ONE OK ROCK Luxury Disease Japan dome tour 2023
attention!
このブログは10年以上ONE OK ROCKを聴き続けライブに通い続けた挙句、彼らに対して好きを拗らせまくった故の偏見と妄言に塗れた感想文になりますので、悪しからず。
思うところがありすぎて、筆が全く進まないけれど、それでも自分の気持ちを吐き出して整理することが今回は絶対に必要だと思ったので、なんとかして書き出してみる。
今回のワンマンツアーは2019年のeyes of the storm tour以来4年ぶりで、ワンオクを見るのは去年のサマソニ以来でした。
サマソニで盛大に炎上した彼らは一部同業者からも冷ややかな目で見られていたし、Twitterでも否定的な意見が多かった。これに関してはルールがある以上破っていいわけはないが、サマソニの管理の実情を現場で見ていた側としてはしょうがないのかなという気もした。入場時にマスクをしていなくても注意もされてなかったし。ただ、コロナ禍になってからかなりその影響を受けて、色んな現状を目の当たりにしていた私は、手放しで彼らを肯定することもできなかった。
でも今思うと、Takaはこのままでは衰退するであろう日本の音楽シーンを憂いていたのだろう。彼は誰かに何かを言われることを毛ほども気にしないし、常に自分がやりたいように、自分の思ったことをそのまま口にする、絵に描いたようなフロントマンだった。だからこそONE OK ROCKは常に新しかったし、日本のバンド界では一線を画していたように思う。
いくら昔の曲が良かったとしても、止まることを是とせず、常に進化することだけが正しいと信じて。ただでかい口を叩くだけじゃなく、有言実行の名手でもあったTakaは、最初から日本に留まることは考えず、常にアメリカで通用するバンドになると言っていて、そのための行動は惜しんでいなかったように思う。アリーナクラスをsoldさせられるようになっても、アメリカのバンドと対バンを組んで小さな箱でライブをして、昔の曲がいいとわかっていてもアメリカで通用するような曲を作り、アメリカのレーベルと契約をして。リズム隊なんて最初英語なんて全く喋れなかったわけだし、その苦労は計り知れない。
海外に飛び出した当初、日本ではモンスターバンドと認定されていた彼らを待ち受けていたのは、小さな箱と顔目当ての女性のファン。環境の変化と、思っていたような手応えもなく、キュートだと言われ写真を撮られる毎日。そりゃ日本のファンに八つ当たりもしたくなるだろう。(海外ツアーのライブの最前をいつも同じ日本のファンが埋め尽くしていることに対して、うんざりしているとインスタに投稿したのだ。当時はかなり物議を醸していたし、いくら勘弁してほしいと思っていたとしても同じお金払ってるわけであって、思ったような客層を入れることができていないことへの八つ当たりでしかなかったと思う。この件に関してはコロナ禍のインスタライブでTaka本人が言及していて、「刺々しい言い方になっていたと思う」と懐古している。)
でもそれが当時のONE OK ROCKのレベルだったのも、また事実であった。
そこから幾度となく挑戦を続けて、プロデューサーを変えては新譜を出して。この頃のワンオクは、かなり迷走していたし、アルバムの中でいい曲が1、2曲あればいいと思える程度だったし、今までのように一度聞いたら覚えるような強烈な曲は無かった。もちろんライブは楽しいし、Takaの歌は上手いし、とーるさんはカッコいいし。でも、初めて完全感覚Dreamerを聴いた時の衝撃と、浜スタの時の感動を超えることは無くて。
彼らは過去の栄光にとらわれず、前を向いて進み続けているというのに、私はその遠ざかる背中をただ眺めるだけで、追いかけることができずにいた。多分きっと、私は彼らに何かを期待していたんだと思う。いつかきっと、‘人生×僕=’のような、素晴らしいアルバムをまた生み出してくれるんじゃないかと。
ライブに行くたびに楽しかったという気持ちと一緒に、この人たちはどこまで行こうとしているのだろうかと考えていた。TakaのMCを聴くたびに、彼らにとって日本のファンは必要なのだろうかと自問自答していた。あの頃私が好きだと思った曲は、彼らがプロデューサーを入れて注力したものではなかったし、彼らが羽ばたくための翼として生み出した曲たちを好きになれない自分が心底嫌だった。手放しでかっこいいと称賛できるほど考えなしのファンでいるには、彼らを好きでいすぎたのだ。
初めてのドームツアーだったambitious japan tour。忘れもしない2018年4月4日。
当時、「ドームに立つようなバンドになりたく無い」とまで言ってた彼ら(というか主にTaka)は結局ドームに立って、その馬鹿でかい会場を客で埋め尽くしていた。
今ではシリーズ化しつつある、NHKの18祭の最初のアーティストとして、まさかの国営放送に進出。Mステにも出ず、ライブでのパフォーマンスを至上としていた彼らが、自分たちよりも若い世代のことを考えるようになっていたのはこの辺りからだったように思う。
海外に進出してから2枚目の新譜であるAmbitious。ここで彼らはその後のLIVEでの定番曲となるWe Areを作り出したわけだが、その勢いは弱まっていたと思う。なんせTakaはすでに30歳。海外でこれぞ!という爪痕も残せていないまま、メンバーのほとんどが三十路を迎えたという現実。Takaはこれまでにも、30歳という年齢を一つの区切りとして、30までに何かをやり遂げようとしていた。35XXXVのMCでは「俺たちが世界で1番かっこいい」みたいなことを恥ずかしげもなく豪語できるくらいには勢いもあって、若くて、それゆえの自信もあった。でもそれから数年が経ち、時間の流れと自分達の現状の立ち位置が比例しないことへの焦りも出ていただろう。そんな時のドームツアー。いつかのライブで「俺らを生きる糧なんかにしないでほしい」とまで言っていたTakaのMCでは、ファンへの感謝の言葉があった。「みんながいるから生きてられます」確かこんなようなことを言っていたと思う。今までそんなこと言ったこと無かった彼からのその言葉は、ただの感謝だけでは無かったように思えて、少し胸が痛んだのをよく覚えている。
