日本人の読解力低下にスマホは関係あるのか
読売新聞の「読解力が危ない」シリーズが面白い
今週の読売新聞の朝刊の一面記事で「読解力が危ない」とコラムが掲載されているのだが、これが面白い。
若年層の読解力の低下。
実に嘆かわしいではないか。
そして、その一因として挙げられているのがやはり「スマホの普及によるSNSでの短文でのやりとり」だ。
それについて、散漫であるが私の見解を述べたい。
読書感想文とかいうクソ
読書とは本来「知の探究」「他者の思想に迫る」など、とても楽しい行為なのだが、教育機関はそれをクソつまらないものへと変える。
その一因を担うのが「読書感想文」とかいうクソ課題だ。
これは本質的には
教師に向けた読書感想文でしかない。
こんな教師の気を遣うだけの感想文で楽しい読書ができると思うのか?
教師に評価を得るために適当に本を読んで、適当にあらすじとどこにでもあるような無難な感想を書くことが読解力向上や読書への好奇心に繋がるとでも思っているのだろうか?
その点、ブロガーの読書感想文は実に面白い。
本を読みたくなる、何かをもっと知りたくなる上手な文章を書ける人間がたくさんいるのだ。
教育機関の石頭どもに告ぐ。
子供に読書して欲しけりゃ、
てめえらで読書の楽しさを子供たちにプレゼンしてみろ
そもそも「長文」はそんなに偉いのか?
「長文」とはその必然性がゆえに長文たりえる。
世の中には無駄なことが多すぎる。
それ、本当に長文である必要あるの?
って文章がありすぎる。
長けりゃいいってもんじゃない。
まあ、これははっきり言って私の文章にも当てはまる。
長文は長文である必要性があるからこそ輝くものであって、一言で言えば済むことをわざわざ長ったらしい文で書く奴はただ読者のことを慮れないってだけの話。
難しけりゃ「偉い」という発想
そもそも新聞社は根本では文章レベルが高い(基準が謎)ことが偉いと思っている。
それは間違いではないと思う。
確かに読者としても解読不明の難しい単語の羅列が「ああ、要はこういうこと言いたいのね。それ○○で表現すれば済むじゃんw」と読解力が上がっていく喜びは快感だ。
だが、それは「難解であること自体が必要である」という文学作品や学術書に要求されるものであって、新聞に必要なものとはとても思えない。
多くの人が読むものである以上「わかりやすさ」が必要なのである。
それを「読者の読解力不足」と一方的に嘆き、読者に読みやすくするように努めないというのは、新聞社の自分勝手でしかない。
もちろん、新聞社としての矜持で一定の難解さを保つことはわかる。私もそれを新聞に求めている。
なんだかんだで「難しいものが読める俺かっこいいww」という快感は、文章を求めるものとしての根源的欲求にあるし、物書きにもそれはあると思うのだ。
だが、その一方で「ユーザー目線」を徹底的に追及しているインターネットメディアの存在を見ると、それが正しいとは到底思えない。
ところで読売新聞さん、私の読解力は何点でしょうか?
ちなみに私はこの読売新聞さんの「読解力が危ない」シリーズは、若者新聞離れをスマホのせいにしたいやつあたり的なものだと読み解いている。
「我々の崇高な長文を読める奴が少なくなるのはけしからん!」と言っているのですよね、とてもよくわかります。
編集手帳の時事ネタを古典文学と絡めて語る独特の文章大好きだ。底知れぬ教養とインテリジェンスに満ち溢れた皮肉を醸し出している。
一方で、世間の大体の連中は
- 結論だけ書いてある記事
- 即物的な記事
- 楽しい記事
- 読みやすい記事
こういった、とにかくわかりやすいものばっかりを求めている。
まあネット民の私からすれば、全員が一定以上のリテラシー能力を持てばFAXや不要な印刷物も消えるし世の中はもっとよくなる、と思っているんだけどまず無理。
だって、全員が賢くなれるわけないもん。
新聞も同じじゃないか?
