ややや

頭の中身を取り出して虫干し

無題 (夢現話)

小高い丘の上に少女がひとり、立っていました。かがやくブロンドのおさげと、白いワンピースの裾を風になびかせながら、遠くを見ていました。空は青く、地はどこまでもあおあおとした緑で、それ以外のものは見えない不思議な場所でした。何を思うでもなくただ遠くを見ているとふと、丘を駆け上がってくる生き物がありました。


あっという間に彼女の目の前まで走って来たそれは、黒と白、それに少し茶が入った色の、毛のつやつやとした大きな犬でした。

あっ、と思うよりも前に、その犬は彼女のおさげをぱくっと咥え、むしゃむしゃと食べてしまいました。はらりとほどけた彼女の髪はやわらかな癖毛で、その姿は少女とも少年ともつかぬ姿に見えました。


おさげを食べた犬は、彼女に親しげに呼びかけました。犬は「この丘をおりて、知らないところへ行こう」と言いました。その時、彼女は自分が誰なのか、ここがどこなのか、いつから、なぜここにいるのか、何もわからないということに気づいたのでした。


犬は返事を待たずして彼女の前に伏せ、背中へ乗るよう促しました。彼女が犬にまたがり、そろそろとやわらかなお腹に腕を腕をまわし、しっかりと掴まった途端、犬はひといきに駆け出しました。


風をきってぐんぐん進む犬をひしと抱きしめながら、その体温と毛の感触を全身にかんじながら、彼女はふと「わたしがずっと望んでいたことは、これだったのだ」と心の底から感じました。


次に気がついた時、年老いた彼女の目に映ったのは、目の前で静かに眠る愛犬の姿でした。


おわり




(補足)

寝つけない時、何かキャラクターをひとつ構えて、それを動かしているとスッと眠れるとどこかで見て以来、たまにそれを試す。その時に出来た話を目覚めてから記憶が薄れないうちに書き残したものを清書したもの。

眠れない時というのは、あれこれと考え事をしてしまう時で、そんな時にキャラクターを動かすことに集中すれば眠れると言ったって、集中を遮ろうとする考え事をはねのけること自体がまず難しいことだなと思う。つまり、ある程度すんなり話が進んでいる時は半分意識が落ちかけていて、でもその次どうなる?を考えてはいるので、まさに夢現という状態だなと、起きてから振り返ると思う。話を考えている時は現9割程度に感じるが、振り返ると意外と夢現半々くらいなのだ。

というわけで、改めて読むと今の私の深層心理がぼんやり反映されているようなお話だと思う。これが夢日記の範疇なら辞めたいが、違うなら記憶があってそれなりに気に入ったものはぼちぼち記してみようという試み…。

ながいまえおき

「ねえ、きれいなものを言い合いっこしてみようよ」

「きれいなもの?」

「そう。たとえば、海辺に落ちてるいろんな色のシーグラス」

「うーん、じゃあ、金木犀が散ってじゅうたんみたいに一面黄色い地面とか」

「いいね。その場所の香りもきれい」

「あっ、それなら、そのときの澄んだ空気も」

「冷たい風が吹いて、長い髪が顔を隠す瞬間も」

「あー、もうすぐ冬がくるんだなーってわかるにおいとか」

「暗くなっちゃった帰り道の、まちの光がくっきりして見えるとき」

南天の実が雨に濡れてつやつやぴかぴかしてるところ」

 

「あっためた牛乳の膜にしわが寄ったところ」

「セーターを着た人の手首」

「長ーいコートを着た人の背中!」

「光に沢山集まってくるカメムシの背中」

「えーっ、それのどこがきれいなの?」

「黄緑色がきれいだよ。見るだけならね」

「うーん…言われてみればそう…かも」

 

「白い粉がついたぶどうは?」

「それなら、白くてつるんってしてる紙にくるまれたカステラも」

「それを、うやうやしくひらく瞬間も」

「そのカステラの、光ってるみたいな黄色も」

「フォークで押したときの感触」

「口でとろけるたまごの味も」

「なんだかお腹すいちゃうね」

 

「じゃあ、くっきり浮かぶ丸い月!」

「反対に、もう見えないくらい細ーい月」

「まばらに降る雨が何かに当たってぱらぱら言う音」

「眠れない真夜中に聞く、風が強く吹く音」

朝顔を洗ったら、はじめて水がつめたく感じるとき」

「はじめて息が白くなったとき」

「それを発見したときの友達のかお」

 

