namecorin’s blog

私の考えをつらつらと書いたもの。

言い方、受け取り方のこと

今日、旦那に私が気づいたことを嬉々として語り続けていたら、同じことを何度も語るクセがあるために、少し怒気を孕んだ言い方で「分かったから」と返されたのがずっともやもやしている。

 

言い方というものがある、とも思うが、自分が何度も同じことを語ったから嫌気がさしたのだろうし、私がそういう言い方にどうしても慣れないのもある。

昔から、怒ったような口調で言われるのには慣れない。怒られる=嫌われる、と思っているので、そのような言い方には敏感な癖に、人の心は分からない。その辺りはワンマンプレーである。そんなチグハグさが苦しくなる原因にもなる。

 

まあ、旦那もゲームに集中してる状態だったので、相手の状況も鑑みず自分の感情だけでひたすら話しかけた私が悪い。だからこの状況に慣れないと、今後も同じことを繰り返して、またこのもやもやを抱き続けることになる。家族なのだから、慣れなければ。受け流せるようにならなければ。

学習性無気力と化している

私は目標を立ててやりきった試しがない。だから、目標を立てても達成できなくて当たり前と思っている。と思う。

やったところで無駄、そう思っているので、なにかを始めることすら億劫になっている。

 

やりたいことを見つけようと、少しだけやる気を出して、ライフハック系の記事を読んで見た。

5年後の自分を想像する、とあったが、まったく想像できなかった。今と同じが精一杯だ。

 

やりたいことも考えてみた。イラスト、小説、歌、演劇…

どれもこれも、私の表現したいものを私が表現しきることが出来ないことばかり。

努力だって、したところでもっと凄い人達がいるのだから、私が頑張ったところで見向きもされない。無駄だ。そもそも努力の仕方も分からない。

 

最近は、メンタル系の前向きになる方法を読んでも、そんなことできっこない、できれば苦労しない、などと考えるようになっている。そういう記事を読んで、やってみようと思っても、結局続かなかったり、うまくいかなかったりするから諦めることを学習してしまったのか。

 

わたしには何もしたいことがない。できることもない。どん詰まりだ。

 

 

追記

学習性無気力は、同じ事に直面してもそれをクリアできる人が側にいれば治ることがあるらしい、と読んだけれど、同じことをしてもそれが認められる人と認められない人がいる、ということまで学習してしまっているので、その方策では復帰は不可能なことに気がついた。

INTPも持っている?

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INFP- TだけどどことなくINTPっぽさもある自分を認識した話。

自分の特徴とINTPの特徴が似通ってる部分がたくさんあって、それが気になっている。

 

まあ、FかTかって話なのでそりゃ親和性はありますよね。

物事にパターンを見つけてそれを定義して議論したり、人の感情を無視して効率厨になったりすることがあるので、Tも高そうなのはわかる。

何より、INTPは女性らしいことが苦手ってのですごく納得してる。

 

まあ、どっちのタイプも社会じゃ生きづらいんですけどね。

やりたいことが見つからない

楽しいことがしたい。でも何も浮かばない。

 

創作をしようと思ったが、いつものごとく飽きてしまった。いや、作ろうとしたものがチグハグだったからやめただけだ。

 

絵本を作ろうと思ったが、私の作ろうとしたものがどう見ても子供向けではないし、私ももし子供がいたなら読ませたくない内容だった。それと、画力が圧倒的に足りない。自分の頭の中に浮かんでいるものをうまく表現できる気がしないから、批判されるくらいなら最初からやめておいた方が精神が安定する。

諦めぐせがついてしまっているようだ。

 

なんだかしっくりこない。何がしたいかまた分からなくなった。

捨てた創造性

INFPはクリエイティブという記事を読んだ。

けれど、私はもう創造性を活かすことができない。何もない。発想は空っぽになって、何も出てこない。

自己を抑圧しているのもあるのかもしれない。色々な作品を見て、自分の限界と独創性のなさをありありと感じてしまったのもあるだろう。

 

私は、ゲームやドラマ、アニメといった受動的な趣味で満足している。

でも、それらもすべて捨てる。時間の無駄であり、それをするくらいなら家事と仕事にその時間を当てたほうがマシである。それに、義務もこなせない人間が娯楽を得るのはおかしい話だろう。

 

だから、私には何もなくなる。からっぽの私。空っぽのわたしはもうロボットになると決めたのだ。

今日もまた悲しみと怒り

今日もまたひどい怒りに包まれている。私です。

 

今日のきっかけは、病院へ行って以前健診を受けたときの結果をもらってこようとしてたのだが

病院がおやすみだった。

前の日、休みかどうか確認しておくつもりだったのだが、完全に失念したまま怠惰に過ごした結果、休みであると当日当時間まで気付かなかった。

前日に、休みか確認しておくと義母に口頭で伝えていたのにも関わらず、何故忘れたのか分からない。馬鹿か。

 

