「鬼龍院花子の生涯」

政治資金問題をめぐる不祥事で「離党勧告」の処分を受けた安倍派幹部の世耕弘成参院幹事長が四月四日に離党届を提出し、その際、記者団の取材に応じ「明鏡止水の心境。一番重い処分を誠実に受けたい。冷静な気持ちで政治責任を取って事態を収束させたい」と語った。前にも書いたことだが、処分ばかりでなくその他都合の悪いとき政治家はよく「明鏡止水」を口にする。

そこで『新明解国語辞典』(三省堂)は、《[曇りの無い鏡と静かにたたえた水の意]心の平静を乱す何ものも無い、落ち着いた静かな心境》と語義を示したうえで《[不明朗のうわさがある高官などが、世間に対して弁明する時などによく使われる]》と補足を加えている。さすが「新解さん」、人間と社会の観察が鋭い。

一九八九年六月リクルート事件で竹下内閣が退陣し、宇野宗佑外相が後継首相となったが直後に神楽坂の芸者が宇野を告発してスキャンダルとなり、七月の参議院選挙で自民党は大敗北を喫し八月に宇野は退陣した。このときもニュースで宇野が「明鏡止水の心境」と口にしていて、中学生だった息子がその意味を訊くので、こういうときのためにあるのが辞書じゃないかと子供に引かせたところ、その辞書が「新解さん」でうえの驚きの記述があった!

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乞食と坊主は三日やったらやめられないというが、尾崎放哉、種田山頭火といった乞食坊主の生活はそれほど生やさしいものではなかった。対して派閥のパーティ券のキックバックで私腹を肥やす政治家、こちらは三日やればやめられないだろう。働かなくてよくて、いくら金がかかるか考える必要のないのは乞食、坊主、三流政治家のいずれだろうか?

弁護士、政治家また第三代検事総長だった花井卓蔵(1868-1931)が「古い本を調べますとね、乞食の犯罪、貧乏人の犯罪などはあまり罰せられていない。高位高官の者の汚職の罪。こういうのは死刑を課したものでした、西洋から来た今の法律は、行為を罰して動機を罰しないが、殺した方が善人で、殺された方が悪人だという殺人事件だってあるはずです」と述べていて、いまを照らしている。

ついでながら、明治憲法の最大の問題点は天皇を輔弼する内閣の責任で、「現在は、軍機軍令に関しては、陸海軍大臣のみ輔弼の責任を持っている。軍関係の制度、予算に関しては、内閣は口を出せない。これでは立憲政治とはいえない」。つまり軍はいくらでも政府に口出しできるが、政府は軍に口出しできない。わたしはこの花井の卓見を知ったとき感銘を受けた。

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ことし七月三日に新札が発行される。デザインの一新は二00四年以来二十年ぶりで、一万円札は渋沢栄一、五千円は津田梅子、千円は北里柴三郎の肖像となる。

そこで渋沢栄一の気になるエピソードを。

関東大震災のとき渋沢栄一が、震災は天の下した罰だという天譴論(東日本大震災のときは石原慎太郎都知事がこれをいった)を述べたところ、菊池寛が、だったら栄一がいちばん先に天罰を受けなければならないと反論した。渋沢栄一についてはよく知らないながらこのエピソードでわたしの渋沢評価はよろしくない。

ところが先日、佐野眞一『旅する巨人 宮本常一渋沢敬三』(文春文庫)を読んでいると渋沢栄一の臨終の模様があり、 天譴論のときとは異なり高い見識を示していた。その枕元には孫の渋沢敬三と第一銀行頭取佐々木勇之助がいて、佐々木が「敬三さんがいますから、銀行のことはご安心ください。必らず敬三さんを頭取にいたします」と話しかけると九十一歳の栄一は驚くような大声で応えた。「それはいけません。そんなことは余計なことです。本人にやれる力があれば別ですが、私の孫だからという理由だけで頭取にするのは間違っています」とはねつけるようにいった。このとき敬三は最後まで肉親のセンチメンタルな感情にとらわれず在野の実業家として死んでいこうとする祖父を頼もしく感じていた。

せっかくだから北里柴三郎のエピソードも書いておこう。明治二十 年の初夏、明治日本の軍医制度を確立した石黒忠悳(いしぐろただのり)はウィーンでの万国衛生会議に日本代表として出席した。石黒は留学中の軍医、森林太郎をともないベルリンに立ち寄り、おなじく留学中の北里柴三郎に、三年の留学期間のうち二年がたったので細菌学はそれぐらいにして、あとの一年は衛生学をやるよう命じたところ北里は「だめです。細菌学はこれから一段と重要になる分野。適当に片づけておけるものではありません。専攻している私の判断におまかせ下さい」と拒否した。石黒が「おい、上司の命にそむくつもりか」というと北里は辞職も辞せずの態度で、けっきょく森林太郎があいだに立ち、また石黒も細菌学の権威で、北里の上司だったコッホと会ったうえで北里の主張を認めた。

