書き溜め漂流記

食後すぐ横になるのが好きな人間の毎日。メランコリックと共存しています。

親のありがたみを考える

 
両親はなんだかんだ、 わかっていないようで私のことをやっぱり一番に理解している気が した。


昼間に仕事をして飲むことが悪だと思っていたが、 私にとっては夜に酒を飲んで、 それから飲み明かしつつ何かを書き記すことが向いているのかもし れない。


「飲んだ方が書けるのであれば飲んだらいい」


両親からのその一言がすごく私の心を軽くした。


なんなら、その日の会話で覚えているのはその一言だ。


私は何になりたかったんだろう。


毎日思う何を書きたいかも、誰と居たいかも、 どう過ごしたいかも何もわからないままに毎日を過ごしている。


正直飲んでも何も書けない。

 


何を書きたかったのかわからない。


限界なわけでもないけれど。

 


ここにきて語彙力の壁にぶつかっている。

 


勉強不足なだけなのかもしれない。


 

どうしてこんなことが起きているのという話

飲みたい。毎日飲みたい。

というか、飲んでる状態の自分が大好きだ。

ほろ酔いくらいの自分はなんでもできそうな気がする。

これはきっとアル中なのかもしれない。
そんなのはどうでもいい。この方が自分が楽に生きられる気がする。

無責任に「生きろ」という人の言葉よりも酒の方がよっぽど私の心を軽くする。
だし、いろんなことを考えている気がする。

事実、飲んでいるほうが想像力が豊かになる気がしている。


かの有名な文豪たちも熱海の旅館に缶詰になって、こうやって言葉を紡いだという話を思い返すと酒が悪いとは思えない。


真っ当に生きるのであれば酒は悪なのかもしれない。でも私にはやっぱりお酒を飲むことが必要だ。


最近悲しかったことといえば、トルコ、シリアの地震だ。

日に日にありえない速度で死者数が増えていくニュースの速報に背筋が震えた。

日本に生まれた私は、地震大国とはいえ死者は波に流される数の方が多いと思っていた。それは私が日本という価値観の中で生きていたから。

しかし違う国を冷静に見つめてみると、そうではなかった。

トルコの隣、シリアでは絶えず戦火が広がっている。

彼らは地表に飲み込まれていった。
荒れ狂う海ではない。

この間にも地震とは関係なくISによってミサイルを打ち込まれた。

また何人かが地表に飲み込まれてしまった。


考えてしまう。


もし戦争がなかったら。地震が起きたとしてもその地表の狭間で生きていた命があったかもしれないと。


もともと地震が多い地域だとしても戦争がなくて


もし、医療班が早くたどり着いていたら。

もし、もっと建物の免震に国のお金が使えたなら。

もし、物資が行き届くまでに時間が短かったら。

 

遠い国で私は何も辛い思いをしていないはずなのに、なぜか想いを馳せてしまう。

辛いわけでも、悲しいでもない。

なんというか、自然災害以外の要素でなくなった人が多い気がしてしまったのだ。


自然災害が直接的な理由で亡くなったとていいとはいえない。

でもそういうのは何百年、何千年と人が受け入れてきた事実なはずだと思ってしまうのだ。

なんていっていいかわからないけど。

戦争が間接的な要因として、人が亡くなる理由については理解が追いつかない。


今、戦と自然に敗れることのどちら位が苦しいかを考えている。

私はシリアの地理がよくわからないが、同じ国内で紛争が続く中、地震も起きている。

私なりに想像するなら、戦に負けたときの方が辛い気がするがどうだろう。

わからない。
でも何れにしても、人には避けられない悪夢があるはずなのに、わざわざ避けられる悪夢と向き合う必要性はどこにあるんだろう。

今、中東で起きていることは紛れもなく、避けようがない悪夢と避けられたはずの悪夢だと思っている。

私は当たり前のように、友人や家族と翌日以降の予定を立てているのに、その当たり前を失う気持ちはどんなものだろう。

わからない。

当たり前の明日を失った人は日々、毎日、毎秒、毎時間いるのに。画像や映像で見てしまうと、鮮明に視えてしまう。

わからないのに、正しくは鮮明に想像してしまう。


そして同時にすごく苦しくなる。

勝手に想像して、グロいのも辛い映像も平気なのに。

その背景を勝手に想像してしまう。

命はやっぱり緊張する

なんだか感情に忙殺されて書くことすら忘れていた。

 

ここ最近体調を崩して自分の体から心が乖離していた。

 

正直最近どうでもいい自分が増えてしまっている。膝の上に小さな命を乗っけながらそんなことを考えるのは寂しい。

 

私がいなくなったらこの子はどうなるんだろう。きっとどうにか生き延びるだろうけど、少しでも寂しく思ってくれるのかとかそんなことを考えてしまう。

 