このツアーのアコースティックコーナーでは内秘心書を演奏。デビューアルバムのゼイタクビョウの話から、努努のイントロを即興で演奏してくれたはいいものの、音程も歌詞も思い出せなかったToruさん。
そこでTakaが言った
「いつかバッチと決めてやるから!」
この口約束を信じて待ち続けていたら5年も経っていただなんて。きっと、丁度5年前のこの日が初めてのドームライブだったことすら記憶が曖昧になっていた彼は、そんなことを言っていたなんて覚えていないだろう。
こんなにも拗らせてしまった私であるが、それでも4人には楽しく音楽を続けてほしいと思っていた。ここ日本でのライブが、何度でも懲りずに海外で挑戦をして、いろんな思いを抱えて帰ってくることを繰り返す彼らの行く道の途中の、安らぎの場所であってほしいと思っていたのだ。
でも、当時の彼らは、なんだかこのまま走り続けていたらいつかどこかで消えて無くなってしまいそうな気がしていた。伸びすぎたゴムが、縮む力を失ったように。遠くへ飛んで行って、そのまま戻って来ないのではないかと、そんな風に思うことがあった。
そんな彼らの歩みを止めた新型コロナウイルスの流行。コロナ禍でもめげずに活動を続けていてくれた彼らだが、見れば見るほどにライブに行きたいという思いが強くなっていた。
そんな中の新譜「Luxury Disease」。このアルバムのリード曲であるSave Yourselfを初めて聴いた時は、鳥肌が立つほど衝撃を受け、そしてちょっとだけ泣きそうになった。アルバムを通して聴いてみると、もっと驚いた。初めて聞くはずなのに、なぜか懐かしかったのだ。やっとだった。私の好きなONE OK ROCKはこれだ、と思った。
そして始まったLuxury Disease tour。
今回のライブは、今までのどのツアーとも違っていた。今まで彼らはツアーのセットリストを会場ごとに変えるなんてことはしてこなかった。少なくともここ数年はしていない。それに、アルバム曲を全てやらないなんてことも、今まで無かった。だって今までの彼らは「これが今の俺らだ!見ろ!どうだ!!」ってスタンスだったし。でも今回はアルバムの曲は全てやらず、それどころか今までお蔵入りにしていた往年の定番曲まで引っ張り出してきていた。
そして極め付けは東京ドームで演った努努。正直初日のことはあまり覚えていない。セットリストに驚かされるばかりで、気がついたら終わってしまっていたのだ。
そもそもRapはToruさん恥ずかしいって言ってたし、もう今後彼のRapを聞ける日は訪れないと思っていた。(あるのか知らんが)解散ライブの時にでも演ってくれたらいいな、あ、でもその時にはもう本当に歌えなくなっているかも、くらいに思っていた。
だから努努を演ってくれたのは、5年前の約束を果たしてくれたわけでもなく、単にファンを驚かせたかった彼らなりの私たちへのサプライズなのだろうと思っていた。
けれど、その後TakaがBeam of lightの話を出していて。Beam of lightも、絶対に聴きたいと思っていたし、いつか演ってくれたらいいなとずっと、ずっと思っていた。そしてまた彼は気まぐれに言ったのだ。
「でも、いつか何かのタイミングでやるかも。
だから、それまで俺らの事を好きでいてね。」
東京ドームというのは、Takaも言うように魔物が潜んでいるのかもしれない。この会場に来るたび、また彼らの気まぐれを待つようになってしまう。でも、そんな風に言ったということは、もしかしたら5年前のこと、本当は覚えていたのかも。だって、彼らは今まで一度だって嘘をつくようなことは無かったから。
一時はファンにうんざりしていた時期もあったが、日本のファンの大切さに気がついて、日本のライブは贔屓してくれていた彼ら。それでも、Takaの口からそんなファンに縋るような、何か約束をするような発言が出ると思っていなかったから、驚いたし、コロナ禍でいろんなことを考えたんだろうなと思った。
以前Takaがインスタライブで「みんなが好きなセトリはいつなの?」と質問をしていた。コメント欄は「渚園」で埋め尽くされていて、驚き、そして落胆してしまった。そうか、あの頃のワンオクが好きだった人はもういないのか、と。
私の中で、浜スタも、渚園も、オーケストラも、全部お祭りの特別編という括りではあったし、本人たちもそう言っていた。でもやっぱり、私はどうしたって今の洗練されてかっこいい彼らよりも、それよりもちょっと昔の青臭くて小っ恥ずかしくて、ちょっぴりダサい彼らの曲が忘れられなくて。いつまでもこんなことを言っているのも諦めが悪いと思うが、私の中での浜スタは、それほどまでに感動的で、情熱的で、ONE OK ROCKの魅力の全てが詰まっていたように思うのだ。
でも、今回のツアーは、浜スタとはまた違う魅力がたくさん詰まったライブになっていた。最初から最後まで、ずっと楽しくて、何も考えることなく、文句のつけようのないセットリスト。
こんな風にファンに忖度できるようになったということが、このライブでとても感じられて、感慨深かった。
Luxury Diseaseはどの曲も素晴らしかった。というか、Fall out boyや、panic at the discoとか、ちょっとだけリンキンっぽい感じもあったし。フーバスっぽさもある。そもそも私が彼らを好きになったのは、聴いてきた音楽が多分一緒だったし、それに影響された彼らが作る音楽なのだから、好きなのは当たり前だろう、という。今回は、プロデユーサーの影響もあり、今までで1番ロックに振り切れていたし、Takaの言うようにここからロックシーンがまた復活するのではないかと思わせてくれる一枚になっていた。
Save Yourselfは冒頭のギターとドラムから引き込まれる。でもやっぱり難しいんだろうなこの音域、冒頭に入れないと多分歌うのきついんだろう。でもサマソニで初披露した時と比較するとめちゃめちゃ声出るようになってたし、北米ツアーで歌い続けて、自分のものになった、という感じがした。他の曲もいくつか音程下げてたみたいだが、でもまあ本人が1番歌いやすいように歌うのが1番だよね。
