最近あなたの暮らしはどう

都内の女子大生の独り言。SNSからすこし離れたところで日記が書きたい。

「メンヘラ」をこじらせて市販のお薬を飲みすぎた時の話

 この話を書く事になると思わなかったけれど、もうこれは遠い昔のあまりよくない...というかはっきり言ってダサい思い出。閲覧者があまり居るとも思わないので、備忘録のつもりでここに投下して忘れます。

 

※薬のオーバードーズ(過剰摂取)は身体、とくに消化器官にダメージを遺し、猛烈な吐き気に苦しみます。回復後も食事やアルコール等の、日常生活で楽しめる質、量が明らかに減ります。気持ちのよいものではありません。絶対にやめましょう。※

  

 食事中の人にはいきなり申し訳ないけれど、私が覚えているなかで最悪の光景のひとつは、和式トイレに吐き出されたオムレツと味噌汁の匂いのする生温かい吐瀉物だ。

 

 大学一年生の冬、私はなんとなく疲れていた。窓際の陰鬱キャラだった高校生活から一変して、大学に入って少ないけれど友人もできたし、馴染める音楽サークルにも入った。その時期はそのサークル活動も試験期間を前に、しばらく活動日がなかった。授業もぽつりぽつりと終わりに近づき、あとはレポート提出を果たすだけ。その日もたしかレポートを書き上げて提出するために学校に行ったんだと思う。

 

 今ならひどく無責任で浅はか、そう思うけれど、当時はなんとなくウツモードで、「疲れた」し「やる気が出ない」からという理由でドラッグストアに売っていた錠剤をOD(オーバードーズ)することにした。友人にもしばらく会ってないし、課題も終わらない。厨二病を完璧にこじらせていた高校時代(高校生なのに...)は若さゆえの年取りたくない願望とか不安とかそういうものがこじれて腐って、「二十歳までに死ぬ」とひそかに心に決めていた。痛い。なのに第一志望ではなかったけれどちゃっかり中堅大学に合格して、ちゃっかりサークルに入ったりもして、図々しくも片思いまでしていた。あとで判明するが、この片想いは実らない。ともかく、スケジュールがぽっかりと空いた冬の初め、私はなにをしているんだろう、という思いが胸に去来する。今すぐ死にたいわけじゃないけど、なんとなく生きていてもなにをしたらいいのかわからない気がした。自分は特別だと思っていたわけじゃないけど、誰でも多かれ少なかれ持っているであろう漠然とした将来への不安とか自信のなさをうまく処理できなかった。そのぐらい拙かった。ていうか感傷に浸ってないでレポートやれよって話。

 

 前置きが長い。

 

 私が飲んだのは薬局で買えるエ./ス/,エ./,.,ス#ブロン。結構有名。以下サイトより引用

~”錠は、せきとたんに有効な白色の糖衣錠です。
主成分のジヒドロコデインリン酸塩が延髄にあるせきの中枢に作用してせきをしずめ、dl-メチルエフェドリン塩酸塩が気管支筋の緊張をやわらげることによりせきをしずめ、たんの排出をうながします。さらに、抗ヒスタミン剤のクロルフェニラミンマレイン酸塩が、アレルギー性のせきに効果をあらわします。
販売量はお一人様一個限りとさせていただいております。”

 

専門知識に疎いのでよくわからないけど、コデインは一部がモルヒネに代謝されるアッパー系で、エフェドリンがダウナー系らしい。むかし黒背景に赤文字でデザインしてあるような「いかにも」って感じの界隈のインターネットの偉い人が言ってました。咳を鎮めるにしてはかなりトリッキーな配合らしいです。ま、咳を鎮めるためなので仕方ないね?

