雑記帳

もう駄目だと思った時の、最後の拠り所です。

考えることと行動すること

考えることと行動することのバランスはどのようにとるのが理想か?

という問題は、私にとってとても重要なものだと思う。

考えること=頭だけぼんやり思考し続け、結果なにも行動しないという時間を過ごすのが、こういう表現はおかしいが、好きだからだ。

やや語弊があるかもしれないが、あえて「好き」という言葉を用いたのは、そういう時間を過ごしていると心が休まる気がするからだ。

 

しかし、考えているばかりではなにも生まれない。

頭でっかちになるばかりだし、世の中の全ての結果・成果もしくは価値というものは、全て行動から生まれるもののはずだからだ。

もちろん、考えがまったくなしに移される行動は、価値を生まないどころか、かえって価値を毀損してしまうことすらある。

しかし、逆に考えをどれだけ張り巡らせようと、何の行動もなしには何の価値も生まれないことは明白だ。

考えと行動とその結果うまれる価値の間にある関係を数式で表すならば、

  考え✖️行動=価値

という式が思い浮かぶ。

お分かりの通り上式には、行動を移すことで価値を毀損してしまう可能性があることや、いくら考え無しの行動でも、偶然の産物でとんでもなく大きな成果を生み出す可能性があることなどの要素は表現できていない。

あくまですべてのばらつきを考慮したうえで、平均をとるとおおよそこのような式に当てはまるのでは無いか、という仮説をもとにしたざっくりイメージでしか無い。

また、価値というのはそもそもの目的に対して測られる尺度でしかないはずなので、目的との合致度合いの要素も含まれていない。

 

どうにも納得できそうにないので、もう一つの数式案を考えてみる。

  考え(方向ベクトル)✖️行動(スカラー) ・ 目的(ベクトル) ➗ |目的ベクトル| = 価値(ベクトル)

 

最初と比べてすこし複雑な見た目になった。

だが表現している中身は至極単純だ。

まず、ある目的(ベクトル)があるとする。

これは、今いる地点(原点とする)から、目的を達したとされる地点がどの方向へどれくらい進めば良いかを指す。

これに対して、方向を見定めるのが考えベクトルで、その考えの方向に進む源が行動(スカラー値)だ。

考えの方向に行動した分だけ進む。

あとは、こうして進んだことで、そもそもの目的に対してどれだけ貢献したかを表すために、目的ベクトルの方向ベクトルとの内積をとっている。

これで、最初の式で表せなかった要素は大体表現できるし、イメージとして持つ分には良さそうなモデルではないだろうか。

 

このモデルをもとに、考えと行動のバランスを考えてみる。

 

このモデルによると、考えることとは、以下のフェーズのことを指しそうだ。

・目的を考えること

・目的に対して今からどの方向に進めばいいか考えること

・その方向に進むためにどんなタスクを踏めば良いか考えること

・効率よく目的を達成するためにどういう順序でタスクを踏むかを考えること

ポイントは、目的に対して合致するタスクをいかに選び取るかということだ。

 

次に、行動するフェーズというのは、あえて書くまでも無いが以下のことを指すだろう。

・考えのフェーズで挙げたタスクを順に遂行すること

 

ここで現実問題として、考えること、行動することにはそれぞれ時間というリソースが消費されることとなっており、且つ制限時間が設けられている。

なので、考える時間、行動する時間はなるべく最小に、且つ交互に設けていきたい。

時間の半分を一気に考え、残りの半分を一気に行動する、では、実際にたどり着きそうなのがどこなのか、考えが目的と合致していたのか、確認することができないからだ。

なので、最も確実なのは以下のような進め方だと考える。

 

目的を考える

目的に対してどの方向へ進めば良いか考える

その方向に進むタスクを考える

タスクを遂行する

結果を確認し、目的の方向と比較する

リストのタスクに対して、なぜそのタスクをするのかを再確認し、適宜修正・優先順位づけする

タスクを遂行する

結果を確認し、目的の方向と比較する

・・・

 

