「ドキュメント コロナ対策専門家会議」を読んだら身につまされてソワソワしてしまった話
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#コロナ対策専門家会議
#プロジェクトマネジメント
コロナによる在宅勤務について、色々と実験してみる
コロナの影響で、会社より「在宅勤務推奨」の指令が出た。仕方がないが、せっかくなので「リモートで働く」ことについて、色々と実験をする機会を得たと思うことにした。
もともとウチの会社はリモートワークができる環境は整えてくれていたんだけど、僕が「家の用事がある時に活用する」程度で、本格的にリモートで働こうとしたことはなかった。真剣にシフトしようと思うとどうしたらいいのか考えてみる。
「在宅勤務推奨」と言っても絶対に家で働けということではなく、要は「人混みに行かないように」ということだと思うので、じゃあ人混みじゃないところでも働いてみた。
① オフィス
② 自宅:リビング
③ 自宅:自分の部屋
④ カフェ
⑤ 芝生公園
実際に色々な場所で働いてみると、予想通りなところも多々あるが、なるほどと思う色々な気付きがあった。以下簡単にまとめてみる。
<予想通り>
・身支度、通勤時間がない、朝ゆっくり寝れるのはやはり楽。だが、家にいたら色々やることがあったり集中力が続かなかったりでロス時間があり、そのアドバンテージはそこまで大きくはない。
・オンライン会議でもほとんどの場合は問題ないが、こみいった話やホワイトボードで図示しながら話をしたいような会議はやはり難しい。(これは英語力の問題もかなりありそうな気はする。英語話術だけで説明しきれるスキルがないのだ)
・個室やコワーキングスペースで働くと途中で話しかけられたりすることがないので、個人作業はものすごく効率がいい。
・丸一日家にいるとなんか息詰まるというか、外に出たくなる。あとおやつ食べちゃう。
・カフェはあまり集中できないし、会議もやりにくいが、家で息詰まった気分転換にはちょうどいい。
・芝生公園で働くのは気持ちよかったが、1人だと完全に浮いてしまう。オフサイトミーティングとか、ワークショップ、ブレインストーミングの打ち合わせなんかを外でやるのはすごい良さそう。
<新しい気付き>
・これまで「会議室の移動時間・セットアップ」ってなんとも思ってなかった。が、自宅で長期間働いてみると、これが意外にバカにならなかったんだなということに気付く。会議の数が多いとこれだけでトータルで1日30分くらいロスしていたかも
・家で働く場合に、机にPCを開いた状態で「いつでも働ける」状態にしておくと、逆に「いつまでも働いてしまう」という現象が起こった。オンとオフの切り替えが下手なんだろう、結局トータル労働時間は家で働く方がずっと長かった。
・「リビングで子供たちが宿題している横で一緒に仕事する」という感じがイイなと思ってやってみたものの、バンバン話しかけてくるし、会議はやりにくいし、子供たちが集中していないのが気になってこっちが集中できなかったり、いろいろやりづらかった。家族で一緒に勉強する、というのはいいことだが、純粋に仕事の効率という面ではあまりよくない。1-2時間限定、とかでやったほうがいい。
・英語で会議した後、娘に「お父さんめっちゃ『オー、ソーリーソーリー』って言ってる」って言われて恥ずかしかった。
こんなところだろうか。せっかくなので数値化もしてみようと思い、移動時間やロス時間を含めつつ、労働時間内の仕事の種類を
1.個人作業
2.会議(主体:込み入った話)
3.会議(サブ:情報共有)
の3つに分け、それぞれで労働時間×生産性で生産時間を出して合計し「トータル効率」を出してみた。
結果として、トータルの効率はどこでやろうともそんなに変わらなかった。が、予想通り、仕事の種類によって場所と生産性の関係は結構変わる。
