ガタカの呪い

個人への話じゃ無いので普通に書く。

【1】「理想」世界に私の居場所なんか無い
ガタカ」を見た。辛い事があっても、見ればつかの間の「夢」をくれた映画だった。
でももう昔と同じ様には泣けなくなってしまった。違う意味で泣けてきたけど。
アレはもう私にとって「呪い」の映画だ。
 
地下猫さん所のブックマークにはディストピアだみたいに書いたけど、「清く正しくキモくない美しい」人々ばかりになれば、確かにそこにも差別は残るだろうけど今程じゃあ無いかもしれない。それとも今度は些細な差が凄く大きな意味を持つ様になるんだろうか?眉毛が1mm長いか短いかでモテたりモテなかったり。
だが少なくとも、致命的な欠陥を持つ事は回避出来る。変態性癖も含めて。それは多分近い将来に現実になるし、止めようとも思わない。他人が「幸せ」を追求する自由を支持する。
 
もし、自分に子供が生まれるとして、私は遺伝子疾患を抱えて、夢と現実の狭間に苦しむビンセントが「欲しく無い」。もし選べるなら、遺伝子疾患を削除する項目に全てサインする。ゲイになりやすい遺伝子も削除する。変態性癖も防げるなら防ぐ。暴力的な性格も消す。顔立ちも美しくして上げたいし、背も高くしてやりたい。運動神経だって。知能だって。そしてもちろん、対人コミュニケーション能力も。私のように興奮して言ったり言い返したりする度にアドレナリン過剰分泌で指先が震える様な吃音持ちにしたくない。独りで寂しく死ぬだろうコミュニケーション不全にしたくない。世界を呪わずに済むようにしてやりたい。それが出来るのに手を伸ばさないなんて私には無理だ。
 
やむを得ず産まれて来る遺伝子疾患の子供達を居なくしたい、その「他人が幸せを求める気持ち」に「多様性」なんて言葉は無力だ。遺伝子操作を行う事はこれから先産まれて来るかもしれない彼/彼女を、可能性を殺す行為だが、「幸せ」の前にやっぱり「可能性」は無力だ。そんなに「多様性」や「可能性」が大事ならお前がその不利益を背負え、って話だからだ。
 
かろうじて声を上げるのは宗教だろうけど、私は「宗教は病」だと思う程に宗教が嫌いだ。人の不寛容さを維持増幅するのはいつだって「正しさ」だし、「正しさ」は私を愛したりしない。糾弾するだけだ。
人はコミュニケーションする動物で、ディスコミュニケーションは「悪」だからだ。そんな教会の「お情け」的ネットワークに組み入れて貰わなくても、私達はもう生きて行ける術を持ってるのに。人が何をするにも顔を突き合わせなければ生きて行けなかったのは昔の話だ。
その宗教が「正しく」産まれるであろう子供を、それを望むであろう親を糾弾するだろうか?やったとしても反動保守的な頑迷な人達だけだろう。何とか「あるがまま」を生きようとし、やがて数が減り、消えて行くだろう。もっと酷ければ、「新世界の奴隷階級」が彼らを待ってるのかも知れない。「ガタカ」はそういう未来を描いた。
 
私に連れ合いも居ないので子供も出来ないが、相手が居なくても子供が作れる社会になっても……私には多分、自分の子供とのコミュニケーションも苦痛だ。そんな完璧な人間は特に。もし仮に、こんな自分でもいいと言ってくれる人が居たとしても、こんな苦痛に付き合わせたく無い。誰も巻き込みたくない。
それ以前に例えば手術や矯正によって私のマイナス要素が克服されたとしても、私にとって「他者」なんて物はそんなに「価値ある」ものじゃない。既に必要もないのに手に入れたいとか、関わりたいとか思ってすら居ない。何でこいつらはただ「放っておいて」くれないんだろう?他人が「幸せ」を欲しがるのを止めるつもりも無いから私が「幸せ」など欲してないんだと分かって欲しい。私にとっての幸せとは「平穏」の事だ。
 
ああ、聞こえる。「要らないと言いつつ彼が幸せになりたいと願っているのが痛い程に伝わって来ます」…殺してやろうか?その自分が高い場所に居る、と下を見て確認する行為が、勝ち誇る声がどれ程人を傷付けるか。言うのは勝手だが私にそれを「強要」はするなよ?私の遺伝子改造申請書類にサインする権利を他人にやる気なんか無い。私が私のまま生きるのは私の自由だ。
私がお前達に興味が無いのと同じ様に、私を「お前達が愛せる私」に作り変える事が出来るなんて思わないでくれ。
 
静かに誰にも迷惑を掛けずに生きて、適当に楽しんで、独りで死にたい。本当に無人島に独りは生きて行けないから、苦痛じゃない程度に社会と関わりたい。おつり貰って「どーも」レベルで。その位がちょうどいい人間も居るし、それも結構な数が居るんじゃないだろうか。完全に断絶する事が困難でも、社会との関わり深度がWEBのおかげでコントローラブルになった。私にとっては歓迎すべき事だ。
 
人と関わるなんてのは苦痛そのものだ。他人と自分の格差を見せつけられて、何が楽しい?低い方に居る人間がいつだっている。苦しみを押し付け合う事に何の意味がある。苦痛を誰かに押し付けるような人間になりたく無いから断絶してるのに何故干渉する。もう一度あの「いじめ」の連鎖の中に戻れとでも言うのか。
 
昔、まだ中学生の頃、車椅子の中年男性が若い女性に押されて本屋に入って来た。男性はSM写真雑誌を買って行った。女性はどういう関係かは分からない。あの時代だから介護の人というのもそれ程普及していなかったので親族かも知れない。女性はいささか不愉快そうにはしていたが、男性が買い物をするのを黙って見守り、また車椅子を押して出て行った。
 
当時も今も私にはそれがどういう意味があるのかも良く分かって居ないが、強烈な印象に残って今でもハッキリ覚えている。自分の事を省みる時、必ず彼の姿が浮かぶ。彼の内面はどうであるかは全く分からないのだから、私の中の彼の印象は私の心の投影に過ぎ無い。彼は私の中でビンセントであり、ユージーンだ。「あらかじめ呪われた者」と「「幸せ」を失って呪われた者」だ。
 
社会が「いじめ」をやめれないのはもう分かってる。「非対称性」だの「差別」だの語彙を駆使してもいいが、アレは私には「いじめ」だ。「いじめ」られるのも誰かをいじめる側に回るのも嫌なので「断絶」を選んだ。
社会に出れば、かつて自分がそう強いられたように、もう自分が「いじめ」られるのを止める為に、誰かの腕に鉛筆を突き立てたくても、誰かの腕に届かない。
そうしたら反撃の出来ぬ弱者と見られて攻撃された。独りで居ても「存在そのものがキモくてコワイ」と怯えられた。どこまで逃げても追って来るなら、もうこの世に生きる場所がない。「断絶」するしかない。
 
ビンセントは努力して努力して運命をはね除け、宇宙に行けたけど、帰っては来れなかった。
彼は「幸せ」を欲したんじゃなく、アイリーンを、「幸せ」を捨て、自分で有り続ける為に「ここでは無いどこか」へ旅立った。生まれながらに与えられた「幸せ」を事故で失ったユージーンは自ら死んだ。
あれは頑張れば「夢」は叶って「幸せ」は手に入るなんて話じゃなく、自分で有り続ける為には独りで死ぬしか無い、って話なんだ。
 
キモオタを突ついて遊んでるヤツらには、言葉なんか通じない。
奴らは「正しさ」を盾にして「悪」い私を取り囲んで小突き回し、集団で恥辱を与えて娯楽にして来た。
「「普通」は「正しい」」「コミュニケーションは「正しい」」
「クラスに溶け込まないお前が「悪」い」「皆と違う事をするお前が「悪」い」「「普通」に生きられないお前が「悪」い」
幾ら悲鳴を上げても、助けを求めても、奴らを楽しませるだけだ。
突けばキモイ汚液が飛び出すんだと学習させるしかない。殴るヤツらの手を汚してやろう。キモイ汚液でな。キモさの持ち合わせならある。
中途半端に誰得なオタクの自分語りを聞かせてキモがらせても、それすら娯楽にするだろう。誰かの「キモさ」は自分の「普通さ」を再確認させてくれるからだ。だからヤツらは「普通」じゃない物を小突き回して今日も楽しむ。
 
