イェコムの最大不自由上限帯
前の記事から361日も経ってるよ!どうなってるんだ!
というわけでななみつです。
あたいは元気ではないです。ねこです。
さて
さてさてさて
久々にここに何か書く、というのに、ちょっと暗い話をするよ。
あたいが人間をあまり良く思わない、大きな原因を作った昔の出来事について話すよ。
なんで急にそんな事を書き出すかっていうと、タイムラインにちょっと「それは色々と危ない創作じゃねぇかなぁ」と思う物が流れてきたから。
単なるお節介なんだけどね、あたいはちょっとそういう、「怖いな」と思う表現の方法がいくつかあって、それを絶対に避けるようにしている。
そのうちの一つが、「相手の預かり知らない原理で相手の創作物を扱う」事になる。
うちの子勢の方には、「自分の世界のルール(世界観)で、他の人のキャラを動かす」と説明すれば、その取扱いの危険性が何となく分かって頂けるであろうか。
十数年前、つまりあたいがまだ生まれておらず、一人の名前を損失した人間の生命が虚ろに漂っていた頃、あたいの元になるその存在は、小さな小説投稿コミュニティに所属して、細々と奇妙な文章を書き綴って、どうにか生命を繋いでいた。
今思えば、他のユーザー間との距離感は適度な物だったように思う。
それで良かったのだが、ある時ちょっとした事件が起きた。
「あなた(ユーザー)を擬人化して小説に出します」、という事をやり始めた人が居たのだ。*1
これ自体は切欠にすぎない物であった。
この試み自体は大きな歓迎を受け、「是非出して欲しい」、という声が相次いで届けられていた事を今でも良く覚えている。
最初の数話までは良かったのだが、ある時そのミスが発生した。
とあるユーザーの擬人化したキャラを、盛大にキャラ崩壊させて描いてしまったのである。
描かれた本人は、「なんだよこの俺はwww」的なコメントをするに留まったが、「キャラ崩壊がある」とか、当人に「こんな描写を入れたいが、問題は無いか?」という了解の一つも無かったという事実は、客観的に受け入れられる事では無かったらしい。
すぐさま非難の嵐が吹き荒れ、即座に謝罪するに至ったのだが、それでも批判(ここまで来ると最早罵倒に近い)が収まらず、最終的に、この企画を立ち上げたユーザーは、これまで書いていた物を全て消去してコミュニティを退会するに至った。
確かに、彼(或いは彼女)に非があった事は否定できないだろう。
しかしだからと言って、その非を認めて謝罪した人間を更に責める権利など、当人以外の誰が持ち合わせているのだろうか。
その時の人間の風化した物であった存在は、特に何も思う事が無かったが、今、こうして見つめ直してみると、あたいの人間に対する不信感はこの辺りから感じる事が多い、と感じる。
仮に謝罪をして、然るべき処置をした後でさえも、その罪を詰られ石を投げられるのであれば、そもそも謝罪なんていう概念自体に意味など存在するのだろうか、とそんな風に思うのである。*2
まあ、確かに「お前本当に謝ってるのかそれは」って人いるけどね。
なかなか人間というのは難しい物である。
そんな風に思いつつ、とりあえずこの辺でしめておく。
どう生きるのが正しいかなんて、結局その人に依る事でしか決められないんだし、ね。
無理解の逆価値仮定
色々とうまくいかないで少々自棄になっている。
こういう時にこそここで何か書くべきだと思った。
だが、こういう状況なので必然的に書く事は重たくなる。許せ。
知っての通り、神宮外苑であまりに居た堪れない悲惨な事が起きてしまった。
概略を述べると、神宮外苑で開かれていた芸術のイベントで、
大学生が製作した、木造のジャングルジムに大鋸屑を詰めたような作品から出火し、
中で遊んでいて逃げ遅れた男児が亡くなってしまったのだ。
出火原因は、空が暗くなってから、展示物の製作者である大学生が点けた、作品内の白熱電球であったなどと考えられているようである。
投光器を高温になる上向きに 危険性認識か調べ | NHKニュース
ご存知の方も多いだろうが、この事故を巡って、多くの議論や非難がされている。
よく聞く声は和平世の人間の大半が考える事そのものだ。
「大鋸屑の中で白熱電球点けたら燃える事ぐらい分かるだろう」
その通りである。事故の概要が伝えられた時あたいも全く同じ事を思った。
だが、それが分からなかった人がいたからこの事故が起こってしまったのだ。
