ヲタ論争論ブログ

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でもアウトだからしょうがない 前例から見る五輪エンブレム騒動

 五輪エンブレムの使用中止騒動やその余波をめぐって、「何でもパクリと言うな」という、反批判ともいうべき議論がぼつぼつ出始めている。佐野研二郎さんおよびデザイン、アート界への大規模な「ネットリンチ」に対して憂慮するという姿勢のものだ。

 何でもかんでもパクリ扱いでは実際たまったものではない。だが、そうは言っても発覚したトートバックでの素材の盗用等は動かし難い事実であって、「アウトだからしょうがない」んである。叩きの行き過ぎを憂慮する気持ちはわかるけれど、結果についてはひとまず納得するより仕方がない。


 そのことは幾つかの先例を見ても理解できる。

 漫画では、2005年に末次由紀さんの作品で他の漫画や写真からの無断トレース、盗用が発覚し、連載作品の即時打ち切りはおろか、デビュー作以来の漫画全て絶版、回収という非常に厳しい処分が下った。

 事の発端も2ちゃんねるをはじめとするネットであり、連載作品から過去作にまで遡って詳細に検証がなされ、検証まとめサイトも作成された。作者当人が帰省にて対応が遅れている間に火の手は一挙に広がるという、やはりエンブレム騒動に似た経緯をたどって、当人の謝罪、サイト閉鎖に続いて出版社による連載中止、絶版の表明へと続いた。

 騒動がもたらした影響は大きく、他の作家も盗用しているのではないかという疑惑は広がり、『メガバカ』(2007年)や『ダシマスター』(2011年)など、実際に幾つかの作品、作家が謝罪や休載に追い込まれており、現在もこうした盗用の追求や検証は一部の作品に対して続けられている。

 この時も、やはり「厳し過ぎる」との反批判の声は挙がり、竹熊健太郎さんなどは「漫画の歴史にはざらにある話」「創作は知っている物の組み合わせ。オリジナリティーで胸を張るのは結構だが、あんまり過剰に主張するのはどうかなと思う」と、今回の五輪エンブレム騒動で誰かが語っていたこととそっくり同じような趣旨のことを述べている。

 ライトノベルでは2010年に哀川譲さんがデビュー作にて他作品から文章表現を「コピペ」盗用しているとの指摘が広がり、作家並びに出版社が事実を認定、作品の絶版、回収措置となった。哀川さんは「プロ作家としての意識の低さ、認識の甘さを深く反省しています」と、今回の佐野研二郎さんと殆ど同様のコメントにより謝罪している。


 ところで、末次由紀さんにせよ哀川譲さんにせよ、それぞれ漫画、ライトノベル界隈を代表するような盗用、回収騒動だったわけだけれども、数年の活動停止期間を経て、それぞれ創作の第一線に復帰している。末次さんは後に『ちはやふる』がブレイクし、漫画大賞(2009年)を受賞、アニメ化ともなった。哀川さんも2013年より名前を変えることなく復帰し、出版を続け、先の7月にも新刊が出たばかりだ。

 トレースにせよ、コピペにせよ、これらは部品であって、確かに作品全体、粗筋やアイデア、構想などは「パクリ」ではない。それが彼らを後に生き残らせた理由であるかもしれない。それでも、末次さんや哀川さんは厳しい処分を受けたわけで、これに引き比べるなら今回の佐野研二郎さんに対する処分も「妥当」と見るほかないだろう。

 佐野研二郎さんの盗用もディレクション作品における素材についてであって、エンブレムそのものの「パクリ」は証明されてはいない。彼のセンスやコンセプトが「パクリ」と証明されたわけではない。どんなにそう罵る声があったとしても。しかし、「部品でもアウト」が現在の商業芸術をめぐる基準レベルである以上、トートバックの事例の時点でアウトだとしか言いようがない。


 それまで、とりあえず口約束がまかり通るようなどんぶり勘定気味だった出版界において、騒動がもたらした「意識向上」は大きかった。作家達をはじめ同人作家やPixiv絵師にいたるまでトレースや盗作に対する「外部の目」をシビアに意識するようになった。デザイン界隈でも今後、大きな意識向上が図られていくことになるだろう。

 その一方で騒動によって漫画や同人、ライトノベル界隈が大きく委縮することは結局なかったわけで、まずは恐れるに足りないと思うべきだ。

きっといろいろいう人はいるだろうが、それは仕方ない。
彼女は、いい仕事をしていくしかないのだ。
それが、赦しなのだ。

 いしかわじゅんさんは、末次さんの騒動に触れてこのようにコメントしている。今後に関しては佐野さんおよびデザイナー達の奮起に期待してやまない。状況は厳しいが、能力を生かしてほしいと願うばかりだ。

現代美術から見るオリンピックエンブレム騒動

 オリンピックエンブレム騒動だけれども、もういっそのことある種の「アヴァンギャルド芸術」として扱えばいいんじゃないかという気がしてきた。

 最初に、「喪章のように見える」のが不評を買った理由だとするなら、仮にこれを意図的にやったならどうなるのだろう?当然、凄まじい抗議を受けるのは目に見えているのだけれど、一方で例えば「オリンピックとナショナリズム」或いは「国家目的に奉仕する芸術」に対し否を唱える作品として擁護することは可能だろうか?

