お客様の中でどなたかお医者様ごっこのお医者様はいらっしゃいませんか?

ユルめのやつ(タイトルは不定期に変わります)

愛しさと切なさと心強さと俺とお前と大五郎

小兵力士は己の重さを含めた絶対的なパワーが足りない事を認識してるからこそ、回転の良い突っ張りや立合いでの変化などの敏捷性を活かし相撲を工夫する。一方、横綱相撲と言う言葉がある。これは相手の全てを受け切り、そして相手を寄り切って土俵の外に出す事を言うと認識してる。


本当の強さは何か?みたいな思考を巡らすとボクはいつもこの小兵力士と横綱の相撲の違いを思い描く。身体の軽い、パワーの無い力士ほど良く動いて立ち回るしかないみたいな状況はボクらの日常でも良く見かける。


言葉の鋭い批判、相手を落とし込む為にたたみかける言葉、賞賛を積極的に自ら求める性格を持つような人がいたとする。そのエゴイズムは周りの人間を暗い気持ちにさせたり、白けさせてしまう。そういう人は今この時にさえ勝てば良いと思って振舞ってしまう。それはおそらく無意識的に自らの弱さを自覚しているからだとボクは推測する。社会的地位・立場に左右されずそのような振る舞いをする人は少なからず一定数存在する。特にそのような人が会社の経営層やマネジメント職などに就いていると下の者には厄介であろう。


本当の強さとは、己の弱さと向き合う事から初めて手に入る類のものだ。弱さを知り日々鍛錬する事。そして相手にも弱いところがあり、それに思慮を巡らすこと。相手の思いは、その後どうするかは別として受け入れる事。そしてボクらの社会ではもしかしたら、全部受け切ったその後に寄り切る事は必要ではないかもしれない。今勝つ事は本当に勝つ事になるのか?それは明日も明後日もずっと勝ち続ける必要が出てこないか?それは5年後にも勝つと言う意味合いと等しいのか?相手は勝たなくて良いのか?そういう問いかけを己にしてみたら、もしかしたら今は寄り切らなくて良いかもしれない。ボクはそれもまた本当の強さなんじゃないかと考えてる。

持たざるバカと持つバカと。

北海道時代の友人が遊びに来たので浅草寺に行ってきた。まあもう先週の出来事なんだけれども。ツッコミ無用の東京スカイツリーボールペン(634mmに伸びる)なんかが売ってるお店群を通り抜けると、そこには有難い煙に群がるご婦人達が「いつも不幸なんだから煙浴びなよ!そしてアタシが煙浴びてるアンタ、撮ってあげる!!」と言ったかどうかは全く知らないけど撮影会が軽く開催されている。まあもう煙しか映んないよね。当然。でも心優しいボクは、煙しか映んない写真をとるババアをむしろ映しちゃう。

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友人は何故か全くわからないけどヒールで歩いていたのでお疲れのご様子。んじゃまあ取り敢えず店にでも入って茶でもシバキあげるかっつー事になる。これが案外、と言うかドコもバチバチに混んでいてようやく見つけた寂れたレストランに入る事になってしまった。多分、喫茶のみでもOKっつーか、そんな売上でも欲しいであろうとの商売の神様目線を勝手に炸裂させつつ席に着く。ココに入った理由は、座れてタバコ吸えてなんか飲めりゃー良いワケなんだから本当に心の底から溢れるばかりの「別に何でも良い感」を醸し出している2人だったワケだけれど、心の優しいボクは友人の東京の思い出作りに一役買ってやるかー…との思い出の神目線からとあるメニューに目を留める。トロピカルメロンとトロピカルハワイアン。ネーミング的には一点の曇りもない浅はかさが身体の毛穴ひとつひとつに染み渡ってくるグレイトな感じ。もしもココでトロピカル達を頼まなかったら、友人の思い出作りの機会を損失するのではなく、ボク自身の貴重な経験の機会を逸してしまうであろう事態が訪れる事は、時の首相のようなアホな感性の持ち主でも察する緊張感が全身をヌルく且つ確実に覆ってる。いいのか?アンタは1番下にあるトロピカルストロベリーっつー全く想像がつかないアホなメニューのシロモノを頼まなくていいのか?と友人に二回確認した後、店員さんにトロピカルメロンとトロピカルハワイアンを頼む事にした。この時点でトロピカルな要素と確実にマッチしてるのはハワイアンのみ。そして友人の失敗をせせら笑うかの如くボクはトロピカルハワイアンを楽しみに待っていた。そして出てきたバカっぽいのがコレ。