20年近く生きていて、「白熱球は高温になるから近くの大鋸屑が燃えるかもしれない」という事に、この学生達は誰一人として思い当たらなかったが為に、失われるにはあまりに幼過ぎる生命が失われてしまったのだ。「何が事故だ、こんな物は人殺しだ」と罵る声がツイッターのタイムラインに回ってくるその気持ちも分からんではない(が、これは事故である)。「無知は罪」とはよく言った物だ。
もう少し落ち着いた賢者の声に耳を傾けると、興味深い問題が見えてくる。
「LED電球が普及して白熱球に触れる機会が減った今、白熱球の性質を知らない世代が増えてきているのかもしれない」というのがその声だ。
なるほど、注目しなくてはいけない視点であろう。
「無知は罪」という言葉は、使われる状況などを考えてみると、別の言葉に言い換える事ができそうだ。
今これを読んでいる奇抜な方の中で、更に奇抜かもしれない人を探してみよう。
「わたしはげんきです」と、手持ちのガラケーかスマフォで入力できない方はいるだろうか。
恐らく、大半の方は「玉蒟蒻を肺に詰め込まれたいのか貴様は」とお思いになるだろう。
では次に、同じ事をポケベルで伝えたい場合に、どう打ち込めば良いのか今すぐに分かる方はいらっしゃるだろうか。
今でこそ
こういった物があったりするので、すぐに「0141326124040322440433」であると分かるのかもしれないが、何も見ないでこれを刻める人は、ポケベルがPHS、ひいてはその先にある今の存在に取って代わられた今、決して多いとは言えないだろう。
だが、これが分からなかった人を前にして、「お前はそんな事も知らないのか」と言えるのは1990年代から2016年現在に時間超越してきた人間だけだろう。
今の人間がそんな事言われれば「普通知らねぇよそんなもん」と一蹴して終了である。
そんな時に「無知は罪」などと口走ろう物なら、「お前が自慢したいだけだろそんなの」で終わりだ。
大半の事が知らない事を知らないでいたって、その事を詰る者は少ないだろう。
ここまで回りくどく言われなくとも、大半の方はもうお分かりだろう。
「無知」である事を詰られるのは、無知でいたその事実を大半の人が知っている場合だけだ。
人間の世界に多くの論争をもたらす、「常識」という奴である。
知っての通り、この「常識」という輩は可変である。
ゲーム好きのあたいはゲームくらいしか話せる事がないのでゲームで話をしよう。
レースゲームが多分分かりやすい。
本当に最初期のレースゲームと言えば、画面見下ろしで2D描画の車を動かし、前からやってくる障害物を避けるような代物だ。
それが進化して、平面を変形回転させて擬似的な3Dが生まれた。
何の事か分からない人は、「スーパーマリオカート」などを思い浮かべて頂ければよいだろう。
そして次には3Dポリゴンの車(やそうじゃない物)が走るようになった。
簡単に言えば箱が走っているような物だ。だがそれでも大きな感動があった。
そして時が経つにつれ、箱の角の数はどんどん多くなり、曲線へと姿を変えた。
そして今やどうだろう。一瞬どころか暫くの間、実写と見間違う程の車が、これまた実写と見間違う程美しい風景の中を駆け抜けてゆく*1。
ゲームという、関わらなくても最悪どうにでもなる世界ですら、「常識」の変革は何度も起こってきた。
これが現実になればどうだろうか。様々な「常識」が、日々移り変わってしまっている。
義務教育として学校で教えられた事だって例外ではない。
1つの無知によって、尊い生命が失われてしまった事は無念でならない。
多くの人が知っていた事を知らなかった事実を詰る声があるのも仕方のない事と言えよう。
だが、これから先、その事を知っている人は減ってゆき、知らない事が普通になってしまうかもしれない。
知らない事が普通になったとしても構わない事もあれば、そうでない事もある。
きっとこの先、何が常識として残すべき事で、何がそうでないのか、真正面からぶつからなくてはならない時が来るのだろう。
この事故は、そんな事を伝えてくれたように思う。
案の定まとまりがないが、ここはまあそういう場所である。
追記に、この事について書いておこう、と思ったもうひとつの理由を書いておくが、
読んでいて苦痛に感じられるかもしれない事を書かねばならないし、上記の事について考えるに際して何の関係にもならないので、読む場合はそれなりの覚悟をするように。
*1:興味がある人は「Forza Horizon3」とか「Driveclub」とかで検索してみるとびっくりするかもしれない。
