2013年を振り返ろう

こんばんはこんばんは。長らくお久しぶりでございますブログ主です。ブログをほったらかしといて申し訳あございません。とりあえず生きております。皆様におかれましてはますます御健勝のことと存じます。

2013年、私にとっては間違いなく転機の年でした。というのも職場で4月に部署が変わったからですが…強く希望して入ったところで社会人入ってからの部署を離れることに不安はあったのですが、いざ業務に従事してみればこれはこれで面白い…!というか去年までさんざ食らってた業務上の板挟みから解放され、集中して仕事ができる環境に身を置いたことでストレスが激減。外回りの仕事が多いのもそれまでのデスクワーク地獄から比べれば新鮮で楽しい。全く興味の無かった分野でありますが、モチベーションの面で言えば段違い。大学時代を含めたここ数年と比べかなり楽しい一年でした。

それでは以下毎年恒例、映画ベストランキングです。

1.アン・リー監督『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』

今年の一番は、アン・リー監督がアカデミー監督賞を受賞した作品でもあるライフ・オブ・パイ!現代における信仰の在り様についてCGを用いて想像力豊かに語ることに成功した圧倒的作品でした!客船が難破しボートの上でトラと長期間生活を共にするというたとい信じられないようなおとぎ話のようでもありながら、現代に生きる私達の生活の根底に流れるものを発見することができるストーリー。この作品が評価されたことは何かを信じる人にとっての希望でもある。アイマックスシアターで2回観たのはいい思い出です。

2.ローリーン・スカファリア監督『エンド・オブ・ザ・ワールド

エンド・オブ・ザ・ワールド DVD

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2位はエンド・オブ・ザ・ワールドデニーロの次に好きな俳優スティーブ・カレル(40歳の童貞男)の抑えた演技が光る一品。世界滅亡を目前に妻に逃げられ夢も希望も無くし何もかもを諦めた主人公ドッジの人物描写が、心にストンと来ました。そしてどこにも居場所を見つけられなかったドッジが、1人の女性との出会いによりようやくその魂を落ち着ける場所を見つけた瞬間、私の目にも涙が…。最初カーステで流れるビーチ・ボーイズを始め、サントラの秀逸さも特筆もの。

3.トマス・ウィンターベア監督『偽りなき者』

偽りなき者 [DVD]

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ディス・イズ・デンマークズ「ム・ラ・ハ・チ・ブ」!北欧の田舎で心静かに暮らす男を、根も葉もない疑惑が襲う共同体の負の部分を題材にした映画。この手の作品を観ると、社会にとって事実とは実際に起こったことというよりもむしろその共同体の成員が信じたがるものによって構成されていると痛感せざるを得ません。社会の信念から排斥されてしまった者に果たして希望はあるのか?観るのに少し勇気がいる作品ですが、観る者をそのドラマに没頭させてしまう素晴らしい作品でした。

4.ポール・グリーングラス監督『キャプテン・フィリップス

キャプテン・フィリップス [Soundtrack]

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2013年ベストトム・ハンクスソマリア海賊に襲われ人質となった船長の行く末を描く。ここ何作かは不調か?と思われていたトム・ハンクスの面目躍如、時に冷徹・時に素早く判断をくだし、最後に人間としての弱さを見せる演技が最高。評判の良くないスティーヴ・ジョブスの映画よりもジョブスっぽさを感じました。無論海賊の役を演じた俳優達の素晴らしさについては言うまでもありません。

5.デレク・シアンフランス監督『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命

デレク・シアンフランス監督の快挙再び!『ブルーバレンタイン』と同じくライアン・ゴズリングとタッグを組んだ今作で、二組の父と子の因縁という難しいテーマについて生々しく人間的に描くことに成功。音楽も前回のグリズリー・ベアに続き今回はマイク・パットンというこれまたインディーロックファン垂涎の人選で、その音のタッチの繊細さも画の美しさをより一層引き立てていました。次の作品が今一番楽しみな監督。

6.クエンティン・タランティーノ監督『ジャンゴ 繋がれざる者』

タランティーノ監督がまたしても傑作を創り上げました。西部劇のプロットを基本に、虐げられていた黒人とドイツから来た賞金稼ぎの2人の行く末を描く。やたら派手な血飛沫や急なズーム、不自然な動きなどのタランティーノ節もさることながら、今作の一番素晴らしい点はアメリカ南部の濃い血脈をフィルムに焼き付けることに成功しているところだと思います。Jim Crochの"I got a name"が流れる場面での永遠とも感じられる精神性こそがこの映画を他のエンタメ作品と一線を画すものにしています。

7.ポール・トマス・アンダーソン監督『ザ・マスター』

新興宗教内での師匠と弟子の葛藤を描いたPTA監督の最新作。私達は欲望につられどこにいくことになるのか、欲望は果たして本当に自分が望んだものなのかとこの映画を観てからというものずっと考えています。そしてフィリップ・シーモア・ホフマン演じる新興宗教の教祖が、その奥さんにその精神を支配されていることを如実に示すあるシーンが忘れられません。人は生きていく上で誰かを自分のマスターとするものだ、との監督の言葉は正しいと思いました。

8.ジョシュ・トランク監督『クロニクル』

2013年最高の青春映画。ふとしたことから超能力を得てしまった高校生3人のドラマですが、その手に入れた超能力を使って高校生達がきらめくような一瞬を過ごすことができたのも束の間、主人公アンドリューがどんどんエスカレートしてしまい破滅してしまう姿が、それまでの不遇さが胸を抉るものだっただけに切ない。高校時代ってより多くのものを求めてしまうよなーと懐古的になってしまいました。

9.ジョン・S・ベアード監督『フィルス』

フィルス

フィルス

ワル役ジェームズ・マカヴォイ最高!スコットランドのどうしようもないクズ警官の生き様を描いた作品。主人公の策略がポンポンはまっていく様がどポップで上映中全く飽きない最高のエンターテイメント。余談ですが上映前会場では”ボーン・スリッピー”が流れていて、かつ本編ラストが”クリープ”だったので今一体何年だよと思いました。

10.ジョセフ・ヨシンスキー監督『オブリビオン

2013年最高のSFエンターテイメント。『スターウォーズ』『2001年宇宙の旅』『未知との遭遇』等の古典SF作品に敬意を示しつつも最新のギミックに溢れた心躍る作品。ラブストーリーとしても面白く、2人(?)が辿り着いたラストも愛の概念に挑戦的で、とても現代的でした。


以上10本でした。他にも面白い作品はありましたが今回は割愛。全体としては、アカデミー関連作品に当たりが多かったせいか大作のクオリティに安定感があった印象が強いです。ミニシアター系よりも普通にロードショー公開されてるものの方が面白かったですね。地方民としては嬉しいですが、たまに東京遠征する際の興奮も無くなりつつあるのが残念。

今年ワーストは『人類資金』。エンドロールで文部科学省の助成を受けている旨確認できましたが、教育や文化を考えてのことだったら俳優たちの英語の発音どうにかせんとこんな映画文化的に一銭の価値もないぜ、と言う気分に。『47RONIN』はその点頑張ってる俳優が多かったのでまだマシでしたが…

映画以外だと、今年は多く旅行に行った年でもありました。3月の瀬戸内国際芸術祭、夏のフジロックフェスティバル等々国内でも貴重な体験をしてきました。そして9月、念願だったユーゴスラビアに行くことができました!

