エセ平和主義者にはウンザリだ
[↑ロシア旅行した時。シベリア鉄道の某駅]
先週、ロシア・ウクライナ間で戦争が始まったと報じられた。
SNSには#prayforukraine #standwithukraine などのタグの付いた大量のツイートがあちこちで散見された。
「ウクライナのために祈ろう」「戦争反対」「ウクライナに平和を」「ロシアによるウクライナ侵攻に反対します」「ポーランドがウクライナ人を無条件で受け入れるそうだ!勇気ある決断だ!」などの文言を、この数日間の間に何度見ただろう。
私はテレビでニュースは殆ど見ない。好きなドラマを見たい時だけテレビを見る。
ニュースはだいたいネットで知ることが殆ど。
だけどSNSのTLでこれだけの文言を見たらマスコミの報道がかなり西側に寄っている事はだいたい想像がついてしまった。
アメリカがソマリアを空爆したり、イスラエルが定期的にパレスチナやシリアを無差別に爆撃している事は日本のメディアではほぼ聞かない。
イエメンがサウジやその他同盟国(笑)に空爆されていることも日本のニュースでは殆ど聞かないし、話題にも上らない。何ならそのような蛮行に毎日のように異を唱えて「〇〇(国の名前)のために祈ろう」と言う人はあまり見かけないのは一体どういうことなのか。ダブスタもいいところだ。
しかもアメリカのA級戦犯の1人であるB.オバマがロシアを非難する声明を発表したと聞いて、「いい加減黙ったらどうだこの戦争犯罪人め」と思わず心の中で言ってしまった。
調べれば分かることだが、オバマ政権はシリア、イラク、アフガニスタン、リビア、イエメン、ソマリア、パキスタンの7か国で26,171発の爆弾を投下し(しかも2016年というたった1年間で!)、アフガニスタンを含む同盟国(笑)と協力して、2007年から2016年まで何百万人もの民間人を殺害した。
彼にはノーベル平和賞ではなく、ノーベル戦争犯罪賞でも授与したら良いと思う(そんな賞があればの話だがw)
どいつもこいつもマジでいい加減にしろ。
中東やアフリカで起きている戦争犯罪は大した事ないと思ってるかのような連中にはほとほとウンザリだ。吐き気がする。
夢に意味があるとすれば
去年も2本記事を書いただけであっという間に一年が過ぎ去ってしまった。今年はどうなのだろうか。
月一で更新したいとは思っていたが、あまりそういうルールを自身に課さない方が逆にいいのかもしれない。
最近定期的に顔を出しているある会合での新年会で「初夢は何ですか」というテーマで盛り上がった。皆いろいろな夢を見たりそれぞれ個人的な見解が聞けてなかなか面白かった。
だがわたしにとって夢にはトラウマ以上の意味は無い。それぐらい不快で、嫌で、たまには切ない、後味の悪い夢ばかり見る。遅刻して自分より立場が上の者に怒られる夢、いつもひた隠しにしている事実がバレそうになって強迫観念に晒される夢、不快な体験をする夢、なぜか警察に追いかけられる夢などなど(ドラマの見過ぎ?)
だけどなぜか生命そのものが脅かされる夢はまだ見ていない。(銃を突きつけられる夢とか殺される夢とか)
古今東西あらゆる人々が、いわゆる夢の解釈をしてきたし、ユングやフロイトの”名前”だけなら今や誰でも知っている。(彼らの解釈がもはや時代遅れだとしても)
心理学に詳しいわけでは全くないが、実生活ではある程度抑圧されて自分は生きているので、悪い夢を見やすいのは感覚として理解している。
恐怖や不安、コンプレックスがないまぜになり、寝ている間に脳は夢を見る事によってある種、自身に対して警告をしているのかもしれない。実際夢から覚めると「ああ、夢で本当によかった」と思うし、自分のミスで悪いことが起きる夢の後であれば「これからもちゃんと気をつけて過ごそう」と改めて思えるわけである。
予知夢などという言葉があるが、未来に起こりうる危険にあらかじめ対処する意味が夢にあるのだとすれば、嫌な夢を見るのも、ある意味では人間の生存には欠かせないものなのかもしれない。
もちろん、嫌なことなど誰しもが今後の人生には起きてほしくないと思うし、せっかく休みたくて寝ているのにそんな悪夢ばかり見てたらちっとも休んだ気にはならない。
実際目が覚めたら、何かに焦って一日中走り回る夢を見たせいで全く休んだ気にならず疲労困憊の感覚を覚えたこともあった。
そして心配していたことが実は杞憂である場合も多いのが事実。そうなると良質な睡眠のためには、できればそんな悪夢は見ないのが一番だ。起きている間にアンテナを張って、気をつけて生きていればいいのだから。
というか良質な睡眠ではないから悪夢を見るのか?確かそうだった気もする。
その点はもう少し知識を取り入れないと分からない。
【書評】サビールの祈り〜パレスチナ解放の神学〜
今回は書評にチャレンジ。
欧米のクリスチャンに限らず、日本にも、聖書を振りかざして盲信的なイスラエル支持を公然と唱え、パレスチナへの人道的罪を軽視する半ばシオニストのようなクリスチャンが一定数存在している。彼らは、報道でイスラエルのパレスチナに対する行動が大袈裟に報じられていると主張し、パレスチナを、善良なるイスラエルを困らせているただのテロリストのように考えている。そんな彼等のようなキリスト教シオニストたちの言説を粉砕(?)できそうな本を見つけた。