失意の第一欠如公理
やあ、あたいだ
ちょっと色々書きなぐりたくなった。
時間の軸は、永劫に揺るがない。
必ずしも一定ではないかもしれないが、まあ大体一定の速度で進んでいる。
観測者の消失という形で止まる事はあっても実際問題として止まる事はない。
当然戻る事もない。
さて、よくある話をしよう。
過去に戻って自分の人生を改変できるなら、どれだけ改変したい場所があるだろうか。
過去に戻って改変する、というだけあって、創造主かなにかのように、自分の都合のいいように自由に書き換えられる訳ではない。
或いは、そもそも生まれる場所や境遇を変えるという事もしてはいけない。
ただ、あたいも含め、今この和平世や或いはその他のどこか、ざっくりとイェアスティアラのどこかに存在してこれを観測しているあなたは、きっと無意識的に、或いは有意識的に、はたまた潜在意識的に、いくつもの選択肢を運命に提示され、そのどれかを選んで生きてきた筈だ。
わかりやすく、あたいを例に考えよう。
あたいは肉体の年齢が10を数えるか数えないかくらいに剣道を始めた。
この時提示されていたのは「何かスポーツを始めろ」という問題であった。
今想うならば、この時あたいが返すべき変数は「任意の楽器を始める」であった。
例えこの問いを叩きつけた父親に刃を向けて血祭りに挙げてでもその変数を受け入れさせるべきであった。*1
或いはあたいがその逆の状況に陥ったとしても、最低限「何も始めない」という解を納得させるべきであった。
まあそんな感じに、「あの時ああしていれば或いは」、「あの時こう考えていれば」、もっと次元を大きくすれば、「これまでの間こんな風に考えて生きてくれば」、という物がきっとある筈だ。
で、まぁそんな具合で、何か過去に戻って変えたい物があるだろう、という話をするわけなのだ。
という訳でさっさとあたいの変えたい物を書いておく。
もっと不真面目に生きてくればよかった。
今でこそあたいは不真面目のキワミ、アーッ!みたいな生き方をしているが、
かつては真面目の極みの堅物であった。
大学に入った頃くらいもそんな感じだ。
カンニング等許容してはならないし、代返もあってはならないと思った。
自主休講も今でこそ戦略的にやったりするが、当時はあり得ない選択であった。
何故今こんな事を言うかというと、真面目で良かったと想う事は一度もないが、真面目でなければ良かった、と想う事は何度でもあったからだ。
寧ろ世界で得をするのは真面目でない人間だ。
本来それを世界は許してはいけない筈なのだが、どうもあたいの観測する世界はその限りではないらしい。
真面目である事がプラスに働くのは、世界の前提条件に「不正をした者は罰せられる」という物が存在する場合のみ*2だ。
その条件が存在しなければ、真面目な人間は損をする。
何故ならば、原則として真面目であるという事は基本的に自分の自由を捨てる事を意味している。
で、自由を何の為に捨てるかと言えば、他者、団体、企業、国家、世界、並世*3、明天*4、虚碧*5の為であり、だからこそ生命はその捨てられた自由に祝福を送り、真面目である事を賛美する。
一方で、生命の根源にある願いの一つは、自由を実現する事である。
それは、自分がしたいと思った事をできる事を意味する。
眠たい時にぐっすり眠られる事が幸せな事のように、したい事ができるというのは嬉しい事である。
自由を抑圧して得られる賞賛と、自由を享受して得られる幸福。
確かにベクトルの向きも性質も違ってはいるが、
人間の感情にとって正の性質を持つベクトルなのは違いないだろう。
ところで、自分のしたい事をする場合、
他の存在に不都合を生じさせる事はしばしばある。
「アグリコラ」に代表される、ワーカープレイスメントゲームは良い例だろう。
誰かが行ったアクションは行えない。
例えこのラウンドに野菜が欲しい奴が2人居たとしても、
アクションを行って野菜が貰えるのは1人しかいない。
アグリコラの場合、戦略の幅を広げる為、
「小さい進歩」と「職業」という存在によって戦略の幅を広げているが、
その戦略ですら他の奴とかち合えば戦争が起こる。
それで済めばよいが、最悪の場合まるで関係の無い所に被害が及ぶ事がある。
例えばこんな感じだ。
(あたいの手駒は白である。あたいは5番目に動いた筈なのだが、何故か牛が残っていなかった。これは許されざる反逆行為である。どうにかしてくれ。)
