す
すべてはむじゅんしていた。
う
全ては嘘で偽である。私が生きていることも。
世界と私は矛盾する
観測者であるところの私の内面を観測する者が私しかいないという点において、世界と私は矛盾する。(世界とは、宇宙の真理のことだ)。
ということを、私は死ぬことを以って確認したい。
私も批判されうるということ
ヤフーでもスマートニュースでもツイッターでも何でもいいけれど、何かを開けて見ればそこに映るのは誰かが誰かを批判する言葉で、それに疲弊する日々。
自分の正義を振りかざし、徹底的に相手を叩く言葉を投げつける。誰も自分が批判される立場になるとは考えようとも、思ってすらもいないようだ。
勝つことってそんなに大事なことですか? | サッカー ポーランド戦 ワールドカップ
素人目線ですけど、後半のパス回しによる時間稼ぎは、素直にずるいなあと感じました(サッカーの話)。それがたとえ勝利のための戦術だとしても。
スポーツと政治を関連付けるのはお門違いだと自覚していますが、それはまるで「法を逸脱しなければ何をやってもいいと考えているような」一部の政治家のように私には映りました。
そして普段はそんな政治家や政権を批判しているような人の中に、今日のサッカーの戦術を正しいと言っている人がいる。勝つことってそんなに大事なことなんですか?
ずるいことも戦術と言い換えて正当化する。自分の応援するものが勝つならば、それでいい。
この構造は、私たちの病理のひとつのように思いました。
正しさについて
私はいつも、私が正しい、あるいは間違いっていない、という、言い訳をしてしまう。
私が思うに、私という者は、私を「完全に」否定することができない存在なのではないか。
例えば自死を選ぶとき。どのような贖罪があろうとも、諦めがあろうとも、それは否定ではなく肯定として、或いは言い訳として、その行為が選ばれるのではないか。
私は真に私を否定することができない。私とはそういう仕組みで成り立っているのではないか。
私はその行為は正しい、或いは間違いではないのではないか、と考えてしまう。
正しさは私の中にしかなくて、それはあなたにとってもおそらく同じで、あなたの正しさと私の正しさが一致することもあるかもしれないが、おそらく多くの正しさは相反している、またはすれ違う。
だとしたら、正しさは私たちがわかり合う上で、弊害にしかならないのではないか。
正しさの向こうを考えること、想像すること。
やさしくなりたい
前回の記事から約2年が経過して、不意にまたブログを書いてみようと思い立った深夜。
おかげさまで一昨年の11月に再就職ができ、1年と3ヶ月が過ぎようとしている。「35歳、独身、無職」は「37歳、独身、会社員」になった。
仕事は忙しくて残業や休日出勤もあるけれど、それなりにやりがいのあるもので、人間関係も悪くないし、年収だって前職から比べれば150万近くも上がって、美味しいものを食べたりとか長期連休にはひとり旅へも気軽に出掛けられるようになって、風俗店にも月に2回くらいなら行けるようになったけれど、それでも閉塞感は拭えないというか、端的に苦しい。
この苦しさをどうしたらいいのだろうか。
私はもっともっと、やさしくなりたい。
思い通りにはいかない世界で|小金井市 アイドル 刺傷
東京都小金井市のイベント会場でアイドルの冨田真由さんが、ファンの男にナイフで刺されたという痛ましい事件をニュースで知る。
「たったプレゼントを返却されたくらいで」というのが、最初の私の素直な感想だった。アイドルという幻想に何を抱いていたのか、何を期待していたのだろうかと思っていたが、逮捕された岩埼容疑者が書いたとされるブログを読んで、暗澹たる気持ちになった。
「惨めさの中で世界を笑う」と題されたそのブログから一部を抜粋する。
冷めやすい。醒めやすい。
夢も希望もない。
惰性で、仕方なく、していたようなもんだけど、もうそれすらあきらめました。
頑張れないよねー
自分が楽しければ、それでいいのなら、いくらでも頑張れるんだけど、それじゃダメな仕事で社会に属しちまってる。
頑張るって、我慢するってこと。
忍耐力ないなー
厭なことからは逃げたいよ
全部失っても逃げたいよ
どうでもいい人生
クソったれな人生
惨めなだけの人生
もう怒りでしか動けそうにない
幸せとは心の状態
俺は心が死んでいるから幸せにはなれない。
いや違う。
堕落することが幸せならば、俺は幸せだ。
この先
何を手に入れたいのか分からない
どうしたいのか分からない
年老いて
病気にかかり
身体が不自由になり
生きることが今以上につらくなる事は目に見えている
苦しいだけの人生
何がしあわせだ?