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バカによるバカの為の飲み物。これを適当に海辺で売ったらバカなおねーちゃんがちょーかわいい(はあと)ってなる事間違いなし。待ったなし。コンドームなし。暗闇の中で彼女に「ちゃんと着けてね」と言われ、カバンをガサゴソさせた後にコンドームが無くて、ひとまず音だけでも…っつーんで、胃薬の袋(粉)を破いてノーガード戦法で突っ込んだら子供ができちゃった友人ぐらいの浅はかさ。ジャブ。でもフリッカージャブ。そして実際の味はと言えば、トロピカルメロンの方は極度にシロップが沈殿しててメロンの層とシロップの層が綺麗に分かれてる模様。油断してると突然口の中どころか食道まで甘くなるとのこと。ボクのハワイアンに至っては全く味は問題ないと思ってたんだけど、やっぱり奥底にシロップが濃い目に沈殿しててもはや吸い込めないくらい濃い部分がある。テキーラでもライムやらレモンを口にしないボクなのだけれど、ソフトドリンクを飲んで飾りに付いてるオレンジを噛む事態。まさに杜撰オブ杜撰。雑オブ雑。昭和50年と書かれた渡哲也の写真の肛門も多分疼いてる。肛門は渡瀬恒彦。そんなワケでたくさんの爪痕を付けられて友人は東京を後にしました。めでたし。


と、勝手に友人が帰った風の話の流れにしたけど、彼女的には地元へのお土産が必要だったらしく浅草寺横の商店街の七味屋さんに寄る事に。別段、ボクは七味に興味はないけれど雰囲気の良い接客、古き良き的なお店の中でふっと目に飛び込んできた「きゃらぶき」の文字列。死んだババアのきゃらぶきが好きだったボクにある種のノスタルジックなそよ風を吹き込んだその文字列の袋に向って手を伸ばす時間はそうはかからなかった。しかし残念ながらババアの作ったきゃらぶきの味以外はボクは全く信用していない。こればかりは彼女が積み重ねた経験値でしか出せない味なのは絶対の事実だからだ。それでもボクの生活圏では滅多に目にしないものだと思えば、仮に味が甘く煮付けられていたとしてもそれっぽい味を楽しめるならば、それで良いじゃないかと思い直してお会計を済ませた。そして一週間も経ってようやく封をあけてみると

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びっくりな事もあるものだ。おそらく実家のあった土地近辺で取れるふきとふきの種類が若干違うような気がするだけで、味付けはかなりババアの味と近い。甘くない。醤油っぽい。これを食べて涙するなんて事はないけども、少し焼酎が欲しいと思ってしまったあたりに些かの時の流れを自覚させられてしまう。

言葉

言葉。それは様々な方法で人から放出される整形された意志。言葉には基本的には意志が宿っていると思っている。そしてボクはその意志に宿る品を嗅ぎ取っている。これは誰もが意識的に、もしかしたら無意識的にやっている事だろう。人は生命活動を長く経る事で様々な人に出会いそして経験する。人に出会うという事はつまりたくさんの言葉に出会うということであり、つまりはたくさんの品に触れるという事である。ボクはそう解釈している。

 

言葉には様々な色がある。その色はシーンによって見え方が変わる。たとえば同じ感情で同じ考えかたで言葉を出していても、会って出す言葉と、電話で出す言葉では相手の受け取る色が変わる。これがメールであるのか、もしくはショートメッセージであるのかでも変わるし、ビジネスなのかプライベートなのかでも変わる。さらに前提情報として相手との面識の有無にも依存するし、面識があっても付き合いの長短によって受け取る色はやはり随分と変わってしまう。これに相手の精神状況まで加味したら、その組み合わせはほぼ無限に近くなると考えても良いくらいだ。もっともビジネスでのやり取りに限定したら、いろいろなものを排除して言葉を選定できる面もあるので、ある意味でビジネスでの言葉のIN/OUTがもっとも簡単なのかもしれない。ただ、そこに配慮があるかないかでビジネスの展開も大きく変わる事もぜんぜん否めないけれども。

