那須の短歌 blog

短歌について書きます

「ビットとデシベル」 フラワーしげる

登場人物はみなムク犬を殺したことがある 本の向こうに夜の往来を見ながら

 どのような小説なのだろうか。もしかすると推理小説かもしれない。カフェで本を読みながら、ふと目を上げると、街はすっかり暗くなっている。本のあらすじを思い返してみると、登場人物はみんな犬を殺していることに気がついた。それがどうしたと言ってしまえばそれまでだし、おそらく、そんな登場人物ばかりの小説はないし、そうすると夜の往来を見ていたことだって本当ではないだろう。それでも歌われている状況は、確かにつかむことができる。全てが作り物だとしても、一首の中に物語は立ち上がってくるのだ。ここから何かが始まるかもしれない、そんなわくわくするものばかりいくつも並んだら、それはとても素敵なことだろう。

 

 フラワーしげるさんらしい一首を選ぼうとするとどうしても困ったことになる。いったい、何がらしいのかよくわからない。よくある形、いわゆるお約束から離れているから、特色、つまり違いを語ることが難しい。大抵の歌は、たとえ私が歌われていなくても私という視点から始まる。歌の広がりは、私の視点から遠くを見晴らすことだ。遠いところから私という一点に集中することで、歌は、消失点を獲得し遠近法さながらに奥行きをもったものとなる。フラワーしげるさんの歌は、そういう広さとは違う広がりを持っている。どこか別のところにある物語の一部を切り取ることで、ひろがりを差し出してみせるのだ。

偽の首相遅くも早くもない歩調でやってきて死と病の十日間はじまる

底なしの美しい沼で泳ぎたいという恋人の携帯に届く数字だけのメール

生まれた時に奪われた音階のひとつを取りもどす涼しく美しいキッチン

おれの亀頭とおまえの陰唇は運命的に出会ってそのあと心がちょっと出会った

  偉い人は確かに遅くも早くもない歩調でやってくる。とても典型的だけど、わくわくさせられてしまう物語の始まり。数字だけのメールは暗号だろうか。音階を奪われるとは何事だろう。しかもキッチンで取りもどすのだ。心がちょっとというのが面白い。どうやって出会って、セックスの後にどんな会話が交わされたのだろうか。こうやって並べてみると区切れの構造をもっていて、定型以外のところにある短歌らしさがどういうものなのかを考えると面白い。

存在の明るさや歩けなくなった子供や春きたる

シャツを着る 匂いがなくなった 洗濯をしたんだった

  前者が俳句っぽいのに対して、後者は俳句っぽくない。ぽくないことから、ぽさがわかることもあるだろう。「着るシャツや匂いがなくなった洗濯やすませたる」に変えたところで俳句っぽくなるわけではない。俳句っぽさは、やはり、意味から断絶した言葉と言葉がつながれるところにあるのだろう。決まりをやぶることで、そのものの本質を考えるというやり方もあるはずだ。

 

  その他に好きな歌をいくつか。

楽園に一匹の蛇。蟻塚に一頭の蟻食。詩人に一冊の辞書。

東京というのは湖の名前ではない夜の電話でそのことを伝える

性器で性器をつらぬける時きみがはなつ音叉のような声の優しさ

星に自分の名前がつくのと病気に自分の名前がつくのどっちがいいと恋人がきいてきて 冬の海だ

死んでからどうなるかなんて気にしない 臓器を提供するのはいやだ

「てのひらを燃やす」 大森静佳

祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知れず

 雨が降っている。だから傘をさす。ひどく日常的な光景の中であなたを思う。あなたを思うそれだけのことが、傘をさす一瞬を祈りへと変える。そこから立ち現れるのはとても強い思いだ。「ビニール傘をひらく昼」というたった12音でとてつもなく平凡な日常をあらわすことができる。そして、とてつもなく平凡な日常という認識を「あなたは」覆すことができるのだ。

 

 大森静佳さんの相聞が好きだ。破調のほとんどない丁寧な言葉から生み出される歌には、しっかりとした思いが込められている。イメージが乱反射するような言葉を組み合わせるのではなく、読んで、そして意味を捉えることで世界が広がるような歌を詠う。

カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている

唇(くち)と唇合わす悲しみ知りてより春ふたつゆきぬ帆影のように

つばさ、と言って仰ぐたび空は傾いてあなたもいつか意味へと還る

空の端ちぎって鳥にするような痛みにひとをおもいそめたり

  くちづけを終えて空を見上げるというのは、どのような状況なのだろうか。光を遮るような少しの重さを体にまとい、心は茫漠とした広さに遊ぶ。カーテンや雲といった具体は、ほとんど内面描写に捧げられている。悲しいということを知ってからの2年には、しかし、春風に膨らむ帆のような充実を背後に隠している。実感といえるほどのものではないのかもしれない、影のようにあるとわかるものなのだろう。入学の季節を数えることで、大学生活を感じさせる歌でもある。いつも必ずそこにある空さえも、仰ぐたびに傾く。あなたがいなくなるまでの遠い未来を思う。空を見上げていると鳥は、視界の中にふっと現れる。今ここにいないあなたがふと思い出される、少しせつないのだ。大森静佳さんは、空のように広い空間と長い時間を背景に置いて「今」「ここ」という一点をすくい上げていて、それが歌の中の思いの強さにつながっているのだろう。

 

 やましさが案山子のように立っているからだを抜けてくるのか歌は

  前後の歌から東日本大震災のときの歌だとわかる。どうすれば外にある題材を自分の体の内にとりこんで、歌として吐き出せるのだろうかという苦悩ばかりが私にはある。しかし、本当に強い衝撃を受けたとき、たとえ、案山子のように棒立ちになっていようとも、歌はからだを自然と抜けてくるのだろう。それは、至福のような出来事でもあり「歌は」で切断したところに、その業に自覚的であろうとする姿勢を感じてしまう。

 

 言葉にわたしが追いつくまでを沈黙の白い月に手かざして待てり

  残念なことに歌が歌として、そのまま降りてくることはまずない。はじめに言葉がやってくる。その言葉は手をかざしても届かないはるか遠くにあるようにみえる。「言葉にわたしが追いつ」いて、はじめて歌になるのだ。苦悩しながら追いかけ続けるということに強い共感を覚える。

 

 その他に好きな歌をいくつか。

風のない史跡を歩む寡黙なら寡黙のままでいいはずなのに

沈黙がリラを咲かせてもう何もこぼれないよう手の下に手を

この生にたとえばどんな翼でもみずから燃やしてしまうわたしは

夕焼けに喰い込む牙を持つこともあなたがあなただから言わない

風の昼運ばれてゆきてのひらを離れてからがほんとうの柩

「むかれなかった林檎のために」 中津昌子

あじさいにみどりの花がふくらめば手をのべて触れよあなたも空から

 いまは亡きあなたに手をのべて触れよ、という。 季節は五月だろうか。色づき始める前のあじさいのみどりと空の青がまぶしい。あるとき、ふっとあなたのことが思い出される。その思いはきっとうまく言葉にあらわすことができないものなのだろう。さびしいとか、悲しいとか、言葉にすると嘘になってしまうような感情がわく。色づく前、ふくらんだみどりのあじさいに仮託された気持ちを共有したいのは、やはりあなたなのだ。だから、触れよという。

 

 中津昌子さんの歌のリズムがとても好きだ。ゆっくりとして、深くしみとおるような韻律を持っている。破調の歌が多いのだが、漢字とかな、そして口語調のやわらかさと文語調の硬さのバランスが心地よい。歌は詠むと同時に読むものでもある。もはや聞くことがあまりないので、表示がいかに重要かと思うと散文に近いものを感じることがある。

鬼百合のつぼみがあかくふくらむをまるごと濡らし雨は降るなり

地に近く黄の色を曳く蝶々よおまえがたてるものおとあらず

階段はいきなり終わりむらさきに暮れ落ちようとする空に出る

何があんなに忙しかったかもう何もすることがない 笑うのか母は

 オニユリはオレンジなので、赤ではなく「あか」。歌の中ほどはひらかれていて、ふくらむまでのゆったりとした時間を感じさせる。ちょうの舞うひらひらした感じのような漢字とかな。「暮れ落ちなんとせし」では硬すぎるし、出るでなければ、このいきなり感は表現できない。母が笑う。おそらくどこか乾いた笑いではないだろうか。「笑うのか母は」と断ち切られた言葉に少しの悲しみが漂う。生まれてこのかた口語だけを使って生きてきたせいもあるのだろうが、やはり、私にとって文語よりも口語が対象に近づくことのできる言葉だ。

