サイレンと昼(ラジオ体操第一)

FY15になってから静岡によく来ていて、5億年ぶりに更新している今も、静岡に居る。

去年から総合職になって、私の人生においては大躍進、
しかしどうにも周囲の都合のいいように扱われるし能力が飛び抜けて高い訳では決してない私は、
なんだか悩んだり燻ったり文句ばかり垂れたり綺麗事を吐いたりしながら他人が居る時は笑って、一人の時は真顔で過ごしている。

仕事においては、まだまだ大した成果も上げていないけどつまらないタスクはたくさんあって、
男性集団で私だけが浮いており、「うちの部署は男子高校生(35〜30歳の男性社員)と保健室の先生(私)」と支店長に評される始末。
新幹線や特急での移動も増えてきたが、その移動で疲れないようにアンド最大限に仕事を出来るようになりたい。
なんなんだあれ、なんであんなに疲れるんだ。あとwi-fi、トンネルで切れるな。くだらない。

最近弊社にはイタリア人(5ヶ国語ok)がやってきて、今のところ一緒に行動することが多い。
こないだ出張先でサイゼリアに連れて行ったら「真イカとアンチョビのピザが美味しいですね。そして私のオススメのデザートはチェリーとラズベリーのミルクジェラートです。」と、私よりも常連だった。
でも漢字が読めないので諸々の説明や御守りをするのが本当に心労。

業界の知識とか語学力とか、色々向上させなければならないことは山ほどあるのに、
目先の忙しさに殺されて行動が伴ってない。それでまたため息が出る。なのに休日はずっ…っと寝てる。
そろそろキャパシティがグワッと広がって、諸々辛く感じない日々に移行できると思うのだけど、
きっかけは何だろう。早く見つかるといいのに。

私生活についてはあまりない。
美容院と岩盤浴とデパートコスメ売り場に行く回数が増えた。
友人とは家で遊ぶことが多くなった。
でも友人のうちでは料理を教えるという体で全部私が作ったり、私のうちでは後片付けが全部私の役目だったりと、
一点の曇りもなく楽しい、ということはない。
合気道とフラダンスの習い事のお誘いを受けたけど、どちらも見学すら叶ってない。
今、私の人生において史上最高につまらない人間であることは確かだなあと思う。


仕事の忙殺と私生活の空虚の救いをマニキュアに求めすぎている。爪がよく欠ける。

ほろほろの鮪を漁港で食べた翌日に自分で茹でたささみが同じほどほろほろだったときの自信

修羅みたいな酒の席で「いい加減ブログ更新しろよ!」と言われたことは覚えている。
それ以外あの夜の出来事で覚えているのは友達の彼女に気遣われたことと、途中の駅からタクシーに乗って、運転手さんに呂律の廻らない状態で賢明に話しかけて(私完全に酔っぱらいで恥ずかしい…)と思ったことくらい。区切りがついた気がした気がする。



それが1週間ほど前の、私の独立記念日なんですけど、ようやく自炊の備品が揃ってきました。
私の「自炊してます!」ラインは【米とみそ汁と常備野菜】で、今日やっと米を炊くことができ、無事「自炊してます!」ラインを突破しました。

独立記念とほぼ同時期に「わたしのウチには、なんにもない。2」というバブルやトイレットペーパーパニックを経験している人が見たら戦慄するような持たない暮らしをしている人のエッセイまんが?を立ち読みしてしまい、ただでさえお金を湯水のごとく使うことにストレスを感じる清貧堅実庶民の家柄のわたくしは歓喜、「不便を美学とするのは滑稽だが、無理のない程度に簡素化して暮らしをスムーズにするのに、何の抵抗があろうか!」
…ということで、意識だけは持たない感じ、生活を整えるものだけを選び取ろうと躍起になる中で、なかなかカーテンとシェルフが選べず質素な生活をしています。

しかし料理だけは修行のつもり、もしくは根拠のない自信の裏付けをはかるべく邁進しておる訳なのです。
醤油を目分量したときにどれほどの味の濃さになっているか皆目見当が付かないような壊滅的な人も世の中には居るけれど、決して私はそうではない。
その証拠に今晩始めて手をかけた茹でささみは最高に柔らかくて、やはり天は私の味方だ、と悦に浸りながらかたや失敗した半熟以下のゆで卵と共に頬張る。
赤玉ポートワインがくそ甘い割りにほろ酔いいい気分にしてくれるので、あとから恥ずかしいの覚悟で更新してみました。

