おーい、えび。

えびのたわごと

【汚職天国】そういうとこやぞ、ケニアよ…

ナイロビでの生活はおおむね満足だ。人柄は明るくて友好的。気候も最高。

 

ただし、賄賂と汚職。テメーらはだめだ。

 

ケニアでは、政府や警察が汚職に関わっているのを前提にして世の中が動いているといっても過言でない。なので渡航する方はよくよく気を付けてほしい。

 

汚職フリーゾーン(という名の汚職天国)

嘘のような本当の話だが、ナイロビ市役所には「Corruption Free Zone(汚職のない場所)」という大きな看板が掲げられている。そして皮肉なことに、そのナイロビ市役所周辺は市内でも屈指の汚職多発エリアなのだ。

 

ナイロビ市役所(Nyayo House)の付近では混雑防止のためという名目で車での乗りつけが禁止されている。しかし、ナイロビでは外国人が安全に利用できる公共交通がないため、ビザの更新などで訪問する外国人のほとんどはタクシーでやって来るしかない。

 

この時、タクシーがほんの数秒でも車を停めようものなら、たちまち警官が飛んできて逮捕されるのだ。ただ、実際には逮捕することが目的ではなく、乗客の外国人から逮捕を見逃すかわりに賄賂を要求するのが真の狙いなのである。

 

僕の知り合い2人はこの網に引っかかり、それぞれ7,000円、9,000円の持ち金をすべて没収されたという。僕自身も、市役所から帰宅する際にタクシーに乗ろうとしていると、警官が後ろから走ってきてドアを開けようとしたことがある。あと2秒遅ければ間違いなく餌食になっていた。

 

ぱっとみた限りでも警官はあちこちに20名くらいはいた。しかも離れて観察していると、私服で取り締まりをしている警官もいる。それは混雑防止じゃなくて賄賂が目当てだろ、と思わず文句を言いたくなる。

 

慣れているタクシー運転手であれば、市役所から1ブロック離れた場所で降ろしてくれる。市役所のある中心市街地はスリなどの犯罪が特に多いエリアでもあるため、あまり離れすぎると徒歩移動が長くなって危険だが、100メートルくらいであればさほど問題ない。

 

賄賂の手口、あれこれ

賄賂をせびる手立ては他にもたくさんある。例えば、外国人はパスポートの常時携帯が必須となっているが、もし道で警官に呼び止められた際にパスポートを提示できなければ同じように賄賂を請求される。

 

車を運転される方の場合、ウインカーを出していなかっただの、停止指示を守らなかっただの、何やかんやといちゃもんを付けて金をせびってくる。

 

僕が研究しているスラムでは、そもそもが不法占拠された場所であることもあって、何をするにも賄賂が絡む。ゴミを川に不法投棄するのに賄賂。ゴミ山から有価物を持っていくのにも賄賂。などなど。住民の立場はとてもか弱く、法律はまともに機能しない。

 

賄賂対策はこちら

賄賂の対策としては、以下のアドバイス日本大使館が出してくれている*1ので、参考になるだろう。

ア 相手が警察であれば、警察官の氏名、所属、ID番号等を質問する。胸にあるID番号を確認する。  

イ 直ぐに言われた金額を払わず、大使館に確認する。  

 

汚職指数ってのがあるらしい

記事を書いている途中で知ったのだが、世界には腐敗認知指数(CPI)という公共部門の汚職のひどさを数値にしたものがあるらしい。

 

0点が汚職地獄、100点が超クリーンな最高の状態だとして、日本の公共の腐敗指数は73点で世界16位。思ったよりも低かった。まあ、政治家の裏金とかしょっちゅう報道されてるからそんなもんか。

 

ケニアはと言うと、31点で大赤点である。世界ランクでは180か国中の126位で、とても優秀とは言えないが、意外と下から3分の2くらいの位置。ちなみに2023年の世界最下位はソマリアの11点だった。

www.transparency.org

 

日本からケニアを含め、多くの途上国に経済支援がなされてきているが、このナイロビの惨状を目の当たりにすると、どれだけのお金が汚職に流れてしまっているのだろうかと想像してしまう。

【中の人考察】霞が関が年功序列制から脱却か!?