オフィスの優位は「顔を合わせての会議」の生産性が一番高いところだが、それ以外はあまりいいことがない。逆に、個人作業なんかは自宅やコワーキングスペースの方が生産性が高い(気がする)。ちゃんと使い分けをすれば、全体として生産性を高めることはできそうだ。
じゃあ次は「今後そういう使い分けができそうかどうか」ということで、過去1ヶ月分の打ち合わせ予定を遡って実態を確認してみた。4週間分のスケジュールを記録して平均化してみるとこんな感じになった。
そもそも弊社は「会議が多い」のが課題だと思っていたが、表と数字にまとめてみるとやっぱり多い。しかもその中には、サブの打ち合わせというか「参加しない、あるいは参加しても片耳で流れを把握しておくだけで十分」というものが1週間で8時間もあった。これはなんとかしたい。
しかしこれを「無駄な会議だ」と切り捨てるのはなかなか難しい(気がしているだけかも)。個人的には、色々な情報を把握しておかないと正しい判断ができないと思っているので、気にかかるものは参加するようにしているからだ。
ただそれでも細かく意識すると改善の余地はあるところもあるので、週4時間くらいまで減らす努力をしよう。そうすると、個人作業とサブ会議のトータルで16時間前後になる。これを週のどこかの曜日に寄せればよい。
■週2日は自宅かコワーキングスペース
・個人作業、情報共有系サブ打ち合わせをこの2日間に詰める
・オフィスでの打ち合わせで使う資料もこの日にまとめておく
・オン/オフの切り替えをしっかり行う。PCは閉じてしまうなど
■週3日はオフィス
・顔を合わせた方がよい打ち合わせでできる限りこの日に詰める
・オフィスにいても、情報共有系の会議はオンラインでもいいかも
こんな感じで働けば、理論上はただリモートで働くだけでなく、「毎日オフィスに行くより生産性があがる」ことになる。ホントかよ。
まだしばらくは「全日在宅勤務」は続きそうな気配ですが、それが元に戻ったとしても、今年は1年これを意識して過ごしてみたいと思う。年末には「コロナのおかげで生産性があがって仕事が進んだ」って言いたい。言ってやりたい。
グローバルプロジェクトを数年経験した学び
外資系企業に転職して5年。それまで全く外国人と接することはなかったのに、いきなり沢山の外国人に囲まれて仕事をすることになってしまって、それなりにいわゆる「グローバルプロジェクト」というものを経験してきた。せっかくなので、そこで得た学びを共有できればと思います。
グローバルプロジェクトの種類
「グローバルプロジェクト」と言っても、バリエーションが色々ある。日本側が主導で海外に展開していくロールアウトタイプや、逆に海外側が主導で日本に導入していくロールインタイプのプロジェクトだったり、あるいは、単に日本国内のプロジェクトのメンバーに外国人がいるだけのケースもある。その場合も、ステークホルダーが外国人のケースとか、オフショア開発先が海外とか、いろいろなケースもあるだろう。
それぞれのパターンごとに異なる学びもあるだろうけれども、全体に共通している部分も多くあると思うので、細かな場合分けはせず、基本として理解しておいた方がいい事を書いておきたいと思います。
1. 常識の違いを理解する
こうやって書いちゃうと、この後出てくるものも全部これに該当しちゃうのですが(笑)
よく、外国語を学ぶ時に「言葉の違いもさることながら、文化の違いを理解することが大事」と言われます。まぁそうなんだろうな、という一般的な感覚しか持っていなかったのですが、これが仕事で実際に体感すると「マジでそれな…」となります。
「文化の違い」というと、生活様式とか習慣の違い、とかそういう風に捉えがちですが、それも含めてつまり「当たり前と思っていること、常識が違う」ということなんです。そして、自分が「当たり前」だと思っていることって、自分ではなかなか気付けないんですよね。
例えばプロジェクトの初期段階、僕はプロマネとしてアサインされるとまず最初にプロジェクト計画を立てようとする。そうすると様々な課題というか、プロジェクトを始める前に確認しなければならないことが見えてきて、中にはプロジェクトそのものを止めかねないリスクも出てきたりする。なので、どういうアプローチで進めるべきか、ということをチームで考え始める。これは僕にとって至極「当たり前」の進め方だった。