あらかじめ予告しておくが本書には、聖書にある程度精通していないと、ところどころ理解できない箇所があると思われる。とはいえ、聖書読んだことない人でも、辞書代わりと言っては何だが傍にあるだけでも違うかもしれない。ということで、拙い文章力で恐縮だがレポートしてみる。
襲い掛かるナクバ(大惨事)
パレスチナと言えば、多くの人々はムスリムが圧倒的多数を占めていると思うだろう。実はクリスチャンも一定数存在しており、古くからパレスチナ人ムスリムたちと共存してきた。
著者のナイム・アティーク司祭(聖公会)もパレスチナ人クリスチャンだ。彼がまだ幼かった1948年5月、イスラエル建国の際に軍によって住んでいた街を追われて、家族でナザレに住み着いた経験を持つ。クリスチャンが新約聖書と同様に御言葉と信じている旧約聖書の聖句を振りかざしたユダヤ人入植者の人々によって、パレスチナに「ナクバ(大惨事)」がもたらされた。シオニストによる軍事占領と故郷からの追放である。
彼は三重のナクバがパレスチナに襲い掛かったと述べている。貧困と難民状態に陥れられた人間に対するナクバ、アイデンティティのナクバ、そして信仰のナクバである。当時のユダヤ人入植者やシオニストたちがパレスチナの文化と歴史、記憶を消去しようとしたために、パレスチナ人のアイデンティティを脅かし、そして結果的にそれが信仰の大惨事に繋がったのだ。
本書の最大のテーマは「よそ者を憎悪し、他者を軽蔑し、自分たちの人種・宗教・立場の優越性、例外性の盲信に起因する現代イスラエルの不正義への告発と、共存への歩み寄り」である。著者は、キリストの説いた思想によって旧約聖書を捉え直す事を試みる。
旧約聖書の捉え直し
私個人としては、本書におけるこのテーマが一番ワクワクした。と同時に、やはり戸惑いを感じずにはいられなかった。というのも、私自身旧約聖書も、新約聖書と同様、どの箇所も、たとえ民族浄化を示唆しているような箇所であれ、神の霊感によって書かれた、信仰と生活との誤りなき規範であると、教会でもKGKでも教えられてきたし、そう信じていたからである。
(とはいえ一度、信仰から離れた経験があるから完全に信じているかといえば嘘になるかもしれない)
パレスチナ解放の神学においては、キリストという解釈基準、あるいは愛という解釈基準に合致せず、道徳的にも神学的にも攻撃的である聖書テキストは何の権威も持ちません。悲劇的なことに、そうしたテキストの中には、キリスト者が神の名において、奴隷制度や女性差別、パレスチナ人に対する民族浄化、およびその他多くの罪や悪を正当化するために用いてきたものもあるのです。
(第6章「旧約聖書における宗教思想の発展」より)
指摘しなければならないのは、イエスはカナンの先住民の追放を正当化する民数記から一度も引用しなかったし、民族浄化を讃えるヨシュア記や士師記からも引用しなかったということです。イエスは旧約聖書を用いる際に極めて注意して選ばれました。
(第6章)
そして著者は、こう問うている。
私たちが愛を解釈基準として用いる時、次のように問いかけます。すべての人々を平等に愛する愛の神が、その土地に住む先住民の民族浄化を命じるだろうかと。
(第6章)
さらに告発する。
女性や子供が冷酷に殺戮されるときに神が喜ばれるのでしょうか。神は本当に、他の民族が食べ物や飲み物を差し出さなかったからといって、その民族に対する怨恨を永久に抱くように人々に求められるでしょうか。そのようなテキストを人々が神の言葉であると信じ、神の名において出かけ、他の民族を抑圧し殺戮するとき、彼らは神と仲間の人間に対して罪を犯しているのです。
(中略)これは報復に飢えた者の像に似せて造られた神です。
(第6章)
著者の立場は、どちらかといえば自由主義神学に近い立場なのかもしれない。福音派の人々にとってはかなり抵抗を感じるであろうことが本書には網羅されている。以上の引用に挙げた言説を理由として「旧約聖書のなかに礼拝で朗読すべきでない箇所が複数ある」と著者は指摘しているからである。
だが旧約聖書の内容は、必ずしも全体を通して一貫していないことは、誰の目にも明らかだ。「いやいや、一貫していないように見えるかもしれないけど旧新約聖書66巻は全体を通し一貫しているのだ」みたいな事を言っている人を見かけたら、その人は嘘をついているか若しくは、聖書をちゃんと読み込んでおらずに他人の受け売りをそのまま信じてしまってる可哀想な人だと思った方がいいかもしれない。
実際、モーセ五書やヨシュア記、士師記、サムエル記などに散見される、民族浄化や殺戮を厭わない排他的神学が預言者エゼキエルによって批判され(エゼキエル書47章21-23節)さらに預言者ホセア、ヨナによって旧約聖書における神学は、その批判の頂点に達していると著者は述べている。
土地は結局誰のものなのか?