先日こんな記事が出ていた。

news.ntv.co.jp

 

要約すると、国家公務員の年功序列をやめて、能力・実績に応じた給料と人事を徹底していくべきだ、という提言が人事院に出されたらしい。(概要はこちら↓)

https://www.jinji.go.jp/content/000003712.pdf

 

霞が関で働いていた筆者にとってはなかなか興味深いニュースである。ということで今回は霞が関の中の人としてこの年功序列廃止案についての率直な感想を記事にしたい。

 

年功序列、廃止に賛成

まず、この案について筆者は賛成の立場である。

 

昨今、優秀な官僚が若いうちから流出していくトレンドは顕著であり、この傾向に歯止めをかけなければ国の行政がどんどん質の低いものになっていくというのは間違いないであろう。そして、そんな人材流出の原因の1つには、人事制度がクソだ!という憤りも含まれると思う。

 

正直な話、キャリアと言われる官僚の中にも、この人ホントに仕事できねえな……とため息がでるような人はわんさかいる。(とびきり優秀な人もたくさんいるが。)

 

参考までに、僕の元上司の班長の方を例に挙げる。

 

その元上司は何かを決めたり調整したりするのが全くできない人だった。ある日、首脳級の合意文書が舞い込み、日本も乗るか、乗らないかという調整を関係省庁及び官邸と大急ぎでやらなければならなかった。だが、我が班に降ってきたその大玉案件を前に、彼は完全に機能停止してしまった。

 

班内の誰にどう仕事を割り振るか、どういうスケジュールで進めるのかを一切決めず、自分は嵐が去るまで手を出さないことを決め込んだ。

「どういう分担にしますか」と聞くと、「どうしようか」と言う。

「僕はまずこれやりますね」と言うと、「ありがとう」と言ったきり。

 

課長やら局長やら事務次官やら、各所に色々と対処方針を稟議しつつ、各省と懸念事項を整理して、官邸にも根回しをして、、、とやることは山ほどあった。

 

説明周りを終えて戻ってくると、他のことが何も進んでいない。班長はというと、普段なら無視して僕に任せている雑用にせっせと取り組んでいる(※雑用の締切は1週間先)。

 

フリーズしてしまった補佐を横目に見ながら、班員は連日深夜まで残業。ハイレベルな事案なだけに神経もすり減っていく。にも関わらず、その元上司は自分が関わらなくてよくなったと安心したのか、さっさと7時には帰っていく。

 

だが、そんな彼もキャリア官僚であり、本省の室長補佐。給料は当時係長になりたての僕より恐らく200万円ほど高い。班員たちはそっと握りこぶしを固めるのであった……

 

能力と職責、給料が見合ってない

こうした悲劇は、端的に言えば人材の能力と職責のミスマッチが生んだ結果である。

 

もしかしたら、その元上司も責任の重い班長なんかにはなりたくなかったかもしれない。事務作業など、自分の得意分野を生かしたポストであればもっと違った活躍ができていた可能性もある。

 

その人の能力・実績に応じた人材登用や給料制がスタンダードになれば、「あいつ、俺よりもらってるくせにクソみたいな仕事しかしねえ・・・」と恨み節を垂れる機会は今よりは減るだろう。

 

年功序列を廃止するとなると、各職員の能力・実績をどう見える化していくのかという課題は当然ある。国家公務員の仕事の成果は数値化しにくいし、政策評価も長期的に見る必要があるので、言うほど簡単ではない。が、それでも現状よりは働き甲斐はアップすると僕は期待する。

 

年功序列だけじゃない、人材流出の原因

ただし、年功序列をやめれば人材流出が減るかというと、正直そうでもない気はする。そもそも、みんな入省する以前から人事制度についてはおおよそ理解して入ってきているのだ。