 

あおぞらよりしみでるようにくるひかり むかれなかった林檎のために

  歌集を読むとどうやら入院をしていたようだ。むかれなかった林檎はお見舞いのしなで、林檎をむいて食べることさえ出来ないような状態だったのだろう。そのむかれることのなかった林檎、時間とひきかえに、今、ここで空をみている。気がついたときベッドから窓が見えたのだろうか。しみでるようにまぶしいひかりは、生きていることの実感である。「林檎」のみを漢字にすることで、失われてしまったものが強調されている。逆説的なのだが、結果として、失ったものとひきかえに得たものを強く感じることが出来る歌だ。

 

 その他に好きな歌をいくつか。

わたしがいないあいだに落ちしはなびらを丸テーブルの上より拾う

月はもう沈んだ頃か 吸いのみにすこしの水を飲ませてもらう

五年間服むことになる錠剤のはじめの一つを指に押し出す

ああすべてなかったことのようであり凌霄花は塀をあふれる

これがいい、ゆっくり母が手を伸ばす花屋の前のミニバラの鉢

「きなげつの魚」 渡辺松男

あしあとのなんまん億を解放しなきがらとなりしきみのあなうら

 亡き妻のあしの裏を見ている。どれくらいの年月を共にしてきたのか、その時間を歩いた数になおせば何万、何億となるのだろう。その足跡から彼女は解放されたという。静かに見つめるという行為の中に、長い時間と歩くという動きの二つが畳み込まれており、読んだ瞬間に世界が一気にひろがってゆく。

 

 渡辺松男さんは、不思議な歌をつくる人だ。

 それでいて、不思議なほどわかる気がする歌をつくる。「気がする」のであって、理解から少し離されてしまうのが不思議のゆえんだ。

 例えば、こういう歌だ。

臼ここにあるゆゑなんのわけもなくかなしいここにあるといふこと

たれからも理解されざる哲学はわれひとりのとき臼はばけもの

ぢつとしてゐる石臼に追ひつけぬわれのあせりは木の葉ちりやまず

 存在すること、その悲しみを詠っている。なぜ臼なのか、理解を超えた存在感があるゆえだろうか。あるいは、車椅子生活を余儀なくされているのだろう。その動けないことの悲しみを詠っている。私が動けないことなど少しの関係もなく、秋がくれば木の葉は散ってしまう。臼である必然性がわからないにも関わらず、臼以外の言葉に交換できるようには思えない。理屈から少しはみ出したところに、詠み手の意識が見える。わからないけど見えてしまう。

 

青空は大莫迦だから頭入れあたまは五月の空の大きさ

 この歌なんかは臼の歌と違って状況もわからない。それでも大莫迦と言い放ってもゆるされるくらいの五月の空の大きさが、あるいは意味もなく大莫迦と言いたい気持ちがばーんと伝わってくる。渡辺松男さんは、理屈を超えたひどく主観的なものを他人に伝えることができる言葉をもっているのだ。

 

樹は港しらざるままに逝くべきを鳥は港とおもひて樹に来

 言われてはじめてなるほどと思う。とても魅力的な発見の歌だ。この発見は私が樹であったら、鳥であったらのまなざしでなされている。この他者、あるいは他物へよりそう強い思い入れが、不思議なのにわかる気がする歌を支えているものの一つであるように思う。自分の目から他物になったつもりで見る、その過程で、一度、客観的な視点を獲得するのだろう。きなげつの魚は、一冊を通じて挽歌となっているので「逝くべきを」も、当然、逝った人を想像させる。港には泊まる人がいて、出て行く人がいる。あなたと出会い、出会わなければ知らなかったものを知ってしまった。そして、鳥は行ってしまった。痛切な挽歌なのだ。この歌には主観とか客観とかを超えて、言葉の持つ力をまざまざと見せつけられる。

 

 その他に好きな歌をいくつか。

あぢさゐのみえざるひかりうけて咲みひかりさやげばあぢさゐのきゆ

世にたつたいちまいの空ひるがへり黒あげはみゆ君なきわれに

タイルの目朝のひかりにうきあがりタイルひとつにわれはをさまる

てのひらのあらざる鳩は手をかさねあふこともなく雪に二羽ゐる

てのひらにおほみづたまりあるゆふべてのひらを吾は逆さにしたり