サラエボドブロブニクも良かったですが、何よりセルビアエミール・クストリッツァの映画村を訪れることができたのは人生最高の体験でした。今思い返しても実感がありません。いずれにせよ自分の中のユーゴスラビアはまだ終わっておらず、近々リベンジに向かいたいと考えております。『石の花』と出会って何年か後に実際に行くことになるとは当時思ってもいなかったのですが。

2013年ベストソングはThe Nationalの"Afraid of everyone"。父親としてのプレッシャーに潰されそうになる男の曲(だとされているよう)ですが、ここまで神経にクる曲をかけるのは本当にすごい。ずっと聴いてました。

それでは映画・音楽中心の年末振り返りはここまで。来年は良い年になると良いですね。皆様が良い新年を迎えられますよう,心からお祈り申し上げます。良いお年を。

(noman29)
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・Take it,or leave it?
今年はどんな年だったかと人に聞かれたとしたら、ビックリする位印象の薄い年だったと私は答えるだろう。それ程にあっという間に過ぎた一年だった。

4月に部署を異動になった。元々やりたいと希望を言って入った課なので後ろ髪引かれるところもあったが、元部署ののストレスの多さに既に限界を感じていたので致し方なかった。そしてそれによって業務的には全く関係の無い部署で動くこととなったが、そこは人数の多い部署のため複数人で業務に取り組むという文化が根付いているところだった。当初の戸惑いこそあれ、それまで自分1人に責任を被せられたことがあまりにも多すぎたため、何かあったら誰かに相談できる体制に思った以上に体が馴染んだ。

それによって精神状態は、ここ数年と比べると比較的まともになった。むしろ今から考えると大学時代のほとんどをノイローゼ状態で過ごしていたのではないかとすら思う。転がる石には角は立たないと言うが、あまりにも生き急ぎ過ぎた感すらあるというのがこれまでの人生を振り返っての感想だ。

ただ、それまでの焦燥感中毒ともいうべき症状を亡失してしまったせいか、成長が止まった感はある。去年は忙しさの中にも勉強をして資格を取得したりする余力があったが、今年自分で自分を追い込むことはできなかった。それがいいことがどうかは分からない。ある人にはストレスが無い分いいじゃないか、と言われたし、またある人にはそれではダメだと言われた。多分これはどちらも正しいし、判断できるのは何十年も後になってのことになるだろう。

今私に起こっていることは正しいのか?それは抗うべきことなのか?それについてはずっと迷っている。地球上のどの民族にも存在すると言われる通過儀礼とは、日本人にとっては就活を含めた社会人経験のことを言うのだろうと解釈しているが、成熟を拒否してきた身としてはそれに抗いたいとも思う。ただ、個人的な感覚として、無責任な状況から周りの人間を批判するだけ批判しておいて自分は何もしない人間を、もはや信用できなくなってしまった。ツイッターで上から目線で社会批判を繰り返す大学生が、いわゆる社畜として何事もなかったように振る舞うか、どこにも行き場所がなくなってメンヘラ化しまった例をあまりにも多く見すぎてしまったのかもしれない。信用すべきはもっと別の道である。一般的なオッサン化とも、社会を知らなさすぎる学生とも違う道で迷っているのが現状である。民族・言語・宗教など一つの国というにはあまりにもアイデンティティが拡散しすぎていた旧ユーゴスラビアに向かったのも、それと関係があるのかもしれない。

ロバート・A・ハインライン月は無慈悲な夜の女王』は、地球の植民地と化している月世界の住民が革命を試みるという古典SFであるが、そこで展開されるのはスターウォーズよろしく「父殺しの物語」である。現在のシステムに極度の不満があるわけではないが、現在の支配を排除できうる可能性を持つシステムに出会ってしまった主人公が、月の行政府を倒し、地球の政府に宣戦布告を行う。その途中「月世界で暮らすのに何に課税する必要があるんだ?」とのリバタリアン的思想を持つ主人公は、自らが「盗んできた金」で今の革命軍を組織したいわば正統性を持たない存在であり、かつ自分が指揮してきた市民に自分があんなに嫌っていた課税を行わなくてはならない現実を思い知るようになる。それは一面では成長であるし、一面では腐敗だ。「無料の昼飯は無い!」はこの小説のスローガンであるが、何かを得るためには何かを失わないといけない。輝かしくイノセントなまま人生を過ごすというのは幼児的万能感以外の何物でもない。

通過儀礼論に関しては、アダム・スミスよろしく「見えざる手」を感じるときがある。絶対権力者を批判していた人間がいざその権力者を倒した瞬間に権力者の如く振る舞い始めるというのがそれだし、卑近な例で言えば中学の頃不良だった人間が20代でまともな人間になっていたりするのがそれだ。世の中うまく出来てるなと感じることが多い。

果たして自分に今起こっていることは成長なのか?それとも大人という存在への腐敗なのか?前述のとおりそれは今の自分には分からない。それでも今自分が信じられることがあるということが何個かあることは喜ばなくてはならないだろう。宗教はなくとも支持したい信念はいたるところに見つけられるし、社会人として目指すべき目標となる人間がいないこともない(もちろん反面教師も)。道は常に曲がりくねっているし、生きるとはいつも取捨選択だ。

宮崎駿監督『風立ちぬ』

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視しているなにものかから、今にも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼はひろげられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。彼は顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきにつきつけてくるのだ。多分彼はそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗力的に運んでいく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。
ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』(1940)野村修(訳)1969 『暴力批判論 ヴァルター・ベンヤミン著作集1』晶文社


宮崎駿監督『風立ちぬ』観てまいりました。スタジオジブリの前作『コクリコ坂から』から2年、宮崎駿監督作品の『ポニョ』からは5年ぶりとあって、久しぶりに劇場にてジブリの画に触れる機会となりました。ジブリ作品に対する期待度は年々低くなってきていたのですが、今作はその先入観をいい意味で裏切る素晴らしい作品で、何とも考察し甲斐のあるものでした。

事前情報にあるとおり今作は、昭和の戦時下に生きた堀越二郎及び堀辰雄の2者の半生を反映した物語となっております。主人公の堀越二郎は幼い頃から飛行機を制作することを夢見ており、成長して技師として三菱に入社してからも戦闘機の制作に携わることになる。そんな折、関東大震災に被災したとき手助けをした菜穂子と偶然再会し、2人はあっという間に恋に落ち結婚するが、菜穂子の体は当時不治の病とされていた結核に犯されていた、というのが大まかな筋書き。実際にゼロ戦の制作を行った堀越二郎の物語をベースとしつつ、菜穂子とのロマンスの部分は堀辰雄サナトリウム文学の要素を盛り込んだものとなっています。

