呪われたサラリーマンの日記

40才を超えた過ぎたサラリーマンは何かと悩むお年頃なんです。

呪われたサラリーマンの日記 その18 人材育成を考える

マネージャーの役割=人材育成


企業の継続と成長は人材育成に掛かっている。


という話しを耳にする。

マネージャーは部下にコーチングして積極的に人材育成を行わなければならないと言われている。

 

 人材を育成できる人は、ほんの一握りの人しかいない。

私は誰か特定の人から積極的に育ててもらった覚えがない。
仕事で憧れた上司や先輩もいない。
だから誰の真似もしようとも思わなかった。


なぜ私は自ら仕事や技術を習得しに行ったのか?

答えは簡単だ。

必要だったからだ。

正確には必要とされたからだ。

 

人材が育つ職場環境と育たない環境がある。

私の経験したコーチングの違いとは?

これを部下の目線と上司の目線で紹介してみよう。

 

 

要注意人物は何でも知っている叩き上げの成り上がり上司

私が20代前半から後半までの職場の上司
その職場から成り上がった上司がいた。

細かい事も含め隅々まで知っている人だった。
彼は色々と知っているが簡単には教えてくれない。
自分で努力しろと威圧するタイプだ。
何を話しても全てお見通しだという態度に出てくる上司だった。
私がどのくらい自力で調べたのか試された。
わからなくて教えて欲しから話しをするが、結局はクイズのような問答の繰り返しだった。
クイズが不正解の場合、嘲笑された。
何度も不正解を繰返すと呆れられた。
最後には叱責され酷く自信を失った。
自分はどうやっても上司にかなわないと思った。
この上司には何をしても相手にしてもらえないと思うようになった。


上司からのクイズに正解しようとして時間掛けて調べる。
結果的に仕事が遅くなる。
他の誰かに聞こうとしても、私の上司と同等以上にわかっている人がいない。
上司は何も情報を発信しない。
必要な情報を得る為に、製品や現場よりも上司の顔色を伺う様になった。
上司から余計な口を挟まれ、しまいにはやりたい事ができなくなった。
ようやく結果を出してもやる前からわかっていたと言われた。

こうなると仕事がつまらなくなる。

自分から進んで何かを習得しようなどとは思わなくなった。
上司からの指示が無い限り自ら進んで仕事しようと思わなくなった。
指示待ちではない。
指示が来ないこと毎日祈っていた。
この上司と一緒に働いて頃は苦痛でしかなかった。
それが会社というものだと思い、自分はこの会社では生きていけないと思った。

こういった絶対王者タイプ上司の下に付く事は不幸でしかない。

このタイプの上司は部下を将棋やチェス駒のように扱う。
人間扱いしない。
物と一緒だ。
この上司は自分の周りに優秀な人間だけを選び部下として配置する。
その優秀な人間には何も情報が与えられない。
優秀だった人も古くなり使えるところがなくなると不要になる。
要らなくなるとまた違う優秀な人間を探し捕まえる。
トコトン上司だけが成り上がっていこうとするタイプだ。
これでは部下が育たない。
成長どころか潰されていくだけである。

 

 

何も知らない部下に仕事を任せられる上司こそが真の指導者だ

20代後半、私は職場を異動した。

会社を辞める前に本当に自分が通用しないのかを確かめたかった。
私はこれまでとは全く違う職場に配属されゼロから再スタートした。

新しい職場の当時の上司は私の担当業務の詳細を知らなかった。
私の担当業務とは全然違う工程を経験してきた上司だった。
私の欲しい情報や技術が無くても仕方が無かった。
問題や課題は明確だった。
異動してきたばかりの私でもなんとなく理解できる内容の課題だった。
これをどうにかするのが私の仕事だった。
その為には、自分でなんとかするしかなかった。

頼る人がわからない。
異動したばかりで人脈が無い。
私は前の職場の上司に潰されたせいで人と話すことが苦手になっていた。
でもそんな事は言っていられなかった。

開き直って手当たり次第に色々な人と話をした。
情報や技術を盗みに行った。
自分自身でこっそりバレない様に要素技術を学ぶ実験をしたり、その時々の状況でその道のスペシャリストに必要な事を教えてもらった。
教わった事を自分の目で確認する為に実験を繰り返し、言葉で聞いた事を自分の目で見て理解してきた。


おかげさまで、様々な技術を習得する事が出来た。
公に何かを試すときは、知識のない上司に理解してもらえる様に丁寧に噛み砕きながら理解してもらえるまで説明してきた。
誰かに話を聞いてもらい、理解や承認を得る為のプレゼンテクニックも身についた。
積極的な行動が実を結び私は組織の中心メンバーになっていた。

この上司の下で努力してきた経験が私の成長につながった。

 

誰もが部下に任せられる上司にになれるのか?