世の全員が新聞読み解ける能力身につけるなんて無理。
長文を読み解けなくなるのなんて、時代に応じた進化でしかない。
今まで頭でっかちが長文でしか説明できなかったものを簡単に解釈して発信できる人も増えているんだし、SNSでも幼稚な短文でも十分意志疎通ができるようになってきている。
もうこれは「進化」と解釈して受け入れちゃおう。
どんなに長文で美しい言葉を並べたラブレターよりも、魂を込めた「好き」の一言の方が伝わることだってあるじゃない?
我々は読解力などなしにわかり合えるニュータイプになりつつあるのだよ。
でも日本語が絶望的レベルの子もいるよね~
ちなみに新聞に例として挙げられているラインのやりとりは、想像を絶する幼稚な文章が掲載されている。
えこっわ!(笑)
あの怖いって言ってた人?
そう!その人!くっそ怖いこゆうタイプまじ無理だわ(笑)
きょういんの?
いや、こういうノリのやりとりはわからんでもない。
文脈的にも、以前話してた身近な怖い人の話題というのもすぐわかる。
わかるけどまじ無理だわ(笑)
こゆうタイプまじ無理だわ(笑)
→固有タイプ!固有結界使える系の人が生理的に無理なのかな?
きょういんの?
→教員のものかな?
こういう文体ちょっと生理的に無理。
流石に同じ義務教育受けた身としてまじもぅ無理。。。
ということで新聞社が嘆きたくなるのもわかる。
というか、同年代でこういうやりとりされて相手の文章レベルに合わせないといけない苦痛がまじもぅ無理。。。
まとめ
まとめるほどではない駄文を書き連ねてきたが、読売新聞は応援している。
日本国民の読解力を取り戻し、
国民の文章力を上げ長文を読み解く快感に目覚めさせる
という、社の方針は私としても是非とも応援させていただきたい崇高な思考だ。
ただねえ、
「脳が発達する18歳ぐらいまではスマホ使用を制限し、しっかりした文章を読む環境を作るべきだ」
とかいう、クソみたいな文章は書く必要なかったと思うんだよなあ。
まるで「スマホじゃしっかりした長文は読めない」と言っているようなもんだし、スマホ使って新聞記事よりもしっかりとした長文書ける学生ブロガーなんかうじゃうじゃいるよって話。
こういう余計な一言が新聞社の怠慢であり、無駄な長文と言われる根本問題だよ。
大手小売の仕事は頭おかしい、共産主義かよ
大手小売の現場仕事は頭おかしい
アルバイトとして大手小売に数年間務めていた経験があるんですが、大手小売の組織体系が作り出す現場仕事の構造ってマジでおかしいと思います。
あらかじめ言っておきますが、私は地方の最低賃金スレスレのクソみたいな時給で、会社の指示体系に順じて精一杯働いてきたつもりですよ。
だからこそ、現場のおかしな構造が身に染みて理解できるんです。
これから言うことを一言にまとめると
「なんで資本会社が現場仕事で共産主義やってんの?」
これに尽きます。
※厳密には「社会主義」と言うべきなのでしょうが、今回は「大手小売の労働現場」という狭い社会での状況を表現するために「共産主義」という言葉にしました。
大手小売とは?
大手小売とは大企業の経営する小売店舗のことですが、今回は「全国にチェーン店舗を持つ企業」という広い意味で使っています。
小売だけではなく、大手の飲食店なども含みます。
具体的な店舗名・企業名は挙げませんが「どこに行ってもよく見る店全般」と言えば、想像しやすいかと思います。
大手小売の現場仕事は雇用形態が同じであれば大体同じぐらいの時給で働かされます。
社内評価で上下がありますが、せいぜい+1~50円、現場リーダー級で+100円ぐらいでしょうか。
会社側としては現場の人間が「同じ給料・同じ労働形態で同じ生産性」であることを要求しているので、共産主義的な仕事を要求していると言ってもいいでしょう。
労働現場が共産主義って?