「きれいなもの、いくらでもあるね」

「そうだね。また言い合いっこしようよ!」

「うん。それまでにもっと沢山、きれいだなって思うものを見つけなきゃ」

「そんでちゃんと、覚えとかなきゃね」

 

 

 

あとがき:

心がすさんでいる気がしたので、春はあけぼの的に「をかし」と思うものを羅列したかった文章。

をかしとか、エモいとか……言葉にしてしまえば、似たようなフィルターで写真に収めてしまえば、直ちに陳腐化されてしまうような沢山の物事を、いかにそのままの状態で保存できるか度々考える。

自分が文章を書く原動力は、それがほとんどかもしれない。現実にないものを具現化する・現実よりも派手に見せることよりも、剥製や標本のようにいつでも同じ鮮明さで見返せるようにすること。言葉が少し違っても、リズムが悪くても情景や体験は立ち上ってこない。

願わくは、他の人にも同じ温度や匂いや色や…が伝われば、と思いつつも、現実は自分で読み返しても「なんかわかるけどちょっと違うな~」程度だから難しい。まあ大体そんなもんだなあ。

ねむれないよるに

Googleで「死にたい」と検索すると相談ダイヤルが表示される。

では「生きていたくない」だとどうか。

結果は同じだった。

 

打ち込んだ当人としては全く違うから、言葉は難しいと思う。側から見ればこの精神状態は同じであろうか。Googleでなく人間から見ても。

まず希死念慮はない。痛いことも苦しいことも嫌いだ。周囲に面倒ごとを背負わせるのも全く本意ではない。そして「〜〜したい」という積極的な欲求が薄い。

対して「〜〜したくない」という消極的欲求ばかりつのる。「働きたくない」「考えたくない」「社会に参画したくない」極め付けが「生きていたくない」。

 

時世を鑑みて"コ口ナ鬱"だろうか?と思われるかもしれない。しかし当人としては違う。もっと前から、時間をかけて熟成した答えのようなものだ。熟成よりむしろ色々が薄まってしまった状況とも感じられる。

この「生きていたくない」は今まで複数人に吐露してきた。励まされたり、同調してもらったり、様々な反応を得たが特に変わることがない。ただふと「生きていたくないな」と思う頻度が増えている。

 

生きていたくないがために起こした行動もある。まずその原因を沢山考えた。そしていつも「自分への期待がない」ところに行き着く。人生はニャンとかなる、と言うがニャンとかする気がない。ニャンとかしたい気持ちより薄ぼんやりした面倒臭さが勝つ。

遺書も書いた。死のうと思ったのではなく、スカイダイビングをすることになったのがきっかけだ。「死んでも一切責任を問いません」という旨の契約書にサインをするので、死ぬ準備はいるだろうと考えた。なにせ自分が死ぬことで周囲に面倒ごとを背負わせたくないのだ。結果死にはせず、絶景を見て「やっぱり生きていよう」と心を入れ替えもしなかった。

しかし収穫もあった。遺書を書くためには自分の死後を想像することになる。普段はあまり考えの及ばないことで、すこし愉快だった。少なからず悲しむ親族を想像すると申し訳なくはなったが、20分で仕上げられた。書き終わる頃には「みなさん私が死んでも心安らかに生きてください」とやわらかい気持ちになった。

またどうやって死ぬのが良いかを、なんとなしに考えている。決して自死ではなく、轢かれる・羅患するといった受動的死である。親族の辛さを最小限にできる方法を想像するが答えは出ない。積極的に調べることもしないので、自分の想像の限界にとどまる。そして気がつくと生活に気を取られている。

 

「生きていたくない」を今のところ生活が上回っている。生きる活動と書いて生活。生きていたくなくても活動を問題なくしている内は正常の範囲内なのだろう。正常が何かわからないが、そう思う。

 

死ぬこともままならないのなら違う答えが必要になった。(ままならないかは試していないが、面倒臭いので試さない。)考えた結果ひとつ着地点を得た。ひとまずそれを標に生活の中身を変えようとはしている。今のところ前向きだ。前が何かわからないが、恐らくそうだと思う。

 

 