おなじ年、のちに内務大臣や東京市長となる後藤新平も渡欧してコッホに会い、細菌学についてご教授いただきたいと頼むと、北里の下に配属する、それを承知ならここで学んでもよいとの答えだった。後藤は、役所ではわたしのほうが先輩だが、学者としては北里のほうが上なので彼を師と仰ぎますと応じた。北里と後藤の気骨そして明治という時代の潑剌を感じる話である。

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うえの北里柴三郎の話は星新一『祖父・小金井良精の記』にみえている。同書に、 鴎外の妹で、星新一の祖母にあたる小金井喜美子が次女を出産して、鴎外に命名を頼んだところ、摩尼というえらくむつかしそうな名を示したので、喜美子はすっかり驚いて、夫小金井良精の一字を取り「せい(精)」という簡単な名にしてすませたという逸話があった。

鴎外は長男に於菟(おと)、長女・茉莉(まり)、次女・杏奴(あんぬ)、次男・不律(ふりつ)、三男・類(るい)といったずいぶんハイカラな名前をつけていて、親戚の子供にも名付を頼まれるとおなじような名前にしようとしていたのだった。

きっかけはドイツに留学していたとき、林太郎という発音が外国人には発音しにくいものだったため、子供の名前は世界に通用するもの、 世界に出たとき子供に名前で苦労させたくない 、とくにフランス語やドイツ語でもおかしくないようにと考えたことにあったそうだ。

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マンハッタン計画という原爆開発の過程と、原爆投下をめぐる政治過程を上手に組み合わせ、戦中と戦後を行き来させながら「原爆の父」オッペンハイマーの意識、考え方の変化を追ったクリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」は考え抜かれた作劇術をもとに真正面から原爆という問題に切り込んでいた。その思い、悩みは普遍的なものだが、わが国ではこれに被爆国としての国民感情が複雑さを増幅させる。

戦中は核開発、実験の成功に高揚しながらも投下に疑問を覚えていたオッペンハイマーが戦後すぐホワイトハウスに招かれたときは、業績を讃えるトルーマン大統領のまえで思わず涙を流した。その涙を見咎めトルーマンは、あんな泣き虫野郎を二度とこの部屋に入れるなと怒る。オッピーの人生の象徴的な場面である。

そうして「原爆の父」は東西冷戦、赤狩りのなか水爆開発に反対したことから公職追放された。かれは原爆を超えた叡智に達したのか?トルーマンのいう弱気の泣き虫野郎に堕したのか?原爆投下は戦争終結を早めさせ、永井荷風流にいえば皇国の軍隊による日本占領を終わらせたのか?思いと感情の整理はつかない。

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高知県生まれのわたしは宮本常一『忘れられた日本人』にある「土佐源氏」を、坂本長利の一人芝居「土佐源氏」の舞台を、何度か読み、また観ている。そこから宮本常一の著作に手を伸ばせばよかったが『忘れられた日本人』で止まった。

先日、網野善彦『中世荘園の様相 』(岩波文庫 )を購入して、 ふとこの歴史家が高く評価した宮本常一について少しは知っておきたいと網野本はあとにして『ちくま日本文学 宮本常一』を読んでみた。なかの「高野豆腐小屋」に「あらゆる古いことが消えたように見えてもそれは表面だけのことであって、ちょうど地下水のように古くからの伝統は滾々として村人の生活の底を流れており、また前代を知る古い村の人たちには消えて行った行事もなつかしい思い出として胸の中に生きているのである」とあった。宮本ワールドの肝というべき記述であろう。宮本は古老の語りの多くを、方言のまま忠実にしるしているのもいまとなっては貴重である。

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『ちくま日本文学 宮本常一』を読了。そこで佐野眞一『旅する巨人 』(文春文庫)と『宮本常一が見た日本』(ちくま文庫)を通じて宮本の世界を一望してみた。

佐野は「宮本(常一)はよく旅の巨人といわれる。しかし、その大きさは、歩いた距離にあるわけではなかった。宮本の本当の大きさは、歴史というタテ軸と、移動というヨコ軸を交差させながら、この日本列島に生きた人々を深い愛情をもって丸ごととらえようとした、そのダイナミズムとスケールにあった」という。

宮本常一とかれを指導し、支援した渋沢敬三。ともにたいへんな人たちだったんだな。もしも若いとき『ちくま日本文学 宮本常一』や『旅する巨人 』を読んでいたらわたしの読書傾向はいささか変わっていたかもしれない。それのほど興味深い人生の軌跡であり、学問的な偉業である。

また『宮本常一が見た日本』の二0一0年四月一日の日付のあるあとがきで佐野眞一 が宮本の撮った写真に寄せて《日本人の「読む力」の著しい減退》を指摘していた。「読む力」は人間の身体能力すべてに関わっており、身体能力のすべてを稼働させないとほんとうに「読み」といたことにならないとも。

佐野眞一の指摘の当否はわからない。ただ最近、平山周吉『小津安二郎』、尾形敏朗小津安二郎 晩秋の味』という二冊の小津関連の本を読み、二人の著者の小津安二郎を「読む力」に圧倒された。こちらが恥ずかしくなるほどの「読む力」だった。 故田中真澄氏による資料の編纂、掘り起こしとも相まって小津を「読む力」はこれからもさまざまに提示されるだろう。

