逃避の画家

やりたいことは他にも沢山あったけれど

ぼくはある日を境に、画家という仕事に
つく決心を固めた


白い白い大きなキャンバスという海に
身投げする毎日
そう、あの悲しい出来事があったその日から 
ぼくは1日たりとも絵筆を握らない日はない


高校3年の夏
飼っていたネコのくーちんが死んだ


みんみんゼミが突然なきやんだ瞬間だった


くーちんをよく連れて行ったお花畑
きみどりいろとピンクいろのお花畑を
みつめるくーちん
くーちんの長いしっぽをみつめるわたし


くーちんがぼくの顔をひっかいた手
ひげをすりすりと擦り付けてきたこと
悪さをしてミルクをとりあげられ、
座布団の上でふてくされるくーちん
ぼくの膝の上ですやすやと眠る顔


全てが愛おしかった、くーちんとの日々。


ー泣きたいー


けれどもぼくは涙を流すことができなかった
泣いてしまえばくーちんの死を受け入れることになってしまうから。


ぼくはくーちんの亡骸を埋めてしまう前
にふと、くーちんを描きたいと思った


死んだくーちん。
目をギュッとつむって
尻尾はぴたりとも動かない。


えんぴつが走り出す
急に力がみなぎって
炎が心の隅のほうにぽっと燃え始めている。
そのとき、ぼくの中の悲しみはどこかへ
消えていた


あっという間に白いキャンバスがくーちんの姿で埋め尽くされていた


長い尾の毛並みはきれいに整っていて、
闘病に耐えた華奢な体はとてもなめらかで・・・
子を持たずに死んだ三毛猫のさびしくも
美しい人生を
ぼくだけが知る雌猫のかわいいその姿態を
細かく描き出すことに集中させる。
今、この子はぼくの中で生きている。
いいや、今こそ生きているのだ。


くーちんの絵が出来上がると、ぼくは
筆を置いた
そして、すぐにぼくはくーちんを埋めに
出かけた


小さな体が土の中へと消えていく
ぼくの中でくーちんが思い出に変わる瞬間、
ぼくは涙を流した。
自分でも気がつかないうちに、
次から次へと流れ出す涙。
けれど涙を滴らせるぼくの頬は
とても熱くて
涙はすぐに乾いていた


ああ 情熱という名の炎はどこからやってくるのだろうか?


それはどこでもない、かなしみという
湿った大地の上だ
けれども情熱の炎の存在は、ぼくにとって喜びでしかなかった


ぼくはそれからというもの、
ぼくの心の中のその湿った大地の存在に気付くと、たちまち筆を走らせるようになった


白いキャンバスに線が生まれる時はきまって
ぼくの心に炎があらわれ、心の涙はたちまち
あつい炎にかわっていくのを感じるのである
そしてそんな日々を繰り返しているうちに、
絵画というものはぼくにとって、なくてはならないものになった


ーああ   きょうはくーちんの20回忌さ
くーちん、ぼくはずっと、君が死んだ日から
絵を描くことをやめていないよ
君がくれたプレゼントさ
ぼくは君を失って天職をみつけた
悲しみを知ったからこそ
生み出すことができるものがあるのだとすれば、
人々は生きることが素晴らしいことに
気が付くはずだー


くーちんを描いた絵は、その後試行錯誤を重ね、修正を加えながら完成させた
そして昨年の春、個展を訪ねてきた大富豪の老人が、戸建住居を購入できるほどの値段で購入してくれた


なんでも、彼はネコが嫌いだったというが、
この絵を一目見て涙し、
とてつもない悲しみを感じ取ったそうだ
そして死体から醸し出す、
微かな火のエネルギーが  
肉体の蘇生をも連想させるといって
ぜひこの絵を生きる希望にしたい、
と言ってくれた