このあとは実家では好きだったはずのアイロンをかけ、マツキヨもセイユウも行ったのにクナイプを買い忘れたお風呂にゆっくりと浸かります。
はやく生活が整い軌道に乗るといい。ついでに私及び周囲の人々の人生の転機としてほんのちょっと寄与すればいい。

E233-1449

田端からしばらくの山の手線と京浜東北線は並走しているけれど、各ホームで必ず先頭が揃った位置で停車するわけではないらしい。
さっき向かいの目の前の位置で乗って居た人たちを覚えておいても、次の駅ではずれてしまうので、なんつーか、ドラマの発生する率は薄まる。
少子化ってこういうところからじゃない?

どうしても握り飯が食べたかったのに珍しく炊けてる米がなかった。

大人は日中の屋外では走らないんだな、と気付いた。


乳がんになった。

父が作った野沢菜とお揚げのお吸い物だと思ったら、汁がひたひたに残った煮浸しだった。

自転車でいったときのまとめ

◇夕焼けのハイビーム、ここで異世界に行けたとしたら戻ってこようという気にはならないかもしれん

◇川沿いに高校が2つ、養護学校など乱立している、何かよい効果があるのかしら。

◇せせらぎを聴き流れを眺め美しいと感じることの仕合わせよ、ああ!

◇鴨が何匹も泳いでいる。はて、くちばしの先はあんなに赤みを帯びていたろうか。もっと銀杏のような黄色だったように思うが、目の前を悠々と泳ぐ彼らの口先は柿がやわらかく熟した時の色。私の思い違いだろうか。それとも季節により多少の色味の違いが出てくるのだろうか。もみじのように。いやまさか。

◇濃い橙色のフリースを着た男児、ランドセルは柿色のものを背負っている。フリースとランドセルの色が溶け合って、夕日に向かって歩く少年はそのまま太陽とともに沈み夜に溶けてしまいそう。
しかしランドセルが柿色とは、多様性に寛容な時代となりつつあるのをひしひしと感じる。私の頃でようやく学年、いや学校に指折り数え足り得るほどしかいなかったが、いまや、このあり様。よいことと思う。そもそも色なんて何色でも構わないのだ。そして365日6年間使えるカバンもそうそうないわけ。人生初の重要な選択。

 それ の中には経年変化が含まれています

人の顔面はもう長らく生きてきてずっとそれだしこれからもおそらくはそれだし何より今それであることが現実事実なのだから、造形に対する漠然とした評価を叩き付けることになんの意味があるのでしょう。

今月のもくひょう:本質をみましょう

目白駅を出て左、目白通りに沿ってつつ、と歩くと今月いっぱいで店じまいをする古書店があります。
けして広くない店内に小説やら研究書やらがびっしり。
奥まった真ん中には人の良さそうなおばあちゃんが座布団に正座しているし、
その奥は居間になっており畳とテレビとさらにおばあちゃんがいて絵に描いたような佇まいです。
「閉店セール全品半額」広告の裏に油性ペンで書かれた張り紙を見つけ、なにかいい本はないかしら、と目を泳がせます。
書生さんにでもなった気分で吟味し、カバーもない岩波文庫を二冊、買いました。しかも二冊で百円!

昭和四九年八月二〇日、第二三刷発行の惜しみなく愛は奪ふ(有島武郎著)
昭和四九年一月一〇日、第三六刷発行の門(夏目漱石作)

四〇年近く前の本は、紙が外側からほんのり焼けており、序盤は文字もほの薄い。
経年劣化が激しいけれど、丁寧に扱われていたようで折り目や書き込み、食べカスなんぞとは無縁なごようす。
少し焼けただけでそれ以外は内容もまったく色褪せていないのにたった五〇円になってしまうのがとても不思議で。
本の値段は内容とは関係がないことに気付き、少しの腑に落ちなさを得ました。

だから私は若い女の子に媚を売るオジサンや写真家の気軽なフォトSNSを有り難がる一般市民に辟易するのです。