いっぽうで、映画ってもっとお気楽に鑑賞してよいじゃないかと考えている。「たかが映画じゃないか」である。古今亭志ん朝さんが何かの噺のまくらで、近ごろのお客さまのなかには昔の速記本と比べながら聞いている方もいらっしゃったりして、ま、それほどのものじゃございませんから、と語っていた。映画、落語を学問の対象にするのはよいが、これらに向かう気分が堅苦しくなっては本末転倒である。

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ビリー・ホリデイのアルバム「奇妙な果実」を聴いた。お久しぶりでした。コモドアに吹き込んだ名曲揃いの名盤は彼女の最高作だ。ただお久しぶりになりやすいのは「奇妙な果実」が黒人の辛苦を歌っていて徒や疎かにできない、片手間には聴けないといった気持が先行するためだ。

「奇妙な果実」とは、リンチにあって虐殺され木に吊りさげられた黒人の死体のことで「南部の木には、変わった実がなる……」にはじまり、木に吊るされた黒人の死体が腐敗して崩れていく情景が描写される。だから聴く前にそれなりの姿勢、緊張を意識せざるをえない。こちらの姿勢が試されているような気がする。

一九三九年十月『ニューヨーク・ポスト』紙のサミュエル・グラフトン記者が「奇妙な果実」について《南部で虐げられる者の怒りが溢れかえるとき、そこで鳴る「ラ・マルセイエーズ」こそこの歌だ》と書いた。

小津作品でいえば「東京物語」はいざ鑑賞となると緊張感が増すのに対して「彼岸花」や「秋日和」「お早よう」などはなごやかな気持で観られるのがうれしい。「奇妙な果実」を聴こうとするときの気持は「東京物語」を前にしたときのそれと似ている。

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春日太一やくざ映画入門』(小学館新書2021)を読んだ。任侠、実録の双方にわたり、東映を主にしながら日活、大映東宝、松竹へもよく目配りしていて、便利な入門書となっている。東映でいえば任侠映画から実録にかけてのころは、高校生、大学生でカネがなくて見逃している作品が多いのでその意味でもありがたい。

さすがに『仁義なき戦い』は公開時に観ている。ところが困ったことに笠原和夫シナリオの四部作プラス高田宏治シナリオの完結篇があまりに魅力的で以後のやくざ映画にさほど食指が動かない事態となった。そのためだろう『仁義なき戦い』以降での春日氏の推しは「アウトレイジ」だが、わたしはむしろ「竜二」や「ヤクザと家族」など変化球的やくざ映画を評価したい。

いずれにせよせっかく『やくざ映画入門』を一読したから、これを参照していくつか当たってみよう。なにしろ「極道の妻」シリーズは三、四作しか観ていない貧弱さである。なおわたしはいま配信で「日本統一」を観ていてようやく二十作まで来た。ときに晩酌の友としていて、お酒でストーリーを忘れても、とちゅうで寝ても、次回はしっかりつながっている。

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春日太一やくざ映画入門』に触発されて夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」が流行語となった「鬼龍院花子の生涯」をみた。ふるさと土佐の高知の話やき、ここからは土佐弁で書くぜよ。

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土佐の高知で生まれ育った者ですけんど郷土出身の作家宮尾登美子の本を読んだことも、原作の映画化作品もこれまでご縁がなかったが春日太一の本を読みゆううちに「鬼龍院花子の生涯」をみるならいまだと、ようやくみましたぞね。

「鬼龍院花子の生涯」。五社英雄監督一九八二年。やくざ映画は好きじゃあが、とくに土佐の侠客に関心はなかったきに四十年あまりみる気は起こらんかったけんど、春日太一氏のおかげでようやく鑑賞した。「なめたらいかんぜよ」は夏目雅子が亡夫の遺骨をめぐるやりとりのなかで義父の小沢栄太郎に放った言葉じゃったとはじめて知った。

夏目雅子の演じた松恵は県立第一高女を出て小学校の先生をやりよった。代用教員じゃないみたいじゃったきに師範学校へも行っちゅうかもしれん。じつは、あしのおかあも第一高女出て小学校の先生をやりよったぞね。師範学校へは行ってのうて、戦中か戦後の混乱のなか講習を受けて教員免許をもろうたゆうていいよった。姿形は月とスッポンというか、満月とホタルばあ違うちょったが松恵の後輩じゃった。

 

オナラの映画

昨年二0二三年は小津安二郎監督の生誕百二十年、歿後六十年にあたっていて、そのためでしょうNHKBSで「東京物語」ほか数本の小津作品の放送がありました。なかに「お早よう」があり、久しぶりの出会いとなりました。

東京郊外の新興住宅地の一角を舞台に元気な子供たちにふりまわされる大人たちをコメディタッチで描いた一九五九年公開の作品です。

小津の映画はどれもこれも娘の見合いとか嫁入りの話なので区別がつかないという人でも「お早よう」は別格で、何よりもオナラの映画として記憶に残るに違いありません。子供たちのあいだで流行しているのがオナラごっこ、子供の一人が相手のおでこを押すと押されたほうがオナラを鳴り響かせる。なかには失敗してパンツをよごし、登校中なのに家に引き返す子供もいたりします。 

