メガネ手帖

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メガネが綴る日々の出来事、妄想、空想、よしなしごと

「ドキュメント コロナ対策専門家会議」を読んだら身につまされてソワソワしてしまった話

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河合香織さんの 「ドキュメント コロナ対策専門家会議」 を読み、なんだかソワソワしてしまったので感想を書き殴ってみたいと思います。先に言っておきますが、長くてオチも特にないので、お暇なときにでも興味があれば目を通してもらえると嬉しいです。
 
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この本はタイトルの通り、著者の河合香織さんが「コロナ対策専門家会議」に密着し、専門家たちの視点を中心としながら、組織発足から廃止までの5か月間の議論と葛藤を描いたノンフィクションです。多くの示唆に富みながらも単純に読み物としてとても面白く、読み終わった後には一種の脱力感と、このコロナという国難と戦ってきた人たちへの感謝の念が堪えませんでした。
 
本書は、当時の出来事を時系列順に追いながら、その時専門家たちがどういう想いで動いていたのか、それを受けて行政はどういう対応をしていたのか、という記録形式で書かれています。そのため、時が進んでいくにつれてどんどん増していく緊迫感や、過去にSARSやインフルエンザパンデミックの対応をした経験がある専門家たちだからこそ分かるリスクの高さ、それに対して行政側の対応や組織体制が追い付いてこない焦燥感などが仔細に描かれていて、読んでいる側もその場にいるような臨場感を持って読める作品になっています。
 
それだけでも価値があるのですが、この本はそういう「事実」を描きながらも、組織体制としての問題点や、行政・国民・コミュニケーションの取り方の違いやその背景も補足的に説明してくれており、過去を記すだけでなく「これからどうしていくべきか」という視点でも書かれていて、とても考えさせられるものがありました。
 
ここで「考えさせられるものがある」と書いたのは、単純に何か学びを得たという雰囲気で書いているのではなく、実際に自分の立場に置き換えて考えた時に、何をどうするのが正解なのだろうか、ということを考えるきっかけになったからです。もちろんコロナ対策会議と僕は何の関係もありませんが、ここで描かれている「問題点」というのが、普段の自分の仕事の中でも起こっている問題に近しいものがあったので、そのことに身につまされながら読むハメになってしまった、という意味です。
 
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ここで描かれている問題点の多くは、簡素化してまとめると「行政」「専門家」「国民」という立場の違いからくる意見の違いをどのようにマネージメントするのか、という点に凝縮されます。
 
「専門家」はその名の通り、ある議題について専門的な知識を有しているグループです。今回取り上げられていたのは感染症に対する専門家が中心ですが、実際には「マクロ経済」の専門家などもおられたかと思います。「行政」は、それら専門家の意見を聞きつつ、国民の状況や他国との兼ね合いなど、様々なことを総合的に判断して意思を決定するグループです。そして「国民」は、その行政の意思決定の影響を受ける立場になります。それぞれの立場にはそれぞれに期待される役割があり、そしてそれぞれに正義があります。
 
例えばこの本では、このような描写があります。感染症専門家は「感染症拡大抑制の観点からは、そういうことはするべきではない」という意見が出る。国民からは「自粛疲れ」という声も聞こえてくる中、行政は専門家の声に耳を傾けることなく、緩和策へ舵を切ってしまった、というものです。本の成り立ちからは仕方のない事ですが、「専門家」の意見が行政や国民に正しく届かず、忸怩たる想いを抱える…という描写がところどころにあります。もちろん行政の立場からも書かれていることもありますが、やはり多くは専門家寄りの説明にならざるを得ません。いずれにしても、この3者は協力して物事を進める立場である一方で、意見が異なった際には対立することもある、そういう構図です。
 
そしてこの構図は、僕の普段の仕事「システム導入のプロジェクト」で言うところの、「プロジェクトマネージャー」「SME」「ユーザ」にそのまま当てはまるんじゃないかな、と思いました。専門的な知識を有しているSME(Subject Matter Expert)、構築されるシステムを活用するユーザ、そしてそのプロジェクト全体を管理推進するプロジェクトマネージャー。これらの職種にもそれぞれの立場と正義があります。
 
僕は普段「プロジェクトマネージャー」の立場、つまりこの例で言うと「行政」の立場にいます。そして同じように、SME(専門家)の意見を聞き、ユーザの意見を聞き、総合的に判断して決定する、あるいは決定できる人に意見をまとめて持っていく、という役割を担っています。
 
専門家には、専門家の正義があります。システム導入であれば、ITの専門家は「システム的に実現可能か」という観点や、実現できたとしても、保守運用が困難だったり、ものすごく手間とお金がかかる運用になってしまうリスクがある、という提言をしてくれます。そしてユーザは、多くの場合は無茶を言います。その中には「ビジネス的に絶対に必要である」という要求もあれば、単に楽したいだけで言っている、というケースもあります。プロジェクトマネージャーはこれら双方の意見を聞き、自分なりに正解と思う方向へ意見を収斂させ、プロジェクトとして方向性をつけていく。そういう仕事をしています。
 
そしてこの本は前述の通り、専門家寄りに書かれているので、行政がどうしてもやや悪い印象で書かれていたり、不可解な意思決定をしているように書かれています。それを読むにつけ、「いやいや、きっと行政にも様々な情報が入り、複合・総合的に判断してそういう決断になったのでは…」と、心の中でひっそりと応援という名の「弁解」をしてしまっている自分に気付いてしまいました。別に行政に思い入れがあるわけでも、肩入れするつもりも全くないのですが、単純に「意思決定する側と、そうでない側では見えているものが違うのでは」 と感じました。
 
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僕はIT部門に所属していますが、必ずしもIT側の立場に立つわけではなくて、割と中立な立場で判断するタイプだと自分では思っています。むしろどちらかというと、「IT的に許容できる範囲を見極めて、そのギリギリまでできることをしよう」 というスタンスなので、結果としてユーザの意見を8割取り入れ2割は切り捨て、IT的にはちょっとしんどいけどまぁなんとか成り立ちますよ、みたいな落としどころを探す。そういうやり方をしていて、それが僕なりの正義なわけです。
 