答えはNoだ。

難しいだろう。

上司たるもの部下に信頼されなければならない。

信頼を得る為には部下に指導できなければならない。

他にも大事な要素が何個かある。

 

何より重要な事は部下の失敗の責任をとる覚悟があるかにつきる。

指導する為には部下から負けられない。
どんな事をしても部下より優位に立たなければならない。
部下には無い知識と経験で勝負しなければならない。
自分は常にトップでありNo.1でいなければならない。
もし部下に負けるような事があれば、その時は潔く身を引かなければならない。

このぐらいならまだ可愛いものだ。

始末に負えないのが部下の失敗の責任を負いたくないという上司だ。

部下の失敗は上司の責任なんてまっぴらゴメンだ。

こんな風に考えているような人は上司としての器ではない。

 

 


部下に任せられるようになるにはどうすれば良いのか?

部下に仕事を丸投げするのではない。

部下を信用するのだ。

 

 

部下に大事な仕事を任せる覚悟を決める。

先ずは部下のスキルアップにつながる仕事を選びそれを任せる。

  • 部下の進め方、考え方を聞き出す。
  • あるタイミングで進捗を聞く。
  • 調子良く順調に進んでいれば放っておく。
  • 部下が悩み混乱しているようだあれば、詳しく具体的な話を聞く。
  • その具体的な話を聞いた上で、整理させる。
  • 整理し優先順位を決めさせる。
  • 決めた内容を聞く。
  • その背景も含めて聞く。
  • 明らかに間違っていない限り部下の考えを認める。
  • 一度認めた事に対して後から文句を言わない。
  • 上手くいかなくても仕事を取り上げずに最後までやり遂げさせる。

これが出来れば部下に任せらる上司になれる。

 


ホンモノが見える目をつくる

これがもう一つやらなければいけない大事なことだ。

任せた仕事への取り組み姿勢に関心を示す事だ。

部下の仕事の相手は『モノ』や『現場』だ。
上司はこれを邪魔してはいけない。

 

上司はモノを見る方法を変える(代える)

部下を通して『モノ』と『現場』を見るのだ。
正しく見るためには部下に余計な事を考えさせてはいけない。
部下が『フィルター』をかけて違うモノに見えるようにさせてはいけない。
部下には見たモノを裸眼で素の状態のままが伝えられるようにする。
見る角度や距離、倍率等、つまりは色々なモノの見方をアドバイスをする。
こうやって部下が得られる情報量を増やす。
そして部下に情報を整理させて報告を受ける。
見えるようになるまで繰り返す。

事ある毎に繰り返す。
部下はスキルアップしていく。
部下への確認やアドバイスの頻度を減らしひとり立ちさせていく。
信頼関係は更に深まる。

 

かく言う私はまだまだ器が小さい。

自分の目で見なければ納得いかない。

何となく頭では分かっているが実践は難しい。

私に足りない事はわかっている。

『鈍感力』

今はこれが一番欲しい。

呪われたサラリーマンの日記 その17 構造改革とその手順を考える

我が社の新組織発表とそれに伴う事業所閉鎖の動きが見え始めた。
会社役員が態々事業所に来て部長、課長に説明した。
一般社員に向けては後日部長や課長から連絡があるようだ。
 
