正月

10時頃に起床したのち、すぐに祖父の家に向かう。
時間があまりなかったので、お雑煮やくりきんとんなどを自宅で食べることができなかったのが残念。
例年のように母の牛歩作戦が見られた。

今年はおせちを注文しなかったので、町田で食べる事ができたのは幸いだった。
飲み過ぎてなにを話したか忘れてしまった。

家に帰って3時ごろまでテレビを見てぐったりと過ごしていた。

毎年行っていた些細なことを今年はすっぽかしてきている気がして、なんだかこの一年が不安な気持ち、落ち着かない。

12/31

2014年、暮れ。
大晦日。
去年と変わらず、というより毎年と同じように自宅で家族と一緒に紅白を見て年越しを過ごした。
年をまたぐ際の高揚感はテレビによるものだと認識した。
ムーブメントに流されるほうが楽しいなら、くだらないプライドを捨てて楽しんでしまえばいいと思った。

共に過ごす事が親に対する報いだと思っていた。
毎年そうだったから、疑いもしていなかった。
友達の誘いを断ったとき、その報いには怠惰の側面も含んでいることに気づいた。

だから来年の大晦日は家族でない誰かと過ごしてもいい、と思った。

ここ数日

人といない時間にたまらなくなっていた。

24日 恵比寿で飲む 兼子の家に泊まる
25日 ロケハン
26日 学校で映画みたりシンセいじったり 兼子の家に泊まる
27日 映画を観る

誰かといない時間がものすごく損であるように思えて、実は一人は貴重な時間だったりする。
何度も感じている事なのに、やはり一人は寂しい。
ただだらだら過ごしていく時間が惜しい気がする。なぜ?
この時間は私のもの。だらだらできる時にだらだらできるのは贅沢だ。なのになぜ?
なにも考えずに、夜を待たずに、また夜を待つためでもなく、眠気に身を任せることに罪悪感を感じる。
私は本当になにもしていないのか?今日は映画を見たしこれから酒も飲む。
ただ数時間後の自分には何もしていなかったことになる。
それはそれらの行いが自分にとってあまりに普遍的で慣習化されているから。
記憶にとどめるには区別される要素が見つけられない。
つまり、ただひたすら中身のない会話をしているだけ。
映画を見ていても話が頭に残らず、見たという事実だけしか残らない。
私の身体は空っぽなのでなにを仕入れても残らない。垂れ流すばかり。
空洞です。
言葉がでてこない。