しかしメンバからは「なぜ始まる前からそんな先のことを心配するんだ?」「やってみないと分からないだろう」という意見が出て話が進まない。いやいや、どう考えたって先が見えてるだろ。そう思うのは僕だけで、まわりは皆「とにかくスタートしよう」「やりながら考えよう」と言う。
これはアジャイル型のプロジェクト(方向性だけ決めて、スコープやアプローチを変えながら進むやり方)というわけではもちろんない。単に「計画」の精度に対する常識が全然違うのである。最初はこれにかなり苦労したというか、何度も衝突しまくった経験がある。
これ以外にも具体的なケースを書き出したらキリがないが、自分が「当たり前」と思ってしまっていた至るところでギャップが生まれていた。考えてみればそれまで15年間、ずっと日本人だけでプロジェクトをやってきたのだから、それなりに積み上げてきた経験「当たり前」がある。それは悪いことではもちろんないが、自分が思っている以上に、自分が当然と思っている「常識という土台」を使って仕事をしていたのだ、ということは意識しておいた方がいいと思う。
そのことに気付くコツとしては、話をしている時に「なんでコイツはこのタイミングでこんなこと言い出すんだ…?」と思ったら、それは「常識の違い」が表れているサインかも知れないと疑うのがいいだろう。彼らには彼らなりのロジックや考え方があって発言しているので、真摯に耳を傾けて聞いてみよう。(結果としてわけが分からないことも多いのだけれども 笑)
2. 「根回し」は日本独特のものではない
これは僕がそう思っていただけかも知れないが、日本には「本音と建前」や「根回し」という言葉があり、公式な議論や決定の前に裏で交渉しておく、という、どちらかと言うとアンフェアな文化があると思っていた。海外ではストレートにモノを言うと聞いていたし、「本音と建前」などという文化はないのだろうと思っていたが、全くそんな事はなかった。どの国の人も普通に本音と建前があるし、むしろアメリカ人なんかは日本人よりも本音と建前を使い分ける。というか、公式の場では建前しか言わないことがほとんどだ。
このあたりは特に昨今の「ポリティカル・コレクトネス」の反動を見ていれば分かると思うが、建前があれば本音がある。これは世界各国変わらないという事だろう。たぶん「本音と建前」という言葉がないのは、それを言う必要がないくらい当たり前だからじゃないだろうか。知らんけど。
なので仕事においても、公式の会議でガンガンにやり合うよりは、事前の根回し、交渉が大事である。案を作るところ、根回しの打ち合わせではストレートに本音をぶつけて案を固いものに仕上げ、公式の場では建前をうまく使ってスムーズに意思決定を行う。この使い分けが重要だと思う。
3. 「できる」と考える感覚が違う
オフショア開発の経験談でよく聞く話だとは思いますが、オフショア先に「やれるか?」と聞いた時に、日本人なら8割以上できる自信がないとなかなか「できる!」と断言はできない。だが彼らは5割できそうなら「できる!」と断言してくる。あるいは、「できるけどユーザーの使い勝手は最悪」と言う場合も「できる!」と言い切ってくるので、注意が必要である。
オフショアとのやり取りの場合は、
① 必ず進捗を見える化して、進んでいるのかいないのか明確にすること
② 受け入れテストは入念に行うこと。品質に改善が見られない場合は、現場で対応せずに経営層、上層部にエスカレーションして対応すること(海外ベンダーの場合)
あたりをかなり意識しておかなければならないと心に刻もう。
4. 文字ドキュメント文化に乗らなくていい
これは特に欧米の人に多いのだが、とにかくドキュメントが文字ばかりで分かりづらい場合が多い。Visionや概念的な話の場合はイラストが入っていることもあるが、実務的なドキュメントはほぼ全てが文字で書かれている。これが非常に分かりづらい。