私はサラリーマン暦20年を越えるベテランだ。
過去こういったケースを何度か経験した。
その体験した内容は以下の通り。
 
ケース1:国内事業の集約に伴う撤退の場合
発表当日前にこの情報を知る人はマネジメント層まで。
一般社員は知らされていない状況で関係者全員を招集。
対象の事業に携わる一般社員を一同に集め、本部の事業部長、事業所代表クラスから説明があった。
当然ながらここに至る背景、ビジネス動向、この先に進むべき方向等の話があり
一般社員には個別に次の配属先について面談しながら決めていった。
社員は大きなショックを受けるが、次の配属先の業務内容や会社が求める期待とそれに貢献する方法等
具体的な話にまで及ぶ為、一般社員の気持ちの切替が割りと早い。
リストラではなく、次の仕事が確保されている事を伝え気持ちを落ち着かせた。
当然、ここまで積み重ねてきたキャリアも考慮されたポジションでの社内異動が確約された。
ここまで条件が揃えば大きな問題にならず、すんなり異動できた。
 
ケース2:アメリカ工場閉鎖の場合
私が赴任したアメリカの工場の話だ。
工場閉鎖の発表当日までにこの情報を知る人は工場側経営層の3名程度。
完全に情報は遮断されていた。
発表当日は市の警察が工場の入り口付近から内部に至るまで配備されていた。
警官の腰には日本ではちょっと見ないようなサイズの拳銃を装備。
パニックと暴動を恐れた対応だ。
こういった準備を行い、当日、全社員に朝緊急招集がかかった。
そして工場の日本人社長や親会社の社長から閉鎖の話をされた。
従業員は日本人赴任者を除きほぼ全員が解雇を言い渡された。
私もこの場にいた。
発表後、社長に人が群がった。
どうなる事かとドキドキしていたが、心配された暴動などは起きなかった。
寧ろ、30年工場で働かせてくれてありがとうと言う声が上がったくらいだった。
従業員は発表後、直ぐに帰宅した。
しかし、その夜社長の自宅に銃弾が撃ち込まれた。
幸いにも怪我人は出なかったが社長は生きた心地がしなかったと言っていた。
アメリカは転職が当たり前の文化だ。
再就職の斡旋もあったが殆どの人は自分で次の仕事を見つけてきた。
これを機にキャリアアップした人もいた。
次の仕事が決まり次第、どんどん人が抜けて言った。
さよならなどの挨拶は無い。
閉鎖の決まった工場でキャリアを終えると決めた人とまだ転職先が決まらない人だけが残った。
この人達と一緒に工場を閉鎖した。
非常に寂しい終わり方だった。
 
ケース3:ヨーロッパ工場閉鎖の場合
ここが一番悲惨だった。
詳しくはわからないが、社員全員にあっさり閉鎖を発表した。
その直後に暴動が発生した。
現地の社長が数日監禁され、退職金の上乗せや次の就職の斡旋などを条件にようやく開放されたのだった。
この事件をフィードバックした結果がアメリカ工場を閉める時の警官配備だった。
 
これらのケースは社員に対してどこまで真摯に向き合ったかの違いで結果が変わった。
決してお国柄の違いだけではない。
 
 
手順を誤ると社員は反発する。
我々は今、閉鎖される側として事業所統廃合に直面している。
ここまでの流れを見ると残念ながらとても良くないやり方に見える。
社長や役員から一般社員に対して直接説明が無い。
よって、会社の意思決定の意図が伝わらない。
望んで転勤する人は極僅か。
あとは渋々応じる人ばかり。
会社が転勤して欲しい人は若くて優秀な人だけだ。
こういった人材の流出は避けたい。
40歳を超えたベテランは生活の為に転勤に応じるしかない。
この人達の極一部を除き、異動先ではポストを失う。
降格処分だ。
降格や転勤が受け入れられない人は退職していく。
リストラの一環だ。
だからある程度の人が減る事に関して、既に会社は織り込み済みだ。
しかし、何人減らしたいとかの数値目標が無い。
数名でも良いから転勤拒否を理由にした自主退職に追い込みたいだけだ。
とても中途半端な人員整理のやり方だ。
 
仕方なく降格を受け入れ、転勤する今の部長、課長たちが
会社や社長、役員の思いを正しく語れるのだろうか?
役員に言われた事をオウム返しのように若手社員に伝える。
『転勤してください』『会社に残ってください』と言う。
それで、転勤か転職を迷う若手社員の心は動くのだろうか?
転勤を受け入れ会社に残りたいと思うのだろうか?
リストラの理由や意味が伝わるのだろうか?
誰がこの会社の為にと思うのだろうか?
 