そうじゃ無い、と言うなら「放っておけ」他人の事は。
社会が、お前らがそうしてくれれば私達は姿を消す。今まで通りに自分達を不可視化する。
我々が言ってるのは終始「我々の人権を制限しないでくれ」「だけ」なんだから。「お前のせいで殴られた気になってる人が居る!」と言いつつ我々を殴るのを止めてくれたらこっちも「殴るの止めてくれ」と言わんで済む。
 
誰も愛してくれ等と言ってない「無視してくれ」と言ってるだけだ。エロゲーオタ叩きさえ終わってくれれば私ははてなから消える。犯罪者扱いされずに汚らしい妄想で性欲を浪費出来る「平穏」に戻る。
 
【2】「理想じゃない」世界に生きる
「誰にも迷惑をかけないから放っておいて貰う」為のコストなら税金で十分だ。本当にお前らが「正しい」ならそのカネを使って差別を補填して行けばいい。私の与り知らぬ場所で起った差別への手当に私のカネが使われようと文句は言わんよ。社会が「ちゃんと回る」ならそれに乗っかって生きるしかない私にもそれは「良き事」だから。
 
要求するヤツは通るかどうかは別の所で好きなだけ要求しろ。その主張する口は塞げないし「言うだけならタダ」だ。切迫して注意を引こうとする声が大きくなるのは当然だし、弱者の側にコスト計算を強いるのはナンセンスだ。一々計算なんかしてSOSを出せるか。同じ様に「不愉快だ!」って叫ぶヤツも言うだけなら好きにしろ、止める気も無い。私や誰かに何かを強要しない限りは。「道徳」に「人権の仮面」を被せない限りは。ヴィクトリア朝道徳婆さん達が「こっちの存在を抹消する気満々」じゃなきゃ関わり合いにもなりたく無い。一体誰が「その後我々がどうなる」なんて事を気にしながら「規制せよ!」と叫んだって言うんだ?
 
社会リソースの「効率的な再配分」の為に政府は有る。出来る出来ないは政府が決めればいいのだし「声のデカさ」なんかに引きずられては困る。比較衡量はちゃんとしてくれ。法律がウェットに「感情」なんて要素で左右されるなんか危険過ぎる。
政府の「効率」を監視するのは市民の義務だ。注視して投票行動でYES/NOを突きつけるのは「人間なんか」と顔を突き合わせるよりよほど私にとっては楽な話だ。私が必要としてるのは正しい判断を下す為の情報「だけ」だ。この糞みたいな社会で少なくともそれを手に入れる努力はしてる。
それは「誰かの為」なんかじゃなくて「自分(だけ)の為」だ。足下が崩れそうなのに自分の権利ばかり主張するヤツは勝手な以前にただの馬鹿だが「言うだけならタダ」だし、社会リソースが浪費されない限りは知らん。馬鹿の意見が通りそうな時には反対するが、社会は本来そういう「馬鹿さ」を直接実現したりしない形で運用される(べき)だ。その仕組みが崩れてるか古くて使いものにならないから政権交代が必要なんだろう。
公共工事の差し止めをすれば土木業界で人のクビを切られる訳だが今のまま放置する訳にいかないのは「社会リソースの浪費」だからだ。「誰かの「不快感」」なんかの為では無い。
 
ヴィクトリア朝婆さんの「道徳」から来る「不快感の表明」には突っぱねるのに、性被害者の「恐怖」から来る「不快感の表明」は突っぱねられないと考えるのは何故だろう?
ヴィクトリア朝婆さんだって自分の信じる「道徳」が社会から失われて行く事に悲しんでるだろうし怒ってるだろうし恐怖してるだろう。「ヒトラー 〜最期の12日間〜」のラストの方でもこの世から「正義」が失われれる事に苦しんでた婦人が居たね。その「正義」は間違ってる、と皆が思うだけで。あれだって「被害者感情」なのだ。
ひるがって性被害者の「恐怖」は誰だって「痛い思い」「怖い思い」「恥ずかしい思い」をするのは嫌で、だから「可哀想」と思えるし、しかもそれが一方的な抑圧から生まれた物であれば、「救済すべき」だ、とまともな神経をしていたら思う。
 
この二つの違いは皆がその「感情」を間違っていると「思うか」「思わないか」の差だ。
 
確かに性被害者は「悪く無い」し「救済されべき」だ。
しかし、それ以前に戻って少しは考えて欲しい。「被害(や差別)を彼女達に与えたのは我々(だけ)じゃない」って事だ。彼女らの「可哀想」な現状を作ったのは我々じゃない。勘違いするな。我々は性犯罪者じゃない。性犯罪幇助犯ならば「お前も含む」社会全体だ。俺は(直接)差別に荷担した事なんかしたこと無いぞ!って言うなら私だってやってねえよ。むしろ社会から断絶してる分だけ私の方がよっぽど差別から「遠い」わ。
 
その話が通じる相手だったから、また自分の言論の芯を風向き次第でコロコロ変えるような卑怯者じゃないから地下猫さんは
「>二次元の陵辱表現を人権侵害または他者危害とみなすことは放棄しますにゃ」
って言ってくれるんだろう。差別の解消を強者(と彼が思っていた物)の「人権を制限」する方向から弱者の「人権を補強」する方向へ移っているのだと思えるし、その方向自体に反論する気も無い。局所的にしわ寄せされた不均衡を正すには周囲から支えるしかないと思うから。差別の犯人も間違えてたと思うし、差別解消の方法も今の所具体的な物が見えないし、何より最初の狙いは別だったんだろと今でも思ってるが。
 
今後も「恐怖」の責任をポルノに向けるのかも知らんがそれは聞いて見ないと分からない。多分そのつもりなんだろうとは思うが。今はっきり言えるのは我々に何をさせても被害者女性が声を出して訴えるコストなんか1円も下がらんだろうって事。
キモイのが目の前に居たら怖いから喋れないだろ!ってか?だったらその前に性被害者を我々に突きつけて盾にし、その影から自分の「道徳」を語るのをやめろ。横からギャースカ言う声をどちらも排除して、まずは「彼女の」言う事聞いて見たらいい。声を出して訴えるコストを下げる方法は本人の声を「まずは皆が話を聞けるように」する事だよ。差別への最もポピュラーな参加方法は「放置」なんだから、まずそれから止めたらいいじゃないか。実際聞いて見ると我々が周囲から言われてる事と随分開きがあるのは私の気のせいか?
「(まず)現場の差別を無くしてくれ」と言われてるとしか思えんのだが。
 
ポルノを制限した所で差別が消える訳でも無いのに、まず現場の差別に働きかける方が先に決まってるだろ…「現場が良くならないので(まず)表現規制の話をする」って相当頭悪い論理破綻だろ。「自分の差別」を放置する「いいわけ」だろそれ。「俺はキモオタを叩いてるから差別問題にコミットしてる!」とか言うなよ?
 
まず被害者女性が「差別を無くして下さい」と「救い」を求めてるならそれは我々(だけ)に対して言う事じゃない。というかキモオタはあなたの前に呼ばれないと現れないし関わらない。だから差別にも荷担しない。匿名掲示板であなたを叩く人は「世間様」だし、我々「だけ」に言ってもそんな膨大な流れを止める事が出来るわけが無い。
 
そう、こうなるともう「出来もしない要求」だ。「社会の差別解消が進まぬからお前らキモオタの表現が叩かれるんだ」とは水に放り込んで浮かべば魔女、沈めば非魔女(ただし死亡)とどう変わるんだ?因果逆転かよ。我々にそんな能力はねえよ。セカイ系かよ。キミとボクが出会って善意が有ればセカイは変わるか?変わる訳がない。社会を変えるのは政治の仕事だよ。社会が良くならない責任をどうしてキモオタの表現を消す事で解消出来るって言うんだ?誰かが自分の「不愉快さ」を「排除」する為に人権は有るんじゃない、どうにか「共存」する為の知恵だろ。私達は社会の「害悪の元栓」なんかじゃ無いんだから締めたって何も止まらない。
 
「怖いんでこの世から消えて下さい!」じゃこっちが傷付くわ。というか普段は我々隠れてるから。引きずり出してあなたの目の前に晒した人に「いや!キモイんでそんな物見せないで下さい!!」と言ってくれ。我々も安心出来る。我々に出来る範囲で「キモイ物を見ない自由」を容認する。この2つの差には凄まじい開きがあるのにすっ飛ばす人多過ぎる。

