リーマス、お前だったのか。私の正気を保ってくれたのは
お久しぶりです折田です。何年も放置していたこのブログに新しい記事を投稿したところで意味はあるのか?とも思わなくもないですが、ここには割と私自身の服薬経験が記事として残ってるので追加で書いてます。備忘録的な。薬の口コミ探してる人の検索に引っかかって、何かの参考になれば幸いです。
リーマス(炭酸リチウム)、止めてます。
双極性障害であればもれなく処方されると言っても過言ではないと思われるリーマス。他のメンタル薬と違ってジェネリックも出ていてお財布にも優しい、包容力抜群のお薬。
しかし現在、服用を止めてます。
理由は、なにを思ったか子供を(消極的ではあるが)持とうとしているから。
リーマスは、胎児の崔奇形性があるとかで、妊婦は避けるべきとされているのです。同様の理由で、だいぶ前にデパケンも辞めました。
これまで、結婚していながらも低用量ピルで全力避妊をしてきたワタクシですが、年齢とともに本能が騒いでいるのか、はたまた周りの同年代を見て焦っているのか、子供を持つ人生をやったらどうだろうか?と思い始めたわけです。しかし、そのためにはピルを辞めないといけないし、それ以前にお薬の調整とか、ついでに風疹の抗体検査とか、婦人科検診とか色々やっといた方がいいことが盛りだくさん。本当に子供を持つのか?育てられるのか?という葛藤も含めて、その諸々にものすごーく時間がかかったわけです。
話が脱線しましたが、そんなこんなでリーマスを完全に切ってから数ヶ月の体験をこの記事でまとめておきます。
正直、効いていたという自覚はなかった
正直、今までリーマス飲んでた時は、「この薬のおかげで楽になった!」みたいな感覚は一切ありませんでした。
大昔に入院騒ぎをやってた頃は1200mg/日を処方され、結構な量だったのでアル中みたいに手が震えたりして、いいことなんて一つもなかったです。
色々落ち着いて、ここ2年くらいは300mg/日までに減り、多少の浮き沈みはあるもののずっと安定した日々を送ってこれました。正直、効いているかどうかわからない薬を飲み続けるのはどうなんだろう?と思いつつも、今の状態に不満はないので、あえて冒険して処方をいじる必要もないと思っていました。さらに言えば、効かない薬だって飲むことそのものに意味がある、「医師を信じて、言われた通りの服薬ができる」ということそのものが、私が正気を保っているかどうかのバロメーターになるとさえ思っていました(特に躁状態が悪化すると、勝手な判断で薬をやめたりしがち)。
まさかこの安定が、リーマスの恩恵だったとは。
止めてみるまで分からないものですね。
断薬の道筋
2023年4月くらいから医師に相談して減薬開始。
まずは300mg/日→200mg/日にしたのてすが、なんか、発作としか言えない変なやつ(多分パニック発作みたいなんだと思う)が発生。長らく味わっていなかった感覚に懐かしさすら覚えました。とにかくしんどかったです。
そしてこの発作、一度起こしてしまうとしばらくはなりやすいようで、特に外出時に苦労しました。頓服としてワイパックスを服用したらなんとかなりました。薬が効いたのか、プラセボなのかはわかりませんが、とりあえず良かった。
このまま減薬→断薬をして大丈夫なのか?という不安も大いにありましたが、「頓服あるから大丈夫作戦」で、200mg/日→100mg/日→断薬と、それぞれ1ヶ月ずつくらいかけてやり遂げました。発作は最初だけで、割とあっけなく断薬できました。リーマス飲みてえみたいな依存性もなし。
それはまるで、失ってから気づく親のありがたみ
よくある話です。いざ親元を離れて一人暮らしを始めたら、親のありがたみがすごく分かったとか。勢いで別れてしまった恋人が、どんなに大切だったかを失ってから思い知らされるとか。