状況が曖昧であるほど、確認はこまめに実施し、軌道修正が必要と思われる。

つまり、ある程度目的と方向性が決まったら、まず行動してみるのがいいのではないだろうか。

その結果が、次なるタスクの精度を上げるための情報になるので、さらにタスクをブラッシュアップし、実行に移せると思われるからだ。

結果が分からない事だらけだからこそ、まず行動に移すことが重要で、そのために最低限考えるべきは、目的「なにを成し遂げたいか」、そのために方向「どの方向に進むのが良さそうか」、タスク「その方向に進むためには何をするべきか」の3点で、目的と方向を決めてしまえば、タスクはある程度リストアップできた段階ですぐに動き始めるのがよいのではないだろうか。

 

なぜか全く眠れなかったので、つらつらと思いつく限り書き連ねてみた。

一定の結論が出せたと思うので、明日から念頭に置いて実行に移してみたい。

現代社会の奴隷

休みの日、特に何の用事もないときは苦しい。

何か確固たる自分の目標に対して、何らかの明確なアクションを起こさなくては、とか、とにかく何か楽しいことをしなきゃ、とか、そんなふうに考えてしまうからだ。

 

逆に、平日業務に追われ、心の中で誰に対するでもない悪態をつきながら家に帰り、さあ今から寝ようという気持ちになってふと気がつくと、なんだか凄く安心してしまっている自分がそこにいる。

あれ、昨日までの漠然とした、悶々としたあの不安な気持ちはどこにいったんだろうか?

 

それに対する答えとして浮かぶのは至極単純なことだ。

会社での業務に追われてさえいれば、会社が自分の社会的地位を担保してくれるし、今後も少なくとも食いっぱぐれることはない。

漠然と不安を感じて悶々としているよりも、会社で与えられた役割を全うするため、目の前のやるべき事を片付けていく、という事のほうがずっと生産的でかつ簡単でかつ楽だということだろう。

一人で悶々と、自分の為したい・為すべきことは一体何なんだろうという、脳みその莫大なリソースを費やすわりに明確な答えが何も浮かばず、それに対して更に情けない気持ちになるような、まるで雲を掴むかのような考えなど忘れてしまうのが、精神衛生上一番よいのだ。

 

でも、それじゃあなんだか納得がいかない。

自分の思うところがあり、それを為すための時間を持てないことには、生きている心地がしないじゃないかと思う。

30近くになってまだこんな青臭いことを言っている事実に情けなくもなるが、それが私という人間の真実でもある。

 

自らの確固たる為すべき何か というものをもっともっと明確にするためには、日々の業務に負けず、じっくりと自分自身とその周りを為す社会について考えを巡らす時間をこれからもとり続けるべきなのだろうと思う。

リハビリ日記

これは、下記の分をあらかた書き終わった後の感想になるが、誰に何を伝える為でもなく、文章を書く為ですらなく、ただ文章を書くという行為自体をするためだけに文を羅列した、というのが一番しっくりきたので、「リハビリ日記」という題名とした。

 

久々にパソコンの前に向かい、何か文章を書いてみようとおもう。

 

何がきっかけになっているのかは、自分でもよく分からない。

ただたんに、しばらく時間が空いているし、ふと気が向いたからだと思う。

すごく中途半端な時間で、特に他に何もやることが無い。

洗濯物は取り込んでいるし、ごはんは今炊いている。

洗い物も終わっている。

晩御飯のメニューも決まった。

しいて言えばトイレットペーパーが最後の1ロールになっていたから、トイレットペーパーは買いに行かなければならないけれど、外は寒いし、雨が降っていたから足元も悪いし、なんだか気が進まない。

だからといって、何のためにこのような文章を書こうとしているのかは分からない。

ただただ無目的に、何の整理もしていない思考の羅列がつらつらと目の前に文字としておこされて行っているだけだ。

それでも何か一つ挙げるとすれば、こうして頭の中身を文章におこしていくという作業自体で、なんだか頭が整理されていくような気がすることくらいだ。

頭の中は漠然と思考が渦巻いていて、一つの事を考えているような、何か複数の事を並行して考えているような(理性と欲望 みたいなものだろうか)気がする。

でも、文章におこすと、思考はその頭の中の渦巻の中から、なんらかの形で一つ選び出され、言葉に翻訳してキーボードを打ち込むという工程にかけられることになる。

それを後から自分で読み返すと、ああ、自分はこんなことを考えていたんだな、というようなことが分かるし、渦巻いていた思考が取り除かれ、目の前の画面が自分の脳みそを肩代わりしてくれて、頭の中が軽くなったような気がするのだ。