 と、ここまで仮定して考えてみると、デザインをした当人達が意図する、しないに関わらず、既に騒動はアヴァンギャルド的な様相を呈していることに気づく。オリンピックとは何なのか?称揚されるナショナリズムとは何なのか?そしてデザインは何を表現すべきなのか?「複製技術時代」における芸術とは何なのか?騒動を通じて、多くの人々がこれらを問い直すことになった。

 デザインという枠を超えて、これはもう現代美術の課題として引きうけてもいい騒動なのかもしれない。

 というようなことを考えていると、とうとうエンブレムの使用中止が正式決定になった。ようやく騒動には一区切りがつくわけだけれど、ひとつ、気になったのはオリンピック組織委員会による記者会見の内容だ。

(会見より抜粋)

取り下げの理由は国民の理解を得られなくなったこと。

佐野さんは盗作したことはないと明言しており理解している。

ネット社会でデザインの独自性を確保するのは難しいと思い全く仰るとおり。

 多くの人々が憤慨しているように、仮にこれが「使用中止は理解できないネット民のせいだ」という趣旨を含むとするなら、随分と組織委員会や選考委員会は前衛的な立場に立っているのだなあ、というのが気になった。或いは、ネットとアートをどのような関係として見ているかが気になる。 


 改めてネットとアートについて、雑感的に振り返って考えてみよう。

 オリンピックエンブレム騒動をネットで見ていると、「デザインのためのデザイン」や「アーティストの独りよがり」といった声をちらほらと見かける。ちょっと前の日展の不祥事と改組といった問題まで持ち出してきて、それが日本の美術界全体に共通する宿痾なのだと指摘するような突っ走った声まである。

 え?現代美術はそんなことないぞ?

 よく、「専門家だけの世界」の代表として言われる現代美術だけれど、実のところ現代美術はこのところ動員数をかなり伸ばしている。かってのようにガラ空き展覧会が続くような状況じゃない。ちなみに、かつてあまりにもガラ空き状態が続いたので、窮屈な「画壇」さえまともに育たなかったのが現代美術の世界である。

 商業イベント化し過ぎているとの批判もあるけれど、瀬戸内の島々をめぐる瀬戸内国際美術展はのべ100万人の動員に達するし、六甲山中で開かれる六甲ミーツ・アート芸術散歩も40万人に及ぶ。森美術館で開催された会田誠さんの「天才でごめんさい」展はのべ49万人を動員した。

 会田さんは1人でコミケ2日分の人々を動員するわけだけれど、ネットではあまり評判にならない。というか状況はあまり理解されていない気がする。先日、MOT(東京現代美術館)で会田さんの作品撤去騒動が持ち上がったのだけれど、ここでもやはり「専門家だけの遊び」といった声は割と良く聞こえた(但し、会田さん擁護の声も多かったので、やっぱり状況は変わってきたんだろう)。

 
 現代美術がネットであまり理解されないのは、コピペができないからだ。

 とまあ、こう言い切ってしまうとあれこれ語弊はあるけれど、要するに現代美術は「ネットでは体験できないしコピーもできない」(一部そういう作品もあるけれど)。

 野外などでのインスタレーションやアクションが現代美術における大きな流れとなってどれぐらいになるのだろう。このところ地方の村起こし含みの芸術祭なんかは、どうも地蔵や碑文といった類いのモニュメントへの志向に落ちかかってる気がしないでもないけれど、それでもとにかく、これらはその「現場」にいって体験してみないと意味がない。

 写真や文章で紹介することはできるけれど、民家の二階に敷き詰められた泥人形に戦慄したり(『誕生-性-生-死-家-男木島伝説』北山善夫)、海の畔で鼓動の音を聞きながら「生の終」を静かに思うなんてこと(『心臓音のアーカイブ』クリスチャン・ボルタンスキー )は、その作品の現場にいかないと体験することができない。誰かにこの体験をコピペして引き渡すことはできない。

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 もっと大きく言えば、もともとタブロー(平面作品)とて、100号200号の単位の大きさになったり、筆使いや絵の具の厚み、マチエール(手触り、材質感)のあるものを図版やネット上の写真で再現することはなかなか難しいのだけれども。

 まあ要するに「アート」はコピペができない。


 ところで、そもそも現代美術というと、デュシャンの『泉』あたりがあまりに有名で、この作品をもとに現代美術なるものを語ろうとする人は数多い。のだけれど、あの作品、実はデュシャン本人ら一部の人達を除いて誰も実物を観たことがない(ギャラリー291で数日間は展示されたという説もあり)。誰でも出品できるはずのアンデパンダン展でさえ展示を拒否され、そのうちに処分されてしまったからだ。

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 それをデュシャン自身が告発してはじめて騒動は知られるようになったわけで、今残っているのはファンが持ってきた便器に「公認」してサインしたもので、これは数百個存在すると言われる。当の実物は写真しか残っていない。

 つまり、私たちは「騒動の記録」を現代美術の代表作として語っているわけだけれど、あくまで記録語りだ。先の会田さんの作品撤去騒動にしてもそうで、あの「現場」で美術館のあり方について「体験」しなければ意味がない。


 さて、話をオリンピックエンブレムに戻していく。

 仮に、オリンピックエンブレムを「デザイン」ではなく「アート」として、「現場」のものとして考えた場合、どうなるのだろうか?