いまもなお彼の豪邸に飾られた絵の中で
くーちんは生き続けているのである。

逃避の小次郎

ぼやけた視界に小さな交差点が
うつっている


おや?交差点の向こうで真っ黒い歯を見せてにやりとしている男が、おれに手招きしている


こっちこっち、 と言っているようだ
おれは交差点の青信号を確認しないで渡ろうとする
そいつはおれが自分のほうに来るのをずっと待ってるみたいだ


なぜか、こいつとは前から知り合いなのでは?と思って、思わず笑って小走りに、「よう」と言っている自分がいる。


あっち行こうぜ
いいもん見せてあげたいんだ
おれについて来いよ、絶対おまえ
気に入るぜ


そいつが見ず知らずのおれに
あまりにも親しげに話すもんだから
おれもつい友達だと思ってしまう


けどこいつ、これから歯医者じゃねーのか?
確か2時から近所の歯医者予約しているはず、って、なんでおれはこいつの予定を把握しているんだろう。


来いよ、ぜってーおもしろいから


「おまえ、これから歯医者だろう?
しかも、金も診察券ももって無いじゃないか、いいのか?いったん家戻るのか?時間ねーぞ、今13:40分だからそろそろ、、」


とまあ、おれの現実的な心配をよそにそいつはおれの手を引っ張りながら歩く


おれもま、いっか、となぜか急に
楽しいことが起こる予感がして
そいつと歩いていた


こいつは小次郎だ
なんか、ふと浮かんできた
こじろう、という響きはなんだか
やんちゃでも許されてしまうような
要領の良い人物を想像させる


小次郎、おまえどこまで行くんだ?
歯医者はいいのか?
先生おまえの黒い歯を早く削りたがっているはずだ


小次郎はおかまいなしにおれを
引っ張って面白いもん見せてやるって聞かない


おれもじつはさ、こじろう
これから家に帰らないといけないんだよ まだ着かないのかい?


おまえさ、もういい大人なんだろう?30ぐらいに見えるぞ
後先考えずに行動すんのやめろよ


すると小次郎は急におれの方みて
「歯医者は実はもう済んだんだ」
といってにやりと笑った


ほら、みろよ
ここが、秘密基地だぜ
森の中にみえて
実はここはおれが作ったセットなんだ


そこにはドアーがいくつもあって
しかも背景が森のセットだ
それもそのはず、なんだか大きな頑丈な白い紙のような素材のものに、木の緑がペンかなにかで雑にぬられている


おまえを、つれてきたくてさ。
おまえ、家に帰らなきゃって言っているけどみろよ、ここのドアー開けると、おまえんとこの家だぜ?
と、小次郎はドアーを開けて確認させる


おれは思わず、すげえ!って叫んで
小次郎のことを見直した


もう帰るのか?そこおまえの家だぜ
目の前にあるんなら、もう少しあそんでってもいいだろう?


小次郎は、なんだかあせった様子でおれを引きとめようとした


ああ、あとほんの少しな。
ほんとだぜ?
おれは家に帰ってでかける支度をしなくてはいけないんだ


おれがそう話すと、小次郎はそれから
一度も言葉を発しない


おれは、なぜ小次郎という人物と一緒にいるのかよくわからなかったが、どうやら夢を見ているのではと思った


小次郎とはそれからただ歩いたり、とまったり、ただ一緒にいるだけだった


その時とつぜん、ふっと目が覚めた

やはり、夢をみていたようだ
なかなか面白かったが、なんてどうでもよい夢だったのだろう


おれは時計の針が2時をさそうとしているのに気がついた


そうだ、おれは2時から歯医者を予約していて、工作の宿題の途中、眠ってしまっていたんだ。
せっかくの土曜日が台無しさ


トントン、部屋のドアーをたたくおとがした
「また寝てたの??
さっきから何度も起こしに行ったのに
もう14時じゃない 先生怒るわよ
ほら、送ってあげるから早く支度しなさい」


母さんに連れられて、おれは歯医者へと向かった


小次郎の真っ黒い歯に比べたら、
おれの虫歯なんて大したことないけど。
と、そんなことをふと思った

 

 

 

 

逃避のボクサー

かさぶたがとれるまで殴り合った日々

戦いというものはどうしてこうも痛いのか?


グーがものすごいスピードでやってくる
それをみつめる観客と
それを受けるわたし


どのような感情をぶつけているのだ
あなたはわたしという敵をやっつける
ふりして、
じつは・・・!
己の虚栄心や焦燥感や邪念をみつけるやいなや、それを消滅させたいと思っているのかもしれない


幼いころから平和主義だったわたしが
ボクサーになるなんて考えられなかった
今でも思う ほんとうは


ー負けたくない、けれど
   勝ちたくもないー


どちらかが負けるなんて
そんなの嫌だ
けれどそうでなければ、
そうでなければ人々は喜ばない


もし勝ち負けの存在しない試合を
繰り広げるのならば
観客はつぎつぎに席を立ち
やれつまらない
生温い平和主義のおままごとを見るのは
うんざり、などと
ブーイングの嵐が巻き起こるかもしれない