わざわざ自分の脳みそを働かせなくても、文章を読み返すだけで、その時の思考の流れを再生することが出来る。

よくわからないけどそんなことだから、こうして文章を書いて読み返すという行為自体がなんだか安心するのだ。

仕事でも、メールもたくさん打つし、報告書もたくさん作る。

だから、日々このようにパソコンの前に座って文を読んだり分を作ったりということは繰り返していることになる。

でも、人に仕事を依頼したいときや、何かを伝えたい時に文章を書く時と、こうしてただ頭の中を羅列するだけの文章を書く時とでは、なんだかまるで別の事をしているみたいだ。

無目的に何も整理せずに文章がだらだら続いていく不安感、それでも関係なしに頭の中ではなんの脈絡もない言葉が次々と浮かんでくるから、とりあえず書いてみよう、でも一応、最低限前後の繋がりや日本語としては成り立たせる範囲で取捨選択をしよう、といった具合だ。

文章自体を商品とする仕事をする人は、ことさらエッセイストみたいな随筆家の人達は、一体どんな頭の使い方をして文を書いているのだろうか。何のために、誰に何を伝えるために文章を書いているのだろうか。さくらももこでも読んで勉強してみようか。

エッセイストは自分の頭の中を羅列するだけて本を出版出来ているんだから、なんというか相当ラッキーな能力を持っているよな、と思う。

まあきっとこんな何も考えずに文章だけを書きおこしていくだけでは到底本にはならないのだろうけれど。

 

人に読まれることを意識していればこんなに恥ずかしい文章は書けないだろうなと思う。

このような形で完全に私用でしか使わない雑記スペースを与えてくれているはてなブログに感謝。

一度に一つだけ

理由もなくとにかく気持ちが落ち込み、どうしようもなく憂鬱な気分の時期と、頭がすっきりして、なんでもできるような気持ちになっている時期と、二つの状態を定期的に繰り返している。

そして今は紛れもなく前者の状態だ。

 

なぜこのような気分になってしまうのか、はっきりとした事は自分でもよく分からない。

ただ、生活のこと、将来のこと、仕事のこと、お金のこと、それらを常にとりまく人間関係のこと、そして、それぞれに起因する自分自身に対する不信感

それぞれのちょっとした歪みが積み重なり、日々の思考の片隅に常に意識され、もやもやした大きなしこりとなって頭の中を圧迫し続けているように思える。

そして誰にも会いたくなくなったり、誰の事にも興味が湧かなくなったり、なんにも良いと思えなくなったり、ちょっとした事で人に対して不信感を感じるようになったり、とにかく余裕がなくなり、そのせいでまた日々の生活の中に歪みが生まれ、自己嫌悪で悪循環に陥っていく、というのがいつものパターンだ。

仲の良い人と一緒に旅行をして心も身体も癒されたり、仕事でしんどい時期を乗り超えて達成感・充実感を感じたり、楽しくお酒を飲んだりして一時的に気分を紛らわせても、ふと気を抜いた瞬間、しこりがじわじわと思考を雁字搦めていき、気が付けばいつも通り気分がふさぎ込んでいき、身の回りの事全てが虚しい事のように感じられてくる。

目の前で起こること、自分がしている行動一つ一つがすべて虚しくなり、心も動かないし、何も手につかなくなるのだ。

 

自分だけがこうなのか、誰でもこうなのかはわからない。

いつも元気ではつらつとしているように見える人達は、一体どうしているのだろう。

そもそもこんな風に虚しさを感じてなんかいないのだろうか。

それとも、ふつふつと湧いてくる虚しさと真っ向から向かい合い、克服したうえで生活しているのだろうか。

実際に本人たちに聞いたわけでもない事をつらつらと思い浮かべ、勝手に劣等感で更に落ち込んでいくようなこともある。

 

一方、ここ最近気が付いたのは、なにか行動や考え事をする時、沢山のことを一度に考えようとしている自分がいて、そうすると心ここにあらずといった具合で、目の前の事に全く集中できなくなっているということだ。

