「武漢に来た日本人」資料室

インターネット上で見つけた資料を一時保管しておくためのブログです

『岳陽名士伝』五五八ページに「藤江勝太郎の伝」

plaza.rakuten.co.jp

2015年09月07日
藤江勝太郎の伝 藤江勝太郎は森町が生んだ「報徳の人」の一人といえよう

『岳陽名士伝』五五八ページに「藤江勝太郎の伝」がある。
君、性活発にして、すこぶる忍耐に富む。父を新蔵という。三男一女を産む。君実にその長子なり。君幼にして横浜に有り。専ら商業を修む。特に美術及び簿記に通ず。君、年十八にして商業学校を卒業す。この時にあたり、日本商会より商業学校に托して聘(へい)す。君肯(がえん)ぜず、辞して故国(森町)に帰り、専ら製茶の商業に従事す。けだし他日茶葉改良の策をはからんと欲するの志を懐けるあるなり。而して君の英敏よく機に臨み変に応じ得る所はなはだ多し。
のち、明治九年に至り我が国の製茶、米国市場に声価を墜(おと)し、非常の恐慌を来し、商業上為めに失敗するもの少なからず。君、またその損害をこうむる。すなわち憤然として、難じていわく、これ我が国茶葉の前途に一大変革を来すべきの時なりと。君かつていえるあり。我が国緑茶の産額はほとんど四千五百万斤に達す。而してその販路はただ一に米国に在るのみ。米国にして一たび需用供給の権衡を失し、往来のごとき損害を生ずることあるや、シナ台湾等の販路漸々大部を占め、これにつぐものをインド紅茶とす。これ緑茶の紅茶に□伏せらるる所以(ゆえん)にして、これを救済するは実に今日の急務とす。しかれども、よく一朝にしてこの偉大の業を成就するあたわず。ゆえにすべからく彼の国の紅茶・ウーロン茶等の製造法を研究し、もってよく我が国緑茶の産額を減じ、これをもって彼の紅茶・ウーロン茶に改製せしめ、進んでは販路を拡張し漸次英米ロシア等へ輸出するに至るべし。これ一挙両全の策なりと。聞く者、信疑相半ばす。しかれども今日すでに日本製茶会社の設立に臨み、巨万の保護を受けて紅茶・ウーロン茶等を製し、これをロシアに輸出せんとするに至れり。君の先見実に偶然にあらず。人皆その卓見に歎服すという。明治二十一年一月君慨然として単身シナに渡航し、茶葉を視察せんとし、同二月上海に到り、漢江及び湖北省羊楼筒等の各地を巡遊し紅茶製造の伝習を受け、その実況を視察す。同三月天津及び北京に至り同四月帰省す。。翌五月再びシナ及びインド、セイロン等を歴遊し、同七月香港に至り、ついで台湾淡水県擺接〔板橋は古くは擺接と称した。後に台湾語で近い発音の枋橋に置き換えられた〕に至り該島特産のウーロン茶製法を伝習す。擺接は鶏籠〔キールン〕を去る四百里の山中に在り。境を土蕃に接す。前には石壁寮山等の峰巒〔ほうらん:山の峰〕屹立し、後ろには淡水の大河あり。風光佳絶まま征(ゆく)人をして断膓〔だんちょう〕せしむるに足る。これ時八月炎熱やくがごとく華氏寒温器百二度〔摂氏三十九度〕に達す。ここに就業する四十余日、いまだ一日も寝食を安んぜず、その苦辛想うべきなり。君一夜淡水河岸を散歩す。まさにこれ清晋光緒十四年七月十五日なり。月は石壁寮山にかかり、影は淡水滔々水文の中に浮かび、うたた懐旧の情を催す。君時に国詩を詠ず。今これを録す。
梨とりて見し石壁の月もまたかく清らかに船に照りしか
実に君、孤剣異境に入り、清夜、月に感得するの情緒はけだし安座家に在るの人よりして予想すべからざるものあり。そもそも台湾内地の旅行は身に洋装をなし、腰に一刀を帯ぶ。五旬あるいは七旬の糧を齎(もた)らし、夜は矮陋〔わいろう:家が狭くてむさくるしい〕なる農家に宿す。行路中、土人の観覧する者
堵(かき)のごとく、あるいは瓦石(がしゃく)を乱打し、あるいは行路を蔽遮〔へいしゃ:さえぎりとめる〕す。これをもって死に瀕する七回、疫に感ずる三回、万辛をなめて、深く内地に入り、つぶさに製法の秘を伝う。翌十月ついに帰国の途につく。ああ君の剛胆、夷険あたかも一途のほとし。これあに凡人のよくなしうべき所ならんや。君、帰朝ののち、、シナ紅茶業巡回記事を茶業本部に提出し、しきりに製茶の改良をうながす。すなわち静岡県茶葉組合会議所事務長丸尾氏事務員多米海野の二氏等の賛する所となり、のち静岡市に伝習所を開き、つとめてその製法を拡張す。同六月君、自製ウーロン茶を宮内省に献ず。同二十三年七月第三回内国勧業博覧会よりその成績優等をもって二等有功賞牌を賜わる。

その賞状左のごとし。
   第三回内閣勧業博覧会褒賞証
         静岡県周智郡森町 藤江勝太郎
  烏龍製茶 紅茶
 二種共に香気馥郁(ふくいく)風味また美なるを以て最も外人の嗜好(しこう)に適するを徴す。加之(しかのみならず)さきに台湾に航し烏龍茶を研究して広くその製法を伝う。その有功はなはだ嘉賞すべし。

けだし君、帰朝以来製造に係るウーロン茶はことごとく英米に輸出し、大いに声価を博す。而してその価格のごときは我が国緑茶に比してほとんど一倍の増額を得るに至る。君、しきりに緑茶をして勉めてウーロン茶に改製せしむるの策を講じ、大いに世人の信用を得、勢いあたかも旭日の東天に昇るがごとし。ああ、君の忍耐にしてすなわち剛胆なる、遂に我が国製茶業上に一段の光彩を発揮せしめたりと云うべし。
西人のいわゆる霜雪に遇はわざれば春に逢わずまたいわく、山の よく巨石を穿(うが)つ。君の霜雪に忍耐したる所のもの終に日本商業史に特筆大書すべきの春色の光栄を貽(い)すというべきなり。