ブログのタイトルからして既に悲観的だが、彼の書いた文章には、ひどく厭世的な言葉が目立つ。ニュースで知る限りのこと以上はわからないが、おそらく彼の人生のいろんなことが、彼の思い通りにはいかなかったのではないか。そうした閉塞感や絶望感が下地にあったのだろうということが、彼の書いた文章から見て取れる。それが偏愛と憎悪に転化されて、冨田さんへ矛先が向かったのではないか。だとしても、それが身勝手極まりない行為なのに変わりはないが、彼の人生が彼にとってもうすこしうまくいっていたら、こんな悲劇は起きなかったのではないかと考えてしまう。
幸せであるとか幸せでないとか、人生の意味や価値はそんなことで決定されるものではないだろう。クソみたいで惨めで夢も希望もなくても、年老いて病気に罹って身体が不自由になろうとも、それが例え苦しいだけの人生であったとしても、幸せであるとか幸せでないとかは関係なしに、私たちはその生ががある限り生きていかねばならぬのだ。
負傷された冨田さんの回復を心よりお祈りします。
否応なく生きてしまう
もうかれこれ、5ヶ月くらい働いていない。
1月の半ばに体調を崩して仕事を休みはじめ、4月末に休職期間が満了して退職の扱いになってから、一応はハローワークに行って失業保険の申請をしたり、転職サイトに登録をしたりして仕事を探し始めてはいるものの、実際の気分としては、正直なところ、今はまだ働こうという気概が湧いてこない。
だから毎日、退屈な時間に包まれながら、ぼんやりとしている。
一応、規則正しい生活をしようと、毎朝7時とかに起きて、いつも同じ喫茶店でモーニングを摂って、小説を読んだり、ネットでニュースや誰かのブログを読んだり、部屋に戻ってゲームをしたり、ごろごろしたり、それからふらふらと自転車を走らせたり、ブログのネタを考えてみたり、スーパーに買い物に行って自炊をしたり、また同じようなことを繰り返したり、とにかく退屈しのぎになんやかんやしているものの、その時間のほとんどは、やっぱりぼんやりとしている。
ぼんやりしていると、自然と話し相手は自分自身になる。だからずっと自問自答を繰り返しているようなものだ。
どうでもいいことを考えるだけの生活。
普通の感覚からしたら、どうしようもなくダメな時間を過ごしている。しかしこんな生活をしていても、否応なく生きてしまうということに、今日はなんだか愕然としてしまったのだった。
言葉では語られなかったもの|蓮實重彦 三島賞受賞
ニコニコ生放送で三島賞の受賞記者会見の様子を見ていた。山下澄人さんが受賞しないかなという、ただのミーハー的な気持ちで見ていたら、選考員の町田康さんから蓮實重彦さんの名前が出たから、少なからず驚いた。
さらに驚いたのが、蓮實さんの記者会見での応答である。蓮實さんを映像で見るのが初めてだったから殊更驚いたのかもしれないが、なかなか見応えのあるというか、考えさせられる会見だった。
「お答えしません」
「申し上げません」
のっけから悉く質問を跳ね返すような応答に、記者の方々も面食らったのではないか。一気に会見場の空気が凍りついたような、その緊張感が画面からも伝わってきて、関係のない私も手のひらに汗をかいた。
その他にも「傍迷惑である」「馬鹿な質問はやめてほしい」といった言葉が出てきて、もっと別の応答の仕方もできたのではないかと思うし、わざとああいう風に振る舞ったとも考えられるが、受け取りようによっては大人気ないようにも見える。
蓮實さんは怒っていたのであろうか。確かにそのようにも見える。ならばそもそも賞にノミネートされた段階で断ることもできたのではないか。詳しくは知らないが、こうした文学賞はノミネートされる段階で、事前に「受賞した場合は受け入れるか」という打診があるというのを何かで聞いたか読んだことがある。
いや、そもそもそうした行儀の良い理屈は全くの無意味だし、そうした矛盾をも超えて、あの蓮實さんの会見での姿勢には、私の言葉では及ばないような何かが、その語られなかった言葉の背景にあるような気がして、私はただただ畏怖を感じたのである。
蓮實さんは「小説が向こうからやってきた」と語っていたが、きっとそれだけではないだろう。小説が向こうからやってきたとして、それを迎え入れるための準備が、80年という時間の中にあったのではないか。むろん、それは私がただ勝手にそう受け取っているだけではあるが。
