本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

知里幸惠 アイヌ神謡集

知里幸惠 アイヌ神謡集
 中川 裕 補訂
(岩波文庫)岩波書店

 「今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。けれど…愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。」口承文芸に新たな命を与えた知里幸惠の序文。

 知里幸惠は1903年に登別で生まれた。幸惠の祖母と伯母は語り歌い演じるアイヌの口承文芸の名手だった。当然、幸惠もアイヌの口承に浸って育った。文字をもたないアイヌの言語と口承文芸を研究していた言語学者・金田一京介は、アイヌの老人たちがさまざまな口承を語り歌い演じるのを聴き、深い敬意を抱いた。

 金田一はアイヌの豊かな世界を本にして世に知らしめようと、幸惠を北海道から東京の自宅に呼び寄せた。幸惠は日本の学校教育を受け、美しく正確な日本語の文章を書いた。また独学でローマ字を学んでおり、アイヌ語の韻文詩をアルファベットで表記することができた。アイヌの神謡の音を記録し、わかりやすい日本語に訳すのにうってつけの人だった。幸惠は金田一の家で神謡集を書いた。心臓病を抱える身で苦しみながら。そして書き終ると、1922年9月にこの世を去った。享年19。

 幸惠が書いた神謡集は、1923年に郷土研究社から各地の民話とともに知里幸惠編「アイヌ神謡集」として『炉辺叢書』に集録された。横書きで、見開きページの左側にアルファベット表記のアイヌ神謡を、右側には日本語訳を、とアイヌの言葉も日本語も尊重した形になった。1978年に岩波文庫から発行された知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』も同じ形になっている。

 今回、岩波文庫の新版で、書名は『知里幸惠   アイヌ神謡集』となった。口承文芸は、語り手の丸暗記した言い伝えが語られるものではなく、語り手が即興で語り歌い演ずるもの。語り手がその場で創り出す作品なのだ。だが語り手の幸惠が書いた原稿などが残っていない。そのため過去の郷土出版社版と岩波文庫版を元にし、あきらかなアイヌ語・日本語の誤りを修正。原文に近く、なおかつ読みやすい表記に改められた。

 幸惠の心はアイヌと日本、二つの文化の間で引き裂かれはしなかっただろうか。金田一はアイヌの文化を尊敬していたが、アイヌ自体はいつか日本人の中に消え亡びるだろう、と考えていた。幸惠はそれに抗し「私たちは違う」と叫ばなかっただろうか。

 この本の序文には、アイヌからさまざまなものが失われていってしまう悲しみと、いつかアイヌも強く時代と共存するときが来るようにとの祈りが書いてある。アイヌの未来のために言葉を残す、という幸惠の意志が伝わってくる。

(掲載:『望星』2023年10月号、東海教育研究所)

ペンネーム変更しました。

ペンネームを使うことは匿名性の影に隠れた無責任行為なのかもしれない、と悩んでいたときがありました。

でも『ゲド戦記』のように他人に支配されないために真の名を秘する、というのも捨てきれませんでした。

折衷案として、本名に近いペンネームにすれば罪も減るかも、とあさましい考えから、ペンネームを「澤 一澄(さわ いずみ)」としました。

書評の更新を長いことサボってましたが、一新してがんばって更新します。

よろしくお願いします。

亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言 増補版 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著 / 奈倉有里 訳

亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言 増補版
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著
奈倉有里 訳
岩波書店 

 タイトルの『亜鉛の少年たち』の亜鉛とは、ソ連軍が戦死者を亜鉛製の棺に入れて家族の元に送ったことから。

 ソ連は1979年、アフガニスタンの社会主義政権を援助することを掲げ、現地に軍を派兵して反政府勢力と戦った。長引く戦闘はソ連の財政に大きな負担をかけ、1989年に撤退。この敗北はソ連政権の屋台骨を揺さぶる一因となった。

 ソ連の一員だったベラルーシ出身の作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ。第二次世界大戦を女性たちが語った『戦争は女の顔をしていない』など小さき人々の記憶と戦争を書いてきた。

 これは小さき人々が語るアフガニスタン戦争だ。アレクシエーヴィチにとって大人になってから起きた同時代の戦争。もう戦争のことは書きたくないと思いつつ、でも黙っていることなどできず取材を始めた。1988年、アフガニスタンのソ連軍基地に赴いた。兵士たちは敵を殺し味方を殺されるのが日常となっていた。若いアフガン人の女性が殺された子供の前で傷ついた獣のような声で泣いていた。

 著者はたくさんのアフガン帰還兵たちと兵士の母親たちを取材し話を聴いた。ある母親は嘆く。生きて帰ってきた息子が殺人を犯した。向こうで人が変わってしまった。人殺しを教えられ人を殺すことに抵抗がなくなってしまった。あの子をあそこに送り込んだ人間は裁かれないのに、と。