私にとってのリーマスはまさにそれでした。
断薬は、最初のパニック発作的なものを乗り越えてからはかなりスムーズにできて、呆気ないくらいでした。その後もしばらくはいつも通りに暮らしていたのですが、8月の半ばから一気に調子を崩しました。
今思い返せば、6月の時点で既に調子は崩れていました。ちょうどその頃に大きめのライフイベントがあったとはいえ、おそらく躁状態入ってたと思います。タチが悪いことに、自分にとってもそれは非常に心地よく、活動的で、充実した期間だったので、まさか躁になっただなんて気付けなかったんです。周りに迷惑をかけずに済んだのが不幸中の幸いでしょうか。
そのまま突っ走ろうとしたときに、猛暑も重なって、一気に疲れがドーン!って感じで、8月の後半はほとんど動けない状態でした。やりたいことも消し飛んで、意欲も活力もゼロ。無でした。
リーマス、お前だったのか。私の正気を保ってくれたのは…
とはいえ、何とかやれている
体調が落ちている時はもうとにかく休むしかないので、最低限のことだけやりつつ、ぐったり暮らしておりました。ここまで酷いのはもう何年ぶりだろう?というくらいで、発作の時もそうだったけどしんどいながらにめちゃくちゃ懐かしかった。
あーそういえばこんな感じだったわ、これがずーーっと続いてたら死にたくなるのも当然だよね。
昔の自分はこんなにしんどい中生きてたのかあ、そりゃ正気じゃいられないね、なんて、図らずとも過去の自分を労るきっかけにもなりました。
とはいえ、不調がこの程度で済んで本当に良かったです。今は自分のことは自分でできているし、まだ家事も最低限回せている。お風呂だって入れるし、死にたいとも思わない。ありがたいことです。
今後リーマスどうするか
少なくとも、妊娠するかもしれない状況でのリーマス再開はできないと思ってます。体調がさらにおかしくなるようなことがあれば、一旦諦めてリーマス復活させて、(可能ならば)次の機会を狙う感じになりそう。
もしうまく授かることができたとしたら、生まれたら完全にミルクで育てて、リーマスやらを再開させるだろうなと思います。少しでも自分を安定させる方向で。
1番避けたいのは、中途半端な状態で服薬再開したところに妊娠することです。ただでさえストレスに弱い豆腐どころか豆乳メンタルなのに、自分の飲んだ薬が胎児に影響してるかもしれないなんて不安を10ヶ月間も耐えられる気がしません。
何やかんや書いたけれど、これらも結局は皮算用に過ぎないわけで、不安になっても悪いことしかないですし、とりあえず今は朝起きて夜寝ることだけを考えて生きていこうと思います(笑)
靴を脱ぐかの如く、施錠せよ
以前、記事で「できないことを習慣化するといい」みたいな話を書きましたが、読み返すとめちゃくちゃわかりにくいうえに、自分自身、やっぱり思い通りにはいかないよね、というのが現状。
lifeisjustafiction.hatenablog.com
しかし、その中でも訓練の成果(あえて「努力の結果」とは言いません)が出た部分はそれなりにありまして、今回はその中でも施錠、鍵をかけることについて書いてみようと思います。
施錠をさぼるという習慣
そもそもなぜ鍵をかけ忘れるのか?あくまで私自身の思考回路の話になるんですが、結局は
「鍵をかけなくてもそんなに困らない」
「鍵をかける手間と施錠し忘れたときの不利益を天秤にかけ、手間を惜しんでしまう」
この二つに集約されているんだな、と最近気づきました。特に私の住んでいる地域は治安のいいほうで、多少鍵をかけ忘れたくらいで泥棒に入られる可能性というのはそこまで高くないんですね。在宅時に施錠しなくても、何者かに押し入られて危害を加えられることだってほとんど無いと言ってもいい。そんな環境なので、