 

 

ひと瓶84錠入りだったと思うけど、20~30錠くらい飲むとちょっと酔ったみたいな感じになって多幸感が増す。頭がおかしかった高校生の時はこれでリラックスしてベッドに寝転がってyoutube聴いたりしていた。体が軽くなって筋肉が弛緩する感じ。身のこなしが極度に軽くなって楽しい。ただしめちゃくちゃ喉が渇くし、頻尿になる。薬が抜けていくときはめちゃくちゃ鬱になる。

 

 皮膚科で処方された抗ヒスタミン剤を1シート飲んだときは、暴力的な睡魔に襲われた。授業中にうつらうつらする心地よい眠気じゃなくて、本当に強制的にシャットダウンされている感じ。PCの電源ボタンを押し続けているとき私のノートPCはこんな気分なの、と思って反省した。していない。

 

 そんな高校時代を思い出して昔の悪い癖が出た。大学最寄駅のドラッグストアでそれを買って、人通りもまばらな図書館の2階の廊下で、吹き抜けになっているエントランスホールを見下ろしながら、エビアンと一緒に飲む。季節はもう本格的な冬が始まろうとしていて、瓶も、手のひらに出した錠剤も長めのコートの袖のなかに楽に隠すことができた。傍目から見たら、飲食禁止の自習室から抜け出して水分補給してる学生にしか見えなかったと思う。

 

 最初は半分、つまり42錠しか飲まなかったけど、なんとなく効いてくるのが遅い気がして残されたもう半分も服用してしまった。一回の服用量は2錠である。いかに判断力が鈍っていたかが分かる。帰宅後、いつもの通り体がふわふわしてくるのを感じたが、何もしたくない気分だったのでそのまま寝てしまった。

 

 翌朝目が覚めた瞬間は昨日自分がなにをしたのかほとんど忘れていた。随分と都合のいいものである。だいぶあとになってから、乏しい化学の知識とネットの情報をもとに大雑把に計算したところによると、飲んだのは致死量の三分の一ぐらいの量に過ぎなかった。体に身に覚えのある気だるさが徐々に蘇ってきたけれど、授業に向かう。

 

 電車で大学の最寄り駅に着く少し前から吐き気がしていたけれど、電車に酔ったのかと思っていた。駅のホームに着いてから喉の奥に強烈な不快感が昇ってきて、トイレに駆け込んで、母親の作ってくれた朝ごはんを全部吐いた。

 

 それからは書くまでもなく情けない日々の連続だった。三週間近く吐き気が収まらなくて、食事が全く楽しくなかったし、年末の友人との約束は全部キャンセルした。教授の厚意で、最後の講義でお菓子パーティーをしたけれど、臭いだけで降参しずっと教室棟の古いトイレにこもっていた。風邪が流行っている時期だったので周囲には胃腸炎をこじらせたという説明で通したけれど、本当に苦しかった。回復したあとも周囲に指摘されるほど食べられる量が減ったし、本当に胃の不快感を感じることが増えた。

 

 この体験は、薬なんか多量摂取してみようとも思わないひとには馬鹿な人間がいるんだな、自業自得だな、と思って欲しいし、なにかから逃げたい「メンヘラ」のあなたには酷なようだけれど逃げた先には目新しい世界ではなく笑っちゃうくらい格好悪い現実しかないと思って読んで欲しい。そんなものだ。

 

 結局はチープで人工的な幸せの前借りだし、薬が抜けたときに、自分がどうしようもない人間である、という事実が輪郭をさらにはっきりとさせてこちらに迫ってくる。こんなものがなくても健康な人は他に楽しい予定やそれなりにしんどい現実にも折り合いをつけられるような趣味や習慣、それからしっかりとした意志が他にあって、それできちんと日常生活を送っているのだ。

 

 そのことに気づいたのはずいぶん後で、遠回りをしたけれど、21歳のいまも変わらず友人とかつて友人だった恋人に囲まれて、変わらずにちょっとヘナチョコな日々をすごしている。けれどあの頃より数段マシだ。生きていればなんとかなる、信じられない時もあるけれどそう思っていたい。

 

 

 

 

 

一体何を話して笑うの

 

 日記の題名が思いつかなくて、『無題』にするのもその無骨さが却って格好つけすぎな気がしたので歌詞を借りる。

高校生みたいで恥ずかしいけれどまあいい。楽しければ良い。

 

 そもそもブログ名も同じバンドの同じ曲から借りている。

 

    The NOVEMBERS - 最近あなたの暮らしはどう

 