事件はとつぜんやってきた
対戦相手がズルをしたんだ
審判はそれをわざと見逃し
観客もそれを鵜呑みにし
だれもかれも対戦相手の味方となった


おそろしい観衆の目
観衆たちの目はみな、
コバルトブルーの目をしていた
対戦相手はまだ正気さ
審判は冷や汗をかいて
無事に試合が終わることを望んでいる


ー負けなければー


そんな思いがわたしの中に急に芽生えた
観客はわたしがやられることを
望んでいる


やがて人々の目の中にあるコバルトブルーの海は荒波へと変わり 
わたしのボートを倒そうとする
わたしは耐えきれず
かれの右ストレートを素直に受けた


不思議だった
痛みはまったくといっていいほど
感じなかった


彼の勝利だ
私はあきらめることを選択した


ところがわたしはあきらめという
言葉の本当の意味を知っていた


時代は遡って江戸へ
商人として生きる彼ら江戸っ子の特徴、
それはあきらめの良さ
あきらめることは決して負けではない
そう、彼らは古い価値観を捨て、
いさぎよく諦めて前進するのだ


戦うよりも負けること
ここにわたしなりの美学が生まれた
いさぎよく、私は敵の前から退いたのだ


とつぜん、彼はわたしに花束を渡して
きた
観客から拍手喝さいが沸き起こる
「きみは勝ったんだ。きみは信念を
貫いたのだ」
彼の汗が光っていた


これこそ、私が待ち焦がれていた試合の結果。
そしてこれこそが、勝者と敗者が分かり合う瞬間であったのだ!

 

逃避のフラメンコ

フラメンコシューズを買った

靴の裏にくぎが打ってあるんだ
想像できるかい?


これを履いたものは
たとえば走ったとき、
たたたたたん   と
激しいおとがする
ときどきゆっくり慎重に歩く
ととと・・・とん
ととと・・・ととん
と・・と・・ととつとととん!


次第に足のステップが
リズミカルになっていくんだよ
こんなに楽しいことがあるんだね


ネコがこれを見たらどうなるだろう?
いぬがこの姿をみたらどうなるだろう?
ことりがこの音をきいたらどうなるだろう?


もしネコもいぬもとりも
みんながフラメンコを知ったら
心おどるだろう
眠たかったネコはいつのまにか
すっくとおきあがり
ギターをさがして人間にわたすだろう
にゃあ、弾いてよ
と、いわんばかりに


お腹がすいて機嫌が悪かったいぬは
わんわん歌いだすだろう
ぼくが好きなことは歌うことだったんだって気付いてね


空飛ぶことに退屈したことりは
にぎやかな地上の世界におどろいて、
カスタネットを買いにでかける
ちゅんちゅん音がもう飽きたといってね


そして・・・バイラオーラ!
フラメンコダンサーの登場さ!


でるくいうたれる、とはいうけれど
フラメンコの世界は出た者勝ちさ


さあ   みんなも踊ろうよ
愉快なフラメンコ
情熱のフラメンコ


動物だって知っているのさ
だから君もきょうから
フラメンコシューズをはいてみようよ!

逃避のポスト

あけがた

新聞配達のおとがする


みんなの家にお届けするんだ
どんな記事が載っているか
どんな写真が載っているのか
みんなが首を長くしてまっている


犬が新聞をくわえて去っていく
ここの家はみんな新聞を見ないで捨てる
んだ  そして飼い犬の掛け布団になる
それを知っているから、犬は自分から
くわえてもっていくんだ


でも犬は賢いから、時々土管のある空き地へ
それを持っていって、仲間と読む
犬だって、お手やお座りだけしか出来ないわけじゃない。
きちんと人間社会の闇を知っている
そして犬同士で語るんだ


「犬は昔から、人間よりも賢く集団生活を行っていたんだ。 食べ物だって、分け与え合って、意地悪するものなんかいなかった」だとか、
「犬の記事がないのはまことに遺憾だ
犬のための、犬による政治がないと、
こうも世の中はぱっとしませんよ」
などと言いながら・・・
犬のボスは無力感に包まれてしまって、
それで勢いよく走ってどっかに消えて
ゆくんだ


