雨は全てを洗い流す。罪も、汚れも。
世界が終わりそうな日が来たとしても、今日の様に雨は窓を叩き、風が街に吹き抜けるのだろうか。
そんな日にも僕は音楽を聴いてだらだらと24時間を消費するんだろう。
避難勧告が出ても避難するより家にいる方が安全だと言って籠城を決めるだろうし、もし仮に避難しなければいけない状況は既に助からないものと等しいと腹を括るだろう。
そんな日に聴く音楽はなんだろう。
出来るだけ静かで美しい曲がいい。
それがもし今なら、僕はこの曲を聴く。
聴きながら本でも読んで、パンが焼けるのをそっと静かに待つだろう。
そうやって世界の終わりを迎えたい。
知らない
いつぶりの投稿だろう。
久々にブログを更新したい。
なぜ筆を走らせようと思ったのか。星野源がストリーミング配信を解禁したからだ。
久々に星野源の初期(中期?)(〜ストレンジャー)の曲までを聴いた。そこはかとなく希死念慮や諦念を感じさせながらもどこか明るく、日々を歩むことを諦めない意志を感じさせる楽曲はいつかの僕を支えてくれていた。間違いなく。そんな昔の気持ちを思い出した。
星野源はその後、病気に倒れ、一命を取り留め、いつ死ぬかわからないならと明るい歌をたくさん歌ってポップスターになった。
事務所の方針もあろうが、間違いなく商業音楽としての成功者に彼はなった。いじめられ引きこもりになった人たちの希望である。
閑話休題。
星野源自身がそんな変化をしていた一方で僕はいつまでたっても14歳のような気持ちで生きていた。そのつもりだった。
今回筆を走らせたのは星野源の歌が以前と違うように聴こえる自分に気がついたことがきっかけだった。
「知らない」という歌がある。
改めてこの曲を聴いて、歌詞を読んだ時、以前とは全く違う意味を持った事に気がついた。
「知らない」というタイトルはとても良い。「分からない」ではなく「知らない」ということはこれからまだ「知る」可能性があるということだ。僕は余計なことを「知って」しまったばっかりにひとりの人間との関わりが無くなってしまった。「知って」しまえば「知らない」状態には戻れない。人間の関係と似ている。一度関係が壊れれば壊れた事実からは逃げられない。
ここ1ヶ月の僕はと言えば、人を好きになろうとした。人になろうとした。生まれて初めて人に好きと言われた。僕は舞い上がり、そのまま自由落下して墜落した。
結局、全てが何もなかったかのように消えてなくなった。全て自分のせいだ。
何よりも悲しかったのはのは人に嫌われる事よりも、中途半端な優しさや逃げの気持ちから中途半端な距離を保とうとした自分の浅ましさや、表面上を取り繕う人間同士で行われる駆け引きだ。未熟な僕にはそれが耐えられなかった。二人して闇の中へ落ちていきたかった。闇の中を歩きたかった。
謝らなくてはならないのは、その人の人生に関わってしまったことで、その人に向けて何を歌いたいとかそういう気持ちは一切無い。だから僕はさよならを言う。まだ言えていないさよならを。絶望を連れて。
それに追い打ちをかけるように、いなくなろうとしている人がいる。歌の上手い素敵な人だった。特別何かその人にしたわけでも熱心にその人を追いかけていたわけでもないのに、喪失感が自分の予想より大きく来ているのはその人にあの人を重ねているからなのか。自分でもよく分からない。
綯い交ぜになった気持ちは文章の体を成さず、しかし、生活と同じようにただひたすらに地続きに続いていく。果てしなく。
この混沌とした感情をどうすればいいのか分からなかった。死んだ夜の街を大声を上げながら走りたかった。マイクに言葉にならない叫びを通して壊れた歌を歌いたかった。しかしどれもできない僕はせめてその気持ちの上澄みの上澄みを一つの歌にしてみたい。そのうち。全ては僕の頭の中にあって、何一つ正解は無い。
僕は何も知らない。
しかしそんなことがあった僕は、人と人が出会い別れる一連のサイクルを愛している。仲のいい人と縁を切る瞬間が一番エモーショナルで芸術的だ。例えるなら花火に近い。夏の終わりによく似合う。