藤江勝太郎の伝を読むと遠州報徳の流れをよくくむ人だということを感じる。

遠州の報徳運動の特徴の一つは芋こじという相互に論議研究しあってよいものを取り入れるというところにあり、

芋こじの場は、単に報徳の研究ばかりではなく、農業改良技術を共有するところにもあった。

これは安居院庄七が遠州に報徳を広める際に関西の進んだ農業技術(定規植、薄まき)を伝えたことに由来する。


藤江勝太郎氏も、ウーロン茶製法を自分ひとりだけのものとせず、森町や静岡県全体に伝習所を設置して広くその技術を伝えようとしたのである。

これは芋こじで、進んだ農業技術を共有していた遠州報徳に由来するものであろう。

それは藤三郎が「報徳とは自分さえよければよいというのは間違いだ、人間は先人のお蔭で今こうしてここにいる。そうであるならば、世を益し、後の人のためになるよいことを残すべきである」という悟りに通じている。

また自ら製作したウーロン茶を皇室に献上して広く世に知ってもらうことは、

森町の治郎柿の献上が百年以上続いていることを思い合わせると、鈴木藤三郎氏同様に森町そのものが生んだ報徳人ともいえようか。


2017年01月11日
藤三郎、台湾で郷里の先輩藤江勝太郎に会いに行く

 藤三郎は一八九七年四月二十三日に台湾の淡水港に到着し、翌二十四日台北の吾妻館に宿を取ります。この午後台湾総督府に「藤江勝太郎氏を尋ねる」と日記に記載されています。「同氏は目下本国に帰省中なり」とあり、会えませんでした。藤江勝太郎は台湾総督府に招かれ、茶葉振興に従事し、後に森町の町長をつとめました。日本に紅茶・ウーロン茶の製法を伝え普及させた功績があります。
『岳陽名士伝』五五八ページに「藤江勝太郎の伝」が載ります。
「勝太郎の性格は活発で非常に忍耐に富んでいた。父を新蔵といい三男一女を産む。勝太郎はその長子である。勝太郎は若い時、横浜で商業を修め、特に美術及び簿記に通じた。勝太郎は十八歳で商業学校を卒業した。この時、日本商会から商業学校を通して招かれたが、勝太郎は承諾しないで故郷の森町に帰り、製茶の商業に従事した。後日、茶葉の改良をはかろうと欲する志を懐いたからである。
明治九年になり我が国の製茶がアメリカ市場で評判をおとし、価格が暴落し、商業上失敗する者が多かった。勝太郎もまたその損害をこうむった。そこで激しく憤って「我が国の茶葉の将来に一大変革をおこすべき時である」と言った。勝太郎は言った。「我が国の緑茶の産額は約四千五百万斤に達する。そしてその販路はただアメリカ一国だけである。アメリカで一たび需用と供給のバランスを失えばこのような損害を生ずることがあろう。中国・台湾などの販路は次第に多くを占め、インド紅茶がこれについでいる。これが緑茶が紅茶に圧倒される理由であり、これを救済することは実に今日の急務である。しかし、わずかの間にこの偉業をなしとげることはできない。したがって当然かの国の紅茶・ウーロン茶等の製造法を研究し、我が国緑茶の産額を減らし、その分で紅茶・ウーロン茶を製造し、販路を拡張し、次第にイギリス・アメリカ・ロシアなどへ輸出するべきである。これが一挙両全の方策である」と。聞く者は、信用する者、疑う者半々だった。今日すでに日本製茶会社を設立し、巨万の保護を受けて紅茶・ウーロン茶等を製し、これをロシアに輸出するに至っている。勝太郎の先見は実に偶然ではなく、人々は皆そのすぐれた見識に感服した。明治二十一年一月に勝太郎は心を奮い起こし単身中国に渡り、茶葉の視察のため、同二月に上海にいき、漢江及び湖北省羊楼筒などの各地を巡り紅茶製造の教えを受け、実際の状況を視察した。同三月に天津及び北京に行き同四月に帰省した。翌五月に再び中国及びインド、セイロンなどを巡り、同七月に香港に行き、さらに台湾淡水県板橋(ばんきょう)に行き、台湾特産のウーロン茶製法を学んだ。板橋はキールンから四百里の山中に在り、境を未開の先住民の土地に接する。前には石壁寮山等の山々がそびえ、後ろには淡水の大河がある。その風景は大変美しく、旅行く人を感動させる。時は八月、炎熱で焼かれるようで摂氏三十九度に達する。ここに四十日余り就業し一日も寝食を安んじなかった。その苦労を想像すべきである。勝太郎はある晩、淡水の川岸を散歩した。一八八八年七月十五日のことである。月は石壁寮山にかかり、月影はとうとうと流れる淡水の水面に浮かんで、勝太郎は懐旧の情を催し、和歌を詠じた。今これを録す。
梨とりて見し石壁の月もまたかく清らかに船に照りしか
実に勝太郎はひとり母国を離れ、清らかな夜に月に感得する情緒は家に安閑とする人の想像ができない。そもそも台湾内地の旅行は身に洋装をまとい、腰に一刀を帯び、五十日または七十日分の食料を持ち、夜は狭くてむさくるしい農家に宿泊する。行く道々で、先住民は石を投げかけ、行く道をさえぎった。このために死に瀕すること七回、病気にかかること三回、多くの苦労をかさね、深く内地に入り、詳しく製法を習った。翌年十月ついに帰国の途についた。ああ勝太郎の剛胆は順境逆境でも志を変えなかった。どうして凡人のよくなしうるところであろうか。勝太郎は日本に帰ってのち、中国紅茶業の巡回記事を茶業本部に提出し、たびたび製茶の改良をうながした。すなわち静岡県茶葉組合会議所事務長丸尾氏事務員多米海野の二氏などの賛成するところとなり、のちに静岡市に伝習所を開いて、その製法を拡張した。一八八九年六月に勝太郎、自製ウーロン茶を宮内省に献じた。明治二十三年(一八九〇)七月第三回内国勧業博覧会からその成績優等により二等有功賞牌を賜わった。
その賞状は次のとおりである。
 第三回内閣勧業博覧会褒賞証 静岡県周智郡森町 藤江勝太郎
  烏龍製茶 紅茶
 二種共に香気ふくいく風味また美なるを以て最も外人の嗜好に適する。しかのみならずさきに台湾に渡航しウーロン茶を研究して広くその製法を伝えた。その有功はなはだ嘉賞すべし。
勝太郎は帰国以来製造に係るウーロン茶はすべてイギリス・アメリカに輸出し、大いに声価を博した。そしてその価格は我が国の緑茶に比べてほとんど一倍の増額を得るに至った。勝太郎はしきりに緑茶をウーロン茶に改製する方策を講演して、世の人の信用を得て、その勢いは旭日が東の空に昇るようであった。ああ、勝太郎の忍耐・剛胆はついに我が国の製茶業上に一段の光彩を発揮させたというべきである。霜や雪にあわなければ春に逢わないとかいうが、勝太郎の霜雪に忍耐したところはついに日本商業史に特筆大書すべき春色の光栄を残したというべきであろう。