夕方    郵便配達の人が慌てて手紙を
届けにいく


郵便配達の人は、きっと赤いポストから
一通だけ手紙を抜き忘れて、そのことが
ずっと気になっていて、どうしようもなくなって、もう一度ポストに戻るんだ
そうしたら、案の定一通だけ手紙が残っていた。
その手紙は、なんと自分宛の名前の手紙。びっくりして、もう一度見返してみると、住所が違っていたのでなんとなく腰抜けしてしまう。  
だけど立ち上がって、急いで届けに走って行くんだ


その様子を赤いポストのそばで見ていた小さな男の子がひとりつぶやく


「どうしてもう一度ポストから手紙を取り出す必要があるの?
ポストの中はね、真っ黒い洞穴みたいで、そこに入れられた手紙たちは、それぞれのおうちに届くように、
なんこも道が分かれているんだよ」


そうして、なんだか悲しくなって、
泣いて走って帰って、ママの膝で泣く
んだ。
ところが坊や宛てに、手紙が届いていた
んだ  
あの郵便配達員とおんなじ名前の、坊や宛てに。
手紙を開くと、そこにはこう書いてあった


「君にゆうびんです。赤いポストの中に
暗い道はありません。
郵便局で働く人が、ポストからみんなが投かんした手紙を取り出して、それを仕分けして、それぞれの住所に届けにいくのです。
ポストがそのようなシステムになって
いるのでしたら面白いかもしれませんが、それでは郵便屋さんの役割がなくなってしまうでしょう。」


坊やは自分の使命を突然感じたのか、
郵便配達員になろうと決心するんだ


と、そのような根拠もなにも無いことを
考えていると、インターフォンがなった


「あなたにゆうびんでーす。」


陽気な配達員が笑顔で渡してくれた
それは母親からの手紙だった
開くとそこにはこう書かれていた


ーげんきでやっていますか
   とうひばかりしていませんか
   自分の夢に向かってがんばって
   くださいね
   おうえんしています
   はっぴーばーすでい!ー


そうだった!きょうはぼくの誕生日
だったっけ・・(汗)

 

 

逃避の海水浴

海の水があまじょっぱい

まるでお昼にたべた肉団子のたれみたいだ
疲れを知らないばかたれが、きょうも
逃避を味わいにやってきた
砂浜の温もりを足に感ずる
時が水とともに流れてゆく

たとえば一度目の波が海の向こうの
遠い国の情勢を知らせに来る
そう、さざなみだ
幸せな国の穏やかな社会と人々の心を
伝えに

二度目の波は大波だ
ひどく疲弊した人々がひどく荒んだ
社会に生きている
顔はこわばり  みんなが助けを求めてい
る  ざばんざばんとひたすら荒れゆく
冷たい音を重ねた大コーラス。
大波は突然、さあーっと、小さな音に
変わって あっというまに遠くに消えてゆく

三度目の波は普通の波
大きくなく小さくもなく
遠くもなく 近くもなく
不幸せではないが、幸福でもない
良くもなければ悪くもない、
そんな普通の国のことを知らせに、
当たり前のように、押し寄せてくる
んだ

ぼくには
他の国で起こっていることは、
わからない
心の波が知らせに来てくれないと
ぼくにはさっぱり考えることも、
感じることもないんだ
そのうえイマジネーションの時間が
奪われてしまえば
ぼくは自分の国で起こっていること
さえも 想像することができなくなって
しまうだろう

青くてみどりいろで黄色の海
もしかしたら、絵の具の海かもしれない
誰かが絵筆を洗うたびにそう、
たちまち奇妙な色に変わっていく。

夢や幻想を描きたくて、
うずうずしていて、必死に描いて
出来たものはお空の虹かもしれない
そう、空は大きな大きな画用紙になって
いて。

小鳥が海で泳ぎたがっているかもしれない   
カラスが海の魚の一匹に恋をしているかもしれない 
小魚が海の集団生活につかれて、
空を自由に飛びたがっているかも
しれない

人間が海を汚す前は、もっと透き通った
きれいな海面だったろう
空の太陽が黒点のほくろを隠すために、
おしろいを塗るときに鏡として使った
のかもしれない、いや絶対にそうなのだろう

人魚が死んでしまったとき、
お葬式をしようと提案したのは
サメだったかもしれない  
サメは自分がその鋭い歯で噛み殺したのではないか
と、鯛やさんまに責められて悲しくなっても、
ぐっとこらえたのではないだろうか
ところが人魚は人間か?魚か?
と、考えれば埋葬のしかたは変わって
くる