 

では何が問題かというと、僕は終身雇用を前提とした人事制度がもう時代にあっていないということの方が重要だと考えている。

 

昔でいう国家公務員一種、いわゆるキャリア組と言われる人たちは、通常入省して4年目で係長、7年目で室長・課長補佐、10年何年目くらいで室長などの管理職に昇進する。そこからは審議官や局長、事務次官といった幹部ポストに上がれるかどうかの競争があり、うまくいけば50代後半~定年間近にはこうした幹部になる。

 

だが、正直今の若手はそんなに長い間1つの仕事に執着しないと思う。面白ければ続けるし、面白くないと思えば転職する。優秀な官僚であれば、転職してもやっていけるという自信があるからなおさらだ。

 

やれ国会だ、やれ法改正のタコ部屋だと激務に勤しみ、時にはつまらない部署にも異動になる。それでもオレは事務次官になる!と歯を食いしばり、40代から10年も20年も出世競争に身を投じる。そんな熱血モーレツ型の官僚を前提とした生え抜き至上主義の人事制度がもう時代に合わなくなってしまったのだ。

 

であるならば、一度退職した後に霞が関に帰ってくる職員や、民間出身の中途採用を大々的に受け入れることを前提にした人事制度を再構築することが必要ではないだろうか。

 

民間経験のある人たちでも能力や経験に基づいて昇進ができ、事務次官にまでなれるようにする。ポストも省内公募して希望があった場合は極力優先し、外部からの応募者にも門戸を開くようにする。

 

そんな風になれば、若くして辞めていった優秀な官僚も再び霞が関に戻ってくるようになるのではないかと考えている。

梶井基次郎「檸檬」~ド定番だろうが古典だろうが真に面白かった本だけを紹介していく~

ド定番だろうが古典だろうが真に面白かった本だけを紹介していくシリーズ。

 

今回は梶井基次郎の『檸檬』をご紹介する。

 

www.kadokawa.co.jp

 

あらすじ

肺を病んだ“私”は、果物屋檸檬を手にすると妙に落ち着いた。好きな丸善の本屋へ行ってみようという気にもなった。いざ行ってみるとまた不吉な魂が頭をもたげくる。ふと“私”は思いつく。檸檬を画集の上においてみる。まるで爆弾のようではないか。簡潔な文章で描かれた鮮やかな檸檬は年月が経ても色褪せることはない。(Amazon Kindle版より)

 

僕が本を評価する軸の1つが、読み返したくなるかどうか、だ。その意味で本作は幾度となく読んでいてしかも飽きることがない。

 

この本の何が僕を惹きつけるのかははっきりしている。それは、主人公の憂鬱がまるで自分のことのように理解できるからだ。

 

僕も大学生活を京都で過ごしたのだが、その間ずっと心のどこかで鬱屈というかやるせなさというか、現状に満足できない苛立ちのようなものを抱えていた気がする。客観的に見れば何不自由ない日常を送っているにも関わらず、ふとした瞬間に理由のない不安と怒りとが心を満たしてしまうのだった。

 

檸檬』の主人公もそんな”症状”を抱える一人である。

 

彼が心惹かれるのはただ美しいだけのものではなく、見すぼらしくて美しいものだ。それは自分自身と無意識に対比したときに美しいものは同時に自分を責めているような圧を感じてしまうからではないかと思う。見すぼらしさの中に美しさがあるということは見すぼらしい自分自身にとっての救いになっているのではないか。

 

僕がこの作品を好きなもう1つのポイントは情景描写の素晴らしさである。

 

短い文章で「見すぼらしい美しさ」を切り取るセンスが研ぎ澄まされている。みずみずしくて、陰影が鮮やかで、それこそ檸檬の香りのように情景がパッと広がるようだ。

 

それだけで読んでいる僕は救われる気持ちになるが、結末のセンスはさらにすごい。

 