1887年(明治20年)武漢に行った最初の留学生-藤江と可徳

https://www.koryu.or.jp/Portals/0/images/publications/magazine/2019/10月/06_cha.pdf

可徳乾三は1887 年に官費留学生として中国の漢口に渡り、 当時ロシア向けに作られていた志那風紅茶(紅磚 茶)の製造法を学んで戻った。

 

藤江は 1887 年に私費で中国湖北省、漢口に製茶修行の旅に出た。当時の漢口はロシアを 筆頭に各国商人が茶葉争奪戦を繰り広げるなど、 茶の一大貿易拠点となっており、茶の輸出を学ぶ と同時に、ロシア、シベリア向けの紅磚茶(紅茶 の粉末を固めたブロック型の茶)の製法を学ぶの に最適の場所であったと思われる。この紅磚茶製 造知識が後に台湾で生かされていくことになる。


因みに日本紅茶の祖と称される多田元吉も明治初期、インド視察の1年前に漢口を含む湖北省を訪れており、この付近の茶業を視察している。現在中国茶業の中心は福建省浙江省などだと思われているが、当時の漢口は、中国茶業最大の拠点中国 漢口 当時輸出されていた茶葉の一つであり、湖北省湖南省は茶葉供給基地と して大きな役割を担っていた。

長谷川テル・長谷川暁子の道 ⑦

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ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、私より若いが、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「清」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。


 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

  長谷川暁子の母、長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子の著作『二つの祖国の狭間に生きる』、『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』、家永三郎編『日本平和論大系17』長谷川テル作品集、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」を中心として記す。詳しくは、ぜひ長谷川暁子氏の著作をお読みいただきたい。

 

     (以下今回)

 しかし、中国では彼女は「平和の鳩」と呼び、エスペラントを通じて中国の人たちと真の友愛と連帯をかちえたまれな日本人として遇された。また当時中国で活動していた安偶生(注:1909年ハルビンにおいて伊藤博文を暗殺した安重根の甥)は、「平和の鳩 日本の女性エスペランチスト ヴェルダ・マーヨに捧ぐ」という詩を書いた。

 「平和の鳩」と題する安偶生の詩は、中村浩平氏によると次のようなものである。

  戦争で気が狂ってしまっている東洋で
平和なあなたは,狼や蛇を前にした羊のように,
もがきながら,しかし勇敢に,すべてを読み
取っている。

あなたの心の深くには正しく設計図があり,
そしてそのようにあなたは祖国を去り,
両親や,すべての人を捨ててきた,まるで空
の果てへと飛んで行くかのように,

いつも人類にふさわしい,平和な生活を
あなたはいつか彼らに与えるであろうと,か
たく信じて。

いまメガフォンの前であなたは
あなたの同胞に真実を告げている―あなたは
予言している。
あなたの声は,おだやかではあるが,すでに
雷鳴を呼び起こすには十分であることを。そ
して箴言をあなたは贈る

良心が健全のままである人びとに。
あなたの声がむだになることはありえない,
それはきっと,苦痛を生み出した,
血に酔った心をずたずたに引き裂くであろう
から。

さて,いったいなにを私たちはあなたに望め
るのだろうか,友よ。
あなたは,海を越えた国からの平和の鳩だ!
そうだ,あなたはただ籠から逃げて来ただけ
ではなく,青春の熱い渇望のために,
無気力な人間のように,留まってはいられな
かった

桜の国に疲れはて荒廃した人々とともに。
ああ,マーヨよ秋の取り入れのために元気い
っぱい緑一色になれ
いま恐ろしく灰色で,太陽のない野の上で。

 

 メガフォンの前で告げる彼女の言葉は、同胞の胸に「雷鳴」を呼び起こしていると。そして「灰色で、太陽のない野の上」に元気いっぱいの「緑一色」をと、彼女を讃えた。

 彼女の武漢での活動は三ヶ月であったが、テルはこの期間はいかに興奮し生き生きとしたことかと感じていた。

 その後、桂林から重慶に入ったのであった。そしてこの重慶において、1938年から1945年までを過ごすことになった。

 1941年にテルが周恩来(注:のち毛沢東時代の中国首相)に会ったとき、周恩来は「日本帝国主義者はあなたを”嬌声の売国奴”と言っていますが、あなたこそが日本人民の忠実な娘であり、愛国者です」と言い、それを聞いたテルは、感動し最大の激励と受けとめた。 

 こののち、テルは郭沫若(注:中国の政治家、文学者、詩人、歴史家。日本に10年近く住み、日本人佐藤とみとの間に五人の子供をもうけた。四人の息子はいずれも中国の要職にある。娘の娘は国士舘大学教授藤田梨那)の「対的文化工作委員会」に移った。

 1941年11月16日、郭沫若はその文学活動25周年記念会で、テルに自作の詩を書いた絹のハンカチを贈った。そして彼女の活動を「暗闇の中の一点の灯火」と称えた。

 それは次のようなものである。

 茫々四野濔暗闇  歴々群星飛九天
 映雪終嫌光太遠 照書還喜一灯妍

 長谷川暁子の訳によると、

 茫々たる四野に暗闇が広がり、歴々たる九天に群星が輝き、雪を映ずるには光が遠す  ぎ、書を照らすには一燈の妍が有り難い

となる。

 1941年の暮れ、劉仁と長谷川テルとの間に男の子が生まれた。長谷川暁子の兄劉星である。劉星とは、劉仁とテルにとって、希望の星となるよう願って命名したものであった。

 劉仁とテルの二人には苦難の時であったが、内戦の危機さえはらんでいた、重苦しい重慶時代を乗り越える力にこの子はなった。

 またこの年長谷川テルは、石川達三の『生きている兵隊』のエスペラント語訳を発行した。

 (注:石川のこの作品は、1937年の南京事件直後に、中央公論社の特派員として南京入りした石川が見聞した状況を記したものである。日本ではその四分の一が伏せ字、削除され、即刻発売禁止となった。しかも石川は禁固四ヶ月に処せられた)