 

たとえばボクはビジネスメールのある一節から受け取った色を凄く気に入ってしまい、いつかそれを使おうと何年か前に思った事があった。それはもう少し解釈を進めると、その相手の人間としての振る舞いに憧れていたのかもしれないし、もしくはこうありたい自分の理想の一部と近かったのかもしれない。当然、そんなボクの内側は人に知られるワケもないので、ボクは数年後にあたかも自分の言葉のようにそれを使い始めた。しかしどうもこれが最近しっくりこない。それはおそらく、ボクの理想とする像と今現在の自分の中に備わる品格が一致していないからだとようやく最近理解した。

 

内側にある品格とレベル感がずれないように言葉の出力をしないと、それは相手に違和感だけを与えてしまう事に他ならない。敢えて言うならば、自らの肉になっていない言葉は使わないのが無難だとボクは考える。それでも対外的に最低限必要になる言葉と言うものがあるので、それらの言葉を使うのならば、つまりそれは最低限その品格を身につける必要があると言う事に帰結する。恐ろしい事に人間が感じる違和感とは、それらを明確に言語化をして論理的に解釈する作業を行わない事の方が圧倒的に多い。それらは単にイメージとしてだけ残って相手の脳の中で処理されてしまうし、このイメージは相手に色濃く残るものだ。させたいイメージがあるとして、狙っているのならまだしも、自らの粗雑な言葉で意図しないイメージを与えるのなら、それは単純に損失を被っているとしか言えない。

 

近年、拡散的にそしてリアルタイム的に言葉を伝える手段がインターネットの出現により増えてしまった。昔に比べたら爆発的に人の言葉の色を見る機会が増えたと言い換える事ができる。もう少し言うと、爆発的に自分の言葉の色が見られる機会が増えたと言える。これはある意味で自らの生長スピードを速める事だと捉えられる。なぜならば失敗する機会も爆発的に増えたとも言えるから。このやり方が好きか嫌いかと言えば、どちらかと言えば嫌いなのだけども、トライ&エラーが一番生長するスピードが速い。言葉の色を出してみて、それがどうだったのか分析する機会があると言う事、人の言葉の色を分析する事、それは自らの生長を促す事になるとボクは考える。ボクの場合は言いっぱなしで、ただただ言いたいだけの時が8割方なのだけども、自ら何をフィードバックとして捉えるかを意識的に持つ事によってボクは、と言うか我々は、存分に生長する機会を目の前に与えられている。

あとおっぱい。

 

「りんごの皮を剥いたよー」

早朝から仕事をしてきて少し集中力が落ちたのでりんごを食べている。ボクはとても不器用なので、すごい勢いで実ごと皮を削いでしまったので随分と小さいりんごになってしまった。

 
「りんごの皮を剥いたよー」
 
生前、ボクの祖母(育ての親&以下、ババア)が時折言い放っていたこの言葉。自分でりんごを剥きながら、ふっと思い出してしまった。「りんごの皮を剥いたよー」なんて何の変哲もない自然な言葉であるけれど、当時のボクは無意識に違和感を感じていた。まず第一に敢えて何故にりんごなのか。次に皮を剥いた宣言を敢えて特別な感じで言い放つその意味って何なのだろうと。
 
当時55歳ぐらいだったババアは自分さえ生きていければ良い程度の仕事と趣味を抱えていた(はず)。ところが、自分の息子が嫁に逃げられたものだから、可愛い孫達(ボク、主にボク)をなんとか育てなきゃならんと、人生のアクセルをもう一度ベタ踏みするハメになった。ハメになったと言うか、今思えばババアの人生はそうやって人に尽くす事が天命だったのかもしれない。孫達に引越しをさせ自分の手元に呼び寄せ、絶縁していたジジイにも頭を下げて子育てを手伝ってくれるように頼み込み呼び寄せた。
 
