雨宮まみさん

普段あまり、人の死について触れる事はありません。詳しく知らないのに下手に触れても却って失礼なんじゃないかなと思いますし。
ただ雨宮まみさんについては、その死はとてもショックでした。
彼女の書く文章の全てを読んだ訳じゃない。それでも基本的にとても共感できる文章だと思っていた。等身大で優しい目線で、落ち着いた、温度の低い文章で。ポジティブさを無理に押し付ける事もなく人の負の感情もありのままに受け止めて。そんな彼女の文章が好きでした。個人的な付き合いがあった訳でもなんでもないけれどTwitterを見ていてもある程度、信頼のおける人柄だと感じていました。
『こじらせ女子』という言葉も、他の人によって曲解されたけれど少なくとも彼女が使っている限りにおいてはあくまで自分自身をみつめた、他人への攻撃性のない言葉だと思っていたので不快感はなかった。
彼女は喪女ではなかったんだろうけれど、喪女マインドの分かる人だったと感じている。マウンティングや上から目線を感じず自然体で読めて好きでした。


マイナビニュースの連載。
『ずっと独身でいるつもり? 70 独身でも、私は私』
http://news.mynavi.jp/series/dokushin/070/
この連載も好きでした。あまりにも共感できる事がありすぎて。この最終回が2013年12月31日。もう三年近くになるのですね。三年近く経って、独身女性に対する世間の風潮が好転したかと言えばその逆で。独身女性に対する卵子の老化煽りもますます酷くなり、リベラルやフェミニストすらも「子供を産み育てやすい社会に」という方向の主張ばかり。この連載の中で雨宮まみさんは三十代以上の独身女性、それも「結婚したくない人」ではなく「結婚したいけれどできない人」に対する世間の無神経な声を多数取り上げています。そんなの気にしなければいい、というのは簡単ですが、気にせずに生きるのは無理だと思います。
世の中、「結婚したくない、そもそもする気が全くない」女性をエンカレッジする文章はそこそこあります。創作物においても「恋愛ものなんてくだらない」「恋愛要素が薄い作品が名作」という空気が支配的ですし。フェミニストから受けるのもマッドマックス怒りのデスロードやリブート版ゴーストバスターズのような、恋愛要素の無い『男に頼らない自立した女』路線のものばかり。でも、恋愛や結婚を「したいけれどできない」女性に対しては、男性からだけでなく女性からの視線も厳しいのですよね。


『ずっと独身でいるつもり?1 結婚できないのは自分に問題があるから!?』
http://news.mynavi.jp/series/dokushin/001/
連載の第1回目。2012年7月31日の記事です。ここには『もちろん、結婚したくない人が独身であることに理由を探す必要なんてありません。でも「結婚したい」と思っているのに「できない」場合、「なぜできないのか」という理由を、周りは探します。』とあります。
これは本当にその通りなんですよね。同じく独身である事を叩かれる三十代以上の女性でも、自分の意思で「結婚したくない」と思っている場合には「独身で何が悪いの!」と、胸を張って言える。しかし「結婚したいけれどできない」女性の場合には本当に肩身が狭い。


雨宮まみの“穴の底でお待ちしています”』
http://cocoloni.jp/scategory/anasoko/
この連載も好きでした。ネガティブな愚痴を否定する事もなく上から目線で同情する事もなく真摯で優しい態度で受け止め、かと言って肯定一色ではなく、時には厳しい事も言う。通り一遍のポジティブさや説教で誤魔化すコンテンツが溢れている中、雨宮まみさんのこのコラムは驚く程に真摯です。こういう真面目な人だから疲れてしまったんでしょうか……、ついそう思ってしまいました。


『「真央ちゃんに嫉妬してる」 雨宮まみの“穴の底でお待ちしています” 第2回』
http://cocoloni.jp/culture/28506/
これも凄いですよねえ。嫉妬という負の感情を否定しない優しさ。『嫉妬心の強さは、そのまま、感情のエネルギーの強さです。』なんて、そうそう言える事じゃない。


『「コミュニケーションが下手すぎる」 雨宮まみの“穴の底でお待ちしています” 第5回』
http://cocoloni.jp/culture/32336/
この回の悩みも私の悩みに近い。精神論ではなく具体的な方法論で回答しているのが凄い。
この文章を読んでいても、雨宮まみさんは本当に真面目な人なのを感じる。そんな真面目な人には不利な世の中なのを痛感する。