それに気が付いた時、もしかしたら、みんながみんなそうではないかもしれないけれど、少なくとも自分は、一度に一つの事しかできないようにできているのかもしれない、そんな考えが浮かんだ。

私は何かを考えているとき、はじめは何か一つの事について思いを巡らせているけれど、すぐに連想ゲームのように次々と違う事柄が頭に浮かんでいき、気が付いたらその頭に浮かんだ事を全て一度に考えてしまおうとしている。

たとえ一つ一つは簡単な問題であっても、それらが枝分かれに沢山連なっていくと、互いに相互作用し合い、全体としてとても複雑な問題に仕上がってしまう。

その複雑な問題を一度に解こうとしてしまうから、脳のリソースの大部分がそちらに奪われ、目の前の事がおろそかになってしまい、結果、頭の中も整理されず、目の前の事も片付かず、後には何も出来ていない自分と、散らかった思考だけが残されている

そんな状態が延々と続いているのではないだろうか。

最初に浮かんだ簡単な問題一つをまずは解決する。

今自分が取り掛かっている事をまずは片付ける。

そういう意識で日々生活していくことで、頭の中のしこりは少しずつ小さくなっていくのかもしれないと思った。

 

一度に一つだけの事を片付ける。

そういう考えを心がけてみよう、というのが、今回の結論だ。

 

ここで、続けて、私が一度に複雑な問題を解こうとしてしまう傾向がある理由について考えてみる。

なぜそこまで考えるのかというと、「一度に一つだけの事を片付ける」なんていうのは、言い方はいろいろあれど、世の中に蔓延し、様々な媒体を介して私を気が付かないうちに啓発しているはずだからだ。

それでも私が一度にいろいろな事に考えを巡らせ、自分の思考の羅列に雁字搦めにされているというのは、何かしら理由があるはずと思われる。

その理由をきちんと考えておかなければ、今後も同じことを繰り返してしまうだろう。

だからもう少しこの事について考えてみようと思う。

私が一度に複雑な問題を解こうとしてしまう理由としては、何も取りこぼしたくないという気持ちがあるというのが、一つ考えられる。

簡単にいうと、完璧主義だという事だ。

つまりどういうことかというと、何かのきっかけで一つの問題に対して考えを巡らせていると、連想ゲームのように別の問題も頭に浮かんできて、その別の問題によって生じる自分の不利益とは何だろうか、どうすればその問題は解決するだろうか、という風に、次から次に浮かんでくる問題に対し全てに対処しようとするという事だ。

それで本当に全ての問題を解決できればそれで良いのかもしれない。

実際それでうまくいく場合もあるだろう。(おそらく、そのうまくいっている場合というのが、冒頭で述べた「頭がすっきりして、なんでもできるような気持ち」の状態だと思われる。)

 

だから実際には、自分の頭に浮かんだ範囲の問題に対してだけは全て取りこぼさずに対処しようとしているということになる。

知識も見識も浅ければ浅いほど、浮かんでくる問題の数は少なく、はじめのうちは対処しきれるかもしれない。

だが日に日に頭に一度に浮かぶ問題は増える一方で、次第に対処が追い付かなくなっていくだろう。

結果として、何も行動を起こさないまま、目の前の事をもないがしろにして、ぐるぐると頭の中をめぐり続ける傍観者となってしまうのではないか。

これが今私に起きている事であると考えられる。

 

突き詰めていけば「全ての問題」というのは、とてもじゃないが解決しきることのできるものではないだろうことは容易に想像できる。

そして、「全ての問題」に対して考えはじめてしまったが最後、永遠にその思考は終わることが無く、結局何も行動に移すことは出来ないだろう。

だから、上記にあるような「完璧主義的な考え方」は必ず破綻するようになっているのだろう。

私が出来ることは一度に一つだけであり、全ての問題を解決することは不可能だ。

だから、全てが虚しくなり、何も手につかなくなったときは、まず目の前のやるべきだと思われる事に手をつける。

そして、今自分にとって大事な事は何なのかについて考えを巡らせ、一つ一つ片づけていく。

そういう意識で日々を過ごすのが大事なのではないだろうか。

 