ボクが見てる分には、どっちかと言うとババアの方が稼いでジジイが働きつつも家事も6割ぐらいをこなすと言う風に見えた。ババアが行うメインの家事は食事を作る事に集約されていたと思う。とは言え、日中は食堂で働いていたせいなのか日常の疲れのせいなのか、手の込んだ本気の料理を作ることは多分少なかったと思う。手を抜くと言うよりかは、今思えば高度に作業の効率化をはかっていたのだろうと思う。育ちざかりのクソガキ二人に与える食事は質よりむしろ量だった事にも起因する。彼女の名誉の為に言っておくと、本職だけあって料理の腕はさすがにプロだったと思う。「この料理ってこう言う味ですよね」と言う平均以上の味を常に出し続けられると言う点においては、彼女は料理人だったのだとボクは理解している。普通の主婦はたまにホームラン級の料理を作るがアベレージが低い。それはストライクゾーン内の得意なコースが限定されているからだ。イチローのようにどのコースにも対応できる力量があればアベレージは必然的に上がる。
 

ババアの事を料理人と言ったが、モノを作ると言う点に置いてはとても大事な資質を持っていたと思う。それは「めんどくさがり屋」だと言う点だ。作業の効率化をはかる等と言う発想を持ってる時点である程度のめんどくさがり屋である事が多い。彼女もその例に漏れないだろう。そんな彼女が仕事から帰って疲れているところに55歳の身体にムチをうち、食事の用意と食事と洗い物を終わらせて「はーさて、いっぷく」(ババアは純然たるスモーカーだった)となっているタイミングで、ガキどもにりんごの皮を剥くなどと言うメンドクサイ行為に至る発想がボクにはわからない。わからないと言うか、ボクだったら完全に1人の世界で何も考えずに煙草をただただヤルと思う。

 

あのめんどくさがり屋のババアがあのタイミングでりんごの皮を剥くなんてのは、孫達に対する底知れぬ愛情に他ならない。主にすげー勢いでハンバーグだのハンバーグだのハンバーグだの肉食だったボクら(ボクは雑食で何でも食べるけど、弟はすげー勢いで偏食だった)に対して栄養バランスなんかを考えていたのだろうな…としか思えない。だとすれば、あの敢えて特別な感じで言い放つ「りんごの皮を剥いたよー」のドヤ顔感は今なら理解できる。どうして?何故?なんて理由を押し付けがましく伝えずとも、生みの親でなくとも、愛情ってのはそれなりに伝わるものだ。

 

2013年書き初め

つい今しがた、ボクは30分前のボクよりイケてる状態になった。これは去年末から伸びに伸び、そして増えに増えていた鼻毛を108✕2本前後抜いた事に起因する。ボクの鼻毛は長さ・太さ・量の三者がかなりのハイレベルな位置でバランスを保っている。北斗神拳で言うとラオウ・トキ・ケンシロウみたいなものだ。時代が時代なら3人とも北斗神拳伝承者としてやっていけたはず。なので3週間もほっとくと鼻の中で世紀末救世主伝説のストーリーが軽く展開され、うっかりユリア、あれ?ユリア?俺も!俺も!はい俺も!程度になると考えてもらったらいい。オトコとして大丈夫な状態を保ちたいならば、前回抜いた時より一週間で処理班(主にボク)による除去が必要になる。北斗神拳のくだり、やり直しさせてもらっていいすか。

 

さて。明けました。明けましたので多少自分の事について書いてみたいと思う。えっと…年越しを友人とぐだぐだと10時間以上も酒を飲みながらしていたワケですが、その時にこんな感じの事を言われた。「のっち(ボクの事ね)は、『俺はこんな酷い事もやっちゃうよ』的な事を見せすぎなんですよ。実際はやらないのに。でもそれが作戦的でもある」的な。なんつってたかな…「なんちゃら悪」みたな言葉で言ってたな。(話半分くらいしか聞いてない) でもまあ確かに、そんな部分はあるかもしれない。先に悪いカードを見せてしまう癖は昔からある。そうそう、それを彼はボクに対して「保身」とも言ってた気がする。それを保身であるかと言われたら、まあそうかもしれない。

 