 たとえば、「並べれば鯨幕」という批判があったけれど、それはありえない。「現場」で並べるなら発表会見のように格子状だろうし、或いはコンセプトとして提示されていたテキスタイルな展開というやつだろう。

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 しかしながらネットではそうもいかない。ベタ並列に並べるのなら評判の良い1964年版エンブレムだって日の丸が通常より大きいので相当シュールな図ができあがることになるわけだけれど、そんなことおかまいなしに今回のエンブレムをベタ並列に並べて(かつ合間を詰めて)鯨幕画像を作り出す人々は出てくる。

 あらためて騒動を通じてみると、エンブレムは他の場所で好き勝手にコピペされるようなことを前提としない、デザイナーのディレクション下という「現場」で展開されることを前提に考えられていたんだな、要するにかなり「アート」ディレクション重視な代物だったんだな、ということが理解できる。(それがこれまでの会見などでデザイン側がコンセプト等の言葉を用いて説明したかったことなのだろう)

 それがネットにも大量にばら撒かれる「デザイン」として良かったかどうかは別として。


 さて、オリンピックエンブレムは正式に使用中止となり、永遠に佐野氏ディレクションによる「現場」を体験する機会は失われてしまった。私たちが見ているのはいわば断片であって、オリンピックという現場に現出したディレクションされたアートではない。

 先述したデュシャンの『泉』と同じで、実物抜きで騒動の記録だけが残っていくことになる。騒動の記録だけが「現代美術史」として独り歩きするように、この騒動も記録だけが独り歩きしていくのだろう(というか既にしている)。


 この「騒動の記録」を現代美術はどのように受け取っていくべきなのだろう?

武藤議員はゲイや性的マイノリティに泥を塗る「馬鹿者」である

 出資法違反疑惑に続いて、武藤議員の未成年男子売春疑惑が『週刊文春』によって報じられ、大きな騒動となっている。

 一方で「ゲイ差別だ」と反射的に応ずる声もある。しかし、武藤議員はゲイだから批判されているわけではない。

 AppleのCEO、ティム・クックにせよ、マット・ボマーリッキー・マーティンにせよ、ゲイだとカミングアウトした著名人はこれまで大勢いるし、彼らに対する世間の反応も一部を除いておおよそ好意的なものだった。

 対して、武藤議員の叩かれようだが、ゲイだからではなく、出資法違反疑惑を含めて、やらかしてきた所業の上で叩かれているのである。「疑惑の人物」がゲイだったのが話題なのであって、ゲイだから批判されているわけではない。


 これは男女を逆にしてみればわかる。「国会議員が未成年女性を売春し、議員宿舎に引っ張り込んで奴隷扱いして愉しんだ」-恐らく、実際にはこちらの方がよほど致命的である。嗜虐的な性的趣味と搾取としてどのような層からも支持されないものだ。

 逆に、ゲイネタが先行して「助かっている」部分すらあるのではなかろうか。

 
 クックをはじめとする著名人達は、自身の「偉業」によってゲイの社会的地位やイメージを改善にするのに貢献してきた。彼らに勇気づけられ、カミングアウトする人達は続いている。逆に、武藤議員はその所業によって「ゲイ」の立ち位置を著しく損ねている。彼に続く人などいやしないだろう。

 今後は、性的マイノリティ保護のために活動すればよい、などと気楽に書いている人達もいるが、何をふざけたことを言っているのかと思う。「オタク」のレッテリングのように、「ゲイ」というレッテルがそのように扱われるのではないかという心配も良くわかる。けれども、だからといって弁解にはあたらない。彼こそ性的マイノリティに対して泥を塗りかぶせる者だ。

オリンピックエンブレム騒動② グローバリズムとナショナリズムの軋轢

 何を踏み抜いたのか、前回のエントリはかなりの反応をいただきました。コメントに対する返信含めて、続きを書きます。

 「世界標準」を目指し、これにナショナルなものも継ぎ足そうとしたものが東京オリンピックエンブレムであって、それは人々の求めるものとはすれ違っていた。というのが前回のエントリの要訳。


(では、カードをひっくり返してみてください。)

 さて。この「世界標準」は、「」をつけて濁した言い方で、察しのいい方は理解されていると思うけれど、横文字にしてみればすぐ正体がわかる。要するに「グローバル・スタンダード」なるもののこと。ちなみに日本でしか通じない実は和製英語である。こう書くとあまりにバラバラにニュアンスがバラけるので(それこそがこの騒動の性質なんだけれど)、「」づけで日本語で書いた。

 なので、世界でこんなデザインが流行してますよ、主流ですよ、デザイン史上の必然ですよ、標準なんですよ、というのとはやや意味合いが異なる。或いは、それが優れたデザインであるとか、これを理解しない者は芸術的センスがないとか、そんなことも即座には意味しない。(文字通りそうと受け取った方からは「勉強不足」や「底が浅い」などのコメントを頂きましたが、そうではないのです)

 デザインにおける文字通りの世界的な標準なのではなくて、端的に言えばグローバリズムを志向するデザインのこと、を意味している。

 ITやネットがグローバリゼーション第一の尖兵であることは改めて詳細するまでもないことだけれど、「フラットデザイン」が「世界標準」だ、というのは、いまのところGoogleMicrosoftが「グローバル・スタンダード」(なデザイン)だという、つまるところ現在の状況そのままを述べただけに過ぎない。

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 その上で、「フラットデザイン」が持っている意味合いは、過去から連綿と続けられてきたタイポグラフィやロゴなどとは質的に異なるように思う。いや基本は同じかもしれないが、そこには「より」熾烈な意志がある。平たく言えばGoogle先生らのグローバリズムを体現するのが「フラットデザイン」なんである。


 「史上最もイノベーティブで、世界にポジティブな改革をもたらす大会とする」という、どこかで聞いたような「グローバルな」ビジョンを掲げているのが東京オリンピックだ。ひょっとしてこのビジョン、「パクリ」を追求する人達からしてあまり知られていないのかもしれない。(https://tokyo2020.jp/jp/vision/

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 こうしたビジョンに基づいて、当然、公式オリンピックエンブレムは作成を要求されただろうと思われ、これに「日の丸」を加えることも恐らく最初から要求されていたのではないか、というのが筆者の見立てであり、これに従ってできあがったのが佐野氏のデザインということになる。コネやら情実以前に、まず何をビジョンとしたかったのか、である。

 「グローバル・スタンダード」が実は海外では通用しない和製英語だと先述したが、オリンピック委員会ならびに佐野氏やこれを選出した委員会が思い描いた「グローバルに通用するデザイン」があのエンブレムなのだろうということになる。

 (「フラット」という性質だけで即座にそう位置づけるのは確かにかなりの飛躍で)性急にその形式だけでエンブレムをそのように位置づけるわけではない。オリンピック委員会的「グローバル」(とナショナリティの接合)はあのような極端にフラットでややちぐはぐな形で表れた、ということになる。

 それはどのような結果をもたらすか?