 
そして「恐怖」は「被害や差別から」生み出された「感情」だ。我々が生み出した物じゃないよ。我々は「放っておいて欲しい」だけなんだから。非難されなきゃ声も上げない。望みはディスコミュニケーションだけだ。彼女達の感情の回復に反対してる訳じゃない。キモオタとコミュニケーションして性被害者の感情が回復される訳でも無し。キモイ物目の前に突きつけられて癒される訳が無いよ、誰だってキモイ物見たく無いし、居たら変態だろ。仮にキモオタの表現を抑圧したら感情が晴れる「キモオタセラピー」で感情回復したとしようか(世間では絶賛実行中で道徳婆さんの溜飲を下げ、集票効果もあると大変好評だ)。
節子それセラピー違う、「いじめ」や!
そして「感情」の回復の「ネタ」に踏みつけにしていいほど我々の人権は軽いのか?感情の回復はキモオタの表現を踏みつけにする以外でも出来るだろうし、そうしてくれ。
 
「感情」は「現実」じゃない。「不快感の表明」をされてそれを受け止めた側がどう「配慮」するかしないかは「人権」の外側の話だ。喋る前の制限の話じゃない。「不快感の表明」をされた側が「一方的に抑圧」されたんじゃそれは「新たな差別」だ。
 
被害者感情を相対化するなとか言われれば、だったら我々は「ヴィクトリア婆さんの言い分だって聞いてはいる」。聞いてはいるが同じように突っぱねて、でもヴィクトリア婆さんが「不意打ち」で見たりしないように自分達のコンテンツを囲ってやる。「ここより先には性的な物がある」と警告を置いてる。同じ様に対応して何故悪い?勝手に入り込んで勝手に騒ぐな。誰も呼んでない、と。「見える所に」置いといた覚えも無い。少なくともエロゲーゾーニングを破壊して性被害者にレイプレイを押しつけて見せて「酷い」と言わせたのは我々じゃない。そんな非道を望むならそもそも隠れない。
 
自分の道徳感で「正しさ」を追い求めるなら同調者だけでやれ。それを他者へ「強制」するのはただの「抑圧」だ。ポルノ製作者/ユーザーを自分の価値観で迫害するのは「社会の公正さ」とはまるで関係無い話だ。
 
ディスコミュニケーション社会こそが唯一、現実の差別を緩和する。私はそう確信している。「こっち」がまずまず快適な社会だと私は知っているから。

ブクマへのお返事

id:felis_azuriさん
ブコメでは書ききれませんのでこちらで。

>felis_azuri なんだこりゃ furukatsu氏を指して、勧められて対話をはじめたらセカンドレイプをする人物と評してしまってるよなぁ。furukatsu氏が気の毒に思える。露悪的な表現を好みがちでも、そんな下衆じゃなかろうに。

felis_azuriさんにおかれましてはfurukastuさんをそこまで高く評価されていたのですね、全く存じませんでした。あなたの信頼する方をセカンドレイパー候補呼ばわりした事をお詫び致します。
 
しかしhokusyuさんはfurukatsuさんを「エロゲのために他人の尊厳を足蹴にする人間」だと評している。
ttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090608/p1
 
「あなたの」furukatsuさんへの評価がどれだけ高いのかは知りませんが、少なくともhokusyuさんは「そんな下衆」だと「彼が」思っている人に、性犯罪被害者のコメント欄へ「突撃」をけしかけているんですよ?
furukastuさんが実際にそうする人間だったかどうか私には分かりません。彼とは面識も無いし人格を判断できる程の時間観察してきた訳でも無いですから。普段の言動から万が一、と考えるは心配し過ぎでしたか。もちろん今では彼が「踏みとどまれる」人だとは知って居ますが、それは今だから言える事です。
 

>「furukatsu様におかれましては、ブクマで自己憐憫コメントする暇がおありになるのでしたら、さっさとコメント欄に突撃あそばされるのがよろしいかと。なんですよね。」
>「furukatsu 様は、いくら死体を踏みつけてもかまわないとか威勢の良いことをおっしゃりながら、いざ直接コメントすることとなると怖気づくのですね。きっと根は良い人なのでしょう。もう楽になってよろしいのですよ。」

 
これは「対話」の「お勧め」ですか。それほどhokusyuさんとfurukastuさんに堅い信頼が有ったとは存じませんでした。felis_azuriさんはお二人の信頼関係までご存じな様です。
何かお二人の信頼関係を示すエピソードなど紹介頂ければ私も自分の認識を改めますが。
私の知っているお二人のやりとりと言えばhokusyuさんの[あたまがわるい]タグ位ですので。

殴られるブタの悲鳴

http://uchya.blog109.fc2.com/blog-entry-1229.html

やはりブックマークの100文字足らずに自分の主張を込めるのは私の様な非才には無理ですね。敬語等省略した「ブクマ弁慶」になる事もございますがご容赦下さい。
表に出ましたので、「言論空間」に敬意を表して多少はマシな態度で喋る様に気を付けますが、根が引きこもり中年のコミュニケーション不全ですのでご無礼が有ったらお許しを。個人的には既に「言論空間」にも失望しつつあります。差別の放置を非難する者が無自覚に(もしくは意図的に)自分達の差別を放置し続けている事に、ですが。
 
さて、まずはご返答有り難うございます。一部無視されている部分も有りますが。
別に返答頂くのは遅くても構いませんよ、私もここ数日議論を追うのにネットに齧り付いていたおかげで仕事に支障をきたしておりますので、ゆっくりな方が助かる位です。
ただ、BLOGの仕組みが良く分かりませんのでトラックバックidコール等頂けないとなかなか気が付けないようです。ブックマークはたまに見に来ていたのですが。
 
書いている内に熱くなってしまって後半に行く程id:uchya_xさんに向かって書いているのか自分でも定かでは無い物になってしまいました。ご自分に対して言われていると思われる所を拾い読みして頂ければ幸いです。

>「自由を守れ」と言っている人間が、自分と同じ自由を掲げて他人の自由を踏みにじろうとしているというときに、なんで黙って見てられる? 君はそいつの言ってる自由ってものが信じられるのか?

に付いて、自分の思う所を書きました。
文を書く事についてはドの付く素人ですし、議論ともなると全く経験がありません。自分でidコールした以上は何とかお返事しますが、長過ぎて読みにくい等、至らぬ点はご指摘下されば出来る範囲で対応致します。
 
【1】最初のブックマーク
 ですが「あなたが」furukatsuさん自身がヘイトスピーチを垂れ流した訳でも無いのに、ヘイトスピーチを「止めようとしなかった」事だけで彼に「お前たちの方こそ黙れ、そして相手の言葉を聞け」と彼の言論を制限しようとしてる事に対して、言ったのです。Apemanさんは

ヘイトスピーチの法規制を「安直に」批判するな

と仰っておられるのは承知しておりますし特に反論も有りません。後述しますが法規制以外にも対応は有ると思うだけで。しかしあなたの主張は微妙に違っているのだと判断しました。

>君は何をしていた?

を強調されておりましたので、
ヘイトスピーチが「言論の自由」を攻撃しているというのに、それに目をつむったまま自由を叫ぶとは、いったいどこまでおめでたいんだろう。

と合わせて読み
「他人の自由が侵害されている時に止めようとしない者は人権を主張する資格が無い」と主張されていると読解しました。

>別に人権は制限されない、というか私にそんな権力はないぞ。

と言う事なのかも知れませんが、あなたでは無く「ヘイトスピーチは法規制されるべきか否か」の議論の派生でしたので個人の権力は余り関係無いと思われます。
個別具体的な被害が無くとも差別的表現がヘイトスピーチなら、我々の表現もそうなのでしょう。残念ながら。

何か文脈の読み違えなどございましたら、そちらは謝罪と訂正致しますので個別にご指摘下さい。
 
【2】ヘイトスピーチの基準と対策
そもそもfurukatsuさんは最初から

>「個別具体的な権利侵害に対応するかたちでの法規制と最初から私は言っていますが?」

なので名誉毀損や具体的な脅迫を容認などしておりません。ですから彼が言っている「ヘイトスピーチ」とは個別具体的な被害を伴わぬ物です。

>性犯罪の被害を訴える人に対して押し寄せるセカンドレイパーも、歴史の証言者を嘘つき呼ばわりする歴史修正主義者も、外国人を排斥しようとするレイシストたちも彼らはその相手から言葉を奪い、発言できなくするように仕向ける。