共産主義とは超簡単に言えば
「みんな同じ分だけ仕事して、みんなに等しく分ければ幸せになれるよ!やったね」
という発想です。
素晴らしい、まさしくその通り!と思われる方もいるかもしれませんし、私もそう思います。
でもこれただの理想論ですよ。
だって、これを実行する人間が理想とはかけ離れた不完全な生き物なんですから。
人間は欲望を持つ限り不完全
不完全な人間が共産主義を実行すると以下の通りのことが起こります。
- 怠ける奴らが必ずいる。隣人が怠ければあなたも少しずつやる気がなくなる。
- 定められた以上の仕事をする人がいる。上司が帰らなければあなたも帰れない。
- そもそも「同じ分だけの仕事」の測量が無理。
- 指示する人がいなければ現場の統一は難しい。
- 上に立つ人間が現れて、やがて搾取に目覚める。
これはすべて人間の欲望が生み出す現象です。
人間には欲望があります。
「楽をしたい」
「人に認められたい」
「お金が欲しい」
こういった欲望を達成するために行動します。
しかし、共産主義はこれを否定します。
真なる共産主義の実現には「人間的な欲望を捨てること」が必要なのです。
欲望を捨てた作業するだけの人間。それロボットと何が変わらんの?
成果を上げても上司や会社のもの
「時給や地位が変わるから共産主義ではない!」そう思われかもしれませんが、それはあくまで組織内の機能が正常に働いていれば、の話です。
自浄作用が働かずあるべき姿にならないから「資本会社なのに現場でやってることが共産主義」という歪な構造が生まれちゃうんですよ。
いわゆる、ジャイアニズムですよ。
「お前の努力や成果はすべて会社のもの」
はい、やり甲斐搾取ー。
そもそも社内評価システムが機能してない
これ、すごくタチが悪いんですよね。
「頑張れば給料も上がるし、正社員登用もあり得る!」と思わせてやる気の搾取しちゃうんですよね。
頭に竿付けて目の前に人参ぶら下げられて、延々と走り続ける馬みたいです。
しかも評価の基準が、資本会社なのに「顧客」ではなく、なぜか「上司」なんですよ。
そりゃ、みんな上司の見てる所でしか真面目に仕事しなくなりますよ。
その評価も店長→ナントカ長→ナントカ課みたいに、いくつもの部署を通さないと1円も時給が上がらないんですよ。
で、上の人間は搾取が好きなので、理由があれば非承認で時給は上がらない確率が高まるんです。
いやあ、評価もらうための基準が
- 上司への接待力
- 評価の関係ないところで効率よくサボる小賢しさ
- 上司が書いた書類だけで上の部署を納得させる
って、すごいシステムですなあ。
まあ、頑張っていれば評価は得られましたよ。
数年働いて時給10円アップ。代わりに責任だけ重くなる。
いやあ、一時間10円分の責任がやたらと重かったですねー。
…こんなの「仕事の出来ない人間」という評価もらって、適当に仕事する方がマシですね。
紹介案件達成しても報酬なし
あるんですよ。
会員カードの入会やスマホアプリの加入の強引な押し売り強要。
で、真面目に新規会員獲得しても一切報酬なし!