爆弾テロで鬱屈した心を一時的にでも晴らす主人公。そのテロに使われたのが「見すぼらしい美しさ」の結晶ともいえる檸檬なのだ。

 

周囲の色調が失われ、モノクロな風景の中には唯一色彩を残した檸檬があるだけ。緊張に満ちた一瞬の静けさがあり、次の瞬間には爽やかな芳香とともに丸善が吹き飛ばされる、というのはもちろん主人公の妄想でしかない。

 

逆に言えば、それしきのことで吹き飛ぶ程度の曖昧な憂鬱だということだ。しかし、その程度の憂鬱が僕の心を常に覆っていた時期というのは確実にあった。だからこそ、この作品には僕にとってものすごくリアリティがある。そして、救いがある。それが何度も本作を読み返したい理由になっているのだろう。

 

嗚呼、学閥人事ーこの唾棄すべきもの

筆者は中央省庁で働き、現在は霞が関から離れている者である。

 

最近、ある省庁に勤めていたことがあるという方々と夕食を共にする機会があった。

 

その中の一人曰く、彼の勤めていた某省では特定の分野の幹部ポストを長年ある有名私大の出身者が占めているのだという。いわゆる学閥というやつである。

 

僕は彼にこう質問した。

 

「学閥で幹部を決めると何か良いことがあるんですか?」

 

彼は答えて曰く、

「昔からその幹部ポストは●●大の派閥が占めることが決まっていて、過去何代もずっとそうやってきたのさ。」と。

 

話がかみ合わないなと思ったが、ほぼ初対面の方にそれ以上突っ込むのも失礼かと思い、深く聞くのはやめにした*1。皆さん、そのポストが長年学閥で占められていることが何やらカッコいい、名誉なことのような話しぶりであった。

 

その方たちの会話をその後も黙って聞いていた。興味深かったのは、彼らが知人の話を切り出すときに決まって、

「彼は●●大なんですけどね(海外の有名大学)、先月こんな問題を起こして……」

だとか

「その人は●●大出身なのに(あまり有名ではない大学)、こんな出世していて……」

という枕詞をつけることだった。

 

正直に言えば、僕はこの辺まで聞いて、クソほどつまらないテーブルに座ってしまったなと後悔していた。デザートのスイカの種をほじるのに夢中なふりをして聞き流し、早々に退散した。

 

別に同じ大学出身者たちが仲良くしあう、同郷意識を持つ、といったことは結構なことだし好きにすればいいと思う。高い学歴を持っているのも努力の結果で立派なことだし、誇りに思うのも個人の自由だ。

 

ただし、それが人間の評価基準にまで及び始めると話は変わってくる。

 

社会人をやっていれば、仕事ができる人、人格が立派な人、筋を通せる人などと学歴には相関がないことは嫌でも分かる。にも関わらず、いい年したオッサンたち(誰も明言はしなかったが、いずれも有名大卒らしい)が学歴=人格の基礎点であるかのように話しているのは聞くに堪えなかった。

 

まして、省庁の幹部ポストが学閥で決まるなど愚の骨頂である。能力のある学閥外の人材が流出するのを助長するだけだ。彼らの言っていた学閥というのも、たまたまその大学出身の優秀な人間が特定の部門に多くいただけだと信じたい。

 

ちなみに僕のいた某省にはそのような唾棄すべき学閥人事は少なくとも僕の知る限りはない。ただでさえ非人道的な忙しさなのに、そんな胸糞悪い人事制度までついてくるのならとっくに辞めているところだ。

 

ほじり倒されたスイカは気の毒だったが、甘くてとても美味かった。

*1:一発目の質問も既に失礼なのは承知の上である

ケニアと金 あるいは初めてのカルチャーショック

筆者はケニアのスラム街が抱える様々な問題を研究テーマにしている。

 

これまでにも、スラムの衝撃的な衛生環境であったり、極貧の暮らし、身近な犯罪やギャングのこと、ドラッグのことなど、日本ではまあ遭遇することのない光景や話は山ほど見聞きしてきた。しかし、これらはある意味でスラムのイメージそのまんまだったせいか、不思議とカルチャーショックのようなものは感じてこなかった。

