UnseenYouキャスト別覚書(更新途中)
昨年からDAZZLEのイマーシブシアター『UnseenYou』にドはまっており、いろんなキャストさんを見ているので自分用覚え書き。
致命的なネタバレは書かないけど、若干中身に触れてはいるので、今から観に行く人にはこれさえ読まずに行ってきてほしい~~~という気持ちがある。あるけど読んで興味持ってもらえるのも嬉しい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【盗賊】と【修道女】は、なぜか当たったキャストにめちゃくちゃ偏りが出ていて、バランスよく書けないのでいったん見送り。
あとダンスについてはあえてほとんど触れてない! なぜならそれぞれ魅力的なのと私に専門知識がないから! 言葉で聞くより見たほうが早い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
続きを読む20230604
しばらく触っていなかったff14をたっぷりやってから、SCRAPのオペラ座脱出に出かけた。久しぶりの脱出成功で嬉しかった。
ペア参加3組がひとつになった6人チームで挑むことになったのだけれど、皆それぞれ機転が利いて、協力し合って、ブラフにも引っ掛かりつつ、ほぼノンストップで最後まで行くことができた。素直に気持ち良かった。縁と運に感謝だ。
公演自体も、お芝居あり、歌あり、我々も世界観に浸れる仕組みがありで、わくわくした。
少し話はずれるけれども、同行した友人と話していて「マダミスはお芝居のカラオケ」という表現が出てきて、言い得て妙だし素敵だなと思った。
成人して長いこと経つけれど、ごっこ遊び欲とか、お芝居欲とかが、いまだにある。
私はたぶん、「現実ではないこと」が好きで、それに一緒に乗っかって遊んでくれる人が好きなのだ。ここにはないものを、刹那的に創ってしまう場面が好きだ。
役者さんが舞台挨拶や宣伝なんかで、役の口調で掛け合いをしたりするのがやたら好きなのも、この延長にある気がする。
そして裏返せば、現実に対する興味が薄くもあるのだと思っていて、どうしてだろうな、どうにかしたほうがいいんだろうな、とも思っている。(どうにかする必要があるんだろうか、別にこだわらなくてもよいのではないか、という気持ちも、ちょっとある)
現実にある嫌なことはもちろん嫌なのだけれども、空想では興味があることも、現実になると、とたんに薄れてしまったりする。なんでだろうな。
このあたりの感覚を解体して、もう少し上手につきあえるようになるといいのだけれど。
20230603
『海街Diary』を今更見ている。テレビ放映見て言うのもなんだけどいい映画だな。
1か月以上直らないままだった、上階からの水漏れがようやく直った。
私の精神の不調と一緒に現れて消えていったような水漏れだった。
心身の不調が治りきっているとは言えないけれども。
今日は数駅分歩いて、ホットケーキを食べに行った。
おいしかったし、いい店だったのだが、ケーキシロップを食べこぼして(私は本当に頻繁にいろんなものを食べこぼす)、ロンTのパンダがよだれを垂らしたみたいになってしまったので、明日漂白剤を使って洗濯をすること。
月に数回、1万歩くらい歩けたらいいなと思って出かけるのだけれど、相当歩いたつもりで歩数計を見ると、3,500歩くらいで瞠目することがままある。壊れてるんじゃないかなと思う。そのあと気づいたら8,000歩超えていたりするので余計にわからない。そして今日は結局9,600歩で終わっている。帰りはバスに乗ってしまった。
だいぶくたびれていて、今日はよく眠れそうだなと思ったのも6時間くらい前の話で、今はそれも通り越しており、質の高い睡眠を得られるのか不安だ。
先日購入した集英社のアンソロジーをちまちま読んでいるのだが、収録されている話の1/3近くが別の書籍を通して既読のはずで、既読なのはわかっているのに、まるで中身を思い出せずに普通に楽しんでしまった。良いのか悪いのかわからないでいる。それはとにかく、今の気分にフィットする内容が多いのはありがたかった。
これに限らず、今まで読んできた本の中身をどんどん忘れている。
最近読んだ本だけではなく、昔読んだ本もそうで、というか、本だけではなくて人の名前や出来事もどんどん抜け落ちて忘却している。
未来に希望はなく、過去さえ喪失してしまうなら、いよいよ生きている意味あるのかな、と思うのだけれど、どうにか生きていかねばなるまいね。
20230602
昨日よりも確実に「大丈夫」になっている感があり、とはいえいつ揺り戻しがあるのかわからないので、調子には乗らないよう気をつける。
今日は前から行ってみたかった『由縁別邸代田』に行ってきた。都心にある温泉旅館である。泊まるにはやや敷居が高いので日帰りプランだ。
茶寮の予約時間までお湯を浴びてのんびりするのに、1時間もあれば大丈夫かな、むしろ結構あまりそうだなと思いながら出かけたら、向かう駅をあまりにナチュラルに間違えており、土砂降りの中20分強を歩くことになってずぶ濡れになった。バーカ!