事業所統廃合や人員整理は社員感情が大きく揺れる重大事項だ。
残念ながら我が社の役員は面倒な事が苦手なようだ。
うちの事業所が上手くいかなかった事に対して、役員の責任は無いと言っているようなものだ。
企業の構造改革事業所統廃合や人員削減が先ではない。
構造改革で先ずやらなければならない事は経営陣の見直しだ。
会社を率いる経営陣を決める。
その人達が方向性を示す。
この流で進めた結果が事業所統廃合であり人員整理であれば納得いくだろう。
誰一人経営陣が変わらず、組織や言う事だけを変えても本質は何一つ変わらない。
会社が何をしたいのかを冷静に聞ける社員が何人いるだろうか?
一般社員は意味の無い不要な恨みや憎しみ、悲しみの感情を抱きあふれ出るだろう。
 
まだ独立して間もない会社だ。
社長も役員もまだまだ経験不足だ。
今回のリストラは色々と揉めるだろう。
無いに越した事はないが、これを次に活かして欲しい。
 
 
 
 

呪われたサラリーマンの日記 その16 サラリーマンの引退時期を考える。

20代の頃は仕事50%、遊び50%で日々過ごしていた。
上司や先輩のいう事をまともに受け取りながら何も疑問に思わず真面目に働いてきた。
少しずつ一人でやれる仕事が増え、働く意欲もあった。
それ以上にキチンと収入が得られる為、車を購入してドライブ等、遊び歩いていた。
年々、少しではあるが給料も増えていった。
仕事がきつくても回復力が高いので全力で働き、全力で遊んだ時期だった。
20代後半に差し掛かると、少しずつ責任ある仕事を担当するようになった。
この時、私は自分の実力不足で始めて仕事につまづいた。
上司には日々、激しく叱責された。
鬱病になってしまうのではないかと思うほど精神的に追い込まれた事も有った。
最終的には解決したものの、上司とそりが合わず他部署へ異動する事になった。
ちなみにこのパワハラ上司は巡りめぐって今も私の上司だ。


30代になると仕事への比率が俄然増してくる。
仕事95% 遊び5%になった。
遊びといっても自分が遊ぶわけではない。
結婚し子供が生まれ、子供と遊ぶ。
その比率が5%。
あとは仕事ばかりしていた。
純粋な自分の時間等無かった。

30歳になり休み無く24時間連続操業している工程の係長に昇進した。
連日残業の日々だった。
当事は4つの工程を担当していた。
故障が多く、稼働率が安定しない工程だった。
また、会社は固定費削減や人員調整が容易という理由から
派遣、偽装請負が流行った時期だった。
我々の工程にも派遣社員がいた。
派遣社員は入れ替わりが激しかった。
仕事を教え、覚えて少し経つといなくなる。
当然、非正規雇用の人間に自社の技術を教える訳には行かない。
毎日、早くても23時くらいに退勤し1時くらいに就寝。
その後1時間~2時間後には会社からのトラブル等の電話が鳴る。
電話対応で解決しない場合は夜間休日出勤していた。
これを数年続けた。
この頃は、私がいなければこの会社は停まる。
他の誰も私の代わりは務まらない。
私がやれるといった事はやる。
やれないといった事はやらなくて良い。
会社を支えているのは私だ。
私がいるから大きな利益を出していると本気で思っていた。
その思い込みが私のモチベーションだった。
一度に沢山の仕事を抱えても裁けるようになったのはこの頃だ。
私が一番収入を得ていたのはこの頃だった。

製品の売上のピークが過ぎた頃、非正規雇用の人が減っていった。
若手正規社員に置き換わり、ようやく自分の技術の継承ができる環境になった。
真剣にOJTを通じて部下育成に取り組んだ。
部下がある程度の仕事をこなせるようになった。
その甲斐があり、あれほど沢山残業していた私が、日々定時時刻で帰れるようになった。
忙しくて出来なかった事にも積極的に取り組み、大きな成果を上げてきた。
10年掛けてようやく職場環境が整ったと思った矢先に他の事業所へ工程が集束されることになった。
同じ製品を作っていた他の事業所との競争に敗れた結果だった。
今まで取り組んできたテーマも何もかもがストップし、工程をたたんだ。
工程をたたんだあと、海外工場へ赴任したが、仕事は工場閉鎖だった。
30代の最後はあまり良いものではなかった。