実際のところ、雨宮まみさんがどういう心情だったのかは分かりません。ただ、年の近い独身女性として私は「死にたい」という気持ちが分かる。日本で独身女性をやっていると誰も味方のいないような世の中で、生きていて何になるのか。生きるよすがに成り得る娯楽も若年層向けが多く、年々付いていけなくなってきていますし(新作が自分に合わないだけならまだいいのですが、過去の名作が続編やらリメイクやらで改悪されて思い出すらも汚されるので安心して楽しめないという。本当に嫌な時代になりました)。
死んだ後に叩かれたとしても自分自身はそれを知りようがないので、生きたまま辛い思いをするよりはいいのかもしれないと。
何が辛いって、男から叩かれるのは勿論として、女性も女性の味方になってくれないという事実ですね。私もフェミニストを自認しているけれど日本のフェミニストには何ら希望が持てません。彼女達も所詮『少女(若い女性)』と『母親』以外の女性の不遇に対しては冷淡だから。
「キモくて金のないおっさんは救われない」という理屈は、女性からは叩かれても男性からは一定数支持を集めました。しかし何故か同様の立場にある女性の救済を訴えても女性の支持は得られません。珍しく独身非正規中年女性の貧困を扱った新聞記事のブクマは2桁しか伸びず、Twitterフェミニストの間でも殆ど話題になっていなかったのです。
『非正規シングル中年の女性たち、見えなかった実態』
http://www.asahi.com/articles/ASJC13R1NJC1UTIL00X.html
『子供の貧困』にはあんなに騒ぐのに(それが悪いとは言っていません)。自分達も独身であり、また男と結婚するつもりのない女性ですら、何故か自分達の未来の姿であるだろう独身女性の貧困よりも『子供』や『母親』の問題にばかり注視するという不思議な現象。


本当の彼女は必ずしも不幸ではなかったのかもしれないけれど、そこに至るまでの様々な抑圧を思うとただ「ありがとう」だなんて私には言えません。理不尽さや怒りや悲しみをなかった事にして、ただ綺麗な思い出にする気にはなれない。
繰り返し言いますが、雨宮まみさんの実際の心情は分かりません。ただ年の近い独身女性として、私は死にたいと思うし誰も味方がいないと感じる。それでも雨宮まみさんの過去の文章には本当に共感できるし、沢山あるその文章を読むと少しは癒されるのですが。

『大人』に女性は入らないの?

映画『シン・ゴジラ』のスタッフが「女性受けや子供受けを捨てて恋愛や家族愛要素を排除し、大人向けにした」という趣旨の発言をし炎上したようです。『大人』の中に女性は入らないのか、「女子ども」で括るのか、と批判されています。それには私も同意です。
これと対になると思ったのが仁藤夢乃氏の「私たちは『買われた』展」。この展覧会は、執拗なまでに『大人』という言葉を濫用します。女子中高生を買春したのは男性であり、大人の女性は無実であるにも関わらず『大人』と括って女性を巻き込もうとする。公式サイトには、「大人は分かってくれない」などという使い古された陳腐な言葉も見受けられます。買春するのは『男』であるのに、何故女性も含めた『大人』という言葉で括るのか。この団体の代表こそ女性の仁藤氏ですが、副代表は男性のようなのでその男性に阿っているのでしょうか。しかし現実には女子中高生だけでなく成人女性もまた性暴力や売春の強要の被害には遭っていますし、貧困な女子中高生はやがて貧困な成人女性になります。「女子中高生」「子ども」のみを手厚く保護し、成人女性の被害には無関心(それどころか『大人』と括って加害者側に入れようとする)のは欺瞞ではないでしょうか。猫を子猫のうちだけ可愛い可愛いと飼って成猫になったら捨てるような真似が、どうして人間相手なら推奨されているのでしょうか。
シン・ゴジラ』と「私たちは『買われた』展」は表裏一体の関係にあると思う。前者は『大人』から女性を取り除き、後者は本来男性だけの問題に女性を巻き込もうとする。前者と後者の違いは前者がポジティヴな話題であり後者がネガティヴな話題であるという点でしょう。つまり、映画の成功のようなポジティヴな話題においては女性を『大人』から排除し、買春のようなネガティヴな話題においては女性も『大人』の範疇に入れて無理矢理共同責任を負わせようとする。一成人女性としては前者だけでなく後者も許せないのですが、前者を責めるフェミニストの人々が何故か後者は賞賛しているようなのが本当に不思議です。『子供を「買った」大人』という文面で、勝手に女性までも入れられている事には気付かないのか。それとも彼女達もまた無自覚に『大人』という言葉の中から女性を取り除いているのでしょうか。
いずれにせよ仁藤夢乃氏とcolabo女子高生サポートセンターの活動には胡散臭さを感じますし、『子供』を過度にイノセントなと見做し『大人』を穢れた存在のように見做す考え方には反対します。