「どうせすぐ外出するんだし今回は鍵かけなくてもいいじゃん!」
「10分程度の外出なんだから、鍵かけなくてもまあ大丈夫だよね」
とまあ、こんな調子で施錠をさぼり、結局いつも、「鍵をかけよう」と決意したときも含めて、施錠し忘れるということが起こるわけです。
鍵はかけるべきなのか?という根本の考えを見つめる
そこでとりあえず、原点に立ち返って考えてみました。そもそも、鍵はかけるべきなのか。なぜかけなければならないのか。
今この記事を読んでいる皆様は、おそらく口をそろえて、「鍵かけるのは当たり前だろう!何か起こってからでは遅いんだぞ!!」と言うことでしょう。たちの悪いことに、私自身全くその通りだと思っています。
じゃあ何で施錠をさぼるのか?答えは、
「施錠すべき時、しなくていい時を勝手に判断し、効率化という大義名分を振りかざす」
という考えでした。鍵かけなくても絶対大丈夫なときはわざわざやらなくてもいいじゃん、ってことですね。それが骨の髄まで染み込んで、施錠し忘れる、と。長期の旅行時なんかに鍵かけ忘れるとか、そういうとんでもないことが起こりうるわけです。
認識を改める
そんなわけで、本当は「毎回しっかり施錠できるようになりたい」と思っている私は、根本の認識を改めることにしました。すなわち、「施錠する手間を省けるなら省いた方が効率的である」という考えを変えよう、というわけです。
「家に入るなら、靴を脱ぐのは当たり前だ。施錠も、それど同様のものであると捉えるべし」
一切言い訳なし、もうそういうもんだと考えよう。先述した通り、私は鍵をかけられる人間になりたい。ですから、このように考えを改めることについては、特に抵抗はありませんでした。
習慣を改める
意識改革を行ったところで、いざ、実践の段階に移るわけですが、そうそう簡単にはいきませんね。まあ当たり前ですね。骨の髄まで染み込んだ習慣というのはなかなか変わらない。それからはもう、とにかく訓練です。
- ドア付近に張り紙をする
- 「施錠しなければ靴を脱いではならない」と念じ続ける
- 同居している配偶者に監督を頼む
- ふとした瞬間に鍵に意識が行ったとき、ドアまで行って確認する
- 施錠し忘れていたら、必ず自分で施錠しに行く
とまあ、こういうことを実践していました。私には、特に2番と4番が効果的だったと思います。
2番については、日本で育った私にとって、家に上がる前に靴を脱ぐという行為はそれこそ骨の髄まで染み込んだ習慣。そこに、もう一つ項目を増やし、刷り込んでいくわけです。
4番は、なんというか、これは発達障害の気がある方はすごく共感してくれると思うんですけど、考えがあっちこっちに飛んで、全然関係ないことをしているときにふと全然関係ないことが思い浮かんだりするんですね。私も、例えば皿洗ってるときとか、ゲームして遊んでいるときとかに、ふと
「鍵…閉めたっけ?」
なーんて思うわけですね。そんな時、「まあいっかー」と流すのではなく、一旦作業を中断し、玄関を確認しに行きました。鍵がかかってなければ「気づいてよかったー」と施錠し、かかっていれば「ちゃんと鍵かかってる!えらい!」と自分をほめました。同居している配偶者に指摘された場合も、同様に自分をほめて、またほめてもらいました(笑)
とりあえず、どっちにしろポジティブな解釈をして訓練を積んでいったわけです。人間、やっぱりほめられないと伸びないですね(笑)しょーもないことで都合のいい奴だと自分でも思いますが、現に施錠する習慣がほぼ定着したという実績があるわけですから、効果があるなら実践すべきだと思います。
鍵をかけたほうがいいと思っているみんな。がんばれ!!
