第19回ノルウェー読書会のお知らせ『フリチョフ・ナンセン 極北探検家から「難民の父」へ』


19thノルウェー読書会のお知らせです。

 

2月10日(土)の第19回ノルウェー読書会は、新垣 修 著『フリチョフ・ナンセン 極北探検家から「難民の父」へ』(太郎次郎社エディタス、2022)を取り上げます。

探検家にしてノーベル平和賞受賞者のナンセンとは、いったい、どんな人物だったのでしょうか。

ご参加、お待ちしています。詳細は下記のチラシをご覧ください。

参加申込みはこちら https://forms.gle/YUtbcwv1KT4GkXks7

 

 

第18回『ノルゲ Norge』読書会ノート

佐伯一麦著『ノルゲ Norge』

講談社文芸文庫、2015年

 

■はじめに

今回の課題本『ノルゲ Norge』は、当時38歳だった著者の佐伯一麦氏が、再婚相手で染色工芸家である妻のノルウェー留学に同行し、北欧の地で過ごした一年間を、小説家の視点で綴った作品です。ノルウェー語はもとより、英語もままならない「オスロの外国人」と自身を位置づけた日常の描写には、短期滞在の観光とは異なる、現地に住む生活者としての気づきにあふれています。定住者だから見えてくるもの、発見できることが、丹念な文章でタペストリーを織り上げていくように、少しずつ読む者の目の前に広がります。2007年第60回野間文芸賞受賞作。

 

著者が過ごした1997年と同時期に複数年留学していた方、著者と同年代で家族と半年間在外研究で滞在された方、スウェーデンに留学経験のある方もいれば、ムンク研究のために今年初めてノルウェーを訪れた方、ノルウェーの民族楽器ハーディングフィーレを習いはじめ、今夏に山間の村で行われた音楽祭に行かれた方など、読書会参加者それぞれが小説に出てくる場面に自分の体験を重ねて記憶が蘇り、懐かしさや、共感を口にされ、和やかな雰囲気で読書会がスタートしました。

 

ノルウェーの外国人、「おれ」

『ノルゲ Norge』は全12章。8月のある日、妻の留学先の美術大学の学生課から斡旋された老朽化した8階建てのアパートメントの入り口で、その日から使うマットレスが配達されるのを待つ場面から始まります。著者は一人称の「おれ」で自分を語り、自己をさらけ出すように物語が語られます。住民が出入りする共同玄関で、彼らの言葉を聞き取ろうとしても、知っている言葉にしか聞こえないもどかしさ、物語冒頭から始まる著者が感じた言葉の壁に、参加者からも「言葉を理解できないまま異国の地に住む状況になったら、きっとこうなるのかという気持ちになった」という共感とともに、「言葉の通じなさはあったが、現地の人は温かく、解ろうと一生懸命聞いてくれる姿勢が嬉しかった」「言葉を理解しようとするだけに、鳥の啼き声や暖房器具のモータなど、音に対して敏感な描写がある」など、音に関する感想も随所であがりました。確かに著者の聴力は人並み以上に敏感で、帰国間近には、日本にはいない鳥の啼き声も聞き分けることができてしまうのです。

 

ノルウェーでの暮らし方

電車の乗り方、無賃乗車の取締り、お酒の買い方、酒場での禁止事項、魚の種類、伝統料理の感想、一日の食事の回数、ハンバーガーの食べ方、コインランドリーの料金、役所での外国人登録医療保険、失業率対策のための学制改正、国民高等学校制度、離婚制度、ノルウェー独立に至る歴史等々、ノルウェーに住むなかで著者が体験したこと、知ったことが、丁寧に書かれています。参加者からはその度に、「スーパーでは通常夜8時まで、休日の前は夕方5時になると酒類の売り場にカーテンがひかれて買えなくなった」「カフェに隣接するコインランドリーが割高だった」「バスを1停留所乗り越したらスマホに赤表示がでた」「スマホがないと交通機関の利用ができない」「無賃乗車のチェックが頻繁にはいり、リアルタイムでスマホの画面をみせた」「山間部ではドクターヘリで患者を運ぶらしい」「食事は一日中少しずつ、ずっと食べ続けている印象がある」「ノルウェー人は同じものが食事にでても飽きないらしい」「東京の人口を教えたら驚かれた」「街の規模が小さいためか知り合いが多い国だ」など、新しい情報も次々に提供されました。

 

■小説家としての視点

作品の中で、音に関する繊細な描写と同様に目を引いたのが、色の表現の卓越した豊かさです。小説家と染色工芸家の芸術家カップルということもあり、相互の刺激が感じられます。それは、タペストリーの作品描写や、ノルウェーの四季の自然描写、さらにはタペストリーをもとに詩編として表現した作品や、ムンク「叫び」の背景色など、様々な箇所で登場します。今年初めてノルウェーに行かれた方たちからも、「ノルウェーの空の色は青や紫など、誇張ではなく、本当に色鮮やかだった」という感想が聞かれました。「空気の澄んだノルウェー」だからこそ、日本では感じない色も沢山あるのでしょう。

多様性という点では、妻の級友に紹介されて通った外国人向けの無料のノルウェー語学校の場面でも、世界中のあらゆる国の人々が登場します。授業で行われるワークショップの様子や、成人学生たちの個性が語られ、単なる制度の紹介にとどまらない、内側からノルウェー社会を観察する作家の視点があります。

妻は、「ノルウェーの移民政策は、個々の文化を尊重しながら同化を求めるのが基本」であり、「ノルウェー語を習うことは権利と共に義務」であると級友からの情報を著者に伝えます。著者は、「この国が、社会人や主婦にも大学教育の門戸を開けていることは事実だが、それを享受するためには、どうやらタフでなければ自分のやりたいことは実現できないようだとおれは痛感」しますが、それは他の場面にも共通するノルウェー人の考え方です。妻の別の友人は、他者とのコミュニケーションがうまくとれない子供の一時保育をしていますが、その仕事に誇りを持っていて「これはボランティアではない」と言い切りますし、ボロボロのアパートメントを見たタクシーの運転手は、自分がオスロ市にこの建物が非常に危険な状態であることを通報してやると言います。

一方でノルウェー人はシャイなところがあって、共通の友人、知人、同郷の人から人間関係をつなげていく「知り合いの多い国」であると紹介し、「ノルウェー人は自己満足が強い」とか、「ノルウェー人はまだまだ隣人の成功をうらやみ嫉妬するところがある」等、マイナス面を語ることも忘れません。

 

■夫婦の空気感

 夫婦二人で過ごす異国での1年間の滞在記ですが、妻との会話は彼女の友人の話や、ノルウェーで生活するうえでの情報など、差しさわりのない会話にとどまります。私小説であることからすれば違和感すら感じますが、読み込んでいくと、最初の連れ合いとの関係を赤裸々に小説化したことで、離婚に至った内容も書かれています。そこまで書くとは、まさに私小説だ!との感想もあがりました。新しい伴侶となった今の妻とは、感情的な会話や生活の様子などの描写はなく、芸術家同士、相手を尊重し踏み込まない配慮も感じられるほど透明な空気が漂う関係です。それは決して冷たい空気ではないことも、巻末の詳細な著者年譜には度々妻の動向も書かれていることに伺われます。

