エネルギーを使って移動する

私の大好きな本に「転がる香港に苔は生えない」という本がある。

香港がイギリスから中国に返還される際に香港で生活した著者のルポルタージュで、このタイトルの転がる香港に苔は生えない、は日本の国歌の「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌をとなりて 苔のむすまで」を文字っているけれど、苔など生える暇もなくめまぐるしく政治的な状況が変わる香港の様子を表現していわけです。

 

 

これを読んだ高校生の私は世界史を履修していたけれど、本当に何にも理解できていなかったんだな、とかなり衝撃を受けた。

 

 

日本は戦後から70年経ち、その間に安保闘争なんかはあったけれど、政変のような大きな体制変化はない。私の親世代、祖父母世代もそうして生きてきた。

それに対して中国は、戦前はもとより戦後からもめまぐるしく人々が真剣に「考える」ことを求められる政治の変化があったのだということが、私は全然わかっていなかった。

あそこで出生すればイギリスのパスポートが手に入れられる、あそこならポルトガル。あっちへこっちへと二転三転する中国、台湾の政治的な変化に人々が素早く反応して、いかに自分と家族がよく生きるかということにだけ焦点を当てて、身軽に世界中どこへでも移動していく。

私がわかっていなかったことは、私たちは今も歴史の動きの中で生きているということで、フランス革命のように、明治維新のように、第二次世界大戦のように、私が信じ当然と思っている世界はいかようにも変わるのだということだった。

そしてそういう風に私の中の世界が変わったって、死なない限り生きていかなければならないということだった。

 

もう一つ、これは大学に入ってからの話で、私が韓国人の教授と話をしていたときに、教授はかつて投獄されたことがあると語った。

それは教授が学生の時の話で、民主化運動に参加していたせいだという。いまいちピンときていなかったのだけれど、この間韓国は光州にある民主化運動記念館に行ってきて、またしてもなんて自分は鈍いんだろう、と衝撃を受ける羽目になってしまった。

韓国は80年代に至って民主化に成功するまで、軍事独裁政権下にあった。軍事独裁政権が倒れたきっかけともなる光州事件は、韓国の光州で起きた民主化を求めるデモに対して、時の政権が武力を用いて(戦車までをも導入して!)制圧した、という出来事で、この事件では最低でも数百人といわれる死傷者が出ている。

記念館にあったビデオでは、戦車が、兵士が、容赦なく市民を打ち、殴り、引きずり、殺すさまがまざまざと映し出されていて、なにより驚いたのがこれがたった35年前の話で、私は35年後のそこに今座っているのだということだった。

その後軍事政権は倒れ民主化に成功するに至るわけだが、教授は「あのときに一緒に投獄された仲間が、官僚になった」と言っていたのを思い出した。中国だけじゃあないのだ。この制圧で名を上げた軍部の人間には当時メダルが贈呈されていて、その返還がなされたのはなんと2006年のことだという。

中国や韓国(朝鮮)、そういう近しい国の中で、こんな風に歴史が動いていたのだということを私は知らなかった。正確に言うならば、歴史と一緒に、人々の価値観や立場や生き方が変わったということを考えられていなかった。

 

日本は「上からの革命」しか経験していない国だから民主主義に対する考えが甘いと言われる。これに対していよいよ最近反論することができなくなってしまっている。

あれよあれよという間に憲法学者の大半が憲法違反だと明言する違憲法案が審議を通過し、その政権のトップはまだまだ動きそうにない。

デモなんか意味がないという人、意識が高いと嘲笑う人、選挙で選んだ政権が何をしたって自分たちの責任だという人、そういうのばかりが沢山いた。

私にはそういう声は、上から与えられた民主主義を、自分たちの権利をうやうやしく返上する声にしか聞こえない。

私はそうは思わない。デモに意味がないとも思わないし、生まれた瞬間帰属して「一員」となっている国家の動きが自分の生活に関係がないとは思わない。

 

けれど最近疲れてきたことも確かだ。私は確かに国家に帰属しているけれど、私は私でしかないことも確かで、私は公共の福祉に反しない限りどこにだって行けることをいみじくも憲法で保障された人間だ。私は移動できるのだ、ということを噛みしめる。

10年前にはそんな風に思わなかったことだけれど、私には10年後、20年後の日本があまり想像できない。

何より心配していることは、韓国や中国に攻撃される、ということではなく、まるで属国のようにアメリカの派兵に手を貸して他国を攻撃し、少子高齢化に歯止めが効かず、労働力は減る一方、経済的に疲弊し貧困層が増えている中で増税は続けられ、円の価値は下がり続け、そうなったときにプッツンと、先の大戦のように、日本が自身の戦争を始めるんじゃないかということだ。