 それがiPhoneOS7を用いた類推で、デザインを変えるには後発で、OSの固有性から離れられないiPhoneは人々からの評判を得るのに苦心惨憺なありさまだった。

 ぶっちゃけユーザーの多くはiPhoneOS7にAndroid等とは違う「らしさ」や「さらに上回る何か」を求めていたわけで、東京オリンピックエンブレムに人々が求めていたのもそれだろう。

 「パクリ」批判側におもねった言い方をするなら、「グローバル・スタンダード」と「ナショナルなもの」、そして或いは固有でフォークなものを上手く接合して人々に提示し説得する力がデザイン側になかった、ということになるだろうか?ビジョンに謳う「イノベーション」失敗である。

 ぶっちゃけて言うなら、和製英語たる「グローバル・スタンダード」が日本社会に持ち込まれて以来、あちこちでトンチキな悲喜劇が巻き起こっているわけだけれど、要するにこれを拡大して大きくしたものが東京オリンピックエンブレム騒動ではないのか、と。

 「世界標準」の語につっかかった方々には申しわけないけれど、筆者が描きたかったのはデザインの優劣ではなく、バラバラなビジョンをめぐって争う人々の構図に尽きる。


 以下はある程度別の課題の話。エンブレム騒動に関してはここまでであとは読まなくていいです。


 「グローバリズム」と「ナショナリズム」、そして固有のものとで軋轢を引き起こしているのは何も東京オリンピックだけではなくて、実のところいまの日本全体がそうだ。

 「グローバリズム」、新自由主義という言い方をする場合もあるけれど(厳密に言うなら違う)、新自由主義ナショナリズムは特に90年代以降、日本の政治における車の両輪だった。

 このあたりは最近出た中野晃一さんの『右傾化する日本政治 (岩波新書)』が首尾よくまとめているけれど、一見、相反するかに見える新自由主義ナショナリズムだが、グローバリズムによって市場開放、規制緩和、小さな政府と、縮小していく政治権力を、ナショナリズムの強権が補強することによって互いを補強しあってきた。

 要するに権力が相対に小さいから吠えるのであり、また小さいからそれを必要とする。自民党の「変わり者」だった小泉元首相が「改革」の巨大な声援によって断行をなし、「お友達内閣」に囲まれた安倍首相が非常にイデオロギッシュな支持層を背にするのもこの基本的な構図による。

 ところが、それはたとえば憲法という強力に固有なものにぶちあたると一挙にけつまづく。いや、一度けつまづいてしまうと、一挙にその基盤の弱さが露呈する。

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 あれほど強力に見え、周りを取り囲む人々が「我が世の春」を謳うかのごとき発言を繰り返していたにもかかわらず、SEALDsの蜂起を狼煙にして、学者たちは一斉に反旗を翻し、主婦や高校生や老人達が反対を声にし、これまで口を閉ざしていたような多くの著名人や市井の人々がいまや発言をし、と総崩れである。

 支持者たちは「いや、そんなことはない」と声を大にするし、勿論反対だけが著名人や市井の声ではない。彼らも慌てて対抗の陣を張る。けれども、それも含めて誰が見ても現在の政治はかなり混乱した状況にあるとしか言いようがない。グローバリズムは自由と民主主義を求める声とアメリカからの要求とに分解している。ナショナリズムは反米や反中韓から屈服を罵る声と、なお復古主義に期待をかける声とに分解してる。

 随分と従来からの主張と姿勢を変え、バラバラに分解したピースを拾い集めるように、仔細で非常に長々とした「国民統合的」な70年談話を発表した安倍首相の立ち位置は、いまそんなところにある。パーツは集まるのか、今後の行方は分からない。


 一方で「裸の王様」と化してしまったオリンピックのエンブレムは「もう駄目かもしれない」。東京オリンピックそのものの存立にさえ及びかねない一連の騒動は、やはりいまこの国の状況をある程度反映しているように見える。繰り返す、東京オリンピックはどこへ行くのだろうか?或いは何を目指すのか?

オリンピックエンブレム騒動 「世界標準」デザインの敗北

 正直どうでもいいというか、オリンピック自体にあまり興味がなく、下の記事のような感覚で騒動を見ていた。だいたい、騒いでる人達のTwitterだって、そのアイコンどこのアニメから持ってきたよ?ってのも結構いるじゃね、とか。

 ところが、あれよあれよという間に騒動は大きくなり、とうとう佐野氏の手掛けた作品のなかに、素材の「無断借用」と思しきものが見つかり、一部は取り下げが始まった。これは「パクリ」ではない。けれども、大阪芸大の純丘教授が言うように、「もう駄目かもしれない」。

 何故なら、どうも傍から見ている限り、エンブレムのデザインが「パクリ」かどうか以前に、そもそも「気に入らない」から騒動には火がついているように見えるからだ。発表当初から「喪章のようだ」「躍動感がなくオリンピックらしくない」と散々に評判が悪かったわけだけれど、「気に入らない」から騒動が始まっている以上、たとえ何とか盗作の誹りを免れようとも、収まらないかもしれない。