とても暗く湿った、とりとめのない文章になってしまった。この内容をこの場に書く特別な意図はない。あまりにも眠れず、これを書くに至る。

目をじっと瞑るも思考がぐるぐると巡り続けとうとう1時間が経ってしまった。そこで、はじめからおしまいまでをアウトプットすることで決着をつけることにしたのだ。思考が何故かブログの文体になるタイプの人間であるためブログの形をとった。

今回は短文で簡潔に書くことを目標に書いた。普段の冗長さと比べて大分すっきり書けたのではないだろうか。頭の中の文字を吐き出したので是非すみやかに眠りにつきたい。こんな夜はしばらく御免だよ。

 

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「偉そう」は偉くないことを示す

この頃、文章を書く仕事が増えた。

お偉いがたに読まれるべく書くものから、平日昼間にカフェで駄弁っているような女性らを想定したものなど少し幅がある。予期せず始まった仕事がほとんどで慣れないし、生身の自分の人格がブレていやしないか少し心配になる。

 

そんなこんなで「私、少し前はしょうもない文章を結構書いてたはず…」と思って久しぶりにログインしてそれぞれ読んでみるとしょっぱなから赤面。なんやこいつ!!!と指さしたくなる気持ちを抑えて読んでいくと、それなりに気合いを入れて書いた覚えのあるものはそれなりに読み応えがある。というか単純にどれも長い。

中身の良し悪しを一人で語ってもしょうがない。やっぱり絵も文章も継続して書くほかないなと思った。インプットとアウトプットの繰り返し。そういう意味では最近個人的に書くものといったら、140字を長々と繋げるような投稿としみたれた日記と、くらいのもので、さっき読み返して赤面したような文章さえ書ける気がしない。絵も同じく。

 

仕事で書いた文章を目上の人に「偉そうな文体」という言葉で褒められた。果たして本当に褒められているのか合点がいかないままだが、当人がそう仰るので有り難く受け取った。確かに今の文体は「である・だ」調であることを除いても偉そうかもしれない。これは、大学で提出してきた数々のレポートや、今の仕事で書く文章において、「それっぽく」あろうとした結果なのだけれど、他の人からすると行き過ぎているのだろうか。文章を書くというのは難しい。

さて、もうすでに冗長気味ではあるが。

私は「私って表現力には自信があってェ」などとは全く思えず、いつも「なんだこいつ…」と思いながら自分の文章を延々添削している。今までに出会った中で秀逸な表現力を持つ人たちを脳裏にちらつかせては、比較もできないなと落ち込む。時たま「語彙力がある」「表現力がある」という趣旨の感想を言われると「何を言っているんだ…」と思うが、確かに今の環境で「この人の言葉は!」と感じることは基本的にない。もちろん好みの問題もあるし、内容に感嘆することは多々ある。

周りを見て焦らない状況でもっともっとと思うのは難しい。幸い、提出する文章に関しては上司がかなり詳細に赤を入れてくれるので油断はできない。面積に対する赤色の分量が減っているのを見て心の中でガッツポーズをとることもあるくらいだ。でもやっぱり私は自分のために書きたい文章を書いて、書いて、自分で推敲することをしなければ、褒められても腑に落ちず、自分一人でよくわからない誰かと比べて落ち込むことしかできないなと思った。だからまた、一人で壁打ちするようなブログを書いてみようとも。

 

ということを書くだけの文章がこれほど冗長になるのだから道は長い…。

続くかわからないし、続いても飽きてまた唐突にやめてしまうかもしれないが。よくある口語体のラフな文章以外でも馴染みよく伝わる文章が書けるようになりたいな。

 

(本人や周囲の人の目に入れば一発で私とばれる表現なので、できれば見つからないでほしい。が、むしろこれが誰にどうやって見つけられるのかというインターネットの片隅のほこりレベルのページなので思い切って。エイヤ。)

中華

 

中華が食べたい。

 

深夜2時、夜勤の休憩時間、自販機にガコッと音をたてて落ちた缶コーヒーに手を伸ばしながらふと思った。プラスティック製の透明な蓋を持ち上げたその手をするりと隙間から滑り込ませ、手探りで缶を掴む。手袋越しにその温度が伝わり、手のひらから少しだけ温められた血液がまた冷たい方へ戻ってゆく。

 