当初、これが欧米の文化なんだと思い、慣れなければと思って文字ばかりのドキュメントに慣れようと努力していたが、仕事を進めていくにつれ、実は欧米の人たちも文字だけではちゃんと意思疎通できていないことが分かってきた。「おめーらも分かってねーんじゃねーか」と心の中で盛大に突っ込んだのをよく覚えている。
そういえば旅行に行った時も、レストランのメニューが文字だらけで全然分からなくて、頼んでみたら全然思っていたのと違ったものが出てきた経験がある。欧米の人に「日本のメニューみたいに写真付きにしてくれればいいのに」という話をしたところ、「写真を見せると、今度はその通りじゃないと文句を言われるリスクが上がるからやらないんじゃないか」と言われた。もしこれが本当なら、「文字で書くことで曖昧にしておく」という文化というか、ある種の知恵があるのかも知れない。
ひょっとしたら文字じゃなくて、簡便な図を使ったりしたら逆に伝わらなかったりするんだろうか、と心配していたのですが、実際に使ってみると「分かりやすい」と評判が良かったりする。なんなんだよと思ったが、このあたりは国は関係なく、やっぱりイメージや認識を図式化して共有するということは大事だった。
そしてむしろ、海外とのやりとりの場合は電話(テレカン)がほとんどなので、お互いの顔を見ながら、とか、白板を使いながらというやりとりができない。そういう場面で、声だけでやり取りするのは非常に危険である。日本語同士でもテレカンでの意思疎通は難しいのに、英語でのやりとりで完全に意思疎通ができると思う方がおかしい。必ず資料は準備するべきだし、その資料は図示も含めて明瞭簡潔にしておかなければならない。よく準備8割というが、海外とのテレカンでは準備が9割5分だ、くらいに考えておいていいと思う。
番外:インド人の首の振り方について
インド人に説明をすると、ものすごい真面目な顔で「わかった」って言いながら首を横に振っていることがあり、「え、なに?わかってるの、わかってないの、どっち?」となったことがあった。あとから「それは分かったという意味だ」と教えられたのだが、最初は全く意味が分からなくて困惑した覚えがある。今改めて調べてみると、こんな記事が載っていた。
https://gigazine.net/news/20180723-india-mystifying-nod-code/
そうそう、縦でも横でもない不思議な首の振り方なんだ。こうやって冷静に動画で見るとすごい面白いが、知らずにこの現場にいると「どういう意味?」とスゴイ困るので、知っておいて損はないと思う。
ものすごく大括りに書くと、わすが4点にまとめられてしまった(笑)念のために断っておくと、今回あえて主語を大きくして「外国人は」とか「欧米の人は」という書き方をしていますが、実際は当然「人による」です。ものすごくきっちりしたインド人もいるし、大雑把な計画しか立てられない日本人だっている。だけど「人それぞれ」って言っちゃうと話が終わってしまうので、大味なカテゴライズをして傾向みたいなものを伝えられたらいいのかな、と思っています。
なにか1つでも「へぇ」と思えることがあったなら嬉しいです。逆に「私はこう思ってるよ」みたいな話も聞かせてもらえたら、それも嬉しいですのでぜひぜひ!
金玉はなくなってない
実はいろいろあって入院していた。下腹部から金玉にかけての部位に違和感があり、病院に行ったら手術が必要だと言われたからだ。
どうにも気持ちが悪いなということでいざ病院に行ってみたはいいが、よく考えたら金玉を医者に見せなければならない。これはイヤだな…と思っていたら、なんと担当医師が女医さん(推定年齢35〜45歳)になってしまった。論理的に考えて、僕は今からこの女医さんに金玉を見せざるをえないことになる。マジか。