そんなわけで、自由に何かをした場合、誰かのマイナスになる場合がある。
ルールというのは普通、自由にされたらどっかにマイナスが飛んで困るのでそれを防ぐ為に設けられている。
設けたからには遵守させなくてはいけないから刑罰を設ける。
無論この刑罰も、軽すぎてしまっては効力を持たないし、重かったとしても執行されない場合は意味がない。
つまりは、罰則の存在しないルールには意味がない*6のである。
小学校のクラスの班掃除なんかで、掃除をサボった奴が出たから連帯責任で放課後居残りで掃除をしろ、なんて言った結果居残りで掃除をしているのがサボっていない人だけ、なんて事になったら元も子もないのと原理としては同じだ*7。
つまりは、ルールを守らない事で得られる利益を上回るような不利益が罰則で与えられない場合、ルールなんて守られやしないのである。
真面目である事で得られる利益などたかが知れている。
無論それはあたいが置かれ、観測する事になった状況がそういう物ばかりであったからだろう、と言われればその事は証明できないが、少なくともあたいが生きてきた中ではそのように感じる。
世界はなるようにしかならないとは思っているが、
果たしてそれが本来の在り方なのかどうかは、疑問である。
善意は果たして本当に正の性質を持つ物なのかどうか。
たまにはそんな事も考えてはみたい。
しばらくは卒業研究を具体的にどうやってやるかを考えなきゃならんだろうが。
プログラムを組んでいる間にキーボードクラッシャーにならない事を祈ろう。
*1:別に、剣道を始めた事そのものが大きな過ちであったとは思っていない。寧ろ、ある種、正解の1つであったとも考えられる。だが、それによって得られた物と、それを得る為に失った物の天秤が自壊した以上、これを正解と認める事は永遠にできないだろう
*2:「不正をしなかった者には賞賛が送られる」場合も満足する事はない
*3:へいせ、世界(宇宙)の集合体の事
*4:めいてん、並世の集合体。イェアスティアラはここに入る
*5:きょへき、明天の集合体
*6:憲法だけは相当に面倒な論議があったりした覚えがあるのでそれは例外にしておく
*7:あたいの実話。その不条理を訴え出た所「言っても聞かないから仕方ない」と返されて以来あたいは連帯責任というシステムが不倶戴天の敵になった。
悲嘆の世界樹の裁定者
リアルが色々と落ち着いた。
すごいwwwすごいwww
どこぞのネクロマンサーをやり過ごした所で、
性懲りもなく落書きをしたくなったので、する。
という物をやってみた。
Fateという物がどういう作品なのかは割愛するとして、
もしあたいがサーヴァントととして召喚される場合、
そのクラスが何になると思うのか、という物を問うアンケートである。
タイムラインを調べた所、このアンケートで出てくる物は以下の物だ。
・セイバー《剣士》
・アーチャー《弓兵》
・ランサー《槍兵》
・ライダー《騎兵》
・キャスター《魔術師》
・アサシン《暗殺者》
・バーサーカー《狂戦士》
・ルーラー《裁定者》
・アヴェンジャー《復讐者》
このうち、ルーラーとアヴェンジャーを除いた7つが基本のクラスと呼ばれている。
FGOと銘打っておきながらシールダー《盾兵》がいないとはこれいかに、と思ったが、もしかしたらあたいが観測できなかっただけかもしれない(1~2ヶ月分のこのアンケートのツイートを遡ってCtrl+Fで検索したが見つからなかった)。
さて、それはそれとして、この診断という名の乱数のアルカナが導き出した4つの可能性は以下の4つ。
復讐者、裁定者、剣士、槍兵の4つである。
で、これを1週間放置した所集まった票はなんと3票。
この馬鹿げた問いに特殊解を与えてくれた賢者が3人もいたのである。
で、結果だが、裁定者が2票、剣士が1票であった。
めでたく裁定者《ルーラー》のサーヴァント、ななみつが召喚されたわけである。
さて、ここまでは前フリである。
今このタイミングでこれまでの話が前フリにすぎない事を観測したあなたは、
0.3%くらいの確率で目前の仮想の窓を叩き壊したくなり、
97%くらいの確率で「戻る」ボタンを押したくなったろう。
どうせいつもどおりのグダグダなのでいつでも自由にその緊急脱出装置を押してくれて構わない。
でだ、めでたくルーラーと化したわけだが、実はこのルーラー、
先程挙げた4つの中で最もなりたくないクラスである。