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サイレントの時代、小津は「淑女と髯」(1931年)を撮っていて封切り日に追われ五日間ほど徹夜が続いたことがあった。それだけ眠らないでいると食欲はなくなりオナラが出やすくなるそうで、撮影現場では誰かが他人のお腹を押しては自分でオナラをするといった遊びをしていて、小津はトーキーになればギャグとして使えると考えたそうです。

ハリウッドに目を遣るとパラマウントが監督、俳優、脚本部などをほとんど総動員して製作したオムニバス映画(史上初だそうです)「百万円貰ったら」の一編にエルンスト・ルビッチが演出したオナラのエピソードがあります。家族係累に遺産をもたらすのを拒否した大会社の社長が電話帳からランダムに選んだ八人にそれぞれ百万ドルを与えます。なかのひとりに薄給と酷遇にあえいでいる下級サラリーマンがいて、百万ドルを授かったチャールズ・ロートン演ずるサラリーマン氏は社長室に闖入し、口真似で一発オナラの音を高々と社長にかまして溜飲を下げたのでした。 

「百万円貰ったら」は一九三二年、「お早よう」は一九五九年、しかし小津がオナラのギャグを思いついたのは「淑女と髯」の撮影時の一九三一年でしたのでルビッチと、かれを尊敬し、多大な影響を受けた小津は期せずしてほぼおなじころオナラのギャグのある映画を考えていたのでした。

なお一九三三年の小津作品「東京の女」に江川宇礼雄田中絹代がデートでいっしょに映画を観ているシーンがあり、そこで上映されていたのがオナラの一編ではありませんが「百万円貰ったら」でした。

オナラの映画の話題は以上ですが、ここまで来ると次に進みたくなるのは人情でしょう。

昨年話題になり高い評価を受けた映画に阪本順治監督「せかいのおきく」がありました。江戸末期、ヒロインのおきく(黒木華)は、ある出来事に巻き込まれ声を失います。そのおきくが心を通わせているふたりの若者中次(寛一郎)と矢亮(池松壮亮)がいて糞尿の売り買いをなりわいとしています。「臭い」「汚い」と罵られながらも、毎朝、便所の肥やしを汲んで狭い路地を往き来するのです。これほど糞尿の量の多い映画はほかにないのではないでしょうか。

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一九三七年(昭和十二年)火野葦平が中短篇集『糞尿譚』で芥川賞を受賞し、二十年後の一九五七年伴淳三郎森繁久彌らで映画化(野村芳太郎監督)されました。わたしは公開時に見ていて伴淳が汲み取り用の柄杓で糞尿を振りまいていましたが糞尿のシーン、量ともに「せかいのおきく」が上回っていると思います。確認のためにももう一度見てみたいものです。

それはともかく糞尿あってのおきくと中次と矢亮の青春なのです。

映画のテーマについて企画・プロデューサーの原田満生氏は「江戸時代は資源が限られていたからこそ、使えるものは何でも使い切り、土に戻そうという文化が浸透していました。人間も死んだら土に戻って自然に帰り、自然の肥料になる。人生の物語もまた、肥料となる。自然も人も死んで活かされ、生きる。この映画に込めた想いが、観た人たちの肥料になることを願っています」と語っています。
おきくたちが生きた時代、糞尿は農耕に不可欠でしたから、中次と矢亮は屑屋さんなみになにがしかの代金を支払って引き取る、つまり排泄物なのではなくまさしく商品なのでした。

一九0八年(明治四十一年)生まれで東京都出身の作家日影丈吉が『ミステリー食事学』(ちくま文庫)に「大正の中頃までは近在の農家が肥料にするために、舟に肥桶を積んで汲取りに来た。オワイは農耕の必需物だったから、屑屋さん並みに些少の代金をおいて行ったものだ」と書いています。また水洗トイレが普及するまえは汲取りの便を考え便所を家の外側に置いた構造の家が多くありました。都内では関東大震災以降こうした光景はずいぶん少くなりました。

一九五0年、高知市生まれのわたしは農家が糞尿を引き取るのは見たことはないのですが田んぼの隅に肥溜めがあったのはおぼえています。なかは何にもないのもあれば、 自宅から調達したものでしょう 下肥用に溜めてあるのもありました。また祖母の実家の農家の便所は外付けでした。

「せかいのおきく」のおきくや中次、矢亮たちは糞尿を農業に活かし、作物を食卓に供する循環型社会を生きていました。いっぽうでそれは下水施設の不備と不衛生を意味します。 古来、人の世の難問のひとつで、 人類が宇宙に行くようになってもこの課題は着いて回ります。

吉村昭『海も暮れきる』

丸谷才一『横しぐれ』は語り手が四国の松山市種田山頭火(1882-1940)とおぼしい人物が本物それとも幻影だったのかを探ってゆく優れた中編小説で、一読のあとはおのずと山頭火が慕い、尊敬した尾崎放哉(1885-1926)のことが気になってくる。僧形に身をやつし貧窮のうちに病没した二人の風狂俳人はともに 荻原井泉水に師事し、無季自由律俳句を旨とした。また両者とも酒を愛するというよりも酒なしの人生はありえないタイプの人だった。