 染色工芸家の妻が「『織り』は経と緯の二本の糸で構成させるのに対して、『編み』は一本の糸だけで平面を生み出す。一度進んだら後戻りできない『織り』と、もう一度ほどいて再構成することもできる『編み』。『織りの人生』というものがあるのならば、『編みの人生』というものもある」と言った場面に感じる、妻とのどこか俯瞰的な関係性がこの小説の特徴といえるかもしれません。

 

■スズキ・メソッド、聞きなし、ルビ

滞在当時のノルウェーではバイオリンの教育方法のひとつ、スズキ・メソッドが注目されていて、著者が妻の級友から、スズキ・メソッドを知っているかと聞かれる場面があります。読書会に音楽の専門家が参加されていることから、日本人とノルウェー人の聴覚の話題になりました。楽譜を見ないで音で覚えて弾くこの方法は、ノルウェーの民族楽器ハーディングフィーレの教授方法とも共通点があるそうです。楽譜はなく、師匠の口伝で覚えていくのです。耳から入った音を、音として表現することに秀でたノルウェーの人たちと、鳥の啼き声を音としてではなく、言葉に置き換える(聞きなし)私たち日本人との違いも面白い発見でした。

 さらに、文中に出てくるルビにも話題が及びます。著者は日本語に英語のルビ、ノルウェー語に日本語のルビ、日本語にノルウェー語のルビなど、ルビの独特の使い方をされており、このルビが混在した状況を、「初期のころ、日本語、英語、ノルウェー語が頭の中で言語的にごちゃごちゃになっている感じが懐かしい」といわれる参加者もありました。その混とんとした状態が、著者の中で整理され、「身体の内側からノルウェーを感じていく」過程が読み進むうちに伝わってきます。日本語にノルウェー語のルビが振られた題名『ノルゲ Norge』も、実は、著者の内側から発せられた言葉、第12章「ノルゲ!」の伏線になっているのでしょうか。

 

■もどかしさから再生へ 『ノルゲ Norge』の魅力

 最後になりましたが、参加者の感想から、この本の魅力を感じてください。

「北欧を知りたい人はこの本を読むと情報がたくさんあって主人公とともにオスロの冬を体験した気分になれる」

「同じような経験をしていたにも関わらず、一冊の本としてこれだけまとまる人もいれば、ただ過ごして、ああ楽しかったなという私」

「モデム回線のことや、巻末のご自身の経歴など、記憶が詳細ですごい、こだわりの方、記録魔なんだなと」

「少しずつノルウェーに馴染んでいく著者の目を通して、読者も少しずつノルウェーへの理解を深めていく時間の流れを感じる」

「ヴェーソスの作品の試訳を本の中に実際に載せたり、本当に作家としての日常生活を記録されているような感じがした。著者がオスロで、日々自分を磨いておられたような、その一部を見るような気がした」

「この人は、知らないことを書いていない。経験していないことを書いていない。知らないことを背伸びして書いたりしていない。知ってること、経験したことだけが書かれているのがすごく面白い。それが私小説の醍醐味なのかなって」

 

 言葉が通じないまま異国での生活が始まり、「留学生の妻にのこのこついてきた夫」という不安定な立場から、著者は自分の存在意義を自問自答し、同じく生きている意味を問いながら最後は入水自殺した作家・太宰治と対比する場面があります。

著者の感じた「けっして物事そのものにはたどりつけないもどかしさ」についても、「もどかしさは今もずっとあり続けていて、知りえないからこそ面白いということがあるのだと思う。それが異文化であることは当然で、日本人同士だってわかり得ない。本来は違うはずなのに分かり合えたりするところもあったりして、それが面白い。昔のことでありながら今のことのような気がする」という参加者の感想もありました。

 最後、小説冒頭でも登場した蜂が、開け放した窓から入り込んで著者の頬を掠め、再び窓の外へ飛んでいきます。この冬おススメの一冊です。ノルゲ!          (弘)

 

第18回ノルウェー読書会のお知らせ『ノルゲ Norge』

18thノルウェー読書会のお知らせです。

 

12月9日(土)の第18回ノルウェー読書会は、佐伯一麦 著『ノルゲ Norge』(講談社文芸文庫、2015)を取り上げます。

染織家の妻の留学に同行した作家が1年間のノルウェー滞在を描いた物語。野間文芸賞受賞作。

ご参加、お待ちしています。詳細は下記のチラシをご覧ください。

参加申込みはこちら https://forms.gle/vozuoHKTa6YrJRuLA 



第17回 『働くことの哲学』読書会ノート

ラース・スヴェンセン著、小須田 健訳

『働くことの哲学』紀伊國屋書店、2016年

 

■著者の出身地

 最初に話題になったのは、1970年生まれの著者が20歳くらいまで暮らした「モス市」についてです。オスロフィヨルドの東岸にある人口5万人ほどの街ですが、「ちっぽけな工業都市」(10頁)と書かれていて、最も大きな会社は2000人の労働者を雇い入れていた造船所で、著者の父親は、1954年、14歳の時から2002年にアスベスト健康被害で引退する62歳まで、正規の配管工・現場監督として働いたという経歴を持っています。「父は、一生を同じ会社で定年まで勤めあげ」「出勤した日はいつも、ちょうど午後3時30分になると、すぐにも帰りたがった」「仕事と余暇のあいだにはきわめて厳格な区別があり」(10頁)などと書かれていて、これは今日の仕事の実態とは真逆のものといえます。

 この数十年に(執筆は2015年)根本的な変化が進行し、工場で働く労働者の数は減り、造船所、ガラス工場、コンクリート工場が閉鎖し、「この町を特徴づけているにおいの源である製紙工場」こそまだ残っているのを別とすれば、「この街がかつて工業街であったことを教えてくれる工場は、もはや無きに等しい」(210頁)と書かれています。しかし、工場は閉鎖されても、モス市にはほとんど失業者はおらず、脱工業化社会に向けた新たな雇用が創出され、「巨大なショッピングタウンのよう」と叙述されています。

 参加者の中にお一人、モス市を訪問したことのある人がいて、自身が住んでいたユービック市(3万人)にも製紙工場があったので、木材からパルプを製造する際のくさい匂いが同じようにただよっていた、という紹介もありました。

 

ノルウェーらしい「働くこと」

 次に、働くことに関してノルウェーらしさとは何か、ということが話題になりました。「仕事の話をするときに、楽しそうに話す」「自分の仕事に誇りを持っている」という面と、「良い条件の仕事であっても転職する」「欠勤が多い」という面の、ふたつの面からの意見が出されました。ノルウェーでは、ストライキも多いし、小さなお店でも夏休みには閉まるけれど、「これだけ休みをとっても国が成立している」のがノルウェーなのだとも。

 夏休みを10日間とって高原で過ごしているというリモート参加のメンバーからは、同行している会社員の娘は4日間の休みをリモートで仕事をしていたということで、「ノルウェーと日本では、余暇の取り方が違う」という指摘がありました。