映画館で繰り返し流されていた予告編を観たとき、私はこの作品は純粋なロマンティシズムに傾倒したものとなるのではないかと思いました。というよりあの予告編を観たほとんどの人がそう思ったはずです。昭和初期の風景・飛行機の制作へ情熱を向ける人間の姿・病弱ながらも美しい女性との儚い恋、そしてそのバックで流れる荒井由美ひこうき雲』…時代を生きた人の感情を生き生きと描けばそれは立派な作品になるし、ノスタルジーを多量に含んだ物語をジブリが創ることは容易だったはずです。あのたった4分の予告編は、あれだけで優れたヒューマンドラマとして完結した世界を構築していました。

本作の序盤を観て私の心の中に湧き上がってきた感想は、「何だか宮崎吾郎が創った映画みたいだなー」ということ。表面だけの優等生的な受け答えしかしない主人公、飛行を描く割には観客の心を飛翔させない陳腐な夢のイメージ、都合の良すぎる妹のキャラ造形etc…全盛期にみられた架空の世界を生き生きと描く宮崎駿監督の饒舌さが全くみられず、ただただ他者である我々の観客の視線を拒む私小説的な描写ばかり。『ポニョ』に続いて今回もちょっとダメかな、と思った瞬間でした。

その感想が反転したのが中盤以降。草原でデッサンをしていた菜穂子の帽子が風で飛ばされて二郎がキャッチし、それが2人の再会につながるところや、試作した戦闘機がテストを成功したと思いきや、結局失敗しておりそれが二郎の心に残って燻りとなっている場面を観る内にいつの間にか惹きこまれている自分がいました。

本作のテーマは「風」。それは、主人公の意志をサポートしたり、二郎と菜穂子の仲を前進させるものであったり、あるいはハッピーエンドへと向かって人物を成功に導くようなロマンティックかつ単純なものではありません。二郎の精神的師匠であるカプローニが「風は吹いているか」と問いかけ、それに二郎が応えるとき、時代の情勢は彼らにとって順風満帆というには過酷過ぎるものでした。二郎が関東大震災に襲われ、また欧米列強との技術力の壁を思い知るとき、夢の中でカプローニは決まって上述のセリフを言います。その言葉が二郎を応援するならまだしも、物語は簡単に好転していきません。何故なら、今作で「風」は、人々を翻弄していく運命・時代の情勢を象徴しているからです。二郎の人生は飛行機の飛行が成功するかどうかによって左右されており、誠実過ぎるほど誠実に飛行機作りに邁進する二郎は風によってその後の人生を決定づけられます。同様に主役2人の恋も、帽子が飛ぶことによって始まります。そして紙飛行機が不安定な飛行の果てに相手のもとに辿り着くシーンに顕著なように迷走を経て2人も結びつき、悲劇的とも前向きとも言えないようなラストに向かって突き進んでいきます。*1もし戦争中の社会で主人公が絶えず飛行機制作に突き動かされずに済んだら、あるいはもう少し後の世界で結核がもはや不治の病でなければ、2人はもっと普通の生活を遅れたに違いありません。しかし当時の「風」はそんな夢を許さないほど過酷でした。

この、夢に生き、夢に殉じた二郎の姿はそのまま宮崎駿監督に通ずるところがあります。飛行機を創り続けた二郎と、アニメ制作に人生を賭けた宮崎監督。二郎の創った飛行機は戦争の道具となり、宮崎監督の創った作品は監督が嫌う資本主義の道具となった。そのこと自身について彼ら自身が矛盾を抱えた存在であるという他無く、しかしながらその部分にどうしようもないほどの人間的魅力を湛えています。また、今回たまたま時勢も相俟って、ジブリがこんな行動に出たことが話題となりました→小冊子『熱風』 - スタジオジブリ出版部。その結果は周知のとおり。宮崎監督自身リベラルでありながら、今回その思想が勝利することはなく、しかしながら自身の作品は日本国民のほぼマジョリティと言っていいほどに人気を博している…そんなところをみると、監督自身も未だに時代の風に吹かれていると考えずにはいられません。

引用の文章にある「天使」は、勝者によって創られる物語と、その裏で破棄される無数の敗者の物語という両極端の存在によって揺れ動く「歴史」のイメージであると言われています。大きな物語に回収されないような、救って拾い上げたい過去は増える一方なのに、「今」は容赦なく今自体を生きることを要請する。そんな人々の姿を隠喩したものです。”ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風”であるとすれば、進歩そのものが諸手を挙げて称賛されるべきものだとは言えないでしょう。ただそれでも前進せずにはいられない我々の存在の過小さを痛感させる例示だと思います。

風は常に吹き続けている。そのことを認識したとき、初めて私達は歴史の上に立ったと言えるのかもしれない。先人の必死の思いの行動ですら善に帰結するとは言い難く、後からその行動の是非を判断することも簡単ではない。二郎が飛行機を創り続けたことや、重症の菜穂子と一緒に暮らすことを決めたことも恐らく完全な正解ではない。しかしそれでも、二郎は菜穂子との代え難い時間を得ることができたし、その記憶を胸に生きていけるなら羨ましいほどに素晴らしいと思う。何かを失ってでも何かを求め続けなければならない。生きるとは多分そういうことなのでしょう。

*1:この辺は、希望的展開なら飛行機が右→左、逆に悲観的ならば左→右と動いているのが映画技法の定石どおりで驚きました。参考:http://d.hatena.ne.jp/baphoo/20120109/p1

FUJI ROCK FESTIVAL'13


フジロックフェスティバルに行ってきました。

毎年毎年今年はもういいかなーとか言っておきながら、結局三年連続での参加となってしまったフジロック、今年は何と社会人の身分でありながら前夜祭含めて4日間がっつり参加してしまいました。今年から割とユルい部署に異動となったからいいものの、去年までだったら考えられんわーとかずっと思いつつ苗場で過ごした時間は貴重なもの。そんな私の不徳な行いを見てか、苗場の山の神は土砂降りの雨を3日間与え続けたのでした。贅沢のし過ぎはよくないなぁホント(震え声)

さて今回、メンツとしてはUSインディ―ロック厨の自分を喜ばすには充分ではあるものの、これは絶対に観たい!というように決定的なアクトはいず、イマイチ煮え切らないままの状態でした。しかし蓋を開けてみれば素晴らしいライブの連続。降りしきる豪雨は正直堪えましたが、それでも参加した甲斐はありましたね。以下、各アクトの感想なんぞを。


7/26(金)
・ROUTE 17 Rock'n Roll ORCHESTRA
今年のフジロックの始まりは企画ものバンド。やっぱりこういう豪勢なのって否が応にも盛り上がる。ロックインジャパンとかが強いのもこの辺だよなぁ、とかトータス松本が”バンザイ”を歌っているのを見ながら考えていたらどうやらそこがピークだったようで、その後はオールドナンバーが続くも明らかに観客が退却していくのを見、しょうがないけど何だかなあ、とちょっと心寒い思いをしたのでした。

