6.友達と美大生
今、僕の住んでいる部屋で、いい歳こいた男たちが雑魚寝している。僕を含めて4人。僕はいびきをたててねむる3人の間で、こんなことを書いている。
東京にきてだいぶ経った。4月1日にここにきてから2ヶ月。
新居の床は絵の具で少し汚れてしまった。すでにいろんな人が来た。その人たちとご飯を食べて、笑ったり叫んだりした。
僕は価値観が変わった。暗い価値観や劣等感を燻らせていたその姿から抜け出すことができた。色々な人と出会って、話して、その人たちとどうでもいいことを語る。それがどれだけ素晴らしく大切で、かけがえのないものだってことが今、わかる。ありがとう。
だれだって悩む。
他人からしたらどうでもいいことでもそれは当人にとっては大問題で、緊急事態かもしれない。
だれだって落ち込む。
うまくいかない時も、失敗した時も、悲しいときもだれにだってあって、それは事の大小なんて関係ない。
でも、いつかは解決するんだ。人は人に助けられる。1人でも確かに生きていける。でも、孤独で厳しい戦いがずっと続く。
このブログを見てくれた誰か。僕が目に見えて明るくなって、前を向くようになったことが見てわかると思う。
僕は実例だ。今、疲れていたり、何かを悔やんでいたり、劣等感にさいなまれていたり、誰かに認められたい人がいる。きっといる。
でも、大丈夫だ。そんな自分を認めてくれる人とか、許してくれる人とか怒ってくれる人がきっといる。立ち直れるよ。それに、前を向ける。今なんて刻一刻と過ぎていくし、人なんて当たり前のように変わっていく。自分なんて、とか、自分らしさとかそんなこと、どうでもいい。
貴方は貴方だ。自分のやりたいこと、自分のなりたい人を目指して努力すればいい。
僕は変われた。まだ劣等感はある。でも、いい。いろんな人が、自分の周りにはいる!
ヘコめ!
情けなくなって泣け!
つらくて絶望しろ!
自分を見失え!
それでいい!だからまっすぐ進め、とりあえず進め!自分を見失いながらも、常に考えながら歩き続けろ!
ときどき、朝早くおきて、雨上がりで、少しだけ夏のにおいがする空気をゆっくりと吸って。
久しぶりにパンでも食べよう。甘いジャムを塗ろう。
早めに家を出て、お気に入りの曲を静かに流して、遠くに聞こえる鳥の声や風の音をBGMにして、ゆっくり歩こう。パタパタと、足音をたてて。
昼はあったかいぼんやりとし空の下で、友達としょーもない話をしよう。少し笑って、過去も未来も忘れよう。
夜はベランダに出て、ぬるい風を頬に受けよう。静かな歌を流して、過去でも未来でも、何でも考えたらいい。そして今日1日を振り返って、思い出し笑いをできればいい。
好きな人を想ってもいい。
夜風でも火照った頬は冷ませないで、真っ赤になって頭をガシガシかいてもいい。
ね?人生、捨てたもんじゃないでしょ?
5.五月の桜と美大生
5月の半ばになった。殆ど散ってしまった桜を見ると、入学式がもう遠くのように感じる。
授業にも慣れ、サークルにも入った。僕は大学生を実感することなく、勝手に大学生になっていた。
友達もできた。僕が口下手でこんな陰気なブログを書いていても友達はできるとわかった。
友達は色々な意味で美大生らしくない人で、運動ばっかりしている。そして楽しい人だ。
うん。学校は楽しい。入学前に感じていた劣等感や他人へのジェラシーは尽きることはないが、しかしそれでもマシになった。空を見ることが多くなったし、ご飯もおいしい。どこか余裕ができるようになったせいだろうか。
ただ、日々を漫然と過ごしている。食べて、描いて、喋って、寝る。こんな簡略化できるような生活を続けている。1日の密度は濃い。それは間違いないし、なんとなくぼんやりとした不安は前よりも少ない。
ただ、どこか受動的に生きているような気がしてならない。美大生という立場にある僕は、アートフェアや出店の機会に恵まれているし、実際それに申し込んだりしている。一見それは活動的に見えるだろうけど、そうではない。
美大生というか、アートを学んでいるというか、そういう概念に囚われているせいで、○○していれば○○らしくなるという固定概念が付きまとい、身動きがとれない。春と夏の間の生ぬるい空気が体に絡みついて離れないように、自分は概念や雰囲気、空気になんとなく流されて生きてしまっている。
明確な目標はない。自分はこんな人間だ、だからこういうところを誇れる、ということもできない。なんとなく美大生になってしまったし、なんとなく日々を生きている。
なんとなく大人になろうとして、デザインを学ぼうとして毎日を過ごしている。
桜はもうとっくの昔に散ってしまった。僕はそれをなんとなく意識しながら、日々を過ごしてきた。
