私はいつ家に帰れるのだろうか
私が書いて何のためになるのかというと、少なくとも私自身のためになる。
妊娠について友人たちからアドバイスをもらう。無痛分娩にできるならそのほうが良いとか、もうお金を積まれても二人目を産みたくないとか、何歳からは障害のある子が生まれる可能性が高くなるというような。
私は月経の痛みとPMSがひどいのでピルをもらいに婦人科に通っているが、そこは産婦人科でもあるので、お腹の大きい女性たちに囲まれて座っていると不思議な気分になる。彼女たちはこれから出産という大仕事があるのに、私は妊娠しない薬をもらうためにそこに来ているのだと思うと不思議だ。
フェルナンド・ぺソアの『不穏の書、断章』をうんうんうなずきながら読んでいるが、私がしなければいけないのはもっと実存的なことだと思う。おばあちゃんに頼んで、田舎で小さな畑を毎日世話して暮らそうかとも思う。それが人間の自然な生き方なのかもしれない。
昨日は死の誘惑がひどく、具体的な考えが頭をよぎった気がするが高さが足りないので断念する。それに、私のことを好きでいてくれる人や、優しくしてくれた人のことを思うとやはり実行できることではない。もっともっともっと追い詰められたらわからないが、少なくともまだそこまでには至っていないので、どこか安心している自分がいる。
しかし成功するためにもそのようなそぶりは見せてはいけない。これは自分に課している。1度で成功しなければいけないので、悟られてはだめなのだ。
いったい、この劇場なき芝居はいつ終わるのか。あるいは芝居なき劇場は。
私はいつ家に帰れるのだろうか。どこに、どうやって、いつ。
フェルナンド・ぺソア,沢田直 訳,『不穏の書、断章』,p86
貧しい者は信ずるヨユウなんかないのだ
頭がぼーっとする。エアコンをつけているので、熱中症とかそういうのではない。集中ができない。
昨日の夜カフェに行って本を読むのに挑戦してみたら、思いのほかすらすら読めた。本当に何週間か何か月かこんな状態になれなかったのでとても嬉しかった。というわけでひとつの仮設を立ててみる。私は集中力が落ちたわけではなく、夜にならないと集中できないのではないか。この暑さのせいで日中の集中力が落ちているのではないか。
自炊もなかなかできない日があるのは、もしかしたらこの暑さのせいかもしれない。
私は冬の寒さが大嫌いなので「自分は夏が過ごしやすいですね」などと言って暮らしてきたが、嘘かもしれない。だいたい連日暑すぎるし。
というわけで、今日明日にでも夕方から動けるかチャレンジをしてみたいと思う。そこで本を読んだり自炊ができたら本当に嬉しい。そういうことができないと、私の自己肯定感が下がる一方だから。
ちなみに今は林芙美子の「放浪記」を青空文庫で読んでいるのだが、日記文学だからか読みやすい。題材も今の体調にちょうど良かったのかもしれない(主人公はずっと困窮しているが…)。
信ずる者よ来れ主のみもと……遠くで救世軍の楽隊が聞えていた。何が信ずるものでござんすかだ。自分の事が信じられなくてたとえイエスであろうと、お釈迦さまであろうと、貧しい者は信ずるヨユウなんかないのだ。宗教なんて何だろう! 食う事にも困らないものだから、あの人達は街にジンタまで流している。信ずる者よ来れか……。あんな陰気な歌なんか真平だ。まだ気のきいた春の唄があるなり。いっそ、銀座あたりの美しい街で、こなごなに血へどを吐いて、華族さんの自動車にでもしかれてしまいたいと思う。
射精責任/産むか産まぬか/家での過ごし方
・『射精責任』を買って読んでいるが、集中力が落ちているので遅々として進まない。
私は月経困難症でピルを飲んでいるので、ピル代と診察代が安くなることを祈っている(1回2万円くらいする。しかもお医者さんによって出してくれる個数が違ったりする)。だが、今さら婦人科を変えるのもなーと思ってもう10年くらい経った。てことは私はピルに40万円くらい払ってるのだろうか。女を選択したのは私ではないのに馬鹿馬鹿しい気がする。一方コンドームは処方せんなしでネットでもコンビニでも買える。素晴らしいことだと思う。これは男性を責めているのではない。でも何かがおかしいのは確か。
・家にいるしかやることがない。なぜなら体力がないので。
家事もある程度やると空白の時間が出てくるので家での上手い過ごし方を考えねばいけないのだが、思いつかない。アニメ流し見たり本読んだりするのにも多少の体力はいる。寝ると夜眠れなくなる。だが、福祉系の何かに参加しようとすると仕事を辞めた時のことなどを思い出して涙が出る。どうしたらいいのだろうか。
・かといって誰かを責めたり自分を責めたりして過ごすのは不健全で意味のないことだと私のゴーストがささやいている。何か有益な…いや、有益でなくてもいいから気持ちいい時間の過ごし方はないものか。
・人の日常の日記を見て「素晴らしいな」と思う。暮らしている、というのはなんと美しく尊いことかと思う。私も人が読んで良い気分になったり、面白い気分になったりするものを書いてみたい。
・妊娠したくないし子育てもしたくない(嘘、本当はちょっとしたい。でも私は犬が歩くだけで涙が出る人間だから、その子が傷つくことに耐えられないかもしれない)と思ってちょっと泣いた。少なくとも男の人はこのことで悩まなくていいと思うとうらやましい(もちろん妊娠させることは出来るし、子どもを持つかどうか悩むことはあると思うが)。
・私にはなんか知らんがPMSっぽいのが月に2回あって、さらに月経中は腹痛と頭痛があるので、1か月のうちほとんど不調である。なので生きている意味がよくわからなくなるときがある。まあ人間って別に健康のために生きているわけじゃないから仕方ないんだけど、なるべく健康なほうが過ごしやすい。
・自分と少し似ている人に対して思うところがあり、とにかく自分が幸せなことがこわくなってそこからいきなり遠ざかってしまうのは寂しいなと感じた。どうして自分みたいな人間がこんな風に幸せなんだろうと感じてそこから離れてしまう気持ちはよくわかる。わかるけど、わかるけど寂しい。だから少し距離を置いたらまたいつか戻ってこようくらいの心持ちでいてほしいし、自分もそうしたいと思う。
幸福というのはあまり大きすぎると私たちの神経をすり減らす。私は破壊したくなる。いつか壊れるなら自分で壊したほうがいいから。でもそれはあなた自身の選択なのよ、価値のあることなのよシンジ君。
ただとなりにいること
道徳の授業か何かで、「悲しんでいる友人に何ができるか」という問いがあり、「ただそばにいる」と書いたら褒められた記憶がある。
一緒に悲しむのでもなく、励ますのでもなく、ただとなりにいることの尊さや大事さは後からわかってくる。月日が経つとともに重みを増してくる。
話しかけてくれたこと、反応してくれたこと、そこにいてくれたこと。
そして、生きていてくれたこと。
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嬉しい言葉を自分の中で何回も何回も繰り返して何倍も何倍も膨らませて、その感情がいったいどうなってしまうのかちょっと不安ではある。もうそんな無邪気な歳でもないのにね。