たくさん喋ることについて

たくさん喋ったあとはすごく死にたくなる。自己嫌悪が止まらなくて死にたくなる。こんなに言葉をうまくまとめられないゴミ人間が普通のストレートな人と喋る権利なんてないのにと悩み死にたくなる。きもかっただろうな。ほかのひともきもいって思ってるんだろうな。後々死にたくて死にたくてしょうがなくなる。喋らなきゃいいって思ってるのに。一回頭の中で整理してから話すくせをつけなきゃだめ。

その瞬間しか話せない人ではないし、その瞬間だけの出来事じゃないから

よくよくせいりしてのちのち聞けばいい。私は待てを覚えなきゃいけない。待って、一回せいりして、あとで聞けばいい。あとで聞けば文字に起こせるし。そっちのほうが絶対いい。私は新卒なんだから最初からそんなに求められてない。いっかい大人しくしっかり熟慮するくせをつける。自分を嫌いにならない方法を自分で作って生み出してそれを重ねていきたい。

かけら

誰しも切ないという気持ちを持っていると思う。
痩せなくて切ない。友達がいなくて切ない。親となかなか連絡を取れなくて切ない。お金がなくて切ない。
私が今、一番切ない理由は「甘えられる相手がいなくて切ない」だ。
私は、かなり甘えただ。色んな人にくっつきたいし、色んな人に泣きつきたい。抱きしめられたいし抱きしめたい。可愛いって言い合いたい。疲れたって言われたいし言いたい。歯を見せて笑いたい。悲しいときには一緒に映画をみたい。嬉しいときは一緒にお酒飲んでキスしたい。
でも、それができない。してしまったら他人に迷惑になるのかと考えるからだ。実際こんなことをしたら迷惑極まりないだろうが、したいのだ。人を愛して愛されたい。
高いアイスは口移しされたい。抱きしめて寝たい。人肌恋しい。
こんなに人を必要としている私だが、お昼はほぼ一人だ。恋人はいないし、同期のことは大嫌い。できるだけ関わりたくないし、むしろ嫌いだな。と思ってしまう。
なぜだろうか?もしかしたら、自分ができないことをいとも簡単にやれそうだからかもしれない。いつも太陽のようにニコニコ笑ってるあの子。恵まれた家庭に育って愛されてきたあの子。気を使わないで人と人の間に入れるあの子。どれも私がやりたくてやれなかったこと。ほしくて手に入らなかったもの。どれも諦めてきたものだ。
諦めるのは誰かに諦めろなんて言われていない。諦めたのは自分自身が考えた結果だ。そう、この「自分自身が諦めた」というところが私の人生の最大の悲劇なのだと考える。
私は人生を諦めた。生きるのも諦めた。まっとうに生きることを諦めた。自分が楽になるために諦めた。そのとき楽になるには諦めるしかなかったからだ。諦めて自分自身の心を殺せば誰かが救われた。誰かよりえらくなれた。誰かよりかわいそうで可愛い存在になれた。諦めることで何かしら優位に立てたし、優しくなれた。そして、それ以上に性格がひん曲がった。諦めないで生きて誰かに救われた人には経験できないことであると思う。実際そういう部分で私はたくさんの人の顔を見るようになれた。だが、それは、諦められた自分という存在を強く強く強く守っていることに繋がってしまった。諦めたくなかった過去のまっすぐに生きるはずだった自分。諦めなくてよかった過去の自分。その自分を捨てたくなかった。だが捨てるしか社会にはとけ込めなかった。社会で息をすることができなかった。デザインに出会えなかった。人と出会えなかった。
諦めた自分をこれからの自分だと受け入れるには多大な時間がかかると思う。だったら、諦められた自分の鏡であるたくさんの人をこれからは受け入れて吸収していこう。なんて綺麗事はあるわけないから、諦めた自分を自分で埋めて、新しいカケラで作り出した人造人間になろう。とっくに命は捨てている。作れ。生み出せ。まだ心は痛いけれど。死にたいな。早く。諦めた自分の元に帰りたいな。帰れないから、作る。

まばたき

今日も目玉焼きの中央が黄色くてよかったな

緑だったら悲しくなってたよ 黄色いから目玉焼きだもんね

 

誰かの目線からの誰かでしかない私が

黄色くてよかったって思われる存在でありますように

あなたがあなたでいてよかったって思えますように

 

ちょっぴりつらくても ね

たくさんの優しさがあるから感謝だよね

 

ご自愛と自己防衛で

 

よい明日を

すてきであった本日を

ちょっと嫌いになれる昨日を