人間っつーのは、何がしかの色眼鏡を持って人を見ている。見ている人間が特に自分の好きな要素を持っている人間だったりすると、悪い要素を仮に持っていたとしても、好き側にバイアスをかけがちに色眼鏡を自動調整していたりする。逆に先に悪い要素が目についた人間に対しては、悪い方にバイアスがかかってその人を見始める。この場合は、印象が悪化していく一方なパターンが多いと思う。しかしもしもボクが悪いカードを切る事を意識的にやっているのだとしたら、後者を狙ってる可能性が高い。何故なら、悪い印象から入った方が後から逆転した時に突き抜けて好印象になる可能性があるのと、悪い印象を忘れ去る・もしくは無効化する可能性すらあるからだ。

 

と、うだうだ書いたけども、実際には悪いカードを切って「意識的に」印象がなんちゃらかんちゃら…なんて事は何ひとつ考えてない。悪いカードを「無意識に」切ってるのは、ボクなりの幼少からの処世術なのかもしれない。単なるクセ。そうじゃないと自分のバランスが取れなかったのかもしれない。その辺りの分析はまたの機会に。悪いカードをソーシャルな場で「意識的に」切ってる部分があるとすればただひとつ。「ソーシャルな場で楽しい事・美味しい事・気持ち良い事・美しい発言・正しい発言(これは誰にとって正しいかわからんけど)ばかりを詰めこまなくても別に良いじゃん」って思ってるってのが大きい。別に美しい事だけが人間じゃないでしょ?美味しいものを食べるけれど、でも日常ではカップラーメンとか松屋行っちゃう時もあるでしょ?ある場所に辿り着く為には、実は人に見せがたいバタバタ感だってあるでしょ?っつー話ですよ。もちろん全部見せてしまう事は他人が消化不良になってゲロとうんkが同時に出ちゃうので、そんな事はしないけど。別にある程度は見せても良いじゃんくらいな感じではある。だってそれが自然だから。

 

もちろんスカした事を表明している時だってボクにはある。ボクは基本的にエエカッコシイなので。でも日々ずっーとエエカッコシイでいるワケじゃなく、そのエエカッコシイはボクの一つの要素でしかない。例えば万が一ソコだけ見て「ヤダ、カッコイイ!イカス!濡れる!」ってなっちゃうのだとしたら、そんなヤツのアゴは割ってやってチケットホルダーにしてやろうと思う。チケットが必要なイベントとかあんまり行かないけど。でもね。ずーっとスカしっぱなしの野郎&女子もいるワケですよ。まあボクは地球上の全ての女子の味方だから女子に対しては全く何も咎めず、ただただ「かわいいね。うん。かわいい。」としか思わないですが、スカしっぱなしの野郎には「おめぇ、そんな感じばっかじゃねぇだろ?あ?」って思ってしまうワケです。そんな人はきまって、中身が無い・便乗する・調子に乗る・引用する。悪いカードを切る中には、そんな人達に対するメッセージ的なモノも多少含まれてたりするかもしれない。

 

とまあ、ココまで妄想だけで書いたので何一つ真実は書いてないのですが(えー)、ボクはひとつ思いました。原点に帰ろう、と。原点に帰っても大丈夫なんだと思えたから。とある事に関して、ボクは無い事にして生きてきた部分がある。それはもしかしたら、とある時期はそれを無い事にしないと自分が成立しなかったのかもしれない。そしてそれがボクの中で「正」になっていたところがある。それはある。本当はある。ある事にした方が良さげだ。そんな思いに至ったので、まあその部分が確信に至ったら、またこの場で発表するかもしれません。しないかもしれません。しません。ひとつ言えるのはボクは自分を許せる自分になりたいと思ってると言う事ですね。それでは皆様、良い一年を。

形式美

形式美とは。

 

<三省堂 大辞林より>

 

今朝の出来事。コンビニでいつものお兄ちゃん(と言ってもヘタするとボクより年上)にレジを打ってもらう。いつもいつも商品を袋に収めるその所作から生み出される形式美にボクはボンヤリとさせられてしまう。