なのでIT専門家からすると、一生懸命僕に提言しても基本的に100点では通してこないので、「IT部門のくせにITのことをわかっていないヤツ」と映っているだろうな、と感じることもしばしばあります。これってまんま、専門家から見た行政の立場じゃん、と思ってしまって、どうにも専門家に100%共感することができませんでした。きっと行政側にも、総合的に考えて決断した根拠があるはず、いや、あって欲しいと、そう願うわけです。もし続編や違う方の書かれた本で、コロナ対策について行政側の立場で書かれたものがあれば、ぜひ教えてください。
 
この本を読んで、コロナ対策にまつわる政策決定の裏で必死になっていた専門家たちの活動を知ることができましたが、それに加えて、改めて「それぞれの立場に、それぞれの正義がある」ということを思い出しました。今回の例では、バランス感覚的なことを書きましたが、他にもこの問題を解決するためにコミュニケーションの取り方を変えてみたり、それぞれの立場に期待されていることを少し調整して明確にするとか、組織論的なアプローチで解決する方法もあると思います。
 
慣れてしまったことで、こういう新しいやり方を模索するということをすっかりサボってしまっていたことにギクリとしたので、改めて自分の意識ややり方を見直してみないとな、という気持ちになりました。
 
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…というようなことが頭に浮かんでゴチャゴチャになり、なんだか心がザワザワしてしまったので、頭を整理するためにこうやって感想を書き殴ってしまいました。書いてみたらずいぶんきれいなことを言っているようになってしまって、だいぶカッコつけてしまったなとは思いましたが(笑) そして書きながら、以前大学生とか若い社会人に「プロジェクトマネジメントについて教えて欲しい」 ということを何度かリクエストを受けたことがあるな、ということを思い出しました。
 
今日書いたようなことは、いわゆる学術的なプロジェクトマネジメント方法論には載っていない話だと思いますが、こういうことももう少し汎用化して、記録としてどこかに書いて残しておきたいなと思います。誰かの役に立つかもしれませんし。需要あるかどうかもわからんですが。。

 

#河合香織

#コロナ対策専門家会議

#プロジェクトマネジメント

コロナによる在宅勤務について、色々と実験してみる

コロナの影響で、会社より「在宅勤務推奨」の指令が出た。仕方がないが、せっかくなので「リモートで働く」ことについて、色々と実験をする機会を得たと思うことにした。

もともとウチの会社はリモートワークができる環境は整えてくれていたんだけど、僕が「家の用事がある時に活用する」程度で、本格的にリモートで働こうとしたことはなかった。真剣にシフトしようと思うとどうしたらいいのか考えてみる。

「在宅勤務推奨」と言っても絶対に家で働けということではなく、要は「人混みに行かないように」ということだと思うので、じゃあ人混みじゃないところでも働いてみた。

① オフィス
② 自宅:リビング
③ 自宅:自分の部屋
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 ④ カフェ
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 ⑤ 芝生公園
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 ⑥ コワーキングスペース
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実際に色々な場所で働いてみると、予想通りなところも多々あるが、なるほどと思う色々な気付きがあった。以下簡単にまとめてみる。

<予想通り>
・身支度、通勤時間がない、朝ゆっくり寝れるのはやはり楽。だが、家にいたら色々やることがあったり集中力が続かなかったりでロス時間があり、そのアドバンテージはそこまで大きくはない。   

・オンライン会議でもほとんどの場合は問題ないが、こみいった話やホワイトボードで図示しながら話をしたいような会議はやはり難しい。(これは英語力の問題もかなりありそうな気はする。英語話術だけで説明しきれるスキルがないのだ)

・個室やコワーキングスペースで働くと途中で話しかけられたりすることがないので、個人作業はものすごく効率がいい。

・丸一日家にいるとなんか息詰まるというか、外に出たくなる。あとおやつ食べちゃう。

・カフェはあまり集中できないし、会議もやりにくいが、家で息詰まった気分転換にはちょうどいい。

・芝生公園で働くのは気持ちよかったが、1人だと完全に浮いてしまう。オフサイトミーティングとか、ワークショップ、ブレインストーミングの打ち合わせなんかを外でやるのはすごい良さそう。


<新しい気付き>
・これまで「会議室の移動時間・セットアップ」ってなんとも思ってなかった。が、自宅で長期間働いてみると、これが意外にバカにならなかったんだなということに気付く。会議の数が多いとこれだけでトータルで1日30分くらいロスしていたかも

・家で働く場合に、机にPCを開いた状態で「いつでも働ける」状態にしておくと、逆に「いつまでも働いてしまう」という現象が起こった。オンとオフの切り替えが下手なんだろう、結局トータル労働時間は家で働く方がずっと長かった。

・「リビングで子供たちが宿題している横で一緒に仕事する」という感じがイイなと思ってやってみたものの、バンバン話しかけてくるし、会議はやりにくいし、子供たちが集中していないのが気になってこっちが集中できなかったり、いろいろやりづらかった。家族で一緒に勉強する、というのはいいことだが、純粋に仕事の効率という面ではあまりよくない。1-2時間限定、とかでやったほうがいい。

・英語で会議した後、娘に「お父さんめっちゃ『オー、ソーリーソーリー』って言ってる」って言われて恥ずかしかった。

こんなところだろうか。せっかくなので数値化もしてみようと思い、移動時間やロス時間を含めつつ、労働時間内の仕事の種類を
 1.個人作業
 2.会議(主体:込み入った話)
 3.会議(サブ:情報共有)
の3つに分け、それぞれで労働時間×生産性で生産時間を出して合計し「トータル効率」を出してみた。

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結果として、トータルの効率はどこでやろうともそんなに変わらなかった。が、予想通り、仕事の種類によって場所と生産性の関係は結構変わる。

