随分前のことになるが、昨年12月、雑誌「WIRED」が主催するカンファレンスに参加した。
終日イベントのうち午後は「Sci-Fiプロトタイピング」ワークショップの方に参加していたので、その間聞き逃したトークセッションを、今更ながら少しずつアーカイブ配信で追っている。
中でも、梶谷健人氏のトークセッションが非常に興味深く、色々と考えさせられた。
「生成AI”再”入門」と題したトークセッションで、氏は様々な事例を紹介しながら、AIの本質的価値は何か、それを受けて人間とAIの関係性は、人間はどうなっていくか、といった問いを立て、様々なアイデアを提示していた。
その中でやはり印象的だったのが、「AIとクリエイティブ」の議論。
生成AIの登場によって、「創造」はもはや人間の専売特許ではなくなった。
國分功一郎氏×森健氏の「AI+Humanity」のセッションでも議論になっていたが、AIによって「アイデアの生産性」が向上し、「創造」の効率化が実現する時代が来たのだ。
これは「アートとは何か」を再定義する必要に迫られている、ということだと思う。
既に数々のアートの第一人者が議論しているテーマだとは思うが、
WIREDのトークセッションを見た翌日に美術展に足を運んでみたら、それを実感として強く感じたのだ。
行ったのは、現代アートを得意とする森美術館の「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」である。
生成AIは、「創造」という行為に関しては、すでに人間よりも卓越している。
固定観念に縛られた人間にはなかなか生み出せないようなアイデアの組み合わせを、しかも高速に、大量生産できる。
「表現」という行為を、仮にアイデアのヴィジュアライズととらえるなら、これもたぶんAIの方が長けていくだろう。
こんな感じの雰囲気の画像・映像を作って、と指示するだけで、人間よりもはるかに速く精度の高いものを生み出せるのだから。
では、人間にしかできないことはあるのか。
私は「私たちのエコロジー」展で、ある、と確信した。
展示されていたアート作品の数々を見て・体験して、これは人間にしかできない、と感じたのだ。
例えば、ニナ・カネルの貝殻を用いた作品は、「オホーツク海の海生軟体動物の殻」をびっしりと敷き詰めた上を、実際に自分の足で歩いていくインスタレーション。
普段はあまり意識しない「生き物の殻」を、誰かが砕いたものをさらに砕きながら、自分の足が踏みにじっていくことで、嫌でも「命だったものの残骸を踏んでいる」という気持ちにさせられる。
ビデオインスタレーションも示唆的だ。
蛍光灯に照らされた寝室を無数の羽虫やトカゲが這いまわる、アピチャッポン・ウィーラセタクンの「ナイト・コロニー」や、
人工建造物が海に沈んだ様子を映し出す、エミリヤ・シュカルアヌリーテの「時の矢」では、
人間という生き物や、その生態の中で生み出される人工物や「コロニー」でさえ、羽虫の飛ぶリズムや、海がかすかに波打つ惑星の呼吸と、何ら変わらないことに気づかされる。(この視点で見ると、AIでさえ人間の生態が作り出した奇妙なものに映る。例えば、イワシの大群が作り出す巨大魚の影のように)
いずれの作品も、気づけば私は、アート作品自体を体験しているようでいて、実はアートを媒介して自分の五感や感性を見つめている。
世界をとらえる自分の枠組みを再構築しようと、脳が働いている。
つまり、「エコロジーについて考える」というアート作品を介した行為自体は、人間の内面に展開されていくものであり、AIには介入できない領域だと感じたのだ。
この内なる行為を「アート」と呼ぶなら、AIは、これからの人間は、何ができるだろうか?
メッセージを包含した「理性では説明しきれない何か」を提示すること。
「なんだかよくわからないもの」を見て、意味を持たせること、解釈をすること、自分の中に答えらしきものを探すこと。
これが人間が行う「アート」であり、「創造」「クリエイティブ」「デザイン」「アイデア」といった表現行為をさらに昇華させた領域ではないか。
作り手としても、鑑賞者としても、このプロセスの中でAIが請け負うことができるのは、せいぜい補助的な役割でしかない。手を動かすことはAIができても、それに意味付けをするのは人間にしかできないはずだ。
私も趣味で小説を書く際に、何かいいアイデアはないかと、舞台設定やキャラクター設定などの基本情報を与えて、Chat-GPTにストーリーのアイデアを求めたことがあるが、どれもどこかで見聞きしたことのあるような、ハリウッド映画のようにハズレのない面白さをそなえた、しかし既視感のあるお手本のような物語しか提示されなかった。
ネット上に既に存在している情報から生み出すのだから、当然といえば当然だろう。
時に突飛なアイデアを提示することはあっても、そこに作者が伝えたい「メッセージ」や「伝えたさ」はない。
AIが無感情に作り出した偶発的な表現を使って、人間が「アート」する。
そんな未来が、近いうちに訪れるのかもしれない。
それはそれで、私は楽しそうに思うのだ。
だって、「アート」することが人間の美しさなのだから。
創造スキルの壁から解放され、その美しい活動に専念できる時代というのも、私は悪くないように思う。
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