勝ち組考
少年にこんなことを言われたことがある
「弁護士だったら,勝ち組ですね!」
そのときは笑顔でやり過ごしたが,勝ち組っていったい何だろう。
お金があれば?社会的地位?責任?
そもそも,お金を稼ぐというのは人生の重要な目的にしてはいけない。
お金を稼ぐにも色々な方法がある。
1番まっとうで簡単なのは,誰かの役に立つこと。
1番ダメで簡単なのは,弱い人からお金を集めること。
だから,お金を稼ぐことを重要だと思っている人が,
簡単にお金を稼ごうと思うと,誰かを騙してお金を集めるようとしてしまうこともよくある。
日本で,けん銃を手に入れて,誰かを脅してお金を取るのはかなり難しい。
普通の人はけん銃を入手することはできないし,誰かを脅せばすぐに捕まる。
だから,例えば,従業員に低賃金で長時間労働させてお金を稼ぐブラック企業だとか,
国から補助金だとかそういった制度を悪用したりだとか,捕まらないようにお金を稼ぐやり方が横行する。
それだって,少しは人の役に立ってお金を稼いでいるのかもしれないけれど,従業員だとか高齢者だとか子どもだとか,弱い人からお金を集めるてしまっていることも多い。
そもそも,まっとうに仕事をしていたら,そんなに無茶な稼ぎ方はできないはずだ。
普通だったら,稼いだお金で豪華なクルーザーでパーティーしたり,セスナ機を買ったりするよりも,協力してくれた従業員だとか,お客さんだとかに還元してたら,そんな無駄なお金は生まれないはずだ。
だからといって,お金持ちになって,自分の好きなようにお金を使うことを非難するつもりはない。だけど,上手にお金を稼いで,上手にお金を使っている人はいいんだけど,下手にお金を稼いで,下手にお金を使っている人はどうかな,と思う。
上手にお金と付き合っている人は,決してお金を稼ぐことを重要な目的にしていないはずだと思う。誰かの役に立ちたくて,好きなことがやりたくて,やってるうちにお金が入ってきただけのはずだ。お金を稼ぐことばっかり重要だと思っている人は,誰かの役にたたなくても,好きなことじゃなくても,とにかく何かうまいことお金を集めてこようとする。そんなことで,誰かを傷つけるなんて,私には許せないことだ。
子育て考
子どもにとっていい親とは何だろう?
私が自分の親について考えるとき,思うことは
「勉強しなさい」とは1度も言われたことがないこと。
やりたいことをやらせてもらえなかったという気持ちもあるし,好きなようにやらせてもらえたという気持ちもあること。
特に好きだとは思わないが,嫌いだとは全く思わないこと。
どうも自分としてはフラットだなーと思っているが,これが案外珍しいらしく,仲がいいね。と言われることも多い。
実家からは1時間ほどの距離に住んでいるので,1月か2月に1度くらいは顔を合わす。子どもの話などをしてそれでおしまい。
高齢ではあるが,それほど大きな病気だとか介護の問題に直面していないから,仲が保てているのかもしれないが,それはわからない。
親と仲が良くない友人もいる。まあ,話を聞いているとそれなりに親の振る舞いがひどかったりするので仕方ないと思う。
親と仲が悪いことで別に問題がそれほどあるわけではないし,ダメな親とはさっさと離れることが必要だと思う。できれば物理的にも。
ただ,自分としては,子どもにとってダメな親になりたくないな,と思う。
好きなことを探せる子どもでいて欲しいし,チャレンジしたいなら何でもさせてあげたい。小さいうちはできるだけ一緒の時間を過ごしたいが(親子関係というのは必要以上に強い絆であると思うから)適度な距離感を保っていたいと思う。子どもをしかりたくない。
言うのは簡単でやるには難しいこともあるのだが。
キーボード考
長らくアップルのキーボードを使ってきた。
時々,家電量販店に出向いて,いわゆるキーボードメーカーの品物を試していた。
お気に入りは,Filcoの赤軸である。
疲れないことと,カチャカチャうるさくないのが良い。
ただ,結局アップルのキーボードをまた買ってしまった。
昔は,有線接続だったものが,無線になり,無線のテンキー付きが出てしまった。