2024年の日本は果たしてどうなるのか

2012年のロンドンオリンピックの開会式は本当に良かった。素晴らしかった。最高だった。
でもこの4年後に来るのが英国崩壊かあ…と思うと、やはりオリンピックの負担が大きかったんでしょうか。結局のところ、あのオリンピックはない方がかの国のためだったのでは、と思ってしまう。
さて、2020年東京オリンピック。今でさえ様々な問題が噴き出ていますが果たしてどうなるのか。この調子だとイギリスみたいに日本もオリンピックの4年後に国家崩壊するんじゃない?とすら思ってしまいますが、まあそんな事よりも自分自身の心配をした方がいいか。

国民=有権者ではない

今日の参院選の結果は見ないで書いています。
しかしイギリスのEU離脱投票の時にも思ったのですが、選挙で勝ったんだからそれで決着は着いた、負けた側は四の五の言わずに言う事を聞け、という考えはどうも好きません。
2005年の小泉劇場郵政民営化選挙の際にも、自民の圧倒的勝利に見えてもそれは小選挙区マジックで実際には結構拮抗していたらしい…という事がありました。小選挙区というシステム上の問題は明らかであったのですがそのシステムを利用されてしまった。なのに自民の勝利という結果だけを持ってその後の政権運営にも反映され、民意を傘に来たやりたい放題が続いたのです。
このように、選挙とは単に結果としてどちらがより多く票を集めたかというだけでなく、その中身もよく見た上でその後の政治運営を考えていくべきだと思うのですが。得票数が少ない側にも、投票した人間は確かに存在したのに。民主主義=選挙=多数決、というのは短絡的だと思います。
大体、国民=有権者ではないと思うのですよね。イギリスでは年齢が下がれば下がる程EU残留に票を投じた人が多く、まだ選挙権のない17歳以下の若者は意思表示するチャンスすらないまま未来を奪われる事になってしまった。日本でも、今回の参院選から投票権が18歳以上に引き下げられましたがそれでも17歳以下はまだ投票権が無い。まだ選挙権を持たない若年者もまた国民である事の意味を、もっと重く考えるべきではないでしょうか。投票した人だけが国民ではないですよ。
じゃあ年齢をさらに引き下げればいいかというとそういう問題ではなく、選挙権が無い人間も含め広く国民の利益を考えるべきだと思うのです。若者が投票に行かないから若者のための政治ができない、だからもっと選挙に行け、という発言もよく聞きましたが、うーん。間違ってはいないのでしょうがどうもすっきりしません。本来政治家は全体の奉仕者であり、投票しなかった国民の利益もまた考慮すべきだと思うからです。政治は自分に投票した人に対するサービスではなく、もっと先を見据えた広い視野を持って行うべきだと思うのです。たとえ理想論にすぎなくとも。
それに、たとえ大多数が反対したとしても、それが正しい事であれば敢えて断行すべき政策もある筈です。夫婦別姓同性婚がそれに当たりますが、たとえ無関係の人達がどんなに反対しようと、それを望む当事者がいる以上は認められるべきなのです。多数決が必ずしも正しい訳ではない。民主主義は多数決のみにて運営されるにあらず。