あがた森魚
オレンジコートに強烈な日差しが照りつける中、あがた森魚を見た。普段ならとてもライブに来ないような若い客層に対して、フォークを基調とする自らの音楽を鳴らしていく。彼の高いミュージシャンシップを見た気がしたし、それを受けて盛り上がる観客の姿もとても嬉しいものだった。

・LOCAL NATIVES
1日目の中でも特に期待していたバンド。その期待に見事に応えてくれた素晴らしいライブだった。1曲目は2ndからの"you&I"。壮大さと独特のリズムが絡み合う曲による最高のオープニング。力強いドラムがこのバンドを特別な存在にしていると実感。2曲目はまたも2ndから"breakers"。反復を基本としつつ飛翔感のある音像を展開していく。この辺りですでに今回のライブが最高のものになると確信した。その後も個性派でありながら安定感を兼ね備えた彼らの演奏に心酔し続けた。この人たち、ライブやらせたら今のロック界で一番なんじゃないだろうか。若手の勢いのみならず、きちんと成長した姿を見せてくれて感動した。文句なしに今年のフジのベストアクト。

NINE INCH NAILS
この時の会場は、全く止まない豪雨に加えて、山向こうに5分に1回は雷が落ちる最悪の環境。そういやNINが解散するからって行った06年のサマソニの時も雨が降りしきっててだったんだよな…などとのんびり思い返す余裕もなく体を容赦なく冷やす雨に耐えながらNINの登場を待つ。
打ち込みの電子音が響く中トレント登場。その後各メンバーが徐々に現れては楽器を演奏していくが、いつものバンド形態ではなくステージ前方に一列に並ぶ形態。これを見てクラフトワークを想起した人は多いはず。新曲、”Sanctified”、新曲と来て徐々にバンドセットに戻っていくが、最初からメンバーの後ろにあった5枚の白い壁は適宜移動しつつ先鋭的な映像を流していく。機材を移動しながらライブを組み立てていく様は、トーキングヘッズの”Stop making sense”を思わせたりも。特に"Closer"での、ステージ上のトレントの顔がざらついた画質で白い壁に広がる演出なんかは、自分の自意識に閉じこもる歌詞とマッチしていて成程なーと感じました。その後は"Wish""Only""Head like a hole""Hurt"などド定番の曲へ。インダストリアルな音と内省的な歌詞に浸っていて、自分がこの音楽と一緒に青春を送ってきたんだなと痛感しました…。それはともかく、90年代のアメリカの病んだ部分を体現してきたトレントレズナーは、見せ方を含めて表現を先鋭化させることでライブに新しい活力を持たせようとしているのかも。映画音楽方面の仕事も好調なのに、再度NINとしてライブに戻る決心をしてくれたことは1ファンとして嬉しい限り。彼の意気込みを感じた2時間でした。あの空間を生で体感できたのは、すごく価値があったはず。


7/27(土)
トクマルシューゴ
この日は前日からの疲れがたたってテントでの休みを強いられたので、かなり遅れての参加。そんでヘヴンでのトクマルシューゴ。自分としては、もう何回かライブを見ているし正直ライブが音源を超えるタイプのアーティストではないなと結論付けてしまっていたためテンションも低めだったけど、そんな意識を正す素晴らしいライブだった。メンバー同士のかみ合ったアンサンブルが、曲の繊細さを壊さない程度に軽妙なグルーブを生み出しており、加えて熱量の高さも備えたべストの演奏。特に新譜の曲群を演奏するテンションが高く、バンド全体にとっていい雰囲気になっている。こんな演奏ができるなんて、何て幸福な人たちなんだろう。

DANIEL LANOIS
雨も止んで、ヘブンが暗くなった頃にラノワ先生がスタート。アンビエント系で行くのかなと思いきや、ギターボーカル、ベース、ドラムの最小編成。演奏されるのはコーラスをメインにした緩やかなロック。真夜中の澄み切った空気のヘブンの中、磨き抜かれた音の重なりによって集中力高く奏でられる美しい音楽によって、疲れ切った心は安らぐことができた。極上の時間だったな。激しい音でなくても、力強い音を鳴らすことはできるんだ。

・GARTH HUDSON
サポートの人が能力高いのでどうにか持ってる感じだったが、正直最初の一時間は聞くに堪えない感じだった。リズムを合わせない・合わせようとしないガースにバンドメンバーもイラついている感じ。リハーサルも満足に出来ていないようだった。こんな状態で俺の大好きな"Makes no difference"とか歌わないでくれー!と思っていた。
それでも最後の方は、しっかりと演奏してくれた。もしかしたら完全オリジナルかもとも思っていたけれど、ザ・バンドの曲をやるのに抵抗が無いようで"Whispering pine""Tears of rage""The weight""I shall be released"など往年の名曲を演奏。当時そのままの姿で、というわけにはいかなかったけれども心を感動させられるのに充分でした。大学の頃"フェスティバルエクスプレス"で観た、70年代の若者の心の支えになっていた人が今ここにいるんだな、と思うと感慨もひとしおでした。

・WILKO JOHNSON
あの無国籍な雰囲気が大好きなのでフジに来たら毎度クリスタルパレスに行くようにしているのですが、それにしても今年のパレスはかなり込み合っていたように感じました。そして中でも最大の混雑を発生させていたのがウィルコジョンソン。それもそのはず、彼は今現在末期ガンで余命が長くないことを宣告されているのだから。しかし実際のライブはそんな辛気臭い事実を微塵も感じさせないパワフルなもの。ボーカルの合間にステージ上を左右に動くウィルコは、昔の動画で見る姿よりも輝いて見えた。こんなに最高のロッカーを、神は奪っていってしまうのか。そう思うと心にくるものがあった。元来パブロックとしてデビューしたドクターフィールグッド。その中心人物だった彼を、バーを模した会場で見れたことはあまりにも幸運だったのかもしれない。そう思いつつ、2日目の夜は過ぎて行きました。


7/28(日)
YO LA TENGO
3日目の始まりはグリーンステージのヨラテンゴ。目当てのバンドの一つだったにも関わらず、寝坊&遅刻で途中からしか観ることができず。それでも"Sugarcube"やったし最後のノイズ祭りも彼ららしくてメインステージの聴衆に媚びておらず良かったです。朝一のアクトとして最高。

・TORO Y MOI
せっかく日本に来たマムサンを盛り上げないでどうする、とギリギリまで葛藤していたのですが、潔く諦めて見たトロイモア。これが大正解。キーボードを中心としたバンド形態
で演奏される切ないディスコは、夏の香りを感じさせて夕暮れ時にぴったり。バッキバキのビートと分厚いシンセの音にバッチリ飛ばされてきました。時折キーボードの上に置かれた機材によってDJライクな音が出るのもかっこいい。インディーの枠を飛び越えた音楽をやっていると思う。最高!

