ポイ活こそAIを

バーコード決済乱立の時代には、採算度外視のようなポイント還元キャンペーンが乱発されていた。最近では、ポイント還元競争の原資が乏しくなったのか、落ち着いてきたようにみえる。その反面、どこでも同じように高還元率というわけではなくなり、ポイントを多く得ようと思うと調べないといけないことが増えたように感じる。VポイントとTポイントが統合されるなど環境の変化もある。

そんなポイ活界隈だが、消費者側のニーズは「より多くのポイントを得たい」と単純なものである。単純なニーズに対し複雑な仕組みを伴うサービスが提供され、これに多くの人が労力を割くのは社会的なロスではないかという感覚がある。携帯電話料金も、10年以上前に投稿した以下のブログ記事で述べたように、「できるだけ安く」という単純なニーズに対し、複雑なプランを用意して検討や説明のコストをかけるのは社会的なロスだと感じていたが、今では利用状況に応じて料金が決まる1プランに落ち着いた。ポイ活は携帯電話料金よりも複雑さはあるが、当時に較べAI技術を使うことで検討コストを下げたりキャンペーン登録を自動化することができるのではないか、と思う。

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具体的には、ユーザーが貯めたいポイントをメイン・サブなど順位付けの登録すると、AIがユーザーの購買活動の全てに関し最もポイントが有利な決済手段を選択したり、キャンペーンに自動的に登録をしたりしてくれるサービスを提供することが考えられる。インターネット購入時に有利な他の購入先を提案するAIは既に存在しており、その機能も含められればよい。当該サービスを経由してポイントカード提示や決済を自動的に行う。購入前のあれこれ考えるコストを購入後に自動化して節約するということになる。これを突き進めれば、決済手段の入口は当該サービスの1つだけでよくなるであろう。カード1枚、更に行くと本人確認さえすればよい。販売側も多数の決済手段を採用する必要がなくなる。OnePayといったネーミングだろうか。更に進めば、ポイントサービス側が無用なキャンペーンを打つメリットなどが乏しくなり、ポイント競争が平準化することになるかもしれない。今後の技術の進化がどうなるか楽しみである。

権力者の周辺者問題

昨今、政治、ビジネス、芸能など様々な分野において、権力者による権力構造下での不法・不徳の事象が明るみとなり、騒ぎになっている。そこで矢面に立たされた権力者の振舞いは、人の上に立つ者として期待されるものとは程遠く、なぜこのような者が各界の権力者として地位を築いていたのか疑問を感じさせるものも多い。論理よりも人的関係による「空気」が支配をし、声の大きい者が突出するというのは、「空気の研究」や「失敗の本質」などの文献で昭和の頃から何度も分析されてきたものであるが、今でも同じようなことが繰り返されているのだと感じる。権力の濫用傾向のある者に対し、争いを好まない周辺者たちが自然と気を遣うことが積み重なり、結果として大きな力を持ちすぎるということであろう。

このような問題をどう解決するか。ひとつは、権力者自身がよい振舞いをするよう自律を促す君子論的なアプローチがある。最近のリーダーシップ論では、調整型・支援型といったあり方が推奨されている。しかしながら、人の本質を変えることは難しく、異なる手法で上に昇りつめた成功体験のある者が柔軟に態度を変えるというのは期待しにくい。もうひとつは、突出を生まない仕組み作りといった組織論的アプローチがある。政治の分野では独裁の問題や権力分立など様々な仕組みが取り入れられてきた。また、会社組織においてもコーポレートガバナンスの問題として取り組みがされてきた。しかし、現在においても問題は後を絶たない。特に政治の分野では、良識の中で形成されてきた慣例をあえて破り濫用的に人事権等が行使されるなど、近年むしろ悪化しているようにみえる。これらは永遠の課題といえるような状況がある。 