女子高生の妊娠を推奨する国

独身者の間からよく聞く言説として、「子供の頃は恋愛は不純異性交遊と言われ遠ざけられて育ったのに、大人になってからいきなり恋愛できる訳がない」というのがあるのですが……。私自身も喪女なれど、この言い分には全く賛同できないんですよね。
一つ、現代日本においては未成年者の恋愛やセックスは『不純異性交遊』扱いどころか、思い切り推奨されているというのが現実だと思うからです。特に女性の場合セックスシンボルはもっぱら十代の少女であり、さらには18、9歳ともなれば薹がたっているかのような扱いです。
いや、恋愛とセックスは本来別なんですけどね。十代男女に恋愛は薦めてもプラトニックを推奨するならば問題はないと思いますし。けれど現実はそうではなく、「好きならばセックスして当然、十代のうちにセックスするのが正義、二十歳過ぎて童貞処女は恥ずかしい」という社会通念が罷り通っている訳です。こんな世の中なのに「未成年の恋愛は不純異性交遊として禁止されている」?冗談でしょう?
この傾向はけしてつい最近始まった事ではなく、少なくとも1990年代半ば頃からはずっとそうでした。
だから十代のうちに恋愛や性行為ができなかったのは、単に不細工でコミュ障だからだよ!周りの大人のせいにするなよ!……と声を大にして言いたい。だって世間は十代のうちに恋愛、セックスする事を強く要求していたんですから。
二つ、もし仮に「子供の頃は恋愛やセックスが禁止され」「大人になってから急にしろと言われる」のだとして、それの何処が悪いのでしょうか?年齢によって許されるかどうか変わるというのは、飲酒や喫煙だってそうですよね?(私は喫煙については年齢に関わらず禁止すべきだと思っていますが。)セックスがそうだとして、何がいけないのでしょう?凄く健全な、真っ当な社会じゃないですか?
もしこれが逆で、子供の頃は許されていた事が大人になったから禁止される場合は問題だと思います(例えば、子供のうちはアニメや漫画に夢中になっても許されるのに大人になると何故か『卒業』しないとおかしな目で見られるとか)。でも、子供のうちは禁止されていて大人になってから許されるのならば、何も問題はないのではないでしょうか?だって大人になるまで待てばいいだけの事なのですから。大体の物事において、年齢の上限を設ける事は問題ですが下限を設けるのには問題はないと思います。生きてさえいれば、子供は子供は必ず大人になる。だから子供のうちは出来る事が制限されていて大人になってから増えるというのが理想的なのです、本来は。しかし現実はその逆で、何事も子供の頃の方が有利であり大人になるにつれ権利が制限されるという状態なので理不尽だと思います。
だからセックスについて「子供のうちはしちゃダメだけど、大人になってからしましょうね」と教えるならば、それは全然悪い事ではないと思います。現実は全くそうではなく、子供のうちにセックスする事を奨励しているから問題なのですから。


寧ろ、社会人の方がよっぽど恋愛やその結果としてのセックスからは遠ざけられているよな……と思います。会社は仕事をするところなので恋愛相手の候補を求めるな、趣味のサークルは出会いの場ではないから声をかけるな、ナンパはヤリ目的だけで真面目な付き合いに発展する事は有り得ない……実質合コンか婚活イベントに行くでもしないと出会いがないという。ただでさえ低賃金長時間労働の人が多い現状ではかなり辛い。しかしそれもまた、「婚活なんてするのは売れ残り」と嘲笑われるという。加えてネット経由での出会いの地位も低いです。『出会い系』というのが犯罪の温床、怪しげな場所というのと同義になってしまっている現状が残念です。アメリカではカップルのうち相当数がネットで出会っていると聞くのですが、日本のこの状況はそれには程遠い。
結局日本において『自然な出会い』で結婚するには学生時代に相手を見つけるのがほぼ唯一の正攻法となっており、恋愛へのハードルは学生よりも社会人の方がずっと高いと思います。もしもこの未婚率の高さを変えたいのなら。ありもしない、「学生時代に不純異性交遊が禁止され」などという妄想よりも、この現状を何とかした方がいいんじゃないかな。
フィクション作品においても、恋愛は子供のする事であり大人はそんなくだらない事にかまけてられない、という風潮ですよね。大人向けの恋愛ものはもっと多くてもいいのに。


妊娠出産についても、「早く産んでも遅く産んでも叩かれる」と言う声がフェミニストの間で強いですが、事実ではないと思います。何故ならば現代の日本においては高齢出産こそダウン症が増えるという理由で激しく叩かれますが、十代の出産は叩かれるどころか強く推奨されているからです。卵子の老化はうるさいくらいに聞きますが、若年出産の問題点についてはまったく報道されていませんよね?これのどこが「早く産んでも遅く産んでも叩かれる」社会なんです?叩かれるのは遅く産んだ女性と産まない女性だけじゃないですか。
どこかの市長やら校長やらも十代の出産を強く肯定していましたよね?これらの発言に怒っていたフェミニスト陣が、何故京都の高校生の妊娠について批判側を権力側、肯定側を反権力側と見做せるのか不思議で仕方がないのですが。この国の権力者はどう考えても、高校生の妊娠出産を推奨している側です。何と言っても文科省からして「一旦休学してきちんと勉強してから卒業すべき」という高校の選択に異を唱え「十分な単位が取れなくとも妊婦なら特例で卒業させてOK」という通達を出しているのですから。一高校と文科省、どちらが権力側かは明らかでしょう。なのに何故か逆に捉えているかのようなフェミニストの多さが解せません。
政府もマスメディアもさかんにダウン症の増加を煽り、高齢出産の危険性をうったえますが、若年出産についてはどう見ても奨励しています。中学生の妊娠を描いたドラマなどもよくありましたが私の記憶にある限りどれも産む展開ばかりでした。それほどまでにこの国では、十代の出産は肯定的に見られているのです。嘆かわしいことに。
女『だけ』に若さを求め、十代の妊娠出産を強く推奨するという点では、この国は右も左も差がないらしい。フェミニストぶった女性達でさえも。本当に総ロリコン国家で嫌になります。