 

だが、どうも最近、心にトゲのようなものが刺さっているのに気づき、もしかするとこれがケニアに来て初のカルチャーショックではないかと思い至った。

 

そのトゲの正体というのは、端的に言えば「お金」に対するケニア人たちのシビアな見方であり、その「お金」というフィルターを通して彼らの目に映った僕の姿であった。

 

 

本題に入る前にスラムの人たちの暮らしぶりについて少し述べておく。

 

ケニアの首都であるナイロビでは数百万人がスラムで暮らしており、人口の6割に上るとも言われる。守衛や運転手などの正規職に就くスラム住人もいるが、定職につけない、いわゆるその日暮らしの人も大勢おり、平均的には一人当たり一日1ドル~数ドルの収入で暮らしている。

 

ちなみに、ケニアの公務員の大卒初任給的なやつはと言うと、ランクによるが月に38,000円ほど。日収にすると1,900円となる。

Job groups in Kenya, salaries, and allowances according to SRC 2024 - Tuko.co.ke

 

僕の研究に参加してくれている研究助手の人たちもスラムまたはその周縁部での生まれ育ちである。日給は労働内容にもよるが数時間の仕事で2,000円~3,000円を支給している。上に書いた平均的な日収と比べても悪くない待遇と言える。

 

 

僕が感じた最初のもやもやはそんな研究助手たちとの会話から始まった。

 

ある日彼らと雑談をしていて、今年は洪水がひどいという話になった。スラムの住民も生活が大変になっているというような話になり、唐突に

「僕たちには●●(筆者)のようなprivileged(特権階級) な人たちからの支援がもっと必要なんだ。期待してるよ。」

という話に飛んだ。半分本気、半分冗談なトーンだったので僕は曖昧に笑ってごまかしたが、内心ドキッとした。

 

今まで彼らとはフランクに物を言い合う友人、あるいは研究仲間というような関係でいたつもりだった。率直に言って不快だったが、この時は何がそこまで僕の琴線に触れたのかはっきり分からなかった。

 

他にもこんなことがあった。

 

研究でスラムの住人に手洗いについてのアンケートを実施した際、参加してくれた人への御礼として石鹸を配ることにしていた。その石鹸を渡した際、住民から

「お金の方がいい」

という反応が返ってくることがあり、まあそこまでは予想の範疇ではあった。ただ、研究助手たちがその不満への回答として

「今回は無理だけど、次回はきっとこの日本人がお金を持ってきてくれるだろうから…」

という諭し方をしていたのを聞いたとき、以前に感じた違和感の正体に気づいてしまった。

 

要するに、研究助手の彼らにとって、日本という先進国から来た僕は友人ではなく、労働と給料によって結びつく対等なビジネスパートナーでもなく、「支援すべき側」と「される側」という非対等な存在であったのである。彼らからしてみれば、裕福な日本から来た僕は「自分たちに施しをしてくれて当然の存在」なのだ。

 

誰かから一方的に何かをしてもらう関係性というのは僕の中での友人関係の定義からは外れており、それはつまり友達と思っていた彼らから金づると思われていたことを意味している。これが大変ショックであり、不快だったのだ。

 

 

公平を期して言うと、ケニア人が皆そういう目で僕を見ているわけではないと思う。大卒や院卒の研究者仲間、すなわちケニアの中のエリート層の人々からはそういった「施し」の関係性の気配を感じたことは一度もない。

 

ただ、それ以外で知り合ったいわゆるナイロビの一般人はほぼすべての人は最初はフレンドリーだが、少し気を許した関係になるとすぐにお金や食べ物などの施しを求めてくる。その場は適当にごまかしたり、場合によっては奢ってあげたりもする。しかし、金づるとして近づいてきているように見えてしまったが最後、もうその人たちは友人とは見られなくなる。

 