「もうこれ以上余計に生きても あなたを汚しはしないかしら」で始まるウツな歌詞の美しい歌。使われている画像の影響だろうけど、誰も息をしてないような冬の乾燥した外気を鼻の奥に思い出す気さえする。陳腐な表現。

 

**

 

 二度寝して十時半ぐらいに起きる。恋人とセックスする夢と、運転免許を持っていないのにマニュアル車を運転して家まで帰ってくる夢と、知らないバンドのCDをなぜか出身中学の教室で、かけようとしている夢を見る。おそらく全部つながっていた。バンド名はその名も「チョムスキー」。大学の講義で出てきたこの人はアメリカの言語学者のセンセーなんだけど、そうだな、例えば「シェイクスピア」とか「ジークムント・フロイト」みたいなバンドがある、みたいな奇妙な感じ。まあ「ピンクフロイド」が実際あるからそんなに変じゃないか。胡散臭くてやたらと長い夢。起きてからデスノートを観る。もちろん映画の方。松山ケンイチのイケメンぶりを再認識する。

 

 昨日は祖母が家に来て二人で昼ご飯にパンを食べた。サンドイッチ、ピザパン、クイニーアマン。祖父母が旅行に行った話をする。「おじいちゃんったらやんなっちゃうワ」と。ともに七十代後半の祖父母はいまもすごく仲がよくて、いまだに相手に対して若者のように寂しがったり拗ねたりしながら一緒に暮らしている。かわいい人たち。

 

「お付き合いしている人はいるの?」とか「どんなところに就職したいの?」とマイルドな言葉を選びながら、しかしはっきりと訊かれた。この祖母は母方の祖母だが、私の母は父と結婚しなかったらずっと独身に「なってしまった」だろうと思う、という話もしていた。祖母のことはすき。でも、母、祖母、と「家族のことを何よりも優先したい、させたい」と思っているすべての人種のことを考えて気が遠くなる。私は日本でおそらく現在も主流である「結婚と幸せな家庭こそが女の人生のゴールでアガリ」教の信者ではない。私が結婚しなかったら、子を産まなかったら、女を愛したら、そのことが分かったら、あの人たちはどんな反応をするの。祖母の優しさは私にアガってほしいという願いゆえなのかな。「アガる」って言うとなんだか「ヴァイブス感じてる」系の人みたい。

ヾ(゚ε゚*)ノ~~ウェーイ! モリアガッテルカ! ブチアガロウゼ!  ................死にたい。

 

 結婚と子育ては人生の必須要素、または当然の目標だろうと思っている人たちの存在になんと言ったらいいのかずっと言葉を探している。午後からバイト。

 

ブログ開設に宛てて: ネットストーカーは今日も踊る

 数年ぶりに個人ブログをひっそりと開くことにした。ここに至る経緯はというと、twitterにあまりにも没頭しすぎたから、端的に言えばツイ廃になりかけていたからに他ならない。長期休みで暇を持て余した大学生の成れの果てである。そもそもはてなを選んだのも「ツイッタラーがよく使っている気がするクライアントだから」というあちゃーなものである。あちゃー。痛い。はてな村には、はてブとかいう自分で書いた記事がたまたま町奉行の目に留まると村中轢き回しにされ、メンションがたくさん飛んでくる怖い制度があるらしいこともちゃんと知っていたのに。

 

 tumblrでも良かったのだがそのうち好みのGIFをリブログして垂れ流すだけのページになりそうでやめた。tumblrの醍醐味はフォローしていない他人の画像でも長文テキストでもタイムラインにわんさか流れてくる、その超カジュアルなリブログ、つまり共有姿勢にあるとは思うけど、日記と日記の間に犬猫やら、ラリってる歌手のお下劣なGIFやらが華を添えるのはいただけなかった。

 

 そもそも私がなぜツイ廃に片足を突っ込んでいたかという話である。私はツイッターで本アカウント、裏アカウント、大学のサークル名義のアカウント、それから自分の恋人をネットストーキングするための捨てアカウントを持っていた。現在も持っている。特筆すべきはおそらく4つめだ。

 