 まず多面体さんは議論の場に自ら出て来て主張されておられる人なので、保護を求めているならばともかく、ある程度の反論に晒される事になるでしょう。
ただし!「場所は選ぶべきだった」と思います。あの場には議論を求めて来られた方では無くて救いを求めて来た方がむしろ大半だったでしょうから。その意味で別館を開かれたのは大変賢明な判断だったと思います。あそこで議論を続けるのは不用意に傷付けられる方を増やしてしまう恐れが有ります。
そして今は、対話を積み重ねてご自分の主張がより多くの方に通る様に努力を続けているのであの方に関しては過度な「配慮」は無用でしたね。
議論の末に間違っていると思える相手に彼女は「間違っている」なり「対話する価値無し」と判断するなりご自分でなさっているのですから、おかしな同情や過度な配慮は無用と言うものです。彼女が主張を聞かせたいのは我々も含む社会全体なのでしょうし、むしろ彼女の自己決定を阻害する「余計なお世話」と言う物でしょう。
 
「歴史の証言者を嘘つき呼ばわりする歴史修正主義者」は裁判で名誉毀損で敗訴しております。これは個人を相手にした明確な人権侵害です。
 
「外国人を排斥しようとするレイシスト」ですが、彼らが具体的な個人を脅迫するなり、家の周囲を取り囲んで「出て行け」とやらかしたら、当たり前に逮捕されるでしょう。衣服を切り裂かれる事件なども有りましたが、あれも明確な犯罪です。
では「●●人は出て行け」とどこか公共の場でデモをした場合ですが、これだって彼らに言わせれば「別に人権は制限されない、というか私にそんな権力はないぞ」ではないですか?問題となるのはそれが実効力を伴う場合です。反論の口を封じる権利は彼らにも当然有りません。実際の暴力行為が封じられているならば彼らに出来るのは「人種全体への恫喝」となるのでしょうか?在特会ごときの実態などは不愉快なので詳しく見た事が無いので不勉強ですが。しかし、彼らが個別具体的に危害を及ぼしているのに逮捕されないならばそれは人権以前に「警察の怠慢」です。
 
被害者本人が恐れから反論出来ないのなら、デモに対しては「対抗言論のデモ」を起こせばよろしいでは無いですか?実際に行われた様ですし。私はそのやり方が「稚拙だったのでは無いかな」と外野の無責任さで思いますが。
他にも、例えば法律では無くても地方自治体レベルでは「迷惑防止条例」等も有ります。奈良の婆様が布団を叩いて歌えば罰則を科す事が出来るのですから、つきまといや騒音ならば止める事が出来ます。「人権の制限」以前にも「対応」方法は有る筈なのです。私の浅知恵で考え付く以上に様々な方策もあるでしょう。
 
多面体さんの所の文章を私も幾つか読みましたが「これは相当に酷い状況」なのだと思いました。確かに私の認識など遥かに超えて酷い現実ばかりでした。創作物の話を彼女のコメント欄で振られた方もいましたが「それどころでは無いだろうな」と。そして私が性犯罪被害者の為に何が出来るだろうか?と考えても、直接ノコノコ出て行って何が出来るとも思えない。キモがらせるのが関の山です。レイプキットの普及募金でも無いかと探して見ても…それ以前のようで。ただ、これは私自身の経験からの「同情」でしかないので、彼女には迷惑でしか無いかも知れません。
 
「他者の人権の制限」を議論する前に「自分達の出来る事は自分達で行う」事を考えて欲しいと言う事です。何故かすぐに国家への要請に至る前に、です。何故か他者の人権を制限するかしないか「のみ」を論じる前に、です。
 
「知るかボケ」と言う前に出来る事は有る。私もそう思います。
しかしFurukatsuさんは間違っているかもしれませんが間違った事を言う前に口を塞ぐ事は出来ない。間違っていると思う人が説得するのがいいと思います。それは「人権の外側の話」ですよね?ヘイトスピーチにも同じ事が言えると思うだけです。
 
【3】自由の対価
 これはもちろん、我々陵辱ゲーム製作者/愛好者に当てはめて考えた思考です。我々の表現は一連の議論の中で、「ヘイトスピーチに類する物」として分類されているのです。
私は貧弱とは言え自分の人生経験から「脂汗」を流して考え、この結論に達しました。今の所は。我々は、いいえ、表現物はこの国で常に規制に脅かされています。私は自分の愛好する表現が何度も規制される危険に晒される度に、「自由」について、自分や他者のそれについて考えて来ました。結論は「自分と他者の自由は等価である」です。
 
まず、id:uchya_xさんの言われる「ヘイトスピーチ」の基準についてですが。
「個別具体的な被害(名誉毀損など)を受けるか明確な危検を感じさせる脅迫を伴う物」ヘイトスピーチなのでしょうか?
それとも「個別に迫害されなくても怯える者、差別されたと感じる者が居れば」それはヘイトスピーチなのでしょうか?
 
前者ならばそれは規制する以前に法で禁止されています。後者であるならば、私はそのヘイトスピーチを一律に「法規制」に掛ける事に反対します。何故ならば、それを一律に規制する事は弊害が大き過ぎると考えるからです。
 
アメリカのコミックスコードは正しく「傷付く者」を救う為に、善意から表現を規制する物でした。まさしく後者の「ヘイトスピーチ規制」です。ただしその事の善悪はともかく、結果として「誰も何も言う事が出来ない社会」になると言う結論が出たのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%80%AB%E7%90%86%E8%A6%8F%E5%AE%9A%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
の「倫理規定の改正」の記述について書かれているように
 
「規制は文脈を読まない」のです「これは意味ある表現なので良い」「これは意味の無い表現なのでダメ」等と法律は言わない。そうで無ければ「法の下の平等」に反する。一律に全ての表現から、問題とされる表現を消し去ります。かつては黒人の肌に貼るスクリーントーンの線数は〜以上と決まっていたそうで「黒人を黒く描く事」も禁じられた時代も有ったそうです(昔に読んだ山本弘の文章ですが)。

「やはり規制をする事では何も解決しない」と議論がおこり、やがてゆるやかに、コミックスコードは姿を消しました。差別表現を消し去った所で差別構造は消えず、差別感情も消えないからです。
 
もちろんこれは、差別の放置を意味するのでは有りません。
アメリカの掲示板の翻訳記事をいくつか読む限りの狭い経験ですが、ネット上の言論においても人種差別的と思える発言が有れば、すぐに議論が起るようです。「これは人種差別か否か?」日本においてそういう議論が余り見えないのは、確かに日本人が「差別に鈍感」であるのはそうかも知れません。
 
しかし、私は何を話すべきか、何を話すべきで無いのか自分で決めたい。何かを語らなかった事によってや、語る前に自分の表現が「制限」される事は容認出来ません。喋った後の「批判」ならば甘んじて受けますが「表現の自由に紐が付く」と言うのは、「喋る前の制限」です。「ヘイトスピーチ規制」がそうであるように。
もし、我々が何を喋って何を喋るべきで無いのか、喋る前に制限されるならば、私達が何を話すのかももう喋る前に何者か(法律?公共圏?)に決められる事になります。「鈍感さ」は解決すべき問題ですが、「だから人権を制限する」には反対なのです
 
そもそも陵辱エロゲ表現の内には実際の被害者が存在しないのですから、個別具体的な他者危害は有り得ません。「そこに居もしない性犯罪者や性犯罪幇助犯を想定し、我々に対して「恐怖」する人」が居るだけです。
 
私にとって「自由の対価」とは、会った事も無い「他者への配慮」等では有りません。他人の自由と、自分の自由が等価であると弁えている者ならば、他者の自由を抑圧してまで得られる自由を求めたりしません。自由の対価とは「他人の自由を容認する事」以外には要求されないのです。
そして断言しますが、いかに本人にとって深刻であっても「恐怖」は「感情」であり現実ではない。「見たく無い物を見ない自由」が有る以上他者の人権への抑圧では無い。
 
ですから私は自ら声を上げる者を妨げようとはしません。私の自由を妨げようとする者に抗議するだけです。その抗議を非難する人にも抗議します。
表現の自由に付く紐」を言うのは私にとっては「喋った後に行われる批判」の事だと思われます。
 
【4】人権の比較衡量後にも出来る事
被害者感情を放置しろ」などと私は言っておりません、そう読めるのでしたらここで明確に宣言して置きますが。「放置すべきでは無い、ただし人権の比較衡量の外側で」と私の主張を述べて置きます。それは「人権の外側」で行って頂きたいと言っているに過ぎません。我々が反対しているのはあくまで「言論の自由を制限」される事についてです。他者の言論の自由が制限される事も同様に、です。我々である事を一律に「制限」しようとする事に反論しているのです。
 