まず頭に浮かんだのは天津飯だった。

ふわふわの卵の上につやつやとろりとしたあんがたっぷりと被さり、卵の黄色とあんの深い橙色のつやの組み合わせは、こがねいろを湛えておりその見た目にすでに感嘆する。こんもりとしたその頂上には緑の鮮やかなグリーンピースが彩りとしてちょこんと鎮座していて、その不自然なまでに完璧なコントラストはかえって子供じみたおもちゃのような印象を与える。

グリーンピース、そう、グリーンピースが問題なんだよな。あいつはいないと見た目が寂しいが、子供のころからどうも好かない。一つ一つは小さくて、食感も少し水気を欠いてもさっとしただけ、大した味の主張も持ち合わせていない、それだのに何故だか存在感があって無視できない。あいつがいるな、と集中できないような気がする。

でも天津飯には、そんなことはまあいいかと思えるくらい、存在感を持つ具が他にごろっと入っているのだ。白とピンクの縞模様が輝きすら感じさせる、ぷりぷりとした海老。店によっては小さい貧相なヤツが出てきて、なんだ、ちぇっ、と気持ちが冷めてしまうこともあるが、ごろっと大きな海老が数尾だけ入っている時は宝を掘り当てたような高揚すら感じる。そういう時はこっそり一尾残しておいて、最後の一口をそいつと一緒に締める。

あとはキクラゲだ。海老と並んで天津飯を盛り上げる食感担当である。どこの店でも出会えるわけではないが、幼い頃に家族と行った中華料理店で食べた天津飯で出会ってからは、キクラゲがないと物足りないと感じてしまう。黒く怪し気な見た目に反してコリコリとしたコミカルな食感はふわふわとろとろの天津飯の中でとても際立つ。

個性豊かな面々に程よい粘度のあんが絡み、全体をまとめる。蓮華を口に何度も運んでいるうちに身体はすっかり温まっている。

 

そうだ、小龍包も食べたいな。

蒸篭の蓋を取るとたちまち、真白な湯気がもわっとたちこめて、宝箱を開いた浦島太郎さながらである。白い湯気が引くとお行儀よく並んだ白い塊が揃ってこちらを見上げている。綺麗につけられた細かい皺はその頂上できゅっとまとめられ、かわいらしいツノを作っている。

蓮華にのせて箸を入れると、あっという間に澄んだ琥珀の肉汁が溢れ、一気に食欲を刺激する。しかしここで慌てて口に運ぶと痛い目をみる。かわいらしい見た目をしてはいても、その内に秘めたる熱さは攻撃的だ。箸を入れたところから、湯気を適度に逃し、頃合を見計らって口に入れる。それでもやはり余裕をもって咀嚼するにはまだ十分熱いが、はふはふと口から湯気だけを洩らしながらその熱さを楽しむのがまた良い。肉のうまみが染み出した琥珀のスープ、薄いながらももちもちとしっかりした食感をもつ皮、中に大切に閉じ込められた具、その三位が一体となって幸福感をもたらす。

一つ一つはそう小さくもなく、しっかりと食べごたえがあるけれども、ふたつ、みっつと箸が進み、熱々のうちに蒸篭は空になってしまう。

 

ああでも、青椒肉絲もいい。

そう、筍。あのしゃきしゃきと噛み心地のいい筍の細い短冊はいくらでも食べられそうな気がしてくる。やはり筍は春に食べるものというイメージが強いが、青椒肉絲に入った筍は一年中のいつでも食べたくなる。

ピーマンは緑と赤の二色、肉もあわせて全員が全員、同じ細さに切り揃えられている。白い皿に盛られると、筍の黄も合わせてとても彩り鮮やかでありながら、その細長い具の混ざり合わさった様は端整で誠実そうな印象を受ける。

ごま油の香ばしい匂いが鼻に届くと、大皿にこんもり盛られたそれらを全部ぺろりと平らげてしまいたくなる。これもまた、とろりとしたあんが具をコーティングし、野菜のしゃきしゃきと肉をいい塩梅でまとめあげている。

 