 さらに長谷川テルの散文集『嵐の中のささやき』も発行された。この作品は、上海時代以後のテルの回想記である。テルが自分の肉声で、その活動と思想と遍歴を記したもので、これを聞いた夫劉仁は大変喜んだという。

 ところで、1938年漢口において日本軍への、戦争の無駄なことを放送した日本人は、長谷川テルだけではなかった。テル以外は、岡村信子、白濱アサエ、原野歌子の三人であった。実は彼女らの夫らは国民政府、国民党の要人であり、身元を保証されてアナウンサーになったのであった。

 しかも、テルを除く彼女ら三人は中国籍を得ており、中国名を持っていた。その点彼女ら三人は、夫が中国人であるから、職員として”職務的”やっていたという感じであったという。それに対して、長谷川テルは決して中国に帰化しようとはしなかった。

 それゆえ、長谷川テルの放送には、反戦放送に対する熱意と態度がまるで違っていた。この放送をすれば、もう祖国には帰れないという強い決意のもとに放送を敢行したのであった。 

長谷川テルと周恩来

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1941年

6月重慶『生きている兵隊』エスペラント釈を発句。

7月重慶文化人の会で周恩来 が『日中両国民の忠実な愛国者と称時。

 

『生きている兵隊』は「武漢作戦」で有名な石川達三の作品。


http://jcfaosaka.org/down-shiryou/hasegawateru-kenshou/terunews/20190320terunews001.pdf

1945 年 33 歳 『闘う中国で』5 月出版。 ついに 8 月 15 日日本敗戦。たいまつ行列に参加。
9 月 11 日『新華日報』にテル「岐路に立つ日本」を執 筆、「日中戦争の失敗を全く認めない」降伏文書を 批判―日本が再び歩みかねない危険な道につい て警告を発した。国民党による内戦への動きを食い 止め東北満州の復興に参画するようという周恩来 の要請に従い東北に向かう。

ダンスの戦争責任 ~1940年 戦時下の舞踊家たち~

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日中戦争が始まるとまもなく陸軍や海軍の恤兵部(軍隊への寄付、慰問物資の送付、慰問団の派遣などを行う軍の部署)が、中国や満洲に展開する軍のもとへ慰問団を派遣した。吉本興業朝日新聞社と共同で慰問団を派遣したり、淡谷のり子や森光子も慰問に行っている。舞台に関わる者たちはこぞって慰問に出向いた。舞踊家たちも例外ではない。江口隆哉と宮操子も、二十歳前後の教え子たちを引き連れて1939年から4年間、前線への慰問に毎年行っている。

 1939年10月24日~12月25日 広東周辺と海南島
 1940年 2 月 1 日~ 4 月 3 日 漢口周辺 (漢口は現在の武漢
 1941年 2 月11日~ 4 月24日 再び漢口周辺
 1942年 6 月29日~12月末 シンガポールを拠点に、ビルマ、タイ、マレーシア、インドネシア

 これらの訪問地は、当時の日本軍の最前線に相当する。最前線で疲弊している兵士を慰撫し、士気を高めるために、恤兵部は江口・宮たちを送り込んだのだろう。
 かれらの行程を写した写真がかなりの枚数残っている。同行した軍のカメラマンが撮影し、江口と宮に軍から渡されたものだろう。100枚を越える写真に写っているのは、若いダンサーたちの屈託のない笑顔だ。戦時下の慰問の写真だと知らなければ、観光旅行のスナップ写真に見えるようなものも多い。もちろん、前線を巡る慰問は非常に過酷なものだったようだ。しかも、ものすごい過密スケジュールで移動している。たとえば、1940年の2月のある日の様子を宮操子の著作や江口隆哉の慰問手帖などでたどってみよう。
 上海から長江を船で遡り、南京を過ぎて到着した武漢を拠点にして前線慰問をしていた宮たちは、24日、軍が接収したおんぼろバスで数十キロ走って広水に着く。翌日、午前10時と正午からの2度慰問舞踊。集まった兵士はおよそ2000人。上演が終わると、京漢線(北京と漢口を結ぶ鉄道で、信陽までは日本軍の支配下にあった)で信陽へ向かう。列車内の様子を宮は次のように書いている。 「どの顔にも申し合せたやうに、連日の強行軍の疲れがはつきりと現はれてゐるのでした。私自身も、貨車の壁に身をもたせかけて足を延ばすと、もう目を開けて居るのも億劫なほどのけだるさを感じてゐました。」(『戦野に舞ふ』p.158)
 途中の駅には、近くを警備している守備隊の兵士たちが、彼女たちが来ていると聞いて集まっていた。その場でせがまれて歌を歌ったりしながら、午後8時に信陽に着く。次の日の慰問のために夜中の1時まで練習。翌26日には、午前10時と午後2時から慰問舞踊。兵士はあわせて2000名。
 鉄道がない前線へは、軍が用意したトラックや戦車で移動した。1回の上演は40分位で、集まった兵士は1000人から2000人ほど。もちろん、劇場などないので、兵士たちが即席で作った舞台が多かった。1940年の2ヵ月の慰問で、上演回数はおよそ60回、それを見た兵士はおよそ5万人。移動距離は、漢口(武漢)に着いてから漢口に戻ってくるまで、ほぼ1000km になった。
 その頃、中国戦線は既に硬直状態に陥っていて、占領地域をかろうじて守備しているだけで、兵士の士気もあがらなかった。だからこそ軍は慰問団を次々と送り込んで兵士の士気を維持しようとした。兵士たちはそれで癒されただろうし、舞踊家たちはダンスを見てもらうことができた。その意味ではそれぞれが満たされたともいえる。でももちろんそれは、多くの人びとを蹂躙するための行為につながるのだ。
 私たちは舞踊家たちの戦争責任を問わなければならない。

 

www.d-1986.com

南方徴用作家

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34367/1/20_PR5-31.pdf

 

<漢口従軍>

久米正雄片岡鉄兵川口松太郎尾崎士郎丹羽文雄、 浅野晃、岸田国士瀧井孝作、中谷孝雄、深田久弥佐藤惣之助、富沢有 為男、林芙美子白井喬二杉山平助菊池寛佐藤春夫吉川英治、小 島政二郎、北村小松、浜本浩、吉屋信子

兵士のアイドル :幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争

rnavi.ndl.go.jp

旬報社/2016.6.

