おすそわけ

タヒチの人々に教えてもらった大切なこと。広島の原爆の経験から教えてもらったこと。日々沢山のうれしい出会いの中で、見たこと聞いたこと、考えたこと。おすそわけ。

そんなにキレイなもんじゃない

今日、「広島市原爆被爆者の会」というところの交流会にお邪魔しました。
オバマ来訪を機に、広島の中で起きていることを感じ取りたいと思いまして。
20名ほど参加者がいたかと思うのですが、各々、それぞれの感じ取ったことをそれぞれの言葉で話す時間でした。

会の総意ということではありませんが、被爆者と、その活動や趣旨に共鳴する人たちが発していた言葉の中に印象的なものがいくつかありました。
その方の本当の意図とは違ったかたちであるかもしれませんが、考えさせられることがあったので一部共有したいと思います。

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オバマさんが来ると聞いても喜ぶ気にはなれなかった。来られることを歓迎はするが、複雑な気持ちだった。家族や親族全員を原爆で亡くした祖母が、アメリカが憎いと言って死んでいったことが離れないからだ。けれど憎しみは憎しみしか生まないと思う。」

「私はアメリカを永遠に許さんよ。だから永遠に謝罪は求めんよ。」

「被爆者が許して和解したかのようにされて、歯がゆい。許しちゃおらんよ。」

「最初はアメリカが憎かった。けれどアメリカの人たちに何度も証言をして、ごめんなさいと言われたり、ありがとうと言われたり、優しい人たちに出会うなかで、憎しみは憎しみしか呼ばない改めた。」

「被爆者が訴えてきた71年があったから、実現した来訪であった。」

「不満もいろいろあるけれど、オバマさん云々を乗り越えて、私たちは伝えていくんだという気持ちです。」

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謝罪は求めないということに含まれる当事者の心の内は、理解されていないのだという声もありました。

許しているから、もう憎まないから謝罪は求めないというのではない。
「過去のことはいいから」「憎んでも仕方ない」という言葉の裏に、表に出ないどれだけのおもいがあるんだろうと感じました。
言葉の端を、良いように解釈することは簡単ですが、慎重にならねばなりません。

ここに挙げられたものが、広島の被爆者の声であるとも限りません。
歓迎すると言った人たちを否定するわけでもありません。
しかし、今回のオバマ来訪によって、そしてその演出によって、確かに存在した声が聞こえなくなるかもしれないと危機感を覚えています。

首相官邸のホームページで広報されている動画がコチラです。
https://www.youtube.com/watch?v=ivP1bzSKN_U

「日米両国は、70年の時を経て、心の紐帯で結ばれた「希望の同盟」となりました。」

この「舞台」になった広島で70年の時を過ごした人たちにとって、今回の出来事はそんなにキレイなもんじゃない。

「こだわりがあるよね」と言われて気づいたことと、素敵な美容院との出会い。

前回の記事を読んだ友人に、「こだわりがあるよね」と言われた。

 

「こだわりがある」ということを言われることがたまにある。

「頑固だよね」ともとれるなと感じている。

 

私は、自分ではずっと認めたくないと思っていたけれど間違いなく「頑固」の部類に入る。

まるく言えば「こだわりが強い」。

曲げたくないものは曲げたくない。

それが良い方に転がるときと、悪い方に転がるときと、たぶん半々くらいなもんだろうと自分では思っている。

 

ほいで、今日は良い出会いがあったのでこだわりが強くて良かったことをおすそ分け。

 

 

私は、ストレスにならない範囲で自分の周りにあるものにこだわりを持っていたいと思っている。

そう思うようになった原体験は、高校生から大学生の間に訪れた様々な土地に住む人たちの姿や、ご縁があって出会った人たちの生き様に触れたこと。

例えば、バングラデシュの衣料品工場が倒壊してたくさんの人が亡くなったと聞いたときに、自分が服を買うことで誰かを殺しているのではないかと思い、買う服について考えるようになった。とか。

お金にもこだわりたいと思った。私がお金をゲットすることで見えないところで人を傷つけたくない。だから私は大きな企業でということではなく、地元のNPOだったりなんだったりで自分のもらうお金がどこから来てどう使われるのかが見えて、納得できるかたちでお金を得ている。(少ないからなんとかしなくちゃいけないけど)

食べ物もこだわりたい。私が生きるために食べるものが、誰かを殺すことにつながっていてほしくないなと思った。だから大量生産のものよりも、地元の人がつくっていたり顔が見えるひとのつくったものを食べてきちんとお金を渡し(たいところだけれど、今はうまくいっていないからそうなるように近づい)ている。

携帯電話もどこにどうやってお金払ってるのか意味わからないし、そういう戦略の中に良いことはないのではないかという勘のもと、(あとよくスマホ類は壊すので)ガラケーだけ持つようにした。けれど仕事に支障が出るので結局手のひらサイズのデバイスは持ち歩くことになってしまった。