一方、一般に諸外国では十代の妊娠出産は社会問題として否定的に見られているようです。
『米10代出産率、統計史上最も低く』
http://www.afpbb.com/articles/-/3085732
アメリカでは十代の出産を減らすために様々なプログラムが実行され、効果を上げているらしいとか。とにかく若いうちに産め産めとうるさい日本とは大違いですね。


『アフリカの児童婚、2050年までに倍増 推計3億人 ユニセフ
http://www.afpbb.com/articles/-/3068190
アフリカでは十代の出産の数こそ多いようですが少なくとも『よくない』事として否定的な目で見られているようです。リベラル側が率先して十代の妊娠出産を肯定する日本とは大違いです。

独身女性をサンドバッグにしないでくださーい

『もしかして少子化問題って10年後には解決してるんじゃないの?非婚が進む30代と早婚志向な20代の溝 - トイアンナのぐだぐだ このエントリーには写真が掲載されています』
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/05/19/170000

大人気ブロガー()による、この記事が本当に酷かった。三十代女性が贅沢なのが悪い、結婚できないのは単に意識の問題だ、全部三十代女性が悪いんだ、と言わんばかり。


『20世紀後半の結婚観と若者気分って“異常”だったよね - シロクマの屑籠』
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160519/1463622587

それを受けてまたもや人気ブロガー()が氷河期叩き記事。あくまで個人の意識の問題であり、いつまでも若者気分でモラトリアムしていたいからという事にしたいらしい。
(氷河期世代がバブルの意識を引き摺っているというのは、大分現実と掛け離れていると思うんですけどね…。しかもバブルって都会限定の話でしょ。田舎にそんなの関係なかったですよ)