我々の「人権を制限」する前に、市場を「他者の人権を侵害しない形」で形成する「努力」はなされています。法規制するまでも無く、性表現を含むマンガやゲーム等は、ゆるやかなグラデーションで社会に溶け込んでいます。
 
話題が散漫になるので詳細は別の機会に譲りますが、18歳未満に対して性的表現の有るマンガを見せてはいけない、という法律は実は有りません。
あるのは青少年保護育成条例だけです。この事は私が規制問題を調べている際に知った事ですが、地方自治体ごとに決まる条例ですので、一律な法規制では有りません。
ですから自主規制に意味は有る。ゾーニング、レーティングだけでは無く、社会情勢に応じて自主規制の内容も変化しています。
 
しかし今、現実に我々が権力によって強制的に「自主」規制され、それに反論している時に「表現の自由を主張する前に己の差別を顧みよ」と言われておる訳ですが、我々はずっと人権と法律の狭間におります。「対話」無くしては簡単に消されてしまう業界なのですから、むしろ他者の感情に敏感とも言えましょう。一律に「他者の感情を顧みた事が無い勝手な奴ら」と括られるのは、いささか傷付きます。
キモオタにも心は有りますので。
 
我々の存在に「傷付く」人が居たとしても、「人権を比較衡量」した上で「それは我々の人権を制限するには値しません」と答えます。私達と彼女達の「自由は等価」だからです。
 
被害者感情が問題なのと言われるのでしたら、衝突し調整された人権を更に拡張し、我々の人権を制限する正当な理由は、何処にも有りません。
我々自身が実行した犯罪でもなく、我々自身が直接に行った差別では無く、セカンドレイパーやサードレイパーたるのは、社会全体と、そこに属する男性(時には女性も)全員です。「エロゲーオタが表現の自由とかw」と述べる人達でここを認識している人がどれ程いるのか激しく疑わしいのですが、
 
あなた方も「被害者女性を差別している」のですよ。
 
この様な「女性にとって差別的な社会を形成維持している事」によって。
そんな広範囲な責任をポルノ製作者やユーザー「だけ」で背負う等出来ません。しかし周囲を見回せば、そのご自分達の責任を放置し、分かりやすい「生贄」を魔女狩りで燃やす火しか見えません。
 
被害者感情」の「手当」は、人権の外側で行って下さい。ゾーニングやレーティングなら既に行われています。不意打ちで見たく無い物を見せられない、「見たく無い物を見ない」権利なら既に有ります。
我々は被害者が声を上げる事を容認します。しかしそれに反論する自由を放棄しません。
我々を規制した所で被害者の恐怖も、差別も止まりません。
差別の主体は我々だけでは無いからです。
 
規制を主張する人達が正義を叫んで、直接女性を差別した訳でも無いキモオタを組み伏せた位で慰撫されるような感情なら、他の「まっとうな方法」で緩和出来る筈です。違いますか?
 
【5】何度も言いましたが。
 幾ら「表現の自由」を論じても我々がキモイ変態で有る為の「いいわけ」と断じる人達にどこまで通じるのか分かりませんが…。
 
我々の言論の価値を、誰かに決定させる気はありません。「価値は無い」と断じるのはご自由ですが、それは「その人の価値観の表明」に過ぎません。低価値表現等と言われるのもご自由ですが、それによって我々の人権を制限される謂れはありません。
 
その時々に変化する「道徳」や「倫理」や「感情」などで制限される人権なら、普遍的な権利とは言えません
「キモオタの人権など自分達の「感情」で制限出来る」
そんな風にお考えの方に人権を語る資格があるとは到底思えません。
犯罪も犯して居ないのに「犯罪者予備群」として「欲望を矯正」される謂れもありません。
 
【6】「その時君は何をしていた?」なら
「キモオタは死ね」「キモオタがいないので快適」「キモオタが集まってるのがウザイので消えろ」ネットに溢れるこうした言説で、今までどなたがこの手のヘイトスピーチを女性被害者の「恐怖」ほど問題にされましたか?「可哀想な被害者」は救われ、「キモイオタク」は放置。結構な人権意識ですが、その事はさほど問題ではありません。私はこのヘイトスピーチを容認します。自分の自由が侵害されない限り。
 
私と同じ自由を掲げて、今正に私達の自由を踏みにじろうとしている人達が居ますが、彼らがそれを「主張する」事を止められるとは思いませんよ。
何も犯罪を犯して居なくても、我々は性犯罪幇助犯呼ばわりされたり、「良く分からないけど怖いから規制」されようとしている訳ですが、「規制せよ」に反論はしますが「口を塞げる」等とは思っておりません。
「犯した罪以上の罰を与えないで下さい」と申し上げるだけです。
 
我々のは何でしょう?
 
「差別を放置し生きている罪」…ええ、認めます。アフリカの孤児どころか自国の性犯罪被害者の差別を放置して生きております。2Dの少女の凌辱表現に欲情して性欲を発散してるような私じゃ、今の所何が出来るのかも分かりません。個人的には反論したい事も特に無いので「黙って話を聞く」だけです。女性相手に私が出来る事と言えば「私も瞬間接着剤注入された事が有りますよ〜」とか喋ってドン引きさせる事位です。でもそれで人権を制限しないで下さい。
 
「キモイ変態であるが故に怯えられる罪」…認めますよ、我ながらキモイですから。ゴミを出しに行く時に階段ですれ違う度にビクッとさせてすいません。凌辱表現好きですいません。汚らしい妄想で性欲を独りで発散してすいません。でもそれで人権を制限しないで下さい。
 
ええと…他に何か有りますでしょうか?私が女性とするコミュニケーションと言えば後はローソンでおつりを貰う時の「どーも」位です。身近に女性も居ないので差別のしようもありません。周囲も似たような奴らばっかですいません。でもそれで人権を制限しないで下さい。
 
人権の比較衡量後に、いかなる形であれ「人権を制限」したり「存在を否定」しようとするのは「自由を踏みにじる」行為ですね。既にこのはてな界隈で連日なされております。既に無力感を持って眺めていますが、そう、id:uchya_xさんが
 
>別に人権は制限されない、というか私にそんな権力はないぞ。
 
とおっしゃるように、彼らは出来もしない事を延々論じているだけなんでしょう。そう思う事で何とか耐えております。既に何度か泣きましたが。
そうなるとこのネットの言論に何の意味が有るのか私には分かりません。こうやって書いている文章も、誰にも「届いてない」んであろうな、と…。
 
【7】唆しとアイロニーについて 
id:uchya_xさんが

>ただし判断は保留。君の見解に同意するものではない。もうちょっと考えがまとまったら回答する。

と仰るのは分かりました。判断をお待ちします。

ただし、リンク先のブクマですがこれは私に仰っておられるようですので反論させて頂きますよ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/uchya.blog109.fc2.com/blog-entry-1229.html

id:o_ne_i hokusyu氏らがfurukatsu氏に対してセカンドレイプしろとそそのかした?これだからアイロニー表現が理解出来ない人は(苦笑)(2009年8月10日訂正)
id:felis_azuri 表現規制問題 え?『セカンドレイプしろとそそのか』した『hokusyuさん達』? しかも、それがCarnot1824さんも含んでいたようだ。驚いた。(2009年8月9日訂正)

http://b.hatena.ne.jp/entry/manysided.blog85.fc2.com/blog-entry-15.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/manysided.blog85.fc2.com/blog-entry-15.html
このお二人には↑これがfurukatsuさんに対するhokusyuさんの「やってみろ」と言う「挑発」では無いとお考えのようです、Carnot1824さんもhokusyuさんの尻馬に乗っている様にも見えませんか。(2009年8月9日訂正)なるほど、それは個人の見解です。しかしアイロニー
実際にfurukatsuさんがコメント欄に突進し、いつもの調子で「機関銃でなぎ倒すしか無い」だのと放言してしまった場合でもアイロニーを本気にする馬鹿が悪い」で済ませるおつもりなのでしょうか?
(2009年8月10日訂正)

「言論の結果によって他者に起る感情に責任を負う必要無し」と言うお考えでしたら、「凌辱エロゲーで傷付く方」の感情にも責任を負う必要は無い、とお考えなのでしょうか。
だとしたら別に私にも反論はございません。
 