この文は悩みだ。常になんとなく抱える悩みをどこかにアウトプットしないと自分の言葉にはならない。悩みは常に付きまとう。しかしそれを言葉にすることも、それどころか見つけることも難しい。
悩みは文章に落とした時、水分の多い絵の具のようになる。赤色を混ぜて、水色を混ぜて、白を混ぜる。だんだんとマーブル状になって、ぐるぐると渦を巻いていく。
言葉にしなくてもいい時もある。しかし言葉にしないといけない時もある。
この文は自己確認だ。今の自分を書きなぐっている。
だから、だからまとまりもない。それは悩みも、自分自身もなんとなくで構成されているからだ。自分自身や悩みを言葉で綺麗に表現できるのであれば、もっと簡単に生きられるはずだ。
逆に、まとまりがなくてもいい。駄文でいい。
5月に入って、僕は少し考え方が変わった。
完璧な文字の羅列に憧れながらも、配列がガタガタだったり誤字をしていたりするのが人間だからだ。
どの人間も、文章も完璧なんてない。なら、完璧でないことを誇ろう。不定期に、可変で、グニャグニャと変化する柔軟性と感受性を誇ろう。
明日には違う自分が存在しているかもしれない。それは今よりもダメかもしれない。しかしそれは確かな変化だ。急速な変化を求めないでいい。桜は散ってしまったが、まだ、地面に落ちている花びらは色褪せない。
悩みが絶えることはない。しかし絶えないことはない。また新たに悩みが増え、悩みが消えていくその可変を喜ぼう。僕は変われる。
そして1人でも、自分を信じてくれる人が、変わらずに愛してくれるひとがいればそれだけでいい。恋人でもいいし、家族でも友達でもいい。それは何よりの励みだ。自分が失いそうになって、新しい悩みに打ちのめされて、何が何かわからなくなった時、それでも笑ってくれるひとが、きっといるのだ。
人気はそういうことかもしれない。大勢の人に好かれることは、確かに人気ととってもいい。ただ、絶えることなく、変わることがない揺るぎないものが、変わってしまう人間と人間のあいだにあるならば、それは人気と言えるのかもしれない。
僕は五月の半ば、1人でソファに寝転んでこんな感情や悩みや自己確認を文にして表している。それはきっと貴重な時間なのだ。
人は1人でいるとき成長できる。
このような言葉がある。自分を言葉にする時間は1人の時でないとできない。
漫然と過ごしている日々に、僕は絶望しているわけではない。しかし突き動かされる何かが到来する瞬間を、圧倒される瞬間を僕は待ち望んでいる。
遠くの方で車の音が聞こえる。何かの始まりの音に、聞こえなくもなかった。
春だ。
4.途中経過と美大生
授業が始まった。
しかし、僕はまだ、第一志望の大学に受かってさえ悩みが尽きることはなかった。
友人関係も困っていないし、大きなミスもしていない今の現状に文句や悩みがあるのは贅沢なのだろうけど、以前からの僕の悩みであるコミュニケーション能力は高校3年生の時とたいして向上せず、口下手は相変わらずだ。
ただ、最近僕がコミュニケーション能力の面で悩むことよりも、美大にいる人間たちに不満がある。
それは誰々の性格が悪いとか、変わった人が多いとか、そういうことではない。というより、もっと変わっていて欲しかった。
そう、最近思うのはそこだ。
美大に入って僕はぐちゃぐちゃで混沌とした色彩の中に飛び込んでいたと思っていた。クリエイティブな人たちがそこらじゅうにいて、僕は圧倒されて、自分の色彩が他の色彩に犯されるくらいにめちゃくちゃにされるんだと思っていた。
しかしどうだろう。今現在で、強烈で、ビビッドな色彩を持った人が、周りにいるだろうか。
もちろん、アイデアや造形のセンスなどは素直に凄いと思える人はいる。僕よりも当然のようにセンスがあって、ものすごく羨ましい。が、人間的な魅力に溢れた人が身の回りにいない。
もちろん僕が人間的な魅力に溢れているわけでもなくて、僕が望んでいるのは実に他力本願的な思考だ。
圧倒されたいのだ。
もっと人間的な強烈な魅力を持った人に。
3.入学式と美大生
人がぞろぞろと体育館の中へと吸い込まれていく。中は静かな曲が流れていて、会場はざわめきで満たされていた。左から強いライトの光が他人の顔を照らしていた。
僕は美大生になるという実感も、余裕もない状況で入学式を迎えた。遠くの方で教授や学長の声が聞こえて、僕はなんとなく、所在なさげに尻のベストポジションを模索しながら下向いて話を聞き流していた。
僕は美大生だ。絵が好きかどうかもわからない、アイデンティティもあまりない。コミュニケーション能力や人気のなさすら悩みの一つだ。
しかしこんな僕が美大生という肩書きをもってしまった。僕が美大生。