青椒肉絲と並んで思い浮かべるのは、酢豚だ。

こちらも同じくピーマンの緑と人参の橙が色鮮やかだが、たたえる雰囲気はガラリと違う。一つ一つの具は乱切りされ、ごろごろととても賑やかである。ぱりっとしたピーマン、しゃきっとした玉ねぎ、そして食べごたえの大きい豚肉。一つ一つの具を口に放り込み、顎を一生懸命動かして咀嚼するのは一苦労だが、その顎の疲れさえ嬉しい。

甘酢の優しい酸味はそれぞれの野菜の味も尊重している。酢豚に入れる具は、店や家によって様々だが、人参、玉ねぎ、ピーマンの基本が揃えばそれでいい。パイナップル入の家庭的な味も嫌いではないが、やはり店で出される王道な酢豚が食べたくなる。そしてやはり、一つ一つの具にてかてかと光沢を、肉にはもちっとした食感も与えるあんがミソである。

 

 

ここまできてふと、中華の美しさと口当たりの神秘は、あんの片栗粉にあるのではないかと思い当たる。もしそのままさらさらとした液体であればないであろう、あの艶はもうエロスと言っても良い。料理にたっぷり絡みつき、脱落することなく口まで運ばれてくると、中では舌に纏いつく。水溶き片栗粉はエロスだ。しかしながらその妖艶さとともに無邪気さや優しさを兼ね、舌だけでなく心まで包むかのようである。口の中に温かくとろりとしたそれが広がればたちまち多大なる幸福に包まれる。

 

ああそうか、片栗粉か、となにか問答の先に悟りを得たような感覚で缶コーヒーの残りを一気に煽ると、脳内に満ち充ちた中華あんの味と口内に広がる微糖の苦さの落差で現実に引き戻された。気づけば休憩時間が終わる頃だ。身体は大分温まっていた。空き缶を自販機横のゴミ箱の間抜けな口に突っ込み、ぐっと伸びをして気持ちを切り替える。

 

 

ああ、中華が食べたい。

月が箸で猫を食べる

この間「月が箸で猫を食べる」というこの一文からインスピレーションを受けて
ちょろっと文章を書いてみましたが、
高校時代文芸部にて詩作に没頭していたという部内の友人にこの一文を伝えたところ、
 
いいね。きっと月光がふたつの筋になって、すっとさ、猫に伸びてるんだよ
 
と返ってきました。
 
 
なんてロマンチックな見方を持っている人なんだろうと声が漏れました。
いやはや。
 
今の私の周りには素敵な文章を書ける人、話していて即座に機転の効いた巧妙な物言いができる人、言語を操るのがうまい人がたくさんいます。
恵まれているなあと思いつつ、私もそんなふうになりたくてもがいています。
どの層が読んでいるかは知れているけれど、私の部はホームページとブログを持っています。
毎公演ごとに参加メンバーが全員必ずひとつは記事を書く、という習慣があって、そこそこ定期的にみんなの書く文章が読めます。
 
文、ひいては言葉、それらひとつひとつにその人の今までの経験や好みや人柄があらわれると私は思います。
 
ブログは毎度あるお題が出され、それに沿って何かしら書くという感じですが、人それぞれの物の見方がよくわかってほんとうに興味深い。
そんでもって、なんとなくみんな共通しているような、似た者同士のような感じもするのが面白いですね。
それは外部の人から見てもわかるかと言われれば微妙な、小さなものですが、確かにみんな何か同じものを持って集っているんだなあとぼんやり実感します。
 
容姿や振る舞いはもちろんのことですが、発する言葉は、相対する人々にとって大事な指標になります。
この人は自分とわかりあえる人か、どういう考え方をする人か、一緒にいて有益な人か、はたまた全く相容れない人なのか……
ひとことで全てを察することはできないけれど、結局は使う言葉のひとつひとつが、その人そのものをかたちどっていくように私は思います。
そもそも言葉はその人の中からしか出てこられないものだから、言葉がほとんどすなわちその人の限界をあらわすのです。もちろん言語にならない部分は大いにありますが。
 
自分の語彙を増やすことはいくらでも可能です。それってすごく夢のあることだなと、思うとともに、自分はまだまだだなと度々へこみます。
 
 
先の彼女、月光の筋を箸に例えた彼女、
彼女といると、たびたび自分に見える世界を超えたところを見せてもらえます。貴重な友人だなと思うし、この人には一生勝てないのかなあとぼんやり、悔しくもあります。
 