イスラエル建国以前から今現在に至るまでシオニストたちはパレスチナの土地が自分たちのものであることを旧約聖書によって主張している。だが、著者は「土地は結局誰のものなのか」と問いかけている。
旧約聖書のレビ記(モーセ五書のうちの一つ)には以下の記述がある。
土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在するものにすぎない。
(レビ記25章23節 新共同訳)
これを受けて著者はシオニズムに挑戦する。
土地が神のものであり、すべての民が寄留者であり滞在するものに過ぎないのであれば、神が土地の土着の人々の追放と絶滅を命じるなどということはあり得ません。そのような民族浄化を呼びかけたのは、神についての限られた知識と理解しか持たなかったモーセや人間たちなのです。
(第6章)
神とは誰か
それでは、私たちキリスト者が信じている神とは誰なのか、どういう性質を持った神なのか。
旧約聖書の神と新約聖書の神が別物に感じてしまうと言うクリスチャンは少なからずいるのではないだろうか。そんなあなたにも読んで欲しいのが本書である。
旧約聖書には、先述したように、自分(神)に従わなかった異民族を殺戮する命令を下している神が描かれている。かと思うと、イスラエルの民自身が神に背いた時に、憐れみの故に滅ぼすのを思いとどまった神、バビロン捕囚後に描かれたような、異民族をも真理と正義に基づき保護しようとする神も描かれいる(エゼキエル書47:22等)。
一体どれが本当の神なのか。
ここに挙げられた性質全てが、神の持つ性質だと言う人もいるだろう。著者は、そうとは言っていなかった。
神が冷酷で暴力的、排他的な神から進化して慈悲深い、優しい、包括的な神になったということではありません。そうではなく、大きな変革を遂げたのは人間の、神に対する理解です。
(第6章)
異民族に対する民族浄化や絶滅といったことは、「時代遅れになった宗教的部族文化の構成部分」だったと指摘する著者。しかしながら彼は「私たちは今でもそのような思想を脱ぎ捨てることを拒み、時代遅れの排他的・部族的神学にしがみつき、その神学が極端な形では他者に対する暴力的な行動と冷酷な犯罪となって現れるのだ」と告発している。
そして神とは誰か、どのような方なのかと問う我々に著者はこう答えている。
神の性質は一度として変化したことはありません。永遠から永遠へ、神は愛の神であったし、今もそうであり、これからもそうあり続けます。神は決して戦争と暴力の神から平和と慈しみの神に発展したわけではありません。(中略)一人の神が現実であるという真理に導かれるまで多くの神々を作り出し礼拝してきたのは私たちなのです。(第7章「キリストこそが鍵」より)
解放者であり、正義と平和、そして和解をもたらすキリスト
新約聖書にも、ユダヤ人以外にローマ人、サマリア人などの異民族が登場する。著者は、彼らに対するイエスの態度に注目している。イエスはその民族的・人種的背景にかかわりなく、人々の病を癒した。その代表格のたとえ話が「善きサマリア人」の物語だろう。強盗に襲われて瀕死の状態で倒れていたあるユダヤ人を助けたのは、ユダヤ人でも聖職者でもなく、全く関係のない通りすがりの、ユダヤ人と仲が悪かった外国人(サマリア人)の旅人であった、というお話だ。
イエスはその誕生の時から、人類の苦悩と無縁ではありませんでした。イエスは誕生直後、無垢の幼子の虐殺から逃れ、エジプトで難民になることを余儀なくされました。イエスは当時の力あるものに迫害され、最終的には不当にも死刑の判決を受け、十字架につけられました。イエスは周縁に追いやられた人々に特別に心を寄せていました。彼の使命によって、イエスは盲目の人、重い皮膚病の人、貧しい人、女性、追放された人のところに赴きました。(はじめに)
(著者は指摘していないが)もちろん、例外として、カナンの女に自分の娘を助けてくれるように懇願した時にイエスが言ったとされる「わたしはイスラエルの失われた羊のもとにしか遣わされていない」等の発言が福音書にはある。だがその後の女の答えに感心したイエスは、結果的にその娘の病気を癒したと記してある。人種や宗教的背景が違っていても、結果的には分け隔てしなかったのだと私は思っている。
そして著者はこのキリストの姿勢、キリストの愛こそが我々双方(パレスチナとイスラエル)を解放に導く鍵だと、本書で繰り返し語っている。
非暴力の提唱
対峙しなければならない相手の土俵には乗らないという意味でも、武力行使による解決を明確に否定するのは、かなり効果的だと思われる。
パレスチナ人の中には、武力闘争によって影響力を獲得できると思った集団もありました。これは、不幸な武力行使と多くの無実な人々に苦難をもたらしました。イスラエルは優勢な軍事力によってこれらの戦闘に勝っただけでなく、パレスチナ人はテロリストであり何の権利もないのだと世界に信じ込まされることに成功しました。イスラエルは宣伝戦に勝ち、パレスチナの正義の大義は見えなくなってしまったのです。
