ある作家のメモ

自分用メモ

太陽がなくなること

「いつか太陽はなくなるのでは」

古くから、そういった発想はあったようだ。

 

空が落ちてくる、太陽が落ちて永遠の夜が来る、といった伝説、神話は世界中あちこちにある。日本で言えば、天岩戸の逸話などが有名である。

 

それも無理はないと思う。少しずつ日が短くなっていくという現象が確固としてあるから。

 

何ら予備知識なく、日が短くなっていくことに気が付いたら、かなり恐怖を覚えるのではないだろうか。

 

だから日が短くなりきり、再び長くなっていく日、太陽がなくなるのではなくもう一度復活する日に、わざわざ名前をつけたのかもしれない。冬至と。

 

冬至を過ぎてほっとする思いは、今の僕と、昔の誰かとではかなり違うのかもしれない。

僕がすごく厳密な性格だという話

僕は厳密な性格だという話をここに書き残しておく。

 

昔、ヤクザの車にぶつけてしまって、トラブルになったことがあった。

 

ヤクザに、そいつが経営しているらしき居酒屋に連れていかれて閉じ込められ、ひとしきり脅され、個人情報を控えられる。

 

その後、どう落とし前つけるんじゃという話になる。

 

さて、ここで僕が色々と交渉したところ、このヤクザはいくつか条件を出して来た。それは五つほどあったと思う。一番目が一番シンプルで、現金を払う。百万行かないほどだった。

 

それ以外は、ヤクザが経営する風俗店に関連するものだった。一つ、次にオープンする、あるスポーツをモチーフとした風俗店で働く、若い女を一人提供する。一つ、女性の尿をペットボトル20本分提供する。そう簡単に用意できず、難儀しているらしい。他にも二つ条件があったが、残念ながら忘れてしまった。

 

僕は厳密に質問した。

 

若い女性といっても何歳以下なのか。数え年でもいいのか。何ヶ月間働けばいいのか。試用期間を設けなくて良いのか。

 

尿は女性のものならなんでもいいのか。賞味期限(?)は設けるのか。ペットボトルは何ミリリットルのものか。色や濃度はこだわるのか。どれくらいまで異物の混入率を許すのか。そもそも男女の尿をどうやって判別するつもりなのか。女性ホルモン分解物の含有濃度から推測するのか、DNA鑑定をするのか、お前の店はどこまでこだわるのか。

 

ヤクザはうんざりとした顔をした。

 

という夢を見た。

 

最近の若者は問題

「最近の若者は」という文句が古代エジプトの粘土板にも確認される。というのはデマのようだが、思わず信じそうになる説得力を持っている。

 

新しいテクノロジーや言語に対する、老人(というか中年以降か)の抵抗感には豊富な事例がある。

 

トーブが初めて登場した時。家庭の中心となり家を温める暖炉の火と違い、ストーブの火は邪悪で、人を鬱屈した気分にさせ、悪に走らせるものだと考えられた。

 

ガスレンジが初めて登場した時。ガスが食品の味を悪くし、毒を含ませると考えられた。

 

電子レンジは放射線を発生させるから危険だと考えられた。実際には暖炉で石炭を燃やした方が、フライアッシュ放射線が拡散されるのだが。

 

消毒法が考案された時もそうだし、TVゲームもそうだし、車もそうだしインターネットも……抵抗、反対にあったものは枚挙にいとまがない。

 

だがある一定以上生き残ると、次第にそれを受容する人間の比率が増え、やがて市民権を獲得する。

 

たとえば「素敵」という言葉。この言葉は今でこそ、純文学の文中にも普通に用いられる。だが、語源は「素晴らしい」と「~的である」の二つを掛け合わせた、いわば「イケてる」と「メンズ」でイケメンのような、俗語であったようである。江戸時代の若いお姉ちゃんが使い、大人から「昨今の日本語の崩壊ぶりは目に余る」とか言われていたのかもしれない。

 

言葉にせよテクノロジーにせよ、ある程度の抵抗を受けてなお生き残ったものは、やはり有用なのだろう。

 

ということは、この抵抗感は、有用な文化を選り分けるふるいの役割を果たしているとも言える。

 

進取の精神に富む若者、保守的な老人の二大政党制で、新技術の採用不採用を決める会議を行っていると考えてもいい。

 

集団で生きる種であり、年齢層が多岐にわたる人類に適した意思決定機構である。実際、無用、あるいは危険なテクノロジーがこの会議によって歴史のどこかに消えていくことで、人類が危機を脱していたのかもしれない。

 

ただ、この機構には問題がある。少子高齢化によって、二大政党のパワーバランスが激変してしまうことだ。若者が少数になりすぎれば、新しいテクノロジーが人類に採用される可能性は下がり、それは結果として人類の発展を阻害するかもしれない。

 

それは種の老化と表現しうるだろう。

 

 

発想上の盲点

人類の初めての調理は、おそらく炙り焼きのようなものだったとされている。

 

そこから鍋で何かを茹でる、鍋料理が生み出されるまでどのくらいの時間がかかったか。

 

数十万年である。

 

人類はまだ鍋を手に入れてから数千年の歴史しかないのだ。ある意味最近の技術ともいえる。

 

鍋を使うことで、病人や老人も食べられるくらい柔らかい料理を作れたり、焼くには向かない植物を調理できたりと、料理の幅は格段に広がった。

 

でも、どうして数十万年もの間、誰も鍋を思いつかなかったのだろう?