 本書の著者も、仕事づけの日々がつづくなかで「仕事にやりがいを感じることが眼に見えて減っていった」「だが、仕事はやめられなかった」(228頁)と書いているように、ワーカホリックで仕事中毒になっている場合は、日本もノルウェーも同じことが言えるのでは、という意見が出されました。これに関して、著者は、1999年に使われた「ゼロドラッグ(仕事への支障の無い)」人間という用語を紹介し、「若くて未婚で子どももおらず、年老いた両親を世話する義務もなく、会社に必要とされるときには長時間勤務がいくらでも可能な人間」「会社からの要求を最優先にできる人間だ」(229頁)と解説しています。

 生活のいっさいが仕事を中心に回るようになって、生きていくうえで必要とする意味のほとんどは仕事からもたらされる、そんな仕事に巡り会えたなどと思い込んでしまったら、日々を重ねるごとに「人生で本当に重要なことがらが見失われてゆく」として、人生と仕事の関係に注意を喚起しています(231頁)。つまり、「幸福になるために必要なものは、仕事だけではない」「仕事イコール人生ではないのだ」と(234頁)。

 私は、後日に再読して、著者の言う「生きるうえでの究極の意味が仕事からもたらされると期待すると、やがて失望に見舞われる。同じことは愛情や友情から芸術、そのほかのなんにでも当てはまる。究極の意味などそもそもない。それだけで私たちを満足させてくれるものなどひとつとしてないのだ」(237頁)という内容が、人々にどれほど受け入れられているかがノルウェーの“哲学”かもしれない、と考えさせられました。

 

■労働時間

 著者の父親が働いていた造船所では「ちょうど午後3時30分に」仕事が終わり、「仕事と余暇のあいだにはきわめて厳格な区別」があったという記述(10頁)にかかわって、前に読書会で取り上げた『あるノルウェーの大工の日記』(オーレ・トシュテンセン著)でも、昼休み時間には、いうことが3週間連続して取る休暇をどう過ごすかが話題になっていたように、ノルウェーの労働者の労働条件が日本と違うと話題になりました。

 

 以下は、参加者から提供された情報ですが、ノルウェーの休暇手当について、NAV(ノルウェー労働福祉局)などが作成した移民向けの社会パンフレットから訳出したものです。

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【 休暇と休暇手当 Ferie og feriepenger 】

・9月30日までに就労を開始すれば、カレンダー年内に25日間、週日(ウイークデー)に休暇を取得できる。10月1日以降の場合、週日に6日間の休暇を取得できる。

・25日の休暇=「4週間と1日」の休み。6月1日から9月30日の長期休暇取得期間中に、3週間続けて休み、残りも別のときに1日毎ではなく、連続して取ることが可能。休暇についての契約条項は事前に話し合う必要あり。だだし、期間内のいつ休暇を取れるかを最終的に決めるのは雇用主。

・取得しなかった休暇は、2週間分まで翌年に持ち越し可能(労働者と雇用主双方の同意が必要)。休暇の先取りも、同様に契約可。病気のため休暇を取れなかった場合も、2週間の休暇を翌年に持ち越すことができる。年末までに休暇持越しを申請しなければ、取得しなかった休暇の権利は失効する。別の理由で翌年に持ち越した2週間分と、病気で持ち越した2週間分を併せて、合計で週日24日まで翌年に持ち越しが可能。

・休暇手当は、前年の給与所得ベースで、所得の10.2%。通常は、6月に支払われるが、実際には休暇を取る1週間前に支払われる。退職する場合は、最後の給与日に精算される。病欠中の労働者は、休暇取得が完了するか、退職するまで休暇手当は支払われない。この場合の休暇は雇用主と契約し、休暇手当を受け取る場合は、疾病手当の受給を一時的に中断するため、NAVに知らせること。1年のうち、給与が出るのは11ヶ月で、残りの1ヶ月は休暇手当が出る。

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 過去の労働者の労働時間について、1833年のイギリス工場法が言及されています。いわく、「13歳以上〔18歳未満〕の者にたいしては、午前5時半から夜8時半までのあいだでの12時間労働が明記されていた」「9歳から12歳までの子どもにたいしては、1日9時間の労働が定められていた」と(104頁)。

(注)著者も参照しているマルクスの『資本論』では、「9時間」ではなく「8時間」となっています<『資本論』第1巻、ディーツ社版マルクス・エンゲルス全集、原書295頁>。

 なお、『資本論』については、参加者から、戦後の日本で独自に研究が進んできたとして、例えば、①『資本論』の第8章は「労働時間」ではなく「労働日」とされており、「標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果である」として、「1日あたり」の労働時間を問題にし、労働者の「生活」に着目していたこと、②法律を守らせる「工場監督官」が1833年の工場法で設置されて、はじめて「標準労働日」が現われたこと、③マルクスは、工場監督官報告書の「もっとも大きな利益は、労働者自身の時間と彼の雇い主の時間との区別がついに明らかにされた」ということに注目しており、工場法が労働者を「彼ら自身の時間の主人にすることによって……ある精神的なエネルギーを彼らに与え、このエネルギーは、ついには彼らが政治的権力を握ることになるように彼らを導いている」<『資本論』第1巻、原書320頁>としていること、④さらに、工場監督官たちが「10時間法が資本家をも、単なる資本の化身としての彼に自然にそなわる残虐性からいくらかは解放して多少の“教養”のための時間を彼に与えた」と述べていることにも着目している、⑤工場法の教育条項について、マルクスは「初等教育を労働の強制条件として宣言」し、「教育および体育を筋肉労働と結びつけることの可能性をはじめて実証した」として、「一定の年齢から上のすべての子供のために、生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので……全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法」としている<『資本論』第1巻、原書507~508頁>、ことなどについての紹介がありました。

 

 また、2014年の時点でのOECD諸国の年間平均労働時間が紹介されていて、アメリカは1789時間、カナダは1704時間、オーストラリアは1664時間、イギリスは1677時間、ドイツは1371時間、フランスは1437時間(日本は1719時間)だと(108頁)。日本について少ない数字に思えるので調べてみると、日本の場合、「過労死」が社会問題となった1980年代の年間総実労働時間は、上記の2014年の数字よりも400時間ほど長く、2100時間を超えていました。

 著者は、「過労死」についても言及しています。すなわち、「働き過ぎて死んでしまうことを一語であらわすことばは、英語にはない。それは日本語では、“過労死”と呼ばれ……深刻な問題として認知されており、厚生労働省からは”過労”による死亡の労働統計が毎年公表されている」(112頁)と。

 

■給料

 給料については、「家族や友人とよい関係を保つこと以上に、金儲けに高い価値をつけることなどけっしてすべきではない」(155頁)という観点から、「他人と比較して自分がどれだけもらっているかが、私たちにとって重要なポイントであることは明白だ」(156頁)として、「それ自体で有意義であった活動が、意義をまったく欠いた賃労働になりさがってしまうのだ。この意味では、もっとも関心のあることを仕事にしないで、……一番の関心事が金銭によって『台なしにされる』ことがないように配慮すべき」という“忠告”を与えています(158頁)。ここに書かれている「2番目か3番目に関心のあるものを仕事にして」というアドバイスについては、安定した収入が保証されて、働けば4週間は休めるという“生活文化の違い”があって初めて考えられることではないか、という意見が出されました。

 最低限の労働条件(労働環境)が保障され“土台”がしっかりしているノルウェーと、そうではなく「底が抜けている」日本とでは比較にならないわけですが、日本人の「がまん」や「根性論」では問題解決にならないのは明白です。例えば、北海道出身者からは、「寒さ」への対応などは、生存に欠かすことが出来ない最低限の保障であることが紹介されました。