「自分にとって大事なことは何なのか」という事をさらっと書いてしまったが、これについてもとても奥が深く、そう簡単に答えが出るものでは無いんじゃないだろうか・・・。

それについては、また別の機会に考えてみよう。

やっぱり、考えれば考えるほど、訳が分からなくなるのかもしれない。

人と生活をすること

人と生活を送るのは疲れる

 

同じ部屋にいるからには、常に何かしらの会話が生じることになる。

会話をする事に常にエネルギーを使ってしまうので、

無意識のうちにどんどん消耗していっているのだろうか。

 

普段は一人部屋で誰ともしゃべらず、じっと本を読んでいるか

ツイッターを眺めているか、はたまたipadでドラマを見ているかしかしていない。

じっとベッドに横になって、ぐるぐると思慮を巡らしている時もある。

アウトプットが極端に少ないと感じた時は、こうして思い立った時に

文章をただひたすら書き下していくこともある。

そうした中で、ゆっくりと、幾たびも間違えながらも、自分というものの輪郭をなぞり、自分がどういう人間で、どんなことを考え、どんな風に生きていきたいのかについて理解を深めようと日々、暗中模索して過ごしている。

 

様々な人と日々ふれあいをもっていた方が、自分というものを知り、前に進む為の何よりの近道なのであろうという事は、うすうす気が付いている。

それでもとにかく一人部屋に引きこもり、不格好で非効率で、非生産的な日々を過ごし、幾たびも道を踏み外しつつ、幾たびも過去の自分を思い返しては後悔を胸に数時間寝込んでまた起き上がってを繰り返しているのがなぜなのかといえば、人といると疲れるから という言葉によって最も端的に言い表されると思う。

人の話を聞き、自分の胸の内を言葉で相手に伝えるという行為にあまりにもエネルギーを費やし、自分の奥底の本当の気持ちを慮るという事に対してリソースを割けず、自分の内面に関しても外面に関しても誤解をしてしまい、結果その場の空気を薄ら寒い気持ちの悪いものにしてしまう事が多くある。

それでも今、それなりにプライドをもって生きていられるのは、人と会う前に、まず自分の内面を整理し、言語化しておくことである程度うまくいくという成功体験を重ねることが出来たからこそだ。

 

今書いたのは全て自分の事のみであるが、人間関係は自分の事だけを考えているのみでは到底うまくいくものではない。

相手の気持ちも考え、相手の為に何かしてあげる事が、人間関係を構築するうえでとても大切な事だ。

自分の事だけでもいっぱいいっぱいなのに、相手のことについても考えて、それに対して何かのアクションを起こさねばならない。

そんなリソースがこの自分のどこにあるというのか。

 

 

 

朝ごはん、昼ごはん、晩ごはんは何にしようか。

どこかに食べにいこうか。

どこに食べに行こうか。

何を食べようか。

今日はどこかに遊びに行こうか。

明日の予定はありますか。

一緒に〇〇しませんか。

ゴミ出しをしておいて下さい。

お風呂を入れておいてください。

一緒にお風呂に入ろうか。

別々に入ろうか。

温泉に行きたい。

買い物に行きたい。

だれだれと一緒に遊ぼう。

だれだれに紹介したい。

ごめん。

ありがとう。

気にしないで。

洗い物しておいてください。

洗い物しておいたよ。

ありがとう。

どういたしまして。

今日は何か楽しい事はありましたか。

今日の仕事はどうでしたか。

楽しい話はありますか。

何か面白い事はありましたか。

〇〇して遊ぼうよ。

〇〇したほうがいいよ。

〇〇しないほうがいいよ。

 

 

お金と生活について

台風でいろいろ大変なところが多いようだ。

西日本に住む私としては、運転する車が強風にあおられるくらいの影響しか無かった。

目立った被害もなく、あるとすればそれは、JRの運休に伴い予定していた遠出が出来なかったことくらいだ。

 

そんなこともあり、空いた時間を使って収支の整理を行ってみた。

社会人になってからというもの、ただでさえ仕事において有り余るストレスを受けているのに、それに加えて日々の食費等のこまごました支出を管理するリソースなんて、物理的にも精神的にもどこにもない!という考えの下、欲望のままにコンビニやスーパーで欲しい物を籠へ放り込む生活を続けていた。