 別の母親は、いきなり亜鉛の棺を持ってこられ、息子さんは戦死しました、と言われた。棺は開かないようになっていて遺体を見ることもできなかった、と。

 帰還兵たちは怒り、苦しむ。手や足など体の一部を失ったり何らかの障害を負ったりした人、そうでない人も皆、昔の自分には戻れないと言う。

 アフガニスタン行きに志願しろと言われ、断る選択肢などなかった。上官たちに虐待され自殺した仲間もいた。ろくな食料や装備もなく、銃弾を売って現地の店で買った。撃ってから殺したのが女子どもだったと気づいた。父や祖父の戦争での勝利の体験を聞いて育った。社会主義の理想を現地の人に説いても受け入れられなかった。大勢の仲間が無惨に死んでいった。俺たちは英雄なのか、人殺しなのか。

 この本の底本はペレストロイカ後の1991年に発行された。だが取材を受けた何人かは嘘を書かれたと著者に対して訴訟を起こした。ソ連から独立したばかりのベラルーシで、彼らはソ連時代の権力に怯えたのだ。増補版ではこの訴訟について、裁判での証言や、さまざまな人が寄せた手紙などが付け加えてある。

 現在もベラルーシではソ連時代の権力が続いているため、著者アレクシエーヴィチは祖国で暮らすことができないでいる。ソ連解体後もロシアでは戦争が絶えることがない。今のウクライナとの戦争でも、膨大な数の戦死者が亜鉛の棺に入れられ送り出されているのだろうか。歴史は繰り返さないが、歴史を知らない人間たちが過ちを犯す。

(掲載:「望星」2022年9月号、東海教育研究所)

 

 

 

アレクシエーヴィッチとの対話 「小さき人々」の声を求めて 

アレクシエーヴィッチとの対話 「小さき人々」の声を求めて
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ / 鎌倉英也 / 徐京植 / 沼野恭子 著
岩波書店

 東京オリンピック出場のため来日したのベラルーシの選手がポーランドへ亡命した。突然の帰国命令の背後にベラルーシ政府がいるのを恐れたためだった。

 ベラルーシはかつてソ連の中の一国だったが、ソ連崩壊後、独立した。その後、1994年からルカシェンコ大統領が政権を握り反対する人々を弾圧し続けている。

 ベラルーシ出身の作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ。『戦争は女の顔をしていない』『チェルノブイリの祈り』『セカンド・ハンドの時代』など、ソ連のために生きた市井の「小さき人々」の苦悩と悲しみの言葉を集めてきた。2015年、ノーベル文学賞を受賞。
 
 この本ではNHKディレクター・鎌倉英也、作家・徐京植、ロシア文学研究者・沼野恭子の3人が、アレクシエーヴィッチと対話しながら一連の作品をたどる。

 アレクシエーヴィッチは1948年にベラルーシ人の父とウクライナ人の母の間に生まれソ連人として育った。ロシア文学、特にドストエフスキーの影響を深く受けている。彼女は1984年に『戦争は女の顔をしていない』で第二次世界大戦に兵士や看護師として従軍した女性たちの生の声を本にした。この本ははじめ、戦争の英雄を書いていない、との理由で発禁にされた。その後『ボタン穴から見た戦争』で第二次世界大戦の中の子供を証言から描いた。さらに自分たちの政府が手を染めた戦争にも目を向ける。ソ連のアフガニスタン戦争を『亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言』として兵士の声を集めて書き、自分たちの国が他の国に侵攻した罪をあらわにした。

 1986年のチェルノブイリ原発事故。風向きのためベラルーシは多量の放射線にさらされた。アレクシエーヴィッチは1997年に『チェルノブイリの祈り』を発表。ある女性は消防士の夫が原発事故の消火の際、重度に被爆し死んでいくのを看病した。ある人々は危険地域内の我が家から離れがたく戻ってきた。戦火もないのに見えない死が訪れる未知の戦争だ。

 1991年、ソ連崩壊。自由の時代が来るかと思いきや、来たのは金の時代だった。人々はモノに翻弄され社会は荒れはてた。ソ連時代の理想が壊されて絶望する人も少なくなかった。超大国ソ連の時代を懐かしみ力強い指導者に頼る声が大きくなった。アレクシエーヴィッチが2013年に世に出した『セカンド・ハンドの時代』は人々の過去を懐かしむ言葉がつまっている。そしてソ連時代の独裁から変わらない政府。自由とは何かという問いを突きつける。

 アレクシエーヴィッチは2016年に福島を訪れた。チェルノブイリのときと同じ感想を抱いたという。自分たちの社会と同じく日本の社会には抵抗の文化がないと指摘した。人々はただ、善き皇帝、善き役人、善き首相が現れるのを待っている、と。