オフィスの優位は「顔を合わせての会議」の生産性が一番高いところだが、それ以外はあまりいいことがない。逆に、個人作業なんかは自宅やコワーキングスペースの方が生産性が高い(気がする)。ちゃんと使い分けをすれば、全体として生産性を高めることはできそうだ。

じゃあ次は「今後そういう使い分けができそうかどうか」ということで、過去1ヶ月分の打ち合わせ予定を遡って実態を確認してみた。4週間分のスケジュールを記録して平均化してみるとこんな感じになった。

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そもそも弊社は「会議が多い」のが課題だと思っていたが、表と数字にまとめてみるとやっぱり多い。しかもその中には、サブの打ち合わせというか「参加しない、あるいは参加しても片耳で流れを把握しておくだけで十分」というものが1週間で8時間もあった。これはなんとかしたい。

しかしこれを「無駄な会議だ」と切り捨てるのはなかなか難しい(気がしているだけかも)。個人的には、色々な情報を把握しておかないと正しい判断ができないと思っているので、気にかかるものは参加するようにしているからだ。

ただそれでも細かく意識すると改善の余地はあるところもあるので、週4時間くらいまで減らす努力をしよう。そうすると、個人作業とサブ会議のトータルで16時間前後になる。これを週のどこかの曜日に寄せればよい。

 ■週2日は自宅かコワーキングスペース
・個人作業、情報共有系サブ打ち合わせをこの2日間に詰める
・オフィスでの打ち合わせで使う資料もこの日にまとめておく
・オン/オフの切り替えをしっかり行う。PCは閉じてしまうなど

■週3日はオフィス
・顔を合わせた方がよい打ち合わせでできる限りこの日に詰める
・オフィスにいても、情報共有系の会議はオンラインでもいいかも
こんな感じで働けば、理論上はただリモートで働くだけでなく、「毎日オフィスに行くより生産性があがる」ことになる。ホントかよ。

まだしばらくは「全日在宅勤務」は続きそうな気配ですが、それが元に戻ったとしても、今年は1年これを意識して過ごしてみたいと思う。年末には「コロナのおかげで生産性があがって仕事が進んだ」って言いたい。言ってやりたい。

 

グローバルプロジェクトを数年経験した学び

外資系企業に転職して5年。それまで全く外国人と接することはなかったのに、いきなり沢山の外国人に囲まれて仕事をすることになってしまって、それなりにいわゆる「グローバルプロジェクト」というものを経験してきた。せっかくなので、そこで得た学びを共有できればと思います。


グローバルプロジェクトの種類
「グローバルプロジェクト」と言っても、バリエーションが色々ある。日本側が主導で海外に展開していくロールアウトタイプや、逆に海外側が主導で日本に導入していくロールインタイプのプロジェクトだったり、あるいは、単に日本国内のプロジェクトのメンバーに外国人がいるだけのケースもある。その場合も、ステークホルダーが外国人のケースとか、オフショア開発先が海外とか、いろいろなケースもあるだろう。

それぞれのパターンごとに異なる学びもあるだろうけれども、全体に共通している部分も多くあると思うので、細かな場合分けはせず、基本として理解しておいた方がいい事を書いておきたいと思います。


1. 常識の違いを理解する
こうやって書いちゃうと、この後出てくるものも全部これに該当しちゃうのですが(笑)

よく、外国語を学ぶ時に「言葉の違いもさることながら、文化の違いを理解することが大事」と言われます。まぁそうなんだろうな、という一般的な感覚しか持っていなかったのですが、これが仕事で実際に体感すると「マジでそれな…」となります。

「文化の違い」というと、生活様式とか習慣の違い、とかそういう風に捉えがちですが、それも含めてつまり「当たり前と思っていること、常識が違う」ということなんです。そして、自分が「当たり前」だと思っていることって、自分ではなかなか気付けないんですよね。

例えばプロジェクトの初期段階、僕はプロマネとしてアサインされるとまず最初にプロジェクト計画を立てようとする。そうすると様々な課題というか、プロジェクトを始める前に確認しなければならないことが見えてきて、中にはプロジェクトそのものを止めかねないリスクも出てきたりする。なので、どういうアプローチで進めるべきか、ということをチームで考え始める。これは僕にとって至極「当たり前」の進め方だった。

しかしメンバからは「なぜ始まる前からそんな先のことを心配するんだ?」「やってみないと分からないだろう」という意見が出て話が進まない。いやいや、どう考えたって先が見えてるだろ。そう思うのは僕だけで、まわりは皆「とにかくスタートしよう」「やりながら考えよう」と言う。

これはアジャイル型のプロジェクト(方向性だけ決めて、スコープやアプローチを変えながら進むやり方)というわけではもちろんない。単に「計画」の精度に対する常識が全然違うのである。最初はこれにかなり苦労したというか、何度も衝突しまくった経験がある。

これ以外にも具体的なケースを書き出したらキリがないが、自分が「当たり前」と思ってしまっていた至るところでギャップが生まれていた。考えてみればそれまで15年間、ずっと日本人だけでプロジェクトをやってきたのだから、それなりに積み上げてきた経験「当たり前」がある。それは悪いことではもちろんないが、自分が思っている以上に、自分が当然と思っている「常識という土台」を使って仕事をしていたのだ、ということは意識しておいた方がいいと思う。

そのことに気付くコツとしては、話をしている時に「なんでコイツはこのタイミングでこんなこと言い出すんだ…?」と思ったら、それは「常識の違い」が表れているサインかも知れないと疑うのがいいだろう。彼らには彼らなりのロジックや考え方があって発言しているので、真摯に耳を傾けて聞いてみよう。(結果としてわけが分からないことも多いのだけれども 笑)


2. 「根回し」は日本独特のものではない
これは僕がそう思っていただけかも知れないが、日本には「本音と建前」や「根回し」という言葉があり、公式な議論や決定の前に裏で交渉しておく、という、どちらかと言うとアンフェアな文化があると思っていた。海外ではストレートにモノを言うと聞いていたし、「本音と建前」などという文化はないのだろうと思っていたが、全くそんな事はなかった。どの国の人も普通に本音と建前があるし、むしろアメリカ人なんかは日本人よりも本音と建前を使い分ける。というか、公式の場では建前しか言わないことがほとんどだ。