そして40代の現在。
東日本大震災被災して、新規事業を立ち上げたのも束の間
事業所閉鎖による転属がまっている。
収入は30代前半をピークにどんどん下がっている。
この間に管理職に昇進したので、収入ダウンはある程度の歯止めを掛けたが
だが、私の中の昇格計画からは6~7年も遅れている。
私は会社役員になれるような器の人間ではないと言われたようなものだ。
この先の昇進は間違いなく無いだろう。
結果的に私のサラリーマン人生のピークは35歳頃だった。

その時々の時代背景によって、ピークを迎える時期は人それぞれだとは思うが
我々の世代はピークが過ぎた人が大勢いると思う。

私には一生懸命成果を上げようと努力していた上司や先輩がいた。
そんな彼らの会社や仕事に対する情熱が冷めつつある表情を何度か見てきた。
でも、彼らは部下を育成しながら成果を上げてきた。
次の世代が会社を支えていけるようにするためだろう。
もしかしたら会社に育ててもらったと恩を感じ、それを返しているのかもしれない。
現役ではなく指導者だ。
何か切ない。

私はもっと現役で頑張れると思うしやれる自信がある。
でも会社はそれを私に期待をしていないだろう。
それどころか大きな仕事はもう預けてもらえない懸念がある。
そして会社は役に立たないのであれば私を必要としなくなるだろう。
ここのアンマッチは私がどうすることも出来ない事だ。
もうチャンスは無いかもしれない。
これに気が付くまでの時間が早い人と遅い人でセカンドキャリアに対する備えが変わる。
中にはピークがいつだったのか分らない人もいるだろう。
40代半ばでそれに気が付いただけでも良かったと思うべきだと言い聞かせている。

プロ野球選手は頑張っても30歳~40歳頃には引退時期が来る。
それまでに活躍できれば巨額の収入が得られる世界だ。
サラリーマンは収入は少ないが一度会社勤めを始めれば定年するまで安定して仕事ができる。
お気楽な商売だと思っていた。
しかし現実は違った。
サラリーマンもプロ野球選手とある意味で一緒だった。
どちらも40代は引退し指導者の道を歩めれば良い方だという事がわかってきた。

スーパーサラリーマンかサラリーマン界のレジェンド

こう言われる人だけが役員や社長に上り詰める。
彼らはプロ野球球団ごと買収したりする兵だ。
ある意味でサラリーマン界は恐ろしい世界なのだ。

呪われたサラリーマンの日記 その15 スペシャリストを考える

私の部下だった人に過去どの位の仕事を同時に処理してきたのか?と聞かれた事がある。
これをどの様に受け止めてどの様に答えば良いのか分からなかった。
真面目に指折り数えながら振り返ると、中長期の仕事や短期、突発を含めて常に10以上の仕事を抱えながら日々奮闘してきた。
これをマルチタスクというのかは少し疑問があるかもしれないが、仕事が滞る事が無いように部下を手足のように使いながらこなしてきた。
よって、私が事業所集約や工場閉鎖以外の生産活動を続けていた期間は常に何かしらの仕事をしていた。

我々が若い頃は会社からジェネラリストになる事を求めらた。
何でも知っていて何でも判断できる人だ。
マネジメントスキルを見に付けるよう盛んに言われるようになった。
誰が部下だろうと組織の仕事やプロジェクトを成功に導かなければならなかった。
そういった仕事を同時並行で複数経験しながらジェネラリストとしてのスキルを身につけていった。
上司と役割を分担しながら裁量権を広げ、自分のジェネラリストとしてのスキルを磨いていった。

しかし会社は急にスペシャリスト育成に舵を切った。
ジェネラリストは時代遅れと明言され、ある分野の専門性に優れる人間がいれば良いと言われた。
ある分野の専門性に長けた人はそれに見合った格付けを与えられる。
正確にはある段階以上は昇格試験を受ける権利が与えられる。