(第8章「中心に置かれるべき正義」より)
非暴力闘争が効果を上げるには、何千人、何万人で行進することが必要です。(中略)…解放が実現するためには、一発の発砲もせず、また逃げて退くこともなく、この戦略が粘り強く実行されねばなりません。(中略)…私たちパレスチナ人自身が、政治的・宗教的指導者と共に、進んで自由を要求し、勝ちとろうとする時、自由が訪れるのです
(第8章)
著者が本書でも述べているように、パレスチナ人は自らの権利を獲得し、正義は国際法に沿って実現しなければならないが、同時に敵の破壊を求めることはあってはならず、いかなる報復も復讐も許してはならない。 著者の願いでもあり、またパレスチナ解放の神学の目指すゴールは、「パレスチナ人もイスラエル人も含め、この地のすべての人々が平和と安全のうちに共に暮らすことができる」世界である。
感想
正直に言おう。本の感想を書くのは苦手だ。
とは言いつつも、そんなに分厚い本ではなかったのにも関わらず、物凄く読み応えのある本だったと感じた。
私はクリスチャンになる前から今に至るまで、政治信条としては反シオニストのつもりだ。弱者の立場に立ちたいとずっと願ってきた。当然、願った通りの人生を歩めていないと気づかされる事もとても多いが…
少なくともどの宗教も、常に弱者の立場に立つべきであり、弱者の存在を無視するようなら、そんな宗教など無い方がいいのだ。著者のナイム・アティークも、欧米から来た宣教師たちや当時のあらゆる教派の既存の教会がパレスチナ人クリスチャンのアイデンティティの危機と救済について無関心だった事を告発している。教会が必ずしも弱者に目を向けるとは限らないケースは万国共通だと思わされた。
とにかく、彼らの信仰とアイデンティティの真の回復と、純粋に平和を希求する一キリスト者の魂の込められた著作である。旧約聖書と新約聖書の神理解の違いに戸惑っている人にも何らかのヒントが隠されている本だと思う。
旅行がしたいよーーー
2019年は3回も海外旅行をした。とても楽しかった。一人旅、二人旅、そして集団で海外滞在。本当にどれもいい経験ができた。
本当に今考えると不思議ではあるのだが、あの時は今より全然お金がなかったのに、何故か何かに追い立てられるように海外旅行の計画を遂行した。
まるで、海外旅行が気軽にできない状況をどこかで予測していたように (そんな事は1ミリも無いはずなのだけど)
2020年もできなかったように、きっと2021年もできないだろう。目標のために貯金をしなければならないので、いずれにしても今年は自粛だが…
でも旅行がしたい✈️海外に行きたい!!
ロシア行ってからは中央アジアを巡りたくなった。オランダとドイツ行ってからは、他のヨーロッパ諸国、中東諸国 (治安が少し心配だが)、北米などにも興味が出てきた。
だけど一番興味があるのは中央アジア諸国かもしれない。
とはいえロシアで英語がなかなか通じなくてもどかしい思いをしたので、旧ソ連圏である中央アジア諸国もやや心配ではある。いっそロシア語勉強しようかしら。
とりあえず夢を膨らませるのはタダでもできるので、しばらくはそうやって我慢しよう…
今年は学業も忙しくなりそうなので頑張る。
去年は一回もこのブログを更新できなかったけど、今年はちょっと頑張ろう。もちろん無理はしない。
ドイツ旅行記〜ひとり旅〜
さて2019年もあと残りわずか。今年は3回も海外に行って見事破産しかけて、両親には迷惑をかけた。ロシア、オランダ、ドイツ。オランダはフローニンゲンで開かれたオルガンフェスティバルに参加しただけで大した観光はしていないがドイツは全く個人的なひとり旅だったのでブログに書こうかなと。
今年の9月10日から21日までドイツに行ってきた。念願のドイツひとり旅!だったが、冒頭が泣きっ面に蜂状態。
あの迷惑千万な台風15号のせいで私の経済的損失は約6万ちょい。京成スカイライナーが運休決め込んで成田空港に電車では行けず、タクシーを使うも甚大な渋滞で成田市にすらたどり着けず、飛行機に到底間に合わないとわかるや、エアチャイナに電話してキャンセルして次の日の羽田の便に変えてもらい、再び東京の我が家に舞い戻り。タクシー代に何と約4万、航空会社のエアチャイナには便の変更手数料で2万取られるという貧乏学生にとっては大変痛い出費を強いられ、ドイツにやっと着いた。飛行機に間に合わずにキャンセルという、生まれて初めての経験。まあ今となっては勉強にはなったと思う。帰国してからも千葉にあるあの台風の爪痕の話をSNSで聞いてなんとも悲しい辛い気持ちになった。
さて今回の旅の目的は、だいたいこの4つ。
行き先はだいたいこんな感じ(以下ドイツ語表記)
München→Würzburg →Hafenlohr(日本ではほとんど知られていないド田舎村)
→Naumburg→Weißenfels(同じく日本ではほとんど知られていない場所)→Leipzig→Berlin→Tangermünde
→(ICEで一気に南下して)München →帰国