著名人の方々の反応(2016/05/17追記)
何人かの方々が蓮實さんの三島賞受賞について反応されていたので、私が気になった範囲で勝手にまとめてみた。
蓮實さんの三島賞受賞記者会見での発言を読んだ。受賞したら絶対いうだろうなあと思っていたことをみんなしゃべっていて、爆笑。「紋切型辞典」のフローベールの研究者だもの、ああいう場所だと正論しかいわないにきまってるよね。きちんと「感情教育」していた蓮實さん、1ミリも変わってない……。
— 高橋源一郎 (@takagengen) 2016年5月17日
だいたい、今回のコメントで騒いだでいる人のほとんどは、蓮実重彦の文章なんてまったく読んでないわけでしょう。だから彼のあの発言が、何十年も繰り返されてきた「芸風」であることも知らないわけで、すべてが茶番。そしてむろん主催者はそんな茶番でももういいやと思っているわけで、それも茶番。
— 東浩紀@来週は沖縄 (@hazuma) 2016年5月17日
「はた迷惑」という言葉には、簡単には同意、調和しない、という不屈さが表れていて、それは、知性の一つの印だと思う。蓮實重彦さんのような頑固さが、メディアで見られなくなって久しいからこそ、新鮮で痛快だった。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年5月16日
昨日の三島賞。僕は他の作品を推していて、『伯爵夫人』には最後まで反対でした。詳しくは来月の『新潮』の選評に書きます。僕の意見は、最後まで理解されませんでした。僕も支持した選考委員の意見には賛同しませんでした。
— 平野啓一郎 (@hiranok) 2016年5月17日
照れてらっしゃるんだと思いますよ。
— 佐々木敦 (@sasakiatsushi) 2016年5月16日
:)
— 阿部和重 (@abekazushige) 2016年5月16日
阿部さんのコメント(顔文字?)は、断定はできないが、きっとこの件に関する反応に違いないと私は解釈している。
つい読んでしまった記事のタイトル
ネット上に公開されているニュースなりブログなり、その記事に付されるタイトルには、時々考えさせられるものがある。
所謂コンテンツマーケティングにおいて、記事のタイトルは重要だ。タイトルは読者の目に触れる最も重要な箇所のひとつであり、それで読者の興味を引くことができなければ、その記事は読まれることがないのである。
そういう意味で、読者の興味を引くタイトルを付けるということは、コンテンツを提供する側にとって重要なことなのだ。
そんなコンテンツが日々更新されていく中で、私がここ最近、最も感心した記事のタイトルはこちらである。
法大アメフト部監督、部員にチクワ売りつける「強制に近いものだった」
一体、何事だろうか。チクワだと?
そう思わせた時点で、この記事を書いた者の勝ちだ。私はついその記事を読んでしまった。
記事を一部抜粋すると、こんな内容の記事だった。
大学日本一5回の名門、法大アメリカンフットボール部の運営費で数千万円の使途不明金が発生している問題で、監督を辞任する意向を示している青木均氏(68)らが練習後に部員らに対し、チクワや缶詰などを食事として数百円で売っていた疑いがあることが10日、複数の大学関係者への取材で分かった。
「部員に食品を売りつける」ではダメだったのだろうか。いや、ダメだろう。缶詰も売りつけていたらしいが、缶詰でもダメだ。ここはチクワでなければならない。チクワでなければ、私はこの記事を読まなかった。チクワでこその破壊力なのだ。
「不快な思いをさせて申し訳ございません」で謝罪は妥当である|H.I.S. 東大美女図鑑
旅行会社のH.I.S.が発表した、「東大美女図鑑」の学生たちが 『あなたの隣に座って現地まで楽しくフライトしてくれる企画』というキャンペーンが、インターネット上からの批判を受けて中止になったという。
キャンペーンの詳細については省くが、それについて書かれた勝部元気氏の『「不快な思いをさせて申し訳ございません」は謝罪ではない』というタイトルのブログを読んで、どうにも腑に落ちない気持ちになった。
特に腑に落ちなかったのが、下記の引用箇所である。
