『アンナ・カレーニナ』名言・格言
ロシアの文豪レフ・トルストイの代表作、『アンナ・カレーニナ』。19世紀文学の最高峰と称される作品です。でもロシア文学と聞くと、何となく難しそうと敬遠されがちですよね。僕もつい最近までそうでした(笑)登場人物がやたら多いし、文化も違うし、何と言っても長い!多少は根気が必要かもしれません。ただ古今東西で読み継がれてきた作品なので、確かな普遍性があるはずです。
さてそこで『アンナ・カレーニナ』における名言・格言を列挙していきたいと思います。物語の大筋を端的に言えば、主人公アンナ・カレーニナの不倫を描いたものです。多くの人物が登場し複雑に絡み合っていきます。また、端々において哲学的考察がなされるのですが、これには現代を生きる我々にも通ずるものがあり、感服させられます。
あくまで僕個人がすごいな、って思った文章を選んでいるので、共感できない部分もあるかと思いますがご容赦ください(笑)
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「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。」(上巻p5)
「ところが、リョーヴィンは自然の美しさをみずから語るのも、人から聞かされるのも、好まなかった。彼にいわせると、言葉などというものは、自分がこの目で見たものから美しさをはぎ取るばかりであった。」(中巻p12)
「どんな人でも、自分をとりまいている条件の複雑さを、とことんまで知りつくすと、その条件の複雑さや、それを解明することのむずかしさは、つい自分だけの、偶然な特殊なものだと考えがちで、ほかの人も自分とまったく同じように、それぞれ個人的に複雑な条件にとりかこまれているなどとは、夢にも考えないものである。」(中巻p137)
「ほんとのことをいえば、ぼくは自分の思想も仕事も高く評価しているけれど、実際、考えてみると、このおれたちの世界なんて、ちっぽけな惑星の上にはえた小さなかびじゃないか。それなのに、おれたちは、この上になにか偉大なものが、偉大な思想とか事業とかが、生れるような気がしているんだからね。そんなものはみんな砂粒みたいなもんさ」(中巻p284)
「いや、それは話といったものではなく、なにかしら神秘的な魂の交流であった。それは刻一刻とふたりを近く結びあわせ、ふたりがいまにもはいって行こうとする未知の世界に対する喜ばしい恐怖の思いを、お互いの胸に呼び起こすのであった。」 (中巻p313)
「彼らは才能という言葉を好んで使ったが、彼らはその言葉の意味を理性や感情を超越した、生れながらの、ほとんど肉体的ともいうべき能力として受け取り、この言葉によって画家の体験するいっさいのことを名づけようとした。なぜなら、この言葉は自分たちがなんの観念ももっていないくせに、話したくてたまらないことを形容するのに、ぜひ必要だったからである。」(中巻p485)
「彼にとって夫人は、自分の周囲をとりまいている敵意と嘲笑の海の中にある単なる好意以上の、愛情の島であった。」(中巻p565)
「しかし、ほかの人たちの気持を傷つけないためと、自分でもなんとかして暇をつぶさなければならないために、彼女はひと休みすると、また遊びに加わって、さも楽しそうなふりをしていた。その日一日、ドリイは自分よりじょうずな役者といっしょに芝居をして、自分のつたない演技が、芝居全体をそこねている、といったような気がしてならなかった。」(下巻p178)
「少年はもう家庭教師にではなく、全世界に向っていっているのであった。」(下巻p366)
いかがでしたでしょうか。誰もが無意識に思っていながら言語化できないでいる事柄(暗黙知というらしいです)を、言葉に表してくれたり、とにかく文章の「力」を痛感させてくれます。まさにこれぞ文豪!という感じです。説明下手すぎますね(笑)力不足です(笑)
ただやはりこのように抜粋された形より、物語の中で読んだ方が身に染みるはずです。大長編なだけにあらゆる要素が詰め込まれていて、いわゆる総合小説に近いものと言えます。
訳者の解説の中にチェーホフのこのような言葉が引用されています。「『アンナ・カレーニナ』には問題は一つとして解決されていませんが、すべての問題がそのなかに正確に述べられているために、読者を完全に満足させるのです。問題を正確に呈示するのが裁判官の役目であって、その解答は陪審員たちが、自分自身の光に照らして取り出さなければならないのです」
いろんな作家が言っているように小説とは、多かれ少なかれ著者が読者に解答を委ねるものです。『アンナ・カレーニナ』はチェーホフが述べている通りで、まさに小説の王道と言えるのではないでしょうか。