当館請求記号:UM84-L50


目次


[目次]

  • はじめに
    3
  • [第1章]
    元祖アイドルと幻の慰問雑誌
    19
    • 子役からセンターに躍り出る
      21
    • 学徒出陣の前に「まっちゃん」に逢いたい
      25
    • 戦地慰問で託された手紙
      29
    • 戦場でアイドルと出会うメディア空間
      33
    • 創刊号が作られた時代
      35
    • 実は裏をかかれた徐州作戦
      36
    • 戦況によって変化するアイドルグラビア
      38
    • 創刊号を彩る美しきアイドルたち
      39
    • ブロマイド人気ナンバー1・桑野通子
      40
    • 幻のダンサー・若山博子
      46
    • 皇国女子宣言・霧立のぼる
      46
    • 永遠の処女が真心込めて作る慰問袋・原節子
      54
    • 誌上慰問団の面々・新橋小文、槇扶佐子、市川春代
      56
    • ブームの慰問に乗り遅れまいとするアイドルたち・飯塚敏子、市丸
      59
    • アイドル再び、ゴシップ満載ページ
      63
    • アイドルの名と人気で選ばれていた「映画物語」
      65
    • 天下の悪法、映画法成立
      67
    • 二色ページは銃後アイドルを戯画化
      68
    • 兵士人気が高い舞妓の作る慰問袋
      70
    • 国内に比べて表現には緩い措置
      74
    • 「漢口広東陥落記念号」の中のアイドルたち
      77
    • 日中の懸け橋としての女優活用
      80
    • 李香蘭、『陣中倶樂部』ではカタカナマジリの慰問文
      90
    • アイドルは恤兵(じゅっぺい)係の看板娘
      92
    • どこまでも攻め、どこまでも勝ってくださいね
      95
    • ブロマイドを求める声・声・声
      97
  • [第2章]
    慰問雑誌発行の背景
    103
    • 軍部の慰問戦略
      104
    • 恤兵部とは何か?
      104
    • 恤兵部の誕生
      108
    • 戦争の推移と恤兵金・慰問袋
      110
    • 低下する恤兵熱
      112
    • 漫画家による恤兵ルポ
      115
    • 太平洋戦争と恤兵
      119
    • ロッパと夢声の反応
      122
    • 『陣中倶樂部』最終号の恤兵記事
      125
    • 慰問雑誌というメディア-軍都が発行した慰問雑誌
      127
    • 慰問雑誌『恤兵』の創刊号と「五日會」
      130
    • 『恤兵』創刊号にアイドルの姿
      135
    • 『恤兵』のその後
      138
    • 「恤兵部便り」の持つ意味
      140
    • 『恤兵』の中の女性像
      141
    • 『陣中倶樂部』、大日本雄辯會講談社に編集委託される
      143
    • 『陣中倶樂部』創刊号の誌面
      146
    • 『陣中倶樂部』のアイドルたち
      149
    • 創刊のもう一つの背景・興亜日本社
      151
  • [第3章]
    新体制運動とアイドル像の変容
    159
    • 皇紀二千六百年記念号」は大女優一人
      160
    • 主役は街の、村の、美形へとシフトチェンジ
      161
    • 人々は生活刷新に期待をかけた
      163
    • グラビアも南方進出
      167
    • ほほ笑むだけのアイドルから新体制を語るアイドルへ
      170
    • 若い娘が新体制生活を語る座談会
      171
    • 浮いた会話を追放する花柳界
      173
    • 自粛が委縮になってはつまらない
      175
    • 銃後をフォローするために『銃後讀物』発行
      179
    • 『戰線文庫』と『銃後讀物』の誌面上の相違点
      182
    • 軍人に愛されたアイドル作家の死
      186
    • 軍服の一団
      190
    • 心血を注いだ慰問文集の制作
      193
    • 天下の美人
      198
    • 女性の公器『女人藝術』
      200
    • 創刊から廃刊までの顚末
      201
    • 新聞ジャーナリズムの偏見に屈せず
      204
    • 全女性の表示板『輝ク』
      207
    • 一九三三年という時代
      208
    • 戦争が反映されない誌面
      210
    • 皇軍慰問号」における時雨の立ち位置
      212
    • 皇軍慰問号」への反響
      216
    • 休刊の後の翼賛
      219
    • 「輝ク部隊」結成
      221
    • 婦人団体との連携
      224
    • 文化人の特権を生かした慰問活動
    • 漢口陥落と時雨、芙美子
      228
    • 女だけの文筆慰問
      231
    • 慰問文集誌面概要
      234
    • 幻になった陸軍慰問文集第二弾
      241
    • 座談会に登場したアイドル軍団
      242
    • 突然話題の人へ
      247
    • 慰問文集と慰問団に歓喜する兵士
      249
    • 時雨のラストステージ
      251
    • 絶頂の最中の死
      253
    • 太鼓を鳴らして、笛を吹き
      254
    • アイドル時雨と野間、菊池の戦後
      257
  • [第4章]
    戦場に飛び出したアイドルたち
    265
    • 誰でも、戦地慰問に行けた
      266
    • 慰問の実態はどうなっていたのだろう
      268
    • 慰問に男性はいらない、女性を寄越してくれ!
      269
    • 中国の兵士の胸にもブロマイドが?
      271
    • 黄門様月形龍之介と日活のアイドルたち・慰問座談会(1)
      273
    • 女性は戒心すべきとき
      276
    • 匪賊の襲撃にあった芸能界の重鎮たち・慰問座談会(2)
      277
    • 銃弾に倒れた慰問の犠牲者
      280
    • 失敗談も終われば笑い話に
      282
    • 抱腹絶倒、戦線を爆笑させた話・慰問座談会(3)
      284
    • 遺骨を前に泣きながら歌う
      286
    • 慰問で困ったこと、悩まされたこと
      288
    • 宝塚少女歌劇団の慰問ステージ
      294
    • 暗黒の時代の宝塚
      295
    • 宝塚にはバクダンヲオトサナイ
      297
    • ターキー誕生
      300
    • ターキー北支へ
      301
    • 海軍贔屓なターキー
      303
    • 原っぱで、墓前で唄う、流行歌手・市丸
      306
    • 死に際の兵士、機関車を見送りながら唄う兵士
      308
    • 新人歌手・森光子の慰問
      309
  • [第5章]
    慰問雑誌の終焉とアイドルのラストステージ
    315
    • 終戦間際の慰問雑誌とアイドル像
      316
    • 漫画ルポが映し出す終戦前年の撮影所
      316
    • 戦争末期の『銃後讀物』
      328
    • 軍部に覚えめでたい女性作家たち
      331
    • 海軍のアイドル作家、真杉が見た江田島陸軍兵学
      334
    • 特攻隊員から届いたブロマイド
      339
    • 岐阜で発見された『戰線文庫』第七七号
      340
    • 『戰線文庫』第七七号とは
      343
    • グラビアのトップは弾けるように笑う農家の娘
      345
    • 笑いのアイドル・ロッパ
      347
    • 増産に励む人々へ移動慰問公演
      350
    • 慰問雑誌の幕引きは二名のアイドル
      351
    • 敗戦を予感させる『陣中倶樂部』最終号の表紙
      355
    • 防空壕から顔を出すアイドル
      356
    • 終戦後の興亜日本社
      360
    • 強い母親から、意志を持った女性へ
      364
    • 「民主主義とは何ぞや」と語る小夜福子
      366
    • 映画の女王、栗島すみ子の舞踊は即生活
      367
    • あとがき-平和に向けてのアイドルの戦い
      372