ミュンヘンからヴュルツブルク、ナウムブルク 行ってそれからライプツィヒには日帰りで訪れ、それからベルリンへ。タンガーミュンデで宿を取ってベルリンには2度ほどか訪れた。それから用事を済ませて一気に南下してミュンヘンから帰国。といったところか。
今回は、過去記事で書いた膨大なロシア旅行記🇷🇺より大幅に縮小して1記事にコンパクトにまとめたい。ロシアはなかなか行く機会or行くこと自体が少ない上に情報も限られているかもしれないから。その点ではドイツはメジャーなのではと思い、割愛する部分は増えるが、まあそれは他のブロガーさんの旅行記なりを参照願いたい。私は上に書いたように、いわゆる観光をするつもりがなかった。オルガンを見て、弾いて、というのが主な目的だったから、多くの人々にとってはイレギュラーな旅かもしれない。
①オルガンを見て弾くこと
最初に弾いたのがこちら。ミュンヘンからヴュルツブルクに到着して、後述する知り合いの案内で弾かせて頂いたWürzburg Domのオルガン。
少々画質が悪いのはお許しを…。
この大聖堂はWW2の空襲でダメになって、オルガンも比較的新しい物だった。後述する元ドイツ語会話の先生の叔父さんがここの神父さんだったそうでそのつてで今回は演奏させてもらえた。
そのあとはナウムブルクの聖ヴェンツェル教会
これのためにドイツに来たと言っても過言ではない。ジルバーマンの弟子ヒルデブラントが製作したオルガンで、(超ざっくり言えば)かの大バッハも関わった。やっぱり、というか想像以上。聞きしに勝る素晴らしいオルガンだった。(とはいえ、ある知り合いの方は酷評していたが…)
弾き終わって満足して下へ降り、鍵をおばちゃんに返してから教会を出ようとしたら、演奏を聴いていたドイツ人観光客に「さっきバッハ弾いてたよね?とっても素敵だったよ!」と褒められる(もちろんドイツ語)。嬉しかった。
ナウムブルクも思ったより田舎で驚いたが、それ以上に宿が想定外のド田舎で心が折れかけたのも、今となってはいい思い出😅
そしてこの旅の最後のオルガンはタンガーミュンデ。
とってもメルヘンで可愛い街💕ここを発つ頃には、大のお気に入りの街になっていた。また行きたい。
色々なオルガンをもっとたくさん弾きたかったし、良さげなところへ片っ端から、教会にメールを飛ばしたが、まあドイツ人のメールを返さないことと言ったら。ネットで見たとある情報には「ドイツ人には電話が確実」との事だが、いかんせんこちらは外国人。カタコトのドイツ語では勝負できる自信がまだ到底なかった。だからとにかく鬼メールした結果、このようになったのだ。少し残念だけど、まあ一台も弾けないよりは全然良い経験ができた!ありがたい🙏
②前の大学時代にお世話になったドイツ語会話の先生に再会すること
ドイツ語の先生という一面しか知らなかったので驚いたが、この方は長年日本で日本の伝統文化や芸能を学んでいたそうだ(第九を歌える日本人は多いのに、なぜ能の「高砂」を誰も歌えないのか、という先生の言葉が印象的だった)
大学でドイツ語を教えていたが、私が卒業すると同時にご家族を連れて帰国していた。だから約2年半以上ぶりの再会。
先生とは日本語で会話。奥様が日本人で子供たちも日本語が分かる。夕食をぜひ一緒にと言われ、とっても美味しいドイツ料理を振る舞ってくれた。本当に感謝している。その上、自家製の蜂蜜までいただいた。(ハチミツは食べ尽くしちゃって写真はありません😣)
[↑グヤーシュと、クネーデル(ジャガイモで作った餅みたいなの。中にソーセージをブッ潰したような具?が入っていた)]
先生のご自宅はWürzburg から車で1時間ちょいくらいの距離にあり、やはりこちらも想定外にド田舎だった。山のふもとにある感じ。当然周りには家なんてなかった。でも日本にいた時は色々あってかなり心が荒んでいて、私はここで何ヶ月ぶりの休息を取れた気がした。
③ライプツィヒに行くこと(&ド田舎旅)
ライプツィヒのトーマス教会を訪れる事が念願だったので、トーマス教会にたどり着いた時は本当に嬉しかった。
...とその前に、ライプツィヒに来たからには限られた時間で他のところも訪れたいと思って、メンデルスゾーンの家に行った。
そしてトーマス教会行って、教会前のお店でじゃがいもスープを食べる。
席から撮った写真↑
そして下がじゃがいもスープ。
④ドイツ語がどれくらい話せるか自分で確かめること
これに関しては「かなり確かめられた」というのが正直な感想。なぜなら田舎へ行けば行くほど、こちらが英語で話しかけるのにドイツ語で返してくるからだ。私が明らかにアジア系で(いわゆる東アジア的な顔立ちではないけれど、少なくとも私はれっきとしたアジア人)観光客だってのを向こうも分かってるはずなのに、平気でドイツ語をカマしてきたのには参った。私はチキンなので結局相手に合わせてドイツ語を話すしかないという摩訶不思議な状況下で、大変勉強になった。そう、いずれはドイツに行きたいし住みたいので、大変だったがそれなりに楽しかった。そう、とにかく楽しかった。そして彼らの良いところは、私の拙い、お世辞にも上手いとは言えないであろうドイツ語に対して、ある意味で対等に話してコミュニケーションを取ろうとしてくれたことだった。大変ありがたかった。