Fateの世界観やその辺に詳しい人ならば、もしかしたら分からんではないかもしれない。
この裁定者というクラスのサーヴァントは、Fateシリーズの(大体の)根幹を為している、聖杯を巡って7人のマスターとそのサーヴァントが争う聖杯戦争において、何か特殊な事情が発生する場合に、聖杯戦争という概念その物を守り、そこに秩序を与えるため、聖杯その物によって呼ばれたり呼ばれなかったりする特殊なクラスのサーヴァントなのである。
詳しくはこの辺りを参照して頂ければ分かりやすいだろう。
で、これが何故嫌なのかという話だが、理由は大きく2つあって、
1つは「何かを裁定する事は極度に難しい事」、
もう一つは「本当の意味での秩序は為せない事に1番最初に気づく存在である事」
である。
前者は簡単である。
万人が納得するルールはそんな簡単に作れる物ではない。
いくら根拠や理論を準備してそれを説明しても、
「それが嫌だと言っている人間の前でそんな事が言えるのか」
というような、根拠も何もない単純な感情論にすら、
場合によってはひっくり返されるような代物である。
このあたりは、TCG(トレーディングカードゲーム)における、禁止裁定などを見ているとよく分かる。
TCGは、基本的に(発売時期等でおおまかに縛りはあったりするが)発売されたカードであれば、一部のネタカードやおふざけカードでなければ大体全て使えるのだが、中には、極度のカードパワー、或いは組み合わせの暴力、開発陣の不手際などによって、公式大会で用いられるデッキに異様な偏りが出る事がある。
ゲームバランスの上では、いつ見ても似たようなデッキしかいないというのは宜しくない状態であり、様々なデッキがそれぞれメタゲームを形成している方が良いと考えられており、そういったカードを禁止、或いは制限として、デッキの中に入れられないようにしたり、入れる枚数や組み合わせ方を制限する事がある。
どういうわけか知らないが、国産のTCGはことこれをやると相当に叩かれるような印象がある(完全にあたいの主観なので、暇な人は調べてみてほしい)。
確かに面白くはない。あたいもかつて神秘の代行者アースが制限を受けた時、空いた穴に何を入れれば良いのか相当に困った事がある。
それに限らず、愛用しているカードが使えなくなるというのは面白くない。
だから極力制限はかけるべきでない、というのは理屈として分かるし、恐らく開発陣も無闇矢鱈と制限だ禁止だと言うような事態は避けたいと思っている筈だ。
どっかの闇のゲームの本尊は知らん。
しかし、そもそも開発が何故そういった制限を設けるのか、と言えば、それはゲームの環境を調整し、より楽しく遊べる環境を提供する為に他ならない訳であり、じゃあその環境は誰の為の環境なのかと言えば、他でもないプレイヤーである。
形はどうあれ、プレイヤーの為に設けられるその制限が叩かれる筋合いは基本的にないのだ(開発が訳の分からん所を制限した結果全く関係の無いような所が死んだ場合は別だが)。
話が相当横道にそれたが、ともかく、例えそのルールがそれに従う人々の為の物であっても、その事を理解してくれる人が少ない、なんていう事態は滅多に起こらないような事ではない。
ややこしい事に、この世界はある程度定和(ゼロサム)な所があって、誰かが得をすると誰かが損をするような仕組みになっている場合がある。
基本的にその天秤のどちらかにいる存在が多少得をするような構造にならざるを得ない。
就職活動の解禁時期について昨今は相当もめているが、あれは分かりやすい例だろう。勉学に集中させたいと願う学府と、より良い選考を行いたい企業とが天秤に掛けられているのである。
あの話の最大の問題は、その天秤の調整をする為に損をするのがその天秤で救われるべき学生であるというパラドックスと、定めた天秤を無視する連中のせいで定められた天秤が本当に有効だったのかどうか全く分からない事の2つだろう。
ともかく、基本的に裁定をする、という場合、天秤の釣り合いを取るというよりかは、天秤を適度に傾ける、という事になる。言い方が違うだけで本質的には同じ事なのだが。
裁定者は、その裁定に責任を持たなくてはならない。
言った事が正しくなるが故に裁定者と呼ばれるのかもしれないが、
だからと言って適当な事を言うわけにはいかない。
裁定者とはそういう物だ。
で、「本当の意味での秩序は為せない事に1番最初に気づく存在である事」にここでつながる。
裁定者が望む事はなんだろうか?