 タイミングも悪かった。森組織委員会長が「生ガキ」といみじくも言ったように、国立競技場問題は結局のところ「なんでこんなケッタイなもんに多額の出費をせにゃならんのだ?」に尽きていた。その後、東京都のボランティアコスチュームが極端な不評を買い、次いで駄目押しのような形で出てきたのがこのオリンピックエンブレムだった。

 要するに東京オリンピックはことごとく「デザイン」をめぐってケチがついているということになる。

 どうしてこんなことになるんだろう?「パクリ」を追求する人達からはやれコネだの旧態然たるムラ社会だの、「日本社会の病巣モデル」に見立てられて散々にデザイン業界が扱き下ろされているけれども、それが真実なのかどうかはともかく、何故こんなにも東京オリンピックをめぐるデザインは評判が悪いのか?

 端的に言うと、この状況は、デザイン側が見ている「世界標準」なデザインのあり方と、それを受け取る人々の要求とがすれ違っていることを意味する。騒動の当初、多くのデザイナーやアーティスト達が佐野氏の擁護側に回ったのは、「デザイン村」とかいう話ではなく、ある程度いまデザインが置かれている状況を踏まえてのことだったろうと思う。簡単にいえば、この方向のデザインを理解して欲しい、に尽きる。


 身近な例から説明するけれど、今から2年前のこと。iPhoneiOSが、バージョン6から7へとアップされる際に、著名なAppleのデザイナー、ジョナサン・アイブの指揮の下で大きくそのデザインが変更されることになった。それまで「スキューモフィズムデザイン」と呼ばれていたものから、「フラットデザイン」なるものへと根本から一挙に変更されることになる。

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 「スキューモフィズムデザイン」とは、現実のオブジェクトをモチーフとし、それを模倣したデザインのことで、例えば時計アプリなら、時計そのものをあしらった具体寄りのデザインを指す。

 対して、「フラットデザイン」とはなるべくシンプルかつ飾り気のない、デザイン性に特化したもののことで、時計なら針や数字といった象徴的部分や、或いは単に「Clock」といった文字を用いた抽象寄りのデザインを指す。

 「フラットデザイン」はこうしてiPhoneに取り入れられたばかりではなく、Windows8のタイルOSやWindowsPhone、Androidでは先行して実施されており、或いはWebにおいてここ数年大きくあちこちのデザインを塗り替えてきたものだ。

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 明記しておきたいのだけれど、身近なネットやスマートフォンがいまやそうであるように、言うなれば「世界標準」としてのデザインの流れは、現在のところ「フラット化」(この言葉で言うにはやや語弊があるけれど)にある。

 東京オリンピックに即して言うなら、佐野氏のデザインしたものは「フラットデザイン」であり、パクリやらをさて置くなら、「世界標準」の流れのものだ。展開力あるテキスタイルな記号性を重視したのは佐野氏本人が述べているところ。

 対して、「こちらのほうが良かった」としばしば取り上げられるオリンピック招致用エンブレムはやや「スキューモフィズム」寄りのものである。私個人的な感覚としてもオリンピックに具体民族的なものを取り入れたがるのは途上国開催時のそれっぽい気がしないでもない。

 仮にこれらのエンブレムをスマートフォンのアイコンなどに置き換えて考えてみれば、どちらが最近の潮流に沿っているかが理解できるのではないかと思う。

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 オリンピック公式エンブレムの選出がどのように行われたかは委細知らないが(騒動において追求されている最中だと思うけれど)、デザインにいまどきの「世界標準」が求められただろうことは想像に難しくない。それに、「日の丸」を入れ込もうという意思も最初からあったのではないかと思う。「フォーク(民族)」ではなく、「ナショナル(国家)」を入れ込もうというわけだ。これに適ったのが佐野氏のデザインということになる。

 およそのちぐはぐ感は「国際標準」にナショナルなものを継ぎ足したところにあるわけだけれど(「日の丸」を抜けば「完成形」であるベルギーリエージュ劇場のロゴになるわけだが)、それはさておき、概して忘れられがちだけれど、デザインにはもともとのクライアントからの要求がある。最初から東京オリンピックのエンブレムは、誰が手掛けようとおよそ佐野氏のデザインのようなフラットなものになっただろうと予測できる。


 ところで、iPhoneにおけるiOS7の評判はかなり悪かった。様々なチームで急造でとにかく作り上げたという事情もあって、「ダサい」「iOS6が良かった」のオンパレードで、海外でもデザイナー達が「オレが考えたiOSデザイン」をあちこちで発表し、「こっちの方がいい」と評判を呼んだ。「AndroidやWindowsPhoneのパクリ」との声も根強くあった。今回の騒動のパターンにとても良く似ている。

 iPhone本体にしても、評判の良かったiPhone4は今から見ると「ジュエリー」に寄って装飾過多にも思えるものだ。対して、iPhone5以降はエッジ処理をつきつめたシンプルかつフォルマルで完成度の高いものだが、こちらは「サムスンのGalaxyのパクリ」の声しきりである。ジョナサン・アイブが手掛けたデザインからしてこんなありさまだ。

 要するに、「フラットデザイン」はあちこちでつまづいている。「世界標準」の流れであるにもかかわらず、得てして人々の評価を得ることにしくじっている。特に後発になればなるほど苦労している印象がある。