まぁこんな風にとても中途半端ではあるけれどこだわりを持とうとしている途中だということです。

私は日本で生きている限り、誰かの犠牲の上に生活しているものだと思っている。その誰かは見えないので、簡単に犠牲にすることができてしまう。犠牲にする人が見えないことは恐ろしいものだと思うから、できるだけ見えるように生きていこうとしている。まずは身の回りから。

 

そうして、どこで髪を切ろうか迷っていたとき、高校のころの先輩にふと会ってこの美容院に出会った。

広島市内のド中心地、本通りから徒歩1分。

Laff(ラフ) 広島の美容院・美容室

↑ここ。

この美容院は、ホット○ッパーには載っていないので検索では出てこない。

お店のひと曰く「そういうの、苦手なんでしょうね~ははは」

自分たちの畑でとれた野菜がお店にある不思議な美容院。

住んでいるところは広島の山のほう。古民家を改築して住み始めたんだそう。

 

そんな美容院が取り組んでいたクラウドファンディングがこちら。

readyfor.jp

広島の山奥で、ふるいおうちが美容院になって、そこに住んでるじーちゃんばーちゃんが喜ぶんじゃないかと思うとワクワクしてしまった。

 

初めて髪の毛を切ってもらったとき、そこの人たちがあたたかくておもしろくてちょー素敵で、畑の話や山の話や、海外で出会ったものの話で溢れてるのが心地よかった。

そこで「どこ住んでるの?」という話になった。

美容院の人たちは兄弟だったり姉妹だったり家族だったり、とにかくとても仲が良くてそれも心地よかった。

どこどこに住んでますよと言うと、「え、それ奥さんの弟がお店出すところだわ」となった。

聞けば春から私の家のすぐそばに、弟さんが新しく美容院を開くということだった。

 

私の家の周りは知る人ぞ知るユニークなところです。

2年ほど前、初めてできたコンビニでは、決まった時間に買い物に行くばーちゃんの買い物かごに、店員さんが買い物メモを見ながら商品を入れていくという光景が見られます。

近所のおばちゃんたちがパジャマ(のような格好…おっと失礼?)で夜ペチャクチャ話しながらアイスを食べるコミュニティースペース的コンビニになったりしています。

高齢化率はきくところによると30%近いのだとか。

ちょっと歩けば田んぼと畑が広がって、蛍のとぶ川が流れるようなところです。

 

まさかこんなところにおしゃれな美容院ができるわけ……と思っていたら、つい先月、できたんですね。

つぶれてしまったお菓子やさんのあとに、なにやら変わったお店ができた。

夜はかわいいランプが灯って、昼は若いオシャレお兄さんがいるぞと。

なんでこんなおしゃれなものができたんだと、地元のおばーちゃんたちが覗くこと覗くこと。

私も、覗く。

 

そしてついに時間がとれたので今日行ってきました。

はじめましての自己紹介をして、「あぁ!Laff行ってた子ね!」となり盛り上がる。

なんとお兄さんのおうちは徒歩3分の距離のところでした。近所。

ご結婚されて引っ越してきて、2人でお店をもつことにしたんだそうで。

聞いているだけで心がホロホロとほぐされました。

 

次もお兄さんに切ってもらおう。そう思いました。

 

美容院までこだわって通えるなんて幸せだなと。

インターネットでピピっと探して安いから予約~っとしてじゃなくて、

こうやって人に出会いながらたどり着く感じが本当に嬉しいなと思っています。

きっとこのお店も、わたしのまちの新しい光になっていくはずだし、若いお兄さんに髪の毛を切ってもらえるおばあちゃんが増えたんだなと思うと、もう心が弾んでしまいます。

やさし~いお店でした。

(ちなみにまだホームページがないらしいことも、好きポイント。)

 

こだわっていて、よかったな。

こだわって伸ばしていた前髪は、めんどくさくなりバッサリなくなってしました。

 

「オバマ来広」を受けて感じていたことをとりあえず記しておいてみる。

オバマが来た。

オバマが来たことにたくさんの私の仲間たちが自分の言葉で広島と向き合っていることを受けて、「私も何か書かねば」と思い立ち、パチパチとキーボードを打ち始めました。

 

何かメッセージ性を持たせようと思ったが、そんな力は私にはなかった。

2016年5月を、ちょっと問題意識を持って「広島の若者」というアイデンティティを持って過ごした1人の記録として、何年か経ってから見直したいという、ただそれだけのものですし、自信がないので語尾にちょろちょろといろんなものがついていますがご勘弁を…。

 

私は

まず、私がどういう人でこういうことを考えているのかを伝えるために簡単な自己紹介を。

23歳。社会人1年目。

学生時代は、自分でもなぜかよくわからないけれど、被爆者のおじいちゃんおばあちゃんとわりと時間と心をつかって話をしてきた。

「継承するってなんだ」「広島の心ってなんだ」を自分自身と周りとに問いかけながらちょっぴりだけど同世代と被爆者世代の間の橋渡しができればと思ってやってきた。被爆者と一緒に20か国くらいまわったりもした。

詳細は省略。

 