■2008年8月5日追記■
 大変申し訳ありません、これだけ長々と駄文を重ねながら、あの場で私が何を言いたかったのかの説明をしておりませんでした。陳謝致します。私があの場で言いたかったのは大変単純な話で
「それをfurukastuさんだけに問うのは酷じゃないでしょうか?」
と言う事です。最初からこう書いていれば良かったんですね…個人的な感情で目が曇っておりました。紛らわしい書込みをしました事お詫び致します。
 
「そう、その時何をしていたか?」と聞かれると、私はもちろん、他の大多数の方も、どういう感情を抱えていたかは別として「黙って傍観」していた訳です。私だって、告白すれば反論したい事は有りました。ただ個人的な過去の経験から「ああ、今出て行けば自分が「恐怖を与える側」になってしまう」と思い尻込みしていただけです。そう、furukatsuさんと同じです。だからコメント欄に「突撃」をけしかけると(私には見える)書込みを見て「やめてくれ!」と思ったのです。
 
ただ、あの場の状況をただ見ていた側からすると、それで「喋るな」を言われると困る。チキンな私が、ただ尻込みしていた事で自分の自由を主張する声を制限されると困るし、Furukatsuさんだってただ尻込みしていただけです。別に多面体さんに酷い言葉を浴びせに行った訳では有りません、と言いたかったのです。
 
「その時」にFurukatsuさんとの「やりとり」をしていたhokusyuさんだって、決して褒められた事をしていた訳では無いでしょう?と。私の言いたかったのはそういう事です。

議論の構図まとめ

備忘録的に。Aは現在は収束Bへ移行している模様だが、たまにAの道徳的規制を持ち出す人も居るようです。人によって規制派規制反対派の間もグラデーションなので参考程度にご覧下さい。改変・再配布禁止。

toroopさんへのお返事

toroopさんへのお返事
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20090715/p1
へのお返事です。

【1】カッコワルイ!について
 まず「格好悪い」と言われても別に私はあなたの言葉で特に危害を感じませんし、矜持も傷付けられないのでご自由にどうぞ。「性犯罪幇助犯」呼ばわりされ責任追及でもされない限りは特にコメント欄やエントリーに出るつもりは有りませんがIDコールされましたので。
(引用にidが付いている場合はid:toroopさんへのお返事ですのでカットしました)

その問題とは別に、私は「畑は(まだ)荒らされて居ない」という立場を取る者だからその非難にも値しないと考えます。一つだけ申し上げれば、誰かの畑が実際に荒らされればリベラリズムだろう何だろうが荒らした本人は法によって罰せられます。

 mojimojiさんtikaninemuru_MさんApemanさんと、FurukatsuさんNaokiTakahashiさんの議論はどこからが「他者危害なのか」という線引き、その先に有る物への対処を「表現の自由を主張する際の義務とするのかどうか」と言う問題でした。
 その先をどうする?と言う問いに対しては「個人の名誉権を超える集団的名誉を認めることは危険が大きい為、平等の実現のためには不利益取扱の段階で対処すれば足りる」と答えます。それ以上は道義的な「配慮」に過ぎ無い。
Apemanさんも

>法規制は特定の個人の人権が具体的に侵害される場合に限るべきだ、というのは正論ではある。表現による暴力のうち特定の個人への具体的な侵害になっているものとそうでないものとの間に線をひくことには一定の合理性がある。しかしこの合理性は「ここに線をひけば表現による暴力に効果的に対処できる」という性格のものではなく「これより向こう側に線をひけば弊害がある」という事情によるものだから、「法規制に反対するとして、それからどうする?」が問われることになる。この問いを拒絶する法規制反対論には私は与することができない。

としか仰って居られない。
「人権が衝突した際には比較衡量されなくてはならない」この原則に反対して居る人は、少なくともこの議論の中には居られないのでは無いですか。
だとすれば、後には何が残るのでしょう?

怯える人が居れば、その言論を「封殺」するかどうか、欧と米のヘイトスピーチ/他者危害の基準を巡る争いでしかない。比較衡量の線引きのいわば「綱引き」です。

【2】[人権プロレス]について
[人権プロレス]とは特に実効力も無いはてなと言う狭いリングで日本国憲法の解釈を巡って争っている事を指して分類する為に付けました。ここでは[憲法プロレス]とでもした方が良かったかも知れません。

ブログで言及したら現実の社会問題解決に何か役に立つのでしょうか?Apemanさんは「動員などしていない」のですから特に社会運動への参加の呼びかけも意図されて居ないのでしょう。
この論争自体が現実社会には「何の」効果も無いから所詮リングの上の「見せ物」に過ぎ無いと言っているのですよ。見ている側もその程度の「観戦者」に過ぎ無い。現実の社会問題に何もコミットなどしていないのです。「法」でも「道徳」でも無い「何か」が姿を現さない限りは。

 むしろFurukatsuさんが性犯罪被害者に直接反論するか躊躇っておられる時に、けしかける「野次」を飛ばしたのは誰でしょう?その姿にプロレスに興奮して唾飛ばす「観客」の姿を見たのは私だけでしょうか?

>Carnot1824 ↓「紐のつかない表現の自由」にセカンドレイプの自由が含まれることをようやく理解されたのでは。(2009年8月9日訂正)

>hokusyu furukatsu 様は、いくら死体を踏みつけてもかまわないとか威勢の良いことをおっしゃりながら、いざ直接コメントすることとなると怖気づくのですね。きっと根は良い人なのでしょう。もう楽になってよろしいのですよ。

>furukatsu seijigakuto だから、直接コメントとかトラバとかやりたくないんですよね、彼女みたいな人には。ただ、その判断も差別的ではないかと悩むところで。o_ne_i 戦いたくは無いけど…うーん

 私には「おら、いつも威勢のいい事を言ってるんだからさっさと言ってる通りに機関銃でなぎ倒せよ」と言って彼を小突き回している様にしか見えません。この結果彼がコメント欄に本当に突撃して被害者女性が傷付く事になれば、それこそ実際の他者危害が発生してしまう。彼らは「それからどうする?」を考慮しているとは到底思えません。
私自身はFurukatsuさんが被害者女性に直接反論の声を掛ける事は、相当に言葉を選ばねば被害者女性への罵倒/ヘイトスピーチになってしまいかねないと考えたので

>nppaemon Carnot1824今まで理解しないで言ってたみたいな言い方ですね 被害者「個人」に言えばセカンドレイプになるでしょ

とブックマークしました。あれはFurukatsuさんへのメッセージでもあります。

【3】法と道徳の間
Apemanさんの「必要もないのにことさら『70年前死んだ中国人のことを本気で思うことは出来ない』なんて言うなよ」に対し私は全く反論をする気はありません。
「その通りだ」と思います。道義として。
また、TikaniNemuru_Mさんの様に「出来もしない事を要求」してくる訳でも無い。その事は「それ、普通に要求されてると思いますが?」のエントリーでハッキリ示して頂いたと考えております。
自分の矜持を傷付けられる事に敏感なのであろうfurukatsuさんはさっさと他者の矜持を傷付けた事に「ごめんなさい」をすればいいのに、と思っていました。そういうコメントやエントリーを書きかけてはいましたが、彼を巧く説得出来るかどうか自信が無かった。
ただし、私にとってそれは依然として道義的な責任の問題に過ぎ無いのです。

Apemanさんは一貫して法による規制を言って「おられない」ので、その後に来る明確な他者危害(個人への脅迫など)を含まないヘイトスピーチへの対処は、道徳的批判以外の「何に」よって行うのか?
それがさっぱり見えて来ないので、私にとっては当面の関心事はそこに有ります。
そういう意味において、私自身も議論の成り行きを眺める「プロレス観戦者」であります。
「公共圏」的な物をApemanさん自身が言った事は有りませんが、
「公共圏」が実効性を持たないので有れば誰も救えない、陵辱ポルノやヘイトスピーチは既に周辺化された存在なのですから。
「公共圏」に実効性を持たせるので有れば、それは人権擁護法案による創作物表現規制へと結び付くでしょう。
そうはならない「第三の道」の模索がなされるのであれば、それは「道徳による批判」で既になされているのでは無いか?それが私の視点です。

WEB上での言説を例に挙げてみましょう
1)「アメリカ人はデブばかり」=>怒る人が反論すればいい
2)「●●人は国へ帰れ!」=>周囲が道義的批判で「そんな事を言うな」と言えばいい
3)「●●、手前を殺してやる!」=>明確な脅迫で逮捕
これで何か問題が有るのでしょうか?