最初の診察の時の僕の動揺は大変なものであった。女医さん…恥ずかしいな…と思いながら症状を説明すると、「では、患部を見せて下さい」と冷静な顔で言われる。いや、まぁ当たり前なんだけどなんかドキッとする。思わず「…今ですか?」と聞いてしまう。今でしょ。思わず林先生の顔が頭に浮かんだ。今に決まってるでしょ。僕は勇気を出してパンツを降ろす。女医さんは冷静な顔で僕の金玉を眺め一言「ああ〜これは大きいですね」と言った。
なんだろう、ものすごく恥ずかしい。言われたこともそうだが、そもそもここまで冷静に金玉を凝視されたことなんてない。これはキツい。なにかそういうプレイだと思うしかない、と思ったが、それはそれで事態は別の方向へ展開してしまう可能性がある。耐えるしかない。さらにプレイ、じゃなかった診察は続く。ちょっと触りますね、と言うが早いか女医さんは僕の金玉を揉みだした。すごい真面目な顔で金玉を揉んでる。これは痛いですか?など確認しながら、あらゆる角度から揉む。そんなに揉まなくてもいいんじゃない?ってくらい揉む。その間僕は、これ以上揉まれたら追加料金が発生してしまうのではないか、などと考えていた。
そして女医さんは尋ねる。「症状はいつからですか?」この質問には困った。いつからか、と聞かれるとそれは中学時代にまで遡るからだ。
中学生。それは多感な時期。クラスメイトのおちんちんに毛が生えているのかいないのか、ムケているのかいないのかが気になって仕方がないお年頃だ。必然僕も、皆で風呂に入る時なんかにチラチラと友達のモノをチェックし、自分のものと比較検討し、1つの結論を導き出していた。どうやら僕の金玉は他の人よりもやや大きいようだ、と。
「おちんちんが大きい」なら自信にもなろう。しかし金玉である。なんの自慢にもならない、むしろちょっと恥ずかしい。今なら「男の価値はおちんちんではない」と胸を張って言えるが、純真な中学生の少年にはショックな事実ではあった。かくして少年は、銭湯では前を隠して入る男になってしまったのだった。
余談ではあるが、銭湯に入る男には2種類いる。前を隠して入る男と、丸出しで入る男だ。そしてわざわざ丸出しで入る男のおちんちんはやや大きい(気がする)。たぶんこれには相関関係がある。つまり、丸出しで入る男はその大きさを自慢しており、隠して入る男に対して優越感を露わにしているのだ。そこにはある種のヒエラルキー(おちんちんヒエラルキー)が存在している。しかも、おちんちんの大きさはほぼ生まれ持ってのモノだろう。つまり、僕らは生まれながらにしてヒエラルキーが決まっているのだ。これはもうカースト制度と言っていい。おちんちんカースト制度だ。僕らはこのカースト制度から逃れる事はできないのだ。
えっと、なんの話でしたっけ。完全に話がそれた。なにがおちんちんカースト制度だ。そうだ、「いつからですか」と聞かれたら困る、という話だ。
僕は中学生からこの金玉と寄り添って生きてきたんだ。今さらそれは間違いでしたなんて言いたくない。あと、実際には半年前くらいから明確に「下腹部と金玉の間を内臓が移動するような違和感」を感じていた。そういう意味では、25年前からとも言えるし、半年前からとも言える。なんと答えればいいんだ。このような様々な思いが僕の中を駆け巡り、即答を困難にしたのである。
…というような苦悩が色々とあったものの、最終的に出た診察結果は「鼠径ヘルニア」というものだった。本来はお腹の中にあるべき腸や腹膜が、下腹部の筋膜の間から皮膚の下に出てくる病気です。僕の場合は「脂肪」が「金玉」に流れ出ていく、という症状でした。なので、脂肪をお腹に戻して筋膜を補強する手術をした、ということであり、金玉は取り除いてはいません。
また経過観察結果なんですが、良好です。全く問題ありません。色々と心配して下さった皆さんに「元気ですよ、大丈夫ですよ」とお伝えしておこうと思っただけなのに、ずいぶん遠いところに来てしまった気がする。
たぶんこれを読んでくださった方には「元気ですよ」の部分はしっかり伝わったと思うけど、「大丈夫ですよ」については別の心配が生まれてしまったかも知れない。メガネ君、頭、大丈夫?