 この問題は、給料(賃金)だけではなく社会保障(住宅や教育)とセットで考える必要がありますが、著者は「一定のセーフティネットのついた”能力主義”システム」(167頁)、つまり賃金ないし社会保障というかたちで、だれにたいしても一定程度の収入は保証されるが、それ以外に市場のニーズに左右される仕事から得られる収入面での不平等は避けられないということは妥当だ、としています。そうして、収入が上がったり、昇進したりしたからといって、それに応じて幸福感が増大するわけではないと念押しをするのです。

 

■職場のストレス

 ノルウェーでは、「人間関係が原因で仕事を辞めていく事例はないのか?」とか、「職場での悩みというのはないのだろうか?」ということが話題になりました。さらに、日本ではバーンアウト燃え尽き症候群)という問題がありますが、ノルウェー人はバーンアウトしないのだろうか?とも。これらは、「人間の自由」(と管理)の問題と深くかかわっているようです。

 著者は、「第5章 管理されること」では、管理についての書物でもっとも成功を収めた『エクセレント・カンパニー』(邦訳、2003年)などの勧告にしたがっても、「なんの助けにもならないどころか真逆の結果に陥ることが少なくない」(148頁)と指摘しています。加えて、このところの「管理哲学」を気どっているあまたの安っぽいテキストを読まされると「むかむかせずにはいられない」(149頁)とも。その通りだと思えました。

 例えば、「楽しむこと」を押しつけるトレンドについても、「強制されたあるいは無理矢理の楽しみなど、そもそも楽しみではない」として、「絶えず私たちを楽しませよう(エンターテイン)と努める上司をもつのは、精神的拷問だ」とまで断言するのです(150~51頁)。そして、管理を重視する風潮は今以上に高まってゆくだろうが、普通の従業員にできることがあるとすれば、上司の発言に耳を貸すふりをして、「管理職の気まぐれが、別の気まぐれにすりかわることなく消えさるのを待つことぐらい」と、やや皮肉な(ノルウェー的なユーモアに富んだ?)アドバイスをしています。

 参加者の一人からは、スウェーデンの障害者団体が日本に来たとき、大阪にある障害者の作業所を案内したことがあるが、スウェーデンの障害者から「重度の障害者が仕事をしているのは素晴らしいが、同じ作業ばかりしているのはいかがなものか?」という感想が出されたことが紹介されました。また、ノルウェーでの経験として、バスの運転手さんと大学の教授が友人で、対等に挨拶している姿が印象的であった、という発言もありました。

 ノルウェーで仕事のストレスが少ないのは、「これをやりたい」と思ったことが実現するまでのプロセスを、時間をあまりかけないでできるとか、「みんなでやろう」という意識が強いので、反対意見だった人もいざ方針が決まったなら応援する側に回るなど、日本と民主主義の成熟度に違いがあるのではないか、という意見も出されました。

 それから、“自由”ということにかかわっては、参加者から、ノルウェー人の夫が「来週の予定について話すのを嫌がる」のだけれども、その理由が「天気によって予定は変わるものなので」という話を聞いて、みなさん得心がいきました。また、ノルウェーでは、家と家の間隔が広くとられているので「パーソナルなスペース」が確保されていることや、「自然と親しむ」のを心から楽しんでいることなども、人間の自由の感覚と深く関わっているのではないか、といった意見交換がなされました。

 

■仕事(の割りふり)について

 「興味深い仕事」(90頁)とはどういうものかという点にかかわって、仕事に“自己実現”まで期待するのは要求過多ではないだろうか、という問題提起の発言がなされました。

 著者は、「内的な”善(グッド)”(趣味や自己実現といった)」にかかわる仕事と「外的な”財(グッド)”(給料や報酬といった)」にかかわる仕事とが均等に配分されていないことは火を見るよりあきらかだ、と断言しています(90頁)。また、あらゆる国民に「普遍的な働く権利」を保障している国など西洋にはひとつとしてない(99頁)とも。なぜならそれは、経済的な観点からほとんど無意味なだけでなく、「私たちが手に入れたいと願うのは働く権利などではない」からだと述べています。つまり、「働く権利は、当人の望む職への権利とはなりえない」ということを強調しているわけです(101頁)。

 そうして、現代の社会が、いずれかの種類のグッド(内的な善=自己実現;外的な財=報酬)をも均等に配分するという理想に少しでも近づこうとしているとしたら、それは賢明とは言えない、「あらゆる不平等を除去することばかりがめざされる社会は、はるかに劣る選択肢にしかならない」と結論しているのです(102頁)。

 大学関係の参加者から、就活をしている学生には、①仕事は給料(=報酬)をもらうためにするものであること、②絶対に「やりたくない仕事」は何かを考えること、というアドバイスをしているという意見も出されました。

 さらに、日本では、公務員でも「ジェネラリスト」が求められているので、専門職で「やりたい仕事」に就けるのは困難になっている、という発言も続きました。

 

■仕事の意味

 次に、仕事の意味にかかわっては、「マックジョブファストフード店に特徴的な、マニュアルに縛られた単調で創造性のない仕事の総称〕についてふれられています。また、ここ30年に西洋世界でもっとも急速に増大した労働者集団は、「短期の仕事の斡旋業者に雇われた人びと」(74頁)であるとも。そして、「臨時雇い」でいる限り、「なにかひとつのことを本当にマスターするための機会を得ることはまずない」として、「短期の仕事と職人技とが両立することはありえない」と述べているのです(76頁)。

 この点に関連して、「イケア」で売られている大量生産された安価でモダンな家具と、何世代にわたって使い続けられる手作りの伝統的な家具の違いから、職人技や専門的技能について話し合われました。

 著者は、「工場の清掃助手」(工場の清掃といっても相当プロフェッショナルな仕事内容)として5年、清掃助手として3年の計8年ほど働いた経験を踏まえて(76~78頁)、職人的技能については「創造性を発揮する余地がどれくらいあるというのか」(76頁)ということに注目しており、そして「仕事をきちんとこなせるということは、それだけである種の満足感をもたらしてくれる」(79頁)と述べています。そして、大工仕事であろうと清掃業であろうと学問を学ぶ場合であろうと、「専門技能を学ぶとは、さまざまな習慣を身につけていくこと」であり、相応の時間がかかり、「そのこと自体が尽きることのない喜びの源泉になる」(79~80頁)としています。

 つまり、著者にとって、「その仕事によってじっさいに自分がゆたかで意義に満ちていると心底思える生活を送っているか」ということが核心的な問いなのであり、この問いは、私たちの生活の全体にかかわるので「仕事そのものよりもはるかに広大なものである」としているのです(81頁)。

 なお、著者は「知的仕事と力仕事との差異は、程度の問題であって、……どんな仕事にも、この両方の要素が含まれている」(140頁)として、両者のバランスの問題を明確に示しています。そして、現代では、自動車工場フォードの流れ作業に結合された「テイラーの科学的管理法」が、肉体労働者ばかりでなく知識労働者にも適用されるようになって、「政治的統治や大学運営もふくめてあらゆる種類の労働に応用される」ようになった(141頁)と述べていることなどは慧眼といえるでしょう。