オバマさんに来てほしい。」

広島では私が覚えている限りずっと「アメリカの大統領に広島に来てほしい」みたいな活動がある。その活動は特定の誰かがやっているというよりも、メディアが積極的に後押ししていたりするので、本当にそこら中に転がっている文句みたいなもんだと思っていた。こんなに盛り上がりを見せる前からずっと、広島には「オバマさん是非広島にいらっしゃい」という雰囲気は多かれ少なかれあった。

 

「平和系の活動してる人」みたいなカテゴリーに私は含まれるらしく、そういう人は「オバマさんに来てほしいと思っている人」とほぼイコールらしかった。

そのため私は学生時代に幾度も「オバマさん、来てほしいですよね」と言われた。

「そうですよね」と答えていたけれど、実際のところ、あまり(というかほとんど)興味がなかった。

オバマさんに来てほしいという一言をどうぞ」みたいに、なんの前ふりもなくインタビューされることもあった。

その度に違和感があった。私がいつ「オバマさん来てほしい」って自分で言ったことがあっただろうか。

 

オバマが来る。」

そういうニュースが目に飛び込んできた時、いつもと同様に興味が湧かなかった。

今回興味が湧かなかった理由は、オバマさんが来て何かが変わると思えなかったから。

オバマさんが来れば核兵器がなくなると思えなかったし、オバマさんが来れば被爆者が救われるとも思えなかったから。

 

しかし次に目に飛び込んできたのは、「歓迎」の文字だった。

日本も歓迎する。広島も歓迎する。被爆者も歓迎する。

なにを歓迎しているのかよくわからなかったので、ちょっと調べてみると、「現職の大統領が広島にくるなんてすごい勇気のある決断だ」「見て、聞いて、感じて、そしてその思いを持って帰ってほしい」「核廃絶の原点広島に立ち、核廃絶の大きな一歩としてほしい(そうなるだろう)」ということだった。

被爆者が「歓迎だ」と述べているインタビューもあった。

なるほど。歓迎かもしれないと思ったが、やっぱり受け入れられなかった。

 

そしてその次にデカデカと現れたのが「謝罪はしない」ことだった。

日本も広島も被爆者も謝罪を求めないし、オバマさんも謝罪をするつもりはない。

そんなことがオフィシャルに掲げられて、その前提を「大賛成」のような雰囲気で歓迎するとは、どういうことだろうか。

ちょっとまたこれも受け入れ難かった。

 

私の知っている限りでは、被爆者だけでなく広島に生きる人の多くは原爆によって人生を変えられている。当時広島にいた人たちには、もちろん健康的に重大な被害を受けたひとがたくさんいる。健康面だけでなく、精神面でも相当な苦難を受ける羽目に合っている。

紛れもなく多くの人が虐殺されたし、家族や身近な人を失った人たちはその数だけいるわけで、生き残ったとしても、生き残ったこと自体に背負いきれぬ罪悪感を持っている人たちもいる。

わたしの感覚では、アメリカの大統領は、アメリカのしてきたこと・していることに責任のある重大な人物である。原爆は、「落ちてきた」ものではなく「落とされたもの」だと思っている。オバマさんが原爆を落としたわけではないが、そういう自国のしてきたことを自覚し、それを背負う立場で振る舞うことを求められている人だろう。その人が「謝罪をしない」ことが公然と認められていることに、もやっとした。

 

話は逸れるが、

海外に行くと私は「どこから来たの」と聞かれて「広島だ」と答える。「おぉ広島」と言われて、様々なことを質問される。その度に持っている限りの経験と知識を使って説明し、配慮できるだけのことをしてコミュニケーションをとる。アメリカの人には「ごめんなさい」と言われたことが何度もある。それは言わなくちゃいけないとか、言ってほしいとかそういうレベルのものではない。そういうやり取りが起こるのである。

また私は日本が加害者となった現場をいくつか訪問したことがある。その土地に立った時、私は日本人として見られていることを意識する。例えば日本が自転車を使って侵略しようとしたシンガポールでは原爆の話をする前に「ごめんなさい」と言わないでは始められなかった。そういう気持ちになった。

そんな体験があるものだから、今回「謝罪をしない」ことが掲げられている訪問に、心のこもった発言が期待できるとは思わなかった。明らかに政治的な訪問であるとここで確信した。

それでもオバマさんは人だからと、人として向き合ってほしいという人びとの声には共感した。何か感じるものもあるでしょうと。

 

政治的だなと考え始めたとき、一気にこわくなった。

オバマが来る。」それは広島に根差している莫大な量のちいさなものたちに一つの枠があてはめられて、そこに入らなかったものや入れたくなかったものは、なかったもののように扱われるような、そんな事件な気がしてきた。

外から大きな力がやってきて、「ヒロシマ」を定義づける。

そこにこれまで広島に存在していた人間たちの存在はほとんどない。

かたちづくられて、きれいに整えられ、何らかのかたちで権力を手にしているか一般的にわかりやすかったり美しいとされているものだけが、「ヒロシマ」として現れる。

そしてそれをうまく「ヒロシマ」と丸め込み、そして次に「ヒロシマ」というときには「ヒロシマ」は別のものになっている。

確かに存在していたものが、「ヒロシマ」とは別のものとされてしまう。そんな危機感とどこにもぶつけようのない焦燥感をおぼえた。

 