充電式になって角度が浅くなり,うちにくくなった気はするが,こんなものは慣れである。
ただ,キーボードに満足はない。また色々と考えることになるのだろうな。
自動車考
自動車の運転が好きである。
若い頃は趣味でカーレースをしていたし,今でもスポーツカートを楽しんだりする。
そして,自家用車を運転するのもまた楽しい時間である。
数年前,カーシェアリングサービスを利用していた。
仕事柄,出張も多く,電車で出かけた先でカーシェアリングサービスが使えると何かと都合が良いからである。
値段も安く,短時間の利用であれば,レンタカーよりもずっと安い。
都市部に居住しているのであれば,普段の買い物にそれほど自家用車が必要ということもないし,カーシェアリングサービスの拠点も沢山ある。
ちょっと変わった車種を置いているステーションもあり,色々な車種が運転できるという楽しみもある。
私がなぜ利用しなくなったか。
仕事での移動の仕方が変わったというのが大きな理由ではあるが,最近カーシェアリングサービスに飽きてきたというのもある。片道移動がしにくいというのはなかなか不便だ。せっかくのカーシェアリングサービスなのに,レンタカーと差があまりないのが残念である。
パソコン考
仕事にパソコンは欠かせない。
書類の作成,メールからちょっとした調べ物まで。
私は原則としては事務所のデスクトップパソコンで仕事をする。
他には持ち運び用のラップトップがあり,軽い仕事ならばタブレットに外付けのキーボードで済ませてしまう。
ただ,最近,スマートフォンで済ませられないものかと思っている。
最近のスマートフォンはコンピューターも優秀だし,メモリもストレージもちょっとしたラップトップ並の性能である。値段もラップトップ並だが。
具体的には,iPhone7Plus辺りである。
事務所ではAppleTVを介して大型のディスプレイに接続し,マジックキーボードを繋ぐ。
外では,スタンドか何かに立てかけ,折り畳みキーボードで。
問題がいくつか。
まず,大型のディスプレイに映し出しても画面の中身がiPhoneのサイズのまま。
つぎに,トラックパッドやマウスが使えない。
特に,トラックパッドは致命的だ。タブレットで仕事をしたことがある人ならわかると思うが,カーソルの移動くらいならともかく,画面のスクロールをタッチパネルで行うのは悪い冗談である。効率が悪すぎる。
マルチタスキングもダメだ。いくつかの書類やアプリケーションを並べておくのはまだどう考えてもパソコンに分がある。
もうソフトウェアだけの問題なのだから,時間の問題かしらと思う。
子どもの教育再考
とある小学校のクラスで「医学部に行って医者になる」というのが流行りだそうだ。
「弁護士はもうダメ,看護師もいいけどやっぱ医者かな」という思考経路らしい。
冒頭部分についてはノーコメントである。
確かに,看護師も医師もすばらしい仕事だと思う。ただ,この前提となっている「勝ち組志向」というのか,その考え方がもう古いのではないか。
日本経済の先行きが不透明で暗い顔をしている大人の影響を受けて,子どもは安定志向なのだろう。ただ,子どもはとくに考えてみて欲しい。
例えば,バブル期,日本の経済状況は良かったかもしれないが,手に入れたお金で何ができただろう。
高級外車?今ならカローラと代わらない値段で程度の良いベンツでもBMWでも買える。むしろ当時のBMWに比べれば,今のカローラの方が良くできた車ではないかとさえ思ってしまう。バブル期にフェラーリに乗れた人は今でも乗れるだろうし,そもそも誰もが乗る車ではない。フェラーリで近所のスーパーにお買い物に出かけるのは苦行だろうと思う。
海外旅行?ショッピング?今ではスペインに2週間行こうと思ってもホテル代と航空券で1人7万円で済ますことも可能だ。欲しいものを何でもスマホで買える時代よりパリまで行ってブランド服や鞄を買い漁る方が高級だろうか。むしろそういうのはダサいと考えられるようになったのではないか。
家の快適性も高くなっているし,家電も何もかも全てバブル期と今では段違いである。むしろ私にはもうiPhone以前の世界を思い出すことができない。