 参加者からは、「働くこと」と「仕事をすること」、「職業に就くこと」の区別が必要かもしれないことや、「働いている人を支える哲学」も必要ではないか、という意見が出されました。

 

■余暇とショッピング、そして「公共」概念

 最後に、著者が言いたかったのは何だったのだろうか、ということに話が及びました。

 著者は、「ゆたかさ」(飽食)のほうが「余暇」(レジャー)よりもはるかに増大しているとして(172頁)、「私たちは余暇よりもショッピングを選んだ」(173頁)と述べています。そして、1950年代にガルブレイスが、私財(個人消費)の点では裕福だが公共財(社会保障や教育)という点では貧しい社会を指して「ゆたかな社会」であると皮肉をこめて使ったことにも言及して、個人消費の増大を批判したのだと紹介しています(173頁)。

 さらに、「飽食の社会とは消費社会のことだ」として、「仕事ではなく消費こそが、社会的アイデンティティの形成にとって本質的な構成要素だと主張する論者の数は増えるいっぽうだ」(183頁)と批判しているのです。飽食の社会とは、「善良な市民たち」がショッピングによって自身がなにものであるかを見せびらかそうと躍起になっている社会だ(185頁)とも。しかし、消費の問題では、所有物がどんどん増えてゆくにつれて、おのおのに費やせる時間はどんどん減ってゆき、結果的にそれらの重要性も失われていくのであると分析します(186頁)。

 したがって、「消費だけからなる生活」が私たちを満足させてくれることがありえないからこそ、仕事には、もっと違った大切な役割、すなわち「意味とアイデンティティの本質的な源泉として機能するという役割」が依然として残されている、と主張しているのです(188頁)。

 なお、本書の第1版(2008年)と第2版(2016年)の間には、大きな変更がなされています。参加者からも、前半と後半の印象がかなり異なるように思われるという感想がありました。著者によれば、第8章「仕事とグローバリゼーション」を新たに書き加えたほか、「飽食の時代における仕事や仕事の未来をあつかった後半のいくつか章は、はるかに徹底的な改訂をしないわけにはゆかなくなった」(7頁)ということです。

 

■まとめ

 著者は、ハンナ・アレントを引用して、「現代社会は、仕事を神聖視するあまり、仕事を欠いた人生がどんなものとなりうるか、またどんなものであるべきかを見とおすことができなくなってしまった」が、それは私たちが「仕事から自由になりつつある」のではなく、「仕事が姿を変えつつある」ということを見損なっていると指摘しています(222頁)。つまり、「こんにち仕事とみなされているものの多くが……まえの世代がレジャーと呼んだものにおそらくずっと似たものになりはするだろう」(223頁)というのです。

 繰り返しになりますが、「私たちが生きるうえで必要とすることは、けっして仕事だけに尽きはしない。仕事イコール人生ではない」(234頁)ので、「仕事が自分の人生のなかでどれほどの重みをもつものであるのかを見積もる作業を、けっして怠ってはならない」(239頁)というのが著者の結びの言葉ということで、参加者一同が納得しました。(掛)

 

【追記1】参加者の中に、ノルウェーの民俗楽器「柳の笛」(羊飼いの牧童が、春、柳の若い枝からつくる笛;シェパードフルート、スプリングフルート)を製作する方と、ノルウェーの民俗音楽を研究される方がおられて、美しい装飾が施された笛を見せあうなどしながら話が盛り上がりました(Zoomでは、音が拾えなかったのが残念!)。

 

【追記2】この「まとめ」をアップする前の相互チェックをしているあいだに、2023年のノーベル文学賞が、ノルウェーの劇作家ヨン・フォッセ氏(64歳)に決まったという嬉しいニュースが飛び込んできました。フォッセ氏は、「この賞は何よりも文学であることを目指す文学に与えられる賞だと思っている」と語ったそうです。「ノルウェー読書会」では、まだ取り上げていませんが、どの作品を読むことが出来るようになるのか、これから楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第16回 『馬を盗みに』読書会ノート

ペール・ペッテルソン著、西田英恵訳『馬を盗みに』(白水社、2010年)

 

 第16回の読書会は、久しぶりの「物語を楽しむ」回となった。まだこの作品を読んだことがない方にとっては、「馬を盗みに」という題名から、いくつかのお話のパターンがある程度想像されるかもしれないが、案外その部分の描写はそこまで中心的でなく、だからこそ「どこ向かってに進んでいるのだろう」という思いで読み進めていくことになり、その「わからなさ」もこの図書の魅力ではないかと感じた。

 今回も、ノルウェーを訪れたことがある方たちが多く出席した読書会となった。中には昔、一度原語でこの本に挑戦されていた方もいて、その時は途中までで終わっていたが、今回改めて日本語で読み通してみて、こんなにいい本だったんだと気付いたという感想もあった。

 参加者の読後の印象的な部分としては、「自然の描写」と「労働や生活の描写」の二点に集中していた。読書会も16回続けてきたことにより、私たちに読んできたものの蓄積ができてきたので、ノルウェーの日常や季節の変化に少しずつ「見覚えがある」といった感覚を持てるようになってきている、というのが発見の一つであった。一見、それぞれは関係のないようなこれまでの課題本たちも、やはり背景となっている「ノルウェー」があればこそ、つながっているのである。

 

 ▶よい翻訳とは?

 そういう意味でも、ノルウェー独特のものや文化を私たちが翻訳で楽しむ際に、注釈であったり、作中に登場した地名がわかるような地図が必要か?というような話題が、読書会の二時間の中で割と多くを占めた。説明でいちいち止まらずに読んでいきたいと思う人もいれば、やはりそういうことが書いてあった方が理解しやすいという人もいて、読みたい人は読めばいいし、そうでない場合も読者が選べるのでは、という意見もあった。

 たとえば、作中には、私たちに馴染みのない「赤と白と青のノルウェー」(92ページ)や、「クズリの歌」(182ページ)といった曲名が出てくる。最近は検索すればそういったものも音源を見つけることができるが、実際の歌を聞けばそれだけで作品の理解が深くなるかといえばそうとも言い切れないだろう。とはいえ、著者の頭の中では流れているであろうその曲を全く知らずに読者は「読めた」ことになるのだろうか。それとも、その歌の背景等の説明があった方が、なぜこの場面でこれを歌うのかなどが理解できるのだろうか。

 参加者から、「あとがき」というのは日本独特のものだという話も出てきた。ノルウェーの作家は、読み方について「読者におまかせ」という気持ちもあるのだろう。翻訳の仕事をしている参加者もいたので、なおさら「流れを途切れさせないよい翻訳とはなにか」という話題が尽きなかった。

 

ノルウェー文学と労働

 「ノルウェーの小説にしては、暗くならず読みやすかった」という感想もあった。気持ちの表現だけではなく、自然や生活の描写があるのが読みやすさの理由かもしれないとのことだった。この物語には、小さくない悲劇が出てくるが、それでも日々は淡々と過ぎているという描写がある。それぞれが秘密を抱えていても、その現れ方ですら静かな印象だ。そして、そんな事件があった後でも仕事に出かける人々。「薄っぺらな思想」(79ページ)ではなく、地に足の着いた生活を尊敬している。仕事をする、道具をきちんと管理していることが自分自身の管理、自立した生活ができていることにもつながっているのだ。主人公の父が行っていた、「見通しを立て、必要な道具を計算された順序に並べ、始めから終わりまで段階を踏んで、頭を使い、両手を使い、楽しみながら」「するべきことに一つずつ取り組んで」いたやり方、それが主人公にとって「わたしの求める生活なのだ」(171ページ)とも書かれている。