あとはもうなんというか、気の持ちようというか、頑張るしかない。みんな、頑張れ。私も、頑張る。
一気に書いて、一気に冷める
前に記事書いたのいつだろうと振り返るとなんと100日以上前。放置しすぎにもほどがありますね。それでも、意外や意外、毎日アクセスがあるようなのです。読んでくださってありがとうございます。
おそらくはほとんどのアクセスが「ストラテラ 効果」「サインバルタ 副作用」とかだと思うんですね。そして、一通り記事を読んで、「こういう情報がほしいんじゃないよ…」と残念な気持ちになっているのが想像できます。当時は勢いだけでスマホでばーっと記事書いて、ろくに推敲もせずに公開していたので、中身が薄かったり読みにくかったりしているかもしれません。近々、書き直すか修正したいところです。
一気に書いて、一気に冷める
私がブログを放置していた理由は上記につきます。そして、再び熱が戻ってきたというところです。熱しやすく冷めやすい、熱の波が極端、こういうのはもう発達の代表格ですね。
そんなわけで、最近やっと使いやすいPC環境が整ったので、タイピングの練習かねてぼちぼち書こうかな、と思っている次第です(ぼちぼちは多分無理です。また、一気に記事を書きためて放置なパターンになるような気しかしない)。
なまじスマホが便利なものだから、私のノートパソコンは机の隅で充電切れで積み重なる書類に埋もれていまして。でもスマホって長文打ってるとやっぱり疲れる。フリック入力にも限界があります。今、キーボードで文章打ってるけど格段に速いし、何よりストレスが少ない。スマホ、小型で手の中に納まる分、手の局部に負荷がかかって疲れちゃうみたいです。
これからは、パソコンを常に開き、すぐに起動させられる状態にして、思いついたらスマホでなくパソコンを使う生活に切り替えていきたいです。このことについては、また別の記事で思ったことなどまとめようかな。
寒い冬を脱し、気候が良くなってきたからか一気にやる気に満ち溢れている状態です。ここら辺も発達あるあるですね。このやる気が切れると、一気に無気力状態に落ちていく。まあわかっているんですが、だからこそこのやる気状態を有効活用していきたいです。
意識低い結婚式準備② 人生で最高のコミュ力
最近、首都圏では雪が降って大変なことになっていますね。私は雪国出身ですが、雪への備えがない場所での積雪ってしんどいだろうな、と思います。ノーマルタイヤじゃ話にならないし。今までは融雪装置を恨みこそすれ感謝などしたことはありませんでしたが、若干その存在理由がわかったような気がします。融雪装置なんぞで対応するレベルの雪国、特定されそうですね。
さて、今回は、
lifeisjustafiction.hatenablog.com
lifeisjustafiction.hatenablog.com
これらの記事の続きです。具体的にどんなことをしているのかを書いていきます。
① 料理はけちるな
式挙げるだけなら10万円30分ですむはずでしたが、そんな甘い世界ではなかった。当初は本当に10万円30分で済ませるつもりでした。それだけで済むなら何も考えなくていい、ただ前後日帰省して少々の時間を耐えれば義理は果たせる、そんな幻想を見ていたときもありました。しかし世の中、そこまで甘くはないですね。どうしても、披露宴がセットになってくるわけです。
先手を打っといてよかった。あらかじめ親兄弟だけでやることにして大正解でした。準備や片づけなど、最低限で済みます。
そんなわけで、意識低い感じで結婚式準備してますが、来てくださる方には失礼があってはならないという考えの元、進行などを考えたわけです。わざわざ休日つぶしてまで来てくださる方々に対して、私たちは何ができるか、何をすべきか。自分が呼ばれたとして、どうなってると嬉しいか。
ぶっちゃけ、他人の結婚式でなんか出し物とか見ててもしょうがないですよね。いや、私は他人の結婚式とか呼ばれない出席した経験がないのですが、これまでの人生振り返りムービー!とかやられてもなんか別に…ってなりそう。友人ならまだしも、血縁とかそういうだけで出席させられる者の気持ちにもなれよ。そんな感じで、無駄な演出や、出席者に負担を強いるような余興なんかは無しにしました。