経済状況は良くないのかもしれない。だけど,世の中は確実に良くなっている。
そして,お金を稼いでバーッと使うなんてのは古い価値観である。
フェラーリが好きで,どうしても欲しいなら,頑張って働かないといけないが,普通のサラリーマンでは相当難しいだろう。弁護士だって医師だってフェラーリに乗れるのはそんなに多くない。むしろ他の職業をおすすめしたい。
勝ち組なんて考え方はとうの昔に廃れたと思うし,ましてや未来に生きる小学生がそんなこと考えているのがショックだ。
私は,小学生が将来の職業など考える必要がないと思う。それよりもよく勉強してよく遊んで色んな可能性を感じて欲しい。
君たちが思っているよりも世の中はずっと発達していて,君たちが思っているよりも驚くような楽しい未来が待っているはずだ。
弁護士だの医師だのそんなことを考える暇があったら遊べ。
正義考
少し前の話になるが,正義について考える本がベストセラーになったことがある。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: マイケルサンデル,Michael J. Sandel,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/11/25
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元来,人の生命は換価可能な場合があったし,奴隷と自由市民について書いたハンムラビ法典の一節を例に挙げるまでもなく,人の生命の価値には差があることもあった。
全ての人の生命が等しく貴いと考えられるようになったのはそう古い話ではないし,現在でも,全ての人の生命が等しく貴いという認識は絶対のものではない。
例えば,こんな話を考えてみよう。
あなたは,電車を運転しており,目の前の線路には人がいる。ブレーキをかけても絶対に間に合わない。ただ,その人の手前に線路の切り替えポイントがあり,あなたはそれを切り替えることができる。ただ,切り替えた先の線路にも人がおり,これもブレーキは絶対に間に合わない。
これは,マイケル・サンデルが挙げた事例と同じようだが,決定的な違いがある。
目の前の線路にいる人は,あなたの1番大切に思う人である。家族,友人…
切り替えた先にいる人は,大量殺人事件を起こし,死刑判決を受けた死刑囚である。
さあ,あなたにとって,社会にとって,その価値は等しいであろうか。
当然,前提として全ての人の生命は等しく貴いのであるから,答えはイエスである。
死刑囚は,適切な手続によって刑が執行されるのでなければ,殺される筋合いはない。
そもそも,正義というのは,法律や慣習,その他の人々の共同認識に支えられたものであることが多い。
それでも人のモノを盗んではいけないということは割と意識しやすいが,例えば,道端でキャバクラの客引きと居酒屋の客引きをすることはどうだろう。
また,人のモノを盗むというのも考え出すと難しい。
無人島で狩猟採集で生活していた人がいたとしよう。その人が,文明社会に連れてこられ,八百屋の店頭においてあるバナナを見つけた。その人が果たして盗んではいけないと思うだろうか。彼がそもそも島の木になっているバナナを取ってはいけないとは思っていないはずである。もちろん,まだ十分に成熟していないバナナを取ってはいけないと思っているかもしれないが。
こういった罪についての意識,というのは,人が共同で生活していく上で生み出した共同認識にすぎないのである。それは,共同幻想といってもいい。
ヒトが何百万人も何千万人もの単位で共同生活を送るようになったのは,それほど古い話ではない。そしておそらく共同幻想を作り出さなければ,こういった単位で生活していくのは困難なはずである。
だからこそ,共同幻想を共にしない同士では,正義と正義のぶつかり合いが生まれてしまう。
私は,正義という共同幻想に意味がないとは全く思っていない。
正義と正義がぶつかり合って,人の貴い生命が失われることがなくなるように。