 主人公がスーパーで、男やもめである自分の見え方を気にする描写もあったが(75ページ、208ページ)、一人暮らしでは時間の浪費を気にしてテレビを持たないことを決めていたり、一人きりの食事でもいい加減にはすまさないようにすることを自らに課していたりするあたりからも、律するということを大切に、世界に自分をつなぎとめようとしていることがうかがえる。

 労働、日々の仕事というものが生活の糧を得るだけのものにとどまらず、人の気持ちにもこんなにも影響してくるものであり、また、辛い現実からある意味救ってくれているものかもしれないということが、大げさな表現は出てこないが、この一冊を通して、それぞれの登場人物の言動を見ていると納得させられるのである。

 

 ▶変化とは?

 読書会がもうあと一週間遅ければ、もう一回くらい読みたかった、という参加者の声もあった。私自身も、読書会のあと再読してみた。この話は、一冊を通して「変化」という点に着目して読んでみるのも面白いかもしれない、というのが新たな感想だった。

 物語は、主人公が引っ越した新しい家から始まる。67歳である現在の「わたし」と15歳であった「ぼく」、二つの時代のできごとが代わる代わる出てきて、「これはいつの話なんだろう」と混乱してしまうところもあるが、読書会の中では、そういった時間通りの順番で語られていないところが面白いのだという意見もあった。

 「まったく新しい生活を始める場所を探し」(74ページ)、「長年の望みだった」(9ページ)一人暮らしを始めているが、顔見知り程度だった隣人が実は自身の人生に深いかかわりがあった人物だとわかって、改めてこれまでの人生、特に十代の夏を振り返ることになる。

 「罪を犯すと人は変わる」(25ページ)といった表現もあるように、いくつかの罪がこの話には出てきており、そのことで主人公は、父をはじめ、周りの人々との関係を考える。

 「生まれ変わったような」といった言葉が何度も出てくることから、主人公は人生を乗り越えるためそのように自身を変化させていかなければならなかったのかもしれないが、大切な話を父からではなく別の人間から聞かされたことや、思いがけないタイミングで最後の別れとなってしまったことを何度か経験してきたことで、主人公からは自身の人生に対しての自信のなさもうかがえる。それをあえて「わたしは運がいい」(11ページ)と思い込もうとしているのかもしれない。

 物語の終盤、主人公の娘がこの家を訪ねてくる。そこで娘は、主人公がよく読んでいたディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』の話をする。幽霊みたいな人生、わたしのものであるはずの場所を誰かに盗られて、嫉ましくて仕方がないのにどうすることもできない、そんな自分の人生の主役になれない可能性が存在することについて話をされたことから、主人公自身が、隣人にある問いを投げかける勇気が持てなかったことを考える。「わたしが生きたはずの人生の数年間をおまえが生きたのか?」(212ページ)と。

 主人公の父親の台詞で、「痛いかどうかはな、自分で決めるんだ」(32ページ)というものがある。それは、主人公が自身でも何度か指針としているようなところが出てくるし、物語の最後もこの言葉で終わっている。十代の頃の「ぼく」の場面で、父からのお金で新しいスーツを買い、これから進むべき道を見えない矢印がはっきりと示してくれているような希望に満ちた時間だった。

 そうやって現在にいたるまでの約50年が過ぎたが、「わたし」の描写では今も娘が訪ねてきたことにとまどいを隠せないことや、隣人に対して、関わりたくない思いと好意を持ってしまう感情とで、平穏な日常に変化が出てきている。

 「この家はもう前と同じではなく、庭も前と同じではない」(215-216ページ)と書いているように、様々なことを乗り越えて、自身でコントロールできるよう移ってきたこの場所でも、まだ変化することを求められているような終わり方だった。

 

▶違う文化を味わうこと

 森や川の描写が印象的で、その中で生活したらこんな感じなのかもと思わせてくれた今回の読書会。描写から想像される景色や音、匂いなど、物語を味わう・違う文化を味わうことを皆で楽しめるのが、一人きりで読むこととの違いであるともいえる。

 次回の課題図書も、今回の特徴の一つでもあった「労働」と関連があるので、ぜひそのつながりで参加していただけたらと願う。(野)

 

 

▶次回の予告

第17回ノルウェー読書会 2023年9月9日(土)14:00〜16:00

ラース・スヴェンセン 著 小須田健 訳 『働くことの哲学』 紀伊國屋書店,2016年,1,700円+税

第16回ノルウェー読書会のお知らせ『馬を盗みに』

第16回ノルウェー読書会のお知らせ『馬を盗みに』

 

16thノルウェー読書会のお知らせです。

 

5月20日(土)の第16回ノルウェー読書会は、ペール・ペッテルソン 著/西田英恵 訳 『馬を盗みに』(白水社、2010)を取り上げます。

ノルウェーを代表する作家による、みずみずしくも苦い青春ー老境の物語。40以上の言語に翻訳された世界的ベストセラー。※本書帯より

 

ご参加、お待ちしています。詳細は下記のチラシをご覧ください。

 

 

第15回『声なき叫び 「痛み」を抱えて生きるノルウェーの移民・難民女性たち』読書会ノート

ファリダ・アフマディ著/石谷尚子訳 『声なき叫び 「痛み」を抱えて生きるノルウェーの移民・難民女性たち』2020年,花伝社 Tause skrik / Silent Screams

 

京都の会場とオンライン参加と、あわせて9名の読書会となりました。大学4年生から定年退職して3年目という方まで幅広い年齢層でしたが、みなさん『声なき叫び』は今回初めて読んだということでした。

この本は、アフガニスタン出身のファリダ・アフマディが、亡命先のノルウェーで執筆した修士論文を書籍化したものです。カブール大学で医学を学んだのち、アフガニスタン民主化運動に身を投じていたアフマディは、2度の投獄と拷問に遭い、1991年に、5ヶ月の娘を連れてパキスタン経由でノルウェーに亡命しました。40代半ばごろ、アフガニスタンにいる女性の厳しい現実を書き記そうと、オスロ大学で人類学を学び始めます。医学生時代に会ったアフガニスタンの女性たちは、身体の不調と痛みを訴えており、それは占領や戦争、貧困、原理主義的な宗教、知識や現代的な医療の不足などが原因でした。ところが、オスロに暮らすマイノリティ女性たちも大勢、同じ症状を抱えていることに気付きます。

〈人の本当の気持ちを理解するには、良い聞き手になることだ。これを目標に、私はオスロのマイノリティ女性の健康調査を始めた。出発点は体の痛みだった。しかしそこで見えてきたのは、精神的、日常的、社会的、経済的な問題の深い穴だった。それと同時に、所属意識を持てないのは、私生活でも社会生活でも認めてもらえない不満に関係していることがわかった。彼女たちはどこかに所属したがっていた!〉(p.250) 

