海外でグルグル考える

海外での子育てを通して、常日頃から考えている事をつづっています。

「かわいそうなぞう」の読み聞かせで戦争について考える

先日、日本人の小学校1、2年生向けに本の読み聞かせをする機会があった。

本の選定は担当者に任されており、どの本にするかがわりとすぐ決まることもあれば、直前まで悩むこともある。
私の担当日が8月上旬だと決まった時に、まず心に浮かんだ事。
それは、「戦争にまつわる話を読もう」だった。

 

8月上旬と言えば、やはり原爆投下と終戦記念日を抜きに語る事はできないだろうと思うのは、海外にいる人の方が多いかもしれない。
特に私達が住んでいる国は、日本と戦った連合国側。
もう戦後70年以上もたった今、普段は敵だ、見方だという意識は全然無いけれど、
こちらの国にも戦争関連の記念日はあるわけで、そのような記念日に組まれる特集記事や報道を見るとやはり、立場による見解の違いを感じることもある。

 

良し悪しの問題ではなく、日本人である自分の子供たちには日本人として知っておくべき歴史を伝えておきたいと常日頃から感じていたところだったのだ。

 

さて、読み聞かせの対象学年が小学校低学年だということで迷わず選んだのは、

戦争関連の本の中でも特に絵本形式でイメージが伝わりやすく、子供たちにも親しみやすい動物を題材にした「かわいそうなぞう」。

 

第二次世界大戦下の東京、上野動物園。空襲で檻が壊されて動物達が街にさまよい出る事を避けるため次々に殺されて行く中で、特に人気のあったゾウ達の最後とそれを見守った飼育係の人たちの悲しい想いを描いた、わざわざ説明する必要もないほどに有名な作品なのではないだろうか。

読み聞かせをする前に、子供たちに説明した。
70年以上前、日本は戦争をしていて世界中で多くの命が失われたこと。
8月6日、8日には原爆が落とされ、15日に終戦を迎えたこと。
もう過去の話かもしれないけれど、多くの悲しみを生んだ戦争についての記憶は
忘れてはならないものだということ。
だから、「今日は戦争のお話を読みます」と。

神妙な顔つきの子供たちを前に、読み始める。

 

戦後の上野動物園の平和な一日の描写から始まり、そのにぎやかな園の片隅にひっそりとたたずむ「動物達の慰霊碑」の傍らで、動物園の職員が悲しい思い出を語り出す...。

可愛がっていた、罪のない動物達の命を奪わなければならない不条理が柔らかな口調で語られ、その分悲しく胸に突き刺さる。

 

最期まで、生きる為の餌を得ようと芸当を続けたぞう達の命の光が消えた時、

敵の戦闘機が上空を舞う。
そこで出た声は「戦争をやめろ、戦争をやめてくれ」。

敵が憎い、ではない。
憎むべきは戦争なのだ。

この動物園の悲しい物語ひとつで戦争の全ての側面を語る事はできない。
けれど、第二次世界大戦を題材に取った作品で戦争を「憎むべきもの」と捉えていないものがあっただろうか。

世界の歴史の大きな流れの中で、この憎むべき戦争を避ける事はできなかった「かもしれない」。
過去の歴史を「もしあの時」と選択しなかった道のその後を考えても、それは想像以上の何ものではないのだから、やめておく。

ただ一つ言えるのは、私達はこの憎むべき第二次世界大戦で多くの尊い命という大きな代償を払い、「戦争放棄の国」となったのではなかったか、ということだ。
日本国憲法の立法の際、米国の大きな影響を受けたという説もある。

けれども、私達日本人は敬意を持ってこの憲法を受け入れ、現在に至るまでこの憲法9条に誇りを持ってきたはずだ。

戦後70年余り。日本は戦争に関する憲法の解釈について揺れている。
私は安倍政権のやろうとしていることがよくわからない。
戦争についての専門的知識があるわけでも、国際時事問題に明るいわけでもない。
海外に住むごく普通の日本国民だ。
それでも、日本が戦争に関する法律を巡って不穏な雰囲気に包まれている事を感じている。

もしこのまま積極的平和主義なるものを掲げて、日本が戦争放棄の国から自国の戦争参加を認める国へと変化していくのなら、その流れを受けていつか徴兵制が採用される可能性は絶対に無いとは言いきれないのだから、
私は子供たちに当地の市民権を取らせる事を勧めなければなるまい、と考えている。それは日本国籍から離脱することを意味するが、命あっての物種だ。

残念ながら、命をかけてまで日本国籍を保持し、従軍する事を望むほど、今の日本政府が主張する憲法解釈の変更が意味のあるものだとは思えない。
もちろん私にとっては生まれ育った国、子供たちにとっても大切な母国である事には変わりはないし、国籍離脱には大きな覚悟が必要だろう。
けれど、命と国籍の二者択一ならば間違いなく命を選ぶ。

戦後70余年が経って、日本人の意識も日本人を取り巻く環境も変わってきているのだ。
かつてまかり通った「お国の為に」という意識では今の日本人は立ち上がらない。

平和主義という正義を掲げるのならば、正義というのもの認識が間違っている。
正義という概念は、同じ立場に立ち同じ信条を持つ人達の中でしか共有できないものだからだ。
政治と言う枠の中だけで語られる正義を以て、国民をまとめようとするのは愚挙だと言わざるを得ない。

かつての日本には「日本人である事」=日本人として同じ立場に立ち同じ信条を持っていること、と定義することができたかもしれない。
けれど時代は変わったのだ。

私達とて、「戦争の放棄」を見直さなければいけない真っ当な理由があり、
それが命をかけてまで守るべきものなのだと感じたら、真剣に考えてみることだろう。

けれど法の解釈を変更した理由を、安倍政権が「日本を守る為に他国の部隊が協力してくれているのに、他国を守る為に日本が軍事協力できないのでは首相として他国に申し訳が立たない」などとして、他国からの批判を気にした視点でしか説明できないのならば、笑止千万。むしろそれは「戦争の放棄」を選んだ国の首相としての器ではないことを自ら示していることに気付いていないようで、やりきれない思いになった。

 

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「かわいそうなぞう」を読んだ後、他の人がこうまとめてくださった。
“戦争がなければ死ななくても済んだかもしれない命がたくさん失われました。
こんなにたくさんの命をなくしてまで、戦争をする意味があったのかを、皆さん考えてくださいね。”と。

そう、まだあなたたちは幼いけれど、大きくなるまで考える事を辞めないで欲しい。
その為にも、私は子供たちに色々なお話をし続けようと思う。