あたいだったらこう答えるだろう、「自分が存在していなくてもよい世界が生まれる事だ」と。
そもそも裁定者というのは、正すべき、裁くべき歪みが存在しているからこそ生まれる概念であり、正すべき物が無い、即ち全てが正しいまま在る事が出来るのであれば、初めから裁定者という概念は存在していなくてよいのだ。
つまり裁定者という概念が生まれた時点で、そこには裁定者の望まない世界が広がっている事になる。
そんな世界で望んで生まれた裁定者は、一体何を思うのだろうか。
もし望みが叶ったのならばよいが、それが為らなかった時どうだろうか。
もしうっかり、裁定を与えるべき存在から非難され、世界から追放されるような事があれば何を思うだろうか。
護るべき物に直接触れる事ができるが故にその護るべき物に否定される事程苦痛になる事はないだろうと思う。
そうした時、裁定者は知るのではないだろうか。
裁定者の思う秩序は永遠に為せないのだと。
裁定者はその願いに反して、あまりに脆い立場にある。
あなたは裁定者に何を思うだろうか。
個人的にはアヴェンジャー《復讐者》とかになりたかったなぁ。
ルール守って酷い目に遭ったりしてるし。
明天再生の不確定原理
タイトルに意味は(以下略
なんとなく記事を書くボタンを押してしまったが、特に書くことがない。
なので、後輩がちょっと前に憤っていた事についてちょっと書いておく。
あたいは和平世の日本は調布にある、留年率が3割くらいある(らしい)大学(Twitterアカウントを見るまでもなくバレそうだが、別に隠さなくてはならない程の事でもないのでスルー)にいて、見事に1年事故ったわけだが、残念な事にその後輩も留年してしまった。
まあそれは最早どうにもならない事なのだが、その後輩の同期の言い方が気に障って仕方ないのだという。
その人は卒研も特に大きな問題もなく、次の3月で無事に卒業できる見込みで、何とも喜ばしい事であるのだが、その彼は「自分は留年率が3割ある大学をストレートで卒業できるからすごい」と言いふらしているらしい(多分この辺はその後輩の私怨も少し入っているように感じた)。
なるほど憤るのもよく分かる。
少なくとも日本の認識は「大学は4年で卒業するもの」であって、例え留年率が3割あろうと大学を4年で出るのは普通の事である。
寧ろおかしいのは我々留年勢の方であって、それが多いからと言って4年で出た人にそこまでの付加価値が付くのか、と問われれば疑問に思う(付加価値が無い、というのも疑問には思うが)。
なんというか、「すごい」と言うのは、普通でない事に対して使う言葉のように思う。
海外のように、学位を取得する平均の年齢よりもはるかに若い年齢で学位を取った、とかなればそれを「すごい」と思うのも確かに理解できる。
最も、留年率が3割ある大学を普通と呼べるのかは甚だ疑問ではあるので、分からんではないが。
どうでもいいけど、場所にもよるらしいが、アメリカの大学は在学していた年数ではなく、取得した単位に応じて学費が必要になるらしい。日本とアメリカとで、何に対してお金を払っているのか、という事が鮮明になっていてちょっと面白い。
この辺の価値観の違いというのは、観測していて面白いので、注意して見てみる事をたまにやってみると良い。
価値観の違いというと、大分前だが、死刑の存続で相当に議論が起きていた覚えがある。
この手の議論は、「犯した罪は例え重くとも生きて償うべき」と考える者と、「重い罪は生命を以って償う以外にない」と考える者に分類されて議論されるが、あたいはそれでは足りないように思う。
例えば、生きて償う、にも様々なやり方があるし、そもそも自由を剥奪する事が罪を償う事になると考えていない人もいる。
生命を以って償う、にも、現行法のように絞首によって即座(と言っても、法務大臣が決裁しなければ執行されないのである程度の期間は存在するが)に行われるべき、と考える人もいるし、生涯の自由全てを剥奪する事(つまり終身刑)こそ生命を以って償う事、と考える人もいる。残酷な発想になれば、それこそ拷問紛いの事をして大いに苦しませて死なせるべきだと考える人もいる(現行の憲法の下でそんな事が許されてたまるか、という話だが)。
つまり、そう考えるに至っている根拠の要素を見つめないとこの辺りの問題は分からないままだ。
で、ここで個人的に最も興味深いのは、「死の価値」についてである。
この辺りは、色々と聞いてみたり、考えてみるとなかなか興味深い。