やっぱり良いと思ったのはLet Me Let You Go。この一見キャッチーに思える曲調の中で、何か大切なものを失ったことを悔やむ歌詞が綴られている。Takaはこういうメロウで女々しい歌詞()の曲を歌わせると天下一品だなとつくづく思う。これ聞いた時真っ先にあれ思い出したもんね。against the currentのdreaming alone。これ好きだったなあ。
あと印象に残ったのはNeon。音源で聴いていた時から「パニックっぽい、、、」と思っていたら、本当にパニックとの共同制作で笑ってしまった。このサビの転調するとことが、最高にかっこいい。確かにパニックっぽいのだが、ちゃんとワンオクらしいエモさもあって。しかもこれ、映像がオシャレで可愛いんだよな〜。ネオンライトっぽい映像から、渋谷の街並みに切り替わって、ヘリからTakaが降りてきたような演出。よかった。
Mad Worldのモノクロの演出もよかったな〜。全編日本語の歌詞で、歌詞がスクリーンに映るもんだからみんな歌いまくってて、かなり盛り上がっていた印象。サビのliving in a mad worldのとことか、ツーステしたくなる。
So far goneのTakaは、口から音源以上だった。ていうか改めて思うけど、日本のツアーって本当に贅沢だよな。今回はコロナのこともあったからこの時期になってるけれど、普段から海外ツアー回って、一通り自分のものにしてから、最後日本でやるっていう。そんなことにも、私は今回ようやく気づいて。年を重ねたのは彼らだけじゃ無かったね。
GRAVITY、藤原さん呼ぶと思ったのに来なかったな。なんか色々圧力とかあったのかなあ。あっちは優等生っぽいからなあ。
でも、これ紙吹雪の演出が本当に綺麗だった。東京ドームではただの紙だったのが、埼玉では銀色の紙に変わってたな。ライトが反射してキラキラしていて、スノードームの内側ってこんな感じなんだろうなとか、柄にもないこと考えてしまった。なんであれ東京ドームでやらなかったんだろう、謎。絶対キラキラしてた方が映えるのに。
Renegadesは、Ed Sheeranとアメリカで作っただけあって聞いているだけで大きな草原というか、荒野で、これから何かすごいことを企ててやるぞという意志が伝わってくる曲だった。るろ剣の主題歌だけど、それにしては壮大すぎるなと思って歌詞を見たら、まあ、このコロナ禍でのフラストレーションを爆発させたような感じだったし、私のインスピレーションはあながち間違っていなかったのだと納得。YouTubeでの動画でも言っていたし。この曲のメイキングを見た時、Takaって普段こんなにも苦労しながら曲を作っているのかと驚いた。今までは何かで言及することはあっても、実際に映像として海外での制作場面を見てこなった私は、とても驚いたし、Takaも普通の人間なのだなと思ったものだった。
ここからはアルバム曲以外の曲に関して。
まず、最近お蔵入りになっていたClock Strikes。冒頭の秒針の音が流れた瞬間の会場の沸き方がエグすぎたので、きっとまたこれはこの位置に入れ込まざるを得ないでしょう。
好きなんだよね、この曲。ワンオクの曲で1番好きな曲は?と聞かれたら絶対にこれだし、この曲だけは何度ライブで聴いてもしっくりくるし、飽きないし、Toruさんのコーラスしてる姿好きだし、みんなで声出せるのも楽しいし。あとTakaの名物ロングトーンがね。あれ聞くと安心する。偉そうなこというけど、あーちゃんと努力してるんだなぁ、って。笑 だって、歳は重ねてるのに、どんどん伸びていっているし。Eyes of the stormeのブックレットでも言及されていたと思うけど。
一時期、Cry outにとって変わられそうになってたけど、この綺麗系ゾーン。でもやっぱりCry outじゃなくて、Clock Strikesだとおもうよ、私は。本当に飽きるほど聴いてるし、ライブで何回聞いたかわかんないけど、なんであんなに毎回泣きそうになるんだろう。あの壮大な感じとメッセージが好きなんだろうな。
カゲロウもね、もうやらないって言ってたくせに入れてたね。まあこの曲歌いやすいんだろうな〜みんなも盛り上がるし。でもそろそろお蔵入りになるのかな。あんまりやりすぎると有り難みが消え失せてしまうから、またしばらくお休みしそうだなと思いました(小並感)
あとね、Deeper Deeper。これはさあ、反則すぎるよ、、、。この曲、確か初めてシングル曲でリズム隊が作った曲で。冒頭のベースのかっこいいのなんのって、、、。しかも暴れられるし。ヘドバンという文化を知らない人でも頭振りたくなるような強烈なメロディー。久しぶりに聞いたけど、体が覚えてましたね。ヘドバンもそうだけど、最初の手拍子も、サビのところでジャンプして声出すところとか、ほんとに最高に楽しいんですよ。なんで最近入っていなかったのか不思議。
この曲の会場の沸き方もそうだけど、全然知らない隣の人と肩組んでヘドバンしたり、盛り上がりすぎて周りの人たちとハイタッチして喜び分かち合ったり。そういえばそうだったなって思い出した。ライブってこうだったよなって。まだ席があるうちは難しいけど、いつかまた彼らのライブでモッシュピッドが見れる日が来たらいいな。多分もうその輪の中には入れないけれど。
キミシダイ列車は、いつ聞いてもこのメッセージ性の強さに眩暈がする。が、今回このタイミングで聞いたことでより、この曲の凄さを見せつけられたように思う。大事なこと忘れてないか?コロナのせいにして逃げてはいないか?そう言われているようだった。
このツアーで彼らは、自分達はもちろん、私たちのフラストレーションを晴らそうとしてくれていたと思う。それと同時に、この変わってしまった世の中に対して、疑問を呈するような、語りかけるような曲を選んでいるように思えてならない。
特に、冒頭のアンサイズニアは、この現状への彼らなりの答えだったのだと思う。