すごく大ざっぱな言い方だが広島はいつも利用されている。

「平和都市」は都合がいいんだろう。これまでも何度も広島がヒロシマであるから利用されてきたのを見てきた。

都合よく解釈したヒロシマを、都合よく言葉で飾って、意味づける。

そこに広島のリアルな人びとの姿はない。

 

わたしはその利用される様子を見て、そこに収まりきらないほどのリアルな人の姿があることを忘れまいと思った。

そのリアルな人の姿は、力を持つ人たちに都合が悪かったり、そもそも表に出ていなかったり(出ていないことは問題ではない)する。

しかしそういう姿こそが私たちが「過ちを繰り返さない」ためにも見落としていてはいけないものなのだろうと思う。

 

見えなくなるものは何か

今回、オバマ来訪によって押し流され、見えなくなってしまうものはなんだろうかと考えた。考えるだけではわからないことはわかっていた。でも私がない頭を使った結果、次のようなことがなんとなく危ないなと思っている。

・恨みや憎しみはないものとなるだろうこと。もしくは、恨みや憎しみのような感情をもつことが、もっと言いにくくなるだろうということ。

・アメリカと日本との関係が「仲良し」であることが良しとされ、「仲良し」であることによって、または「仲良し」であるために犠牲になる人たちが見えにくくなるだろうということ。

オバマさんが来てくれたことで、何か達成してしまった雰囲気になり、燃え尽きてしまう。そうして「平和」や「核廃絶」は達成されていないのに、それへ向けた行動や熱意がしぼんでしまうこと。

・過去をふりかえるより、未来志向でいきましょうとなること。過去を見つめることが軽視されること。もう過去のことを考えるのは終わりにしましょうとなってしまうこと。

 

プラハで核なき世界をうたい、結局核なき世界なんて来なかった(つくらなかった)のに、最後に広島に来て有終の美となるんだろうか。核の傘の下にいて、核廃絶を段階的に進めると言ってなんの段階も進めていない(ように私には見える)日本は、こういう時には「唯一の戦争被爆国」らしい歴史的な一大イベントを行うことで株があがるんだろうか。そんなことも考えた。

広島がただ舞台となっているような気がしてならなかった。

 

 

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オバマが来る。日程もほぼ決まった。

どんどん周りがお祭りのような盛り上がりを見せ始めた気がした。

オバマの写真とりたい」とか「オバマの英語、生で聞きたい」とかそういう声も多かった。わたしも確かにオバマさん直接見てみたいかもしれんとも思った。

 

このあたりから、私はいろんな人にコメントを求められるようになる。

毎日最低一本はかかってくる電話。メディアもそうだけど、友達とか知り合いとか、とにかくいろんな人から電話やメールが来た。

質問は、大きく分けて二つ。

オバマさん来るにあたって、何かしますか?」

オバマさんが来ること、どう思われますか?」

 

わたしは「何もしません」と答える。オバマさんに何か期待しているわけではなかったからだ。なんだか踊らされて転がされている気がしてしまったからだ。

そして先述したようなことを、自信がないなりに答える。

 

それから「あした平和公園行くんですか?」も多かった。

仕事だったから行かないんですと答えると、珍しいねという感じの答えが返ってくる。

 

予想していたよりも遥かに盛り上がっている様子に私は正直戸惑った。明日ってそんなに大事な日だったのかとまたもや気づかされた。今まで私のしてきたことに興味なんて示さなかった人たちまで「どう思う?」と聞いてきたことは素直に嬉しかった。ここでやっと、オバマさんの持つ影響力がでかいということを実感した。

 

オバマが来るぞと盛り上がっている前日、オバマが来ると何かが変わってしまいそうでこわくなり、夜平和公園を訪れた。

すごい警備体制だった。

ぼーっと立っている(ように見える)警官に「お疲れ様です」と声をかけるとピリっとした表情で足先から顔まで見られてドキっとした。

警察の車両とメディアの車両と、撮影のためのライトとで本当にお祭りのようだった。

慰霊碑に手を合わせて、供養塔に手を合わせて、原爆ドーム対岸からぼーっと川を眺めていたら、

「なんでこんな人多いの?」「あ~明日オバマか」

みたいな会話が聞こえてくる。いつものように外国人が多かったし、いつものように仕事帰りの人が歩いていて、でもちょっと人が多かった。

 

71年前の8月6日、広島は広島史上一番歴史的な場所だった。

そして何度も歴史的な街になってきたんだなと思った。

同じ場所に明日オバマが立って、花を手向けるのかと思いながら手を合わせた。

オバマが来る。そのことを被爆者はどんな気持ちで受け入れているんだろうかと考えた。

すると以前聞いたある被爆者の方の言葉が頭に響いた。

その方は、子どものころ、アメリカでエノラゲイに乗っていた軍人と対面したという。会うまでは、大事な人たちを芯まで懲らしめた張本人を、どうやって殴ってやろうかとか、どういう言葉でとっちめてやろうかとかそんなことを考えていた。けれどいざ本人を目の前にしてその人の手と顔を見た時、怒りが吹っ飛んだというのだ。