漫画の『東京タラレバ娘』を持ち出して、「三十代独身女性はこう考えている!」と決め付け。「だから結婚できないんだ!」と個人の意識の問題に還元。
なんで男の方の意識は無視して、女の意識だけで語るんでしょうか。そしてその女の意識というのが、現実と激しくズレている。
私三十代ですけれど、二十代の頃から結婚したいと思っていて活動していたけれど出来ませんでしたよ?周りの独身もそういう人ばかりなのですが?早々に結婚する女性はモテる美人であり、独身なのはしたくてもできない人か最初からする気が無い人でしょう。二十代のうちは遊んでいたいと思って余裕ぶっこいていたけれど三十過ぎて急に焦って婚活〜、なーんて男の妄想の中にしかいない女性だと思うのですが、この人自称女性なのにどうしてこんなおかしな記事が描けちゃうのかな。正直ネカマに思えて仕方ないです(だって今時OLなんて言葉遣わないでしょ)。ソースが漫画って時点でどうかしてると思いますし、特に東村アキコは独身女性に対するマウンティングが酷く、作中の描写は実際のアラサー女性の実感とは掛け離れていると指摘されているというのに。
三十代婚活女性の大半は、二十代に遊んでたけれど三十代になって急に焦った訳ではなくそれまでもモテなかった人ですよ。それが現実です。
世の中、これだけ「女は若くなくちゃ駄目!二十歳過ぎたらBBA!」って言われているのに、どうして三十代女性がそんなに余裕だと思えるのか。今の三十代だって二十代の頃に既に、三十過ぎた女性が世間でどんな扱いを受けるかなんて把握していたに決まっているのに、どうして考えていなかったと思えるのか。本当に「まだまだ遊びたい」なんて思っていると考えられるのか。非現実的過ぎて呆れるのですが。
「遊びたい」どころか、非正規で低賃金長時間労働をしているのでそんな余裕はない、という女性も多い訳ですが、外資系のエリート様には遠い世界過ぎて分からないんですかね。
それに、もしも本当に二十代で結婚する女性が増えているのだとしたら、変わったのは女性ではなく男性の方の意識だと思うんですけど?昔から、結婚したい女性は二十代のうちに結婚したいと思い行動してきました。でも男性の方がまだ早いまだ早いと先延ばしにしてきたのです。二十代で結婚する女性が増えたという事は(同性結婚はまだ認められていないのですから自ずと相手は男性に限定される)その相手の男性が早々に覚悟を決めて結婚を選んだという事なのに。どうして男性の存在をきれいさっぱり無視し、女性だけの意識の問題にできるんだろう。
文中では三十代女性が家事をやらなきゃいけないと思っているのは思い込みでジェンダー規範に囚われているからだ、頼めば男はやってくれるのに、的な事を言っていますが、相手の男性が家事をやるかどうかはその男性の意識の問題でしょう。けして女性の意識の問題ではありません。ジェンダー規範に囚われているのは三十代女性の結婚相手になり得る世代の男性の方なのに、どうして三十代女性がそうである事にしてしまえるのか。もしも二十代カップルで家事を均等に分担しているカップルが多いのならば、変わったのは男の意識です。女が変わった訳ではありません。女が意識を変えれば万事解決!みたいなのはやめてくれですよ。
少子化は女が悪い!とにかく女が悪い!結婚に贅沢言う三十女が全部悪い!と言いたい記事なのが伝わってきました。やー、ネット上で結婚は損しかないとかコスパ悪いとか言ってる男性の存在は綺麗に虫なんですね。ネット上には、結婚したくないのは男の方だ!という記事があれだけ転がっているというのに。この人の中では女が結婚したいと思いさえすれば男は自動的に結婚してくれるらしい。いいですね、それどこの国?
いやーー、こんな不快な記事を見たのも久々です。個人的にはアインシュタインよりもディアナ・アグロンなんぞよりもよっぽどむかつきましたが、フェミニストからはスルーっぽいのが解せません。
(まあ、私個人としては日本は人口多過ぎるから少子化でいいよ派ですが、)

そして、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『雪の女王』

しかし、単に『雪の女王』で検索してもアナ雪関連ばかりが出てくるのにはつくづくうんざりです。「アナ」をマイナス検索すればマシになりますが。
海外の『Frozen』批判の意見を読んでみて、原作の『雪の女王』は素晴らしい、あまりにも素晴らしいフェミニズム文学だった事を思いました。アナ雪とズートピアは日本ではどうしてこう賞賛一色なんですかね…。雪の女王はずっと前から有名な童話だったと思うのですが、その原作に思い入れのある日本人は本当に全然いないのか。
海外の『Frozen』批判者曰く。アナ雪は、メインの二人以外の登場人物は男性ばかりだ。原作の『Snow queen』は目的こそ幼なじみの男の子を助け出す旅だがその過程で主人公ゲルダは様々な女性と出会う。少女から妙齢の女性、老婆、王女から山賊、魔法使いまで。年齢も立場も様々な個性的な女性達が物語を彩る。彼女等は男の添え物ではなく自立した賢い女性達だ。原作はこのように魅力的な女性キャラクターに溢れていたというのにどうして『Frozen』ではサブキャラを男性で固めてしまったのか。マスコットの雪だるままで男だ。……というふうに。
この批評を読んで、つくづく原作の『雪の女王』は魅力的な物語だった事を思いました。ゲルダ、カイ、雪の女王、以外の登場人物の中では山賊の娘が印象的でしたがこの批評を読んで「王女」のキャラクターの魅力にもあらためて気付かされました。この物語の中で出てくる「王女」はとても賢く、それまで結婚するつもりはなかったがある日自分の意思で結婚する事を決め、お触れを出します。彼女と結婚し「王子」になった少年と彼女がお互いを選んだ理由は、相手が聡明であり、話していて楽しかったから、なのです。この話の「王女」は、勝者に与えられるトロフィーなどではなく、自分の意思で相手を選び結婚するのです。素敵じゃないですか。このキャラクターの魅力に気付き、自立した女性に恋愛や結婚は不要、などという考えに違和感を持っていた私としては溜飲が下がる思いでした。
いや、本当に素晴らしいです雪の女王フェミニズム文学と言われて頷ける。原作者は男性ですけれど。