いつまでもそうやって人々のすれ違う交差点に立って、行き交う人と出会って、また別れてを繰り返していきたい。死ぬまで。物語は続く。絶望の側で。
1511文字
冬は死の季節
今日という日を記しておかないわけにはいかなかった。そんなことを思って二か月弱ぶりにブログを更新する。
というのも、去年の冬も心を病み、お終いお終いと日々が過ぎるのをただ見ていたはずだった。そこから何も進めないまま一年が過ぎてしまったことをもう一度考えなければいけないと思ったのだ。
11月の連休に短い帰省を経て自宅へと帰ってきてからというもの、終わりを感じていた。漠然の不安とそれを見逃す自分への甘さ。一日のタスクを三日でこなし、昼夜を一日ずつ逆転させ続けながらなんとなく生きた。
結果的に金銭的な損失を生み、精神的には未熟なまま何も進歩していない自分をどこか客観的に冷めた目で見ていた。
部屋から出られない。
もしかしたら僕は一年たってもどこにも行けていない。
人に迷惑をかける。
将来に何の展望もない。
この世界はすごい人たちで溢れている。
毎日部屋から出ることができるというだけで偉いですよ皆さん。
僕はどこへも行けない。
心病みし時というのは冷蔵庫の中身の管理が甘くなるというもので、今日も腐った鶏肉を捨てた。
また買い物に行かなきゃと思いたったということは三日後くらいに行くんだろう。人間未満の生き物だ。
僕はどこへ向かっているのか。
自殺したあいつに今の俺を見せてやりてえよ。
不思議と俺のこと呼んでいる気はしない。
酔って根性焼きをした。
痛みで生を実感するなんてチープだけど気持ちがわかってしまう自分が嫌だ。
リストカットするくらいなら「4VIRTUAL」と左腕に刻みたい。
それで即物的なIndependentを表現するのもまたチープな気もしてきた。
価値観を独立させようと考えていたが答えが出ない。
俺はどこへも行けない。
本当はもっと書きたいことがあったはずなのに、真っ当に生きてない僕にはそれもできないみたい。また明日からも自分から逃げる日々なのでしょう。生きていきましょう。さよなら。
784文字
死にたくなったら前を見ろ
布団の中でのんべんだらりと書く文章は、どうも締まらないので好きではない。
しかし、寝る前が一番アイデアを思い付きやすいというのもまた事実であるのでこんな時間にこんなことをしている。
昔自分がやっていたブログの記事のタイトルに「死にたくなったら前を見ろ」と、使っていたような気がすることを思い出した。
その後にもまた何か続けてもう一言書いた気がするのだが、いまいち思い出せない。
今の自分ならなんと書くだろうか。そもそも死にたくなったら前を見ろと言えるのか。自分に問うてもハッキリと言えることなど何もないのだが。
夢想家が吐くような気持ちのいい台詞なら幾らでも出てくるが、本心から言える言葉はなんだろうか。
死にたくなったら前を見ろ。きっと死ななきゃ良かったと思える日が来る。
そう信じて僕は朝日が昇りかける頃に眠りの森に着く。
タイムマシンに乗って
http://j-lyric.net/artist/a033e7f/l018480.html
精神的につらくなってしまって、この曲を聴いてみたりする夜もある。
なりたかった大人になれたのか、なれるのか。そもそもなりたい大人像が自分にあるのかすら怪しい。悩む今日であります。後悔だけはしたくないのです。
徒然なるままに、金木犀が薫る夜。
知り合いから賛否両論の反応を受ける僕の文章ですが、気にせずに書いていけたらと思っております。
文体や人称がブレるのもまた自身の脳内がカオスの様相を続けているからで、流浪の旅路はいつまでも続くのであります。
書きたいことの断片はいくつかあるのに、それが上手く纏まらないのでただただそれを垂れ流していこうかと思うわけです。
そんな僕が大事にしている感覚として、「不随意」というものがあります。意図せずふと感じてしまう感覚ですね。
それを如実に表した作品を紹介します。
「赤黄色の金木犀」