追いつけないなと思う人がいるのは、ずっと悔しさを抱えることに繋がるけれど、その悔しさってありがたいなあと思います。
悔しく思える相手がそんなにごろごろ転がっているとは思えませんし、やっぱりいつかは並びたい、なんなら追い越したい。そう思わせてくれる人がいるだけで、延々自分を更新していけそう。
 
これからは月から差す光を見て、月が地球にお箸を伸ばして猫を食べようとしているのかも、って思えるようになったわけです。ほんのちょびっとロマンチックな気持ちになれる素養を手に入れた!なんて素敵なことなんだろう。
 
とか、そんなことを、ふと考えました。

おはなし

「ちきう、きれいね」
今夜は十五夜、B地区はたいへんな賑わいだ。
子供も大人もみんな集まって暗くて明るい空を見上げる。
月に1度の宴に並ぶのは、美味しいご飯に、楽しい音楽。
飲めや歌えや、それでいて乱痴気どんちき騒ぎではなく、お空の明かりのもとでしっとりと踊る、そんな夜。


「ちきう、どして、青いの?」
「地球にはね、お水があるからよ」
「おみず?」
「つめたくて、きらきらしているのよ。お水はね、覗き込んだものを映すのよ。ほら、少し大きな星のかけらみたいに。
地球には、お水がたくさん、ほんとうにたくさんあって、そのたくさんのお水がお空を映すの。青いお空を映したお水がたくさんあるから青いのよ。
地球の生き物はみんなお水を飲んで生きるのよ」
「おみず、のむもの?」
「そう、わたしたちが星屑のジュースを飲むみたいに、お水を飲むの。ねずみたちがほしぼしの中を泳ぐみたいに、お水を泳ぐ生き物もいるの」
「おみず、およぐの」
「そう」


今宵は月うさぎの子供たちも夜更かしで、青く浮かんだ地球を眺める。
「ちきう、きれいねえ」
「そうね」
「ちきうにも、おいしいもの、たくさん、あるかな」
「どうだろうね」
「ちきうにも、ねこ、いるのかな」
「いるのかもね…」
………


「こないだは、流鼠群がいちだんとすごかったそうね」
「おかげでC地区はてんてこ舞いだそうよ」
「どうりで今月は豪華なのね」
「あなた、三毛猫はもうお試しになりましたか」
「ええ、ええ、あの甘じょっぱいのが癖になりますね」
「おかあさま、もういっぴき食べてもいいかしら」
「もう、あとひとつにしておくのよ」
「うちの子、黒猫が大好きでしてね、すぐに2、3平らげてしまうんですのよ」
「そういえば、今月はペルシャもいくらかありましたわね」
「わたし、お隣さんにお願いして少しいただきましたわ!エスニックでとっても素敵でしたのよ」
「まあ!羨ましいわ」
………

などと大人も子供も夢中になるもの。
それは猫である。


月に住むうさぎたち、月うさぎ。
彼らは宇宙を翔ける鼠を網で掬って捕まえ、食べる。
集めた星屑と一緒にこねると、ぷくーと膨らんで少しふわっとする。月のそこここにある穴ぽこに埋めて3日ほど置いておくと、塩気が増す。そんなふうにいろんな食べ方で鼠を食べるのだ。
しかし、月うさぎたちは捕まえた鼠をいっぺんに全部食べたりはしない。
月うさぎたちの居住区であるB地区のお隣、C地区には一帯をぐるりと囲む柵がある。
捕まえた鼠の半分はそこに放しておいて、残り半分を食べる。月うさぎたちは案外少食なのだ。

柵の中でちょろちょろと動き回る鼠はなんのためか、それは猫をおびきよせるためである。
宇宙をふらふらとさまよう猫は、鼠のキイキイだとかぴいぴいだとかちゅうちゅうだとかいう鳴き声を聞きつけると、ぴしゃっと飛んでやってくる。
そうして月にやってきて、鼠を追いかけて夢中になっている猫を捕まえて、地球が十五夜の日の夜に、ご馳走として食べるのだ。