 東京オリンピックのエンブレムは、いまから「世界標準」を求める限り、あらかじめある程度「失敗」や「不評」が運命づけられていたのではないかという気がする。東京都のボランティアコスチュームにしてもそうで、選評は「キッチュでシンプル」というものだった。それに対して、伝統的な「浴衣や法被でいいじゃないか」「忍者とか、それらしいのあるでしょ」といった声が挙がったわけだけれど、ここでもデザインする側とそれを受け取る人々との間にある、デザインに対する認識や要求の断絶を見ることができる。

 端的に言うなら、このままの路線で進める限り、たとえ佐野氏に誰かが替わっても、あるいは何かオリンピックに関するデザインが発表されるたび、ケチはつき続けるということになるだろう。

 
 では、どうすればいいのだろうか?デザイン側の認識と人々の要求とのズレは、このエントリのようにいくら言葉で説明したところで埋まるものではない。スマートフォンやWEBでの「フラットデザイン」の成功(?)は、IT界隈全体の「より機能的な世界へ」といった熱量やビジョンによって支えられている。

 東京オリンピックにはそれがない。もともと開催からして賛否別れたオリンピックだったけれど、いったい何のために開催するのか、人によってばらばらで足並みが揃わない。例えば「よりユニバーサルで、より機能的な世界と文化を実現するのだ」といったような、衝迫力あるトータルなビジョンを持って望むなら、或いはそのように人々を納得させるなら状況は随分と変わるだろう。けれども、どちらかといえば現在は復古的な「オラが国のオリンピック」という欲望に引っ張られがちなように見える。彼らは一方で「日の丸」の意匠されたナショナルなものにつっかかっているわけだが、それと「世界標準」との妙なちぐはぐさがわかりやすく不満を呼び込んでいる。

 東京オリンピックは何を目指し、どこへいくんだろうか?


 続きの記事を書きました↓ コメントに対する返信を含めていますので、下記の記事をご覧ください。特に「世界標準」についてコメントされた方は続き記事をご覧ください。

防衛省内部資料の暴露は何が問題なのか?Q&A


 共産党防衛省の内部資料を暴露し、参院特別委員会が空転した件について。なんでこれが「独走」なの?など、あれこれ疑問やらが飛び交っているので、Q&A形式で自分なりの言い方にまとめてみた。


Q.成立を見越して準備するのはいけないことなの?

A.準備するのは政治家(防衛相なり)の仕事です。
  (なので国会でこの場合はどうする?とつっこまれます。審議とはそういうものです)

  統合幕僚の仕事ではありません。

  幕僚の力を借りて検討し準備しても構いませんが、
  その場合、防衛相が知らないとかありえんわけですよ。

  知らないとなると
  これは統合幕僚の独走って話になりますね。


  ちなみに、準備していたならそれを明らかにするべきで
  なんで黙ってたんだ?と言われることになります。


 いくつかの場所にも書いてみた。これ、物凄い問題じゃないかなあ。安倍首相がこれまで説明していた、中国の脅威やペルシャ湾の話ともやや違うし。

オタカルチャーと戦争 『GATE-自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり-』と文化帝国主義 

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 いま、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』のアニメ放送がなされている。知らない人のために一応説明しておくけれど、ある日、銀座に突如現出した門をくぐって異世界からの侵略軍がやってくる。これを撃退した日本政府は、逆にこの門の向こうの「特地」に自衛隊を派遣することを決定する。派遣隊員となった主人公たちの異世界での活躍やいかに、というお話。

 よりによって「自衛権」が非常な政治的焦点として渦中にあるこの折に、アニメの放映がなされるとあって、もう始まる前からウヨサヨ激しい争論材料になると予測されていた。そして、予測通り(主に「左」側からの)「トンデモ」発言や批判を取り上げてまとめサイトやブログやで面白おかしく祭り上げる作業が始まっている。

 しかし、正直、祭りを心待ちにしているのはまとめサイトやブログであって、実際のところ「市民団体」なり現実の政治的諸勢力にとってはどうでもいい話である。どこかの議員が取り上げたり、何かの反対運動が起こったなどという話はついぞ聞かない。取り上げられるのも個人のうっかり発言のようなものでしかなく、要するに今のところオタ界隈の自作自演に近いのが『ゲート』をめぐるウヨサヨ論争なんである。

 それでも、あえて(いや、オタだからこそ)踏み込んでみることにするけれど、オタカルチャーと戦争、これはどのように問うことができるのか?長くなるので、はじめにあらかた結論を書いておくけれど、この作品は非常に「文化帝国主義」的で侵略的な構図による作品だと思う。幾つかの観点を経由しながらこれを述べていく。


1)リアリティ

 最初に、大雑把な感想を述べておくけれど、『ゲート』は頭を空っぽにして読む、観るぶんには非常に面白い。多彩なキャラクタ達が多面的にぶつかりあう様は、さまざまに感情をかきたてて飽きさせない、良くできた立体的な群像劇だ。キャラそれぞれの背景が堀り込まれており、各々に彩りある存在となっているのがその面白さの秘訣だろうと思う。相当多数のキャラクタが登場する複雑な群像劇にして捨てキャラがいない。

 なので、例えばこの批判は方向をやや間違えているかもしれない。創作上(特にキャラクタ小説であるライトノベルオタカルチャー系小説において)、キャラクタの「リアリティ」はそれぞれ設定された個性が強度をもっているかどうかで測られるべきであって、実在の人間に近いかどうかを即座に意味しない。群像劇である『ゲート』ではさらにそれが強まる。

 焼け落ちた村におけるリアクションは阿呆な男二人(伊丹、倉田)を冷ややかに眺めるしっかりものの女性陣(黒川、栗林)という対比で描かれるけれど、今後も主人公配下で中心的に活躍するキャラを抜き出して、ほぼ最初の性格づけをする場面でもある。仮にここでPTSDを描くとするなら、この作品の場合、このキャラは後述するような「残酷な」特地において、(テュカのような保護民ではなく)自衛隊員としては足を引っ張りまくる役に立たずな「叩かれ役」となるほかなく、より好戦度を増す結果になっただろう気がする。