これは貧困がそうさせるのか。

 

そうかもしれないが、分からない。もしかしたら支援されるのが当然と考えるくらいの生い立ちがあるのかもしれないが、そこまで仲良くなったことがない。

 

少なくとも言えるのは、彼らにとって僕は今「金持ちで支援すべき側」に見えているということ。そして、僕はそんな彼らとの関係性をこれから時間をかけて対等な友人同士にしていきたいということである。

ロンドンのジム、なんか日本と違う

ロンドンの24時間ジムに通い始めて、だんだんと日本のジムとの違いに気づいてきた。

まずロンドンのジム、利用者がめっちゃ多い。女性と男性の割合は感覚的に4:6くらいで、ご年配の方も1割くらいいるのがすごい。

 

The Gymという最大手の系列ジムの1つなので、たまたまこの店舗がそうなのかもしれないが、平日の午前中とか、日本だと絶対に閑古鳥が鳴いているタイミングでも常に3~4割くらい埋まっている。アメリカはフィットネス大国と聞いたことがあるが、イギリスもそうのかもしれない。

 

ジムが賑わっているのは結構なのだが、利用者のマナーがあまり良くない点もちらほら目立つ。

 

まず、ダンベルの並びがまったく重さ順になっていない。

 

日本だと考えられない光景だが、10キロの横に38キロ、その横に24キロ、12キロ…といった感じでカオスになっており、2個で1組のはずのダンベルの片割れが遠いかなたに置かれていたりする。シンプルに探しにくいのも困るが、僕はこの適当な並びがめちゃくちゃ気になって仕方がない。

 

それと、ウェイトを大音量で「ガシャーン」と落とす人がだいたい1,2人いるので、ものすごく騒がしい。

ジム内には「静かに降ろしましょう、怪我しますよ」という張り紙はあるので、マナー的には一応こちらでも良くないことではあるらしい。まあ、日本でもやる人はいるし、イギリスは利用者が多い分よく遭遇するだけかもしれない。

 

自分の通っているジムには器具を使い終わった後に拭くためのペーパータオルも提供されていない。そのため、誰かの使用後が気持ち悪い人はタオル持参必須だ。

 

 

良い面もいくつかある。日本のジムよりも高重量を扱っている人が明らかに多いのでモチベーションにはなる。

 

自分の肌感覚だが、利用者の平均的な体格がまずでかい。身長が高くて横も太い人が多い。体形は絞られている人とそうでない人と様々なのだが、とにかく扱う重量はすごいので、負けていられないと思える。

 

女性がウェイトトレーニングをしている割合も圧倒的に多い。ガチめの重量を扱っている人が1人2人はいる。

 

もう1つの良い点は利用料金がめちゃくちゃ安いことだ。

 

ロンドン中心部の大手ジムで月会費が4300円ほど。参考までに秋葉原にあるエニタイムは8580円とのことなので、半額という破格の安さだ。(ちなみに設備の充実度やスタッフの数は同じくらいで、広さはロンドンの方がかなりでかい。)

 

ロンドンの家賃は東京すら比べものにならないくらい高いのになぜこんな安いのか不思議に思えるが、これも利用者の多さによる恩恵なのかもしれない。

英語が下手な研究者にも優しい世界を作ろう、という記事を読んだ感想

面白い記事を読んだ。

theconversation.com

 

日本のような非英語圏の国の研究者たちは、研究成果を論文として公表する場合、国内の人に読んでもらいやすい母国語で出版するか、世界の人に読んでもらえる英語で出版するかを選ばなくてはならない。

 

この記事では、計736の学術雑誌(ジャーナル)の論文掲載ポリシーを対象に、英語を母語としない研究者が英語で論文を投稿する時にどれだけ配慮されるかを調査したというもの。

 

予想は皆さんのご想像どおり、結果は非英語圏の人たちにとって非常に厳しい現実を示していた。

 