それはそう近い未来ではないかもしれない。けれどこれから何年生きるかわからない。明日死ぬかもしれないけれど、あと60年生きるかもしれない。

若いというのはエネルギーがあるということと近しく、移動にはエネルギーがいる。私はエネルギーを、どう使うのか迷っている。

母国をよくするための小さな石になるか、自分が快適な世界に移動するか。

東アジア人だし、世界は繋がってる

中国とか韓国とか聞いて、何を思い浮かべるか?胸にモヤモヤを抱える人がいるんだと思う。反日とかを連想して。

ところで。

自分の戸籍謄本は見たことある人が圧倒的に多いと思うけど、その前の世代の世帯まで遡ってみたことある人ってどれくらいいるんだろう。

私は中学生のときに母が在日外国人(だった)と知った。母はすでに帰化していて、大人になって戸籍謄本を見てみたら母の両親の欄には確かに外国人名が記されていた。

しかし、もし私がいつか世帯を持ったとして、その世帯の戸籍謄本には私のその情報はのらない。日本人名の両親の名が記載されるだろう。子どもが出来たとして、私が「言わない」と決めるだけでその子どもは一生気がつかず死ねるだろう。

あなたは本当に「純日本人」なのか?そして、あなたの親友や尊敬する知人はどうか?父系は?母系は?天皇は、「桓武天皇百済系なので朝鮮に親しみを覚える」という旨の発言したことがあるのを、知っているだろうか。

私は私が半分外国人だったと知ってから、周りに教えたり教えなかったりした。韓国や中国に対する蔑視を隠そうとしない人たちにはもちろん教えなかった。

すると面白い現象が起こる。今まで「純日本人」だと思っていた友人が続々と、半分、四分の一、あるいは完全に外国人なのだと教えてくれる。
私の周りの景色は、ある視点で見るとまったく異なるものになった。





自分の周りには韓国人や中国人なんていないと思っている人。あるいは日頃韓国人や中国人に対するヘイトを撒き散らしながら実際の韓国人や中国人の知り合いを一人も持たない人。

あなたが少なくない友人全員の戸籍謄本、さらにその父母、祖父母、曽祖父母の世帯の戸籍謄本を見て断言できるのであれば別であるけれど、そうでないならほぼ確実に、あなたの周りに「一部外国人」はいる。あるいはあなたかもしれない。
彼らはあなたには言わないだろう。無言で離れていくかもしれないし、そばで心を痛めているだけかもしれない。韓国人や中国人なんてクソで友人になんかなれるわけがないと思っているあなたの親友は、純日本人ではないかもしれない。

それほどあれらの国は、近しい。こんなにも心の距離が遠く離れてしまうのに、日本の共同体の中には、濃く流れている血がある。

andymoriというバンドが大好きで、彼らの曲に「モンゴロイドブルース」というのがある。

出だしは、「大陸側のアンチドリアンは日曜日の昼下がりにdylala」なんだけど、これはごく単純な言い換えで、つまり

「大陸顔のアンチコリアンは日曜日の昼下がりにdylala」

さらにこう続く

ナショナリズム ナショナリズム 純血混血混血純血」

いつまでやってるんだろう、こんなバカ騒ぎ。あいつはチョンだ、在日だ、実は三世だ、だから◯◯だ、そんなのはもう聞き飽きた。あいつに流れる血もお前に流れる血も赤い。

もちろん、見た目も人種も何もかも違う人を差別するのは正当というわけではない。それは当たり前。

でも、こんなに近しいもの同士が、「◯◯人」を原因に、遠い人種の人々に対する以上に差別と憎悪を向けてるのって、ものすごくものすごく滑稽だって、私は思う。

私の先生は、韓国人だ。母もそうだ。友人もそうだ。私の父は日本人だ。友人もそうだ。私もそうだ。だから何?So what?

言葉は知性か? マダム・イン・ニューヨーク

今日はマダムインニューヨークをシネスイッチ銀座で見てきた。めちゃくちゃよかった!!!!

主人公のシャシが美しくて…
インドの「古臭い専業主婦」と思われてるシャシは、英語が下手なんだけど、その彼女が一人でニューヨークに来るというお話。そしてニューヨークで彼女は英語を学び始める。

賢く優しく美しいシャシは、一人の人間としての知性や考えを、「英語ができない」に象徴される彼女のあり方(=「古臭いインドの専業主婦」)から、娘や夫に軽んじられている。だからこそ、その表象「英語」を彼女はニューヨークで学ぶことにするわけであって、主題はそこにある。母や妻という枠に押し込まれるシャシが、一人の人間として尊重されるという当たり前のことを、他でもない愛する家族に求めるのである。これは最後のスピーチによく表れている。

一方で私が同じくらい考えさせられたのが、サブテーマである「英語」!

彼女がニューヨークのカフェに一人で入るシーンがある。早口の英語が聞き取れず、言いたいことは言えず、彼女が泣いてしまうシーン。会場では笑いが起こってたんだけど、悲しくて辛くて滴った涙で顎がびしょびしょになるくらい泣いてしまって自分でもびっくりした。

また、こんなシーンもある。英語学校に通うインド人の男性が、あいつらアメリカ人を見返してやりたい、英語ができないというだけで俺をITバカだと思っている、陰で笑われている、とスピーチするのだ。

この二つ…英語の非ネイティブスピーカーなら心当たりがある人が多数派なんじゃないか。英語でなくてもだけど。以前ツイッター上で、非英語圏の外国人と結婚をした女性がこんなことを言っていた。夫や夫の家族の母語を上手く話せないから勉強しているが、まだ下手なので、幼児のような話し方になる。それでたまに彼らにその幼児の口調で大人として意見を言うと、生意気だと思われると。
幼児のような口調で話すことで、周囲から知らぬうちにその考え方までもが高度なものでないはずだと思われる。

知性は言葉でないと表せないのか?あるいは言葉は知性を代表するものなのか?