旦那に指摘されてそれに気づいてからも、忘れてしまったという後ろめたさ、帰宅すれば義母がいるがどうしたものかという悩み、仕事の予定が元々なかったから何をすべきかという考えにとらわれていた。

そこで旦那に、どうしたらいいかと尋ねたら、掃除をしたらいいと言われたのだが、掃除が苦手でなるべく避けたい思いと、上記のもやもやから再度同じ質問をしてしまい、叱責を受けてしまった。私の日頃の行いが悪すぎて、このままではやりたい事すらさせてもらえないぞというおまけの脅し文句までついてしまった。

 

ここからはもう、落ち込みと逆ギレのスパイラルに真っ逆さまにハマってしまった。

ブチギレと落ち込みで主目的の買い物がままならなかった。肉がまるまる買い忘れた。まあ、これはそもそもないことに気づいていなかったのだが。

ブチギレと落ち込みから復帰するためにリスカした。

 

帰ってからも、義母の前では何事もなかったかのように、病院が休みであることを伝えたが、義母からは案の定、休みであることを確認しなかった旨を指摘された。義母は物言いが元々強いのもあって、私はそこが苦手だ。

ヘラヘラとそこをかわして、義母の手伝いをしたい事を伝えると、トイレの掃除をするよう言われた。汚くて汚れが取れない、と言われたのだが、私にはそれが私のせいで汚れが酷くなったと言われたように聞こえた。

元々、今は家事は私が任されているようなものだ。だが、最近は朝が苦手なせいで掃除は滅多に手が回らなくなってしまっている。そのため、私が責められていると思った。また、私が家事を任されているため、掃除をされると当てつけのようにも感じてしまう厄介な性質がある。

 

またリスカしてからトイレ掃除をした。義母の言う通り、汚れはなかなか落ちなかったので、一時間半、無心にこすり続けてやっと少しはマシな状態になった。ここで私はまたブチギレている。

 

その後、ご飯を食べてからは、義母が怒っていると踏んで、なるべく話さず笑いもせず居間からなるだけ離れて作業していた。

他の家族が集まってからは、変に思われないよう一緒に座っていたが、やはり笑わない、心を無くして話さない事を徹底していた。

 

しばらくして他のメンツが温まったころ、義母から、最近パターン化してしまって頻度の多くなってきた同じ料理の回数を減らすよう求められた。ほかの料理が間に合わないなら、少し早く起きてやって欲しいと。

いい返事はしたが、内心、他に何を作ればいいかさっぱりわからないとまた逆ギレしていた。

 

キレすぎて、風呂上がりに、旦那に、今まで予約をお願いしてスキマ時間で見ていたドラマとバラエティの録画と予約をすべて消してもらうようお願いした。

そんなもの観るくらいなら寝たほうがマシだ。また、10時に寝ようとしていても、こういうのを見てるせいで寝るのを先のばしにするくらいなら、見ない方がいい。

 

朝につい見てしまっていたブログなどももう観ない。

 

これからは、家事と仕事と任務をこなすだけの忠実なロボットにならなければ。

感情などというものは捨てなければ私は変わらない。変われない。

怒りを持続させてしまう

私は、一度怒るとなかなか収まらない。

一度、何かに怒りを覚えると、いつまでもそれについて怒り続ける。それほどまで怒らなくても良いことだと気づいたとしても、それをやめてはいけない気がして、そのまま怒り続ける。

拗ねた子供のようだ。

 

今日も、風呂場で些細なことで怒りを覚え、イライラを抱えたまま布団でとっとと寝るつもりだった。

そんなに怒ることではないと気づいたが、そこで怒るのをやめるのは、なぜか出来ず、そのまま怒り続けていた。

旦那がお笑いを見ていたので、そこで気を紛らわすことができ、なんとか自分の感情を再確認して消化することができたが、それがなければ感じの悪い自分のまま布団に行くところだった。

 

なんだか、腹を立てたあとに、いきなりケロッとした顔をしたり、自分でそれを消化できる術を持ってはいけないような気がしている。

そうすることで、他人から構って欲しいのだろうか。それを一度やると、一人で出来るのだから充分だと構って貰えなくなるのが嫌なのだろうか。

もしくは、他人から見てコロコロと感情が変わる人間はおかしいと思って、わざと感情を引っ張っているのか。

なんというか、やはり拗ねているとしか思えない。

あとは、自己をコントロールできない自分を見せることで、コントロールできないことを認めて欲しいのかもしれない。

 

私は敢えて不幸な自分を演出することもあり、おかしいと思っても自己否定がやめられないことがあるが、これも同じ根源がありそうだ。