『横しぐれ』をはじめて読んだのはずいぶんむかしだったが、このほどようやく尾崎放哉の小豆島での最晩年を主にその生涯を描いた吉村昭『海も暮れきる』(講談社文庫)を読んだ。

尾崎放哉(本名 尾崎秀雄)は鳥取県鳥取市の出身、一高、東大法学部を卒業した学歴エリートで、一高の同級生に安倍能成小宮豊隆、藤村操、野上豊一郎、一年上級に荻原藤吉(井泉水)、阿部次郎がいた。中学生のときから俳句に興味をもち、一高では一高俳句会に所属した。その中心は荻原藤吉、また会には内藤鳴雪、川東碧梧桐、高浜虚子ら著名な俳人が招かれその指導を受けた。

いっぽうで大学を卒業するころには酒席で人にからむ悪癖をもつ 大酒飲みになっていた。卒業後はじめ東洋生命保険、ついで朝鮮火災海上保険という大企業に勤めたがいずれも酒でしくじった。後者を免職となったのが一九二三年(大正十二年)、つづいて妻に去られ、流浪の身となった。

落ちるところまで落ちた放哉が頼りとしたのは句友の作品評価と同情からの拠金だった。 荻原井泉水の紹介で小豆島の西光寺奥の院の南郷庵に入庵したのが一九二五年八月、翌年四月七日、癒着性肋膜炎の合併症、湿生咽喉カタルにより南郷庵で亡くなった。享年四十二。

本書『海も暮れきる』にある破滅型の風狂俳人の飲酒は目を覆いたくなるほどで「まずい酒だな。これでも酒かい」「なにか気にさわるようなことを言ったかい。まずい酒だと言っただけだ」「おい、女、まずい酒のお代わりだ」、そこへ店の年寄りの女が「ひどく酔っているじゃないですか。もうそこらで切り上げなくちゃ体に毒ですよ」と言えば「いいこと言ってくれるじゃないか、婆さん。客にそんなことずけずけ言えるのはなかなか出来ないもんだ。遣り手婆でもやっていたのかい」と切り返した。

放哉が歿して半世紀経った一九七六年、吉村昭が取材のため小豆島を訪ねたとき、なおも地元の人たちから「なぜあんな人間を小説にするのか」と詰問された。吉村は「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と述べている。

本書と併読した石川桂郎俳人 風狂列伝』(河出書房新社)には、妻と別れて西田天香の主宰する京都の一灯園にいたころ、酒が欲しくなると、荒縄で腰をくくった異形の僧の姿で、かつて勤めていた東洋生命保険大阪支社に現われ、以前の同僚や部下の名を威丈高に呼んでは酒代を脅し取った放哉の姿があった。人間、恥もなくなるとここまで堕ちるものか。 人間の品位、良心、面目、意地、世間の見栄、心の張りを棄て切った者の所業である。

それでもこの人物の句に結核療養中の若き吉村昭は惹かれ、のちに伝記小説を書くのだから人と作品(俳句)の関係は複雑である。「私はいつの間にか尾崎放哉の句のみに親しむようになった。放哉が同じ結核患者であったという親近感と、それらの句が自分の内部に深くしみ入ってくるのを感じたからであった。放哉の孤独な息づかいが、私を激しく動かした」のだった。

放哉はときに妻、馨の豊かに張った形のよい乳房を、豊な黒々とした髪を思い浮かべ「すばらしい乳房だ蚊が居る」「髪の美しさもてあまして居る」という句を作った。 

南郷庵の裏山に登って「山に登れば淋しい村がみんな見える」とよんだ。

その淋しい村に住む老婆がお地蔵様の祭日に酔って問うた言葉から「なにがたのしみで生きてゐるのかと問はれて居る」という句が生まれた。

そして庵で夕陽に輝く前庭をながめていると「之でもう外に動かないでも死なれる」という句が自然と浮かんだ。

ほとんど食物が通らなくなった最期に放哉をなぐさめたのは煙草だった。友人の俳人たちに英国製高級煙草のスリーキャッスルをねだって送ってもらったかれは一口すって、うまい、と思わずつぶやいた。高価な英国製煙草がこれほどの味であったのか、とあらためて感嘆した。食欲も失われたかれには煙草の味と香りが得難い貴重なものに感じられた。酒の人であった放哉と煙草は皮肉のようにも映るが、ここではかれによろこびをもたらした気品に満ちた煙を供養としておこう。

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『海も暮れきる』を読み放哉の句をながめてみたが、それよりも安定した堅気の世界からドロップアウトを敢行した、その愚かさを伴ったかれの人生についてあれこれ思った。

人の世に住みにくさはつきものでドロップアウトはなにほどか憧れとなる。気兼ねなく身すぎ世すぎできるならそれに勝るものはなく多少の貧乏には耐えられる。けれどあくまで程度の問題であり、堕ちるところまで行く勇気はない。