 

「めし」で読み解く林芙美子(9)盧溝橋事件後「漢口一番乗り」 南京に続き「女われ一人」骨太の人生

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林芙美子は逸話の多い作家だ。

 世に出るため男を次々と変えた女。夫ある身で奔放な恋愛に身を委ねた女。恩義のある作家に背を向けた。作家仲間の原稿を預かったままお蔵入りにした。後輩作家が注目されるのがいやで、雑誌の連載を片っ端から引き受けた。

 筆一本で世に出た女性に向けられる好奇の目は強い。何が本当のことで、どこまでがフィクションなのか。数多く書かれた芙美子に関する評伝や、それらをもとにした映画や舞台上のエピソードが、時代を超えてひとり歩きする。

 もっとも、葬儀であいさつに立った川端康成の言葉は大いに憶測を呼ぶ。

 「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、あと1、2時間もすれば骨になってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか、この際、故人をゆるしてもらいたいと思います」

 最後の言葉を繰り返して頭を下げたと伝えられている。

 数多い逸話の中でも、いかにも芙美子らしい話が「漢口一番乗り」ではないだろうか。

 昭和12(1937)年の盧溝橋事件を契機に日本は日中戦争に突入した。社会全体に軍事色が濃くなる中、作家たちにも協力要請が届く。芙美子はペン部隊として戦地に赴いた。とりわけ昭和13年10月、激戦地の漢口に入った「漢口一番乗り」は世間の大きな注目を集めた。このときの経緯が面白い。

 芙美子は内閣情報部による「ペン部隊」の一員として中国に渡った。著名作家20人余りが参加したが、菊池寛を団長とする海軍班と久米正雄を団長とする陸軍班にわかれ、芙美子は陸軍班だった。

 すでに前の年に毎日新聞従軍特派員として南京を訪れ、「女流作家一番乗り」として原稿を送った経験のある芙美子は、今回は単独行動をとり、さらに注目の地をめざそうとした。集団から離れ、前線に向かう部隊に同行し、途中から朝日新聞の特派員とともに行動して苦労の末、現地に入ったのだ。

 「女われ一人・嬉涙で漢口入城」と朝日新聞に華々しく一番乗りが報道された。帰国した芙美子は熱狂的に迎えられ、各地の戦況報告会は大盛況だった。これを他の作家は当然苦々しく見ただろう。とりわけ久米正雄は、毎日新聞の文芸部長として文壇の実力者だっただけに、団長としても顔をつぶされた形で、長らく芙美子は毎日新聞から閉め出されたと当時の関係者が述べている。

 

そうした周囲の嫉妬や弾圧をものともせず、自分の思うところを直進するのが芙美子の真骨頂。

 芙美子はその後も陸軍報道部の要請で「南方視察」などに参加しているが、そうした行動から芙美子を「戦争協力者」として断罪する声が戦後聞かれたが、それあまりに早計だ、と「林芙美子の昭和」で川本三郎は当時の作品などから検証している。

 「芙美子は社会の底辺にいる人間に寄りそいたいという立場の作家。当時は兵隊という大衆に寄り添ったのであって、精神の庶民という点で戦前も戦後も一貫している」

 林芙美子には常に誤解や混乱が付きまとう。

 強烈な個性は時代を経るにつれ、光を放つ。

 「林芙美子を語る口調にはどこか蔑みの色彩がある。それは行商人の娘として育ち、底辺からがむしゃらにはい上がってきた作家の生い立ちに関係するだろう」と林芙美子研究家の今川英子さんは語る。

 芙美子自身も、その生い立ちに自分を縛ったこともあったのではないか。それは、絶筆となった「めし」というタイトルにつながる建築家の白井晟一(せいいち)との恋。異国の地で燃え上がった恋心を、芙美子はこんな思いで封印した。

 帰国後に書いた「一人の生涯」で芙美子はパリの恋の終わりを描いているが、作品の最後にこんな詩を載せている。

 「菓子盆へいれて綺麗にながめて食へばよいものを わたくしは台所へ立って盗人のやうに菓子を食ってゐる(中略)不作法な“自由”がわたしにはのぞましい 生きてゐることが本当だったと云ふやうな皮膚の痛さで 誰かどうんと殴ってくれないものだらうか」

 裕福な家庭育ちの相手とは、私の生きる道は違うのだ。その生きる道とは「不作法な自由」。「生きていることが実感できる自由」。

 骨太の人生を生きた芙美子の生き方が、いまも私たちを強く揺さぶる。

林芙美子の文士慰問団での訪中

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原精一のアトリエを訪れたことのある人なら、誰でも一瞬、唖然とし、そして惘然となるであろう。そこは、乱雑をきわめている。いったいに画家のアトリエはきれいではないし、雑然としているものであろうが、原精一のそれは並はずれて乱雑である。しかし、一歩そこへ足を踏みこむと、文字どおり足の踏み場もないが、つま先立ってそのなかを数歩あるいてみると、画家原精一の世界、というべきものを全身の皮膚をとおして感じさせられる。

 そんなアトリエの片隅に、古ぼけた段ボールの小さな箱があった。蓋があいていて、そこから数枚の黄ばんだ粗末な紙片がはみでていた。手にとってみると、そこに、中国の風景らしきものが荒々しく描かれていたり、地面に横たわっている兵士の姿が鉛筆をつかった早い線描で描かれたりしていた。