最近は光文社文庫で、世界古典文学の新訳本が続々と上梓されているようです。読みづらさを心配している方は、こちらから是非読んでみてください。僕も初のロシア文学は光文社文庫の『カラマーゾフの兄弟』でした。難しくかたい本が苦手な僕でも挫折することなく読めました(笑)『アンナ・カレーニナ』も新訳が出ています。手に取ってみてください!僭越なアドバイス(のようなもの)失礼致しました…。
『騎士団長殺し』名言・格言
2月24日に発売されました、村上春樹の新刊『騎士団長殺し』。二か月経った今もなお書店で大々的に取り上げられていますね。
そこで今作における名言・格言を列挙していきたいと思います。できる限り個人的に印象深いものではなく、普遍的に心に残るのではないか、という言葉を挙げるよう心掛けました。
また村上春樹自身のインタビューやエッセイなどにおける公言をもとに、解説(と言ってはおこがましいのですが…)を加えてみました。参考にしていただければ幸いです。僕は現在大学生で、去年『風の歌を聴け』に衝撃を受け、約半年で小説作品は全て読破するに至りました。なので週刊誌に書評を寄せている方にはむろん及びませんが、記憶がまだ真新しいことが唯一の長所ということでご容赦下さい(笑)
では早速。
一応ネタバレを避けたい方はご遠慮下さい。。
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「なぜならその本質は寓意にあり、比喩にあるからだ。寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。吞み込まれるべきものだ。」(第1部p452)
人形サイズの騎士団長(今作も出ましたね、村上フィクションならではの超常現象!)が絵画について言及したものです。村上作品には文字通り想像していたら混乱する、メタファー(隠喩)が多用されます。主人公の「影」が分離して動き回ったり、空から魚が降ってきたり、またリトルピープルと呼ばれる小人たちが登場したり(笑)今作も然りですね。非現実的でなくとも主人公が井戸の底に降りて考え事をしたり、長々と手紙の中で本筋とは関係ない戦時中の経験を回想したりと、純粋に読み進めるべきでないことが多いです。しかもこれら伏線?なるものが、ほぼ回収されることなく物語は完結するのです!(笑)アンチ村上春樹がファンと同数近くいるのにも頷けます。
さて今作は主人公が画家。思うに、著者は自身の「小説」という「芸術」に対する姿勢を、主人公の「絵画」という「芸術」への姿勢で遠回しに表現したのではないでしょうか。つまり超常現象らを含めた村上作品は言葉で説明されるものでなく、呑み込むのだと。僕はそう解釈しました。確かに芸術とは本来説明できない気もします(と言っても芸術にはすこぶる疎いのですが…)。好きな音楽など…。
「しかしシステムというものはいったん動き出したら、簡単には止められない。」(第2部p95)
村上春樹は過去にも度々「システム」について言及しています。エルサレム賞・受賞時の演説では小説を書く理由を、我々の魂がシステムにからめ取られ貶められることのないようそこに光を当てるため、とスピーチしました。21世紀を生きる我々は「システム」に囲まれ生きています。爆撃機や戦車はもとより、身近なものでは時刻通り運航する電車やバス。本文中では戦時中の徴兵制。範囲が広く枚挙にいとまがないでしょう。日々「システム」を前に汲々としています。
さてこの文は幅広く応用が効くと思いますが、僕は電車を眼前で逃したときなんか心を落ち着かせることを手伝ってもらっています。「仕方ない、我々はシステムには勝てないんだ」と。諦観ですね(笑)
「わたしにはだいいち顔がない。顔のないものの似顔絵をどうやったら描くことができるのだ?どうやって無を絵にすることができる?」
「ぼくはプロです」「顔がなくても似顔絵は描けます」(第2部p356)
顔のない男と「私」との会話です。これは捉え方がきっと千差万別でしょう。正直言って僕もあまり分からないです(笑)ただ村上作品はどの作品も(例外なしにと言っても過言ではない?)、押しなべて結論を読者に委ねています。ある本の中で著者は、「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間だ」と語っています。まだ続きがあるのですが簡潔にまとめます(笑)これに僕は深く感銘を受けました。そもそもこの世の中で結論、答えが決まっているものなど本当にあるのでしょうか。だから読者たちがそれぞれ個人的な見方をするのが自然なのでしょう。