 その上で、「リアリティ」を何と捉えるかによるけれども、そもそも戦場を「リアル」に描けば良いかというと、そうではない。或いは、リアルに描けていないから戦争賛美だとか、リアルだから戦争への反対になるかといえば、単純にはそうならない。何故なら、実際の歴史においては、むしろ「リアリズムによって戦争は扇動されてきた」からだ。

 現代美術は、戦争へと向かう流れの中で、ナチスの大ドイツ芸術展や日本の戦争画ソ連社会主義リアリズムといった「リアリズム」によって圧殺されていったという歴史を持っている。戦時の指導者たちは表現に対して「リアリズム」を要求することによって国民の戦意向上を図り、また敵への報復を煽る。戦時ほど、教科書から報道や物語まで死や悲惨や「戦場のリアル」で溢れかえる時代はないんである。(逆にメルヘンが抵抗となったりするような時代である)

 歴史を紐解くのがややこしいなら、次の例での説明でもいいかもしれない。FPSゲームでも、リアルであればあるほど残虐嗜好性や好戦性は高まる傾向はある。

 『ゲート』の場合、リアリティがないというよりも、それはむしろある方向に飛び抜けている。アニメではずいぶん抑制されているけれども、この作品における蹂躙や虐殺、凌辱描写は特に前半、えげつない。「特地」における戦乱とは、まさに「男は皆殺し、あらゆるものは略奪され、女は凌辱され奴隷とされる」世界である。それは単に世界だ、というだけでなくピニャが何度も口にするように、妙に強調されている部分でもある。

 その上で、「こうした残虐こそ旧日本軍がやったことじゃないか」とかいうような無理筋な、一部から作品への批判として述べらているような類推がしたいわけではない。ここでは、これは「旧日本軍が言っていたこと」だというところにポイントがある。

 敵に敗れれば「男は皆殺し、あらゆるものは略奪され、女は凌辱され奴隷とされる」は、敗戦必至な状況においてなお本土決戦を呼号する旧日本軍のもので、私たちにとって非常になじみ深いものだ。結果、沖縄戦での集団自決など夥しい悲劇を招いたとしてあまりに悪名高い。要するにこれは最も古典的にして典型的な、投降など「戦争から降りる」ことを許さない戦意高揚のプロパガンダに他ならない。

 軍でさえ状況によって降伏し投降することが許される近代戦において、市民にすら逃げ場を与えないという言説が何をもたらすかは歴史によって証明されているわけだけれど、今日でも、「中国が攻めてきたら……」という形で、同じ定型文は繰り返されている。なんとなればこの作品に対するコメントとして叫んでいるのを見かけることもある。

 『ゲート』の場合は、「特地」がまさに「そうだから」というこの世界において強調された理由で、自衛隊は軍事的アクションに踏み切っている。炎龍や帝国軍の襲来に対してにとどまらず、城市を襲う残兵暴徒を軍用ヘリ群を出して殲滅し、日本人性奴隷に対する報復として従臣達をハチの巣にし、ついでに威嚇空爆まで踏み切っている。

 端的に言えばこの作品における戦場の「リアリティ」は軍事的アクションを正当化する手段に他ならない(ので、この作品にリアリティを求めることは補強にしかならないだろう)。近代的な軍隊である自衛隊に対して、「向こうの世界」をこのように描く不均等が何をこの作品にもたらしているかについては後段にて改めて述べる。


2)イデオロギー

 自衛隊を描いているからああだ、こうだというのは、多くの人が反論するように早とちり過ぎる話だと思う。

 原則的に、自衛隊はどのように描かれても構わない。襲来した怪獣と戦おうが、タイムスリップしようが、クーデターを起こそうが構わない。創作上においては、何となればアジア諸国に侵略に出ようが革命勢力や在日外国人を虐殺して回ろうが、はたまた、まるで軍事など関係なく美少女隊化してひたすらキャッキャウフフしていてもいいんである。というか、ぶっちゃけ創作において、周りからのあれこれの声を度外視するなら自衛隊は「使いやすい」組織ではある。自衛隊の側は怒るかもしれないが。

 何故なら、自衛隊はその発足以来、個々の事故やら不祥事やらはさておいて、一度も侵略行為はおろかまともに交戦的な行為をしたことがない「宙吊りの」組織だからだ。やってもないことの罪やら道義やらを問うても虚しい。むしろ実績を積み上げている災害復旧や途上国支援について描くほうが、逃げようがなく「使いづらい」。

 勿論、軍隊というものは戦うものであり、まして自衛隊は旧軍を色濃く引き継いでいるではないか、また米軍の事実上の下部組織ではないか、と見ることもできるけれど、そんなことは現実上の自衛隊に対して言うべきことである。逆もしかり、もっと「普通」の軍隊であるべきだとか、核や空母を持てといったことも同じだ。まさにその自衛隊の「色づけ」をめぐっていま国会では争っているわけで、現実の自衛隊自体の位置づけはそちらでやれ、ということになる。(というかアニメで語らずそちらに注力するべきだ)

 一方で実在の人物についてはどうだろうか?『ゲート』では麻生現副総理や社民党の福島現副党首をモデルにしたと思しき人物らが政治劇を演じ、そこらへんが明快な批判ポイントになっている。