フジファブリックは僕の青春の1ページに大きく残っているバンドなのです。いいバンドです。若くして亡くなった志村正彦は素晴らしい表現者であると確信しているわけですが、それと同時に偉大な詩人であったと思います。
街に金木犀の香りが溢れてきたので、この曲の歌詞について考えてみようかなと思った次第であります。
http://j-lyric.net/artist/a033e7f/l002d56.html
第一連
もしも 過ぎ去りしあなたに
全て 伝えられるのならば
それは 叶えられないとしても
心の中 準備をしていた
もしも過ぎ去りし から始まるこの詩ですがここでは「自分とあなたの関係性」を述べていますね。「過ぎ去りし」からわかるように今では何の関わりもないことが明示されていますが、三行目の「それは叶えられないとしても」から感じる諦念と不随意が二人の関係をそれとなく匂わせています。少し唐突とも思えるこの挿入が後々効いてきます。
第二連
冷夏が続いたせいか今年は
なんだか時が進むのが早い
僕は残りの月にする事を
決めて歩くスピードを上げた
一連目と打って変わって現実に引き戻されています。冷夏が終わりを迎え、「なんだか時が進むのを早く感じてしまう」のもまた不随意ですね。歩くスピードを上げた、でテンポがあがるのが演奏と歌詞の心情が同調していて良いと思います。
第三連
赤黄色の金木犀の香りがして
たまらなくなって
何故か無駄に胸が
騒いでしまう帰り道
サビのパートになります。赤黄色って言い方がとても特徴的ですね。嗅覚にたまらなさを感じるのがすごく共感できます。「何故か無駄に胸が騒いでしまう」のも不随意の表現ですね。
第四連
期待外れな程
感傷的にはなりきれず
目を閉じるたびに
あの日の言葉が消えていく
サビのテンポを維持したまま疾走感を残して進んでいきます。しかも感傷的になるのではなく、感傷的に「なりきれ」ないのがまた良いですよね。目を閉じるたびに消えるあの言葉、二人しか知りえないシーンが手のひらから零れ落ちていくのがまた、疾走感と相まって切ないです。
最後の第五連、ここは現代に誇る名文だと強く思います。
いつの間にか地面に映った
影が伸びて解らなくなった
赤黄色の金木犀の香りがして
たまらなくなって
何故か無駄に胸が
騒いでしまう帰り道
いつの間にか地面に映った影がのびて解らなくなった、の何が解らなくなったのか明示されていないのがポイントですよね。影なのか自分なのか。影というのは自己の投影の比喩表現だと捉えると、どちらも同じなのかもしれません。第三連を繰り返すことで切なさを重ね掛けているのがとてもいいです。
こんな文章で解説しても零れ落ちてしまうほどに素晴らしい歌詞ですので、全世界の人に聴いてもらいたいですね。
無駄に解説が長くなってしまったので、今回はこれだけにしておきます。
ほんとはもっと無駄に色々とつらつら述べたいものですね。1264文字。
夏が終わる前に夏を終わらせた。
毎日続けるという意気込みは確かにあったはずなのに、気が付けば一か月が過ぎてしまった。なんてこった。
一か月経つ間に夏が死んでいた。秋雨が続き、あんなに暑かったのが別世界か若しくは去年の記憶だった気にもなるくらい、季節が別の顔をしていた。
俺は夏を終わらせていた。着る予定もないのに浴衣を買い、その浴衣で真昼間の河原でビールを飲み、蜂に刺されかけた。伸ばして染めていた髪をバッサリ切った。仲のいい人たちと楽しく過ごした。温泉施設にも行った。酒を飲んで吐いた。自室でも吐いた。公園のオブジェに登って煙草を吸った。2、3日禁煙しては煙草を吸った。知り合いのバンドの解散ライブを見た。映画を見た。好きな映画のDVDを買った。
満ち足りていた。
それなのに、気が付けばタオルケット一枚、窓を開けて寝たら風邪をひくような寒さが街にやってきてしまった。
夏が死んだ。
俺は夏から無事逃げ切れた。絵に描いたような真夏の日々を、大学生のうちにやってくる貴重な夏のうち一回を、無事にやりたいこととやるべきことを終わらせて過ごせた。
密度の濃い夏休みは、その名前に負けながら後半戦に突入する。
九月が、ユートピアがやってくる。