簡単に、死刑と終身刑を考える。
死刑は分かりやすくその場で死ぬ。
終身刑は死ぬまで自由を剥奪される。
どちらも死ぬ事は変わりない(そもそも生命は死滅しなくてはならない物)が、
そこに至るまでの経路が異なる。
死刑で囚人が失う物は、寿命で和平世(今気づいたが、この世界の事をあたいは和平世(なごみせ)と呼んでいる。分からなければ現世と読み替えてくだされ)を去るまでの残りの時間。
終身刑で囚人が失う物は、同様に和平世を去るまでの自由全てである。
ここで、死刑に再度目を向けると、死刑もある意味、和平世を去るまでの自由全てを剥奪されていると考える事ができる。
では違いは何かと言えば、自由を剥奪されている現実を囚人が認識できるかどうかである。
逆を返すと、終身刑は囚人に「和平世を去るまでの間の不自由」を与える刑であると言い換える事ができる。
となると、この2つでもめている人は、「不自由を与える事」にどれだけの重きがあるか、という点で少なくとももめている事と考える事が可能である。
一応、この考え方にも怪しいところはあって、「生命を剥奪する事以上の不自由があるのか」という反論があってもおかしくないのだが、現状我々は死後になっても自我が存続するかどうかを観測できていないし、そもそも死後自由であるか不自由であるかも観測できないので、その事は考えてもあまり議論全体が前進するとは思えない(し、そもそも死後の自由不自由とは一体何なのだろうかと)。
長々と適当な事を言って、結局何が書きたいのかというと、「死の価値」という事について色々聞いて回ると、ある人が持っている「死の価値」というのは、「生ある中での価値」に相当左右されている、という事が何となく分かる、という事である。
仏教の考えに「生きる事は死ぬ事」という物があるが、なるほど頷ける物なんだなぁ、と。
あ、あたいは死後の世界はあると思ってるよ。
そうじゃないと、創作世界で多元宇宙なんて作ろうと思わないからね。
それに、あたいの自我が今のあたいだけで完結して他の一切に影響を与えないなら、あたいはきっと非道の限りを尽くしてでも今の自分がしたい事を精一杯するだろうしね。
死後の世界を考えるのは、今の世界の自分の行いを戒める1つの方法ってのがよく分かるね。
結局最後まで話があっちこっち飛んだけど、ここは自由帳なので、なんでもありという事にしておく。
発想が自由でない限り、新しい物は生まれないからね。
メーヴィエルの再生定理
タイトルに大きな意味はない
雨が多くて外に出るのも大変だね
あたいは自他共に認める雨男だし、別に雨に濡れるのも嫌いではないので別に構わないのだけれど、ザーッって降ってると流石に傘を用意しなきゃならなくなって面倒だね
暑い夏が秋雨に宥められて白銀の冬へと変化していくのかな、なんて想うと少しは気休めにならない。
特に書くことがないので、このまま終わってやっても面白そうではあるが、
冷静に考えた結果あたいが下した結論は「どうしてそれを面白いと想うのか」だったので、世界観を作っていてちょっと気にかかった事をひとつ。
何が気にかかったかというと、あまり難しい事でなくて、
「何を以ってして世界が滅んだとするのか」
というたったそれだけの極めて単純で簡易な事なわけでして。
あたいの世界観の中で滅んだ世界は腐る程あるのだが、
一度だけ、たった一度だけ、世界の上の更にその上にある概念が滅んだ事がある。
というか、それがこの記事のタイトルにあるメーヴィエルという場所なのだが、
そこは一度滅んで、再生をしている。
世界を複数孕んだ大きな世界が滅んだ状態というのは、
どういう状態を言うのか、という疑問が起こったのだ。
1番分かりやすいのは、この現世の人間がエントロピーと呼んでいる代物が全て消失してしまった状態が、全ての世界について適用できる場合だろうなぁ、と考えた。
だが、そんな誰にでも分かるような単純な場合を挙げても何も面白くないので、
他の場合を考えてみる。
一応、あたいの世界観では、世界を創った奴がいる(神でも創造主でも、まぁなんか理解しやすい物で置き換えてくだされ)ので、滅んだかどうかを決めるのはこいつになるわけだが、簡単の為、それを決定する主体を、その世界に存在している存在の1つにしてみる。
まあ、我々の今住んでいるこの世界が滅んだかどうかを、他でもない貴方が決められるのだと考えてみて頂きたい。