 織田信長が女体化する時代なので、目くじら立てるなよと言う人もいるだろうけれど、例えば麻生氏に代わって民主党の前原議員、福島氏に代わって自民党の片山議員あたりがその役を努めて描かれれば、必ず激怒する人が出てくるだろう。もしくはこの性質に気づくだろう。自民党ないし「ネトウヨ」のプロパガンダと言われても仕方のない部分である。

 但し、一方で安倍現首相と思しき人物などは弱々しい人物として描かれており、他の自民党閣僚などもそうだ。簡単にプロパガンダと断ずるのは現実の政治模様と引き比べると実際には難しい。結局、これらの人物や自衛隊を用いて「何を描いている」か、がポイントになる。


 『ゲート』は先述したように、近代的な軍隊である自衛隊に対して、「特地」を残酷で野蛮な、そして未開な世界として全く不均等に描いている。これは軍事だけではなく、文化や技術、生活様式にしてもそうで、難民たちをはじめ「特地」の人々は現代日本の高度な文化、技術によって救済され援助されることになる。

 そのこと自体は異文化が衝突する際、よくありうる話ではあるけれど、留意しなければならないのは、『ゲート』においてこの不均等は極端に一方的なものだということだ。生活協同組合PXを設置して自衛隊員と「特地」の人々との交流が描かれたりなどするわけだけれど、「特地」の人々が自衛隊や現代日本の文化や技術に驚嘆し、賞賛し、また手放しで取り入れようとするのに対して、その逆は一切ない。

 現代科学を根底からひっくり返すような魔法や神霊の存在といったものがあるにも関わらず、自衛隊や日本側がレレイの魔法やロゥリィの宗教を入れることはないし、それに興味を示すことすらしない。「特地」の女性達は現代日本の服飾に喜び、特にテュカは普段着としても好むけれども、逆に栗林や黒川といった女性の自衛隊員達が「特地」の服を着飾ることは全くない。BLに女性騎士団がはまり、古田の振舞う料理に帝国皇子をはじめ「特地」の人々は魅了されるが、自衛隊員たちが現地の食事に驚いたりするシーンは一つもないのである。

 「特地」の異文化は、自衛隊や日本にとって軍事的オプションを是とし、または証人喚問にて福島(らしき)議員を黙らせる手段以上のものではない。或いは「特地」の獣人たちを「コスプレ写真集」として鑑賞する以上のものではない。

 これは「異文化交流」ではない。多彩なキャラクタ達が多数入り乱れて登場するにも関わらず、終始一貫、徹底して「特地」は時に武力発動をも許容する下位の存在であり、この構図は「文化帝国主義」そのものとしか言いようがないだろう。

 『ダンス・ウィズ・ウルブス』や『アバター』のように、近年のハリウッドでも強く意識されるようになった、「文化帝国主義」に対する批判意識、或いはポリティカル・コレクトネスといった視線は全く『ゲート』には存在しない。なお、自衛隊員である主人公を、テュカ(善良な市民)、レレイ(知識人)、ロウリィ(宗教)が囲んで「ハーレム」状態とし、ピニャ(王権)を立てて内乱に介入していく物語であって、要するにより直接的には傀儡国家をつくる植民主義的物語として読むこともできる。

 自衛隊を描いているからではなく、この物語の構造が侵略的でいびつなんである。

 この場合、自衛隊はむしろ軍事力という一つの道具立てに過ぎない。麻生氏や福島氏もその道具立ての一つであって、自衛隊やこれら政治家をも援用して、傀儡国家をつくっていく物語だということができる。

 そして、これは異文化交流をまともに描けないとか、気がつかないとかいった無自覚的なものではなく、恐らく作者においては相当に自覚的なものだ。そこまで首尾一貫して不均等な世界は描かれており、余計なものは一切登場させない。作者のサイトには「文化帝国主義反対」という言葉が掲げられており、この意味を知らないはずがない。ここにおいては、この作品はある種のプロパガンダと見なすことができる。

 当の自衛隊や麻生氏はそんなこと考えちゃいない、と激怒しても構わないわけだが、頭が痛いのは、このアニメに自衛隊そのものが協力して自衛官募集ポスターをつくったりしていることだ。

 多民族や全世界を相手にするハリウッドならいまや通らないような、古臭い、あからさまに自画自賛や文化帝国主義的な姿勢が見えやすいこの作品、発展途上国や現に自衛隊PKOに出ている諸国の人々からすれば、呆れるような代物じゃなかろうかと思う。むしろ自衛隊や日本の評判を落とすだろうことのほうが心配になってくる。「ジャパニメーション」は国策としてあからさまに文化帝国主義をすすめるものだ(だから先に進んでるハリウッドにゃ勝てないんだよ)とよく批判されるけれど、それをアニメ自身で体現してどうすんだという話である。


3.ファンタジー

 最後に、戦争モノをめぐる議論で良く「ファンタジーにつっこみを入れるなんて野暮」という反論があるんだけれど、この場合は、「レイプはファンタジー」とかいうレベルのファンタジーなんである。

 別にレイプもの漫画やら動画やら構いやしないし、男の性として好きに楽しめばいいわけだけれど、それが現実には犯罪であり、「女が最後に快感に目覚めたりするなんてファンタジー」ってことを理解できていないならアウトである。ファンタジーでも、それは「いびつなファンタジー」だとちゃんと理解し自覚しているか?が問われる。

 『ゲート』の場合、これは非常に面白いんだけれど侵略的である。それに尽きるわけだけれど、逆にこれを理解していないならヤバイ。あまつさえこの作品をもとに「ブサヨ叩き」しているなど、目も当てられない。

 わざわざ(このブログのように)議論する必要なんてないんだけれど、自分なりにつっこみいれながら楽しむのが正解かもしれないよ。