この人も人間だ。そう思ってそっと手を握ったのだそうだ。

 

平和公園に立ちながら、ここに埋もれている死者たちは何を思うだろうかと考えた。生きておられる被爆者の方たちの話をきいても、気持ちなんてよくわかりきらないのに、全然答えはでなかった。でもきっと私なら憎くて呪ってやりたくなるかもしれないと思った。

歓迎なんてできない。そう思って、ますますわけがわからなくなった。

帰って来て寝ようと思ったけれど寝られなかった。明日何が起こるんだろうか。

期待というよりも不安で不安で不安だった。

私にできることは、失われてしまう声を失われないように記憶しておけるようにしておくことだと思った。

明日が特別な一日であることは間違いない。その特別さに盲目になってはいけない。

変えてはいけないものを変えないでいられるようにしようと。そういう役割の人も必要だろうという答えに辿りついて、やっと寝た。

 

オバマは来た。

当日、オバマさんのスピーチは素晴らしかった。

よく考えられたスピーチだなと思った。

このスピーチを聞いて、「あぁよかったな。来てくれてよかったな」と思う人は多いだろうなと。

 

安倍さんのスピーチを聞いた時には(いつものことだが)やばいなと思った。

オバマさんが来ることは日本とアメリカの「和解」の象徴らしかった。

原爆ではなく戦争という大きなくくりの中で、平和の象徴として広島は利用された。

オバマさんのスピーチも、安倍さんのスピーチも、広島でなくても言えるではないかとも思った。

 

あの日平和公園には朝から日の丸と星条旗のペアがたくさん飾られていた。

被爆地に星条旗がはためく。その光景にやっぱり、「利用されたな」と思った。

やっぱりかという思いが強かった。

 

私は、正直なところ人生をめちゃくちゃにされた被爆者と、そのことを知っている人たちが「謝らなくていい」と胸を張っている気持ちがよくわからない。謝らなくていいの裏には、謝っても仕方がないから次に進むことで償ってよ。というのと、もう過去なんてどうでもいいというのとがある気がする。

被爆者が「謝罪は求めない」としたことで、それを「日本人らしくていい」と称賛するようなコメントを多くみた。良い言葉が見つからなかったのだが、隠さず言うと、この日本人らしさは気持ちが悪いような気もする。これぞ日本人の美徳というか、そういう讃えられ方と、そういう胸の張り方はなんだか違う気がする。

そして私が危ないんじゃないかと思っていたことのひとつは、一部で的中した。「日本は謝らないで加害国を受け入れる寛容な国だ。いつまでも謝罪を求める国とは違う。(主に韓国や中国を指す)」といったコメントがビュンビュン飛び交っている。「日本人らしい美」を見せつけるかのようなそういう論調は、醜いものだなと思った。

「謝るとつけあがるから、謝らなくていいんだ」そういう声も実際に聞いた。これは相手国に対してだけではなく、被爆者へも向けられた言葉であったから驚いた。

それから「戦争に悪い方も良い方もないんだ」というのも複数聞こえた。だから謝らなくていいと。今回の訪問で「戦争犠牲者」の一部として原爆被爆者を捉えられたことは、これからとても大きな障害になるだろうなと感じた。

「謝る・謝らない」が今回の一件を考える軸として存在していることはそもそもなんだか間違っているような気がしてならない。謝れない理由はなんとなくわかるが、謝らない理由は私にはわからない。「謝らなくていい」とすることは、一種の責任逃れなような気がする。「謝らなくていいです。こっちも謝りませんから。」そう言っているような気がするからだ。謝ることが過去に固執することならば、未来志向的な発言や行動は、明るくて可能性を秘めていて輝かしいものに見えるかもしれない。しかし過去のことを置き去りにしてそれをするのはやっぱりおかしい。加害と被害のあった当事者の存在はそこには抜け落ちているようにも思う。

 

「過ちは繰り返しませぬから」はいろんな議論を生む文言ではあるが、広島が耐えず過去を顧みる土地であるということを示してくれているのではないだろうか。未来志向になる度に忘れそうになる大小さまざまな記憶と教訓の数々に、広島はずっと足をつけていられる貴重なところだ。そしてそれがゆえの役割を持っているのだと思う。

 

 

オバマ来訪を手放しで喜んでいてはいけないと思っている。そしてそう考えている人が周りに結構な数いるということもわかってきてほっとした気持ちもある。今回の「オバマが来た」という事実は、広島がまた広島の役割や課題について向き合うための大きなきっかけになったのではないかと感じている。

これだけ注目される都市だということを自覚して、しっかり考えながら、地に足をつけていたい。そして予想した通り勝手に意味づけされたヒロシマではなく、見えない者や聞こえないものをできるだけ拾って残していくために、感覚を研ぎ澄ませていたい。

 

 

 

 

 

 