「●●人は国へ帰れ」的言説が、少なくとも公式の場で力を持つ事は無いでしょう。問題発言を繰り返す都知事を投票で選んでしまう東京都民の民度はともかくとしても、批判を浴びている以上は日本を代表している意見でも何でも無いでしょう。

むしろ私には「そんな事を言うな」と道義的批判を発する者の存在が、暫定的に現実に存在しうる「公共圏」として機能するのでは無いか?と思えます。
現実に手を伸ばし得る、法規制からこぼれ落ちる他者危害を救い得る存在です。
具体的に名前を出せばIshikeriasobiさんはそうで有り得る。

ウンコ国旗は稚拙に過ぎ、逆の効果を生んでしまった。
現実の被害者を救う事にコミットする者と、差別を批判する事にコミットする者の視線の差がそこには有るのかも知れません。

【4】ヘイトスピーチによる「他者危害」の線引き
明確に個人を傷付けているのでは無い表現を他者危害として論じる事は、表現活動にコミットする者としては、到底飲み込めぬ話です。
「別に丸呑みしろとは言ってないから、「知るかボケ」と言う前に考えろ」と言われるでしょうから、私自身が行う道義的「配慮」、「配慮しない者」に対しては道義的な批判で良いと考えます。
それを(誰か個人に投げかけられた訳でも無い)「表現をする際の法的な義務」とするのかどうかには疑問が大いにあるだけで。
身近に「●●人は帰れ!」と言っている友人が居れば「まぁそう言わずにこういう人も居るのだから」と実例を交えて話す事位はしていますが、それは私の道義から出た行動に過ぎ無い。

Ishikeriasobiさんの活動は、余りに孤独で見ている限り社会の公正さをギリギリで維持する為の「滅私奉公」の様に見える(もちろんこれは私の主観で、現実には支えてくれる仲間や、共に戦ってくれる戦友が居るのでしょうが)。
しかし、そういう現状を救済するのに必要なのは、既に官僚や上からの法整備による誘導などでは無いと考えます。
リベラリズムにおいて、民主主義はその様な物ではない。政府主導や法律や権威的な「公共圏」的な物によって形成されるのでは無く、雑草の下生えの様な物から芽生える物です。
それはせいぜいが草の根人権教育と言った物で、「お上」の考える「正しさ」を注入するのでは無く、現状の問題を提示して一人一人に「自分で考えさせる」形式を取るのが理想なのでは無いでしょうか。
そういう行動のみがIshikeriasobiさんの活動の困難さを緩和し、反対する者の怨念をも緩和し得るのでは無いでしょうか。

例えばもし、人権擁護法案等による創作物への規制や淘汰などが議論の延長線上に登るなら、それは優先順位の錯誤も甚だしい話です。tikani_nemuru_Mさんも仰っておられるように

>「そういう社会でなくなれば、暴力的なポルノも女性に対する恫喝にはならない。あとは自分で考えよう。」

なのですから「自分で考えさせれば良い」のです。答えを間違う者も居るでしょう。それが事実と反しているならば指摘し、再考させれば良いのです。
一足飛びに結論だけを「上」から与える様な言論をこそ、私は警戒し、否定するでしょう。

道義的に誰かを救う為に声を上げる、声を上げる物を支援する事と、例えヘイトスピーチのごとき言説にも言論の自由を与える事は、私の中のリベラリズムと何ら矛盾しない。
「自分の畑を荒らされない限りは放置」出来る事が「明日はわが身」と思える事に道義的にコミットする事を阻害する事は無い。
法規制と道徳の間に「公共圏」など建設する必要は無いのです。
「明日は我が身」と思える共感は「公共圏」での表現の周辺化などで養えるとは思えない。

今回の議論を追う上で私にとってはそういう自覚が芽生える意義が有りました。
もちろん、mojimojiさんのごとき「諸君に考えさせる機会を与える為に罵倒したのだ」的な言説を許容する気はさらさら有りませんが。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Apeman/20090712/p1
追記…Apemanさんは一貫して法規制の話をしておられないのですが、何故か周囲の人に「差別問題にコミットしないのであれば表現を法規制」と言い出す人が見られます。
これは何故なのか興味深い所です。意見の対立する者の言論を封殺する道具は、自分にも向けられる物なのだと言う警戒心が何故か薄い。
それはご自身の「正しさ」に対する自信の表れなのでしょうか?
現実の法運用に対して、私は「正しさ」等で運用される機会は(残念ながら)少ないと警戒する者ですので、この様な一種無邪気な性善説には違和感を表明します。
そう主張するのならば統治権力や社会が過ちを犯したとしてもそれを阻止する手立てを十分に講じてその後に」と言う前提条件を付けるでしょう。

コメントへの応答です

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090702/1246468957
へのコメントの続き
http://d.hatena.ne.jp/nppaemon/20090703/1246649241#c
へのお返事

まずは、他の方との議論もありお忙しい中、お返事ありがとうございます。
 
なるほど、エロゲーだけの問題では無く「ある種のポルノ」全般を問題にされている、と言う事は承知しております。言葉足らずであったのはお詫びします。何分、議論自体滅多にしない、というか避けて来たもので不慣れさにはご容赦願います。
確かに、良く読みもしないであやふやな記憶や印象だけで語るのは良く無いですね。 
 
一連の議論を読み返してみますと大変に疲れます。
昔、南京事件懐疑論のページを目にしてコロッと行きかけた私が「南京事件小さな資料集」に辿り付きまして、1週間ほど両論つき合わせて自分を納得させる作業をしていた時を思い出します。あの時も脳が割れそうになったので。なるほど、バカが慣れない事をするものではない、と実感しております。
ですが私もこのまま黙っている訳にはいかない、と思いここに居ますので、何とか応答を致します。
 
【1】
 問題の発端がレイプレイである事は間違いが無い、である以上「レイプレイまたはそれに類するレイプ描写の有るエロゲー」はそこに含まれるそう思いますがいかがでしょうか?それを前提としてお話をさせて頂きます。
 
「ある種のポルノに含まれるであろうレイプを題材とするエロゲー」では長いので以下「凌辱エロゲー」とさせて頂きます。
「我々、凌辱エロゲーのユーザー/製作者」も長いので「我々」とさせて頂きます。
 
>>「凌辱エロゲーは他者危害である」
>流通のあり方が被害者へのメッセージになるとは言った。
の上で
>「ある種のポルノ」とは、「ほとんどの性犯罪の被害者と潜在的被害者が嫌悪感を
>もつ、あるいは脅迫と感じるであろう性暴力の娯楽的消費」
 
今度は検索してみました。
これは我々が凌辱エロゲーを流通させ消費する以上、それが「脅迫」として機能しうる。そうおっしゃっておられるのでは無いでしょうか?
 
「我々が居るだけで被害者女性が恐怖を感じる」から「脅迫」になるのでは無いですか?
脅迫と言われれば、深刻な被害の可能性で脅かし何かを迫る事、なのだと思いましたので
>「存在そのものが被害者に深刻な被害をもたらす」
と書きました。これは後述で脅迫と修正いたします。
 
>「差別的」も人権侵害
の稿で示された

>構造的差別を考慮しにゃー自由主義、弱者に配慮しにゃー自由主義なんてものは、
>豚臭い強者の論理でしかにゃーのだ。
>差別的なるものは人権侵害だ!自由主義は強姦魔の味方ではない!
自由主義をおとしめるな!
 
この文章を「ある種のポルノ」に当てはめまして読みますと
配慮(作品内容を制限)しないで凌辱エロゲーを消費/作る事は「豚臭い強者の理論で」「強姦者の味方」になりませんか。
だって、女性が恐怖してる主体は凌辱エロゲーを消費/作る我々なんでしょう?
我々は彼女達にレイプ犯罪者「のような物」だと実際名指しで批判され、規制に追い込まれているのですから。
前後の文脈を見るに、彼女達にいかに恐怖されようが凌辱エロゲーを作る事は構造差別ではない、と言われているようには思えませんでした。
 
>>「女性の構造的差別を助長するのだ」
>商業ポルノ全般がそれにあたるという認識はしている。エロゲだけの問題ではない
 
エロゲーだけの問題ではない事と、私がそこに含まれる事に矛盾は無いですね。
私がそう言われた事は否定なさらないんですね。今までの所、「エロゲーだけの問題ではない」が内容自体は否定されないようですので、先述しました定義で書き直します。
 
「凌辱エロゲーは他者危害である」
「凌辱エロゲーを流通し消費するお前達の存在そのものが被害者にとって脅迫になる」
「凌辱エロゲーは女性の構造的差別を助長するのだ」

 と、id:tikaninemuru_Mさんはおっしゃっておられる。
凌辱エロゲーは「ある種のポルノ」に当然含まれるでしょうから、矛盾は無いでしょう。
 
【2】
さてその上で、
>君たちのほうが被害者女性よりも深刻な差別や蔑視にあっていると言いたいのかな?
 
