言葉を噛み殺して

言葉とは力である。心の籠った言葉は人を癒し精神の安息を齎す。逆に心ない言葉は見た目の外傷は無くとも心に大きな傷を残すことが出来る。言葉とはもはや立派な武器である。

 

そう言った意味でも普段の言葉使いには気をつけなければならない。しかもそれがビジネスシーンだと尚更気をつけなければならない。本当は怒鳴りつけて殴り倒したいぐらいキレているのにそういうことは表に出さず静かに話す。いわゆる大人の対応というやつだ。

 

俺はこの大人の対応ってのがとにかく嫌いだ。本当は怒っているくせにそういうところを見せない、それがかっこいい大人の在り方、みたいなのがいかにも都会的で嫌いなのだ。怒ってるんなら怒ればいいのではないか?もっと感情剥き出しで魂と魂のぶつかり合いみたいな熱い闘いをしたいじゃないですか。俺より強いやつを探しに行きたいじゃないですか。

 

でもですよ、ここで怒りに身を任せ相手を殴ってしまうと、荒ぶる最近の未成年犯罪者と変わりありませんから、別の方法を使います。怒っている、その事を確実に相手に伝えつつ、殴るよりも威力のあるもの、それが言葉なのだ。ついこの間も大人の言葉、それも腹の底にズドンとくるような、そんな言葉に出くわした。

 

事の発端は、数ヶ月前に遡る。

 

いつものように職場のドアを蹴破って元気に出勤するとどことなく様子がおかしかった。ひっそりしている。いつもなら隣の席にどんよりした雰囲気の人生オーラスみたいなおっさんがいて、愉快に昨日はパチンコで10万スった、新台にやられたー、などの何の生産性もない諭吉の大量虐殺みたいなのを聞いてもないのに話してくるんですけど、今日はそのおっさんがいない。朝の定時を過ぎても来る気配が無い。

 

(おっさん、休みなのか…?)

 

普通に考えると有給取って休んでるだけだろうが、彼がギャンブルジャンキーであることを考えると、あまりにもパチンコ台に諭吉を搾取されすぎてショックのあまり休んだ可能性も否めない。気持ちは分かる。

 

しかし、どうもそういうことではないらしい。というのも、このおっさん、若手の部下みたいなのを5人くらい引き連れて新しく職場に来たニューカマーなんですけど、そのおっさん率いるジャンキーチーム、その全員がいないんです。その若手のやつも「蜂のように舞い、蝶のように刺す!」とか自信満々で言ってる狂ったやつらですからね。蝶刺さへんわ。

 

どう考えてもおかしい。ギャンブルに負けて人生にも負けて、ついでに嫁さんにも逃げられたみたいなおっさんはいい、それはいい。あれは多分パチンコショックだから仕方ない。でもその他の部下たちも揃って出勤していないのはおかしい。おっさんに絡まれて、「はぁ、パチンコっか…」と何事にも興味を示さないゆとり世代代表みたいな彼も、「えっ?パチンコですか?賭け事とかしたことなくて」と無難に答えていた優等生な彼も、「クレアが出てきてくれないんですよぉぉぉぉぉ」と秘宝伝で散った将来有望な彼も、その他全員が来てないんです。

 

一抹の不安を感じながら朝のメールチェックを始めます。やれどこどこの設計書がおかしいから直せだとか、サーバーが止まっただとか、ウンザリするほど毎日メールが来るんですけど、ふと見ると、件のおっさんからもメールが来ている。しかもそのタイトルの威力や凄まじく、

 

「プロジェクト退出のご挨拶」

 

これこそ言葉の威力ですよ。もうね、このメールからはいわく形容しがたい何か禍々しいオーラが出ておる。ゴゴゴゴゴゴとか言っとる。とにかく只事ではない。

 

恐る恐る中を確認すると、どうやら本当におっさんはこのプロジェクトから抜けたらしい。ジャンキーらしいクズな感じの文章、だが丁寧な言葉がそこにはあった。

 

待て待て、落ち着け、まだ狼狽える時間じゃない。おっさんはつい1ヶ月前にこのプロジェクトにやってきたばかりだ。それも使えそうな若者を従えてそこそこの大所帯でやってきた。それがたった1ヶ月でプロジェクトを退出するとはどういうことなのか。

 