・DUSTING WONG
トロイモアからダスティン・ウォングへの一連の流れは、今年のフジでのべストだった。一人の音楽家がステージ上でギターを多重録音し、彼のみの宇宙を創りあげていく様を見るのはとても刺激的だった。日が沈みかけて行くシチュエーションという環境も、どこかノスタルジーを感じさせる音像とマッチしていたと思う。アヴァロンに集まった客は決して多いとは言えなかったが、届くべき人に彼の音楽は届いたのではないだろうか。終演後、物販に人が詰めかけたのを見てそう思った。もう一度ライブが観たい。

THE CURE
いやはややってくれましたよ3時間!その間演奏すこっしもぶれないしロバスミの声は出まくっているしでこのバンド化け物か、と思うことしきりでした。最初からどんより冷徹な暗黒サウンドを展開してくれていてこれは期待できる!と思ったのですが、それだけではなく"Close to me"等多彩な曲を含め、キュアーの全キャリアをぶつけてくるような選曲。中でも"Lovesong"は、Adeleのカバーも含めつい最近までよく聴いていた曲なので流れた瞬間心が持ってかれてしまいました。「どこにいようとも、何を言おうとも君を愛しているよ」という今時ドラマでも言わないような言葉。しかしそんな恥ずかしい心情もロバスミは隠すことなく歌い続けてきた。その狂おしい感情そのものがキュアーの神髄だし、熱烈なファンを未だに生み出し続けている要因でもある。どんなに不格好でも伝えるべきことはあるという彼の姿勢を見ることができて本当に良かった。俺も青いままでいよう。


以上ライブの感想でした。その他のことだと

  • フェス飯って値段そこそこする割には量全然少ないから結局2個位頼んじゃって食費がすごいことになるのよねーと今年も思いながら色々買ってました。今年はジャスミンタイのタイラーメンがクセがありつつも美味でした。五平餅や鮎も毎年お世話になっておりまする。
  • 今回で思い知ったけれど、山の装備重要。防水仕様のジャケットが二つダメになってしまった。でも皆カッパとか標準装備ですごく焦った。フジはやっぱ上級者向けだわ…
  • 今回キャンプサイトに知り合いがテントを立ててそこに泊まったけど、思いのほか良かったのでキャンプ関連に手を出してしまおうかと思った。あれ、何もしないでボケーっとしてるだけでもかなり良い。
  • でも4日間参加は贅沢すぎるし体力的にも2日間ぐらいで十分かな。

などなど。次参加するかどうかもわからないので来年のことなど分かりませんが、次は晴れるといいですねホント。死ぬかと思った。


最後に。今回のフジは、購入したEOS 60Dの初陣でもありました。それで撮った写真をば。





5/10 TELEVISON@下北沢GARDEN

クールネスを、もっともっとクールネスを!
70年代NYパンクの雄、テレヴィジョンが来日するということでしたので、職場の先輩と一緒に参加してまいりました。

当日の会場はほぼ満員といった状態。テレヴィジョンのみならず日本のオルタナシューゲイザー史を語る上で欠かせないバンドdipの客演もあるということで会場の熱気もなかなかのものでした。初めての下北沢でしたが、やはり街全体でバンド音楽への愛情があるのでしょうね。

GSの音楽性云々以前に音量が大きすぎて正直キツかったザ・シャロウズ、ミニマルな音の構築のもと、必要最小限の動きでスマートに、しかし確かな演奏力で重戦車の如く場の空気を動かしていくdipの後にいよいよテレヴィジョンの時間。開始SEでは、チベット音楽を思わせるガムランが音数を極少なめにして、長い時間流れていました。一曲目は"VENUS"。名盤として名高い1stからロックで活きのいい曲を、そのまま老いを感じさせない切れの良さで演奏してくれ、期待が高まります。

しかしその後は、あまり知らない曲(恐らく3rdの曲)やインプロを中心とした、極度と言っていいほど禁欲的な世界に突入。トム・ヴァ―レインのボーカルとギターも言葉少なめで、時折瞑想するかのようにステージ上でじっとしている姿が目につきました。かつてNYパンクの聖地CBGBで、ラモーンズパティ・スミス・グループらと共に演奏を行っていたという事実が信じられないほど、世間一般でのパンクのものとは正反対の緊張感に満ちた音像がそこにはありました。

十年近くロックを中心とした洋楽を聴いている自分からすると、音楽の中で一際重要なのはそれを用いて感情を吐露することだと思っている。言葉にしてしまうとうまく伝わらないことを、大音量のギターetcという過剰な言語行為により伝えきってしまうことができる。ジミーペイジのギターが鳴る瞬間、カートコバーンのギターがサビに向け爆音になる瞬間、イースタンユース吉野寿が感情の果てに涙も枯れきったかのようなソロを引き始めた瞬間…そんな感情の発露にこそ、考えや文化を超えて万人に感情が届いてしまうかのようなマジカルな瞬間が発生するし、至上の価値があるんだと思う。そしてパンクといえば、若者の”怒り”を媒体にしているためその音楽性が露骨に出ている形態の一つといっても過言ではない。

しかしテレヴィジョンのライブは、そんなパンク、引いてはロックの感情移入の形式とは対極にあり、ステージ上では感情に流されることを固く禁じているかのような印象を受けました。その結果、解放をテーマにするパンク音楽とは反対の、緊張感に満ちた音空間を体感することに。かつてワイアーというポストパンクバンドは”ロックでなければ何でもいい”と言い放ち、既存のロックに反抗する意思を示しましたが、テレビジョンもその流れの一部、というよりもそういったアティチュードのそもそもの源流なのではないか、と感じました。安易にディストーションをかけないギター、遅々としているビートは私達が思い浮かべるパンクとは異なるものでしょう。しかし破壊とは正反対に見えるそのストイックなスタンスが一転するととてもパンクだとも言えます。ステージ上で即興の曲を取り仕切るトム・ヴァ―レインは自らの芸術に遵ずる人間に見えました。クールネスをもって表現する姿勢は、ソニック・ユースはじめ今でも多くのバンドに受け継がれているな、と身をもって実感できたのが今回の収穫でした。

本編ラストの曲は"Marquee Moon"。この曲だけは情感を感じさせる名曲であっただけに、これで終わりにしても良さそうなものでしたが、アンコールにも二度応じて、ちゃんとリハーサルができているのかすら怪しい曲を演奏していました(笑)。彼ららしいといえば彼ららしく、老境になっても求道者精神を失うことなくバンドの求めるものを先鋭化させる姿勢は見習いたいばかり。


いや、でも若いころは結構爆音でやってたんじゃないか!?とも思うんですけどね。

ジャック・オーディアール監督『君と歩く世界』

・あなたの人生に死を近づかせないために

久々の映画感想の更新。もう既に劇場公開も終盤にさしかかってしまっていますが、現在ある人間ドラマの良作がひっそりと(でも全国ロードショーで)公開中です。

幼い息子を連れて親類の家に住むこととなったアリ(マティアス・スーナールツ)。素行の悪い彼はクラブの用心棒を生活の糧としていたが、ある日クラブで男を挑発するかのような服装をしているステファニー(マリオン・コティヤール)と出会う。昼は水族館でのシャチの調教師をしている彼女は、ある日ショー本番での事故で両足を失ってしまう。失意のどん底にあったステファニーだったが、そんな彼女にアリは粗暴ながらも優しさを示し、二人の人生が交錯し始める…というお話。