このあたりは特に昨今の「ポリティカル・コレクトネス」の反動を見ていれば分かると思うが、建前があれば本音がある。これは世界各国変わらないという事だろう。たぶん「本音と建前」という言葉がないのは、それを言う必要がないくらい当たり前だからじゃないだろうか。知らんけど。

なので仕事においても、公式の会議でガンガンにやり合うよりは、事前の根回し、交渉が大事である。案を作るところ、根回しの打ち合わせではストレートに本音をぶつけて案を固いものに仕上げ、公式の場では建前をうまく使ってスムーズに意思決定を行う。この使い分けが重要だと思う。


3. 「できる」と考える感覚が違う
オフショア開発の経験談でよく聞く話だとは思いますが、オフショア先に「やれるか?」と聞いた時に、日本人なら8割以上できる自信がないとなかなか「できる!」と断言はできない。だが彼らは5割できそうなら「できる!」と断言してくる。あるいは、「できるけどユーザーの使い勝手は最悪」と言う場合も「できる!」と言い切ってくるので、注意が必要である。

オフショアとのやり取りの場合は、
① 必ず進捗を見える化して、進んでいるのかいないのか明確にすること
② 受け入れテストは入念に行うこと。品質に改善が見られない場合は、現場で対応せずに経営層、上層部にエスカレーションして対応すること(海外ベンダーの場合)
あたりをかなり意識しておかなければならないと心に刻もう。


4. 文字ドキュメント文化に乗らなくていい
これは特に欧米の人に多いのだが、とにかくドキュメントが文字ばかりで分かりづらい場合が多い。Visionや概念的な話の場合はイラストが入っていることもあるが、実務的なドキュメントはほぼ全てが文字で書かれている。これが非常に分かりづらい。

当初、これが欧米の文化なんだと思い、慣れなければと思って文字ばかりのドキュメントに慣れようと努力していたが、仕事を進めていくにつれ、実は欧米の人たちも文字だけではちゃんと意思疎通できていないことが分かってきた。「おめーらも分かってねーんじゃねーか」と心の中で盛大に突っ込んだのをよく覚えている。

そういえば旅行に行った時も、レストランのメニューが文字だらけで全然分からなくて、頼んでみたら全然思っていたのと違ったものが出てきた経験がある。欧米の人に「日本のメニューみたいに写真付きにしてくれればいいのに」という話をしたところ、「写真を見せると、今度はその通りじゃないと文句を言われるリスクが上がるからやらないんじゃないか」と言われた。もしこれが本当なら、「文字で書くことで曖昧にしておく」という文化というか、ある種の知恵があるのかも知れない。

ひょっとしたら文字じゃなくて、簡便な図を使ったりしたら逆に伝わらなかったりするんだろうか、と心配していたのですが、実際に使ってみると「分かりやすい」と評判が良かったりする。なんなんだよと思ったが、このあたりは国は関係なく、やっぱりイメージや認識を図式化して共有するということは大事だった。

そしてむしろ、海外とのやりとりの場合は電話(テレカン)がほとんどなので、お互いの顔を見ながら、とか、白板を使いながらというやりとりができない。そういう場面で、声だけでやり取りするのは非常に危険である。日本語同士でもテレカンでの意思疎通は難しいのに、英語でのやりとりで完全に意思疎通ができると思う方がおかしい。必ず資料は準備するべきだし、その資料は図示も含めて明瞭簡潔にしておかなければならない。よく準備8割というが、海外とのテレカンでは準備が9割5分だ、くらいに考えておいていいと思う。


番外:インド人の首の振り方について
インド人に説明をすると、ものすごい真面目な顔で「わかった」って言いながら首を横に振っていることがあり、「え、なに?わかってるの、わかってないの、どっち?」となったことがあった。あとから「それは分かったという意味だ」と教えられたのだが、最初は全く意味が分からなくて困惑した覚えがある。今改めて調べてみると、こんな記事が載っていた。
https://gigazine.net/news/20180723-india-mystifying-nod-code/

そうそう、縦でも横でもない不思議な首の振り方なんだ。こうやって冷静に動画で見るとすごい面白いが、知らずにこの現場にいると「どういう意味?」とスゴイ困るので、知っておいて損はないと思う。

 

ものすごく大括りに書くと、わすが4点にまとめられてしまった(笑)念のために断っておくと、今回あえて主語を大きくして「外国人は」とか「欧米の人は」という書き方をしていますが、実際は当然「人による」です。ものすごくきっちりしたインド人もいるし、大雑把な計画しか立てられない日本人だっている。だけど「人それぞれ」って言っちゃうと話が終わってしまうので、大味なカテゴライズをして傾向みたいなものを伝えられたらいいのかな、と思っています。

なにか1つでも「へぇ」と思えることがあったなら嬉しいです。逆に「私はこう思ってるよ」みたいな話も聞かせてもらえたら、それも嬉しいですのでぜひぜひ!