~ちいさな人間たち~

今日、小学校に入る前のこどもと過ごす時間がありました。

 

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お母さんと離れて過ごすのは緊張する。

周りの人たちはお姉さんお兄さんに見える。

 

どうしよう……。

 

とりあえずみんなの近くに行ってみる。

やっぱりなんか入りにくい。

話しかけるのもなんかいや。

 

私に、「何かしたいことある?」と聞かれる。

 

困。したいことなんてない。なんて大ざっぱな質問なんだ。

 

「積み木で遊ぶ?」

 

う~ん、ちょっと微妙だけどなしじゃない。

頷く。

 

「でも今宿題やってる人いるからあとにしようか」

 

え~ちょっと楽しみになってきたのに、だめなの……

 

「絵本もあるよ」

 

ふむ。なるほど。絵本ならおもしろいかもしれない。

選びに行ってみる。

お。結構たくさんあるからおもしろそう。

これなら読めそう。

 

~~

 

話しかけてから絵本を持って帰ってくるまで、私はその子の声を聞いていない(笑)

だけどたぶんこんな感じ。

 

読めるひらがなは半分くらい。

絵本を2冊読んで、本にでてくる文字をみながら「め!」「さ!」とか言って文字を覚えようとする。

 

言葉を交わさないでも、何を感じているかはわかる。

 

ああ、ちいさな人間だなと思った。

 

 

そこの言葉がわからない国に行くと、まずコミュニケーションがとれるのは犬と猫です。

これは実体験をもって、いえる。確実。

そして次に心通じるのは子どもたちです。

一番難しいのがおとなでした。

 

言葉に頼っているから、というか言葉がつなぎ目になっているからだと思いました。

私はいつも言葉に頼っています。

だけど言葉がなくなったとき、言葉じゃないところで人とつながれる人はつよい。

 

今日であった彼らは、そういう強い、ちいさな人間なんだと思いました。

 

 

「子ども」って誰が決めたんだろう。

彼らは「子ども」というよりは、ちいさな人間たちであった。

 

 

 

韓国が好きだ

韓国に行ってきました

3月15日~3月24日まで、JENESYS2015 日本学生訪問団として韓国に行ってきました。 まだまだ考えたことや感じたことを整理できていませんが、しっかり落とし込んで言葉にしていきたいと思っています。
今回の研修を経て、私たち団員には「発信する」という使命があることを痛感しましたので、頭と心の中に雑多に混在している新鮮な言葉たちの中から、今一番「発信したい」ことを書きます。
私は大学1年生の頃から、ひょんなことがきっかけで『アンサンブル・コントラプンクト』というアンサンブルグループの中でバイオリンを弾かせてもらっています。
洋楽器と朝鮮楽器のアンサンブルで朝鮮民謡から日本のポップス、クラッシクまで幅広く演奏してきました。 活動の中では、日本と朝鮮半島のつながりについて、音楽や在日コリアンといった視点から考えることが多くありました。

演奏活動を初めて以来、在日コリアンとして生きる人びととの出会い(彼らが例えもし在日コリアンでなくても出会っていたかもしれないし、変わりなく大好きで大切である)が増え、私にとって「在日コリアン」という響きはまるで自分のことのようになりました。
また、いろいろなところで在日コリアンであるおじいちゃま、おばあちゃまにも出会ってきました。彼らの祖国への思いにもまた心を打たれることがしばしばありました。