壇上で、何かが渦巻いていて、それは僕を避けて、もしくは少しだけかすめて他人へと吸い込まれていく。それは色かもしれない、誰かが生み出した表現の色だ。多色で、滲んで、濁った色がぐるぐると、色付きのスポットライトのように壇上を照らし出す。僕はその濁りを、綺麗でも汚くもない芸術という色の集合の結果の濁りを目視しながら、とんでもない世界へと踏み出してしまったのだと思った。混沌が渦巻いた遠い遠い芸術というものに、僕のような単純でつまらない人間が触れていいのか。
僕は、美大生になってしまった。
2.美大入学までの怠惰と美大生
暇だ。暇である。恐ろしく暇すぎて自分の欠点が受験生の頃よりも明確に見えてきた。あの頃は目の前には英語や国語、絵しかなかった。でも合格してから目の前はスッと晴れて見晴らしが良くなった。それに自分と向き合う機会が増えたし、友達や大人と喋る機会も格段に増えた。だから、やっぱり、自分の情けなさがグサグサと刺さるほど分かってしまう。
うーん、暇はいいけど暇すぎるのもダメかもしれない。怠惰な生活は素晴らしいが精神的に素晴らしくない。僕は素晴らしく堕落的で面倒くさがりなので何もないと本当に何もしないのだ。本当に何もしていない。一応図書館にいってデザインの理論の本は借りたし、哲学の本も借りたけどあんま読んでないし、キムチばっか食ってる。キムチ、おいしい。
ほらもう偏差値が0に近い。話は飛躍するしキムチばっか食う僕はアホになってしまった。いやもともとアホだったのだが、際立ってアホになってしまった。
アホを治したい。このブログや自主制作、人との関わりのなかで僕は自分の中に改革を巻き起こしたい。
はあ。そういえば、友達が最近急に大人っぽくなった。服装もそうだけど、思考も行動も。まあちょっと女々しい部分もあるんだけど、間違いなく賢くなってしまった。偏差値的なことではなく、人間的に賢いやつなのだ。小学生の時は猿よりも、というか猿と比べるのもおこがましい程のアホだったのに。悔しい。正直大化けしすぎてたまに動揺する。
例えばそう、友人数人で飯を食いに行った会計の時、自ら幹事的な動きをして金の分配や割り勘をスムーズにするし、話を聞く時の相槌もうまいし(決して大げさに驚くのではなく、相手の話に鋭く切り込むことをしたり、少し反論をしたり、同調をするタイミングなどが上手い)、人付き合いも上手い。身長も高い。悔しい。つまりそいつは僕の理想像に近いのだ。
ここまで駄文を垂れ流してきたが、今僕に必要なのは自分自身を冷静に評価したり、人との差を明確にする作業ではなく、もしかすると、他の人を観察することかもしれない。そういえば、その友人も人間観察が趣味と言ってもいい。そうだ、たぶん、そうなんだ。かなりマイナスな思考をずっとして来たけど、そういえば人との差を体感しそれを反省するだけで、他人がなぜ自分より優れているのか、そこをなんとなくしか認識していなかったのかもしれない。
どんな振る舞いをしているのか、どんな喋り方で、どんな話の展開をするのか、どうやって友達の輪を広げていくのか、どんなギャグを言うのか。もっと細かい部分まで観察することを怠っていたのかもしれない。友人に限らず親は?親戚は?クラスメイトは?人の特徴、癖、すごいところ。そういう部分をもっとみよう。そのためにはこのまま怠惰でいるわけにはいかない。もっと人と出会って、もっと観察しよう。
せっかくの暇だ。やってみようじゃないか。
1.ブログ開設と美大生
ブログを始めるひとは普通、どんな動機があって始めるんだろう。あと、どんな書き出しだったのだろう。 僕は誰も見ていないブログの出だしでさえ、こんな風に世間体を気にしてしまう。
こんな自分が僕は好きじゃない。僕が求める自分の理想像はもっとスタイリッシュで奇抜、誰もやったことないことをやって、誰からも人気のある人だ。あと、身長も欲しい。
それと最近気づいたけど、どうやら僕は理想が高い。だから現状のちっぽけな自分との差異に苦しむ。だからまあ、自分が自分を好きでいられないのは当然のことかもしれない。
暗いな。
でもたぶん、こんな感じの悩み吐きまくり棄てまくりみたいなブログにこれからもなっていくはずで、まさか人なんて来るわけないから、よくあるブログのよくある日記風に、しかし他よりもすこし格好つけて、ネットという、現実と夢幻の狭間の空間だけでも、理想の自分を演じてみたいな。
そしてもし、理想の自分に現実でなれたときには誰よりも大きな歓声を、でっかい公園の真ん中のベンチであげよう。その大声に、周りの人慣れしたハトたちが逃げ出すくらいに。
駄文だ。でもブログって楽しいな、匿名性の高さに安心してか分からないけど知らない僕が見えてくる。なんて自分語りのブログなんだろう、笑えてくる。それに美大なんてカンケーもない内容だし!でもまあいいか、だって、俺のブログだもんな。
まあ、そんなこんなでゆるーく日常と思考を綴っていこうか。