小さな命を抱きかかえるのはすごくドキドキする。120%大事にできているのか自分でも毎日不安だが、その温かさとか脈打つ音にやっぱりいつも緊張する。生きてるなぁと。

 

こんなに文句も言わず生きている生き物がいながら、私って何なんだろうか。

こころは紙一重な話

楽しいことも悲しいこともここには書くけど、色々ふとしたときに

 

やっぱり私は関わった人たちに何かあったときのために遺書を残すべきなのかなと思う。

 

どうせ死なないだろうし、死ねないとは思うけれど。

 

どこかでこんな憂鬱な気持ちと一緒に生きているうちにふとしたとき、何か間違えて死んでしまったらと思うと。

 

死ぬことを”間違えて”と言えるようになっただけ私は少しまともになった気もしている。

 

みんなに謝りたいしありがとうとは言いたい気持ちがある。

 

人のために死ぬわけではないけど

私がいなかったら幸せになれる人は少なからずいるはずだし、人が死んだという事実に喪失感は覚えるかもしれないが、それでも多少なりともプラスになるところはある気がしている。

 

なんでかこんなに知っている人に見られたくないブログを知っている人に見せてしまったこともあって、遺書ってやっぱり必要な気がしてしまう。

 

未練がましいところがあるので、今すぐに死にたいとは思わずとも

何かあったときのためにそれぞれへの想いは伝えるべきなような、それともわからないままにしたほうがいいような。

 

こんなことをまともに話したら人におかしいと思われるのが関の山と思いつつも、自分の胸の内を伝えたいという想いは強い。

 

私はこの先あとどれくらい辛い思いをして辛い思いをさせて生きていくんだろうと考えるとゾッとする。今まだマシな気がするうちにどうにかしたほうがいいとも思う。

 

今はちなみに酔っていない。でも、なんだか、すごく書きたい気分でブログを開いた。

 

何を書きたいかはわからないけれど、ただこうやってアテのない気持ちをフラフラと

 

徒然なるままに書くことが昇華であるなら、意味わかんねーなと思われても、やばいやつだと思われるとしても、書かなきゃいけないと思っている。

 

以前はこんなことを思って、さらに書き残す自分がどうしようもなく許せなくて、苦しかったけど、今は書かなきゃという気持ちに変わっている。

 

私の死にたいという思いが世の中でおかしいと思われるのは、少数派な考えであることの表れだと思っていて、

 

であれば少数派の人がなんとなくこの文章を見たとき、仲間意識みたいなものが芽生えたら少し嬉しい。

 

私は誰かがこういうことを書き垂れ流していたらちょっと嬉しいから。誰かが私の文章を読んで救われたらいいと思う。

 

 

嫌でも、どうせ死にたいと思っても死ねないのであれば、少しでも自分が生きている価値の比重を死んだ場合よりを重くしなくちゃいけない。

 

毎日そういう積み重ねで、気がついたら時間が流れて、また終わったはずの苦しみにぶつかったりして、いつになったら助かるんだろうとか考えたりする。

 

そんな中で私は、書くことしかできない。

 

この気持ちを共有するのはすごく難しい。

 

だから自分が落ち着いているときに文章で残して何か伝えたいと思うんだろうな。

共有できなくてもいいから言葉にはせめてしたいというか。

 

逆にいうと書くという行為で自分を落ち着けているところもある。

 

昼飯をうまそうに食っておきながら、あるタイミングでこんな感情が渦巻くんだから生きるって難しい。

 

 

 

 

 

 

躁鬱と蛍の話

夏が来た。

朝と夕暮れどきにしんみりとしてしまう季節だ。

 

もう今月も半分近く終わってしまった。ぁああぁぁ…

 

例年通り今年もあっという間に終わってしまいそうだな夏。

 

 

実家から突然

「蛍でも見に行ってきなよ」

と、蛍鑑賞会の抽選URLがメールで送られてきた。

とりあえず、なんとなく押してみたら当たってしまったのだが2名1組のチケットで誰と行けというのだろうか。

 

そういえば生まれてから蛍というものを一回も見たことがない。

 

見たい気持ちと、そんなエモーショナルな初体験を一人でしたくない気持ちがぶつかり合っている。

多分少し前だったら絶対行きたい気持ちが勝っていたが、久しぶりに鬱なのだ。

 

何をしても楽しくない、食欲もない、すぐに涙が出そうになる。

定期的に起こってはいたが、しばらくこの感情から解放されて過ごしていたせいで、久しぶりに苦しんでいる。

張っていた糸がぷつんと切れてしまった気分。

 

酒を飲むと危ないので飲みたくても控えている。

 

嘘です、最近めっちゃまた飲んでしまう。

大量の飲酒がバレると周囲の人にはバチクソ怒られるし、やってること自体は自分にとっても最悪なので、コソコソ夜な夜な泣きながら死ぬほど飲んでいる。

前より酒耐性が無くなったこともあって飲酒量は少なく終えることができるがあのゾーンに入ってしまうと辛い。

 

というか最近は飲む前から泣きそうな気持ちになって誤魔化そうと飲んでいる気がする。

(以前はどちらかというと、あ、鬱になりそうだから飲んどこ、に近い)

それに伴い、泥酔して泣きながら綴る特急呪物「呪の書」の執筆も捗っている。

とにかくノートにいろんなことを書きまくる。

ある時からふと思い立って負の感情をノートにぶつけ始めたのだが結構な分量になってきた。

 

不眠も戻ってきてしまった。

しかしやるべきことが朝からあるのでそこだけは頑張る。

 

というか頑張ってないのに私は何を頑張っていると言っているんだ?