結果的に、少し駆け足で、のぼせない程度の湯あみになった。
余裕を持って出ていてよかったね。おまけのアイス食べられなかったのはちょっと残念だったけれど、風と雨を眺めながら浸かる半露天はとても心地よかった。
杏仁ムース、杏仁豆腐やプリンとは違った食感で、美味しかったな。
行ってから気づいたのだけれど、目と鼻の先に『白髭のシュークリーム工房』があって、帰りに立ち寄ったらうまいこと入れた。
今でこそ人並み程度の興味でしかないけれど、小学生の頃トトロオタクだった時期がある。
あのころの自分が来たら、果てしなくはしゃいでいただろうな、と思いながら、トトロの形をした愛らしいシュークリームを切り崩すのには、不思議な感慨があった。偶然の巡り合わせでもって、人生のノルマを果たしたみたいな感触だった。
店を出たら、背の高い樹々が、遠くの台風から流れる風でごうごうと揺れていて、森の中にいるみたいだった。
昔憧れていたのは、こんな街だったかもしれない。
巡り合わせついでに、帰りに駅前でふらっと入ったグリーンショップで観葉植物を買った。ふらっとというか、ぐらっとである。物理的にそのままの意味だ。追いかけてきた風が強すぎて、目の前の開いていた建物に入ってしまったのだった。
少し前から、家に緑が欲しいなと思っていて、500円くらいで探すつもりだったのに、気づいたら10倍の値段を出して引き取っていた。
店員のお姉さんが可愛らしくて、あの子この子と同じ歩調で話してくれたのも楽しかったし、ここ数日、縁のようなものを信じたくなっていたところもある。
HACHIというお店の、八角形の宝石があしらわれた素敵なショップカードのこと、吊り棚に座っているハチのぬいぐるみ、地主さんが配っていると噂のふくねこふくちゃんのこと、そのうち忘れてしまうだろうから書いておく。
ちゃんと育てたいな。
20230601
薬を飲んで14時過ぎまで寝ていた。さすがに少しすっきりした気がしないでもない。
のっそり起き上がって、『岸辺露伴ルーヴルへ行く』を観てきた。
原作未読だったので、なかなかルーヴルに行かなくてふふっとなった。あらゆる意味で贅沢でよかった。
映画とは関係がない話なのだけれど、人生の節目を迎えようとしている。
なにかに導かれるように辿りついた場所に対して、自信も現実味もまるでなく、不安だけが渦巻いている。昔から、夢や願い事というのは叶わないものであり、いわば現実逃避の一環として抱えていたものであるからして、叶ってしまえばそこにあるのは残骸でしかなく、それを幸福と思えるだけの強さはないのだった。
せめて誰かに話して肯定されたい、背を押してもらいたいと思うのだけれど、そうした相手のほとんどが鬼籍に入っていることに気づいてぼうとしている。今更にこみあげてきた涙が、遅れて来た離別への反応なのか、単なる情緒不安定なのか、判断できない。
そういうわけで、私もようやく何者かになれるかもしれない、という思いは、不安定なままに浮かんでいる。
昔から、誰かに認められたかったし、褒められたかったし、甘えたかったのだ。
その相手が見つからないのであれば、自分で自分を愛し、認めるしかないとわかってはいるのだけれど、それもなかなかに難しい。隙あらば否定の文言ばかりが浮かんでくるのはどうしてなのか、卑下を防衛の手段にしてはいけないと、理性では知っているはずなのだけれど。
自分のことを好きだと思える自分を取り戻したい。
5月が終わる