「ポイントカードは御座いますか?」「はい」

その言葉にいつものように反応しポイントカードを彼に手渡す。カードのバーコードスキャンをし、それを丁寧に両手でボクに返すと件の所作が始まる。袋は適切なサイズが選択され丁寧に底が四角に広げられる。速くも遅くもなく、でも重さも大きさも計算された配置で商品は「そっと」置かれ、配置が終わると袋は両手でスっと引き上げられ持ち手を軽く捻られつつ袋はこちら側にやはり「そっと」押し出される。コンビニのいちバイトであろう彼の所作が生み出す形式美は、「プロフェッショナルな仕事を見せて頂ける」と言う付加価値も少なくともボクには与えている。

 

ボクは電子ファイルでのドキュメントを書くのが苦手だ。内容そのものはおかげ様で業界が長い分だけ苦痛にはならない。そうでなく、体裁を整えるのが苦痛で仕方ない。でも中には体裁を整えるのが上手な人もいて「あれ?『できるエクセル』買っちゃった?そうでしょ?できちゃってるなー、あーすげーできちゃってるなー」って思わざるを得ない勢いで体裁を整えるのが得意な人もいる。そういう人達の大部分の特徴はこうだ。「体裁を整える事だけがすごい上手で仕事の中身そのものは残念ながら良くわかってない」みたいなそんなイメージ。なので体裁に関する事だけは、すっごい五月蝿い。指摘する時間があるぐらいなら「もうお前がさっさと直せよ」と言ってしまいたい勢いで邪悪な魂がマーライオンしちゃうぐらい五月蝿い。

 

我々(所謂IT屋)みたいな家業の人間は仕組みだったり機能だったり「見えないものをお客様に見えないところで作ってる」ので所作を人に見せる機会はほとんどない。望み通りに動いてトラブルがただの一度も発生しない(なんてモノはこの世の中に存在しないが)ようなモノを納品して稼働してくれれば、お客様にはそれこそに最低限の満足を得て頂けると思う。それを使って頂く事で結果的にでも売上が上がるだとか、お客様が持つ顧客の満足度が上がる…みたいな結果が出れば、我々としても良い仕事ができたと自覚できる。つまり基本的には結果だけが全てだと言う捉え方をボクはしている。もちろんトラブルは必ず発生するので、トラブルへの対処を含めた総合的な結果を出すと言う意味で。

 

が。そこに我々はエンジニアとしての、もしくは職人としてのこだわりを「形式美」として提供する事も大切な事ではないのか、と少し思いしらされた。形式美とは相手にとって直感的に美しいと感じる要素をもった所作であり、我々こそはその形式美をもって感情に訴える仕事をすべきではないかと、冒頭のコンビニの兄ちゃんが生み出す形式美によるボンヤリ空間にて、ほんのりボクに訴えてきたのである。

 

ボクらが伝えられる形式美ってのは何なのか。それはドキュメントの体裁かもしれないし、もしかしたらデジタルガジェットを触る所作なのかもしれないし、単純に出来上がったシステムのUIなのかもしれない。でもそれらは何か違う気がする。今のところ分からない。分からないけども、職人的に意識的に追求していく必要があるのでは…と頭をもたげている。

朝生ツイートに見る人々の単純さは、炎上プロジェクト時に残念なマネージャーが発する言葉と変わらない

福島の方が悲痛な叫びをマイクを握って発しておられた時に、池田信夫氏がスマホをいじってたのが許せない…なんてツィートを見かけた。

確かに池田信氏は線量の高い地域を「捨てる」だとか、今止まってる原発を動かす事は合法だから問題ないだとか、そんな事を言っていた。言っていたけども、氏はもちろんバカじゃない。これらの発言は敢えて言葉を選んで言っていると考えるのが自然だと思う。もちろん、その敢えて選んで言ってる言葉にて、既に負ってる傷をエグられるような思いをしている人はとてもたくさんいるはず。そこに対してボクも感情的にはテメー!このやろう!って思うところはある。あるけども…

このような敢えて言っている言葉そのものにいちいち反応してると池田氏の思うツボでしかなく、奥底にある真意を見逃す事になる。メソッドの機能がクソである事を嘆くより、何故そのクソメソッドを使ってるか?に着目しないと見てる側は無駄なコスト(この場合は感情的な疲弊を伴う上げ下げ)を追う羽目になる。しかもその上げ下げこそが結果的に氏に利益をもたらす事になるかもしれない。