アフィリエイトやってる方なら狂気の沙汰だとわかりますよね。
これも現場で働くスタッフの成果ではなく、すべて上司や会社の成果にされます。
この手の紹介案件は9割以上のお客様にとってもありがた迷惑なのでやるだけ無駄です。
せめて、現場スタッフにしっかりそのサービスの価値をプレゼンしてください。
自分でセールストークまで考えさせておいて一切報酬なしとか、アフィリエイトの報酬システム知ってたらマジで狂気の沙汰。
場合によっては消費の自由も奪われる
厳密な共産主義社会では消費の自由がありません。
国家から与えられるものだけで生活をしなければなりません。
その点、日本の共産主義的現場はまだ良心的です。
しかし、会社によっては
- 未達成のノルマは自腹
- 法律や社内規定に準拠していない不当な損害請求
- 自社製品の購入を強要
- 飲み会の参加を強要
など、消費の自由まで奪うところもあるようですね。
消費の自由まで奪われたらガチで共産主義社会に近づくからほんとやめて。
「スマイル0円」=「人間性0円」
大手小売は接客に「明るい」「大きな声」のような脳筋体育会系的な仕事を求めます。
これは人間性を演出するためのものでしょう。
ですが、現場仕事に人間性を求めていないというのにどうして心から笑顔で接客できましょうか?
そりゃ無表情となんら変わらない営業スマイルマスクを被る人間ばかりになるわけですよ。
「スマイル0円」などと、「営業スマイルにはなんの価値もない」と自ら言ってるのはおもしろいジョークですよね。
人間性は、大手小売の仕事においては0円の価値なんです!
「お客様は神様」じゃない
「お客様は神様」
もうこれ聞き飽きたから、言うのやめにしませんか?
これを本当に言っていいのはお客を選べる権限のある人だけですよ。
会社は労働者に、1円も払わない客にも高額の買い物をするお客様にも平等なサービスを要求します。
労働者は顧客を選べません。
で、お客様の要求はバラバラ。
わけのわからんクレームをつけてきて1円も払わない客に長時間拘束される。
高額な買い物をされるお客様はちょっとしたミスがあってもなぜか丁寧な対応で許してくれる。
いや、なんかこれ資本主義としても破綻してないですか?
サービスの市場価値が崩壊しまくりですよ。
顧客を喜ばせても評価されない
いや、私も出来るものなら「お客様は神様」と思いたいですよ。
自分の仕事で多くの人に喜んで貰えてその対価に何か得られたら最高ですよ。
でもお客様にどれだけ誠心誠意を込めて対応をしてもせいぜい「ありがとう」と言われるだけで、1円も報酬が発生しないんですよ。
日本にはチップ制度も浸透してませんからね。
その上、前にも言った通り従業員の評価をするのは顧客ではなく上司や会社なんです。
これが、必要以上のサービスを要求してくるお客様は無駄に仕事増やすだけの存在という構造になってるわけです。
従業員からすればお客様が来ないと仕事が減る上、それで賃金が下がるわけでもないので、極論を言えばお客様に来て貰わない方がいいんですよ。
大手小売の共産主義的現場は従業員に
「お客様は敵」
と、思わせる構造なんです。
大手小売は人間の尊厳を奪う
このように大手小売の労働現場は
- 頑張るだけ無駄
- 変にやる気出すと賃金は上がらないまま周りの仕事を増やす結果に
- 人間性は一切求められない
と、実に共産主義的なんですよ。
共産主義国がどういう末路を迎えたかは歴史が教えてくれます。
そこには人間の尊厳が奪われた前例がたくさんあります。
さっさとこんなバカなことはやめて人間の尊厳を取り戻しにいきましょう。
正社員・終身雇用制度は宗教。本当の働き方改革を教えてやる。
私はある日気づきました。
私は無根拠に「正社員になって終身雇用制度に守られ働き続ければ、苦労はするかもしれないが幸せに暮らせる」という宗教を叩きこまれていたのだと。
でも、こんなものは嘘ですよね。
