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過去記事置き場

最速と最短は違う。重要なのは最速の方だ。

「最短距離でゴールを目指そう」と考えるとき、そこに含まれている意味は「最速でのゴール」だと思う。最速で目的地に着くためには最短で進むのが一番、と考えるのは合理的なように思える。

でも違う。
最短は単に距離が短いだけだ。
最速では距離は長くなるかもしれないが「勢い」があり、速度を保てる。結果的に最短よりも早く着くことがある。

走るコースも違う。
最短コースは曲がりくねった峠道を地道に進む。
最速コースは迂回した高速道路である。

最短=最速と考えてしまうのは、進行する速度が常に一定だと考えてしまうからではないだろうか。

車の運転で考えてみよう。
山を直線的に進む道と山を迂回する高速道路、どちらが早く山を越えられるだろうか。山道は距離としては短いかもしれない。しかし高速道路と同じ速度では走れない。それなりの速さで走り続けるには、適したコースを走る必要がある。

最短と最速の同一視は危険である。何が目的でそんな裏道や砂利道を通ろうとしたのか、よくよく考える必要がある。

いずれ他人が解決する問題を自分がやる必要はない

かつて私はデザイン、特にUIデザインについて人一倍強い関心を持っていたが、ある時これ以上自分がやっても特に強みを発揮できないし、何よりも、いずれ他の人間が解決する問題を自分がやる意味はないと感じるようになった。そして私は関心を失った。

僕はこのことを悪いと思っていない。むしろ世界に貢献できるチャンスと捉えている。

時が経てば、他の誰かが解決するだろう問題に関わるのは時間の無駄だ。やるべきことは、(少なくとも身の回りで)自分しか見えていない問題を解決することにある。

他の誰かが解決する問題は、すでに誰かが関心を示しているだろう。放っておけば何かしらの解決策が提示されるはずだ。それでも満足できない状況になった時初めて動き出せばいい。

では自分しか見えない問題は、解くだけの価値のある問題なのか?
ある。
あなたしか見えていないからこそ価値がある。「あなたしか」と書いたが、世にはそれなりに趣向の近しい人間がいるものだ。そうした人たちにリーチできれば商売としても成り立つのではないだろうか。

もし「多く」の人間も関心を抱いている問題に手をつけると、そこには我先に上がりを目指す人たちとの競争が発生する。競争は煩わしい。パイの奪い合いだ。そしてあなたが敗者になる可能性も十分にある。多くの労力と時間を費やして敗者になる。あなたが。そんな状況を考えてみてほしい。

誰かの模倣をしようとするから競争が生まれる。
そんなことよりもあなた独自の価値を生み出そう。
誰かが語る「正解」に合わせて競争するよりも、あなたにしか見えない問題を解く方が楽しくて意義深い。それは世界にとっても、そしてあなた自身の人生にとっても前進になると思うのだ。

止めていたランニング習慣をすぐに復帰させた話

去年の年末あたりの体調不良と、寒さがランニングから私を遠ざけた。二ヶ月近くまともに走っていなかったが、最近再び走り始め、すぐに習慣として復帰できた。これは自分でも驚きだが、なぜこんなに簡単に復帰できたのかということを考え始めている。これはその考察録である。

以下の点が関係していると思われる。

  1. もともと開始が明確な行動なので、騙して外に出せば走り出せた
  2. ランニングを始めた初期に最適なコースを十分に探索していたため、走行中に迷いが生まれなかった

開始が明確

机の上でやる習慣と違い、ランニング中はランニングしかできない。したがって一度走り出せば、あとは終わるまで続けるしかない。そうなると一番の難関は(他の習慣でもそうだが)、とにかく始めることだった。
ランニングを始めるための儀式がそれなりにあることが、この行動を習慣化するのに役立っていると思う。私の場合は以下の手順をたどる。

  1. 朝起きる
  2. 水を飲む
  3. 走るための服に着替える
  4. 準備運動をする
  5. サポーターをつける
  6. ポーチを腰に巻く
  7. イヤホンを再生可能な状態にする
  8. ランニングシューズをきちんと履く
  9. 外に出る
  10. 走る