絶対お近づきになりたくない人物であり、独立自尊も恥も外聞もなくここまで来れば終わりである。しかしながら、ドロップアウトを決断したその勇気は忘れることはできない。

そうしているうちに先般来報道されている政治資金パーティーで裏金を稼いでいた国会議員諸公の顔が浮かんだ。あの人たちも人間の品位、良心、面目、意地、世間の見栄、心の張りなどを喪失している点で、かつての職場で酒代をせびった俳人とおなじである。しかし放哉には俳人としての矜持があった。対して 国会議員諸公にあるのはキックバックの裏金と鉄面皮である。

俳人の伝記小説を読んでこんな政治談義はいかがなものかと苦笑していると『俳人 風狂列伝』の解説に作家の戌井昭人氏が「本書を読み終り、昨今のお偉い人たちのことを考えると、正気を装って裏でドス黒いものを隠している人間より、狂気がむき出しになっている人間の方が、よっぽどマシなのではないかと思えてくる」と書いていた。

英語のノートの余白に (14) 「しろうと」

ある受験参考書の例題に

The man on the street has heard that this second Industrial revolution will refashion his life……

とあったので、街頭の人びとは、第二の産業革命は自分たちの生活を作り直すことになるだろうという話を聞いた……と訳して、解答を見たところ「しろうとはこの第二の産業革命は自分らの生活様式を作り変えてしまうという話をきいた」となっていた。

テストの採点ではわたしの訳でも何点かもらえるだろうが、そんなことより、the man on the street が「しろうと」とあるのには恐れ入った。注があり「街頭の人」つまり「市井の人」「ふつうの人」、専門家とか学者などではない人のこととあった。つまり「しろうと」というわけだ。

いろいろな人が集まる street だから言葉も多様だ。street child (宿無し子、浮浪児)、street people(ホームレス)がいるいっぽうに be on easy street(裕福に暮らしている人)がいる。なかには be back on the street (娑婆に戻る)の人もいる。

辞書によっては複合語として the man(and[or]woman )in[on]the street をあげて一般の人々、一般市民としてあるがさすがに、しろうとの訳語はなかった。

ところでうえの例題は山﨑貞『新々 英文解釈研究』(研究社)に載っている。オビには《伝説の参考書「山貞」(やまてい)、ついに復刊/本書は昭和四十年(1965)発行の新訂新版の復刻版です。》とある。高校生のとき、友人がこの参考書を持っていたのをおぼえている。わたしは持たなかったけれど、みょうに懐かしくて購入してみた。大正元年『公式応用 英文解釈研究』を初版とし、その後、幾度か改訂があり『新々 英文解釈研究』となつた。わたしは一九六九年三月に高校を卒業したから、少くとも七十年代までは定評のある学参として通っていたであろう。

これまで読んだところでは、前置詞の解釈について、痒いところに手が届くような例題が載っていて感心している。ただし難問が多くて、高校生のときわたしが本書を使ったとしてもおそらく途中で挫折していたにちがいない。

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the man on the street についてあれこれ見ているうちに、美空ひばりのヒット曲「越後獅子の唄」のなかの、わたしゃみなしご、街道ぐらし、ながれながれの越後獅子、という一節を思いだした。街道ぐらしのみなしご、street child が空を仰ぐ、そこがニューヨークであれば摩天楼が建っている。そしてわたしはこの摩天楼という言葉にいささかのほろ苦さを感じる。

ゲーリー・クーパーパトリシア・ニールが共演した「摩天楼」(原題The Fountainhead)は米国では一九四九年七月二日、日本では翌年十二月月三十一日に公開されている。主演の二人はこの二年前から不倫の関係にあり、それが明るみに出て大きなスキャンダルとなった。クーパーの妻は離婚に応じず、やむなくニールは妊娠中絶して別れた。のちに彼女は作家のロアルド・ダールと結婚したがけっきょくうまくゆかなかった。彼女にとってクーパーは生涯にわたり忘れらない、最愛の人だった。

ところでいま超高層ビルと呼ばれる摩天楼は skyscraper の訳で、「魔」ではなく摩擦の「摩」が用いられているのは天、空をこするような高い建物という意味合いがある。ちなみに壁紙をはがす道具のことをスクレーパー(scraper)といい、こするのだからスクラッチにも通じる。

いずれも後知恵で書いている。これを知ったときは、摩天楼が「魔」ではなく「摩」としたのはどうしてなのかと疑問をもたなかった自分が情けなかった。ほろ苦さの所以である。こういう疑問がすぐ浮かぶ高校生であれば『新々 英文解釈研究』だって十分使えたかもしれない。

いつ誰が  skyscraper に摩天楼という訳語を与えたのかは不明ながら、神経の行き届いた、きめ細かな訳語である。斉藤秀三郎著『和英大辞典』(1928年)には摩天楼ではなく、摩天閣で立項されていてA sky-scraperとある。摩天楼、摩天閣ともに日常的にはもう使われなくなって久しい。

           