このような人事制度に変わり、各人の専門性が急激に増えていった。
他愛も無い事でも専門性だと言い切る人が突然増えたのだ。
我々のようなエンジニアの場合、何かしらの技術を身につけて、それを専門性と言うのが本筋だ。
しかし、会議を開き、それを捌く専門性とか
各人の改善テーマの進捗を確認する専門性とか
職場のモチベーションを維持向上させる専門性等々
技術的な専門性ではなく、それとはかけ離れた専門性があると言い出す人が突然増えたのだ。
これもある意味では専門性かもしれないが、マネジメント以外の何者でもない。
マネジメントはジェネラリストの必須スキルだ。
言葉を変えただけに過ぎない。

マネジメントを無理やり専門性と言い始めたのは、部下や後輩がいる中堅からベテランに差し掛かった年齢の社員だ。
彼らは若い頃、がむしゃらに働き、技術的な専門性を身につけていった。
しかし、今の時代では通用しない専門性だったり、技術の進歩で不要になったものが数多くあった。
将来のジェネラリストやマネジメントを意識するあまり、スペシャリストとしての道を後進に譲ってきた。
彼らはジェネラリストになる為のスキルを身に付けていった結果、妙な専門性があると表現せざるを得なくなったのだ。
要するに彼らには技術的な専門性が残っていないのだ。

私の海外赴任の経験上、欧米のスペシャリストは年齢、役職、肩書きに全く影響されない。
彼らスペシャリストの言う事に間違いは無い。
何を決めるにしてもスペシャリストの意見が尊重されるのだ。
だからスペシャリストの発言は大きな影響を及ぼす。
マネージャーはマネージャーとして雇用契約され
スペシャリストはスペシャリストとして雇用契約されている。
当然オペレーターはオペレーターであり、雇用契約を変えない限り
いつまでもそのままだ。
自分の身の丈にあった仕事選ぶのだ。

日本の文化は年齢が大きく影響する。
役職や肩書きもかなりの大きな力を持つ。
場合によっては年齢によってマネージャーがスペシャリストを抑制したり、その逆もありえる。
終身雇用の考え方が根強く残っている。
会社で働き、その会社の中で自分の仕事、働き方、役割を変えていく考えが普通とされている。


我が社はスペシャリストに重きを置いた。
会社に必要なスペシャリストをどこかから呼んでくるといったものではない。
会社が言うスペシャリストを育成するという方向性を打ち出した。
それに疑問がある。
会社は社員に通信教育等を利用する機会を与え自分で勉強しろという。
これが会社がスペシャリストを育成する環境だといっている。
確かにスペシャリストになる為には勉強や訓練が必要だ。
しかし育成とは名ばかりだ。
独学での国家資格の取得や職業訓練校等に行き技術を身につけるといった事を会社は要求している。
それはこの会社の社員として使えるものでは無いものを数多く含んでいる。
この会社独自の要素技術を身につけるような事も要求していない。
全ては個人任せだ。
企業で働くサラリーマンにおいて、手に職を持ちそれで一生食っていける
こんな職人技のようなスキルは中々身につくものではない。

会社に必要なスペシャリストが何なのかを明言できない会社が
社員囲い込み、社員を育てるといった考え方を辞めない限り
会社の独自性や特徴がどんどん失われていくような懸念がある。

そんな中、会社のスペシャリスト育成環境を利用し
私はセカンドキャリアを見据えた資格取得を模索し始めている。

呪われたサラリーマンの日記 その14 キャリアデザインを考える

先日、以前の職場で私の部下だった人とメールのやり取りをする機会があった。
彼は3年前に転勤しており、連絡等の機会が無くなっていた。

彼は割と早目に係長クラスの昇格試験をクリアしていた。

しかし、これと言った実績が出せず、実際には係長に昇進出来ないまま、30代後半に差し掛かっていた。

そんな彼は転勤によって環境を変え、努力した結果、遂に係長昇進の内示が出たと言っていた。

彼が遅咲きになってしまった理由は様々ある。

代表的な理由は自己中心的な言動によって、彼に協力してくれる人が殆どいなかった事

発言と実力が伴っていなかった事

彼自身の自己評価が高く自分が昇進出来ないのは上司が悪いと思ってる事等だ。

しかし、そうは思いながらも転勤先の製造部では多少キャラを控えめにしながら努力と精進を重ね係長の直ぐ下のNo.2のポジションまでは昇り詰めた。

幸いにもその部署には際立って仕事ができる人がいなかった。製造部全体が地味で単調な部署と感じていた。目立ちたがり屋の彼は次第に自分が活躍する場所は製造部ではないと考えるようになった。