- ブラック企業に勤めて人間性を失っていく人々
- リストラを言い渡され路頭に迷う中高年の家族持ち
- 責任をとらない経営陣
- 破綻した年金制度
こんなもん散々見せつけられて、未だに「終身雇用制度の正社員」が一番安定して暮らせるとか宗教じみたこと言う奴らが日本には腐る程いるんですよ。
まあ、そうかもしれませんね。
お前の狭い世界の中ではな。
私は内心この宗教の胡散臭さに気付きながらも、つい最近まで頭の中をこの宗教に支配されていましたよ。
とにかく「正社員」になれば安定するし、それなりの幸せを得られるのだと心から信じ込んでいました。
しかし「正社員・終身雇用制度」信奉の本質がなんら宗教と変わりないものだと気づいた時、目が覚めました。
それと同時に、勇気が沸いてきました。
私は何も間違っていない。
今回は「正社員・終身雇用制度」信奉が本質的には宗教の構造となんら変わりない事実と、この宗教がいかに現代において我々を苦しめているか、みなさんにお伝えします。
とっとと目を覚まして自分らしく生きましょう。
そもそも宗教とは
そもそも宗教とは歴史的に見ても、人々が理解できないものに理由を与えて安心感を与える役割を担っていたんですよ。
宗教は人々に安心感を与える
宗教は「無根拠なもの」に「根拠」を与えることで人に安心感を与えるんですよ。
例えば「死」。
キリスト教は審判の日。
仏教では輪廻転生がうんちゃら。
昔は医学も科学も未発達でしたから、死因に関しても「天罰」だとかとにかく理由をつけないといけなかったんですよ。
死因については現代人は論理的な根拠を得ましたが「死んだ後どうなるか?」は永遠の命題となり続けるでしょう。
生きているうちに死ぬのは無理ですから。
この「死」における宗教の役割は最たる例です。
他にも科学や医学などの知識や情報がなかった昔は「病気」「社会」「政治」「人間」「自然」など、あらゆるものの根拠として「宗教」が存在していました。
災害が起これば天罰、病気に患うと祟り、戦乱の世の中になると平穏のために祈り…などなど。
学問が未発達の時代は宗教が人々の心の拠り所だったのです。
誤解を恐れずに言えば宗教は「思考を停止」するためにあるんですよ。
なぜその現象が起こったのか、どうすれば止められるのか、どうすれば改善できるのか。
そういった思考を停止し、あらゆるものを受け入れられれば人は安心感を得られますから。
こうして考えていくと「正社員・終身雇用制度」が宗教となんら変わりない構造であることはおわかりいただけるかと思います。
大企業に入れば将来安泰、上司の言っていることに従っておけば間違いない、税金を払っておけば老後も安泰…などなど。
「正社員・終身雇用制度」は無根拠な安心感を得るための宗教なんです。
日本人は無宗教なくせして流されやすすぎ
宗教の自由。
大いに結構。
信じたいものを信じて生きればいい。
ですが、現代の日本人って本当に信じられるものを持っている人ってどれぐらいいるんですかね?
そんなに多くないと思いますね。
だって、人に合わせたり、空気を読んだり、人に嫌われたくないとかそういう人ばっかりじゃないですか。
しかも、都合のいい時だけ他宗教の文化を持ちだす信仰心のなさ。
とにかく流動的なんですよ。
「正社員・終身雇用制度」信奉も、こういう日本人の無宗教文化なのに信じるものがない体質ゆえに、今も根強く残り続けてる宗教なんでしょう。
そして差別へ…
「正社員・終身雇用制度」信奉の欺瞞に、多くの人は薄々気づいています。
しかしそれを認めたくない。
「自分の会社は大丈夫だ!」と信じ込みたい。
そこで出てくるのが「差別」です。
「正社員・終身雇用制度」の恩恵を受けない人々を見下すことで自身の安心感を得ようとするのです。
その結果「非正規雇用」の人間を見下す論調が溢れだすのです。
「非正規雇用」の人間がたくさんいるからこそ、今の自分の立場があるという現実には一切目を向けません。