「今を生きるコトは簡単じゃなくて ただ楽しけりゃいいってもんでもなくて 明日、明後日の自分に何が起ころうと責任を持てるかどうかさ」
「僕の思う当たり前は君にとって当たり前かな?君の思う当たり前は僕にとって当たり前かな?」
「きっと この世に正解もハズレも間違いなく無い」
何が正解かはわからない、それでも「死ぬ間際に悔いは無いと言えるように生きてたい」彼らは、声を上げ続けていた。東京ドーム初日に彼は声高々に「俺は間違っていなかった」と叫んでいた。聞く人によってはまた反感を買いそうだったが、でも、これをセットリストに入れた本当の意味が、ライブで彼の言葉を聞いてようやくわかった気がした。
キミシダイ列車やアンサイズニアは、もう10年以上も前の曲たちだ。それが今の世の中へ対するTakaの思いとリンクしているのはさすがとしか言いようがない。だからこその、間違っていなかった、という言葉だと思うし、それを否定することは誰にもできないんだろう。
今回TakaはMCで、人生は一本の紐のようなものだと話していた。何か大きなことをやり遂げて、紐に結び目をたくさん作っていくことが大切であるとするような風潮があると。でも、そうではなくて、たまには結び目を解いていくことも必要だと気づいたんだと。
今まで振り返ることをせず、ただ突き進んで進化し続けることだけが夢を掴むための近道だと信じていた彼らの歩みを止めたコロナ。色んなことが停滞し、常識が常識でなくなり、自分達のアイデンティティが失われかけることもあっただろう。悲しいこともたくさんあったと話していた。
バンドはナマモノだ。他人同士が顔突き合わせて一つのグルーヴを作り続けることはそう簡単なことではない。それぞれに、バンドマンではない顔がある。家族もいるし、それぞれの生活もある。コロナ禍で真っ先に失われかけたのはエンターテイメントだったと思う。部外者の私がそう感じたのだから、彼らのお先真っ暗感は想像に余りある。
それでも信じることを諦めず、自分達にできることを模索し続けていたのだろう。そしてその中で何が大切なのかにきっと気がついたのだ。おそらく彼らは、バンドとして大きな功績を残せなくても、4人でいることを選んでくれたのだ。
だからやっぱり、コロナがなければこのバンドはどこかで消えていたのかもしれない。だってあのまま、結び目を作るためにバンドを続けていたら、いつか必ず上手くいかなくなる。全員が同じ方向を向き続けることはとても難しいことだし、コロナで強制的に立ち止まらされたことで、今までとこれからについて考えた結果が、きっと今回のツアーで、あのMCなのだと思った。
不動の名盤である人生×僕=をリリースしてから10年。この10年という月日全てがあって、このツアーが完成したのだ。
小さな島国に留まることを是としなかった彼らはアメリカを目指して飛び出して、打ちのめされて、八つ当たりしてきて、その度になんでだよ、と、帰ってくればいいじゃん、と思ったりもした。けど、今までの時間全部でこのアルバムになって、そして、こんなセットリストを作れるようにしてくれたんだろうな。
音楽で世界を救えるとは思えないけれど、音楽で心は動かせるから。信じるものがあれば強くあれると、それを教えてくれたのはONE OK ROCKだった。
Takaは「自分はヒーローでもなんでもない」と話していたけれど、私にとってONE OK ROCKは、間違いなくヒーローだよ。‘バンドは仮面ライダーやウルトラマンみたいにたくさんの数と歴史があって、そしていつの時代も必ず誰かの心に残ってる’んでしょ。
仮面ライダーもウルトラマンも、中身はただの人間。彼らもきっとそうだ、才能が少しばかりあるけれど、きっと私たちと何も変わらず、夢を追いかけ日々を生きる人間なのだ。ただ、そのための努力を惜しむことなく続けられるだけで。
前回の東京ドームでのライブが心残りだったようで、その話を初日はしきりに話していて。途中音響トラブルもあって、急にサウンドチェックし始めるし。笑 席によっては残念な結果になってしまっていたようだけど、2日目は本当に、解き放たれたように全てを出し切っている様子で、見ていて本当に気持ちがよかったな。
それに、ライブ終わりのこの写真を見て、やりたいことやりきったんだろうなあと安心しました。よかったね。魔物倒せてたよ、圧勝だったよ、カッコよかったよ。
30過ぎた男たちの完全感覚Dreamerは、痺れるほどカッコよくて、ちょっとだけ泣きそうになった。全てを出し切るように歌い上げたTakaも、相変わらず煽りで何言ってるかわからないTomoyaも、堪んねえ!って顔しながらギターかき鳴らすToruさんも、たのし〜〜〜!!!って全身で表現してるRyotaも。みんなの好きなところ、何一つ変わってなかったな。4人が楽しそうに4人の音楽を奏でていれば怖いものなんて何ひとつないって、そう思えた。
今回のツアーで、私のONE OK ROCKへの想いが、何か一つ結末を迎えたような気がした。それは、Takaが約束を果たしてくれたからかもしれないし、浜スタとはまた違う、でもそれと並ぶくらい、忘れられないツアーだったからかもしれない。
サマソニに行った時、beginningの乗り方が周りとずれていることに気がついた。ドームで突然沸き起こった手拍子に困惑した。いつかTakaがドラムの音に合わせて乗って欲しいと言っていたことや、手拍子が嫌いだと話していたことを覚えている人は、きっともういないのだろう。それでも。
こんなに長いこと何かを好きでいれるなんて思ってもなかったし、好きになったこともなくて。10年という月日は彼らも、私自身も、変えるには十分すぎた。変わったことがありすぎるのに、私は変わらずこんなにも彼らの音楽で満たされている。小さい箱でもみくちゃにされて汗に塗れて、目が合ったと喜んでいた時と変わらない。誰になんと言われようと、好きなものは好きでいていいんだと思わされたし、ひたすら健気に追いかけ続けていた時間が全て報われた気がして、ちょっとだけ寂しくて、嬉しくてしあわせだな。
これから先もきっと好きだし、死ぬ迄通い続けると思うので、どうか身体だけは大事にしてください。