発砲スチロールで作られた家に泊まってきた
毎週更新と言っていたくせに、気がつけば3か月も経ってしまっていた。この3か月間、家族で横浜に行ったり仕事でアメリカに行ったり忙しく過ごしていたので、そのあたりのことはまた機会があれば書きたいと思います。
で、今日は先日「発砲スチロールで作られた家に泊まる」という体験をしてきたので、そのことについて書こうと思います。なにを言っているのかわからねーと思うが、おれも何をやっているのかわからなかったぜ…
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でまぁ真面目に書くと、あるボランティア活動に私は参加していまして、その中で「面白い人だな」と思った人を見つけたら、その人のことを調べ、興味が湧けば会いに行って話を聞いてくる という活動があります。その一環になります。(ということにしています)
ある日ネット記事を読んでいたところ、「発砲スチロールで作った家を担いで歩き、それで日本全国を歩いて旅している人がいる」という記事を読み、なんだこりゃと思って調べたところ、なかなか面白い考え方をしている人だなと感じたので、連絡を取ってみたのです。
その記事がこちら
https://gendai.ismedia.jp/list/author/satoshimurakami
その方は村上さんというのですが、村上さんは快く返信をくださり、さらに「もし興味があれば、今ちょうど泊まりに来てもらうというワークショップをやってるので、泊まりに来てください」と誘って下さったのだ。
予想外の展開である。しかし場所は東京である。正直言って遠い。気軽に行きますと言える距離ではないが、かと言ってこちらから声をかけた手前、無下に断るのも失礼な気がする。どうしよう、いつのまにかピンチに追いやられてしまった。
いやしかし冷静に考えよう。ピンチはチャンスである。考えてみればこれから先、発泡スチロールの家に泊まれることってあるだろうか。たぶん一生ない。そう考えたら、これって一生の1度のチャンスなんじゃないのか。いつのまにか僕は「ぜひぜひ!」と二つ返事で返信してしまっていた。
しかし当然行くにあたっては、泊まりなので妻には説明しなければならない。勇気を出して「発泡スチロールの家に泊まりに、東京に行ってきていいか」と聞いたところ、「なにそれ?なんで?」という、当然のリアクションが返ってきた。
よし理由を説明しようとしたが、驚いたことに僕自身もそれがなんなのか、なんでそんなことをしなきゃならないのか、全くもって説明できないことに気付いた。論理的な理由が一切ない。最終的には「行きたいから」という小学生みたいな理由しか説明できず、それに対し「行きたいなら行っておいで」という承諾を得た。家族の理解(または諦め)に感謝である。
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個人的には非常に有意義な旅だったと思うのだが、40歳の2人の子持ちのおっさんがすることではないな、とは思った。楽しかったです。
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以下は、最初に村上さんに聞いたインタビューです。ご参考までに。
UXデザインと風見鶏
「夢を与える」という言葉に対するモヤモヤ
もうほんとタイトルのまんまなんですが、「夢を与える」という台詞を言っている人を見ると、なんかこう、モヤモヤした気持ちになります。
いろんな場面で使われるが、1番多い文脈はアスリートや無謀なチャレンジをする人が「応援してくれている皆さんに夢を与えたい」という形式だろう。
確かに、その頑張る姿を見て感動し、夢や希望を持つ人も沢山いると思うし、素晴らしい偉業だと思う。それは間違いない。でもなんというか、それが目的のように言われるのはなんか違うというか、本末転倒感がある。
まず最初にその人自身の目的があって、それに向かってひたむきに頑張る姿、障害を乗り越える姿が感動を呼び、見ている人が勇気や希望を持つことができる。こういう流れならすごく理解できる。
が、最初から「夢や希望を与えることが目的」となってしまうと、究極は「感動しましたよね?夢や希望を持ちましたよね?!」という押し売りになりかねない。他人が感動したかどうか、がゴールになるので、成否が他人に委ねられていることになるのだ。それはなんか違うと思う。
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それにしてもなんで僕は素直に「素晴らしいな」と思えないのか。たぶん「与える」という言葉が持つ「上から下へ」という印象にだいぶ引っ張られてるんだと思う。持つ者が持たざる者へ行う施し、というある種の上から目線のようなものを感じて、反発心が生まれているのだ。
アスリートは実際にすごいからまだいいが、無謀なチャレンジ系だとさらにモヤモヤする。先日ニュースになった「ヒッチハイクでアメリカ横断」の中学生などその典型で、彼も「夢を与えたい」ということを言っていて、もう手段も目的もワケが分からない。
だけど、実際にはそういう「夢や希望を与えたい!」という姿勢で過剰な自意識を振りかざしている人がいたとしても、その姿を見て夢や希望を与えられる人は少なからずいるわけで、そうなるとそれは誰かを救っているという観点で確実に良いことをしている。少なくともここでモヤモヤとか言ってるおっさんよりはよほど生産的だなと思う。
でもなんかモヤモヤする。せめて「夢や希望を感じてもらえたら」くらいのスタンスでやってほしい。そこんとこ頼みますよ、なにかを成し遂げようとしている素晴らしい方々。