そして問題なのはここからである。実はおっさんが連れてきたその若者の中に何を隠そうこの俺も含まれているのだ。俺もおっさん率いるジャンキーチームのメンバーなのである。ただ複雑なのだが、俺意外は別の会社の人間、仮にA社としよう、A社の人たちとまた別の会社に所属している俺、というチーム構成なのだ。少しプロジェクトに有益な知識を持っているからうちの会社の人間として一緒に来て欲しいと誘われたのだ。いわゆる出向契約ということになる。

 

さて困った。おっさんはおろか他のゆとりたちもいないので状況が分からない。仕方がないので少ない情報を元に推察を始めてみる。おっさんからはプロジェクト退出のメールが出ている。今、寂しくなった隣の席を見ても分かるように本当におっさんはプロジェクトを退出したのだろう。では何故他のゆとり共も一緒に消えているのか、そこが分からない。

唐突なおっさんのプロジェクト退出を受けてざわめくゆとりたち、

 

「俺たちどうなるのかな…おっさんがいないと俺たち…」

 

「落ち着け!カス共!!」

 

「おっさん…」

 

「いいか、お前ら。俺は何もただでプロジェクト辞める訳じゃねぇ。お前らに託して辞めるんだ。大丈夫、お前らならきっとやれる。俺の弟子だ、自信持って仕事しろ。」

 

「おっさん!おっさん!おっさん!」

 

こういうことなのかもしれない。そういう洒落臭いことを会議にかこつけて会社でやってるんだろうか。まぁ、おっさんが抜けた後のことを話し合ってるなら問題ないか。

 

釈然としないままお昼を迎えた。確かにおっさんたちのことは気になるが、そんなことばっかり気にしてられませんから午前中は普通に仕事をしていました。

 

しかし、午後になってもゆとり世代たちが出勤して来ないんです。これはどういうことなのか。呑気なメロスも少し不安になってきた。

 

もうこれ以上は自分だけであれこれ考えても解決しないので事情を知っている人に聞くしかない。という訳でプロジェクトの中でも一番偉い人に聞いてみました。すると衝撃的なことを聞かされた。真相はこうだ。

 

どうも前々からプロジェクトを退出したいと考えていたおっさん。入って1ヶ月も経たないうちにもう退出したいとかちょっと頭がどうかしてるとしか思えないんですけど、とにかくそんなことを考えていたおっさん。そんな時、おっさんが激しく怒られることがあったらしい。シメシメ、体のいい言い訳が出来たぜ、その怒られ方に傷ついた、もう仕事出来ないぐらいひどく傷ついた、辞めます、これでターンエンドだ!簡単に言うとこういうことらしい。

 

残された人のことなど一切考えない見事なまでのクズっぷりはある種潔い。敵ながらアッパレじゃ。とか言ってる場合じゃない。いや、残されたゆとり世代はどうすんねん。

 

さらにおっさんは自分がプロジェクトを退出する、それも勝手な理由で仕事を投げ出して退出する、そのしわ寄せがゆとり世代たちに行くかもしれない、ワシのせいでかわいいあいつらが虐められてしまう!そんなことはあってはならない!俺が守らなければ!そう考えたおっさんはゆとり世代たちも自分と一緒に退出させたらしい。

 

いや、アホですか?クズだクズだとは思っていましたけど、これはちょっと信じられないレベルのクズだわ。アホすぎてついて行けねぇよ。

 

もう呆れて物も言えない、むしろ一周回って崇め奉りたいぐらいなんですけど、辛うじてここまではまだ分かる。納得してないけど納得した。正気の沙汰かと思う無茶苦茶な口上もまんざら理がない訳でもない。

 

ただ問題なのは、俺もおっさんと一緒にプロジェクトに参画した同じチームな訳ですよ。A社ともバッチリ出向契約してますからね。なのに同じA社のゆとりたちにはプロジェクトを退出するっていうことを伝えておいて、同じチームメンバーの俺には別の会社だからかそのことを一言も言ってないんですよ。その証拠に今朝から元気に出勤して、ついでに自分の席で優雅に朝食とか食ってましたからね。サンドイッチ2つも食べちゃったからな。

 

このことにいたく腹が立ちましてね、それと同時にプロジェクトの中の一番偉い人の権力を使って、A社の営業さんを状況説明のために呼び出してもらい、偉い人、営業さん、俺という、普通に仕事してたらまずあり得ない三者面談が開かれました。