痛みの調査結果から見えてきたのは、マイノリティ女性個人の問題ではなく、著者は「本質を見よ、それは社会構造だ」と繰り返します。研究論文を基にした、難しい内容ではありましたが、読書会での話題は多岐にわたりました。ここではとくに興味深かったトピックスを中心にまとめたいと思います。

 

■最初の感想

「出版されたときから気にはなっていた本。今回読むことができてよかった」「自主的に選ぶ本ではなかったけれども、これを機会に」などの声が複数ありました。読み始めるには気合の要る本だったようです。それでも「過去のノルウェー読書会で一番読み応えのある本」という感想も出ました。「ノルウェー人と関わりがあってもなかなか話題に出ないテーマ。ノルウェー社会を知る上で興味深い読書体験。多文化主義の裏にある実際の経験が描かれていた」「宗教や文化が差別につながるということを知った。イスラム教などについてもっと勉強が必要と感じた」といった感想もありました。

また、福祉先進国のノルウェーで?という方もありました。「移民、難民の生の声が重く、こうした厳しい生活をしている人がいることに驚いた。福祉の進んだ良い国という印象だったが、まったく知らない部分があった。痛みを抱えて生きる移民女性の存在など、日本のメディアからだけではわからないことがある」。ノルウェー社会についての厳しい批判も書かれていますが、それでもやはり「ノルウェーをまったく知らない人が読めば、ノルウェーはここに描かれているような国なんだと思うかもしれないが、その奥に、ノルウェーでさえ、こんな問題があり、これからもっと考えていかないといけないのだ、というメッセージが込められている本」ということばが印象的でした。

 

■日本人には見えにくいノルウェーの状況

ノルウェーでの滞在経験のある参加者のみなさんは、いつでも帰国できる立場にあり、家族も含めて嫌な思いをすることなくノルウェーで暮らしていたとのこと。この本には、短期滞在では見えてこない、移民・難民の状況が描かれているようです。

「3年半ほどの滞在中、オスロ在住で外国人パートナーのいる日本人に、”あなたが付き合っているのは高学歴の人たちばかりで、ノルウェーの真実が見えていない“と言われたことがあったが、この本を読み、こういうことだったのかと思った」

「留学中はいつでも帰国できるパスポートがあり、辛ければ帰る選択肢もあった。この本とはまったく違う生活環境で、差別を受けた経験もないが、マイノリティとしての痛みは感じていた。それをもっと知りたいと思って読書会に参加した」

「計3年間ノルウェーにいたが、この本を読んで、マイノリティの女性の声が拾われていないことがわかった。出版当時の2008年ごろと、その10年後の滞在だったが、その間、状況にそれほど変化はなく、いまも変わっていない」

「1994年、人口8500人の小さな町に家族と住んでいた。地元紙が大きく取り上げてくれ、子どもたちは地元の学校に通い、家族も大事にしてもらった。そのころ、進歩党は国会に1議席しかなかった。その後、右派が勢力を伸ばし、ノルウェー社会も大きく変わっていったことは、情報としては知っているが、体験してはいない。以来十数回訪問し、ノルウェーには計1年ほど滞在して調査したが、十分知らない社会状況が描かれていた」

 

■『声なき叫び』というタイトル

タイトルについては、〈文化が根本的に違うという考え方が政策に取り入れられると、マイノリティ女性は自分の暮らしぶりを受け入れざるを得なくなるし、マジョリティの側にいる人達はマイノリティ女性の文化や宗教を非難するようになってしまう。そうするとマイノリティ女性は、公の場でもプライベートでも自分が抱える痛みを口にしなくなる。それが、本書のタイトルを『声なき叫び』にした最も大きな理由〉(p.28)とあります。読書会では、痛みを認めてもらえない一方で、マイノリティ女性たちがノルウェーの制度をうまく使いこなせていなかった、という指摘がありました。女性たちが自分の問題を夫に相談したという記述がなく、家庭内でも共有できていなかったことが、外の社会に向かうときにも影響を及ぼし、“声なき”状況になったのでは?という意見でした。

ノルウェーは、恵まれない人だけでなく、全員のための福祉を築き、ノルウェー人は誇りをもってそれを使っている。ただし、だれでもその仕組みに放り込めば勝手に幸せになるのではない。子どものころからの教育を通して、自分のことは自分で決め、家族や先生に自分の意見をきちんと言い、18歳になったら自立する、という前提で成り立っているのが北欧の福祉。したがって、幸福度の高い高福祉国家に連れてきたら、だれもが幸せになれるというものではない」

 

■制度があっても救われない

p.197〜199には、戦争が原因でアフガニスタンを出て、ノルウェーに来ざるをえなかった元教師ショゴファの困難が語られています。ショゴファは、無理解を示す社会福祉事務所で激高し、戦禍を嘆いて訴えますが、対応する若いケースワーカーは、ショゴファに〈私は戦争のことを知らないの〉と言って、精神科の受診を勧めます。クライアントに寄り添う「戦争のことを知らなくてごめんね」ではなく、「私は知らない」と言い切ることに衝撃を受けた、という方もありました。

社会福祉事務所とは、社会経済的に困難な状況にいる人々がより良い生活ができるように手助けをする目的で作られた組織〉(p.207)ですが、〈社会福祉事務所は問題を解決するよりも悪化させるだけの組織であると言う。“社会福祉事務所には行きたくありません。あそこに行くと、どっと苦しくなるんです”〉(p.213)という記述があります。社会福祉を教えてきた方からは、なぜこういうことが起きているのか考えさせられる、という発言がありました。日本でも介護保険などの制度化が進み、保険料を納めればだれもが使えるようになりました。しかし、標準化とマニュアル化によって、個別の事情は考慮されにくくなり、物事は決められた通りに進められ、一律的な対応が行なわれるようになります。

ケン・ローチの映画(『わたしは、ダニエル・ブレイク』2016年)でも描かれていたが、社会福祉事務所は本来の働きができておらず、やる気のある職員は上司に叱られてよい仕事ができない状況。この本がノルウェーでの状況をはっきり示せたのは、やはり当事者だからこそ」

なにか困ったことがあると、「スマホで調べたら? 〇〇に聞きに行けば?」とアドバイスしがちですが、「PCやスマホを使いこなせない人や、ことばにハンディのある人には操作も難しい。情報へのアクセスが難しい人は大変だろうなと思った」と、高齢のご家族のことを思いながら話す方もありました。

ノルウェー語を話すと、“30年ノルウェーに暮らしていながら、ノルウェー語が話せない人がいるのに、日本人のあなたはえらい”と褒めてくれるノルウェー人が多い。私もこの本を読むまでは、自分の意思でノルウェー語を学んでいない人がたくさんいると認識していた」というコメントもありました。ノルウェーでは、勉強できる制度は整っているのにその情報を得られないだけでなく、家庭の事情でそこに到達できない人もいる。外国人について、そこまで想像が追いつかない現状は、日本も同じです。

 

■それでも“聞かれざる声に耳を傾ける”

ノルウェー音楽療法に詳しい方からは、“コミュニティ音楽療法”の考え方が紹介されました。ノルウェーでは、問題はクライアント本人にあるのではなく、周りとの関係性の問題ととらえ、周辺の人を巻き込んで解決していくのが主流。それを象徴するのが“聞かれざる声に耳を傾ける”という表現で、それが音楽療法士の仕事なのだそうです。この「聞かれざる声」こそ、まさに「声なき叫び」。実際にノルウェーでは移民・難民も音楽療法のクライアントで、中西部内陸の難民収容施設でのセッションで出会った子どもたちの眼が忘れられない、とのことでした。