 

熱で調理するのは炙り焼きと変わらないわけで、そんなに難しい発想なのか?

 

やはり、盲点だったのである。

 

火は、非常に扱いづらい道具だった。まず、おこすのが難しい。一度消えると作るのが困難なため、遊牧民族などは火を持ち歩く道具を作ったほどだ。

 

一方、水は火を消してしまうものの代表格である。

 

そんな水を、貴重な火のそばに置くだろうか。合わせて使って、料理をしようなどと考えられるだろうか。

 

数十万年の時間からは、人間の合理的思考が垣間見えるようだ。鍋を発明した人間の発想力に改めて感じ入るものがある。

病気を治すということ

僕は持病をずっと抱えている。あまりにも昔から病気続きだったため、病気に対する考え方も少し人と違う気がする。

 

病気で一番辛いのは、薬を塗っている時だった。

 

薬を塗らなくてはならない、それはつまり自分が薬なしには一般人にもなれない存在だ、という証明である。医学のもたらした福音であるはずの薬は、僕には劣等感の具現に他ならず、塗り付けている時には歯を食いしばっていたものだ。

 

病気の症状そのものも辛いのだが、それはあまりに長く罹患していたので当たり前になっていた。もちろん、慢性疾患に近いものだったからそんな捉え方ができたのだろうけれど。

 

また、病気が治りそうになった時、僕は不安を抱いた。

 

病気があまりにも人生に根付いていたために、それを失うことがアイデンティティの喪失にも感じられたからだ。実はこれは、今でも悩み続けている。治すべきか、このままにしておくべきか。治れば楽になるのだけれど、何か大切なものを失う気がする。ひょっとしたら、小説も書けなくなるかもしれない。僕にとって真剣な問題だ。

 

病気は治ればいいというものではない。薬を出してそれで全てが解決するというものでもない。

 

古き時代の西洋世界。パスツールが微生物を発見し、病気の原因を解き明かしていく時代よりずっと前。病気とは罪の現れと解釈されていた。

 

過去に何か悪いことをしたから、今病気で苦しんでいる、というわけだ。それは泥棒かもしれないし、不倫かもしれないし、ちょっとした嘘かもしれない。全く心当たりがない人などいないだろう。病気で伏せること、病気の家族を持つことは、負い目であった。症状以上に辛い出来事だった。

 

そんな時、病人の家を訪問し、症状を確認したのち「汝の罪は許された」と言う人がいた。イエス・キリストである。

 

僕は、キリストは医者だったのではないかと思う。今の概念で言えば。

 

患者は感激し、涙ながらに礼を言った。その言葉で元気づけられ、本当に治癒する人もいただろう。罪悪感や、劣等感といった心の何かを取り払わねば、人は本当に治りはしない。

 

病気を治すということは、病気を治すということだけでは完遂されない。そう僕は思う。

 

 

犬と黒人と機械

ターンスピットという犬種がいる。ただ、現在はもういない。必要がなくなったからだ。

 

この犬は、短い脚と長い胴を持ち、車輪状の檻の中に閉じ込められる。そしてひたすらその中で走らされる。

 

回転する車輪の力は滑車を通し、長い鉄製の串を回す。その串には肉が突き刺さっていて、じゅうじゅうと火に炙られている。

 

ロースト肉を作るための犬なのだ。

 

ローストの語源はローテーションの語源に繋がるそうだが、古来肉とは回転させなければ直火で調理できないものだった。簡単に焦げてしまうからである。

 

やがてロースト肉は串と直火ではなく、オーブンやコンロで作られるようになったが、それまで人間は、肉を回転させるための労働力を常に必要とした。

 

それは犬に始まり、動物愛護団体が怒ると、黒人奴隷になり、それも倫理的に非となると、機械が代行した。アヒルなんかが使われたこともあったらしい。

 

それにしても、心は痛まないのだろうか。その肉を食べられもしない者に、ただひたすら何時間も肉を回転させ続けることに。

 

そう、痛まないのである。痛まないから存在したのだ。

 

僕たちも現在進行形で、何らかのターンスピットの恩恵に浴しているはずだ。

理解できないと理解できること

あいつは話が通じない、理解できない、人だと思えない、常識が違うと否定することがある。

 

話が通じないという現象は相互に発生するので、相手もこちらに対して同じことを思っている。二人とも相手を理解できていないわけだ。

 

理解できないところがある。人間だから理解に限界がある。つまり同じ人間であることを示す、これ以上の証拠はないんじゃないか。

 

犬を食べる人間を理解できない人も、鯨を食べる人間を理解できない人も、お互いが何かを愛し、何かに心を痛め、何かに無自覚で、何かを食べる人間であることは理解できる。

 

それを分かち合い、ほっと安心することができたなら。手を繋げる日も来る。

 

理解できないことは、理解の架け橋になる。

 

むしろ人間が完璧に同質に作られたものでない以上、理解できないことは、理解しあうために人間に与えられた機能だとすら思える。

 

本気で理解する気があれば。