調査によれば、

英語の下手さだけで論文を不採用にすることはしないと宣言をしていたのは、736誌中、たったの2誌。編集者や査読者たちに対して、研究の質のみで評価するようにと教育しているジャーナルも全体の4~6%に留まる。

 

英語以外で書かれた論文を受け付けるとしていたジャーナルは全体の7%のみ。(注:受け付けるといっても恐らくフランス語とかのメジャー言語限定で、日本語のようなマイナー言語は含まれないと思われる。)

 

英語で採択された論文を英語以外の言語に翻訳してウェブサイトに公開していたのは11%。

以上が主な結果だった。

 

こういう問題を調査してくれたのが英語ネイティブの人だと良いなと思って調べてみたが、どうやら筆者はコロンビア出身の方らしい。

 

別の論文ではこんな図も。

https://journals.plos.org/plosbiology/article/figure/image?size=medium&id=10.1371/journal.pbio.3002184.g005

Cited from "The manifold costs of being a non-native English speaker in science | PLOS Biology"

 

 

英語圏に生まれた人たち、特に日本のようにアルファベットすら使わない言語体系の国の人たちにとっては、論文を英語で読むのも書くのも非常に負荷のかかる作業だ。文献を読むのも英語だし、考えるのも英語となると、あらゆるスピードがネイティブよりも圧倒的に遅くなる。文法をカンペキにしろと言われれば安くない金額を払って校正サービスを使わなければならない。

 

英語に対する恨みつらみを書きだせばきりがない。

 

このように、単に生まれ育った言語の違いによって不利益をこうむるのは言語差別というらしい。そして、国際的なコミュニケーションの大部分が英語でなされていて、英語ネイティブであることが心理的、経済的、その他あらゆる面で圧倒的に有利に働いてしているような状況は英語帝国主義というらしい。

 

確かにそうだよな、と思う。

 

人種や性別の違いで有利不利が決まるのが差別なら、言語による待遇の違いも差別になりかねないよな、と。唯一違うのは、言語は後天的に身に付けることもできるということだろうか。

 

ただ、違う言語を後天的に身に付けるのは圧倒的に時間がかかるし、コストもかかる。その負担を当然の努力とみなすことはできないはずだ。

 

 

記事の内容に戻ると、1点目の「英語の質じゃなく論文の質で評価すべし」は今すぐにでも推進すべき動きであるように思う。非英語話者も含めたより多くの人が参加できるフェアな競争環境でないと科学の発展が阻害されてしまう。

 

2点目と3点目は「英語以外の言語にも門戸を開く」ことが求められるが、これは実際問題として解決できる部分とそうでない部分があると思う。

 

「英語以外で書かれた論文を受け付けるか」という点については投稿された原稿を読める人がいないので難しいだろう。翻訳AIの技術が向上してきたとはいえ、微妙な意味合いを寸分たがわず伝えられるレベルにはない。結局、世界で一番話者が多い英語が現実的な解決策と言わざるを得ない。

 

記事では、英語翻訳サービスをジャーナル側が提供するという選択肢も調査・議論されていたが、その費用をだれが負担するかという話になり、ただでさえ高額な投稿料の上乗せに繋がってしまうかもしれない。

 

 

とはいえ、英語ネイティブにとって独占的に有利な状況が少しずつ改善されることを期待したい。

 

2024年の現時点ですら、翻訳AIの技術は言語バリアを緩和することに大きく貢献している。将来5Gやさらなる高速通信が普及すれば、母国語への同時通訳を常時流しておくことも可能になるだろう。

 

また、現在の特権階級にいる英語話者15億人の中から、言語による利益構造を改善する啓発運動が進むことを期待する。その発端が英語話者の8割を占める非ネイティブ層なのか、残り2割の純粋なネイティブ層なのかは分からない。

 

しかし、人種差別や性差別など、この100年で大きく変わった社会情勢を踏まえれば、僕たちが生きている間にこの言語に基づく利益構造にも何らかの変化があると望みを持つことはそれほど突飛な話ではないのではないかと思う。