うまい飯を食べて帰ってもらう。これに尽きると思いましたね。そんなわけで、料理は問答無用で式場で用意してあるやつの一番高いやつにしておきました。
② 立っているものは義親でも使え
最初から散々言ってる通り、私は出席者の方々に失礼のない、納得してもらえる式になればあとは何でもいいと思ってました。そして一番満足してほしいと思うのが、義理の両親(特に母親)。そもそも、義理の両親たっての希望でやることになった結婚式、どうせなら全部気がすむまでやってほしい。
実際問題、私たち夫婦は地元から遠く離れているところに住んでおり、そう何回も打ち合わせなんかのために帰省できない。当日の流れ、どのプランにするかとか、大まかなことは決められても、実際会場とかよく見て考えなきゃいけない細かいところまでは手が回らない状態です。
そんなわけで、細かいところは全部、義母に丸投げしました。メールで連絡取りながら、基本的に「わー!!ありがとうございます!!」って感じです。
③ 衣装どうしよう
おそらく大多数の花嫁たちが頭を悩ませ、夢を膨らませる衣装選び。私はというとなんかもうどれでもいい、という感じ。和装だったのですが、いくつか出してもらってかぶせてもらって、「どれが好きですか?」みたいな感じで、なんかどれも立派な衣装なのでどれでもいい。
そんなわけで、「お義母さんが着られるならどっちがいいですかね?お義母さんに選んでもらえると嬉しいです!!」的な感じからの、「やっぱりそうですよね!あっちのあんな感じも素敵ですけど、こっちのほうが云々」みたいな感じで、「あくまで自分が選んでいるが、意見をふんだんに取り入れている」感を全力で出すことに注力しました。今までの人生でありえないくらいのコミュ力を発揮しましたね。
まとめ
結婚式をやりたがっている人に全面的に任せるのが吉。そんなわけで、次回は結婚式に対する意識みたいなのを書けたらいいなと思います。もう準備編で書くこと無くなってしまった。
生存報告
いやーリアルで色々ありすぎてなんもできないですね。とりあえず生きてるし生きる意欲もありますので!
休めとか言われてもさあ
うつ病の人に対してありがちなやつ
「とにかく休養が大切」
「治ったと自己判断せず、仕事などには慎重に復帰するべし」
どこかに相談しても、今は休むべき時だからなにもしなくていいんですよ、みたいな慰め?励まし?みたいなのくれるんですけど、
医療費も生活費も湧き出てはこない。
このまま休み続けて収入なくなったりとか、最悪退職せざるを得なくなって途方にくれたりとか、とにかく生活に困ったらどうしてくれるんだよ。そういう言葉は医療職者の立場以外が発するとしたら、ただの自己満足に過ぎない。だって生活の世話してくれるわけでも責任取ってくれるわけでもないじゃんね。
いや、そう声をかけたくなる気持ちは分かるけどさ。
正社員なら簡単には解雇できないから思う存分休養して復帰すればいいとか抜かすけど、そんな図太い神経してたら多分精神科にお世話になることはないよな。非正規なら速攻で契約切られますよ。メンタル要因で動けなくなった人間に対する、そういう世間の暖かい目(とか傷の舐め合い)って、本当に無責任なんじゃないか。
私に関しては、配偶者の存在のおかげで現在は大分安定はしてきました。調子悪くてもまた持ち直すまで休んでいられる。どっちかがつらい状態になっても、2人いるから支え合っていける(と思う)。
今後、配偶者に愛想尽かされるんじゃないかという不安が発生する可能性は否めませんが、今の感じならまあなんとかやってける気がする。この「気がする」って言うのが重要。気の持ちよう、なんて言葉がありますが、その気になれる環境を整えないことには何もならない。