これからも4人で、ずっと。
舞台「文豪ストレイドッグス STORM BRINGER」
文ステ、満を辞して観てきましたので感想を垂れ流します。
ストーリーに関しては、文豪ストレイドッグス STORM BRINGER - 星のお姫さまこちらをご覧ください。
例の如く著しく信憑性に欠ける、独断と偏見に基づくレポートに仕上がっておりますので、悪しからず。ネタバレも大いに含みます。
舞台はヴェルレエヌがポートマフィアに侵入し、ランボオの遺品で中也に渡された「帽子」を奪取するところから始まる。
今までの作品を観たことの無い人にも多少わかる様に、根本さん(森鴎外役)が解説を付けていく。
小説でも何度も読み直さないとよくわからない部分(特に異能特異点の話とかランボオとヴェルレエヌの過去のとことか最後の中也の鉛筆の傷の下りとか)、どうするんだろ〜と思っていたら根本さんがめちゃくちゃ喋ってくれてた。まあそうなりますよね。
端折れるところは端折って、加筆が必要なところはプロジェクションマッピング?映像も駆使していく。脚本を舞台仕様に上手く昇華させていて、さすが中屋敷さんだなぁと脱帽。
入れられなかった小話はカテコで補完。抜かり無い。きっと円盤の特典はこの小話を全て収録してくれるんだろうなあと思ったら、買うしか無くなってしまった。
全体的に上手く纏まっていたし、舞台演出が凝っていて「実態の無い『異能』を魅せる」という点に関しては、今までで1番分かりやすい演出になっていたと思う。
以下はただの感想。語彙は消滅してます。
まずやっぱり改めて、中原中也は植田圭輔しか出来ないなと痛感。あの体躯と声色は植田圭輔だから成り立っているし、長台詞を物ともしないでトチりもせずに完走している姿は圧巻でしたね。
今回長台詞が全体的に多かったけど、植ちゃんはじめ、根本さんもそうだし、佐々木さんもそう。そして何より、磯野さんの滑舌の良さにビビり倒しましたね。
ていうか、アダム、チョ〜〜〜〜〜〜〜可愛かったな。小説の中でもまあそれなりに可愛かったけど、やはり喋って動くと、あの暗い話の中でのコミカルさが際立って、それも相まって可愛さ炸裂していて非常に良かった。あんなにでかい(187cm)のに、あんなに可愛いだなんて、、、。
今回舞台を観て、改めてストブリのストーリーの奥深さに考えが纏まらない。
同じ様な異能を持つ中也とヴェルレエヌ。同じように仲間を持った2人が、最愛の仲間と違えてしまう。その時の選択が、2人のその後を分けてしまったんだよね。自分を救うために、仲間を裏切り傷付けてしまったヴェルレエヌ、仲間に裏切られても尚、仲間を助けるために敵であるポートマフィアにくだった中也。
2人とも、「人間では無い」という疑念に囚われ、翻弄されていく。
でも最後には、2人ともそれぞれ、今まで気づかなかったことに気付く。
ヴェルレエヌは、ランボオがかけがいの無い仲間であったことを、中也は、中身は如何だろうと、自分だっていつか死にゆくただの人なのだということを。
今回観て気付いたことがあった。
舞台では割愛されていたんだけど、中盤の中也が拷問を受けた後、白瀬と合流するところ。
あそこで白瀬は、中也を助けることを躊躇するんだよね。そして原作では拷問で傷付き、弱りきった中也を初めて目にして、ようやく「中也もただの人間なのか」と気付き、自分達と同じように、傷付いたら死んでしまう存在であると認識する→そして助ける。という流れになるんですよね。そこって本当は結構重要なところなんじゃ無いかなって思ってて。
人間離れした中也を王として奉っていたのは他でも無い白瀬たち。その白瀬が、初めて中也も自分たちと同じ存在なのだと、危機が迫れば助けなければならないのだと、そう白瀬が気付いた時、きっと中也は本当の意味で人間になれていたらいいな。そうやって助け合って、支え合って生きていくのが、人なのだから。
太宰が見事なヴェルレエヌの殺害計画を立案できたのは、「寝ても覚めても重力使いである中也にどう嫌がらせできるかを考えている」から。
そう太宰が話すシーンが本当に本当に好きで、中也に逆さ吊りにされながら作戦を説明する太宰を見れるのを楽しみにしていたけれど、尺の都合でカットされてしまった。
けれど、大阪前楽のカテコで、太宰が中也の事ばかり考えてる、のくだりをやってくれて、本当に悔いはない!!!大阪まで行った甲斐しかない!!!!
幹部に昇格した中也は、同僚にも自分の出自に関しての話は一切していない。
それはきっと旗会の皆んながああなってしまったのを自分のせいであると思っているからなんだろう。
けれども、そんなことを全て知っている太宰。中也にとって太宰って、本当にどれほどの存在なんだろう。自分が自分でなくなってしまうとき、いつでも駆けつけて「おつかれさま」と声をかけてくれる人なんて、、、そんなの、、、(咽び泣きながら教会に駆け込む人の絵文字)
やはり双黒は宇宙。太中は神の作りし宝。
そういえば、マチネは物凄い速さで台詞を言い続け聞き取れないレベルだった累生くん。カミカミだし、ソワレこんなんで大丈夫なのか?と本気で心配しましたが、誰かになんか言われたんか自分で反省したんか知らんけど、別人かと思うくらい流暢に喋って、一度も噛まずに終幕してて拍手喝采だったな。(推しに甘いオタク)
そのくせ、カテコの挨拶で自分の名前を噛んでて本当に可愛くて可愛くてどうにかなってしまいそうでした。
原作は今の話で完結してしまうんだろうなという流れですが、未だストーリーが完結しないのでアニメ化の詳細も発表されておらず。ストブリ舞台化は尺持たせだったんだろうなと思うけど、この流れでアニメ化もしてくれないかな〜〜〜!!!(2回目)ねぇ〜いいでしょ〜〜〜!!ちょっとくらいさぁ!!!やれば絶対儲かるよ!!!ね!!!
ストブリ読んだ時も思ったけど、絶対アニメ化してほしい。でないと私は死んでも死に切れない。
これはオタク全員の願望だと思ってるので、別に私1人が言ってることじゃないので。ええ。(確信)
言霊を信じている人間なので、今回も書いておきます。
は〜〜〜本当に!楽しかったな!!