私が最近の情勢を見ていて思うのは、権力者の周辺者に焦点を当てるべきではないかということである。濫用傾向のある権力者に気に入られるように振舞って地位を得て、少なくとも権力の濫用に黙認、時には加担することもあるが、問題が生じても当然にその地位を失うわけではない。直接関わってないとして大して罪悪感も抱かず、むしろ自分の被害者のような意識もあり、改める契機にも乏しい。濫用傾向のある権力者に気に入られようとはしない者であっても、権力濫用の矛先にならないよう問題を避け、増長の歯止めになろうとすることはほとんどない。権力者に逆らえない空気があるというが、その空気自体は勝手に生まれているのではなく多数いる周辺者が形成に加担しているものである。善悪の指針のなさ、責任回避、被害を受ける者への共感性のなさといった態度を積み重ねたものである。濫用的な権力者があることをきっかけに問題視され、堰を切ったように問題が噴出しても、権力者の周辺者が変わらないままでは、何度も繰り返されるし、むしろ告発者が抑圧されて結果的に悪化することにもなりかねない。

それでは権力者の周辺者の問題をどのように解決していくのがよいか。ひとつは「言語化」ということが考えられる。多民族国家は暗黙の合意が難しいので契約社会になるという。国民総インターネット社会となり衆目に晒される危険が大きくなった現在においても、問題を言葉に表現し納得させる力が特に重要になってきているであろう。権力者(リーダー)側についてみると、好き嫌いではなく、行動や評価についての原理原則や指針を表現することができ、他者に予測可能性と心理的安全性を提供することができることが重要である。原理原則においては、自由主義社会の根本原理として「より個人を抑圧しない手段を用いることが望ましい」という価値観を有していることが求められる。

そして、具体的な評価の指針については、数あるスキルや能力を整理した上記のような書籍が参考になるだろう。中でもきちんと後継育成をする態度があることも重要と考える。年長であることが多い権力者(リーダー)が、自分の後に残される人のことを考えているか、どうでもよいかと考えているかは周辺者自身の利害にも直接関わり、感じ取りやすい部分であろう。権力者の周辺者においては、上記のような権力者(リーダー)が望ましいという選好を表現するとともに、目標とする立場に向けて自身のスキルを高めることになるだろう。上記の書籍によれば、リーダーシップのみならず、フォロワーシップというスキルも表されており、今後注目されてもよいであろう。以上のような周辺者論からのアプローチも加わって、権力者による権力構造下での不法・不徳の事象がなくなることを期待したい。

 

捨てる

最近、物を捨てることが多くなった。学生時代の服はさすがに合わなくなったし、増やすばかりでは自宅の収納スペースも限界になる。何かを買うときは何かを捨てることを意識するようになった。とはいえ、自宅にある物を見ると、買った場所や一緒にいた人、着たり使ったりした場面の記憶や思い出が呼び起こされる。買った店はもうなくなっていることも多い。捨ててしまうと思い出を呼び起こすきっかけもなくなってしまうような感覚になる。

一時期、せめて写真を撮っておいて画像データを残すことも考えたが、結局やめてしまった。物だけ無造作に撮られた写真では甘美な思い出とは結びつかない落差のようなものを感じ、また、捨てるときはまとめて行うことが多く、幾つも撮っているとキリがないからである。それに、過去を振り返ることに時間ばかり使って今後の新しい物との出会いを蔑ろにするのもいけない。

物だけでなく、記憶も昔ほど残らない感覚がある。もちろん加齢によることもあるだろうが、憶えようとしても憶えられないというものとは違う。仕事を10年以上続け、繰り返しの部分など頭にとどめておく必要がないものはその場で過ぎ去るような感覚である。自然と取捨選択をしているようなもので、新しいものを手掛けるときはよく憶えている感覚がある。とはいえ、これは記憶の収納スペースが限界に近づいていて、入庫するものを絞っているようで物寂しい。体感時間は加速度的に短くなっていくというが、全人生の中の目の前の時間の割合はどんどん小さくなる。目の前の出来事を大切にして残すことを意識しないと過ぎ去っていってしまう。

最近、身体が元気に動くうちにできることはしておこうという思いで、新しいこともやっている。実家にも自動車がなく自動車と無縁の人生を送ってきたが、ついに自動車を購入したし、テントやタープを買ってキャンプに行くようになった。ブログは更新頻度がすごく少なくなってきているが、捨てた感覚は全くない。先に述べたように体感時間の変化によりブログ書こうかなと思う客観的な間隔が延びていってしまっている感じである。プライバシーの観点から話題が制限されるなど神経を使うことが増えてしまっているが、環境を整えて続けていけるようにしたい。