更に飲み会なんかがあれば、酔いとともに自我も金銭感覚もアルコールに溶けてゆき、気が付けば1日で何人もの福沢諭吉が財布から姿を消していたなんてことはザラだった。

そしてとうとうこの数か月で、メイン口座の残高が減少傾向へと転じてしまったのである。

そんな背景もあり、わりと切実な思いで収支の整理作業に耽っていた。

 

結論から言うと、経費が振り込まれる口座を含めてみれば全体では黒字を維持できていた。

メイン口座の残高が減っていたのは、ここ数か月出張がかさんでいたことによる影響が大きかったのだ。

ひとまず安心はしたものの、支出の内訳は悲惨なものである。

家賃、保険料、通信費の固定費は良いとして、食費、交際費がべらぼうに高い。

一般的な適正比率(食費や交際費は収入の何パーセントが適正?賢い予算の立て方 | Moneytree)と比較しても、食費はもっともっと抑えられていいはずだ。

交際費に至っては、飲み代だけで適正比率をゆうにオーバーしている。

目も当てられたものじゃない・・・。

今でこそ残業が多くなんとか貯蓄に回せているが、これからどんどん残業を減らしていくとなると、貯蓄に回せる額がどんどん・・・。

数字をはじいてみればみるほど危機感が募るばかりだ。

とにかく、飲み会は月1回まで、コンビニで買う朝食代はせめて300円以内に抑えよう。

会社の自販機も使う頻度を減らそう・・・。

ルールを課すたびに、情けない気分になっていくのだった。

 

お金を考えるということは、日々の生活について考えることだ。

なんの制約も設けていない今までの生活では、どこか呆けたような頭でぼーっと時間が過ぎていく感覚があった。

これからはそんな状態から抜け出す一つの手段として、収支の事を考える時間をもうけてみるというのも面白いかもしれないな、と感じた一日だった。

要約すると働きたくないということです

社会生活の中におけるその人の役割と、その人の生計を立てている手段は、必ずしも一致するものではないのかもしれない。

そうだとすると、社会における役割と生計を立てる手段を切り分けて考える事が、安定した精神で人生を送っていくための一つのヒントになるように思える。

仕事が出来ないからといって、不必要に自分を責める必要は無い。

なぜなら、「仕事が出来ない」というのはあくまでその職場内でのものさしではかられたものだからだ。

社会におけるその人の役割というのはその人の職業の中にあるかもしれないし、そうではないかもしれない。

自分の職業にとらわれず、自分の役割というのを広い視野を持って模索し続ける事が大事なんじゃないだろうか。

 

以下は「仕事」という言葉についての簡単な言葉遊び。

「何かを成し遂げる為の行動」と「役割」というのが同義かどうかはさておき、切り分けて考えるのはあながち間違ってはないんじゃないだろうか。

 

し‐ごと【仕事】

 
[名](スル)《「し」はサ変動詞「」の連用形。「仕」は当て字》
 何かを作り出す、または、成し遂げるための行動。「やりかけの仕事」「仕事が手につかない」
 生計を立てる手段として従事する事柄。職業。「将来性のある仕事を探す」「金融関係の仕事に就く」「週の半分は自宅で仕事する」
 したこと。行動の結果。業績。「いい仕事を残す」
 悪事をしたり、たくらんだりすること。しわざ。所業。「掏摸(すり)が集団で仕事をする」
 《「針仕事」の略》縫い物。裁縫。
「お前急に一つ―をしてくれんか」〈紅葉多情多恨
 力学で、物体が外力の作用で移動したときの、移動方向への力の成分と移動距離との積。単位はエネルギーの単位ジュール、その他ワット秒・ワット時など。
デジタル大辞泉より引用 参照元https://kotobank.jp/word/%E4%BB%95%E4%BA%8B-73099

 

上記の引用からも分かるように、「仕事」という言葉には様々な意味がある。

4、5は慣用的なもの、6番は学問的なものであるため、この3つを除くと、「仕事」という言葉には3つの意味があるとされる。

 

また、残った3つについて整理すると、3は「結果」の事を指しており、時系列からいうと1、2のどちらからも生まれるものである。

その為3も除外すると、「仕事」という言葉には1、2の2種類の本質があると考えられる。

1:何かを成し遂げるための行動

2:生計を立てる手段