もう少し言うと朝生と言う番組が人から見たらクソメソッドを使うであろう池田信夫を敢えて選んで出演依頼をしているところに着目した方が良い。そうしないと彼らが番組をどう観せたいか?と言う意図を見落としてしまい、今までの昭和の人たちよろしくいつまでもメディアを受動的に観るハメになる。結果、3500円のカツカレーは庶民的には高いけど、なんか…カツカレー食べたい!みたいにさせられちゃう。待って待って!貴方はカツカレーを食べたかったワケじゃないのに、カツカレー食べたくなっちゃったよね?あれ?みたいな。いやいや、朝生はプロレスなんです!だから生(き)のままを楽しむのが正しい!って言うなら、まあそれもまたひとつです。生で討論してる人間達の隠したい意図、本質、もしくは引き出したい意図みたいなものを見たいなら、受動的に観ていては何も見えてこないとボクは思う。

 

IT業界の人達はしばしば家に帰れないぐらいに忙しく仕事をしていたりする。周りにIT業界で働く友人がいる方はなんとなくそれがお分かり頂けるだろう。貴方のそんな友人が携わってるプロジェクトは、いわゆるデスマーチとか炎上とか言われている状態に陥っている。つまりとても間に合わなそうな納期に追われて、やむなく一日の労働時間を2倍とか3倍にする事で辻褄を合わせるハメになっている。

何故こんな事になるかと言えば、ザックリ言うとお仕事が苦手な人達が世の中にゴマンといるから…としか言えない。お仕事が苦手な人たちがたくさんいるので、その要因となると、それはもうたくさんある。敢えてひとつの要因を言うならば、(発注側・受注側に限らず)プロジェクトを任されているマネージャーの方々の多くは、起きた事象の本質を考えないからと言う事になる。

例えばこんな例もある。あるプログラムに問題が発生したとする。すると本質を考えないマネージャーである彼らは絨毯爆撃的な指示を出す。その担当者が作ったものを全部洗え!とか、そのチームが作ったものを全部洗え!とか、その会社が作ったものを全部洗え!とか。そして今後の作業分に関してはトリプルチェックを実施し、チェック手続きを全て紙ベース&口頭ベースで行い毎日定時刻に報告をせよ!みたいな、もしかしたら江戸時代なのかな…って思うような指示だ。ただでさえ遅れてるプロジェクトにはさらに圧が掛かり、労働時間は爆発的に増え、それに伴い成果物のクオリティが下がり、より深刻な問題が仕込まれる可能性が生まれる。それをマネージャーの方々は自ら生み出している。そんなマネージャーの下で働くプログラマーはもはやプログラマーだった自分の事すらおぼろげになるような事態に置かれてしまう。彼らからは彼女や女郎に会いに行こう…なんて気力すら刈り取られる。

本質を考えれば、また限られた予算(主に人件費)を考えれば、絨毯爆撃で勝負に出る選択は取るワケがない。チェック(もしくはテスト)は必要最小限に行い、かつお客様とも交渉をして運用で対処しつつ最小限に被害を収め、次の本格対応への体力を皆で温存するだろう。もっとも、できるマネージャーなら準備段階から起きうるリスクを鑑みた戦略を練ってるので、納期間近に大問題すら発生しない事の方が圧倒的に多いと思うが。

 

見えざる奥の本質に目を向ける事で、ツイッターでやいのやいの言うコストだとか、プログラマーがウサギみたいな目で仕事をする事だとかは相当数は無くなる。朝生は何を観せたかったのか、もうちょい言うと、どう言う感想を持たせたかったのか。テレビに限らず、自らの芯の部分がブレないようにモノの奥を能動的に見ないと、自らの次の決定に対する強い意思が生まれないだろう。そうなれば、次に出てくる政権はドコの政党が取ろうとも、結局「ほぼほぼ民主党政権」になるのは間違いない。国民が「国」の「民」としてどうありたいかを自らの軸を持って考え、奥の本質に対して正対する必要がある。ボクらの世代にはボクら以降の世代の為にその義務がある。