この映画は、「そうではない」とはっきり述べる。それが、主人公シャシとフランス人ローランの、ヒンディー語とフランス語の会話にも表れる。

しかし、実際の世界ではやはり私たちは言葉で判断しがちだし、されがちだ。どんなに頭がよく、母語でなら口を開いただけで賢いと思われるような、驚くほど知的な話し方をしても、つたない外国語で外国人とやりとりすれば、その外国人からは、せいぜい「かわいい」「面白い」って思われるとのが関の山だろう。


前に、アメリカでは知らない人がいないような有名な黒人のコメディアン・オプラが、スイスのブランド店で、質素な身なりをした黒人ということで高級なバッグを見せてすらもらえなかったと言っていた。これは外見に対するJudgmentalな考えが最悪な差別的行動として表れた例だろう。

それの言語バージョン(実際は外見と混成だろうけど)っていうのもあるのかなって。こんな拙い話し方なんだからバカに決まってるっていうのもまた、そのjudgmentの一種なんじゃないかと思った。

http://zenhabits.net/a-simple-method-to-avoid-being-judgmental-yes-that-means-you/



石田純一の娘として有名なすみれさんは、オバマと同じ高校だったり、カーネギーメロン大学に通ったりしてた才女だけど、芸能活動を始めたばかりの頃は日本語が下手で、特にその学歴エピソードが披露されない番組では、綺麗な「天然キャラ」みたいな扱いを受けてた。それに慣れていただけに、彼女の弟が、彼女はどういう人か?とテレビ番組で聞かれたときに「スマート(賢い)」と答えたのを見てハッとさせられた。

でもこれって、ジャッジメンタルっていうだけの問題じゃなくて、言葉とか、文章で表れるようなものだけを知性だと思うなってことなのかな。


ともかくいい映画だった。非常にオススメ、特に女性に。

犬の腐乱死体こと私(かわいいは正義?)


キャリアで独身で恋愛は楽しむけど結婚できない女が負け組なら、喪女でブスで貧乏な独身女は犬の腐乱死体かよ?遠吠えも出来ぬわいっていうような文が強烈で笑った。『「見た目」依存の時代』って本の中で引用されてる小野谷敦さんの文。
どうも犬の腐乱死体です。

本自体はあの「肉体不平等」「自分の顔が許せない!」の石井政之さんの著書です。




私が、可愛いは正義、美しさは善という価値観に疑問を抱いたのは、自分がブスといわれたからではないです。そのときはピラミッドは当たり前で、その中での地位をどうするかばかり考えていた。残念ながら今でもその視点は抜けてないけど。私が疑問を持つようになったのはトニ・モリスンの『青い目が欲しい』がきっかけです。

だから、見た目の話をするなら人種差別の話もしなきゃ嘘だと思ってるから、そういう意味ではちらっとしか触れてなくて物足りなかったかな。米原さんも以前触れていたような美の世界的画一化。
でも、石井さんの本は、毎回私にまるで欠けていた視点からの考え方を提示してみせてくれるので、読んでいて楽しい。狭小の「普通」を目指してあがく人々が戯画化したみたいにグロテスクに鮮やかに見えてくるのは、ずっと彼が「普通」の土俵に上げられず、「見られる」「異常な」存在に押しやられてきたからかとも思う。
今回も、見た目の話なら女の方が辛いはずだという私の偏見まみれ頭をひっぱたくみたいな印象的なパートがあって、すごく恥ずかしくなった。あと、目や眉や鼻なんかどうでもよかったという石井さんからすれば、確かに青い目だろうが黒い肌だろうが気にならないのかもしれない。


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このキャメロン・ラッセルのTEDを合わせるといい感じかも。これも面白いです。

見た目って本当に複雑で一口にすっきり語れないから、どんな本やなんかに触れてもモヤモヤが残る。でもこの本は老い、モテ、市場、自己認識っていうかなり重要な要素にしっかり踏み込んでるから読み甲斐がある。おすすめです。

でもサバイバル法は『肉体不平等』のが参考になったな。バーチャル化してるって指摘と運動しろってアドバイスだけでだいぶ役立つ。この本だと最後の石田さん(NOT石井さん)の、躾がどうとか日本の伝統美がどうとかで興ざめだった。私は裕福でもなければ家柄(笑)がよろしくもないので、こういうすぐに差別と格差に繋がりそうな言説は吐き気がします。

外見が嫌で嫌で悩んでる人は、化粧品と鏡と理想の顔を見つめて泣きまくるよりは、その思想と社会を疑う方が建設的でポジティブかもしれないです。

って元気になってから図書館のトイレに行って鏡見てどうしてもダメだった。ブスで…。がんばって心の方を矯正したい。ねます。