終身雇用制度は日本社会の癌
終身雇用制度が日本社会の癌であり、日本の社会を圧迫していることは小泉政権時に「派遣労働法」が出てきた頃より明確であったと思います。
まあ、派遣労働法自体は時代にあっていたとは思います。
でも運用する奴らが「正社員・終身雇用制度」信者であったため、若者の使い捨てを生みだす結果になりましたけどね。
変化に適応できない体質を生む
終身雇用制度って「若いうちに苦労すればあとは楽をしてよい」という発想を生みだすんですよ。
時代の変化に無関心で、勉強する必要がないんです
つまり、変化する必要がない。
もちろんそういう人ばかりではないとも思っています。
ですが、バブル期の勝ち馬乗りの作るクッソつまらない価値感の記事やコンテンツ、日本大企業のまったく消費者のことを考えない生産物を見ていると、とても時代の変化に適応できているとは思えません。
会社側からしても終身雇用前提の採用はリスクの塊
会社・経営者側からしても「正社員・終身雇用制度」なんて邪魔でしょう。
会社側からしても、40年近くその人を雇うという投資はあまりにリスクが高すぎます。
書類と面接だけで、その人の40年間の価値を見極めるなんてあまりに無理があるでしょう。
そんなリスクだらけの採用なんて予知能力者でも無理です。
ですが、なぜか「正社員・終身雇用制度」信奉に基づいた会社が存在し続けてるせいで雇用形態が社会に合わない形で運用され続けているんですよ。
そして、求職者も基本的には「正社員・終身雇用制度」信奉に基づいて求職するんですよね。だから、できる限りその需要に応えるように求人を出すんですが、無理に「正社員・終身雇用制度」を運用したせいで実態はブラック企業になっていくわけですね。
需要と供給のバランスがパンデミック!
正社員の「一人でなんでもできる」感は異常
全員がとは言いませんが「正社員・終身雇用制度」信者って、とにかく正社員以外の雇用制度を無自覚に見下し、自分は経済力があって一人でなんでもできることに幸せを感じている人が多いんですよ。
でもそれ、ぶっちゃけ会社の組織力のおかげですよね?
とにかく無根拠に会社に尽くして、理不尽に耐えて苦労してお金貰ってることが偉いという発想なんですよ。
例えば税金や厚生年金をより多く払っていることで非雇用より偉いと思っています。
で、その税金の使い道が世の中のために正しく使われているかどうかはしっかり確認していますか?
というか、そもそも自分で確定申告してないんでしょ?
税務課にまかせっきりなんでしょ?
一人でなんでもできる人間なんていません。
人間は一人の無力さを自覚しなければ強くなれません。
私は「正社員・終身雇用制度」に乗っかって勝ち誇っているだけの人間より、人を思いやれる非正規雇用の方に人間的価値を感じます。
自立、家庭持ち、マイホーム持ちが幸せとかいう思考停止
「正社員・終身雇用制度」教では
- 一人暮らし・自立
- 結婚し子供をつくり家庭を築く
- マイホームを持つ
などの要素が幸せを得ることだと教えられます。
これもまったくと言っていいほど根拠がありません。
「正社員・終身雇用制度」信奉ではそれらが人質として都合よく機能するから、そう定義されていただけと考えるのが合理的でしょう。
別に信じるのは勝手なんですが、この「幸せの押しつけ」が現代の若者の負担になっているのが問題なんですよね。
「正社員・終身雇用制度」信者の親世代が、価値感の押しつけで若者の人生を息苦しくしてるんですよ。
宗教の押し付けは苦しみしか生み出しません。
少子化・若者の○○離れ・希薄になる家族関係・引き籠りなどの社会問題も大なり小なり「正社員・終身雇用制度」信奉が起因していると思うんですよね。
前時代の「亭主関白」とかいう発想、時代に合わない結婚感
一人でなんでもできる、でも家事は女の仕事で自分がするものではない。
これも「正社員・終身雇用制度」信者特有の古臭い考え方です。