そこで、昨年の夏に商品開発部への異動を上司に直訴していたが一向に話は進展しなかった。

彼は自己アピールを続け、製造部と商品開発部を兼務となった。

彼は酒を飲むと必ずと言って良いほど今の上司の悪口と同僚のレベルの低さに愚痴をこぼしていた。そして、自分には課長の器がある。早く係長や課長に昇進したい。と熱く語っていた。

そんな彼に製造部の係長の内示があった。

態々、私にそれを連絡してきたという事は、かなり喜んでいると同時に彼を昇進させなかった私に対する何らかのアピールだろう。

私は素直に喜んだ。あれほど自己中心的で性格の悪い彼がチームワークを重んじる製造部で昇進できたのだ。並大抵の努力ではなかっただろう。

念の為、私の上司を通じて彼の昇進の話を確認したところ驚くべき事実が判明した。

彼の係長昇進の内示が白紙に戻っていたのだ。そして、彼は商品開発部に異動して一担当者から出直す事になっていた。

彼の課長から係長の内示があった事は事実だった。しかし、彼の課長が組織を去る事になり彼の係長昇進話しは白紙に戻ったのだと言う。課長が組織から去る為、部長が組閣人事を行っているが、部長は彼の事を知らない。課長から貰った彼のデータには商品開発部への異動希望としか記載が無かったのだった。

今も彼は昇進が白紙に戻った事を知らない。

この話には続きがある。

彼と一緒に転勤し、素直に真面目に仕事に取り組んできた彼より一歳年下の後輩がいる。

彼の後輩は昨年、係長クラスの昇格試験に合格した苦労人だ。

その苦労人の後輩はいつも彼に成果を奪われてきたが、転勤をキッカケに配属先が別れ、ようやく正当な評価が受けられたのだった。

この苦労人の後輩が次期係長に内定している。

プライドの高い彼の驚く顔を見てみたい。



呪われたサラリーマンの日記 その13 OJT=On the Job Trainingを考える

私はプロセスエンジニアである。
私のエンジニアとしての座右の銘は『モノを見て仕事しろ』だ。

我々の仕事相手は人ではない。
我々の目先にあるのはモノだ。
だからモノを見て仕事しろという意味だ。
これは私が作った言葉なのか、誰かからの受け売りなのかは覚えていない。
ずっと昔からこれを信じて仕事に取り組んできた。
作った物、それを作る装置、作り方を徹底して自分の目で確かめ、より良い方法を模索しながら改善してきた。
如何にして高品質のものを作るか?作りやすくするか?不良を減らしてコストを減らすか?
これだけに特化してやってきた。
モノを見た人だけが真実を見ているのだ。
例え上司に何を言われようが気にならない。
それがどんなに偉い上司であっても気にならない。
真実を知っているエンジニアが一番正確な情報を握っているのだ。
会社の人間関係に悩む若手エンジニアにはこう言い聞かせ、面倒な柵を振りほどいている。

だが、一方では『事業は人なり』これを捩った『企業は人なり』等という立派な名言がある。
ものづくりは人づくり。
だから人材育成が重要だ。
その為のマネジメントスキルを身に付けろ。
『企業は人なり』を私の仕事で解釈するとこういう意味になる。
事業は人なり』も同じような意味と捉える場合が殆どだが
そうではない場合がある。
事業は人なり』が示す人はリーダーや社長等を指す場合がある。
この場合はリーダーシップ論に繋がる。

私は中間管理職=プレイングマネージャーでもある。
私の組織の中ではリーダー兼マネージャーだ。
しかし、それ以前にエンジニアだ。
リーダーシップやマネジメントスキルを振りかざし部下に指導するよりも
自分の技術を見せる事の方が大事だと思っている。
そうやって自分のスキルを曝け出す事で、部下は私が何者なのかを知る。
部下に無い技術が私にあれば部下は私の指導を素直に受け入れる。
こういった事をOJTの中で繰り返す事で信頼関係が生まれてくると信じている。