「パスト ライブス/再会」

シャンソンに「再会」という名曲があり、ジャズに「ホワッツ・ニュー」というスタンダードナンバーがあります。

歌詞は似たようなもので、辞書に同工異曲の語釈として、詩文などを作る技量はおなじであるが、趣が異なることとありますから、まさしく絵に描いたような同工異曲で、《女(あるいは男)が別れた恋人(あるいは夫または妻)と偶然に出会った時の状況を歌った歌》(和田誠『いつか聴いた歌』)なんです。

シャンソンとジャズにおなじ主題をもつ素敵なナンバーがあり、それを、およそ男女の感情の機微を解するとはほど遠い、どんくさい日本のわたしが愛聴している。どうやら別れた男女の年経てのめぐりあいとそこに漂う哀切感や追憶への甘酸っぱさは国を問わず愛の類型のひとつとして認識され、多くの人を魅了しているようです。現実の体験の有無は別にして。

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「パスト ライブス/再会」もそうした愛のかたちを描いた作品です。ソウルでおなじ小学校に通う十二歳のノラとヘソンですが、ノラの家族の海外移住により離ればなれになってしまいます。互いに淡い恋心を抱いていた二人でしたが、小さな恋のメロディを奏でるには至りませんでした。

ところが十二年後、ニューヨークに暮らすノラとソウルのヘソンがSNSで繋がります。「再会」や「ホワッツ・ニュー」の偶然とは違う、ずいぶん長い年月のあと意図的に出会いを求めた結果でした。オンラインで互いを確認し、それぞれの気持を思いやる二人でしたが、再会とはなりませんでした。ノラもヘソンもすでに独り立ちした者としての生活があり、人間関係があります。

それから十二年後、独身のヘソンはニューヨークに向かい、当地で作家のアーサーと結婚して生活しているノラととうとう再会を果たしました。十二歳で別れた二人の、三十六歳での邂逅です。ノラとヘソンの二人、それにノラの夫アーサーの三人のあいだで事態と感情は微妙に揺れるのですが、そのゆくえは目を凝らしているわたしになかなかのサスペンスをもたらしてくれました。それと韓国生まれの二人が「パスト ライブス」(前世)の縁という意識を懐くのは歴史的な生活習慣や宗教意識によるものなのか、これは疑問としておきます。

映像も魅力的で、とりわけ水のニューヨークが素晴らしい。雨にけぶる街並、自由の女神像の建つニューヨーク湾リバティ島の光景、ハドソン川の水辺のほとり、雨上がりの舗道の水たまりに映る街灯など一見にも二見にも値するものです。

(四月十六日 TOHOシネマズ日比谷)

「アイアンクロー」

小学生のときのプロレスはいつもいつも金曜夜八時三菱電機提供のTVでしたが、二度だけ力道山のリングを見たことがあります。嬉しかったなあ。外人レスラーのトップはジェス・オルテガだったでしょうか。そのころすでにオルテガを凌駕する「鉄の爪」をもつ凄いプロレスラーがいるという噂は聞いていたように覚えています。それ以来「アイアンクロー」はフリッツ・フォン・エリックの代名詞としてしっかり脳裡に刻まれています。そんなわけでノスタルジックな気分に誘われ早々に映画館に足を運びました。

調べてみるとフリッツ・フォン・エリックがはじめて来日したのは一九六六年十一月、当時わたしはもうプロレスから離れていたけれど、高名なプロレスラーの来日の話を聞き、あるいはTV観戦したかもしれませんが確かではありません。

もっとも映画の重きは家族一体となってチャンピオンをめざしたエリック一家が遭わなければならなかった災厄であり、「呪われた一家」と囁かれたエリック家の子供たちの運命にあります。

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一九八0年代はじめ元AWA世界ヘビー級王者のフリッツ・フォン・エリックに育てられた次男ケビン、三男デビッド、四男ケリー、五男マイクの兄弟は、父の教えを受けプロレスラーとしてデビューし、やがて六男のクリスも参戦します。ところが三男のデビッドが世界ヘビー級王座戦への指名を受けたあと日本でのプロレスツアーで急死します。これを機にエリック家はまるで災いが押し寄せるような事態となり、いつしか「呪われた一家」と呼ばれるようになっていきます。

すでに長男ハンスは不慮の事故により早世、デビッドは日本で急死、ケリー、マイク、クリスは自殺、健在なのは次男のケビンだけでした。この事態に家族のありようがどのように介在しているのか、そこのところが問いかけとなっています。

エンドロールでは、いまケビン夫妻は牧場を経営し子供、孫たちと大家族で暮らしているとテロップが流れます。このあと浮かんだのが「うちつけにしなばしなずてながらへて/かかるうきめをみるがは(ママ、さ)びしさ」という良寛の歌でした。文政十一年(一八二八年)越後を襲った大地震に際しよんだもので、地震で死なず、なまじ生きながらえたために、こうした辛いありさまを見なければならない、との意で、生きてるに越したことはないけれど生き長らえたために寄せてくる哀しみもある。良寛を介してえらく偏った解釈をしているかもしれませんが、ケビンに対するわたしの忖度です。

(四月九日 TOHOシネマズ日比谷)

 