 ここで一応断っておくが、かの有名な精神相談サイトのように、「私の言う恋人とは想像上の存在」なのではない。一応は実存している。安心である。何がだ。

 

 私の恋人は、上記の私よろしくいくつかのtwitterアカウントをもっており、そのうちの幾つかは鍵垢であった。つまりフォロー許可を得ないとツイートが閲覧できない。フォロー申請してきたアカウントの持ち主が私だと分かれば当然許可はしないであろう。素性を明かさずしてフォロワーの中に潜り込まねばならない。私は恋人のハマっているアプリゲームのユーザーを装って潜入した。まずそのアプリゲームのユーザーを検索して十数人フォローしてから、通りがかった偶然を装ってフォロー申請する。わずか数分でフォロー許可され、ああ簡単だなと思ったことは否めない。不自然だと思われないように、フォロー許可されたばかりの恋人のアカウントのフォロイーからさらに何人か同じゲームのプレイヤーを見繕ってフォローしておく。

 

 恋人は日常生活の思いつきを驚くほど多くtwitterに投稿していた。好きな酒、所属するサークルの出来事、愚痴そして愚痴。あまり思いつめたところを言わない人だったので、つい追うことが増えた。twitterのbio欄にはブログのURLが貼ってあったのでそれもチェックした。twitterアカウントのidでGoogle検索をかけたらidを使いまわしていたらしく、同じidを使った大学入学以前のブログを2つ発見した。(ここまで来るとほとんど墓荒らしに近い。私の高校時代のブログなど現在の知り合いの誰かに見られたら隠遁生活を始めるか半分本気で考えるだろう。幸いその頃はガラケーでも作れる無料ブログサービス、一昔前に流行ったような『リアルタイム』が作れるような代物を使っていたので、PCや現在主流になったスマホからの検索では閲覧が難しかったし、大学入学後に放置したために早々にインターネットの藻屑になり、長期間ログインがないという理由で規約に引っ掛かって消えてしまった。)

 

 恋人はmixiには本名で登録していたので、出身高校名から辿ることができた。むしろ自分のmixiアカウントのパスワードを忘れていたので、そっちを思い出すのに難儀した程度だった。facebookだけは見つからなかったが、どうも実名では登録していないらしいという話をなにかの折に本人から聞いてそれ以上の探索を諦めた。

 

 私は何がしたかったのか。twitterにはまった話から恋人をネットストーキングしている話に横滑りしている気がしないでもないが、つまりtwitterでさまざまな界隈の人をフォローし、星をつけたり、リムーブしたりブロックされたりしてる間にそういえば恋人の日常も自分のアカウントも含め便所の落書きの巨大集積場みたいなマイクロブログサービスから得られるかもと思っていたのだ。

 

 ここで「恋人の日常の情報」を得られるのかもしれない、と思ったのが問題なのである。この話にはネットストーキングによって浮気が発覚したとかそういう他人からみて面白いオチはついていない。恋人とは現在も交際中である。エゴ全開の話で書いてるそばから恥ずかしくなるが、ネットストーキングによって得られるであろう情報が欲しい情報かどうか、つまり私にとって快か不快かはわからないのである。当たり前だ。例えば「その日は就活で忙しい」という理由で遊びの誘いを断られた日に別の人物と日がな一日、行楽に興じているかもしれない。今日にも別れを考えているかもしれない。(これは実際に一回あった。)ただでさえ拙い、二十代前半のしがない学生の交際に新たな火種が投下される。

 

 私の知りえなかった情報に困惑する。他人の日常を垣間見れる、そして同じ場所に自分の思想とも独り言ともつかないボヤキを無差別に撒き散らしてもいいと一瞬でも考えた自身にうんざりする。自分の個人的な思考を記録し、食べたものを写真にとって逐一他人に晒してもいいと思えるようくらい、自己が、自己愛が肥大していくあの感覚は醜いと、時折感じる。

 

 よくよく話を訊くと、恋人はfacebookに実名で登録してはいないが、偽名のものを持っていて元恋人のホームを覗いたりしているらしい。結局似た者同士だ。

 

 私は恋人のことがすきだ。けれどもインターネットを1日20分しかやらない人種はもっとすきだと思う。