猫を捕まえる方法はこうだ。

星屑の、くずくずになったものを太陽の熱にあてて(太陽の近くを通るとき、こぼれる熱いしずくを拾って、瓶に溜めておいて少しずつ使うのだ)溶かす。そうすると甘いような爽やかなような不思議な匂いがしてくる。
この匂いが猫を虜にするのだ。
溶かした星屑のくずくずを、C地区のいちばん大きな穴ぽこに溜めておく。
鼠を追いかけて疲れて喉が渇いた猫がそれを飲みにやってくる。
ひとくち舐めれば猫はめろめろになってしまって、半分眠ったような、半分酔っているようなふうになって大人しくなる。
この溶かした星屑のくずくずは、食べるときに猫からふわっと香るので、香味付けの役割も持っているのだ。



「おねえちゃん、あのサバトラ猫はどんな味なの」
「あたし一度食べたけれど、あれは少し苦いわ。おかあさま達は美味しいって言ってたくさん食べていたけれど、あたしは一口でいらなくなっちゃった」
「あれはねえ、大人な味なのよ。星屑酒がすすむの」

ペルシャはどんな感じでしたの?」
「お箸で掴むともうほろっと崩れてしまいそうなほど柔らかくて、口の中でふわふわと溶けるんですのよ」
「まあ、素敵ね。一度食べてみたいわ…」
「次の流鼠群もまたすごいらしいですから、またチャンスがあるかもしれませんよ」

「おにいちゃん、あたし、黒猫もいっぴき食べたい」
「またか。これで最後だよ。ちょっと待ってなね」
「あたしももうすぐおにいちゃんみたく、上手にお箸使えるようになりたいな」


今夜のB地区はこんなふうにあちこちが賑やかだ。


猫たちはお鍋に盛られている。黒や白やグレーや茶、色んな色の猫が並んでいる。
月うさぎたちはそれを箸でつまんで食べる。
猫のちょうど前足の付け根の下に1本を、そしてもう1本を背中側にあててきゅっと掴むと、猫はされるがままに落ち着く。
手でつかもうとするとするりと交わして逃げてしまうので、まだ箸を上手く使えない子供は代わりにとってもらわないといけないのだ。

「あーんしな」
「あーーーーん」
猫は頭をすっぽり口の中にしまわれると動かなくなる。そのあとひと思いに吸い込むと、口の中でもちもちして、3回くらいもちもちしたら飲み込み時だ。
月うさぎたちには歯がない。もちもちを楽しんだ後は、つるんと通るのどごしを楽しむ。


「ちきう、青くて、きれいね」
「そうね」
「ねこ、もちもち、つるんで、おいしいね」
「そうね」
「ちきう、ねこいるかな。いたら、青くて、きれいで、おいしくて、すてきね」
「それはとっても素敵ね」
「ね…」
………


「もうすぐ、夜が明けるよ」
「あらもうそんな時間かしら」
気づけば子供たちはすっかり夢の中で、朝日がのぼりはじめている。
「さて、締めに移りましょうか」


宴の後は、残ったねこをつく。
臼にねこを入れて、柔らかい杵でぺったんぺったんするのだ。途中で少し、星屑を混ぜると風味が良くなる。
ぺったん、ぺったん、ぺったん
リズム良くついていると、伸びが良くなって段々と杵を上げる高さも高くなる。
ぺったんこー、ぺったんこー、ぺったんこー
ふわふわもちもちにつきあがったねこは、帰りの手土産になる。

こうして月に1度の宴は終わり、月うさぎたちはまたそれぞれの仕事に戻ってゆく。
こぼれる太陽のしずくを集めるもの、星屑を集めるもの、それらをふるいにかけて仕分けるもの、星屑からジュースや星屑酒をつくるもの、鼠を捕まえるもの……
皆がみな、月に1度のこの日を楽しみに1ヶ月を過ごすのだ。


「おかあさま…」
「あら、目が覚めたかしら」
「ちきうで、ねこを見つけたよ」
「夢を見たのね」
「ちきう、おかしなところだったよ」
「どんなところ?」
「おみず、たくさんあって、そんで、ねこのいるところ」
「そうなの」
「ねこは、ちきうから、やってくるのよ」
「うふふ、そうなの、おもしろいわね」
「ちきう、おいしくて、きれいなとこだったね」
「ふふ、そうね」




オチも何もありません。
ドイツ語学の授業で、「月が箸で猫を食べる」という文が期せずして出来上がったので、なんだかその滑稽な響きが妙に気に入って書いてみたのみ。
レポート書けよな。いつかこの絵も描きたい。