英語のノートの余白に(13) 文末の前置詞をもう一度

一九五五年にリリースされたアルバム「ヘレン・メリルウイズクリフォード・ブラウン」に収めるYou'd Be So Nice to Come Home To (作詞作曲コール・ポーター)はジャズヴォーカルの名唱と評価され、長らく「帰ってくれたらうれしいわ」や「帰ってくれればうれしいわ」の邦題で親しまれてきた。ところが、いつのころからかその訳はおかしいと指摘されるようになった。

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和田誠『いつか聴いた歌』の単行本が文藝春秋社から刊行されたのは一九七0年代だったと思う。ここでは「帰ってくれれば嬉しいわ」とあったのが一九九六年に文春文庫に入った際には「帰った時のあなたは素敵」の曲名に改められていた。

このかんの事情について和田誠は《LPの解説で、この曲は「帰ってくれたら嬉しいわ」と訳されていた。ぼくは(そして多くの人が)その翻訳を何の疑いもなく受け入れていた。二十年近くたってから「あれは誤訳である」というエッセイを読んでぼくは愕然とした。「帰ってくれればうれしいわ」だと「私」が家にいて「あなた」が外にいることになる。本当は外にいるのは「私」で、私が帰ったら「あなた」がいることが嬉しい、というのが正しい訳だということである。》と述べている。

英文法的には文末にToがあると帰るのは「私」で、家には「あなた」がいることになるという。わたしはこれについて「英語のノートの余白に(10)」(2023/12/5)で話題にしたが文法的に明確な説明はできなかった。そこで《家をめざして(文末のto)、帰ったとき、そこにあなたがいたら、暖炉のそばにいてくれたらどんなにか嬉しいだろう、といったふうに解釈しているが、完璧に理解したのかと問われると自信はない。》と書かざるをえなかった。

ところが先日、里中哲彦『日本人のための英語学習法』(ちくま新書)を読んでいると、この曲名が扱われていてそこに解があったのである。まず里中氏の例題を見てみよう。

He is not easy to please.を文頭をItにして書き換えるとIt is not easy to please him.となる。彼を満足させるのは容易ではない。彼は気難しい人だ。もうひとつ

English is easy to learn for many Europeans.はIt is easy to learn English for many Europeans.となる。多くのヨーロッパ人にとって英語は学びやすい。

そこでYou'd Be So Nice to Come Home To.はIt would be so nice to come home to you.となる。こうして「あなたが待っている家に帰れたら、(私は)どんなに嬉しいことだろう」である。

『日本人のための英語学習法』が呼び水となったのか、Wikipediaにある曲の解説にはこうあった。

《原題は、コール・ポーターらしいとも言えるが、英語文法的にはかなりまわりくどい表現となっている。/日本語訳する際に問題となりやすいのは最後の「come home to」の「to」である。これはTough構文と呼ばれるもので、文頭の「You」が「come home」の目的語になっている表現であり、原題を言い換えるならば「It would be so nice to come home to you.」となる。家に帰るのは「私」ということになる。》

ネットではこの曲の歌詞を訳した小沢理江子さんが「Jazz&Popsボーカリスト 小沢理江子のブログ」に《実はこの曲の訳についてはさまざまな論争があります。/まず、最初のタイトル部分をどう訳すか?いったい帰るのはあなたなのか私なのか?本当は

『あなたがいるハズのところに、私が帰れたら素敵だわ』という訳が正しいとか。

 この曲が戦争で帰りたくても帰れない兵士の間で人気になったという事実を考えると、こちらの訳のほうが正しいのでは?と解釈して、今回はそう訳しました。》と書かれていた。

おなじくブログ「Interlude by 寺井珠重 ジャズクラブの片隅から…」には《You'd Be So Nice to Come Home To.の末尾の‘To ’ は目的語を導く前置詞、なのに目的語自体がないのは、それが主語と同じだから。こういう場合は、目的語を入れてはだめ。受験英語サイトを見ると、そういうのは「欠落構文」と呼ぶらしい。》《次によくわからないのが ’Come Home To You‘ということばの意味。‘come home’なら’家に帰る’だけど、そこに‘To you’が付くとどうなるの?私が調べた英和辞書には、イディオムとしての適切な説明はなかった。そこで、ネイティブ用の便利な無料辞書サイト、The Free Dictionary.comを調べてみる。すると、以下のような記述が!

come home to someone or something

to arrive home and find someone or something there.( 帰宅して、’to’以下の人、あるいはそれ以外の何かを見つけること) これだ!‘Come Home To You’とは、「自分の家に帰ると、あなたが居る。」という意味だったのだ。》

『いつか聴いた歌』にはこの曲について、本当は外にいるのは「私」で、私が帰ったら「あなた」がいることが嬉しい、というのが正しい訳だと、あるアメリカ人に話したところ「私は二人一緒に家に帰る歌だと思ってた」と言ったとあるから、Tough構文とか欠落構文はときにアメリカ人をも迷わせるのかもしれない。

文末の前置詞が悩ましいのに変わりはないけれど、それでもようやくYou'd Be So Nice to Come Home Toの英文解釈はこれですっきりした。なんだか愁眉を開いた気分である。