日常をもっと気軽に書きたいと思って作ったブログなのに、結局身構えてしまって滅多に更新しない場所になってしまっている。
そうこうしているうちに長文を書く能力が減った。昔は毎日、息をするようになにかを綴っていたのにな。
今、「昔」という言葉を平気で使っている自分に少しびっくりする。
時間にして20年も前というのは当然「昔」なのだけれど、自分は齢35にしていまだに思春期を引きずり続けて生きており、大人になったようでなれていないまま、己の幼さに戸惑い、焦り、責めて……というよりは、いつか誰かにバレてなじられ、社会不適合者の烙印を押されるのではという恐怖に纏われながら暮らしているので、「昔」は昨日のことのようで、全然「昔」のように感じない。けど、昔は昔だ。
自分のことを幼いと思うのだけれど、幼さとはなんだろう。
社会の仕組みを詳しく知らず、だけどろくに知ろうとせずになんとなく生き続けてしまっていることとか、読んだことがない、見たことがない古典や名作が山ほどあるとか、それをタイトルとあらすじだけで知ったそぶりをしていることとか、どうしようもなくなったときに(実際たいしたことではないのに)親に縋りたくなってしまうとか、小さなことで傷つきやすく心を閉ざしてしまうとか、行き詰ったときに物事を放り投げたくなってしまうとか、具合が悪くなったふりして(もしくは本当になって)逃げてしまうとか、他人に何かを求めるくせにあまり与えられなかったりとか、空が青くていい匂いの風が吹いている日に、仕事なんてせずに外へ飛び出したくなってしまったりすることだと思う。
まあそれでも、思うだけで外には飛び出さず仕事をしていた。
今思えば、「すごく天気いいから、ちょっと空気吸ってきていいですか」って屈託なく言えたなら、それはそれで子供じゃないんだろうなという気がする。あるいは、なにも言わずしれっと抜け出してちょっと散歩して戻ってくるくらいのことしたって、それもそれで大人なんだろうなという気もする。
そのどっちもできない自分が、そこに正しさを見出してしまう自分が、嫌だし悲しい。
車窓から見る、水が張られたばかりの田園のきらめきとか、麦畑を薙いでいく風の匂いとか、通り雨の前の厚く膨れ上がるような空気とか、ホームに降りた瞬間に感じる冬の到来とか、そういうものが好きだった。授業中教室を抜け出す勇気はないくせ、心は外にあって自由だった。
そういうものを感じながら大切にしながら想い馳せながら生きていければいいのに、その鋭敏な感覚を持ち続けたままでは、世の中戸惑ったり、傷つくことが多すぎる。うまくスイッチを切り替えられればいいのに、それができない。健やかな大人はきっとそれができるのに、幼いままの自分はスイッチを切り続けることが大人のふりをすることだと思っていて、たまにその苦しさに耐え切れなくなる。そんなふうに思っていること自体が幼いと思う。
結局、大人とか子供とか、そういう言葉や取り決めに縛られて、勝手に苦しくなっているだけなんだろうな、とも思うのだけれど。
あのころ、自分が大人になれるなんて思っていなかった。大人になるということは無神経になるということで、幹が太くなることで、大丈夫になるということで、自分がそこまで生き残れると思っていなかった。
「今」も生きてるけれど、全然大丈夫じゃないよ。大丈夫じゃないけど、あのころよりは図太くなったのかもしれない。それがいいことなのかどうかは、わからないけれど。
結局私は、幼い自分を、これからも幼いままでいることを、誰かに許されたいのだと思う。誰よりも自分に。