私はそんな事を言っているのではありません。もちろん。
ただ一つ、本題とは別に言わせて貰いたい事があるなら、凌辱エロゲーユーザー/製作者である我々に対しても差別はある。普段から心無い言葉を直接・間接的に浴びせられている。10の被害があるので100の加害から差し引いて下さい等と言ってる訳でも無く、我々の受ける差別は別の加害で消え去る訳では無く、そこに有る。それだけです。
 
「なにそれコワイ」だけで規制される。レイプの幇助犯であるかの様に罵られる。社会状況が良くならない事を、社会そのものに対して働きかけるのでは無く、分かりやすい生贄としてバッシングされる。この現状だけでは「差別」には足りませんか。
 
本題に戻ります。
>「公共圏にその存在意義を認めさせる事が出来ぬのなら、淘汰もやむなし」
>しかも
>「公共圏は実質存在せず、責任はそこにあり、責任の取り方など無い」

には反論頂けないようですが、どうやら私の理解にはもっと根本的な齟齬があったようです。
 
【3】 
>そのような社会において、ある種のポルノは女性に対する恫喝として働きえる。
>だから
>そういう社会でなくなれば、暴力的なポルノも女性に対する恫喝にはならない。
>あとは自分で考えよう。
 
 女性に差別的でポルノが恫喝として働きうる、その様な社会を構成する男性全員に責任があり、それをどうするか、と言う事ですか?
我々を含む「ある種のポルノ」のユーザー/製作者「だけ」に責任を迫っているのでは無い、のならば。
 
だとしたら早く税金を投入して司法制度内のセカンドレイプ防止推進を政府に迫るなり、(婦警を窓口に置く、女性裁判官を用意する事や、女性弁護士も有効でしょう)もちろん冤罪を防ぐ為に比較考量はして頂かないとなりませんが。犯罪被害者への罵倒を防ぐ為に人権教育に働きかけるなりされてはどうでしょう。何よりも、WEBで活動をされているのですからネット上の対抗言論でよろしいのでは無いでしょうか。
それも、今現に行われている女性差別の源である男性社会へ。

 私ですか?税金をその様に使われる事に私自身は反対しませんし(むしろ歓迎します)、個人のリソースで出来る事等その程度でしょう。少なくとも私は健全な社会を維持する為に税金を払っているつもりです。「ある種のポルノを消費/製作している個人個人」に「何か特別な事」を「社会に対し行え」と言われているのでも無い限りはこれ以上に答えようが無い。私にだって仕事は有り、日々の生活があるのでこれ以上の何か「特別な事」は出来ないでしょう。
何にコミットするかを選ぶ自由は我々にも有る筈です。
 
他にも政治家の政策を調べ、投票をする相手を選ぶ事行為等も出来るでしょうが、今はもちろん、現在進行中の表現規制から自分達の文化を守る為に票を使うでしょう。私の票は1つしか持って居ないのですから。
 
つまる所、犯罪被害者に対して「配慮」を行え、という程度の生ぬるい要求をされて居るのでしたら、私自身には何も反対する理由は無い。
furukatsuさんですら、「犯罪被害者本人」にうかつに言葉をかける事が罵倒として機能しうる事を知っている。それはid:tikaninemuru_Mさん自身が認めておられる。
違いますか?分かりやすく一言で言えば
(被害者女性への)「配慮だけならfurukatsuでもしている」
です。
 
彼は南京事件の被害者や遺族への配慮を忘れ、故に総括され自己批判を迫られた。
それはよろしいでしょう。「知るかボケ」そう言う前に出来る事はある。というのならid:tikaninemuru_Mさん自身が示されてはどうでしょう。
 
【4】
問題はその「配慮」を「誰が」「どの様に」求めるのか、という事は依然として示されていないままだという事です。「公共圏」の内実です。
 
>僕が決めたら公共圏もクソもないじゃん。
 
 私はてっきり「公共圏」とは「村上春樹をはじめとする諸芸術家を政治的に叩く人達の為の場所」かと思いましたが、どうやら思い違いの様ですね。これは失礼しました。疑念はこの一言で晴れました。
いえ、本当に思い違いだったようです。その代わりに違った疑念も、芽生えました。
 
本当に
>「べつにどんなゲームがあっても一向に構わない」でFA。
なのでしたら「ある種のポルノ」をどこでどうやって「淘汰」するのか、などと言う迂遠な議論は早々に打ち切られて、性犯罪被害者の救済方法をどのように社会に働きかけるか。という本題から始め直されてはいかがですか?
明らかに順番を間違っておられませんか?
今までの議論は何だったのですか?
 
エロゲーを規制しても性的被害者へのセカンドレイプは減らない所の話ではない。
あなたは誰の為にこの議論を続けられているのですか?レイプ被害者救済の為?
……ご冗談でしょう?まだ見ぬ将来のセカンドレイプ被害者を減少させる為に行う議論としては、「存在もしない場所」で「ある種のポルノ」を「淘汰」する方法を論じる事は、明かな遠回りなのでは無いですか。
 
 その上でなお「ある種のポルノ」を淘汰する「公共圏」の議論を続けるのでしたら、私は一つの疑念を提示いたします。
この「公共圏」の議論とは、例えば人権擁護法案に「ある種のポルノ」の淘汰も含めるような改正を意図されているのではないですか?これは、そういう政治運動では無いのか?と。
 
【5】
 18歳未満はこれより先に入ってはいけない、この先には性的表現が存在している。
そう分って居ながらも見る人が恐怖を感じる、というのは、私にとっては「言いがかり」以上には見えませんが、なるほど、現実・WEB上のゾーニングは確かに境界線が緩やかになる場合もあるでしょう。ここより性的な物が有る、そういうバナーを見るだけでも、女性の中には不快感を感じられる方も居られるかも知れません。
我々側の努力ではどうにもならない線、というのは至る所に有ります。これも技術の進歩次第ではどうにかなるかも知れません。未来の事を論じても仕方が無いので、今は現場での綱引きで決めるしか無いのでしょう。
 
 さて、ここで私達が言える事は何でしょう。
理論的に言えば、レイプ「のような」ポルノ、凌辱エロゲー(しかも実在の女性が題材でも無い)を見て怯える人に対して言える事は「それは被害妄想だ」「病院へ行く事をお勧めする」でしか、無い。
「怖がる人が居るので規制」などがまかり通るなら我々は存在すら出来ない事になる。彼女達が怯えているのは、当然表現そのものでは無く「凌辱エロゲーを消費する我々」がいつか自分をレイプするかもしれない、と言う恐怖だからです。

この場合、我々が出来る事と言えば「実際に凌辱エロゲーをプレイする人が増えても、性犯罪は増えて居ない」と言ったデータを提示し「あなたが怯えている事は被害妄想でしか無いのだ」と諭すしかないでしょう。
もちろん、そんな事に意味は無い。「恐怖」というのは理論など関係無く発生する物ですから。車「のような物」であっても官憲「のような物」であっても性犯罪者「のような物」でも。
理論的ではないのは当たり前でしょう。

ところが、被害者女性に直接「被害妄想」「病院へ行け」というのは、罵倒/ヘイトスピーチとして機能しうる。
誰かを傷つけたい訳では無く、ただ我々の性欲を発散させる為に凌辱エロゲーを流通消費していた者であれば、何かを言いかけ、差し出した手を力なく下ろす事しか出来ない。
せいぜいが言葉をかけて「あなたは悪くない」しかなく、誰も恐怖の対象からそんな言葉を聞きたくはないでしょう。言葉が届くには奇跡の類が必要です。
我々の言葉は彼女達に対して、無力です。
 
我々にはゾーニングとレーティングしか無いのです。
例えそれがどんなに「ロクでもにゃー」としても。これは人的技術的社会的限界かも知れません。時に世間様からの要請でゾーニングの線引きを変える必要に迫られる事もあります。これは現場での綱引きで決めて行くしかない。
業界が出来るコミットメントと言えば「綱引きを止めない」事では無いでしょうか。
そして、それは既に行われている事なのです。