要は思いあがって「女は俺が幸せにする」と思い込んでいるんですよね。
まあ、今の時代はごく一部の富裕層を除けばこの発想はありえないでしょう。
だって、若年層の賃金を始めとした社会情勢が「正社員・終身雇用制度」信奉全盛の頃と違いすぎます。
亭主関白したくても共働きせざるを得ないのです。
少子化対策とか謳ってる奴らも根本的に「正社員・終身雇用制度」信奉に基づく古臭い結婚感があるから見当違いの施策を行ってしまうんですよ。
結婚や家庭って「正社員・終身雇用制度」信奉に基づくと「人質」なんですよ。
まあ、やり甲斐と言い換えてもいいんでしょうが。
「お前が会社に尽くすことで妻や子供を幸せにできるんだ、ほーらやり甲斐のある仕事だろ?」
うーん、どう考えても人質です、本当にありがとうございました。
「正社員・終身雇用制度」信奉という宗教感を日本から消滅させないと、「人質」と化した家庭なんて築こうとすら思いません。
会社を蝕む「正社員・終身雇用制度」信奉
「正社員・終身雇用制度」信奉という宗教は何も雇用者だけではなく会社をも蝕み続けています。
前述の「終身教前提の採用がリスクの塊」などはもろにそれですね。
あとは「正社員・終身雇用制度」信奉全盛期であったバブル期などに入社した奴らも、会社に寄生し続けるだけで何の価値ももたらさない存在って多いんじゃないんですか?
仮にそういう存在が寄生していても、会社側は「正社員・終身雇用制度」信奉のせいで辞めさせられないんですよね。
で、そのしわ寄せで我々若年層は労働と言う名の苦しみを背負い続けるわけです。
派遣社員にしても、契約社員にしてもすべてこの「正社員・終身雇用制度」信者の寄生虫どものせいで、労働力の不当搾取に繋がるわけです。
派遣社員や契約社員制度を運用する会社は、とっとと中高年世代の「正社員・終身雇用制度」信者もすべて同じ雇用形態に替えてしまうべきなのです。
「顧客」のためではなく「会社」のためという欠陥構造
私が就職説明会に行った時聞かれたんですよ。
「仕事は誰のためにする?」
私は答えました。
「上司のため」
すると、その人は「顧客のため」と答えました。
まあ、経営者ならばその回答は間違いないと思います。
私は自分の回答は今も間違ってないと思います。
どう考えたって、日本の会社は「顧客」のためじゃなくて「上司」のために仕事する構造でしょ。
いやあ、当時は私は学生でしたが我ながら社会の本質をよく捉えていたと思いますよ。
まあ、営業や接客業など一部職種では顧客のために仕事をしている方もいるかとは思いますが、それも結局は顧客のためではなく上司や会社の評価を得るためです。
根本的に日本の会社は「会社のために働く」構造になっているんですよ。
顧客のことを考えなかったために、極一部の大企業た外資会社に市場とられまくっている日本の企業を見ていればこれは間違いないと言えます。
「正社員・終身雇用制度」信奉は原則として「会社のために働け」が第一です。
会社の命令に背いてでも顧客のことを考えられる人間なんていないでしょ?
守れもしない経営理念はとっとと放棄しろ
朝礼で経営理念を叫ばせる会社ってありますよね。
完全に宗教的じゃないですか。
しかも、組織構造的に実現不可能な理想論ばっかり叫ばせるんでしょ。
完全にカルト宗教じゃないですか。
「正社員・終身雇用制度」信奉が宗教であることの裏付けが増えていきますねー。
経営理念叫ばせる前にもっとたくさんすることあるはずです。
宗教じみたことはやめて現実をみましょう。
いい加減、目を覚ませ
このように「正社員・終身雇用制度」信奉は無自覚な宗教として存在し続け、日本社会を蝕み続けています。
正社員のメリットあんの?
そもそも「正社員・終身雇用制度」信奉が日本社会を窮屈で生きにくいものにしていることは明白なのですが、それでも「正社員」という雇用形態にメリットはあるのでしょうか?