テーマはずばり「生の充足」。あらゆるところで生をモチーフにした演出がなされ、それが人生における落とし穴にはまってしまいもがき苦しんでいる人物たちに影響を与え行動を起こさせる物語でした。

自分の天職とも言うべきシャチの調教師の職を失い、また両脚を失うことで自信を持っていた自分の外見も損なってしまったと感じ生きる気力を失くすステファニー。そんな彼女がアリに連れられて海に向かうことで事態は好転する。最初は億劫がっていたステファニーが、「泳ぎたい」と口にするようになり、着ている服を脱いで光り輝く海へとアリの助けを用いつつ着水する。脚が無くとも全身を使って水面を泳ぐステファニーの姿には、それまでのグッタリした体にはなかった生命力が漲っていました。一度は精神的に「死んだ」ステファニーが、生への渇望を得た一瞬が示され、観客である我々にも伝わってきます。

その後アリとの面会を重ねるごとに、彼を深く信頼するようになるステファニー。そして彼女はついに、アリに性生活について聞かれた際「欲望はあるわ」と答えるまでになります。この時のステファニーは、長らく閉ざしていた自らの生への渇望が湧き上がっているのを自分でも認識し、日常生活へ復帰する最終ステップを踏み出したい状態。セックスを通じて元の自分を取り戻したいと欲望したいと考えていたのではないでしょうか。そしてその欲望はアリによって満たされることになる。ステファニーは脚を失う前の自分を取り戻すことに成功するのです。

また、非合法な野外ボクシングでアリが戦っているのを観たマリオンは、明らかにその粗暴さに惹かれている。格闘技なんて健康的な身体を賭して削り合っているものである以上、総じて生きる上で無駄なものと捉えてもよいでしょう。特にそれがテレビに映るようなショウとは違い倫理的にも妥当性を持たないものであるならばなおさらです。しかし常に流血を伴うほどの非合法ボクシングを通じてアリは自分の存在を確かなものとしているし、それを見たステファニーにも精神的にプラスな感染が明らかに起こっています。その後彼女が非合法ボクシングの世界に運営側として深く関わっていくのも、彼氏の悪い面に影響を受ける女性のようで妙なリアリティを感じました。

海で泳ぐこと、セックスにふけることそして格闘技に身を投じること。それらは全て「生の浪費」というべきものです。結論を言ってしまえばそんなことなんかしなくても生きていけるし、それをしない/できない人間には不可解な行為ですらある。それでもある一定の人たちには必要な行為であり、それ抜きだと途端に人生の意味を喪失してしまう類のもの。この映画に準じて言えば、上の3つは2人にとって生きていくために必要な要素であるし、それを通じて自らの存在意義・生の実感を得ていることが分かります。

上記の海でのシーンに関しては、最近水泳を始めたので感じるところがありました。カナヅチを克服する上で最も重要なのは溺れないように意識を訓練すること。それはすなわち、最も円滑に泳ぐことができる水の表面部に留まる意識を持つことです。慣れない水中でなんとか進もうともがけばもがくほど抵抗が強くなり、泳ぐには無駄に力を使わせてしまう。その結果深い部分に潜り込んでしまい溺れてしまう。最も効率的な体の動かし方は、水面上に留まることなので、イメージだけでも掴んでおかないとすぐ沈んでしまいます。表面部にいればうまく行くと自信を持つこと。そして水中での体の動かし方を知ることが、水中での過ごし方を体得することにつながります。この映画で「深み」にはまっているステファニーやアリの姿は、そのまま水中でバランスを失って溺れる姿に近いと感じました。

英語のタイトルを直訳すると「サビと骨」。最後の主人公のセリフで「骨」の意味が説明されています。厚い氷の張った水面下に落ちてしまった息子を救出しようとして、自らの拳で氷を殴っているうちに格闘家の要ともいうべき指の骨を骨折してしまうアリ。そして病院で息子を助けることができない無力さに苛まれステファニーに助けを求めますが、その時彼の心も折れていたのだと思います。その後息子とステファニーと共に記者会見へ向かう時のナレーションで「骨は折れると、太くなって再生する」とアリは言います。困難な人生において幾度となく衝突せざるを得ない挫折。そんな人の生命に降りかかってくるサビのようなものはどうしようもなく存在している。ぼやっとしていると知らぬ内に生活を蝕んでいくサビに対して、私達は骨を削るかのような態度で臨むしかないのかもしれない。その結果折れてしまってももっと強くなって復活するものだと自らの体内作用を信じて。その作用を否定することはそのまま生を否定するようなものだ。我々に与えられた生命力は、預かり知らぬところで命を支えているのだ。


「生」は浪費されて充足されるべきもの。さもないとすぐそこにある死に足を絡めとられてしまう。人生の深みに不必要にはまることに意味はないのではないでしょうか。うまく行かないことがあって自らに不信感を持ってしまっても、そう焦ることはないのではないでしょうか。人生を生き抜くためのプログラムは、既に私達の体内に骨として組み込まれているのだから。

瀬戸内国際芸術祭(2日目)


遅くなりましたが、3月に参加した瀬戸内国際芸術祭、二日目の様子です。前日は残念ながら曇天のために完璧なロケーションのもと芸術作品を観ることが叶わなかったのですが、二日目は幸運にも晴天に恵まれ、瀬戸内海の雰囲気を100%満喫することができました。また実際に巡ったのが前情報から本命と決めていた芸術作品が多かった豊島であったためか、実際に観て印象深かった作品が多かったです。

二日目小豆島の宿にて起床。まだ早朝でフェリーの到着まで時間があったので国道を中心に島の中を散策することに。しかし歩いてみると家は密集しているはコンビニとか生活に必要な店は大体あるは(パソコン教室が普通にあった!)で、島といえども関東地区の一地方と同じぐらいの生活圏ができてるんだな、と不思議な感覚にとらえわれかつ先入観を持っていたことを反省することしきり。フェリーで数十分すれば高松に行けるんだから当たり前なんだろうけど、旅館のテレビつければ普通に関西圏のチャンネルが映るとことか、シムシティで言うと中心地区に近いせいで発電所とか建設して発達しまくる島部分みたいなものかな、と思った。



朝食を食べて旅館に別れを告げ、目の前の土庄フェリーターミナルへ。島を歩いているときも感じたのだけど、何かゴマを炒ったような匂いがしているなぁ、と思ってたらスーパーでよく見るごま油のメーカー、かどやのロゴが貼ってある工場が!調べてみたらあのごま油を製造している工場は昔から小豆島に置いてあるそうで*1。意外なところで思わぬ発見が。写真の「太陽の贈り物」は海をバックに設置されていてなかなか存在感があった。小豆島にはその他にも「小豆島の光」とか面白そうな作品があるらしいのだけど、今回は巡ることができなかったので残念。あの迷路のような街並みの感じはとても好きだったのでいつかまた来てじっくりみてみたい。