改めて文豪ストレイドッグスという作品が好きだし、中原中也というキャラクターが、太宰治というキャラクターが、双黒という概念が好きなのだと、再確認できました。ありがとう。
10公演、完走できて本当に良かったです。
お疲れ様でした。
舞台「ようこそ、ミナト先生。」
新国立劇場 中劇場にて。
甲信越地方の山あいにある町、日永町。
一年前、この地を観光で訪れ、非常勤の音楽教師として働くことになった湊孝成。
人当たりがよく誰にも親身な彼は“ミナト先生”と慕われ、地元組からも移住組からも頼りにされるように。住民の間ではミナトがずっと町にいてくれるよう、診療所の医師・高梨由佳子とくっつける計画が持ち上がるほど。
だが一人暮らしの偏屈者、植村久志だけは心を開こうとしない。
そしてミナトはある秘密を抱えていた。
そんなある日、ひょんなことから日永町の動画がネットで拡散。町が世間から注目を集めると事態は大きく動き出す――。
相葉くんは「君と見る千の夢」以来、12年ぶりとなる舞台。たまたまFCに入り直していた矢先に発表され、なんとかチケットをもぎ取ることに成功した。
脚本、演出は同作品と同じ、宮田慶子と金子ありさ。
君と見る千の夢って、ラブストーリーだったこと以外特に記憶しているものがなくて、相葉くんってつくづく恋愛モノが苦手なんだなあという印象だった気がするが、、、定かではない(コラ)
「相葉くんの舞台に行くんだ!」と話すと、大抵の人には「えぇ?相葉くんって演技上手だったっけ?」と聞き返された。(本当の話)
ファンの中でも彼の演技力の話になるとお通夜のようになってしまう人も居るが、私個人としては彼の魅力はそこではないので、さして考えたこともなかったのだが。
世間一般でいう彼のイメージはその通りなんだろう。彼の魅力もそこではない。けれども、演技力は無いにしても、表現力はあるわけで、、、ようは役次第ではハマると私は思っていて。マイガールとか、シッポとか。あと賛否両論あるだろうが、ラストホープは私は大好きだったな、、、。そして今回はnot恋愛もの、且つ相葉くんにハマりそうな役どころだったので大変ワクワクしておりました。
舞台はとある田舎町。人当たりもよく、面倒見もいい湊孝成は、「移住者組」であるのにも関わらず町民たちから「ミナト先生」と呼ばれ親しまれていた。
序盤はミナト先生の人柄の良さ、移住組と先住組との間にあるわだかまりをどうにか無くそうと奔走しつつ、町唯一の医師である高梨里佳子との苦笑、微笑ましいやり取りなどなど、、、恐らく世間一般の相葉雅紀のイメージそのままと言っていいような、屈託のない笑顔とリアクションで会場のおば様方の感嘆の声が漏れてしまうほど、相葉ワールド全開で始まった。
皆に慕われているミナト先生。そんな彼には「加害者家族」というもう一つの顔があったのだ。街の人から煙たがられ、1人孤独に離れに住む老人、松平健演じる植村久志。湊の父親が飲酒運転で起こした事故に巻き込まれて死亡した若き警官、その父親こそが植村だったのだ。
湊は自分の過去を隠し、塞ぎ込み他人との接触を断った植村の家に足繁く通い、交流を図ろうとしていた。
そんな中、町おこし事業の一環の動画配信に、着ぐるみに扮した湊が出演。途中町民たちとのいざこざの最中に着ぐるみを脱ぎ、湊の素顔がネットに配信されると、20年前の事故の加害者家族であることが町民に知れ渡ってしまう。植村をはじめ町民たちや、亡くなった植村の息子と幼馴染だったと話す者から、容赦のない追求を受ける湊。そして今までの温厚で穏やかな雰囲気は一変し、嫌味たっぷりになぜここに来たのかを語り始める。(ただここ、優しく穏やかなみんなのミナト先生が豹変するところが見どころなのだろうが、イマイチ物足りなかったかな、、、そこが相葉雅紀が相葉雅紀たる所以なのだが、、、)
1年前、湊がこの町にやってきたのには理由があった。湊の母親がガンでこの世を去る時、夫のしたことは自分の責任でもあるのではないか、と未練を残し亡くなった。母親の葬式の時に10数年ぶりに父親から連絡があり、その時に約束をしたのだ。「一緒に謝りに行こう」と。その後、刑期を終えた父親から連絡があり、植村に謝罪をしに行くことになったのが、1年前。待てど暮らせど、父親は来なかった。湊は、仕方なしにこの町で過ごしながら待つことにしたのだった。
全てを話した湊はひとり、町を出て行く支度を始めるのだった。ミナト先生と持て囃していた町民たちも、誰もその名を出すことはなくなった。
心配して様子を見にきた及川、植村や高梨に自分の気持ちを打ち明ける湊。加害者の家族というだけで受けてきた偏見や執拗な迷惑行為、生きて行くことに必死になりすぎて、被害者たちのことを考えてもみていなかったこと。それを理由にして、色んなことから逃げていた過去。そんな自分でも、居てもいいと思わせてくれたこの町にずっと居たいと思っていたこと。そんな姿を見た植村は湊に「自分のために、胸を張って生きろ」と優しく声をかける。
この辺りから相葉くんは鼻水も涙も垂れ流しで泣きっぱなしだったなあ。鼻水がびっくりするほど垂れていたので思わずティッシュを投げ入れそうになりましたよ。
クライマックス、町を出て行く直前の湊に(引っ掻き回し役だった)濱田龍臣演じる野村伊吹が声をかける。野村は、家族が皆この町を出て行く中、ひとり町に残り続けている青年である。町おこしや湊に関心がさほどなく、斜に構えたよくいるひねくれ者だ。湊が加害者家族であることを植村に告げ口したのも彼である。そんな野村が、皆があんなことがあってもミナト先生を待っていると伝える。そこに湊からの置き手紙を見た高梨が走ってくる。自分はここで湊のことを待っていると。そしてまた湊と出会えたら、初めましてのフリをして、こう言うと。
「ようこそ、ミナト先生」
いや〜とにかく濱田龍臣くんがでっかくなってて私はそれにびっくりしっぱなしでしたね!!!(そこ?)怪物くんに出てきたときから時が止まってましたので、まさかあんなにデカくなって声変わりもしているとは、、、(当たり前)
所々噛んじゃっていたのはご愛嬌、長台詞も鬼気迫る演技も立派にやり遂げていましたよ。途中、連絡が途絶えていた父親と電話が通じた場面。電話を切った後、物に当たるシーンがあるんですね。バンッて襖開けて、ガンって何かを蹴るんですけれども、そこが割と私は好きでしたね、、、好きだった人いるかな、、、いるよね、、、