 現在、ベラルーシ政府の圧力を避けてドイツで暮らしている。この本は彼女が長年取り組んできた小さき人々の連作を一覧するために読んでも良いだろう。


掲載:『望星』2021年11月号(東海教育研究所)に加筆訂正。

 

手づくりのアジール 「土着の知」が生まれるところ / 青木新兵 著

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手づくりのアジール 「土着の知」が生まれるところ
青木新兵 著
晶文社

 民主主義国家なら、人が皆、心身ともに健康に生きられるのが「ふつう」だ。だが、このところ皆が「ふつう」に生きるのはむずかしくなっている。「ふつう」というのは厳しい条件をくぐり抜けた人々の狭い輪になってしまった。「ふつう」でない人は生きづらい。

 著者・青木新兵と海青子夫妻は、かつて神戸の都市部に住んで働いていた。著者は西洋古代史を専攻して大学院博士課程を終え、大学非常勤講師や塾講師をしながら論文作成など研究者としての実績づくりに追われていた。病気の苦しみに耐えながら。妻は大学図書館で司書として働いていたが、よその大学に転職。しかし配属先は図書館ではなかった。妻は職場での軋轢のためか病気になり休職、そして入院することとなった。「ぼくたちは社会の中で一度『死んだ』のだと思っています」と著者は語る。

 2016年、著者夫妻は奈良の山の中の東吉野村に家を借りて引っ越した。そこに蔵書を並べ、人文系私設図書館ルチャ・リブロを開いた。著者は障害者就労支援事業所で働き、大学で講師をし、村共同の仕事をし、ルチャ・リブロのキュレーターをしている。妻はルチャ・リブロを営みながら布小物やアクセサリーを作っている。
 
 ふたりはルチャ・リブロを「アジール」として作ることを試みた。「アジール」とは時の権力からの避難所のこと。宗教や慣習上の理由から聖なる場とされ、そこに入れば追求から逃れることができる。例えば、離婚したい女性が駆け込む縁切寺。山は聖地とされたため、古来から為政者の権力が及ばない「アジール」だった。
 
 今の日本は小さく囲い込まれた都市の生活が「ふつう」とされている。でも、その周辺の山村には都市の生活とは違う、自然の流れに合わせた土着の生活がある。著者は都市から山へ逃げてルチャ・リブロという「アジール」を作り、都市と行き来していろいろな仕事をする、という軽やかな暮らしをおくることで都市の「ふつう」に挑む。この本で著者は同年代の人文系研究者と対話している。考えを語り合い共有する人々の輪を広げていく。今の「ふつう」に対する「知のアジール」が山の土着の生活の中から作られる。
 
 著者は、都市の「ふつう」になじめず漂泊する人物として、映画「男はつらいよ」の寅さんに惹かれている。ときどき温かな家族が住む故郷柴又に帰ってくるものの、真っ当に働けだの落ち着いて家庭をもてだの言われ、喧嘩をして飛び出してしまう。そして旅に暮らすが、気が向くといつの間にかひょっこり帰ってくる。今はこういった漂泊者が存在できない時代になってしまった、と考える。
 
 これまで若い研究者は大学に定職を得るために身をすり減らしてきた。しかし著者のような、中央の権威に寄らず自分たちで新しい知の場を作ろうとする人が出てきた。新しい柔軟な知が野から育っている。若い人々の挑戦に期待しよう。

掲載:『望星』2022年2月号(東海教育研究所)に加筆訂正

 

 

 

 

『カカ・ムラド ナカムラのおじさん』ガラフラ 原作 / さだまさし、他 訳・文


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カカ・ムラド ナカムラのおじさん

ガラフラ 原作
さだまさし、他 訳・文
双葉社

 2019年12月、アフガニスタンで長年に渡って住民に尽くし敬愛されてきた医師・中村哲氏が、現地東部の都市ジャララバードでスタッフとともに何者かに殺害された。アフガニスタン政府から名誉市民権を贈られたばかりだった。
 現地の人々は深い悲しみに沈んだ。中村氏の肖像に「あなたはアフガン人として生きアフガン人として死んだ」「中村さんごめんなさい」など言葉をそえて追悼した。

 中村氏は住民から親しみをこめてカカ・ムラドと呼ばれていた。アフガニスタンで子供の絵本を発行・配布している現地NGOガラフラは、中村氏について子供たちに知ってもらおうとカカ・ムラドの絵本「カカ・ムラド ナカムラのおじさん」と「カカ・ムラドと魔法の小箱」を作った。