そしてやはりドイツはすっかり移民の国になり、あらゆる人々がいる。私の名前のこととか、私がハーフだとか、父親がどこの国の人だとか、私がどこから来たのか、ほとんど誰にも聞かれなかったし、言及もされなかった(デパートみたいなところの化粧品勧誘のお姉さんには聞かれたけど😅)。ATMの使い方が分からなくて尋ねたスーパーのおじさんも、私が田舎道をデカいスーツケースを引っ張って歩いている時に話しかけてくれたトラックの運転手も、トイレの使い方を教えてくれた緑髪の(!)ヤンキー兄ちゃんも、雑談をしたホステルのおじいさんも、皆、私にはそういうことは聞いてこなかった。
最初、ちょっと寂しいとは思ったが、だんだん慣れてむしろ居心地の良さを感じた。ここでは皆が違うバックグラウンドを持っていて、皆が違う個性を持っていて、それが何の問題ではない(少なくとも表向きは、だろうけど)から、私のことには、良い意味でも悪い意味でも気にならないのだろうと思った。
日本では妙に悪目立ちしてしまうところがあって軽く病んでいたので、今回これに気づいたことで、居心地の良さを発見した。
また行きたい!!!
[↑タンガーミュンデの夕暮れ]
🎄クリスマスに、つれづれと🎄
[今年の夏訪れたオランダ・フローニンゲンのルター派教会のステンドグラス ]
クリスマスおめでとうございます。
今年は、というかここ数年来、クリスマスから遠ざけられたような、疎外感を味わい続けて、苦しかった。私はクリスチャンなのでいわゆる世間的な、恋人がどうこうとかそういう問題ではなくて、単純に「皆でキリストのご降誕をお祝いしましょう」という雰囲気に参加できない感じがして苦しかった。
別に特定の誰かに故意に遠ざけられた訳ではない。色々な要因が重なって、私がそういう気持ちになってしまっただけなのだ。
教文館行って、本を見ていた。ヘンリ・ナウエンの「今日のパン、明日の糧」みたいな本があった。立ち読みしただけなので、はっきりとは覚えてないが、そこに教会についての短い記述があった。
それを読んで突然思い出した。母教会の牧師の昔の説教での出来事。その日は主の祈りがテーマだった。主の祈りの中に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という一節がある。牧師は「この飽食の時代に、この一節を唱える意味は何か?」と問うた。ここまではまだ許せた(というかその当時は抵抗なく聞いていた。飽食の時代にだって飢えた人はいるというのに)。
その直後に牧師は言った。
牧師「…この中で日々の食事に困ってる人はいますか?」
会衆「(一同笑う)」
牧師「(しばしの沈黙)…まあ、手、挙げられませんよね、本当にもし困っていたら」
会衆「🤣🤣」
私は、聞き違いではないだろうかと、何年もずっと悩んでいた。誰にも言えなかった。まさか母教会の牧師が、こんな事を言ったなんて。私自身が一番信じたくなかった。もっとも、牧師氏は教会員のケアなどに露ほども興味のない人であるし、会話のキャッチボールすらままならない人ではあったから、最初から私はあまり仲良くなれなかったが。
牧師の事もそうだったが、何より牧師の発言に笑った会衆(必ずしも全員が笑ったわけでは無いのかもしれないが)、私は何か悪い夢でも見ているような気持ちだった。ジョークとして受け取った会衆の気が知れなかった。私は幻聴を聴いたのだろうかと、これまた何年も悩んだ。貧しい人を晒し者にしようとした牧師、それをジョークとして受け取って笑った会衆。「貧しい人々は幸いである」と言ったイエスはここにはいない。私はそう受け取ってしまった。私は愕然とした。
教会ってなんだろう、牧師ってなんだろう。ただの説教マシーンなんて要らない。私には必要ない。貧しさを笑い物にして、ジョークを飛ばし会衆のウケを狙おうとするその浅ましさ。本当に聖書を読んでいるのだろうか。少なくともあの教会には弱い人は存在してはいけないのだ。それを突きつけられたような気がして、私はそれ以降聖餐を受けていない(母教会では毎月第1週の日曜に聖餐をしている)。神様の家族と言いながら、家族の一員である人を排除しても平気なのだ。ダブルスタンダードも甚だしい。
洗礼を受けてクリスチャンとなった人が、よく挨拶で「未熟者ですので何卒ご指導よろしくお願いします」などと言うが、なぜ人間に指導してもらおうなどと思うのか。卑屈に振る舞って印象をよくしようと狙っているのか。そして実際、新しくクリスチャンになった人は、人間に指導「され過ぎて」傷つき、教会を去っていく。そこら辺を上手くかわしていける人は教会を自分の居場所にできる。
この人たちは大丈夫だろうか、教会で傷付かないだろうかと、洗礼式を見る度に私は心配しながらそこに座っている。この前の日曜も洗礼式があって私はそれを見ていたが、やはり心配な気持ちはそこにあった。私のようにならないで欲しい。そう願っている。