物語としては、コロナ禍での田舎移住、ネット社会の晒し上げ、加害者家族の問題、田舎ならではの閉鎖的環境、などなど昨今の問題を取り上げたような印象。時代に沿ったテーマで面白くもあったけど、後半あいばくんが泣きっぱなしだったのがなあ、、、いやいいんだけど。彼はとてもよく頑張っていたし、、、。周りの役者さん、特に松平さんはさすがとしか言いようがない。彼の迫真の演技に相葉くんも吊られてるんだろうなあ。
カテコで、松平さんに何か耳打ちをされて屈託のない笑顔を見せていた相葉くんを見て、変わってないんだなあとしみじみ。3回も出てきてくれて、その度にニコニコしながらありがとうございますと言いながら深々と頭を下げているその姿は3年前と何も変わっていなくて、元気な姿を見れて良かったなと思いました。
新国立劇場は初めてだったけれど、やはり舞台のために作り直された真新しいステージはとても広く、プロジェクションマッピングやさまざまな舞台装置を駆使した演出がなされていて、圧巻だった。普段小さな劇場で舞台装置も一つしかないようなものしか見ていなかった私にとっては、映画を見ているような感覚だった。
悔しいのは、これを何度も見れないこと。舞台はナマモノであり、その日その日でどんどん違うものになってゆく。その過程が面白いので、私は基本的に数回は足を運んでいるのだが、今回はそれができない。
なんにせよ、12年振りの舞台出演を見届けられてよかった。あの頃よりも遥かに成長した役者としての相葉くんは、文字通り汗水垂らして必死に足掻いていました。千秋楽まで、どうか駆け抜けられますように。
P.S.無事に千秋楽を迎えられたということで記事をアップしてみます。本当に、お疲れ様でした。
「彼女が好きなものは」
人生初めての抜歯がものの数十分で終わってしまい、時間を持て余した私は、未だ唇が痺れているというのに映画館に来ていた。
なんと言っても今日は月曜日。auマンディ課金勢である私にとって、映画鑑賞にはうってつけの日であった。
元々劇場版マクロスを見たかったのだが(そのために1ヶ月かけてマクロスΔを一気見した)、あれよあれよという間に上映数が減ってしまい、時間が丁度よかったし、先行上映されていた「彼女が好きなものは」を見ることにした。
原作は浅原ナオトの「彼女が好きなものはホモであって僕ではない」。2019年にはNHKの夜ドラで「腐女子、うっかりゲイに告る」という題名でドラマ化しているよう。この題名には私も聞き覚えがあった。調べると、丁度明日までの期間でネトフリにあったので見てみることに。ていうかこれ、映画公開に合わせて配信期間延ばすべきなんじゃないだろうか。
同性愛者であることを隠して日々を過ごす男子高校生・安藤純と同級生の女子・三浦紗枝が主人公だ。三浦は小学生の頃、好きな漫画の主人公が表紙の本を買うが、それが同人誌だったことから腐女子への道を歩むことになる。よくあるよね。私は母親の隠し本棚から商業BLを見つけてから片足突っ込むようになったなあ。
安藤にはネットで知り合った既婚の中年男性のパートナー・誠さんがいて、蜜日を重ねていた。自分が同性愛者であることに悩む中、Twitterで知り合った同性愛者のファーレンハイトとのDMが、心の拠り所になっていた。
私これ特に前情報無く観に行ったら、メチャクチャタチ顔の翼くん出てきて最後まで動揺していた。いつの間に芸能界復帰してたんだ、、、?知らなかったけど、相変わらずカッコイイしイイお声されてるよね〜〜〜タッキーに弄ばれたあと翼くんに拾われる妄想ならもう何回もしてます。
ある日三浦が本屋でBL本を買おうとしているところに、安藤が遭遇する。中学時代、腐女子だということがバレて虐められていた三浦は、自分が腐女子だということを誰にも言わないで欲しい、と安藤に頼み込む。趣味がバレた三浦は、安藤が約束を絶対に守るよう、オタク友達の姐さんからの入れ知恵でオタク活動に安藤を巻き混んでいく。
その中で次第に安藤に惹かれていく三浦。安藤もまた、三浦に惹かれている自分と、男にしか反応しない身体とで揺れていた。「彼女が好きなのはホモであって、僕ではない」そう言い聞かせ、浮かれそうになる心を必死で抑えつけていた。
三浦と安藤と、安藤の幼馴染の高岡亮平の三角関係とか、ザ高校生な小野雄介の横槍とか色々あるんだが、遊園地の観覧車で三浦は告白し、晴れて2人は恋人同士になる。
安藤は、恋愛対象は男であったが、同時に家庭を持ちたい、子供が欲しいという願望の間で揺れ動いていた。女手ひとつで自分を育ててくれた母親・安藤みづき(山口紗弥加)に孫を見せたいと思い悩む 安藤は、三浦となら自分も「普通」になれるかもしれない、と淡い期待を持ち始める。
しかし、三浦と身体を重ねようとした時に無反応だった自身に、やはり自分はゲイなのだと思い知る。
そして、ダブルデートの最中にファーレンハイトの死を知り動揺する。デート現場に居合わせた彼氏の誠さんに事情を話し、キスしているところを三浦に見られてしまう。ショックから激怒する三浦に対し、「好きなんでしょ、ホモ」と冷たく言い放つ安藤。しかし、わかっていたのだ。彼女が好きなのは自分であって、ホモでは無い、と。
遂に、三浦にカミングアウトし、謝罪する安藤。それを裏で聞いていた小野は、三浦で自分の気持ちを試したことに激怒し、その勢いで亮平含め、バスケ部の皆がいるところで「安藤がホモって知ってたのかよ?!」と叫んでしまい、あっという間に噂が広まってしまった。
何も知らない安藤は、登校すると心無い言葉が投げかけられ、自分がゲイであることが知れ渡っていることに落胆し絶望する。それを知った亮平は、学校を飛び出した安藤の元へ駆けつけ、ゲイであることは関係なく、安藤自身が好きなのだと伝える。亮平と共に学校へ戻った安藤だったが、体育の着替えで一悶着起こってしまう。なんとしてでも庇おうとする幼馴染の亮平を他所に、小野は「気持ち悪い」「出て行け」と追い討ちをかける。こちら側に生まれてきてしまったことを悔やみ悩んでいた安藤は、自分を責め続けていた。小野の言葉に、その通りだ、と肯定をしてから、教室の窓から飛び降りて自殺を図ってしまう。