しかし韓国の伝統的な楽器の音色や音楽に触れ、美味しいコリアン料理を食べ、その美しさや素晴らしさに魅了される一方で、私が韓国に抱くイメージを一言で表すならば「複雑」というのがぴったりでした。 韓国・朝鮮人被爆者のはなし、第二次世界大戦以前の日本と韓国の関係、戦後補償のこと、現代の日韓外交関係、ヘイトスピーチなどなど、「韓国」「朝鮮」と聞くとそういう問題点とかネガティブな側面がたくさん頭に浮かんでくる。その度に日本人の反韓感情・韓国人の反日感情が垣間見え心が痛めつけられる。そしていつも在日コリアンである大切な人たちの顔が浮かび、心の内を想像しては悲しくなり、どうしていいかわからなくなっていました。
私にとって韓国は「大切な人たちの祖国」でした。「複雑」、だけど大切。 今回の研修は、大学に入ってから私をつくりあげてくれた大好きな人たちの祖国に、自分の目で足で肌で触れたいという私のかねてからの想いを叶えるものでした。自分で触れたい。そうして感じることを信じたい。そういう思いでのぞみました。
韓国では、 慶熙大学校をはじめ多くの方にお世話になりながら、学生との交流・文化財の見学・大使館や政府機関への公式訪問・文化体験など本当にたくさんの経験をしました。一緒に参加した18人の学生メンバーと、引率の先生、団長の先生とも毎日毎晩いろんな話をしました。 (研修の様子はコチラからどうぞ⇒https://www.facebook.com/japankorea... )
韓国で間違いなく私のなかに芽生えた感情は「韓国が好きだ」というものです。
私たちを歓迎してくれた大学の先生方の心遣いに幾度も助けられたし、出会う大学生は日本語を一生懸命勉強していて本当に話すのが上手だったし、交流の時間に出会った学生はソウルの中を一日中案内してくれて日本語でたくさんのことを教えてくれたし、民族村で見たサムルノリの演奏は美しくて涙が溢れたし、ホームステイした先のご家族と近所のみなさんは韓国語の話せない私でもずっと楽しくいられる時間をつくってくれたし、結婚式で着た大事な韓服を着せてくれたし、ご飯はおいしすぎてめちゃくちゃ太ったし、たくさんのお酒を飲ませてくれたし、道路にごみは少ないし、夜道も安心して歩けるし、政治の話だって歴史の話だって一生懸命理解しようとしてくれたし(しようとしたし)、「こんにちは」と挨拶してくれる街の人びとがいたし、伝統的な建築物はこちらが圧倒される迫力を持っていたし、あらゆるところで使われるカラフルな色彩に惚れ込んでしまったし、何より何より出会う人たちがみんな本当にあたたかかった。
「好きだ」を通り越して愛おしささえ感じるようになった。
私は、私の心と体を使って出会った韓国のことを心から「好きだ」と思っています。 今まで感じてきた「複雑」という印象とその事実を「好きだ」という気持ちが消してしまうわけではありません。むしろその複雑さを捉える視座が増え、より混沌とした思いが生まれています。 今回の研修で出会ったものが、たまたま好きなものばかりだったということもあり得るでしょう。でも、こんなにも好きだと思えたこと、これも私にとって、一人の日本人としてとても有意義な揺るがない事実です。
この「好きだ」という気持ちを信じさせてくれたのは紛れもなく韓国で出会った人たちと、この研修を支えてくれた人たちと、一緒に体験を共有した17人の団員たちでした。
目の前にあるものを素直に素敵だと思い、感動し、言葉にし、写真を撮り、笑顔になる。 なんのレッテルを貼ることもなく、何かを求めるわけでもなく、受け止めて共有する。 難しいものがあることくらいわかってる。だけどそれを乗り越えるとか乗り越えないとかそういうことじゃなくて、ただ、出会う。出会って考えて表現する。 それぞれの思いのたけを語り、刺激を受けて、共感する。背伸びもしないし萎縮もしない。 年齢も国籍も背景もなく1人の人として開放的に、だけど真摯に向き合う環境があったからこそ得られたものでした。
私たちの派遣のテーマとして「交流」というものがひとつ掲げられていました。 お互いに違うものを持っている。違うというスタート地点から、違いを認識し、考え、それを相手に伝える。似ているものを探して納得しようとすることは、交流とは呼ばない。

また研修の中で日本と韓国のことを擬人的に捉えることが幾度かありました。
「わかり合えないことがあるからわかろうとする」
「近すぎるから衝突してしまう。衝突は終わりを告げるものではない。」
「違うとわかっているから、違いを受け止めることができる」
私は、大好きな人たちの祖国である、そして私自身が好きな韓国と日本との関係がよりよいものになることを願います。その気持ちは研修に参加する前からも持ち続けていましたが、今は考えれば胸が締め付けられて体があつくなるほど大きく大きく膨らんでいます。
「好きだ」という発見と、これらのことを手掛かりとして、また、この度生まれた大切な繋がりの芽を育んでいくべく、日々暮らしていこうと思っています。
 
2016年3月25日

 

わたしがコリアに行く理由

明日から韓国に行ってきます。

 

JENESYS2015のプログラムのうち、日本大学生韓国訪問団の一員として行ってきます。

詳しくはコチラ

 

事前アンケートにこんな問いがありました。

 

「あなたの韓国とのはじめての出会いはいつですか。」

 

とても良い質問だと思った。

 

いつだったかなぁ。

 

遡ること、17年前、小学校1年生。

学校の先生が「チマ・チョゴリ」を教えてくれました。

今でもくっきりと覚えてる。

薄い桃色のチマと、濃い紫色のチョゴリ
着てみたくて触ってみたくて、順番が待てなかったのも覚えてる。

どうやって着るのか、自分がどんな姿になるのかわくわくしたのも、思い出せる。

 

それがわたしの韓国とのはじめての出会いでした。

 

韓国だけでなくてコリアというのが身近になったのは、大学に入ってすぐのことでした。

SNSでバイオリンが弾けるひとを募集していて、何気なく「弾けますよ」とこたえたのがきっかけ。

そこから『コントラプンクト』というアンサンブルグループに所属することになりました。

コントラプンクトというのは、音楽用語で「対位法」という意味です。

複数の旋律を同時に奏でてひとつの音楽をつくりあげる。

どの旋律が伴奏ということもなく、主役。

コリアと日本とが、融合してきれいな旋律を奏でるようなそんなグループでありたいという思いが込められています。

コントラプンクト』では、コリアンの楽器(例えばヘグムとかカヤグムとかチャンゴとか)と西洋の楽器(バイオリンとかビオラとかチェロとか)でアンサンブルをします。

(よかったらまたコンサート来てください♩)

 