もちろん、正社員として雇用することで高い生産性を発揮できる業種もあると思います。
逆にそうでない職種も腐る程あると思うんですよね。
厚生年金もアテになりませんからね。
年金自体、本質は政府=投資素人への投資信託ですからw
とりあえず「正社員・終身雇用制度」信奉をやめて、様々な業種の雇用形態の在り方を徹底的に改善していかなければ雇用状況の改善なんて見込めませんよ。
雇用形態の多様化は必然
一度、全員「正社員・終身雇用制度」信奉のステージから引きずりおろせばいいんじゃないですかね。
バブル崩壊前の勝ち馬乗りで今は座って部下に怒鳴ってるだけで金貰ってる奴なんかも、我々若年層と同じ就職難のステージまで引きずり降ろせばいいんです。
それこそ資本主義に乗っ取った正常な競争原理を生み出します。
無能は淘汰され、生産力の高い人間が真に評価されます。
これが健全な資本市場・競争社会の在り方です。
「正社員・終身雇用制度」信奉を引きずったまま、派遣社員や契約社員などの制度を取り入れるからわけのわからんことになるのですよ。
時代の変化を見ないふりして仕事してきた代償
時代の変化に適応できない人間が多すぎます。
日本の大企業なんて「Google」と「Amazon」に市場とられまくってる時点で大した仕事してないところが多いんですよ。
インターネットが出てくる前に築いた資本力と組織力と知名度がでかいから、今も存在しているだけで。
これは「時代の変化を見ぬふりした仕事」「ユーザーニーズに応えた商品を出さなかった」ことのつけです。
で、こういう時代の変化に合わせなかった大企業や政府のつけが我々若年層にしわ寄せとして押し寄せて来てるんですよ。
で、若年層も若年層で文句言いながらも「正社員・終身雇用制度」信奉に縋っている。
もういい加減、問題の先送りはやめましょう。
もう「正社員・終身雇用制度」信奉はやめよう
このように「正社員・終身雇用制度」信奉という名の宗教は日本社会の癌です。
労働者・会社・消費者・政府・社会・家庭…あらゆるものを蝕み続ける社会害悪です。
こんなバカげた思想は捨てて、みんなで新しい時代を創っていきましょう。
「私はロボットではありません」
今日、私ははてなブログに登録し、つれづれなるままに文章を打ち込んでいる。
そこで、早速大きな壁とぶち当たることとなった。
私はロボットではありません
はてなブログに登録するためには「私はロボットではありません」という確認項目に同意しなければならない。
私は深く悩んだ。
それは、私がロボットでない証明ができないからだ。
哲学的至上命題
これは「自分が何者であるか」という哲学的至上命題だ。
果たして、私が実は誰かに作られた人間に限りなく近いロボットでないと証明はどうしたらできるのであろうか?
私の記憶は本当に私のものなのか?
私の行動は全て私の意志で行っているものなのであろうか?
実は誰かのプログラミングのもとに作られているだけではないのだろうか?
これを完全に証明することは、残念ながら我々人間にはできない。
人類史上、多くの暇を持て余す形而上学者たちが頭を悩まし続けながらも、決して答えに辿りつくことができなかった難題をこの「はてなブログ」は容赦なく突きつけてくるのだ。
つまり「はてなブログ」とは、
「我々がロボットではないための証明」への戦いなのだ。
ロボットではないと信じぬけ
証明できないのならばロボットではないと、信じ抜くしかない。
はてなブログの登録者は、自分がロボットでないと信じぬける、尊い意志を持った強気人々が集う。
だからこそ「日本死ね」という実に人間らしい言葉も生まれてくる。
「私はロボットではありません」と自信を持ってクリックできるからこそ、我々は人間的悩みにとらわれながら情報を発信し続けることができるのだ。
そう考えると「はてなブログ」は実に面白い。
我々がロボットではないことをクリックだけではなく、言葉で伝えていこうではないか。
「私はロボットではありません!」