不安とか鬱とかしにたい…みたいなのって、大体が当分の生活を保障されると改善すると思うんですよね。うつ病患者に一億円あげたら治ったから鬱は甘えみたいな話がありますが、ぶっちゃけ金は特効薬だと思う。当分先の将来(できれば寿命まで)の生活不安が解消できて、やっと治療に専念できるってもんです(あくまで改善する可能性の話であって、完治や寛解の話ではない)。
お金がなくても生きてはいけるが、それができるのはある程度健全な精神状態と健康な肉体あってこそだと思うんですよね。今服用しているその薬、お金がないと買えないですよ。健康保険に入ってなければとんでもない金額になっちゃいます。今それを買う手段がなくなってしまえば、治療を進めることすらできない。
もちろん、金なんてあってもどうしようもないつらくて発狂しそうで対処法がないからもうしぬしかない、みたいな精神状態もありますが。そこまで追い込まれるリスクもまあ、少しは軽減できるかもしれませんね。
結論:将来の不安を取り除くにはお金が有効
本当に心身を休めるためには、長期間の生活の保障が必須だと思うんですよね。共感や同情は生活の糧にはならない。
逆に仕事を辞めても、当分の生活に困らなければ、
「よし、もっかい頑張ってみるか」
みたいな気分にもなるってもんです。
意識低い結婚式準備① やらない選択肢がなくなったそのときに
以前、こんな記事を書きました。
lifeisjustafiction.hatenablog.com
現在挙式に向けて、ゆるゆると準備を進めております。その過程を書いてみるので箸休めになれば。
とにかく先手必勝
あーーーーー式やらない選択肢はもうないなと覚悟を決めた時、「いかに回避するか」よりも「いかに自分の出来る範囲でやるか」に考えを切り替えました。そもそも、私達夫婦にとって結婚式をやる意味は、暴力的な言い方をすると私達が今後生きていく上でお世話になりたい人たち(両親界隈)を納得させるためです。その方々が挙式を望むので、やる(ここら辺のことは上に紹介した記事に書きました)。望み通りにやるのが理想的ですが、その形式や規模を出来るだけ負担の少ないものにするために、具体的な内容の話になる前に、「こんな形ならできる」というものを先に提案したんですね。
わたしの提案としては、
- 親兄弟だけの少人数でやりたい(わたしの親戚は遠方に住んでいるし、人数が増えると経済的・肉体、精神的負担がでかい)
- 神前式でやりたい(バージンロードーーーとかケーキ入刀〜〜!みたいなのは個人的に好かない)(安価で済むという噂を聞いた)
まあ、この形でなくても、やれと言われたようにはやりますが、どうせやるなら負担を最小限にし、お互いが納得した形にしたい。意識低いにしても、全くの投げやり感満載な感じだと、せっかく式を望んでくれたりする人たちにやっぱり失礼ですから。そんなわけで、まず、「こんな感じで考えてるんですけどどうですかね?」と打診してみたわけです。
事態は一気に動き出す
個人的なイメージでは、式の話を提案したのが昨年の秋でしたから、まあのーーんびり準備するとして一年後くらいにやればいいよねくらいに考えてましたが、事態は急変。なんか、気づいたら式場も日程も決まってました。某所で義両親とばったり会ったのがきっかけで。いやーびびったね。その場で契約済んじゃったよ。これで後戻りはできませんね。
まあやるんならさっさとやってしまった方がいいのかもしれない。ずっと結婚式のことで頭悩ませたくないし。
世の新郎新婦たち、どうやって準備とか進めてんだろうなあ。一年がかりとかが普通で、それでもぎりぎりみたいな話を巷で聞くんだけど、何してるんだろ…
(と思ったのもつかの間であった。具体的な準備は次の記事で書きます)
結論:思惑通りお互いやりたい放題
現在、いろいろと準備を進めているところですが、私は経費削減のために動き、配偶者は挨拶の言葉以外丸投げ、義理実家は当日を楽しみに地元界隈に手を回し、実家は放置(もしかしたら当日来れないかもとか言ってる)という感じで、各々好き放題やっている状態。結婚式、やりたくないならないなりに、適当なところに落ち着きそうです。