私の技術はたった一つしかない。
正しくモノを見る。真直ぐにモノを見る。
この『見る』ことだけだ。
生産装置のトラブルで不良が発生したケースを例に説明する。
正しくモノ見えるようになると、何がいつもと違うのかがわかる。
つまり、おかしいところがわかる。
直ぐに直す方法がわかる。
それだけではなく不良の根本的な原因が何なのかがわかる。
そして、どのようにして対策を打てばよいのかがわかる。
見る力を更に鍛錬する事でこの先に何が必要になるのかがわかるようになる。
これは、生産装置のトラブルにだけ通用する技術ではない。
新規プロセス、新規装置、作業性改善、品質向上など何にでも使える技術だ。
モノづくりの必須のスキルと言っても良いだろう。

日本のモノづくりのレベルは卓越している。
製品のスペックとして記載されている数値を遥かに凌駕したレベルで生産している。
その中で少しのばらつきがあったとしても製品スペックは絶対に超えないレベルで管理している。
我々エンジニアはこのばらつきを更に極小にしていく。
ばらつきの原因を追及し、様々な手を尽くして追い込んでいく。
そのためにモノを見るのだ。
こういった取り組みが次世代の製品を作るプロセスの礎になる。

書店にあるリーダーシップ論やマネジメント論では語りつくす事はできないOJT
OJTこそが技術の伝承と人づくりの真髄だと信じている。

呪われたサラリーマンの日記 その12 40歳を過ぎたサラリーマンを考える

今の私は40代半ばの中間管理職だ。
カタカナに直せばプレイングマネージャーである。

会社の中でも一番利益を出している部門に在籍していた。
その中でも中心的役割でガツガツやっていた。
部下も最大で40名を抱え、若い頃にはかなりイケてる方の部類だった。
学歴の同じ同期入社の中では出世が早かった。
これは、30代の頃の話だ。

でも決して順風満帆ではない。
私のこれまでのサラリーマン人生は会社業績の好不調の波にまともに飲み込まれている。
同じ会社で作る物は変わったがずっと製造現場の第一線で働いてきた。
寝る暇も無く働かなければいけない日々が暫く続み
もう体も心も限界だと感じる日々を幾度と無く乗り越えてきた。
軌道に乗ったと思えば、突如世の中の景気が急変し事業集約に巻き込まれる。
一時的に仕事が無くなる事もあった。
こんな事がしょっちゅう起きた。
非常に稀な経験をしてきた。
これも大企業にいるからできた経験だ。

おかげ様で生産プロセスや生産装置を立上げてきた回数を多く経験した。
社内を見渡す限り、私よりも多く新規プロセスの立上げた人間はいない。
しかも小さい規模のプロセスから数十億単位の大規模プロセスまで大小さまざまやってきた。
プロセスエンジニアでありながら製造現場の中間管理職も務めており、一人二役を上手くこなしてきた。

それと相反して工場閉鎖や自分の工程の事業所移管なども立上げと同じくらいの回数を経験した。
閉鎖や移管する実務はそれほどの労力を必要とはしない。
そこに至るまでが大変だ。
働く人のケアが必要だ。
自分を差し置いて他人の世話をしなければならない。
かなり精神的なダメージを受ける。
これは本当にやりたくない仕事だ。

こんな両極端な経験を繰返すと色々と人格形成されてしまう。
今の仕事がずっと続くとは思えない。
よって組織や上司を意識しなくなる。
少しずつ穿った見方をするようになる。
感情的になれなくなる。
素直になれない。
こんな感じだから人から裏がある、腹黒い等と言われてしまう。
こうして、30代のイケてた私はどこかに行ってしまった。

今では会社のクローザーとかターミネーターと言われるまでに成長した。
私が通った後はぺんぺん草も生えないほど、跡形も無く根絶やしにしている。

起業と倒産を何度も繰り返している感覚だ。
それなのにまだ雇ってもらえている。

強ちサラリーマンも悪くはない。