そんなことを考えていたら、
雨がふってきた
大海を見渡す人間が自分だけになって
いた
サーフボードも船もなんにもみえない
みえるのは・・・
大海の表面に広がる雨粒の波紋!
雨は次から次へとおちていく
嬉しそうにおちていく
落ちたところが  海でよかった
そう言っているかのように
海は雨をなんとも思わない
それどころか、歓迎しているように
見える
雨が永久にふりつづけても
海はきっと受け入れるのだ
地球上の出来事は  全て海が受け止める
人間はそのような海に  
自然の上に立とうとしてはいけないのだ

夜の星が海と無言の会話をしている
人間は海に背をむけて
ぼくもようやく家路にむかった


逃避の勉強机

宿題にとりかかろうと鉛筆をもつ

上等なえんぴつだ

木と鉛のにおいが合わさり、

なんとなく安心する


削られるがままの、忠実かつ誠実な人柄の

サラリーマンのようだ

ふでばこという小さな会社の中に収まり 

ひたすら使われる被雇用者、スーツの似合う、

細長い長身の鉛筆。


赤青鉛筆がふでばこに入っている

まだ未使用の、赤青鉛筆2本。

手に持つと、はしのようだ

けずるとえんぴつになるのに、

つかわなければ、はしにもなる

学校でおはしを忘れた人がいたら、

貸してあげよう。

きちんと洗って返してもらったら、

もいちどふでばこに戻すんだ


ノートの紙が、鉛筆と話したがっている

はやくはやく、と急かされながら、

仕方がない 勉強にとりかかろうか。


計算式に当てはめて数字をいれる 

一問目で、さっそくつまずいてしまう

自分が書いた汚い数字がきちんとノートに

記されている

誤りだらけの数字はまるで出来そこないの

新入社員

数字に手足がくっついて、勝手に動いている

好き勝手に生きているからこうも、醜いままだ

いつまで経っても、問題解決にいたらない


さきほどから、

座っている椅子の調子が、なんだか悪い

ぎーこぎーこ、揺れている

数字を入れてみて、計算式のとおりに

計算して答えが合わないから、 

さっきからずっとむしゃくしゃしているのに

椅子の調子が悪いとぎーこ、ぎーこと揺れて

余計に気が散る

難しい算数の大きな荒波を、ぼくは今にも壊れそうな椅子の船にのって

鉛筆のオールで必死に漕いでいる

操縦者はぼくしかいないから

最後まで漕ぎ続けるのだ


途中で大波の中に身体を委ね

そのまま近くの陸まで流れて行って

布団の浜辺にここちよく倒れ込んだら、

どれだけ楽なんだろう


だけど、算数の大きな荒波も、

あきらめなければきっと、

やがては小波に変わって、応用問題の先まで

通り過ぎたら、達成感という名の島にたどり着くことであろう

だからぼくはがんばるのだ


そのとき、とんとん、と、ドアーをたたく

音がした

救世主だ  小さな船で大航海をしている

最中に出会ったのは、

クルーザーのように大きな身体のお父さん


「はやく寝ろよ」ひとこと言って、

部屋を出ようとする

一瞬だけ現実にかえったけれど、

すぐにまた大きな波が押し寄せてくるようで

ぼくは叫んだのだ

「おとうさん、たすけて!問題が、さっぱり

わからないんだ」


すると父さんは苦笑しながら、

「どこがわからない」とやさしく言った

ぼくは助かったのだ

大荒れの大航海時代は、終わったのだ


お父さんが一問だけ教えてくれたら、

もう次の問題も、その次の問題も全て解ける!

必死に漕ぎ続けるぼくを、大きな身体の

お父さんが見守る。

お父さんにとってみたら、きっと算数の荒波の海なんか、足の膝小僧ぐらいの深さの川

みたいなものなんだろう。


「ありがとう、おやすみなさい」

すると父さんは、

「はやく寝ろよ。それから、椅子をどんどん

とうるさかったから下で寝ているお母さんに響くぞ」と言った。

「もうすぐ宿題が終わるから、船を片付けるよ  ほら、もうじき陸にあがる」


「じゃあ、もう寝るんだぞ」

お父さんが出ていくと、ぼくはまた鉛筆を

走らせる

島はもう見えている ゴールはすぐだ


ようやく宿題がおわり、ふと時計に目をやった

時計の針がもうすぐ12時だ

今日という日が終わる

勉強机でぼくはきょうの最後の瞬間を、

逃避で終わらせずに済んだのだった


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