初めてのミーティングに行ってみると、朝鮮半島の楽器がずらりと並んでいました。

そこからどうやるのかわからないけれど、それぞれの持つビートと特徴とを活かしながら音楽をつくっていく。

難しいことも結構沢山あったんだけど、コリアンの古来のサムルノリと、西洋のリズム感とを活かしながら音楽をつくっていく。

それが本当におもしろかった。

 

私は決してバイオリンが上手に弾けるわけじゃないけれど、とにかくおもしろかった。

 

コントラプンクト』がするのは演奏活動だけではありません。

音楽を通じて、濃密な国際交流をすることも活動のひとつです。

コリアンの楽器を演奏するメンバーは在日コリアンです。

音楽を通して初めて「在日コリアン」という言葉がわたしの中に浸透しました。

自分たちのルーツについて、あれやこれやといろんなことを話しました。

在日コリアン」という人たちは私にとっては大事でかけがえのない人たちになりました。

 

私はとにかくメンバーの演奏するコリアンの音楽が好きです。

本当に好き。とても美しい。

聴いていると体の芯からトロットロにとろけて音のなかに流れていきそうなくらい。

本当に好きなんです。

コントラプンクト』はたくさんのコリアン音楽を演奏してきました。

わたしもいくつか演奏しました。

コリアン音楽のひとつの音を、わたしが奏でられることに、この上ない幸福感をもっています。

 

その音楽はどこからくるんだろう。

彼らが口ずさみ、私が演奏してきた音楽はどんなところでつくられたんだろう。

どんな空気を吸って、どんな土に根差して生まれたんだろう。

大事な大事なメンバーの祖国は、どんなところなんだろう。

 

コリアに行ってみたい。

 

そんな思いをずっと抱きながら生活してきた大学生活の終わり。

ひょんなことから政府派遣団の一員として韓国に行くことが決まりました。

 

派遣団に応募したときに提出したエッセイにこんなことを書きました。

 

韓国の民謡『アリラン』と、日本の民謡『赤とんぼ』は同時に演奏することができます。

ふたつの旋律がぶつかり合うことなく、穏やかに流れていきます。

(うまく言葉で説明できないのでYou Tubeで見つけたコチラを参考にどうぞ)

www.youtube.com

 

音楽や民謡って、生まれ育った地域とか、周りにいる人たちの影響をすごく受けると思うんです。

コリアと日本とで根底に流れる二つの旋律が、一緒にきれいな音楽をつくることができるって、すごく大きな可能性を秘めていませんか。

 

 

今日、オリエンテーションで引率の先生が

「偏見や先入観は捨てて!あなたの感性で受け取ったものを受け取ってください」

と言っていました。

明日から私が感じるひとつひとつのことを大切に日本に持って帰りたいと思います。

 

わたしは土を踏むことを大切にして生きていきたいと思っています。

大切な人たちのルーツである土地に自分の足をつけること。

そこから何か伝わってくる気がするんです。

土はすべてを覚えている。

そんな気がするんです。

 

行ってきます!

 

 

 

 

 

 

じわり。じわり。

じわり。じわり。

じわり。じわり。

知らなかった は 意味がない。

じわり。じわり。

じわり。じわり。

きづくときには あとのまつり。

じわり。じわり。

もう わたしのとなり。

 

 

卒業論文をだしました。

なんて後味のわるい終わり方なんだ…。

全力が出し切れなかった、出し切らなかった自分の、

人間力のほどを思い知らされました。

お世話になった方たちに、お手紙をかこう。

 

さて。

 

「人間とは、そういうもの。」

 

じわり。じわり。

それはやってくる。

 

そういうものだということを、私は感じてきました。

 

じわり。じわり。

知らないんです。私たちは、知らない。

知ろうと思っても、知れないこともある。

あれ?と思った時にはもう遅い。

 

そういうものなんだと思う。

 

――先月くらいに、授業でこんな映画を見た。

 

movies.yahoo.co.jp

 

憎しみ。La haine 

 

この中に、とても印象的な言葉が出てくる。

 

 

50階から飛び降りる男。

彼は落ちながら確かめ続ける。

まだ大丈夫。まだ大丈夫。まだ大丈夫。

だが、問題は落下ではなく、着地だ。

 

 

――ポーランドオシフィエンチムアウシュヴィッツ強制収容所跡に行った時に

同じことを聞いた。

 

大丈夫、大丈夫と思っていると、大丈夫ではなくなってしまう。

気づかないうちに、変わってゆく。

知らないうちに、変わってゆく。

 

ユダヤ人を皆が追い込んだだろうか?

そうは言えない。「やめよう」と誰も言わなかっただけだ。

 

――そしてその話はこう続いた。

 

ヘイトスピーチ」が横行する時代。

誰も「やめよう」と言わなくなったら何が起こるか。

気づいた時にはもう遅い。

 

 

 

じわり。じわり。

やってくる。

 

 

わたしはその足音を、聞き漏らさないでいたい。

 

「やめよう」と、言い続けたい。

 

 

誰かを傷つけることを、当たり前にしてはいけない。