このルーチンの各行動は抗えないほど簡単である。どれも日常でやっていることの延長でしかない。しかし、それも決まった順番で並び、どこかで一線を超えさせればやらざるを得ない状況になっている。これだけ準備をして部屋に引き返すのは馬鹿らしくなっているのだ。この結果、だいたい服を着替えたあたりで、もう走ることは既定事実となっている。

走行中に迷いを生まない

ランニングを走り始めた初期はまだやる気があった。ただ、運動初心者で地域とも心を閉ざしていた私はどこを走ればいいのかさっぱりわからなかった。なので当初の一ヶ月は手当たり次第周辺をウロウロと走り回り、結果的に自分の目的にかなったコースを見つけた。それ以来ずっとそこを走っている。

もし、やる気のある頃に、この探査行動を行なっていなければどうなっていたか。

「もっとマシなコースがあるんじゃないか」
「本当にここを走っていていいのか」

なんてことを考えたと思う。そして、その後に別の場所を探ったかどうかは怪しい。今はそこまでのやる気がない。現在はただ健康のためだけに走っている状況なのだ。

この最初の探査行動が吉と出たと思っている。おかげで今は走りに迷いがない。スタートを切ったら自動モードで、終わるまで禅のように心を虚ろにして徘徊するだけだ。

まとめ

この学びを他の習慣形成に転用するなら、以下のことが言える。

  1. やる気がある始めのうちに、実際にやる内容を色々試すこと
  2. 小さい行動の連なりをルーチン化して、とにかく行動を開始させること
  3. 意志の力は最小しか使わないこと

実は3番がキモだ。毎回意志の力で実行していたら習慣にならないからだ。2番の言葉が「開始する」ではなく「開始させる」なのも、自動モードで動かすことを目指すべきだからだ。

これを活用すればきっと、望ましい習慣を形成できるに違いない。

デザインとアートの違い

私の中では決着がついたので、ここに書き残す。

デザイン

デザインは対象を制御下に置くために用いられる。デザインされた道具や製品には必ずコントロールするための対象が存在する。岩を動かすには梃子をデザインするし、安全に獲物を仕留めようとすれば弓矢をデザインする。デザインは対象に対する目的を達成するために用いられる。目的を達成できたなかったり、対象をコントロールできていないのであれば、失敗したデザインと言える。

優れたデザインの製品は個性がない。使い手の身体や認識と一体化し始める。デザインは道具を生み出すために用いられると言える。

アート

アートは、作り手の、人格の複製である。アートがデザインと衝突するのはまさにこの点にある。人には人格がある。人格を何者かの制御下に置くことは(倫理上)許されていない。それは奴隷と同義である。

優れたアートとは個性そのものである。複雑な内面を持った一人の人間がそこに居ると感じる。数字としての一人の人間ではなく、世界で唯一の宇宙観を持った、ただ一人の人間が存在するという証明でもある(そしてあなたもそうであると訴えかける)。アートは何者からも自由であり、誰の道具でもないことを示す。

互いは対の概念ではなく混じっている

デザインにも作家性がある。どのように問題を解決するかという点について、偏った見方がある場合、それはアーティスティックな作家性が発揮されていると言える。ゆえにデザインの属性としてアート性が加わることはある。

アーティストが作品の先に別の目的を見据えている時、その作品はデザインされていると言える。作品を道具として扱い、その先に生み出される状況や思想こそが真の狙いである時、アートはデザインとして機能する。アートの側面にデザインが加わっている。

アートとデザインの違いに商業性の有無は関係ない、というのが結論である。

なんのためにブログを書くのだろうか

個人メディアとか、誰かに読まれることを期待したりとか、パーソナルブランディングとか、サロンとか、脱社畜とか、そんなことはどうでもよくて、ただ自分の考えや声を、誰かが読める場所にそっと置いておきたいだけなんだと思う。

余計なことを考えず、ただその日にあったこと、思いついたことを書き留めるだけでも意味はある。誰のためにならなくても、やがて何もかも忘れ去られてしまう頃合いに、自分自身を振り返る機会として、最低限の価値がある。