間違えないで頂きたいのは、貴方が決めるのは「滅んだかどうか」であって、「滅ぶかどうか」でもなければ「滅ぼすかどうか」でもない。なんだったら「滅ぼしたいかどうか」でもない。
話をややこしくしない為に、貴方の生命が失われた時に、貴方の存在その物が消失する事は考えなくてよい。
要は、貴方が死んだ後でも、貴方は貴方が元いた世界を観測し続ける事が可能であると考えてよい。一部の人間の考える「魂」とか、まあ何か分かるように理解して欲しい。
で、それが保証された時、貴方はどうなったら世界が「滅んだ」と考えるかをちょっと想像してみて欲しい。
結構色々出てくると想う。真っ先に出てきそうなのは「地球が滅んだら」である。
どうなったら地球が滅んだとするのか、というのも千差万別だろうが、「人類が滅んだら」と考える人は少なくないように予想できる。
ビッグチルやビッグクランチが起きて、宇宙が滅んだら、と考える人もいそうだ。
早い段階なら、生命を維持する為に必要な物(水とか)が全部なくなってしまったら、と考える人もいそうだ。
別に、どう考えたら何が良いとか悪いとかではなく、色々ある、という事が大事だ。
で、次に判断の主体を、その世界を創った奴に当ててみる。
こいつが世界を滅んだかどうかを判断する為に我々が何を知る必要があるだろうか。
あたいは、「そいつがその世界を生んだ目的」であるように想う。
なぜなら、それが分かれば、世界を滅んだと判断する、基準の1つが設けられる事が予想できるからだ。
もし世界を生んだ目的があるならば、世界が滅んだと判断できるタイミングに、「その目的を世界が果たせない状態になってしまった時」という物を挙げられるようになる。
「その世界を生んで維持する理由」でも良さそうなのだが、その「理由」だとちと面倒な事が起こる。
仮にその理由が無くなったとしても、それを「世界が滅んだ」タイミングと見なしてよいかどうかは相当な疑問が残る。「世界を滅ぼす」タイミングにはなるかもしれないが。
ここまで書いてきたように、「滅ぶ」という概念は、殊の外複雑でかなり曖昧なものである。
で、滅んだかどうかを判断する対象である「世界」も、これまた複雑で曖昧だ。
そう考えると、「世界が滅ぶ」って、相当に曖昧な事を言っているなぁ、といつだか思ったのが、最初の疑問に繋がった。
「世界」1つで考えても曖昧なのに、その「世界」がいくつもまとまってできた物が滅ぶとなれば、どれだけ複雑になるのかなぁ、と。
考えても答えは出ないし、そもそも正解など無いように想うので、考えるだけ無駄と言われてしまえばそれまでなのだが、分からないで自分の中だけの問題にしておくのもそれはそれで惜しいので、なんとなくここに置いておく。
まぁ、中華料理屋に行って麻婆豆腐が出て来るまでの暇な時間にでも考えてみると時間潰しにはなるかもね。
そんな事書いたら麻婆豆腐食べたくなった。
そのうち食べに行こう。
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ななみつとかいう奴です。
七夜月満夜(ななよつき みつや)を略された結果こうなりました。
普段はTwitterに生息しているボケナスでございます。
なんか書き殴られる自由帳、しかし多くの人の目に触れるような、そんな特殊な自由帳が存在していると便利だなぁ、という極めて安直な理由でとりあえず開設。
もうちょい真面目な経緯を書くと、Twitterには垂れ流すには長すぎる事を書く場所を用意したいなぁ、と思ったというただそれだけ。
イェアスティアラというのは、我々がいまいる宇宙を含んでいる大きな宇宙を含んでいるより大きな宇宙の名前です。つまり2つ上の宇宙の名前です。
あたいが勝手にそんな物が存在していると思い込んでいるだけで、本当にそんな物があるのかどうかは観測できないので、くれぐれも本気になどしないように。
でもあったら楽しそうだね。
マルチヴァースじゃないけど、他の宇宙が観測できたならば、この宇宙の前に何があったかってのが分かるかもね。分かったらいいね。
まぁ、そんな事はともかく、なんかあったら置いておく。
もしかすると、趣味で作った何かを放置するかもしれない。
多分かなり雑なものになる。まぁ、自由帳ってそういうものだしね。
何か思いついた事をノートかなにかに書いとくと面白いよ。
ノートに書いてあるその「なにか」同士がくっついて、
おいしいお酒ができたりするからね。
あたいはお酒滅多に飲まないから何がおいしいお酒か知らないけど。
まあそんな感じ。オチなど無い。いいね?