一命を取り留めた安藤の元には、亮平と三浦が見舞いに来ていた。安藤の自殺未遂の一件で、学校内では性的指向に対するディスカッションが行われたことを報告した。偏見は無い、と話すクラスメイトが多くいる中、小野は「理解した気でいるだけだろ」と冷たく言い放つ。それを聞いた三浦は、自分もそうだったのかもしれないと恥じた。三浦は、安藤のことを心から知りたいと思っていることを改めて伝える。安藤も、三浦の好きなものを知りたいと伝え、2人は無事に恋人同士に戻った。
退院も近い日、安藤は大阪へ転校することを三浦に伝える。それを聞いた三浦は、最後に一度だけ学校に来て、自分の作品を見てほしいとお願いする。美術部員である彼女の作品が、コンクールで表彰されたのだ。
表彰式ももうすぐ終わるという頃、安藤は体育館に現れた。賞状をもらった三浦は校長からマイクを奪い取り、全校生徒相手に自分の身の上話をし始める。三浦は、安藤が周りと距離を取っていたのは、傷つかないよう自分を守る為ではなく、それを知った周りの人たちが動揺しないようにする為であると、皆に伝えた。泣き崩れる三浦を、壇上に登って慰める安藤。小野も嫌々ながら謝罪し、和解する。(実は安藤の入院中に小野も病院の近くまで来ており、泣きながら謝っていたのだった。)
ファーレンハイトの遺言であった、「墓参りに来てほしい」という願いを叶えるため、静岡に出向いた安藤と三浦。21歳の大学生であると言われていた彼は、実は中学生であった。Twitterのプロフィール画像は、ファーレンハイトが心を寄せていた従兄弟のものであると分かり、彼の母親はこれまでのことを話し始めた。
告白された従兄弟が相談したことで、家族は息子が同性愛者であることを知り、病院に連れて行ったのをきっかけに引き篭もってしまったのだった。
全てが終わった帰り道、私たちの関係も終わりにしようと話す三浦。安藤が初恋では無いと、念を押した三浦の表彰作品は安藤がモチーフになっていた。題名は「初恋」だった。
見終わった直後の感想は、「私が中学教師であったなら、これを全校生徒に見せていただろう」というものだった。
摩擦をゼロに、抵抗は無しとする。これは安藤純が、周りとうまく共存するために心掛けていたことだった。人は皆、簡単な方に答えを持っていくものだ。難しいことは考えず、いつだって世界の普通に当てはめて考えようとする。自分の身近な人が、もしカムアウトできずに思い悩んでいたら、どう声をかけるのが正解なのか。正解なんて多分、無い。関係性やタイミングで変わってくる。それでも考えざるを得なかった。理解した気でいた自分を恥じた三浦の気持ちが痛いほどわかる。でも、本当はシンプルなことのように思える。自分の好きなことを、好きだと言えることそのものが、きっと絶対尊いのだ。
ドラマではQueenの曲をBGMとして多用しており、所々でフレディが引き合いに出されていた。夜ドラやっていた当初はボヘミアン・ラプソディーで沸いていた時だったみたいだし、これはこれでアリだった。逆に、映画はそれを全く出さず、映画ならではの世界観を作り出していたのではないかと思う。
その他にもサラッと見ただけだが、ドラマ版と映画では同じようで要所要所違うところがある。
まず、安藤の恋人である誠さん。ドラマでは所謂「不倫している既婚者子持ち」という感じだが、映画での誠さんは優しさが滲み出ていて、心から安藤に惹かれているという印象であった。安藤と別れる時も、引き留めることはできなくても特別であったことを真摯に伝えていた姿がとてもよかった。翼くんの人柄が出ていたなあ。
あと、安藤の幼馴染の高岡亮平。ドラマでは安藤の彼女の三浦に好意を寄せており、その色が濃く出ているが、映画では安藤の理解者であり、2人を誰よりも応援していた。いい子だ、、、。
ドラマだと割と安藤は自嘲的な表現が多く、小野を煽るような言葉遣いが目立つ。ファーレンハイトの恋人が、エイズを患って余命宣告を受けた際の家族の反応とか、ありきたりだけどリアルで心を抉られる。
ドラマの方が原作に忠実なようだし、まあ、本当はそれくらいドロドロしてるよねぇ。
長々と書いたけど、結局、「自分の普通ってなんなんだ?みんなの普通ってなに?」っていうことを問いかけてくる作品だったのではないかと思う。誰が好きとか好きじゃ無いとか、そういうことでカテゴライズすることもできるんだろうけど、カテゴライズすることに何か意味があるのだろうかと考え直すことができた。
ドラマ版で三浦が言った「好きなものを好きだって言える時間が、1番好きだな」という言葉が印象に残った。
私は、ブルーピリオドのユカちゃんが言っていた、「自分の好きだけが、自分を守ってくれるんじゃないのかな」という言葉が好きだ。その通りなのだと思う。でも、その好きが世間の普通じゃなかったら?理解されない好きは自分を守ってくれないのではないか?そう、考えたことがないわけではなかった。だから私は、自分の趣味をひた隠しにしていたし、わかってくれる人だけがわかってくれればいいと思っている。わかってくれても、共感を求めないように気をつけている。
それでも25年生きていると、たまーに、共感し合える友人に巡り会えたり、文字書きの趣味を尊敬し応援してくれる人に出会えたり、する。そんな人を、わたしは大事にしたいし、誰かを不意に傷つけないように、常にフラットな価値観で生きていたいと強く思う。
安藤が母親にカミングアウトした時に、「孤独死するイメージが抜けない」と吐露していた時は、思わず胸が痛んだ。私も同じことを考えることがあったからだ。そんなことを考えてしまうようなこの世の中がおかしいのかもしれない。夫婦別姓、同性婚、性教育の遅れなど、問題を上げたらキリがない。自分が人生の分岐点に立たされた時、何かが変わっていたらいいと思う。
ただ、最近この手の内容を題材にした作品が多く出ていて、その度に「特別扱いされている」ことに違和感を感じてしまう。例えば、月9でストレート以外が題材にされても特に取り立たされることのない世の中が、いつの日かくるのだろうか。監督も言っていたけど、この作品を特別なものにするとかではなく、いろんな人が見て、何かを考えてくれたらいいんだと思う。それが特別なことで無くてもいいんだ、きっと。
この作品がいろんな人の元に届いて、見た人が何か思うところが有れば、世界は今より素敵になるはずなのだ。分かり合えたとき、人はずっともっと優しくなれると、わたしは信じている。
さーーてと!大好きなCPの同人誌が届いていたので、ゆっくり読んで、大好きな世界に浸ってこよーっと!
文豪ストレイドッグス STORM BRINGER