フェリーに乗って豊島は家浦港に到着。そしてすぐさま目の前のガソリンスタンド屋さんでチャリを借りた。本部インフォメーションの目の前にあるレンタサイクルも考えたけれど電動式でちょっと面白くないし時間制限が厳しめだったので、普通のチャリが一日借りられるこちらで豊島を回る。にしてもここの街並みも風情が合っていいですね。落ち着いた黒茶の色には統一感があり、この地域が持っているアート系イベントとの親和性を感じさせます。


豊島の漁港にて野良猫の懐柔に成功したであります!トルコのイスタンブール行った時も思ったけど、猫や犬がのんびり過ごせている地域ってそれだけで魅力的に感じてしまう。何だかその地域の生活感を測る指標のように捉えてしまっているなぁ。


今回目玉の一つだった豊島横尾館はまだ建設中。がっくし。


家浦港からついてすぐのところにある、トビアス・レーベルガ―作「あなたが愛するものは、あなたを泣かせもする」。空き家をレストランに改築したこの作品、島の風情に合う黒い木の古い部分と、アートが持つ斬新な部分が不思議に調和していて面白かった。



内装は線の間隔の配置を微妙にずらすなどするなど通常ではありえない感覚で変化しており、エッシャーのだまし絵のようにこちらの遠近感を破壊してくる。一見オシャレでありながらその実某ホラー漫画家の邸宅よりも内部に暴力性を秘めているのかもしれない。表と裏が常にひっくり返る楽しさはあるけれど、もし子どもを持った時2階をこんな風にされたらグーで殴るしかないのだろうか。何にせよ学のない私は「アートだわぁ…」とつぶやかずにはいられませんでしたわ。

チャリで唐櫃岡・唐櫃浜方面へ。しかし思った以上にアップダウンがきつい…ガソリンスタンドのおばちゃんに「この島回るのは苦労するわよー」と忠告されたにも関わらずそんなんクロスバイクで80㎞とか走ってる俺からすればチャラヘッチャラですよ!と言わんばかりに悠々と発進した1時間前の俺のバカバカ、とか思いつつ坂を登る。


道の途中にあった"Big Bumbu"。何かこれ見覚えあるなーと思ったらフジロックのボードウォークか、と思い出した。友達が野外イベント開催してフジのアート感覚そのままに会場設置してた時も思ったけど、フジロックってアートを身近なところへ持ってくることに成功してるんだな。


島キッチン、開放的なレストランとあって期待していたのだけれど木が枯れてるしこの時は曇天だったし何より混んでて30分以上待たされてその後の計画が狂いまくったため微妙な印象。ただ地元の女性(と思われる)方々を雇い運営を行っているのは好感が持てました。


豊島の至るところでこういう石垣の組み方をしていて珍しいと思った。人文系出身なのでニュートラルな印象を与える最新のアート以上に、人々の生活感や歴史が伝わってくる細部の技術が好きなのかもしれない。こうしたフェスティバルを通じて見知らぬ土地の歴史に自然と興味が湧いてくるのであれば、イベントは成功といってもいいのではないでしょうか。(経済的には知らない)


豊島美術館へチャリで向かう道すがらに、この日のベストシーンが。必死にチャリを漕いでいたら目の前には瀬戸内海の海が…!最高の景色のもとで行うサイクリングは素晴らしすぎて、帰った後この感覚を周りの人と共有できない孤独感が募ってしまうほどでした。晴天の瀬戸内海は天国に最も近い場所なのかもしれない。絶対にまた来ようと思った。

豊島美術館は撮影禁止、ということだったので写真はないのですが、美術館を象徴しているともいえる内藤礼作「母型」は素晴らしかったです。穴の開いた、大きな白いドーム形の建築の中では水滴が人には気づかないような微妙な傾斜や風の動きによって静かに移動していき、次第に大きな泉へと合流していく。その動きはまるで人々の魂の動きのようでもありました。辿る道は異なり、合流する(出会う)流れも異なれど、結局は最後に目指すところは同じ。たまに軌道からはぐれて溜まっていものはそこに留まろうとする群れのようでもありました。違う場所に生まれ、一つの目標に流れてとどまり接収され再び生産される。そこにあるのは流れのみなのかもしれない。


豊島美術館から再び東、唐櫃浜へ。こういう青カンがある景色っていいよね!


豊島の形をかたどったバスケットボールのゴールは地域の集会所にありました。すぐそばにボールを詰めたカゴがあり、誰でもバスケがプレイできる。チャレンジしてみたけど一番上のゴールに入れることはできませんでしたとさ。しかしまー楽しかった。


『心臓音のアーカイヴ』を体験したあとは再びチャリで甲生地区へ。この辺も傾斜がきつい…この辺りの島は港があったかと思って振り向けば島中央に高い山があって、ただっぴろい関東平野の港町出身現山間部住まいの自分からすれば何だか不思議な感じがする場所でした。


「君が!泣くまで!上り坂をやめないっ!」(島全体の声)


甲生に到着。そしてすぐに今回の芸術祭で一番観たかったこの作品へ。塩田千春作「遠い記憶」。島の中で集めた古い木材を基に作られたトンネル。かつて人々によって使用され、意味づけられた部品たち。

マッシュアップされるかつての人々の記憶。そこをくぐりぬけた時、人は何を感じるのだろうか?という強い興味をもって今回の芸術祭に臨んだのだけれど、一つひとつの部品からその歴史が断片的に伝わってきました。細部を通じてかつての島全体の様子を示唆するという手法は、古い建築を資源としたアートと相性がバッチリ。部外者の私にも歴史を僅かに感じさせてもらえるという贅沢をさせていただきました。


ちょっと移動したとこにある港に展示(係留)されていたのがこちらの鏡張りにされた漁船。波が自身をもって船にその証しを刻み込んでいくなか、船と波は相互に影響を及ぼしあっていく。周りの海面を反映しつづけるこの船は、さながら海と船が一体であることを示しているのかもしれないなー、と何となく思いました。


古い家の中で制作されたモチーフ。漁師網等をつかってまるで一つの生き物のように創られたこれはこの地域の根底に流れるものを表している。その後ろでは、家の壁に直接プロジェクターにて地域の人が語る様子が投影されていて、それがまるで家全体が語っているかのようですごく生々しかった。この手法、とても有効なので同じような別の場所でもどんどん使うべきだと思う。

甲生地区を後にし、あとはひたすら家浦へ戻る道をチャリで突き進んだ。


到着。そして待合室でぼけーっとすること数時間後、フェリーに乗って宇野へ。



さようなら美しすぎる瀬戸内海。また会う日まで。

といった感じで宇野から岡山まで電車で戻り、新幹線で東京、高速バスのラストでつくばに戻り、次の日の朝には私は職場で仕事をしておりましたとさ。いいんです帰るところがあることは幸せなことだから。しかし前の日の夕方には瀬戸内海上をフェリーで揺られていたというのに、遠く離れたオフィスであくせくしている感覚が不思議でしょうがなかった。