私は直接誰かに傷付けられたとか、そういうことは今のところない(とある人とトラブった事はあったけど)。でも家族が傷付いた。関わり過ぎたのだ。たまたま、人を傷つけても平気な人が何人かそこにいたのだ。他の教会にはいないのかもしれない。大きな教会は、色々な人がいるからそれだけ、大変な事も多いのかもしれない。小さい教会に行けばよかったのかもしれない。色々考えたが、もう手遅れだった。私は家族が信仰から離れていくのを尻目に、自身も一度は信仰を失い、また戻った。だけどもう以前の、何の疑いもなく神を、教会を、聖書を、信じていた私では無くなったことが、ただただ苦しくて。同世代の若いクリスチャン青年たちと賛美したり一緒に聖書読んだり分かち合ったりしたいのに、私が行ったところで、きっとアウェーなのではと思うと、悲しくて足がのばせられない。
それでも。
クリスマスは、この世のあらゆる、飢え渇いている弱者のためにこそあるのだ。キリストは当時の考えられうる限りの酷いコンディションで(宿屋に泊まらず、本来人間が宿を取らないはずの汚い馬小屋で、しかも飼い葉桶に寝かされて)この世に生を受けた、とよく言われる。私もそう信じたい。
【感想】聴くドラマ聖書
「ですから信仰は聞くことによって始まります。聞くことは、キリストの言葉を通して実現するのです」ローマ人への手紙 10:17 (新改訳)
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」ローマの信徒への手紙 10:17 (新共同訳)
最近、「聴くドラマ聖書」なるアプリ(ベータ版)がリリースされた。ネットのクリスチャン界隈で話題になっていたが有料だと思っていた私は「気になるけどアプリには課金できない…」と大して食いつけなかった。ところがリリースから2日後に無料だと知り早速DL!
「聴くドラマ聖書」ホームページhttps://graceandmercy.or.jp/app/
ホームページをくまなく見て、俳優のインタビュー動画までチェックしつつ音声データを試聴しながら私が一番気になったのは「これだけの豪華キャストを迎えて総力を上げて作った質の高い物がなぜ無料で配信できるのか。無料で提供できるだけの資金をどうやって集めたのか」だった。これに対する明確な答えは出ていない。だがどうもこれをリリースしたアメリカの財団の創設者が高い理想を持っていることだけは理解できた。
誰かこの組織について説明して欲しいものだ、、、ギデオン協会的な組織なのだろうか。にしてもなぜ誰もこの事に疑問を持たないのだろうか。ネットを漁ってもこんな能天気な取材記事しか出てこなかった。
「時代は聴く聖書!?「日本G&M文化財団」の活動を取材してきた」https://wemmick3.com/graceandmercy/
うーむ🙄と思ってたら、アプリDLして次の日、案の定不穏なツイートを発見。
https://twitter.com/nannto_lhc_jp/status/1179752680379621378?s=21
どういうことなのか、私は疎いのでもう少しリサーチしなければならないが、とはいえカルトの資金源でこういう事ができるのだとしたら、素晴らしいアプリなだけに複雑な気分だ。ただほど高い物はない、ということか。
このアプリの背景や資金の流れについては他の方に任せたい。ここではわたしがこのアプリを利用して感じたことを書きたい。
《わたし個人のおすすめポイント》
何しろ旧新約聖書66巻の膨大な音声データが入っているので、もちろん全部は聴けていない。創世記を12章まで読み、ヨシュア記1章、詩篇を少し、ルカの福音書1, 2章。ローマ人への手紙を少し聴いた、と言った具合だ。
私は普段、新共同訳に慣れ親しんでいて新改訳は、昔KGKの人たちと聖書読んだ時に朗読をチラチラ聴いて以来。ほとんど触れてこなかった。だから少し違和感があったが、それを打ち消す感動が待っていた。
ホームページを見ればわかるが、今回担当した俳優さんたちは聖書の登場人物の喜怒哀楽にそれぞれの表現の仕方で物凄く寄り添っていて、登場人物の言葉が本当に生き生きとわたしたちに伝わってくる。特に詩篇22のダビデのうめきに満ちた祈りには、涙なしには聴けない臨場感があった。ダビデ役を担当した俳優・鶴見辰吾さんの、胸が苦しくなるほどの熱演にわたしは大いに絶賛したい。失礼を承知で言わせてもらうが、彼がこんなに素晴らしい俳優だとは知らなかった。
そしてマリアの賛歌。すごく心に染み渡って素晴らしかった。高すぎず低すぎず、とは言っても若い女性らしい雰囲気が伺える声で、少なくとも私の心に優しく響いた。マリアの思慮深さがよく演じられていた印象だった。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」このローマ10:17の聖句、私は洗礼を受けた6年ほど前あたりからよく知っている言葉だったが、本当の意味で、よく分かっていなかったなと思わされた。「黙って読んでいると分からなかった小さな気づきが、聴くことによって分かるようになった」という体験をしたからだ。それは第一列王記19章の音声を流した時だった。