 絵具と油のにおいのただよう乱雑をきわめたアトリエのなかで、阿修羅のようにキャンバスにむかっている原精一の姿と、弾丸の乱れとぶ戦場を這い回る原精一の姿と、そして戦いがやんでまだなお戦塵のくすぶる荒れはてた光景のなかに小さな紙片と鉛筆を持って仁王のように立っている原精一の姿とが、ひとつになってここに浮びあがってくる。

 原精一は、日中戦争から太平洋戦争の8年間のあいだに、二度にわたって召集をうけ、一兵士として戦場をさまよいながら、その間に数百枚のスケッチを描いているのである。このあいだには、画家として軍の報道部に属したこともあるが、一兵士にして画家であった、兵士でありながらその間にも画家でありつづけた、ということをこの数百枚のスケッチは示している。それは従軍画家による戦争の記録画ではない。兵士にして画家であった画家のデッサンである。本展が「戦中デッサン展」と題される理由がそこにある。

 原精一は、日本の洋画家のなかでおそらく最も個性的な画家であった萬鉄五郎の数少い弟子のひとりである。いや、唯一の弟子といってよいのかもしれない。原精一の交友関係は幅広く、それは美術関係だけでなく文芸・学芸の各界にまたがっていて、それぞれの世界に師友ともいえる人たちがいると思われるが、その原精一にとっても真実に師とするのは萬鉄五郎ひとりであろうと思われる。といっても、大正末期の原精一の初期から現在までの作品を通観しても、様式や描法のうえで萬鉄五郎のそれと共通するところはほとんどみられない。萬鉄五郎フォーヴィスムやキューピスム、知的な分析やセックな(かわいた)詩情といったものを原精一の画面に見出すことはほとんどないであろう。こうした直接的な投影でない、おそらくもっと原初的な、根深いところでの両者の結びつき、原精一から萬鉄五郎への精神的な帰依のような関係であろうかと思われる。しいて両者の類似を見出すとすれば、南画精神とでもいうべきものではないかと思われる。芸術に対する態度、外界の事象に対しての態度、精神のリズム、韻律といった人間の根源的などこかで原精一は萬鉄五郎へ帰依を己のなかにもっているように思われるのである。原精一が少年時代に、萬鉄五郎の作品に初めて接して、「金縛りにあったように全身が震えて立ちすくんだ」という感応、どこがどうしたとは説明できない感応、それ以来の師弟の関係のようである。原精一がその師を喪ったのは、昭和2年、19歳のときであった。

 原精一が日中戦争に召集をうけたのは昭和12年8月である。7月7日の蘆溝橋事件から1ヶ月あとのことである。師萬鉄五郎の死から従軍までの10年間の原精一、19歳から29歳、人間形成の重要な時期である。この間、原精一は美術学校への進学を放棄、ひたすら画家への道を歩みながら青春の彷徨をつづけている。中学時代からの友人鳥海青児、森田勝1930年協会を通じて知己となった林武、野口弥太郎、図画会での梅原竜三郎といった先輩画家たちとの交友があり、さらには阿部次郎、児島喜久雄といった学者、また一方では尾崎士郎尾崎一雄林芙美子山本周五郎といった文士らとの親しい交友もはじまっている。このころ、原精一は「怪童丸」と綽名されてまだ若き文士らに愛されている。とくに林芙美子とは、林の夫の手塚をとおして親しくし、林芙美子があの『放浪記』を書いた住居のあとを借りうけて原精一の結婚生活ははじまっている。『放浪記』で富裕になった林芙美子はなにくれとなく原精一を支援したし、原精一の最初の日中戦争従軍にはわざわざ原の戦陣にまで訪ねていっているのである。

 近衛工兵大隊の輜重兵となった原精一は入隊するとすぐに中国出兵に加えられ、戦場へ赴くことになる。中国との全面戦争(Full Scale War)開始の最初の戦闘の場にたたされている。揚子江河口、呉淞鎮の敵前上陸に参加、戦史によれば日本陸軍第3師団の呉淞鎮、第11師団の川沙鎮北方地区への上陸は、昭和12年8月23日であったという。原精一の戦中デッサンは、おそらくこのときからはじまっているにちがいない。

 今から3年ほどまえに、原精一の回想記を数回にわたって開いたことがあるが、上海・呉淞鎮上陸時のことを原精一はつぎのように語った。

 「いかなる犠牲を払っても敵前上陸を敢行すべし」という命令がでたのだ。ぼくは30分生きたら長生きだと思いましたね。でも30分もたない……油汗がダーッと出てきましてね。怖いのなんのって、初めてですからね。この怖さのなかで、船の上から見える風景を描いた、すると急に落着いたです。どうせだめなら、絵を描いてる最中にすっとぶのなら絵描きとして本望だと思いましてね。そしたら船を這いずって小隊長がやってきて「やめろ!弾がくるからやめろ」と言うんだ。ここでやめたら俺は凱旋するまでこの小隊長の言う事をきかなくちゃいけない、と思ったんです。小隊長は這いずって逃げていっちゃったんで、2枚描いた。おちつくにはこれに限る、と思いました。」
 兵士にして画家、原精一の出現である。そして、いくつかのことがあって、班長であった原精一は、「どうもあの班長は、なんにも軍隊のことは知らないらしいけど、あの班長の言う事をきいてりゃ、弾がこないな-」と評判になったという。

 以降、原精一は、南京、徐州、漢口、武昌へとすすんでいる。その間、原精一の軍事郵便の葉書は、ほとんどスケッチ、デッサンのための画面と化した。また、紙を拾い、墨を拾って描きつづけたようである。原精一の談話を開いてみよう。