気持ちだけ頑張ってあとは何もしていないのに。

 

そんな感じで暑くなってきたけど、美味いビールはなるべく飲まないようにしているのである。

ちょっと飲むと止まらなくなってきたからね。

 

 

ふと思ったが、精神的な苦しみ(精神病と言いたくないのでここではあえてそう書く)というのは、一生付き合っていくものなのだろうか。

時々考えるが、完治という状態はないような気がしてきている。

 

一回出てしまったら、それをその時々で誤魔化しながら生きていくというか。

躁鬱みたいなものをずっと繰り返して少しでも鬱な部分を減らしたり、躁と鬱の差の幅みたいなものを減らしたり。

その作業の繰り返しでしかやっていけないのかなと。

 

ここしばらくは誤魔化せていたものが誤魔化せなくなってきたんだなあ。

 

でもどうだろう。

試しに蛍を観に行ってそこで泣きそうになったら人前だろうがなんだろうが、涙を流してしまったら意外とスッキリしたりして。

 

あえて夏に誰かと楽しむイベントを一人で積極的に参加するのもありなのかもしれない。

 

というか元々なんでも一人で楽しんでいたのだから今更気にすることでもないけど。

荒療治ということで無理やり出かけようと思います。

あと、今話題のスシローも生まれてこの方一度も行ってないから行ってみようかな。

 

何もしたくないわけではないから、ちょっとお出かけした方がいいのかもな。

 

何を言ってるかわからないけど、書いてるうちに向き合い方が上手くなった私えらいと思っている。そんな感じ。

 

ビールが美味しいみたいな話

私は今ビールを飲んでいる。

やらなきゃならない仕事がたっくさんあるのにも関わらず、ビールを飲んでただボケっと記事なんか書いている。

 

しかしこの時間が最高なのだ。

mustを放棄して自分のやりたいことをやっているときの焦りは嫌いじゃない。

この時間を通して私は、よし、がんばろ、と思えるから。

 

自分の健康と自由な時間を求めた結果、フリーランスに近い働き方をしているせいで、その分自分を奮い立たせるのが大変なのだ。

自分次第で仕事量が変わってしまう。

 

というか本当に最近ビールが美味しいと思うようになってしまった。

お酒はかなり避けていたはずなのに、突然4月から暑くなったりするせいで喉越しを求めてしまっている。

ビール腹というものがあるが、あれだけは避けたいのでわざわざ食事の量を減らしてまでキンっキンなビールを飲むほどだ。

いやぁうまい。

これは前みたく酒浸りにならないように気をつけたい。

変化したのは酔いたくて飲んでいるというところからビールが飲みたくて飲んでいるところ。無駄なお酒は一切買わないし摂取しない。

 

あと思うのは、酔ってるときに自分を客観視できるようになったところは褒めたい。

朝めちゃくちゃ早起きしたい気持ちが圧倒的に勝つので、そこまで飲みたいというモチベーションが消えたのはいいことだ。

 

健康とか、自分を大事にするとか、周りを見るとか、なんかそういう一見煩わしいものって自分のためになるんだとつくづく思う今日この頃。

この2年間地獄のような日々を味わったことの方が多かったけど、なんだかスッキリしちゃったなあ。一周回ってスッキリとした毒を吐くやつになったねと言われる。

なんだスッキリとした毒って。

こうやってダラダラ生きるのって楽しい。

だって楽だもん。

毎日穏やかに少しずつ楽しいことがあるのってそれはそれで素敵だし、とりわけ最近の戦争のニュースなんかを見てしまうと一層思う。

イメージは綺麗にナッペされたケーキの表面、なだらかな生クリームの白い表層。

あの上で寝そべっている感じ。

 

でもどこかでちゃんと結果も残したい。

奮い立たせるのは難しい。

それに、人生の前半戦でだいぶドラマティックな生き方をしたせいで燃え尽き症候群気味ではある。

 

幸せとかを考え始めるともうこれ以上はいいかなと思う気もする。

何度か死に向かった経験は良くも悪くも私の器を広げすぎた。

なんでもできる反面、なんもしなくていいという満足感に近い気持ち。

 

 

みんな一人のときなに考えて生きてるんだろう。

 

そんなビール時間。