 

金玉はなくなってない

実はいろいろあって入院していた。下腹部から金玉にかけての部位に違和感があり、病院に行ったら手術が必要だと言われたからだ。

どうにも気持ちが悪いなということでいざ病院に行ってみたはいいが、よく考えたら金玉を医者に見せなければならない。これはイヤだな…と思っていたら、なんと担当医師が女医さん(推定年齢35〜45歳)になってしまった。論理的に考えて、僕は今からこの女医さんに金玉を見せざるをえないことになる。マジか。

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最初の診察の時の僕の動揺は大変なものであった。女医さん…恥ずかしいな…と思いながら症状を説明すると、「では、患部を見せて下さい」と冷静な顔で言われる。いや、まぁ当たり前なんだけどなんかドキッとする。思わず「…今ですか?」と聞いてしまう。今でしょ。思わず林先生の顔が頭に浮かんだ。今に決まってるでしょ。僕は勇気を出してパンツを降ろす。女医さんは冷静な顔で僕の金玉を眺め一言「ああ〜これは大きいですね」と言った。

なんだろう、ものすごく恥ずかしい。言われたこともそうだが、そもそもここまで冷静に金玉を凝視されたことなんてない。これはキツい。なにかそういうプレイだと思うしかない、と思ったが、それはそれで事態は別の方向へ展開してしまう可能性がある。耐えるしかない。さらにプレイ、じゃなかった診察は続く。ちょっと触りますね、と言うが早いか女医さんは僕の金玉を揉みだした。すごい真面目な顔で金玉を揉んでる。これは痛いですか?など確認しながら、あらゆる角度から揉む。そんなに揉まなくてもいいんじゃない?ってくらい揉む。その間僕は、これ以上揉まれたら追加料金が発生してしまうのではないか、などと考えていた。

そして女医さんは尋ねる。「症状はいつからですか?」この質問には困った。いつからか、と聞かれるとそれは中学時代にまで遡るからだ。

中学生。それは多感な時期。クラスメイトのおちんちんに毛が生えているのかいないのか、ムケているのかいないのかが気になって仕方がないお年頃だ。必然僕も、皆で風呂に入る時なんかにチラチラと友達のモノをチェックし、自分のものと比較検討し、1つの結論を導き出していた。どうやら僕の金玉は他の人よりもやや大きいようだ、と。

「おちんちんが大きい」なら自信にもなろう。しかし金玉である。なんの自慢にもならない、むしろちょっと恥ずかしい。今なら「男の価値はおちんちんではない」と胸を張って言えるが、純真な中学生の少年にはショックな事実ではあった。かくして少年は、銭湯では前を隠して入る男になってしまったのだった。

余談ではあるが、銭湯に入る男には2種類いる。前を隠して入る男と、丸出しで入る男だ。そしてわざわざ丸出しで入る男のおちんちんはやや大きい(気がする)。たぶんこれには相関関係がある。つまり、丸出しで入る男はその大きさを自慢しており、隠して入る男に対して優越感を露わにしているのだ。そこにはある種のヒエラルキー(おちんちんヒエラルキー)が存在している。しかも、おちんちんの大きさはほぼ生まれ持ってのモノだろう。つまり、僕らは生まれながらにしてヒエラルキーが決まっているのだ。これはもうカースト制度と言っていい。おちんちんカースト制度だ。僕らはこのカースト制度から逃れる事はできないのだ。

えっと、なんの話でしたっけ。完全に話がそれた。なにがおちんちんカースト制度だ。そうだ、「いつからですか」と聞かれたら困る、という話だ。

僕は中学生からこの金玉と寄り添って生きてきたんだ。今さらそれは間違いでしたなんて言いたくない。あと、実際には半年前くらいから明確に「下腹部と金玉の間を内臓が移動するような違和感」を感じていた。そういう意味では、25年前からとも言えるし、半年前からとも言える。なんと答えればいいんだ。このような様々な思いが僕の中を駆け巡り、即答を困難にしたのである。

…というような苦悩が色々とあったものの、最終的に出た診察結果は「鼠径ヘルニア」というものだった。本来はお腹の中にあるべき腸や腹膜が、下腹部の筋膜の間から皮膚の下に出てくる病気です。僕の場合は「脂肪」が「金玉」に流れ出ていく、という症状でした。なので、脂肪をお腹に戻して筋膜を補強する手術をした、ということであり、金玉は取り除いてはいません。

また経過観察結果なんですが、良好です。全く問題ありません。色々と心配して下さった皆さんに「元気ですよ、大丈夫ですよ」とお伝えしておこうと思っただけなのに、ずいぶん遠いところに来てしまった気がする。

たぶんこれを読んでくださった方には「元気ですよ」の部分はしっかり伝わったと思うけど、「大丈夫ですよ」については別の心配が生まれてしまったかも知れない。メガネ君、頭、大丈夫?

 

発砲スチロールで作られた家に泊まってきた

毎週更新と言っていたくせに、気がつけば3か月も経ってしまっていた。この3か月間、家族で横浜に行ったり仕事でアメリカに行ったり忙しく過ごしていたので、そのあたりのことはまた機会があれば書きたいと思います。

で、今日は先日「発砲スチロールで作られた家に泊まる」という体験をしてきたので、そのことについて書こうと思います。なにを言っているのかわからねーと思うが、おれも何をやっているのかわからなかったぜ…

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でまぁ真面目に書くと、あるボランティア活動に私は参加していまして、その中で「面白い人だな」と思った人を見つけたら、その人のことを調べ、興味が湧けば会いに行って話を聞いてくる という活動があります。その一環になります。(ということにしています)

ある日ネット記事を読んでいたところ、「発砲スチロールで作った家を担いで歩き、それで日本全国を歩いて旅している人がいる」という記事を読み、なんだこりゃと思って調べたところ、なかなか面白い考え方をしている人だなと感じたので、連絡を取ってみたのです。

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その記事がこちら
https://gendai.ismedia.jp/list/author/satoshimurakami

その方は村上さんというのですが、村上さんは快く返信をくださり、さらに「もし興味があれば、今ちょうど泊まりに来てもらうというワークショップをやってるので、泊まりに来てください」と誘って下さったのだ。

予想外の展開である。しかし場所は東京である。正直言って遠い。気軽に行きますと言える距離ではないが、かと言ってこちらから声をかけた手前、無下に断るのも失礼な気がする。どうしよう、いつのまにかピンチに追いやられてしまった。

いやしかし冷静に考えよう。ピンチはチャンスである。考えてみればこれから先、発泡スチロールの家に泊まれることってあるだろうか。たぶん一生ない。そう考えたら、これって一生の1度のチャンスなんじゃないのか。いつのまにか僕は「ぜひぜひ!」と二つ返事で返信してしまっていた。