「カカ・ムラド ナカムラのおじさん」は日本で例えると小学校高学年以上の子供向けに中村氏の功績を伝える物語。緑の木々の中を流れる美しい用水路を見ながら、この豊かさを贈ってくれたカカ・ムラドのことを父が娘に語る。

 中村氏がアフガニスタンと国境を接するパキスタン北西部の都市ペシャワールの病院に赴任したのは一1984年だった。日本ではNGOぺシャワール会が活動を援助した。中村氏はハンセン病などさまざまな病気に苦しむ人々に直面した。当時、ソ連アフガニスタンに侵攻し多くの難民がパキスタンに逃れていた。

 1991年、アフガニスタンの山岳部に診療所第1号を開設した。アフガニスタンではソ連軍が撤退し、国内勢力同士の内戦になっていたが、イスラム原理主義勢力タリバンが首都カブールを陥落させた。

 2000年、アフガニスタンを大干ばつが襲った。人口の半分以上が水不足に苦しみ約100万人が餓死の危機にあった。中村氏たちは「医療よりも水」と井戸を掘り始めたが簡単ではなかった。さらに翌年のアメリ同時多発テロに対するアフガニスタン報復爆撃に阻まれた。

 2003年、中村氏らPMS(平和医療団・日本)は現地の人々と合議し、用水路の建設に乗り出した。大河の水を村々に引く。春の雪解け水は恵みだが、ときに洪水となる。それに耐えられる、なおかつ現地の材料で容易に復旧できる工法を探し、中村氏は故郷、福岡県に遺された江戸時代の堰を研究した。苦闘の末、マルワリード用水路など、いくつもの用水路が作られた。用水路に沿って柳の木が植えられ砂漠は緑の大地となり豊かな農作物に恵まれた。「カカ・ムラド」の物語の緑と水の豊かな風景はこうして作られた。

 もう一つの絵本「カカ・ムラドと魔法の小箱」はもう少し小さな子供向けの物語。お父さんとお母さんに世界一の宝物をあげたい幼い男の子に、東の果ての国から来た魔法使いで男の子の大切な友だちカカ・ムラドがさまざまな助言をする。

 中村氏が死んでも、アフガニスタンで意志は用水路として生き、存在は知恵ある魔法使いとして語られる。それは失われることはない。

掲載:『望星』2021年10月号(東海教育研究所)

『宿借りの星』酉島 伝法 著

宿借りの星
酉島 伝法 著
東京創元社

 SF小説の楽しさは、舞台はどんな世界で、主人公はどんな存在か、読み進むごとにわかってくることだ。むろん、主人公は人間でなくてもいい。

 「頭の奥まで霞んでいるようだった。」と言う、ひとり語りから物語は始まる。生き物らしきものが移動していく描写。だが幻らしい。今、語り手は砂漠にひとりでいる。語り手は人類ではなく4本の脚、2本の腕、4つの眼をもつ外骨格生物のようだ。

 その語り手で物語の主人公は、異星の生物マガンダラ。御惑惺様(みほしさま)と呼ばれているこの星では、御侃彌様(おんかみさま)という巨大な長が、たくさんの種蘇俱(しゅぞく)を従える俱土(くに)がいくつかある。マガンダラは大柄で強い種蘇俱ズァンググ蘇俱(ぞく)。マガンダラは、オラツラワ様を御侃彌様といただくの俱土に生まれ育ち、いっぱしの組頭になった。だが、本人にもわからないまま親分方から不興を買うようになった。そして決闘で義兄弟を死なせるはめになり、追放され無宿者となった。それで砂漠をさまよっていたのだ。なぜこんなことになったのか。皆が変わってしまったのだろうか。

 マガンダラは旅の途中で、4本の腕と2本の脚をもつ小さく弱いラホイ蘇俱のマナーゾと友情を結び、義兄弟の盃を交わす。かくて物語は無宿者と義兄弟の股旅物となる。ふたりはマガンダラの知己の親分を頼ろうと、他の御侃彌様が治めるよその俱土に入り込んだ。そこで再会した親分はふたりにとんでもないことを話す。昔、種蘇俱たちが殲滅した卑徒(ひと)つまり地球人類が復興を企み、密かにさまざまな俱土を侵略しているというのだ。

 一方、御惑惺様にひとつだけある海の底。聖なる領域として種蘇俱は近づかない。そこで、かつての地球人類は記憶だけをおぼろに保って全く違う生物に変容していた。無数の人類のなれの果ては、さまざまな生物に寄生しながら、星の奪還のために地上をめざす……。

 異形の生物たちの人間くさい任侠物語が意外とわかりやすい造語で語られていく。だが、あまりに多様な生物を住まわせる御惑惺様とは何なのだろう。読むほどに謎が深まる。人間社会が嫌になった人にお勧めかも。

 掲載:『望星」2019年8月号(東海教育研究所)に加筆訂正。