「不快な思いをさせて申し訳ございません」というのは、謝罪をしているようで謝罪ではありません。「謝罪」とは「罪を謝る」と書きます。今回はあくまで性差別という行為をしたこと自体が罪なのですから、それに関して謝るべきです。ところが、不快にさせたという二次的な現象についてしか謝っていないわけですから、これは「罪を謝った」とは言えないわけです。
H.I.S.はほんとうに「性差別」という行為をしたのだろうか。
私は「差別」という行為を、「正当な理由がないにも係わらず、誰かを不平等に扱ったり、或いは不利益を与えること」というように理解している。その前提で書いていくが、私は今回の企画に、不当な理由や、誰かが不平等や不利益を受けた事実があるとは、到底思えない。
H.I.S.は『旅の「プロセス」を楽しくする』という理由があって今回のキャンペーンを企画しているようだし、東大女子図鑑の学生においても、プロモーション活動などの理由があって今回のキャンペーンに参画しているのではないか。
以下、東大美女図鑑のサイトから概要文を引用する。
「東大美女図鑑」は、「勉強一辺倒で大学生活を楽しんでいない」という従来の東大女性のイメージを打破し、東大女性と東京大学のイメージアップを図るために、東大文科一二類26組のクラスメイトを中心とした男女7名によって、2013年3月24日に活動を開始しました。「東大美女図鑑」は、東大女性のイメージ向上に貢献することで、女子学生比率がわずか18.2%(2012年現在)である東大の女子受験者数増加を目指しています。
おそらく双方が合意の元にこのキャンペーンを企画しているし、私にはこのキャンペーン内容からだけでは「H.I.S.が性差別という行為をしている」とは思えない。逆にこのキャンペーン内容だけから「性差別をしている」と断定するのは、過剰反応ではないだろうか。
ただし、キャンペーンの内容を見て不快に感じる人の気持ちも理解できる。理解はできるが、今回のキャンペーン内容を見て「性差別」とまで言うのは、ちょっと言い過ぎではないかということだ。
だから今回のH.I.S.の謝罪は、「不快な思いをさせて申し訳ございません」で妥当であると私は考えている。
顔認証を防ぐ眼鏡を使う場面
福井県鯖江市の商社が、顔認証を防ぐ眼鏡を今年の5月末に発売するというニュースを見て、素朴に「この眼鏡を使う場面とはどんな時だろうか」と疑問に思った。
それで、眼鏡を販売する商社のサイトにアクセスしたところ、ニュースリリースに下記のような記載があり、なるほどと合点がいったのである。
観光地などで他人が撮影した写真に自分が映り込むことはよくあることです。ですが、その写真がSNSなどでインターネットに掲載されると、顔認識技術により場所が特定される可能性があります。
そうか、映り込みか。私も写真を撮ることがあるが、確かに全く意図しない人物がフレームに収まってしまうことがある。そうした写真がSNSなどにアップされ顔認証システムが働くことで、全く関係のない人物によって、位置情報などを晒されてしまう可能性があるというわけだ。
例えば「風邪をひきました」と会社をズル休みして、どこかに遊びに出掛けたとしよう。そうだな、会社をズル休みして行くなら、奈良がいいだろう。奈良で肉や野菜を動けなくなるほど食べていると、その姿が同じ旅館にいた誰かの撮影する写真に映り込んでしまうのだ。それがFacebookにアップされて、会社の上司に発見され、ズル休みして奈良に出掛けていたことが発覚してしまい、職を失う。
そのような場面で活躍するのが、この眼鏡である。
しかし、だからと言って、わざわざこの眼鏡を着用するのもなかなかハードルが高いなというのが、個人的な感想だ。
何よりも眼鏡を着用した際の見た目が、何というか、2016年時点での現代社会においては、些か近未来的過ぎないだろうか。
特殊な模様のフィルターで光を反射・吸収して、目元の凹凸をわからなくすることで、顔認証を防ぐという仕組みらしいが、もう少し着用した際の見た目を何とかすることはできなかったのだろうか。
いや、きっと私には想像の及ばない工夫や苦労の末にあの形に収まったのだ。これ以上、その見た目についてあれこれ言うのはやめよう。
しかしなあ。もし観光地などでこの眼鏡を着用している人物を目撃したら、私はその人物をまじまじと見てしまうだろう。「この人には顔認証を防ぎたい、何か理由があるのだな」と勘繰ってしまうだろう。
もういっそのこと、SNSなんてやめてしまえばいいのではないか。