しかし当然行くにあたっては、泊まりなので妻には説明しなければならない。勇気を出して「発泡スチロールの家に泊まりに、東京に行ってきていいか」と聞いたところ、「なにそれ?なんで?」という、当然のリアクションが返ってきた。

よし理由を説明しようとしたが、驚いたことに僕自身もそれがなんなのか、なんでそんなことをしなきゃならないのか、全くもって説明できないことに気付いた。論理的な理由が一切ない。最終的には「行きたいから」という小学生みたいな理由しか説明できず、それに対し「行きたいなら行っておいで」という承諾を得た。家族の理解(または諦め)に感謝である。


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さて、そういうわけではるばる東京へ。
駅で村上さんと待ち合わせると、さっそく家に案内してくれるとのこと。後についていくと、駅から歩いて5分ほどで大きな平屋に到着した。どうやら村上さんは、アーティスト仲間たちと共同で家を借りており、そこをアトリエとして活用しているらしい。中に入ると、アーティスト仲間の方々が作業をされており、村上さんから「今日泊まる人です」と紹介される。その仲間の方から、「ああ、チェックインですね」と言われて笑ってしまった。チェックインて。

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例の「家」は、村上さんが友人たちと借りている「アトリエ」のベランダに置いてあり、僕は門からベランダまで歩いて入って家にチェックインする、というルールだ。写真の通り、発砲スチロールとは思えないほどしっかりした見た目になっている。すごい。単純にその見た目に関心する。そして村上さんからペンを渡され「表札に名前を書いて下さい」と言われる。見ると、入口の上にホワイトボードのようにペンで書けるようになっている。名前を書くと「自分の家 感」が増すのではないかと思ったが、この名前を書く位置からして、離れて見るともうほとんど犬小屋の佇まいだった。
 
さっそく中に入ってみると、これが思ったよりも広い。幅80cmくらい、長さ170cmくらいなので、シングルベッドよりも少し狭いかなというくらい。思っている以上に快適で、下手なカプセルホテルよりも全然いい。
 
チェックインして、さっそく村上さんにインタビューをさせて頂く。ベランダに2人で腰を掛け、日本酒を飲みながらあーだーこーだと話を聞く。最高に面白い瞬間である。1時間ちょっとくらい話し込んでインタビューは終了し、村上さんは自分のアトリエに戻っていった。(インタビュー内容は後述)さてポツンと一人になり、時間は19時。ご飯でも食べようかなと、家に荷物を置いて食事に出かけることにした。
 
1人で見知らぬ街をウロウロするにあたり、インタビューの時に村上さんが言っていた「街が自分の近所になる」という感覚が生まれるか、ということを意識しながら歩いてみる。せっかくなのでGoogleマップを使わずに歩いてみようと思い、近くを歩いている人に美味しいお店がないか聞いてみる事にした。村上さんの言うところの「周りの人たちもご近所さんだと思える」というような感覚が味わえるか、という実験だ。
 
しかしこちらは特別な体験でテンションが上がっているせいかオープンなマインドになっているが、相手は普通に生活している人である。突然話しかけられ、ちょっと不審そうな顔をするおばさんやおじさんがほとんどである。そうかと思えば、すごく親切に話してくれる兄ちゃんもいた。とりあえず地元で評判のラーメン店に入ってみる。美味しかった。
 
さて次はお風呂に入りたい、と言うわけでまた聞き込みをする。最初に聞いたおじさんには「そんなもんねえよ」と一蹴されてしまうが、そのあと「となりの駅まで10分くらい歩いたら着く、そのへんにある」と教えてくれた。どうやら「近くに銭湯ありませんか」という僕の質問の「近く」に対して誠実に回答してくれたようで、なんだか嬉しい気持ちになった。とりあえず言われた駅の方向へプラプラと歩いて行くと、10分ほどでいい感じの銭湯を発見した。

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銭湯はいい感じにさびれていて、レトロ感が最高である。サウナと水風呂がちゃんと付いていたのでそれを満喫する。さびれていてそうな外観とは裏腹に中は意外と混んでいて、狭いサウナに男がギッシリ詰まっているのはさすがに暑苦しかった。
 
銭湯を出て、さて家に帰ってきた。やろうと思えばPCで作業などもできたが、せっかくの機会なので何もしない贅沢を満喫しようと思い、家の横のベランダスペースでゴロンとしてぼんやり考え事をする。庭を眺めながらなにもしない。これはいいな、最高の贅沢だな、と思ったのもつかの間、あっさりと寝落ちしてしまった。せっかく発砲スチロールの家に泊まりに来たのに、その隣のベランダで2時間ほど寝落ちしてしまう。何をしに来たんだ。
 
慌てて家に入って本格的に寝ようと試みると、今度は雨が降ってきた。雨音が発泡スチロールに当たる音は高く、こんなに雨音を近くに感じて寝ることも珍しい。思わず録音してしまった。そしてそのまま眠りにつく。
 
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朝になって目を覚ますと若干身体が痛かったが、テントで寝た時も似たようなものだ。朝には村上さんのインタビューを受ける事になっていたので、村上さんから聞かれた質問に対し、感じたことをそのまま伝えた。
 
まず「全てがご近所のように感じられる」といった村上さんの感覚だが、残念ながら僕はそれを感じることはできなかった。僕にとってこれは「宿泊先」であり、旅行に出かけてホテルを拠点として動く、という感覚とさほど変わりはなかった。
 
おそらくこれは、「家を作る」であるとか、「その家を置く場所を交渉する」といったような、家を獲得するプロセスを体験していないからだろうなと思う。要は自分のものと感じていないのだ。だからどこまでいっても他人の家だし、自分の家の近所と感じることは難しいだろうなと思う。
 
また、雨で外は冷えてきていたのだが、発泡スチロールの中は思いのほか暖かく、寒いと感じることはなかった。足が伸ばせないのは若干ツライが、それさえ除けば発泡スチロールハウスは割と快適に過ごせる事がわかった。貴重な体験だ。もし僕が路上で生活することになったら、ダンボールではなく発砲スチロールに住もう。
 