--原さんは、現役の兵隊である訳でしょう。そのなかで、どうやって絵を描いていたのですか。

--僕は下士官だからね。まあ、たとえば昼になって、皆で飯を食う。飯を食ってたら、スケッチできないから飯を食わないで僕はスケッチして歩く……要するに、時間割そのものは軍隊の時間割だから画人(原精一)としては、飯を食う時とか、ちょっとした余暇に描くとか……その時に、軍務だけやるヤツはつまんないヤツだと思ったね、僕は。……それは、もう、いかなる時でも、僕は鉛筆を持って弾に当たってすっとぶなら光栄だと思ったよ。それとね、不思議なことに、これだけ一生懸命やってるのに、武人の神様はどうでもいいけど、ミューズの神は助けてくれるだろうと、僕はずっと思ったね。で、もし僕の仕事がダメならば、ミューズの神がみはなして、弾に当って死んじゃうな、と思ったな。
 林芙美子が戦場の原精一を訪ねたのは昭和13年10月半ば、漢口占領の直前であった。林芙美子はこのとき、「文士慰問団」の一行に参加して久米正雄らとともに第36旅団長牛島少将、第6師団長稲葉中将らに続行して漢口へきたのであった。文士慰問団は、漢口攻略部隊となった第6師団第23連隊の出発を手を振って見送ったという(児島襄『日中戦争』)。このころ、日本の兵士たちのあいだにはマラリアが流行し、疲労と高熱で夢遊病者のような兵士たちが必死になって進軍していたと戦史はつたえている。原精一もまた第6師団に属し、渡河材料隊員の曹長として掲子江溯行作戦に加わっており)、またマラリアに罹って朦朧としていたとのことである。1年ぶりに再会した両者は、それでも、「絵の話、文学の話、戦争の話、支那の娘の話」をしたと林芙実子はつたえている(「原さんの性格」)。どうやら、2人とも、硝煙弾雨の戦場にいながらも、自己の本然を忘れることがなかった。原精一は、漢口攻略の3ヶ月後、武昌において、それまでに描きためたスケッチを陳列して、戦場での展覧会さえ開催しているのである。稲葉師団長はこれを観覧に訪れたという。

 召集をとかれて一度帰還した原精一が再度の召集をうけたのは昭和18年1月であった。このときは日米戦争の前半とはもはや明暗を異にしようとしていた時期であり、南方への派遣、それも原自身、ビルマヘの派遣を希望したという。シンガポールまで赴いた原精一の参加部隊はほぼ半年間その地にとどまり、そこから陸路、タイの国境を超えてビルマへすすんでいる。原精一がとりあえず配属されたのは自動車隊の材料廠であった。タイからビルマヘすすんだ原精一は、さらにインパールヘとはこばれる。インパール作戦の壮大な失敗については数多く語られているが、英印連合軍側の近代兵器による圧倒的な攻勢に転進という名の敗退を余儀なくされた日本軍の惨状もまた数多く語られている。原精一の場合でも、戦闘そのものの恐怖感はうすれていたとしても生死の境界をさまよう事態を両三度にわたり経験することになる。あるときは戦友に、あるときはビルマ人に助けられ、また最後は自己の気力と精神力によって生きぬいてきたというほかないであろう。ここでも原精一自身の回想の談話をきいてみたい。

--時々ね、大きい葉っぱを見ると思いだすのだ。それが何の木で、何という葉っぱか分らないけどね。大きい葉っぱが2枚あったんです。葉っぱがあるなと思ってね見てた、確かに2枚あった。1枚が落っこちたのかね、たった1枚になったのね。そこにかくれてダメになったのよ、人事不省に。そしたら太陽が動くたびに影が動くんだね、そういう自然の、地球の神秘を体得したとでもいうのかな、だからおそらく人事不省になっても無意識のうちにときどき影を日影の方へ動いていたんだね、それでビルマ人に助けられたんだ。
 敗退する飢餓街道は酸鼻をきわめた。原精一の記憶も完全ではないが、その部分、部分は鮮明であり、ここでも原精一は画家であった。体力の消耗と飢餓のなかでの徒歩の敗退行進で、身につけている荷物はすべて捨てさった。それでもチビた鉛筆数本と小さい紙切れをポケットにしまって歩くのである。疲れきって一度腰をおろすと、どうしても立てない。そこでポケットからチビた鉛筆を取りだして静かに地面におく。そしてようやく立ちあがることができた。それを繰り返し、繰り返しては歩きつづけたという。如かい1本の鉛筆をそっと地面において、身に、心にはずみをつけては立ちあがる痩せた画家の姿を想像するだけに鬼気せまる思いがする。原精一の言葉をかりていえば、ミューズの神も原精一をみすてなかったように、原精一も死に直面してもミューズの神を捨てることに頑強に抵抗しつづけたのである。

 さきに記したように、原精一の戦中スケッチは、戦争の記録画ではない。戦場で軍務に服しながらも描かずにはいられなかった兵士である画家のデッサンである。それゆえに、従軍画家が軍当局の要求のまゝにか、あるいは、愛国心にかきたてられての報国の感情によってかといった類の戦争画とは性格を異にする絵画といってよいであろう。同じように戦場の兵士の姿を描きながらも従軍画家のそれは、いかに巧妙に、いかに写実的に描かれていても従軍画家のためにポーズした兵士といった雰囲気をどうしてもまとっている。戦争画で名をはせた宮本三郎は、戦争画についてつぎのように書いている。

 時々経験することだが、時局柄戦争画を描かなければならないことについての感想をきかれることがある。そのたびに私は戦争画が面白いからと答へることにしてゐるが、事実迎合するとか止むを得ずとかいふ気持もない。面白いから描くことが、お役に立つといふことになれば有難いと思ふばかりである。(『宮本三郎南戈征軍画集』)

 原精一のデッサンの多くには、休息する兵士が描かれている。地面にゴロリと横たわっている兵士の姿には、ほんとうの疲労が感じられないであろうか。中国人が地面に横たわっている画面もみられる。どこの、誰による殺戮であろうか。埋葬者もなく横たわる中国人を画家はそのままに描きだしている。凝視する人は言葉を失うかもしれない画面である。可憐なビルマやタイの少女たち、人なつっこそうな少年たち。画家の眼は、おそらくは画家自身が意識しないままに、ときに厳しく、ときにやさしい。そこには、殺戮の場のなかでも人間を失わなかった画家の眼が感じられないだろうか。

国立公文書館資料 廃墟となつた漢口日本租界

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抗日の置土産 廃墟となつた漢口日本租界/帝室博物館新館成る/焼夷弾の延焼は防げる 東京 大阪/時局大阪市民運動会/今年の七・五・三アルバム/海の彼方 ドイツ陸軍孤児院/読者のカメラ 抗日の置土産 廃墟となつた漢口日本租界 @@されたわが@@@本部@@@のバンドを望む @@の腹いせに物いはぬ物を@@して行つた蒋介石の不法もさることながらそれだけのことしか出来ぬ@@の末路またあはれと@@@であらう かつての@@な漢口神社は神も仏も知らぬ