「怒りというか、不安を抱えた、よそで見たことのない眼。ドイツ語、英語ができ、ノルウェー語も半年でペラペラ。この本にはノルウェー語がうまく使えない大人のことが描かれていたが、あの子たちはことばを身に付けなければ生きていけないんだなと、あのとき心に刻まれた」

「もうすぐ定年を迎える、音楽療法の恩師は、“まだやめられない。なぜならノルウェー社会にはまだまだ不公平さがあるからだ。それに取り組まなければならない”と言っていた。日本人からすれば、あんなに整った国なのに、なかにいる人にしてみたら、あるいはそういうことに対して感度の鋭い人にしてみたら、まだまだすべきことがあると映るんだなと思った」

 

多文化主義と同化主義

「フランスは同化主義を取っていて、ノルウェー多文化主義とは違うということはわかったが、制度についてもうひとつイメージが湧きにくい」という声がありました。『声なき叫び』がノルウェーで出版された2008年ごろは、ヨーロッパ中で移民問題が注目され、ノルウェーでも国内外の移民・難民の問題が取り上げられていました。その少し前、2004年から2008年までフランスでの留学経験がある方から、当時のフランスの様子をうかがいました。

シラクからサルコジ政権に変わり、外国人に厳しい政策が取られるようになった。大学改革が続き、留学生の学費も倍増。フランスで叩き込まれたのは、多文化主義に相当するコミュニタリズムは絶対に許されないということ。フランスでは、それぞれの国の出身者によるコミュニティを作らせない。フランスに来た人はみな、自由・平等・博愛の原則に基づき、フランス人なのだ、と。イスラム教徒のスカーフもキリスト教の十字架のペンダントも、宗教的なシンボルは学校では禁止。宗教を中心に生きてきたムスリムの人には抵抗もあるだろうし、家庭の内と外とでギャップも生まれる。結果的には、スラム化した地域にコミュニティができてしまっていた。外国人にとって、フランスはなんて厳しいんだ、と毎年思っていた。その後ノルウェーに来て、マイノリティにとって住みやすい社会という印象を受けたが、フランスとの対比で思い込んでいた節もある」

日本でもノルウェーでも多文化主義はよいもので、「違いを尊重するのはいいことなんじゃないの?」と考えます。ところが著者は、〈かけがえのない一人の人間としてではなく、民族や国籍や宗教で区分けしたグループの単なるメンバーとして捉えられる移民女性たち〉(カバー袖)が宗教的グループでは自分の問題を解決することができず、家父長的な考え方に抑圧され、さらに声を失くしていく過程を説明します。多文化主義に対する日本的な考え方と著者の考え方の違いをよく自覚しておかないと、この本の問題提起は理解しにくい、というアドバイスがありました。

 

■本質は社会構造

兵器産業や戦争を続けることで儲けるグローバル経済の構造。ノルウェーから建設費を得て建てられるノルウェー国内のモスクは、そこに集まる利用者の数によって活動補助金が増えていく構造です。モスクは人をさらに獲得しようとし、そこで保守的な家父長制が再生産され、問題は文化の違いということに収斂していきます。性器切除や名誉殺人ばかりにマスコミが注目することで、構造的な差別の仕組が明らかにならず、マイノリティ女性の痛みはいつまでも解決されないのだ、と著者は断じています。

 

■無職の痛み

「田舎の町でノルウェー語教室に通っていたときの話。タイで非常に優秀な医師だった人が、ノルウェーでは医師として働けず、高校からやり直して、いま助手を務めているということだった。そこを乗り越えていく力がないと、自分の国でどんなにいい仕事に就いていても難しいんだなと思った」

これは参加者のひとりがノルウェーで出会った移民の話ですが、p.212に〈無職の痛み〉という表現が出てきます。故郷では、高等教育を受け、社会に役立つ仕事をしていたのに、ノルウェーではその能力が一切認められず、社会の負担になりなくないと考えているのに、「職なし」として扱われる辛さ。無職では自信や自尊心をもてず、無力感に陥ります。マイノリティの多くは、その仕事に意義が見いだせずとも、与えられた仕事は受け入れなければならないと無理し、心身に不調と痛みをきたします。能力に応じた就労を叶えることが、女性の心身の健康に繋がっていくと著者は述べます。

また、著者は、極右政党の〈進歩党が“我々の福祉”と言い〉(p.206)、メディアが移民を〈福祉のサービスを奪っていく存在〉(p.95)として描くことの問題を指摘します。ノルウェーにはいざというときに頼ることのできる制度が整っていますが、マイノリティに就労を保証できなければ、その人たちを敵視される立場に追いやることになります。就労を阻む原因、ノルウェー人がしたがらない仕事を移民が担っている現実が伝わっていないことも問題視しています。

 

■“私たちにできることは、”を考えさせられる本

最後に、読書会の感想をみなさんからうかがいました。いくつかご紹介して、今回のまとめとしたいと思います。  

「この本は、世界の抱える諸問題を考えるときのひとつの視座を提供している。当事者として説得力があり、問題の根本を掴んでいると思った」

「留学生と関わることが多い。グループの一員としてではなく、一人の人として付き合っていくということをもっと意識し、考えていかないといけないと思った」

「〈人の本当の気持ちを理解するには、よい聞き手になることだ〉とあるが、よい聞き手になるのは簡単ではない。日本人だからこう、男だから、何歳だからこう、というフィルターをかけがちだが、そういうフィルターを外すことがよい聞き手になる一番の方法かなと思う。そういう意味でも、自分の北欧に対するフィルターを外してくれる本だった」

「外国籍の人に介護職に就いてもらうための介護研修に関わっている。研修に来てくれるのは、ことばも情報収集もできる優秀な人たちだと改めて実感した。研修を終えて修了証書を手にするとき、みなさん、涙を流される。介護の資格を取って日本の介護分野で働きたいといって来てくれることをもっと真摯に受け止めたい。自分の仕事への向き合い方に影響を与える読書体験だった」

「なにかがうまくいかないとき、“文化が違う”とか、“あなたたちの文化を尊重します”とよく言うが、本当に尊重しているのか、自覚的にならないといけない。いまの時代、自分とは前提条件が違うものや人との出会い方を学んでおかないと、なかなか“文化の違い”の先には進めない。そこで傷付き、ストレスを受けた経験が自分にもある。難民の境遇となれば、健康を害するほどの痛みになっていることは容易に想像がつく。これからの自分のテーマにしたい」

ウクライナのことではないが、日本語版に向けてのあとがきに、2020年の時点で、もう第三次世界大戦は始まっている、わたしたちにできることは行動を起こすこと、と書かれている。やっぱり自分の行動を変えていくのが大切だと思った。ノルウェーで生活した方の話もあって興味深かった」  (千)

                                     

■次回の予告

第16回ノルウェー読書会 2023年5月20日(土)14:00〜16:00

ペール・ペッテルソン 著 西田英恵 訳 『馬を盗みに』

白水社,2010年,2,300円+税