自分の体験を語っていると、今度は逆に「他の人はどんな風に感じたのか」をぜひ聞いてみたい気持ちになった。村上さんもこういう気持ちだったんだろう。このワークショップに参加した他の人が、「この泊まったメンバで同窓会みたいなことをしたらどうか」という話をしたらしく、もしそういうのが開かれるのであれば僕もぜひ参加したい。なんだかよくわからない会になることは間違いないが。
 
この成果は何かで発表するのか聞いたところ、京都のギャラリーかなにかで、展覧会として展示するかもしれないという。自分の体験が展示されるというのは面白い、もし実現されるのであればぜひ見に行ってみたい。

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家の中で優雅に朝食を食べるメガネ

個人的には非常に有意義な旅だったと思うのだが、40歳の2人の子持ちのおっさんがすることではないな、とは思った。楽しかったです。

 

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以下は、最初に村上さんに聞いたインタビューです。ご参考までに。

 Q. そもそも村上さんは何をやっている人と考えれば良いですか。

・芸術家、とか作家、だと自分では思ってます。もともと建築学科にいたが、人のものを作る気がどうしてもしなかった。家って自分の身体の延長と言ってもいいと思う、そういう大事なものについて、人に設計を頼むということがそもそもおかしい、という思いがあった。
 
Q.なんで家を背負って歩こうと思ったのか。
いくつかの思いが重なってのことだった。
・もともと散歩が好きだったが、家を出る時に母に「どこに行くのか」と聞かれるのが嫌だった。目的地がなければならないのか、歩くことそのものが目的ではダメなのか
 
・ビアガーデンでバイトをしていた頃、雨が降って客も来ないから「閉めましょうよ」と店長に相談したところ、「上に確認しないと閉められないから、ちょっとテーブル拭いておいて」と言われた。雨の中テーブルを拭くという作業の無意味さに、現場と世の中を牛耳っているシステムとの間に乖離があると感じた。同じように、家賃を払って家に住んで生きる、そのために働くという繰り返しの行為に嫌気がさした。国が管理のために所有者を明確にして…という理屈、システムは理解しているが、本来誰のものでもない土地を誰かのものとして、それにお金を払うのは正しいのか。本当にその方法でしか人は生きられないのか。もっと他のやり方、バージョンがあるんじゃないか、という思いがあった。
そこから、「今がおかしい」ということを表現するには、今を相対化するという'か、全く違うことをすれば、逆に今がどういう状態かもっとクリアに見えてくるのでは、という発想から、移動する家ということを思いついた。
・家を移動させながら家の絵を描いて、それを中心にした展覧会を開く、ということを思い描いて、それを一旦のゴールとした
 
Q.実際に歩いてみてどうだったか
・毎日歩いて、色々な人に会い、その人が知り合いを連れてきて、よく分からない人たちと飲んで、別れて、また次の街でいろんな人に会い…という、特別な毎日の連続だった。そうすると、毎日がただ通り過ぎて行くだけのもの、という気がしてきた。自分の体験として定着していないという感覚、自分がなくなってしまうという感覚。いつもの場所で、同じ人に今日の出来事を話す、という行為がないと、自分を保っていられないという感覚に陥った。
取調べ室で何時間も同じことを聞かれ続けると、何が本当なのか分からなくなって、そこから離れたいために、家に帰るために嘘の供述をしてしまうという、アレと同じ感覚なのかもしれない。
自分にとっての「家に帰る」というのは、日記を書く行為だった。様々な体験があり、それを日記に書くことでやっと1日が終わるという感覚があった。
・家を背負って歩いていると、ずっと地続きというか、ちゃんと繋がっていると感じることができた。飛行機で移動すると、目的地には着くんだけど、そこはもう本当にその場所なのか分からない。家を背負って歩くことで、その場所はずっと地続きであることを感じられるし、ずっと近所にいるという感覚になった。
 
Q.今回「ワークショップ」として他人をこの家に泊める という活動をされているが、これは何がしたいのか
・僕が家を背負って歩いた時に感じたような、ずっと近所が続いている感覚だとか、そういうものは他の人も感じるのか、ということを聞いてみたかった。
・今回12-13組の人が泊まってくれたので、これを基にして京都の展覧会でまとめて出すかもしれない。
 
Q.今は何をやってみたいと思っているのか
・色々あるんだけど、この活動の関係で言うと、次はモンゴルでやってみようという話がある。モンゴルの人たちはそもそも移動民族であり、土地に執着がないのではないか。そういう人たちに、土地を貸してくれと話したらどうなるのか、どう感じるのかを試してみたい。
・その他には、また別のバージョンとして「家の壁に広告を付けてその中に住み、その広告料で生活する」という実験をしようとしている。高松の美術館が最初のテストになる予定だけど、なかなかスポンサーを見つけるのが難しい。
 
Q.村上さんが伝えたいことはなにか
・「世の中ってこういうものだよね」と固まっているものに対して、他にもやり方はあるんじゃないかってことを、ただ伝えるんじゃなくて、ユーモアを交えたモノを作って、モノを通して伝えたい、という思いがある。モノにはそれだけの力があると思っている。
・例えば、以前「分煙にご協力お願いします」と書いてある公園で、ビニールで作って長い煙突のようなものを作り、その中で何人かでタバコを吸うというようなことをやった。煙は上から出るので誰にも迷惑はかけない、ちゃんと分煙はできてるっていう。真っ当なやり方ばかりじゃなくって、もっと遊ぶ手段というか、そういうものを作っていきたい
 
以上
 

UXデザインと風見鶏

流行りのUXデザインを学ぶというトレーニングに参加させてもらった。その中のエクササイズで1つ面白いのがあったので共有したい。2人組になってそれぞれ駄菓子を2つ選び、1人がその駄菓子を自由に食べ、もう1人が観察者としてその様子を細かくメモをする、というものだ。
 
