無意味であった活動はもう罰として感受されることはない。いま彼は欲するがままに生き、その活動は使命と意味をおびることになる。

 テイラーの論点を、筆者の見地からあらためて言いなおせば、シーシュポスの活動は、神々の手直しによって以前にはなかった〈自己目的性〉という構造をそなえることになったのだ。換言すれば、彼の活動は別の何かのための手段ではもはやなく、その営みがそれ自体で充足しているのである。

 読者にはもうお分かりだと思うが、産業社会にあって、こうした構造をそなえた活動は〈遊び〉以外にはない。シーシュポスはいまや生き生きとした生の喜悦に遊んでいる。(なお、〈遊び〉の存在構造にはもう一つの特徴「実と虚の相互浸透性」があるが、これについては前回のブログ記事を参照していただきたい。)この点を明確に確認するなら、私たちは、従来の〈労働観〉をいまいちど点検する必要を痛感するに違いない。

 現代社会には、〈労働と遊び〉を単純に対立させる考え方がゆきわたっている。仕事がすんだから、さあ遊ぼう、と私たちは無意識に考える。しかし、この〈労働と遊び〉という二項対立は、人類史の初めから確立していたものでは決してない。それが明確な姿をとって現出したのは、近代の産業社会においてであった。この二項対立は産業社会の「強迫観念」の一つである。しかも文化を比較する視点から再考するなら、この種の労働観が、西洋のユダヤキリスト教的伝統ときわめて縁が深く、我が国の伝統には必ずしも属さないことが浮かび上がる。

 この二項対立は〈労働と余暇〉ないし〈まじめな活動と遊び〉というヴァリエーションをとることもある。また労働が人間生活にもたらす不都合を癒す手立てとしての〈レクリエーション〉という観念も、それが〈労働と遊び〉という二項対立を前提する限り、この二項対立の副産物にすぎない。

 〈遊び〉の思想史的な重要性は、私見では、なによりも〈労働と遊び〉という二項対立への反省を促すことにある。この対立を温存したまま、〈遊び〉を生の活動の片隅に囲い込むのは、闊達な社会とゆたかな人生への道を開ざすことにつながるだろう。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)
知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)