19章は、預言者エリヤが異教を信奉する王妃とその一味に狙われて逃げた時「主よ、もう十分です。私の命をお取りください。私は父祖に勝る者ではありません」と言って疲れ果てて寝込んでしまうところから始まる。この箇所を初めて読んだのは前の大学時代、KGKの祈り会でGA(Graduate Assistant)のSさんが私の大学に来て短いお話をしてくれた時だった。
19章は、エリヤがこの章での主との対話を通して、霊肉ともに再び生きる力を得て、また動き出す、というストーリーが描かれている。それによれば、主は嵐の中にも、風の中にも地震の中にも火の中にもおられなかった。ただ静かにささやくかすかな声の中にいたと書いてある。この箇所は喧騒に満ちた現代社会で疲れ果ててしまいがちな私たちには有用なメッセージが書かれているとSさんがおっしゃっていた。
なるほど、とその時の私は思った。だけど音声を聴いて、私はちゃんと分かっていなかったような気がした。神がどのように私たちを立ち直らせようとしておられるか、どのように私たちを励まそうとしてくれるか。静まるというのはどういうことなのか。音声を聴いた時のあの、目が開かれたような感覚は、おそらく、疲れ果ててしまったエリヤの神への訴えは私たちのものでもあるのだという気づきだったと思う。疲れ果てたエリヤの訴えはどこかで他人事のように捉えていたように思う。他人事では決して無いのに。
聖書をよく読み込んでいるクリスチャンにとっても、聖書を「聴くこと」によって新しい気持ちで聖書が読めるコンテンツが満載だ。新しい気づきなどもあるだろう。もちろん聖書に馴染みがない人々にも無料ではあまりにもったいないツールだと思った。だから余計に資金源が気になるところではある。
《やや考え込むポイント》
収録された声には好き嫌いが分かれるところがあるだろうと感じた。例えば私は、ルカ福音書の御使いの声が仰々しすぎる感が否めなかった。救い主が生まれたことを伝えるその光景は畏敬に満ちた雰囲気があるであろう事は当然だが、それをあまりに勿体ぶって仰々しくしてしまうと、滑稽にすら映る。ちなみに、話が脱線して恐縮だが、礼拝の司会者でやたら仰々しい祈りをする人がいるが(しかもプロテスタントの祈りなのになぜか原稿を見ている!それに気づいた時はショックだった)、あれも常々耳障りに感じていた。祈りというのは心の中の想いを注ぎ出して神に訴えるものなのではないか。司会者の祈りは、決して美辞麗句を振りかざすためのスピーチなどではない。
話を戻そう。更に欲を言えば出エジプト記15章のモーセの歌も、喜ばしい雰囲気があまり感じられなかった。もしかしたら、これからの荒れ野の40年と呼ばれるイスラエル民族のさすらいの旅路の暗示としての演出なのかもしれないが…
いずれにせよ、声にはある程度の好みは分かれるだろう。神の声が男性なのにも批判(この一連の批判はなかなか興味深かった。神が男性か女性かなんて誰にも分からないのだから。性を超えた存在だという理解の方が近いかもしれない)があるようなので、万人ウケする演技も声もなかなか無いだろうし、芸術全般にも言える事だろう。
《鶴見辰吾さんのインタビュー動画》
鶴見さんのインタビュー動画をYouTubeで拝見した。彼が収録中に朗読をしているその様子がとても印象的だった。最も感激したのは、彼がインタビュー中に言っていた次の言葉だった。
「(聖書を)読んでいてダビデが『主よ、神よ』と常に神に訴えているんですよね。それを心に込めて読んでいると、それを通じて僕もお祈りしているのと同じような体験になるので…もう何時間もかけてお祈りし終わってスタジオを出るような感覚なので…これが終わった後っていうのは、心が穏やかになっているんです」
おそらくクリスチャンではないだろう人からこのような言葉が出るとは思わなかった。聖書の中の、ダビデの祈りが、鶴見さんも含めた、私たちの祈りになる。彼はそれを体験したのだろう。クリスチャンであろうとなかろうと、みな人間だし、(彼もインタビュー中言っていたが)人間はとことん弱い存在なのだ。自分を超えた存在に何かしらの想いを聞いてもらいたい、ぶつけたい。人間の中にあるそういった無意識的な意識が、読む側にも聴く側にも、よりリアルさをもって訴えてくるような気がした。
そして彼は「このアプリを体験する皆さんも、声に出して読んでみたらいいのではないか」と言ってもいる。確かに聴くだけではなく、自分でも読んでみることで聖書のドラマをより深く体験できるだろうと思う。
そして最後にひとこと。
アプリの配信元がカルトとの関係が疑われたりしている。私には本当のことは分からない。だが私はこれを大いに利用してやろうと思っている。
「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」
フィリピの信徒への手紙 1:16-18 新共同訳