僕が観察者になった時、相手はまずうまい棒から食べ始めた。彼はうまい棒の袋を開ける時、ものすごくちょっとずつ開ける。小さく開けてかじり、また少し開いてかじる。するとうまい棒のカスが机に少し溢れる。それを繰り返して食べ終わった後、ティッシュでパッパッとカスを払って下に落とす。そういう食べ方をしていた。
 
その観察の後、「気になった点について、なぜそのような行動をしていたのかを確認して下さい」という指示があった。僕は「なぜあんなにちょっとずつ開けたのか」を聞くと、彼は「一気に開けるとカスが散らばってしまうのが嫌だった」と言う。なるほど、汚したくないのかと思った。
 
しかしキレイ好きであるなら、その後カスをパッパッと机の下に落としたのはおかしい。その点を確認すると、彼は「散らばって服や身体が汚れるのが嫌だった。僕は身体が弱いし、家に子供がいるので、雑菌みたいなのは持ち込まないようにしたい」と言う。
 
さらに暫く考え込んだ後、「あと、そもそも僕は『表面的にキレイならOK』というポリシーがあるので、机がキレイなら全然OK。部屋を片付けるときも、クローゼットに放り込んで見えなくなればとりあえずOK」と言っていた。
 
彼が普段気をつけていることやポリシーが、駄菓子を食べるというだけの行動にまで現れていたことに驚いた。ちなみに僕はというと「2つのお菓子を交互に食べる」という食べ方をしており、「何事もバランス」と考えているポリシーが思いっきり行動に出ていて自分でも笑ってしまった。
 
このように、人の行動はその人の内面に大きく依存する。なのでデザインをする時は、人の内面からアプローチし、どういう人がどういう行動を取ることを好むのか、それに適したデザインとは何か、ということを考える。これがUXデザインの基本である、という、そういう導入のエクササイズだった。
 
なるほど、些細な行動にもその人が良く現れているんだな実感し、感心した。感心しながら僕は、そういえば昔似たようなことがあったなぁと思い出していた。
 
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あれは風の強い日のこと、横断歩道での出来事だった。僕が横断歩道にたどり着くと信号は赤だったので、青になるのを待っていた。待っていると、ふと、前のおっさんがなぜかこっちを向いていることに気付いたのだ。
 
横断歩道で待っている間は進行方向というか、道路の方を向いているのが普通だろう。だけどそのおっさんは完全に後ろ向きになっている。なんでだろう、と思ってしばらく見ていると、今度は角度を変え、横断歩道に対して横向きになった。それからも、少しずつ角度を変えながら信号を待っている。
 
どういうことなんだろうと思ってしばらく観察していると、ある事に気付く。どうやら、風の吹く向きが変わるとおっさんの向きも変わる、という因果関係があるようだ。風に対して背中を向けるような角度に微調整されている。
 
さらに観察を続け、僕はその理由に辿り着いた。そのおっさんは後ろの髪を強引に前に持ってきているタイプのハゲだったのだが、風でその髪がひっくり返らないよう(写真参考)、風が後ろから当たるように角度を調整していたのだ。
 
風に対して常に後ろ向きな姿勢。しかし「風と戦う」という意味ではおっさんの気持ちは前向きなので、このおっさんの性格は前向きなのか後ろ向きなのかどっちなんだろうか、などと思いながら眺めていたが、その間もおっさんは風が吹く向きに合わせてカタカタと向きを変えていた。風見鶏みたいなおっさんである。
 
「人の行動はその人の内面に大きく依存する」というUXデザインの話から風見鶏のおっさんを思い出したのだが、改めて書くとぜんぜん違う話だったな。ぜんぜん違うんだけど、UXデザインのエッセンスが少しでも伝わればいいなと思います。無理か。
 
 

「夢を与える」という言葉に対するモヤモヤ

もうほんとタイトルのまんまなんですが、「夢を与える」という台詞を言っている人を見ると、なんかこう、モヤモヤした気持ちになります。

いろんな場面で使われるが、1番多い文脈はアスリートや無謀なチャレンジをする人が「応援してくれている皆さんに夢を与えたい」という形式だろう。

確かに、その頑張る姿を見て感動し、夢や希望を持つ人も沢山いると思うし、素晴らしい偉業だと思う。それは間違いない。でもなんというか、それが目的のように言われるのはなんか違うというか、本末転倒感がある。

まず最初にその人自身の目的があって、それに向かってひたむきに頑張る姿、障害を乗り越える姿が感動を呼び、見ている人が勇気や希望を持つことができる。こういう流れならすごく理解できる。

が、最初から「夢や希望を与えることが目的」となってしまうと、究極は「感動しましたよね?夢や希望を持ちましたよね?!」という押し売りになりかねない。他人が感動したかどうか、がゴールになるので、成否が他人に委ねられていることになるのだ。それはなんか違うと思う。

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それにしてもなんで僕は素直に「素晴らしいな」と思えないのか。たぶん「与える」という言葉が持つ「上から下へ」という印象にだいぶ引っ張られてるんだと思う。持つ者が持たざる者へ行う施し、というある種の上から目線のようなものを感じて、反発心が生まれているのだ。

アスリートは実際にすごいからまだいいが、無謀なチャレンジ系だとさらにモヤモヤする。先日ニュースになった「ヒッチハイクアメリカ横断」の中学生などその典型で、彼も「夢を与えたい」ということを言っていて、もう手段も目的もワケが分からない。

だけど、実際にはそういう「夢や希望を与えたい!」という姿勢で過剰な自意識を振りかざしている人がいたとしても、その姿を見て夢や希望を与えられる人は少なからずいるわけで、そうなるとそれは誰かを救っているという観点で確実に良いことをしている。少なくともここでモヤモヤとか言ってるおっさんよりはよほど生産的だなと思う。

でもなんかモヤモヤする。せめて「夢や希望を感じてもらえたら」くらいのスタンスでやってほしい。そこんとこ頼みますよ、なにかを成し遂げようとしている素晴らしい方々。