一番大きい価値は書き上げて、投稿ボタンを押した時だろう。書いた苦労はその時すでに報われているのではないだろうか。その後の反応なんて本当のところはどうでもよくて、ただ書いて、書いて、忘れられることが嬉しいのではないだろうか。

いまの自分に自信を持ってあれやこれやと語る技能も知識もない。何もかも中途半端に思える。それでも生きているし、日々感じることに関しては書き残せる。私にできるのはこれくらい。ささやかなチラシの落書きを紙飛行機にして飛ばしているみたいだ。たくさん書く頃には、裏の公園は私の書いたゴミの紙飛行機で埋もれているに違いない。

あまり深く考えないことにした。ただその日あったことを書き綴るだけでも価値があると思うから。

デザインとコンセプトの関係

デザインとはコンセプトを形にする行為である。 デザインはコンセプトが存在しなければ成立しない。

もしコンセプトが不在の場合、デザインという行為を実施することができない。 「なんとなく」「いい感じの」「XXみたいな」という要望ではデザインできない。指示者がいい感じと思っている対象からパターンを抽出して、継ぎ接ぎのデザインもどきが生み出される。 なんかしらの形にはなる(この世の大半の製品はそうだ)。 しかし、そこに真のデザインはない。

コンセプトが非現実的であった場合にもデザインは不能となる。 空想の世界でしか成立しないコンセプトというものがある。物理法則を無視している。共存できない概念が包含されている。組織の政治的な理由によってゴミがたくさんくっついている。こうした様々な理由でコンセプトがコンセプトにならない。

空想のコンセプトは現実の世界に落とし込むデザインという行程を完了できない。 コンセプトに不備があるとき、デザインは成立しない。

コンセプトとデザインの関係は一方通行ではない。 デザインの過程で学べることは多い。その学びからコンセプトはさらにシャープにできる。デザインのプロセスはコンセプトの不備を見いだす。

クライアントとデザイナーの関係において最も重要なのは、相互にフィードバックを与え合う関係であると思う。でなければいつまでも非現実的なコンセプトを元にデザインできないものを作り続けることになる。

現実に有用なコンセプトと良いデザイナーが手を結ぶことこそ、優れた、成功する製品が誕生する条件だと思う。 製品に触れたユーザは、そこから明確なコンセプトを受け取る。製品の指し示す方向を感じとることができる。どこでどう使うべきかわかる。

優れたコンセプトとデザインを持つ製品は長い寿命を獲得する。時代に即した素材や機能にアップデートしながらも、多くの人の役に立ち続ける。


このような考えを、私はAppleMacBook AirMac miniから感じた。 未だあの形は古びず、中身の更新されただけで多くの人が熱狂する。 間違いなく良いコンセプト、良いデザインによって仕上げられた製品だと思う。

そもそもコンセプトとは何か、ということについては別の考察で書き出そうと思う。

オンボーディングについて考える

  • オンボーディングは重要だ、がしかし・・・
  • 単に機能の流れを説明するだけでは、ユーザは価値を認識できないのではないか
  • 価値とは発見するものであり、単に提示されただけではわからないのではないか
  • 他の誰かが「価値がある」と言っても、それを真に受けることはできない
    • それはその誰かにとって価値があるというだけである
  • 利用する当人が「価値がある」と感じて初めて意味がある
  • そのためにはユーザ自身が価値を発見できなければいけない
  • ただできることのプロセスを辿らせるだけでは価値を発見しづらい
  • 価値を見出しやすい製品であればオンボーディングプロセスは自然とうまくいく
    • それはユーザの最初の一歩を後押しするだけだから
  • 機能同士の繋がりが最適化されていないとき、オンボーディングプロセスの効果は低いのではないか
    • それはユーザが見ても、触れても、価値を発見しづらいから
  • 全ての価値を一度に発見してもらう必要はないと考える
  • 大事な価値を一つ見つけてもらって、そこから継続的に利用する中で、より深い価値を見出してもらえるのが良い製品ではないだろうか