というわけで今回の瀬戸内国際芸術祭への参加は、大変充実した小旅行となったのでした。アートとかに疎い私でもそれなりに楽しめたので、アートとしても間口の広いイベントなのではないでしょうか。フェリーでの移動は時間がかなりシビアなため、公式ガイドブックとにらめっこすることが必須となってしまいますが、それでも各島々を巡る楽しさがあって良いです。また、当初危惧していた「アート作品の設置が先走っていて、地域住民の姿が見えない独りよがりのイベントになってしまっているのではないか」という問題は、実際に島に行ってみると杞憂だったことがわかりました。これは各アーティストがその地域についてをテーマとした作品を創っていることが多く、今の姿を通してかつての島の姿を示すような作品が多かったからだと思います。一サイクリストとしては、晴れた日ならサイクリングで回ることがおすすめしますよ!自分のロード/クロスバイクを高松か宇野に送っといて、フェリーで島に持ち込むのもいいかもしれません。瀬戸内海を横目にしつつペダルを漕ぐ快感は何にも代えがたいもの。あの体験ができただけでも参加した価値はあったイベントでした。

瀬戸内国際芸術祭(出発〜1日目)


瀬戸内海の島々を舞台に行われる「瀬戸内国際芸術祭」、2013年の今年はその第2回目が開催されるとあって仕事の合間を縫って行ってきました。アートとかに関して素養があるとは言い難い身ではありますが、それでも島全体を背景に展開される作品を目の当たりにして思うところは多く、また天候にも恵まれ素晴らしい体験ができたと思います。

毎度のことながら今回もギリギリまで仕事。半日休みを取ったはずなのに何故俺は夕方までここ(職場)にいるんだろう…そんなことを思いながら職をこなしつつ帰宅。現地の宿及び帰りの新幹線情報を調べ、準備とは名ばかりの最低限ものだけ掴んで鞄に放り込む作業をして出発。

東京駅ラーメンストリート『斑鳩』のラーメン。酸味が強くて微妙だったかな。

そして東京から大阪まではこの深夜高速バス、

コクーンで向かいます!デイリーポータルでの記事を読んで以来一度乗ってみたかった夢の乗り物だったのですが、そのエヴァみたいな異様な見てくれがこけおどしに終わることはなく、座ってみたらなかなかの快適さで大阪までぐっすり眠れましたよ〜!また機会をみて乗りたいです。(ただし長身の身には座席の長さが足りず、足を曲げて寝る羽目にはなった)


その後、新幹線で大阪〜岡山、マリンライナーを乗り継いで高松に到着。初めての街だけど浜風が吹いていて地元の漁師町みたいでどことなく懐かしい。でも高層ビルが建っているあたりは水戸に近い感覚もあるかな。死骸中心地区なのにすぐそこが海っていう土地の景観はとても好き。


釜バターうどん@うどんバカ一代。できることなら正統派のうどんを食したかったのですが、祝日で朝早くやってる店があんまりなかったのですよ…味はカルボナーラのようで絶妙。油分が先に来て塩があとから効いてくる感覚はとても良い。はふはふ言いながら本場のうどんを楽しむことができました。


予定より少し遅れて直島へ。本当はこの日豊島に向かう予定だったけど、天気が悪くてレンタサイクルでまわれなさそうだったのと直島なら地中美術館等天候に左右されない施設が多そうだったので先にこちらに回ることに。


直島に着いてすぐ迎えてくれるのが草間彌生作のこの赤いかぼちゃ。港の広場に設置されているため公園の遊具のように使用する子供が後を絶たず。こういうのも作者の意向なんでしょうね。

 バスにて地中美術館へ。地中美術館では安藤忠雄の作品が観れるということで楽しみにしていたんですが、体感してみるとその意向は素人に分かるものではなかった…どうも建築に関しては、人々の日常生活のためにデザインされている建物を多く観てしまっているせいか、快適性を犠牲にしてメッセージを強く打ち出すような建築に慣れていないんだと思う。もうちょい勉強してから来た方がいいかもなーと痛感しました。
 その代わりジェームス・タレルの作品は素晴らしかったです!『オープン・スカイ』は天井の高い部屋で、上からこぼれる光に安定さと不安定さの両方を感じる作品。空が切り出され、白い壁が四方に巡らされた不自然な空間内では、空という空間の絶対性が疑われるため、普段我々が日常でどれだけ空の色に依拠して生きているかを不思議な感覚をもって教えられることになる。また『オープン・フィールド』は、目の前に四角く切り出され青い光に満たされた空間の中に入り、一度軽く前後不覚となる。その後振り返ると、元居た空間も妖しく見える作りとなっており、光の存在で人間の時間・空間認識が簡単に変化しうるということを示していた。

 

再び草間彌生作のかぼちゃ。というか海沿いの設置ということもあって俺にはこれがイソギンチャクにしか見えない…周りが砂浜の中こいつがデーンの置いてあるのはかなりのインパクト。今地球が滅びて将来これが発掘されたらどんな解釈がされるのだろう。少なくとも俺は人生の意味とかを見出してないぞ。因みに地元の人によると台風でよく飛ばされてるそう。うーん。


塗りオリーブ・追いオリーブの次は飲みオリーブや!と地元の観光協会の人が思い立って開発されたかどうかは定かではないですが、オリーブサイダーはまったりした飲み心地で悪くなかったです。緑のボトルって食欲をそそられるのはなんでだろう。


かなり期待していた「家プロジェクト」は時間の都合もあって殆ど入ることはできませんでした。しかし当日は直島の春祭りにぶち当たっており、至る所にある家でこんな飾り付けが。独特で風土を感じさせてくれていいですね。神輿が出ててニュースになったりもしていたのですが、それはちらっと見れただけでした。

地元の学校の体育館でも催しものをやっていた模様。何やってるかまでは見れなかったけど、こういうのを見ると屋台でフランクフルトの一つでも買いたくなってしまう。

大竹伸郎作「I♥湯」。本人も来ていたようで、向かいの家のおばあちゃんが嬉しそうに観光客に案内していたのが印象的だった。

『007/赤い刺青の男』記念館。「あれ、『007は二度死ぬ』の舞台って直島だったっけ…?」とか思っちゃったけど映画化されてない原作内での話なのね。

 そんなこんなで一日目は終了。時間が足りず、また天候が思わしくなかったせいか自分の中でも不完全燃焼の感があったけどそれは次の日にとっておくことにして本日の宿がある小豆島へフェリーで。
 

 夜の小豆島は遠くから波音が聞こえてきて異郷な感じ。心地いいけどここであの絶望のサイレンが鳴ったら俺泣くなぁ、と何となく思った。宿はおかみさんの人柄をはじめとてもいい感じだった。