少し脱線しましたが僕個人の解釈としては一つに、「プロ」への言及と見なします。『1Q84』という作品でも「プロというのは猟犬と同じだ。普通の人間には嗅ぎ取れない匂いを嗅ぎ取り、普通の人間には聞こえない音を聞き取る」というセリフがあります。顔のない人の似顔絵を描くというのはあくまでメタファーとして、プロは庶民には到底できないことができる、ということを表現していると捉えました。
またたとえ「無」からであっても、人は何かを作り出すことは可能なのだ、という希望のメタファー?とも言えるかもしれません。
「かたちあるものにとって、時とは偉大なものだ。時はいつまでもあるというものではあらないが、あるかぎりにおいてはなかなかに効果を発揮する。」(第2部p488)
きっと人それぞれ「時」の恩恵を受けているのではないでしょうか。一見その時は効果がないように見えても、後々になって大きな成果をもたらすこと。大変な困難を前に取り乱しそうになっても、時間が経てばいくらか冷静に眺めることができる。多かれ少なかれ誰しもこんな経験があるはずです。また長い時を超えて今も読み継がれる古典文学作品などは、確かな価値があると言えるのではないでしょうか。『ノルウェイの森』という作品でも「俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。」というセリフがあります。「時」に耐えた作品は少なくとも一定の妥当性はあるのですね。むろんプラスのことだけではないでしょうが、「時」は偉大なはず?です。
さて拙いながらも僕の見解を示させて頂きましたが、以下では説明しづらい(する必要のない?)けどなんか良い、という言葉を並べさせてもらいました(笑)独自にご解釈ください。
「しかしそれまでに私は時間を必要としている。私は時間を味方につけなくてはならない。」(第1部p12)
「偽装した祝福。かたちを変えた祝福。一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの、という言い回しだよ。Blessing in disguise。で、もちろん世の中にはその逆のものもちゃんとあるはずだ。理論的には」(第1部p142)
「大胆な転換が必要とされる時期が、おそらく誰の人生にもあります。そういうポイントがやってきたら、素速くその尻尾を掴まなくてはなりません。しっかりと堅く握って、二度と離してはならない。世の中にはそのポイントを掴める人と、掴めない人がいます。」(第1部p158)
「まだ何も描かれていないけれど、そこにあるのは決して空白ではない。その真っ白な画面には、来たるべきものがひっそり姿を隠している。目を凝らすといくつもの可能性がそこにあり、それらがやがてひとつの有効な手がかりへと集約されていく。」(第1部p329)
「歴史の中には、そのまま暗闇の中に置いておった方がよろしいこともうんとある。正しい知識が人を豊かにするとは限らんぜ。客観が主観を凌駕するとは限らんぜ。事実が妄想を吹き消すとは限らんぜ。」(第1部p449)
「うまくいっているあいだは、ずいぶんうまくいっていたと思う」「古いジャガーと同じだ。トラブルの発生しないうちはとても気持ちよく走る。」(第2部p86)
「それは限られた時間に、限られた場所でしか起こらない交流だった。やがては薄らいで消えてしまう。しかし記憶は残る。記憶は時間を温めることができる。そして―もしうまくいけばということだが―芸術はその記憶を形に変えて、そこにとどめることができる。ファン・ゴッホが名もない田舎の郵便配達夫を、集合的記憶として今日まで生きながらえさせているように。」(第2部p112)
「どんなことにだって必ず良い側面があります」(第2部p241)
「しかし彼だって、言うまでもなく時間と空間と蓋然性に縛られて生きている。」「言うなれば我々は一人残らず上下四方を堅い壁に囲まれて生きているようなものなのだ。たぶん。」(第2部p259)
「この人生にはうまく説明のつかないことがいくつもありますし、また説明するべきではないこともいくつかあります。とくに説明してしまうと、そこにあるいちばん大事なものが失われてしまうというような場合には」(第2部p404)
「我々はそれぞれに明かすことのできない秘密を抱えて生きているのだ。」(第2部p510)
「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない」「でも少くとも何かを信じることはできる」(第2部p528)
いかがでしたでしょうか。くどいようですが、受け取り方は読者一人ひとり自由です。僕の見方が気に入らなかった方がいらっしゃいましたら謝ります、ごめんなさい。
ただ自分に引き寄せて取り入れるというのは、小説の醍醐味ですよね。もちろん映像や漫画を否定するつもりは毛頭ありませんが(!)特に村上作品は輪をかけて「小説」?だと思います。気になった方は他の代表作などを手に取ってみてください!