 

「弊社としては、これ以上プロジェクト続投が難しいと判断しましたので撤退という形になりました。」

 

淡々と、まるで他人事のように話すA社の営業さん。いや、お前の会社の話やろ、とツッコミそうでしたがとりあえず止めておきました。

 

「プロジェクトとしても今は忙しい時期ですので、人に抜けられるとかなり辛いというか…おっさんの続投は無理でも他のゆとりたちまで退出させることはないのではないでしょうか?」

 

静かに、それでいて威厳のある言い方で偉い人が話します。覇気でも使ってるかのような空気の重たさを感じます。やはり言葉の威力はすごい。ちょっと吐き気がしてきた。

 

「弊社としてもそれが望ましいですが、おっさんのしわ寄せが行く可能性も考えると全員撤退させるのが妥当ではないかと考えます。」

 

ここにいる三人、それと他のプロジェクトに参画してる人、言うたら全員立派な大人ですよ。そんな子供の喧嘩みたいな理由でゆとり世代たちに八つ当たりする訳ないんですが、相変わらずそういうAIが搭載されてるような喋り方の営業さん。これじゃあラチがあかないと、偉い人が最大の切り札を出します。

 

「そうは仰いますけど、俺さんは撤退させないんですよね?それどころか撤退すること自体伝えてなかったと聞いてますが?」

 

さぁ、ここで大いなる矛盾が発生します。ゆとりたちにしわ寄せが行かないように撤退させる、でも同じチームメンバーの俺には撤退命令どころかその情報すら伝えていない。これをどう切り返すのか。

 

「俺さんに関しては引き続きプロジェクト続投を考えております。頑張ってもらいたい。」

 

いや、意味が分からねぇよ。

 

何や?お前のとこの社員は可愛いからしわ寄せで傷つけられる可能性があるところには置いておけないけど、俺は別の会社だからしわ寄せが来ようが何だろうが別に構わん。適当に頑張れってか。殺すぞ、お前ら。

 

いや、もう、これキレていいんじゃないか?今、俺ものすごくコケにされたよ。ナメられたよ。と、偉い人の横で静かに耐えていたんですけど、これに対して偉い人がキレました。それも怒鳴るとかそういうのではなく、静かに、それでいて相手の腹に突き刺さる重たさで言葉を放ちました。

 

「御社が彼(俺)のことをぞんざいに扱っていることはよく分かりました。彼に関わらず人に対してそんな扱いをされる会社様とは金輪際(一緒に仕事をする)お話は無いと思います。ありがとうございました。」

 

いや、もう、これ、完全に、惚れた、だろ。偉い人もそこそこのおっさんだけど惚れた。心底惚れた。抱かれてもいい、いや、それは止めとこう。

 

それだけ言って、俺を連れてその場を離れる偉い人。これだけでも十分かっこいいんですが、その後、

 

「コーヒーでいいかな?」

 

なんとコーヒーまで奢ってもらい、ちょっと久しぶりに泣きそうになりました。そのコーヒーはいつも飲むそれとは違い、甘く、体の奥底に染みました。同情の一端ではあるかもしれないが、なかなかこれは出来ない。

 

さて、この後もA社は訳の分からないことを宣いつつなんやかんやと生き残りをかけて偉い人に提案していたみたいですが、偉い人がそれを全面シャットアウト。お前とはもう終わったんだから付きまとうな、消えろ、みたいな別れた男女の掛け合いのような状態になっておりました。

 

俺は俺で自分の所属会社に事の経緯を説明し、直属の上司に、

 

「それドナドナじゃねーか、ドナドナドーナードーナーこうしをのーせーてー、ハハハ、笑える」

 

とかボロクソに言われて、殺意と共にやはり言葉は選ばないとなと思い直したのでした。笑ってる場合ちゃうわボケ。

 

上司は笑いながらも、裏では偉い人と交渉しながら、ややこしい大人の問題も解決して、何とか俺が今のプロジェクトを抜けない形にしてくれました。プロジェクトの偉い人も今回の一件で俺が被害者であることは認識してくれていたので、その後の続投の話はスムーズに進んだようです。

 

「大変だっただろうけど、頑張ったから褒めてやる。今度飲もう。お前が奢れ。」

 

この上司の言葉の意味が未だに分からない。特に最後の言葉が破格に意味が分からない。